GAMERA-ガメラ-/シンフォギアの守護者~The Guardian of Symphogear~ 作:フォレス・ノースウッド
一万字以上使って今回の大半が古びたマンションの一室と言う舞台劇なみの人の少なさです。
今回も朱音って歌っておりますが、適合者なら無印の時期何歌ってんだ!?と驚かれること請け合い。
でもあの歌、次の五期かXDUのセレナイベントでまたクローズアップしてほしいんですけどね。
雨に喩えれば、大嵐にも等しかった、律唱市内で発生した大規模特異災害より、数日後。
関東は梅雨入りの季節となり、その一角たる律唱市の空もまた、今日も広く厚い曇天が流れ、多くの雨粒を地上に降らせていた。
今は老朽化が進んで廃屋となり、汚れや染みが陰湿さと不気味さを演出させている、今年中には取り壊しを予定している、昭和の高度経済成長期に建てられた十二階建ての市内のマンション。
誰も近寄らない、色褪せて朽ちていく運命の廃屋に、足を踏み入れる者が一人いた。
天候上当然だが、右手に差した傘を持ち、左手にはランチトートをぶら下げているその者は、周囲に人がいないことを確認すると、傘を閉じながら建物の入口に入る。
雨天とは言え昼間にも拘わらず薄暗い内部を通り、階段の前に立つと、腕に付けている腕時計型から立体モニターを表示させ、幾つか操作すると、端末から青味がかったライトが点いた。
光を床に当てると、それまで見えていなかった、まだできて新しい〝足跡〟が炙り出される。
再び立体モニターが表示され、画面内では予め記録されていた足跡のデータと照合し、高い確率で同一のものだと端末は結論付けた。
「当たりか……」
進入者はそう呟くと、階段を登り始めた。
甲高い足音が、広いとは言えない階段内に反響する。
〝~~~♪〟
進入者は、足音と、窓を通じて流れてくる雨音を伴奏にして、傍からはいきなり、歌い始めた。
唐突に見えてしまうが、唄う当人からすれば、自らの周りが奏でる〝音楽〟から、自然と、この〝歌〟だと浮かんできたのだ。
曲名は――《apple》。
東ヨーロッパのある国の一地方に伝わると言う、童歌(わらべうた)。
シンプルかつ、もの柔らかでしっとりとした曲調(メロディ)は、確かにこの環境(ねいろ)とマッチしていた。
歌唱を続けて、踊り場ごとに、床へ青色のライトを照らし、足跡(そくせき)を辿って登っていく。
この廃屋に隠れ潜んでいる、ある人物へと。
あの日にて朱音たちに助けられた雪音クリスは、弦十郎に保護されかけながらも、差し伸べられたその〝手〟を振り払い、ギアを纏って逃走した。
それから幾日過ぎた今、隠れ蓑に選んだ、長年人の暮らす住まいとして機能されていないが為に、床も壁も天井も埃や汚れが溜め切ったマンションの一室の片隅にて、部屋に残っていた毛布を巻き付けた小山座りで彼女は、声と息と気配をも可能な限りのぎりぎりまで殺して、誰にも見つけられぬよう、じっと世界から潜んでいた。
傍らには、タオルにコンビニやスーパーで販売されている弁当の空のトレーやペッドボトル、紙袋にポリ袋が散乱し、彼女がここ数日送り続ける不衛生で不健康な根無し草の生活を語り、雨風を凌げる屋根すら慰みにもなっていない
しばらく窓の外の曇り空を眺めて、体感が伸びていく一方の時間を潰してはいたが、飽きが来ていた。
いっそ考えるの一切放棄して、頭の中を空にできたらと願う裏腹。
〝パパ! ママ! 離して――ソーニャ!〟
〝ダメよいけないわ!〟
〝ソーニャのせいだっ!〟
クリスの脳内は、そして心の内は、常に無秩序に流れる記憶たちがかき鳴らされ、幾重の雑音が絶えず。
(やめてくれ……クソッたれが……)
いくら振り払っても消えず、類まれな美貌を形作る眉間が、歪められる。
その上、胸の内側では喩えようのない滑りとして不快な圧迫感に苛まれていた。
〝もう貴方に用はないわ……〟
〝だって私達、同じ人間だよ、人間なんだよッ!〟
〝友達に、なりたい………か、かな?〟
〝俺は―――君を救い出したいんだ、君より少しばかりの大人としてな〟
〝大人だって………よくもそんな偉そうに抜け抜けと! 余計なこと以外、いつもいつもいつもぉ……何もぉしてくれなかったくせにぃ………何を今更ッ!〟
あの大人――風鳴弦十郎へ、瞳に涙を溜め込んで激情をぶつけてしまった瞬間までも流れ、叫びたくなる衝動が沸き上がる直前、クリスの意識は、聴覚が捉えたドアが開く音で、我に返れた。
即座、身をまくっていた毛布から飛び出し、拳を強握り込み、全身も力ませて、突然の訪問者(しんにゅうしゃ)を待ち構える。
このマンションを管理している立場の人間か、それとも………どちらにしても、クリスにとって誰であろうとここに自分がいることを知られたくはなかった。
ゆっくり、近づいてくる、木の床が軋んで鳴る足音。
「ッ!」
意を決し、クリスは勢い任せに踏み出すと、右の拳からの先手を打とうとした―――が、次の瞬間、彼女の天地(しかい)がひっくり返り、床に叩き付けられた。
「いて……」
何が起きたのか全く理解できず、背中に走る痛みに呻く中。
「手荒いお出迎え痛み入る、雪音クリス」
覚えのある凛とした声色で、ジョークとセットにクリスの名を呼ぶ聞こえ、呻きで閉じていた瞳を開けてみた。
薄暗く汚れた部屋の中で、光り射す――翡翠(ひとみ)。
上下逆さになった視界に映ったのは、右手の掌の上にランチポートを乗せて彼女を見下ろす格好にして、リディアン高等科中間期制服姿な風体の、草凪朱音の立ち姿であった。
荒めの歓迎を受けることは、隠れ家を見つける前から、予め把握していた。
実際扉を開けると、前に尾行された時と同じ、邪気はないが〝刺々しく張り詰めた〟気配を感じ取る。
近づいてきたところを、不意打ちする魂胆だと、こちらからは筒抜けだった。
かと言って、それを待ち構える彼女に伝えてこちらの正体を明かすと、窓を突き破ってギアを纏い、逃げようとするかもしれない。
こちらは国家機密秘匿のハンデで、特異災害かそれに相当する事態が起き、特機部及び自衛隊の方々らのフォローがないと、下手に〝変身〟できず、もし強硬手段で逃走された場合、飛んで追いかけることはできない。
向こうが潜んでいるのを活用して、私は正体不明の侵入者のまま、踏む度にみしみしと音を立てる部屋の廊下を進んで行く。
実戦と訓練でより鍛えられた感覚が、相手の敵意が膨れ上がるのを読み取った。
柔軟なこと水の如し、な身体が反射的に反応、トートバックを天井に投げ、突き出された雪音クリスの拳を躱し、腕を片手で軽く掴んで、入り過ぎた余計な力を利用(コントロール)し、さらりと彼女を放り投げた。
一旦宙を舞って、ヒラリと落ちて来たトートバックを、右手の掌でキャッチ、中身の品質は、ノープログレムだ。
「お前……」
私の姿と私からのジョークで、寝そべられた雪音クリスはようやく正体が私であることに気づくと、直ぐに立ち上がり直して、臨戦態勢の構えを取る。
獣に喩えるなら、今にも襲いかからんと歯をむき出しにして威嚇してくる相手に対して、一応私はいつでも応戦できるよう気は抜かさず心掛けつつも、フラットな姿勢をキープする。
はっきり言ってクリスは、バルベルデの凄惨な戦場(ないせん)を生き抜いてこそきたものの、装者になり立ての頃の響とまた違った〝素人〟だった。
イチイバルにネフシュタンら聖遺物を十全に扱い、精神面がズタボロで天羽々斬の本来の用途を無視した戦い方をしていた頃とは言え、あの翼と一時は互角以上に戦えていたところから見て、戦闘センス自体はとても高いだろうけど、超常の力に依らない素の戦闘能力は、現状まだまだ粗削りにも満たない、と言い切れる。
ボクサースタイルらしい、経験者から見たらへっぴりな構え具合から見ても一目瞭然で、せいぜい……喧嘩慣れした不良のレベルだった。
よっぽど私が油断と慢心し切ってもいない限り、彼女の拳が、一発でも私の肉体にヒットさせることは、極めて難しさそうだな。
「どうして、ここが?」
なぜこのマンションを隠れ家にしているのを突き止めたのか?
相手からしたら当然な質問を私に投げつける。
「人探しが得意な知り合いがいる、と言うことにしておいてほしい」
クリス本人にはそう返しておいた一方で、彼女が司令(げんさん)の〝手〟を振り払って逃げ出した後、どう行動するかは、おおよそ見当が付いていた。
切り捨てられた以上、恐らく二年前の失踪から今まで彼女を庇護していたと思われるフィーネの下に今さら戻れるわけがないし、天涯孤独な身ゆえ当然行くあても無く、地理感もほとんどない筈なのでそう遠くにはいけない。
一応、二課――つまり国家機関から追われる身であるので、できるだけ人通りの少ない地域、人目につかない場所を選ぶだろう。
そう見越して私は、二課の皆さん方に律唱市内でクリスに隠れ家として使われそうな建物を幾つか割り出してもらった。
藤尭さんらの手腕は信頼していたが、まさか一つ目に選んだマンションで、いきなり当たりを引くとは思わなかったけど。
「それで……アタシを御用にでも来やがったのか?」
私に攻め込む隙を見つけられず、額に冷や汗を数適流して焦るクリスは、私に悟られまいと強がり、現れた理由を訊ねてくる。
「いや」
私はベランダの窓より先の風景に目を向け、彼女に背中を見せる形で、違うと答えた。
「今そんなことをすれば……貴方を〝見殺し〟にするか、もしくは殺戮の引き金を引かせてしまう」
「は……はぁ?」
「薄々感づいている筈だ、あれはフィーネからの引導だけではなく、生き延びた貴方への、口封じの〝警告〟でもあったと」
ガラスに写る、意味が分からないと表情(かお)で返すクリスに、言葉を付け加える。
先日の、終わりの名を持つ者がクリスに差し向けた大規模特異災害。
無論、あれはクリスを殺す為が主な目的でもあったが、同時に、今みたいに生き長らえた彼女への、警告の意味合いも含んでいた。
下手に二課の面々に口を割れば、フィーネの正体及び暗躍する目的を口走れば、またノイズを野に放ち、殺すと。
もしかしたら、心神喪失し、自ら命を絶たせるまで追い込む………かもしれない。
「嫌な話だが、今律唱市(このまち)の人々は、貴方絡みでフィーネから人質にされているも同然なんだ」
まだこちらの推測の域は出ていないのだけれど、特異災害を制御できるソロモンの杖を持ち、今もクリスが逃亡中でありながら、あれ以来ノイズを一匹も出現させていない奴の意図は、ざっとこんなところだろう。
心身共々、徹底して痛めつけ、挙句に命をも………こちらの推理が当たっているのなら、本当……全くの、悪辣外道だ。
「ちきしょう………」
自嘲の笑みを、彼女は浮かべる。
私の背中が感じ取っていた、クリスの〝敵意〟が一気に消え失せた。
ガラスを見れば、構えはとっくに崩れ、壁にもたれかかっていた。
「結局………あいつも、女衒(ぜげん)だった………」
女衒とは、要は女性の人身売買を仲介する業者のこと。
先進国の教育なんてほとんど受けたことのない身のクリスが、なぜその単語を知っているのかはさて置いて、彼女の言葉の声音(つかいよう)を踏まえれば………雪音クリスと言う人間の人格も尊厳も足蹴にして、惨たらしくこき使い、虐げてきた大人(れんちゅう)を指していると、察せられた。
「〝屑ども〟の一人……だったってことかよ」
「屑?」
次に零れた言葉に宿る意味と感情(おもい)を、読み取っていた私は、あえてその一つを、〝オウム返し〟をした。
「だってそうだろッ!」
広いとは言えない、古びた部屋の片隅で。
「平気で傷つけて! 踏みにじって! 貶めて! 挙句無様に殺し合って………アタシが見てきた嫌い〝大人〟は………卑劣で愚劣で残酷で最低のクソッタレな奴らばっかりだった!」
彼女の震える声が、悲痛な叫びが、大きく反響(こだま)する。
「〝パパ〟と〝ママ〟も大嫌いだッ! あいつらの歌った歌も大っ嫌いだッ! 難民を助けたいだとか、誰とだって手を取り合えるとか、歌で世界を救うだなんて………とんだおめでたい夢想拗らせて、あんな屑揃いの為に戦地(てっかば)にノコノコ飛び込んで、まんまと奴らにぶっ殺された、アタシを置き去りにしてぇ………めでたく死んじまいやがったァッ!」
自身の何もかも奪った戦争と言う地獄。
憎き地獄を生み出し続ける、大人たちへの不信、憤怒、憎悪。
そうでありながら、自分も自身が憎む者たちが生み出す戦火と言う地獄を、生んでしまった罪悪感。
自らも招く側となってしまった、人が産み落とす、その地獄の世界に、幼き自分を連れて来て、死別と言う形で置いていってしまった両親への愛憎。
そして………自分はこの残酷な世界の片隅で――〝ひとりぼっち〟なんだと。
クリスの内の感情の数々が、粘着質で複雑に、こんがらがっていた。
鏡面(ガラス)越しに見ていた私でも、はっきり目にできた。
「お陰でアタシはぁ………なんで……なのになんでぇ………パパとママはぁ………歌で………」
段々と声に嗚咽が混じり込んで行き、両手で自らの顔を押し付けるように覆い隠したクリスは、立っている力も失い、背中ともたれた壁を擦らせて、その場から崩れ落ちた。
振り返って、自分の肉眼で直接、心情の濁流に見舞われているクリスを見た……私より一つ歳が上の一六歳の彼女が、一瞬、幼き頃の姿に変わる。
今見えたのは、幻であっても、見間違いじゃない。
彼女の中の時の流れは、肉親の命が、彼らの想いごと業火に焼き尽くされた瞬間から、止まったままなのだから。
次に瞳は………あの頃の〝小さな私〟が、クリスと重ねさせてくる。
前に未来にも話したが、人は自分が思ってる以上に、面の皮は多く分厚く、一面(じぶん)をたくさん抱えている。
私の心(なか)の数ある、自分が存在を自覚できている〝自分の一人〟が………どうやら、同調(シンパシー)を抱いているようだ。
〝どうして……一緒に連れて行ってくれなかったのッ!〟
現に、かつて祖父(グランパ)に激情をぶつけてしまった記憶が、流れてくる。
けれど、クリスの方が、悲惨だ。
〝朱音………■■■■……〟
愛する人との、別離の言葉を受け取ることすら叶わぬ、死に別れ方をしたのだから。
「………」
いけない、まだダメだ。
なぜ彼女の下に現れたのか、目的を見失うな。
今はまだ……こらえてくれ、私の中の、私の一人よ。
相手の、嘆きに暮れる姿呼応して沸き上がる気持ちを宥めて………私は歩み寄る、一歩を踏み出す。
一人の、小さな女の子の下へと。
嗚咽に沈んでいく、クリスの隣へ、朱音は奥ゆかしく腰を下ろし。
スカートからすらりと伸び、足先から紺のハイソックスが履かれた、ハリのある健康的な長い美脚を、小山状にして腰かけた。
ランチトートのファスナーを開け、中に手を入れると。
「食べるか?」
「えぇ?」
取り出した、ラップで丁寧にくるんだおにぎりを、クリスに差し出した。
咽び泣いていたクリスは、顔に密着させていた両手を離し、朱音の左手の指に掴まれた三角に目を移し、次に横顔を見つめ、目線は二点を行き往きする。
「今日は何も、食べていないんだろう? 洩られているか心配なら、毒見もしてあげるが」
ベランダの奥の雨空を見上げたまま、朱音は付け加えた。
下手に目を合わせると、相手を強がらせてしまうと踏み、敢えてクリスの涙目を見ないでいる。
「っ………」
戸惑いつつ、一度手を伸ばすクリスは、引っ込めてしまう。
だが直後、彼女の腹部から、鈍い空腹の音色(ひめい)が音を建てた。
朱音の言う通り、今日は全く何も口にしていない。
結局、目の前に食べ物があるのもあり、お腹の中をがらんどうのままいることに我慢し切れず、背に腹は代えられないのもあり、渋々と差し出された、少々大き目に握られたおにぎりを受け取った。
「いっ……いただきます」
ぽつりと食事前のあいさつを口にし、ラップを開いて、海苔が綺麗に巻かれたおにぎりの三角の頂(いただき)を、ぱくっと小動物の如くかぶりついて、食べ始めた。
「うっ……」
(美味い………)
思わず、口から声に出しそうになり、一文字目までは出してしまっていた。
お米の歯ごたえ、塩加減、海苔の磯の香りの加減、そして具の明太子マヨネーズの柔らかな辛味と、組み合わされた味が巧みに混ざり合っており、クリスの舌は正直に〝美味い〟と表現していた。
いつ以来だろうか? この感覚は。
バルベルデで人でなしの生活を強いられた頃は、望むべくもなかったし、フィーネの保護下にいた頃は、食事こそブルジョワが食べてそうな凝ったものだったものの、味自体は悪くないと言うのに、クリスの心は余り、〝美味しい〟と感じたことがなかった。
心から、食べ物を美味しく食べるなど、クリスにとって長年久しく、忘れかけていた感情だった。
さらには………昔どこかで食べたことのあるような、懐かしささえ混じった感覚さえ押し寄せたが、今はその正体より、食欲の方が遥かに勝り、旨味はそんな欲求を増進させ、無我夢中であっと言う間に平らげてしまった。
口周りは、すっかりご飯粒らがこびり付き、それを指で取っては口に入れ直していた。
「まだいくつか作ってきたから、遠慮しないで食べていい」
思わず手をランチトートの中へと伸ばしかけたが、寸前に止まる。
満腹とまで行かずとも、苦痛にまで至る直前だった空腹から脱せられたことで我に返り、戻ってきた理性がストップを掛けたのだ。
困惑な気持ちと、一緒に。
「あとそれから――」
戸惑うクリスをよそに朱音は、ほどよい雨音に似た静穏な声音による中性的口調で、窓の景色へ翡翠の瞳を向けたまま、制服の内ポケットに手を入れ、取り出したものをランチトートの傍らに置く。
朱音の左腕に付けているのと同じ、二課支給の腕時計型携帯端末であった。
「最新鋭のスマートウォッチ、通信は勿論、財布としても使える上、私のポケットマネーが振り込んである、半年はホテル住まいできる額だ―――」
端末の主な機能を説明する朱音に対して、彼女に何かを言おうとしている様子なクリスだが、惑いと躊躇で口籠るばかりで、だんまりを意図せず決め込む中。
「――なのは置いておいて、聞ける範囲であれば聞いてあげる、喉の〝詰め物〟は早いところ出して上げた方がいい、でないとお腹が空いてても入らないからな」
だんまりとなった状態のクリスに、こう言葉を加えた。
(んなこと言われたら………言うしかねえじゃねえかよ)
相手よりこう言われて、それでも黙ったまま無視を貫いていられるような性質ではなかったクリスは。
「まさか……アタシに飯と小遣いを寄越す為に、わざわざ一人で来たってのか?」
渋々、眼差しを相手の凛々しい美貌な横顔へ向け、気になっていたことの一つを、質問にして投げ返した。
「その通りさ」
左脚を伸ばし、右腕を右膝の小山に乗せた体勢の朱音は、即座に肯定を示し、瞳を閉じた。
耳をすまして、まるで宙に流れる音色へと聞き入るように。
「わ、分かんね……」
クリスは自分の目を、朱音の横顔から薄汚れた畳上へと逸らし。
自らの偽らざる、実際に鉄火場(いくさば)で相対する瞬間まで、最も見えたくはなかった存在であった、草凪朱音への〝気持ち〟の一端を、打ち明けた。
「正直………てんでわけ分かんねぇんだよ………………」
今のクリスの、隣に腰かける歳では一つ下の少女への〝印象〟は、今発したこの言葉に集約されている。
鮮烈が過ぎるほど、クリスの脳裏にはくっきりと深く、刻まれている。
実際にこの目で見た、戦場に立つギアを纏った姿と、一瞬脳裏に浮かんだ………ガメラの姿。
実際に戦い合った際に見せつけられた、あの射貫かんとする、厳つく鋭利で剛毅な翡翠色の瞳(まなこ)。
世界を蝕む災いを断ち、滅する、怒れる鬼神としか言いようのない覇気で満ち、再災厄に奪われようとしている命を、守り抜かんとする強靭な意志を宿す眼光。
全く真逆の意志を併せ持つ、守護者。
記憶となって頭に残るあの姿を、思い出せば思い出すほど、クリスの中で疑念の靄が掛かってくる。
フィーネに切り捨てられるまでのクリスは、まさしく、彼女を鬼神とさせる〝災い〟以外の何者でもなかった。
求める願いと裏腹に、クリスが心から憎悪する、悲惨な争いを生む火種を無作為にまき散らす悪虐の化身であり、草凪朱音――ガメラの〝敵〟となる身となっていた。
灼熱の拳を叩きこまれ、銃口を突きつけられ、完膚無きに叩き潰されるのがお似合いの罪人(つみびと)だ。
なのに………どうして、特異災害による争いを生んだ元凶である自分を、みすみす助けたのか?
〝私達は一人でも多くの命を助ける、貴方も――その一人だ〟
たくさんの命を危険に陥れ、失わせてしまった自分を、災厄から守るべき〝命〟の一つだと、言ったのか?
クリスが自らの歌で目覚めさせたソロモンの杖で、特異災害が引き起こされる度に、人々に歌を披露する朱音の歌い手としての姿を、遠くから密かに見ていた記憶までも流れる。
何よりもなぜ、草凪朱音はあんなにも真っ直ぐで眩しく歌い、どこかで覚えのあるその歌声はあんなにも、クリスの心に波紋を起こし、揺さぶらせてくるのか?
控えめな言い方ならば、掴みどころのない。
極端な言い方ならば、人となりが、全く理解し難い。
今までクリスが他人に抱いた主なる感情は、好意か、徹底的な拒絶。
ゆえに朱音へのこの〝分からない〟は、経験のない、未知なるものも同然だった。
「お前って………人間(やつ)が……」
「そうか」
「へぇ?」
畳に向いた目を向き直し、普段より大きく開かれた目を、ぱちぱちさせる。
未知なる他者(あいて)から、返された短すぎる単語一つに、クリスは当惑した。
「〝そうか〟って………それだけかよ」
「と言われても、貴方から見た〝私〟がそう見えるんだろう? むしろどんな返答が来ると思っていたんだ?」
「それは……」
(つーかっ………なんで悠長にこいつとお喋りしてんだよアタシは……)
今度は自分自身に戸惑うクリス。
今やフィーネからも追われる身となったとは言え、隣にいる相手とも、立場上は敵対していた。
その相手が自分を捕える気がなくとも、隠れ家が見つけられてしまったのだから、とっとと逃げ出すべきなのに。
いざ逃げようにも、聖詠を唱える間に、生身でも強い彼女に組み伏せられてしまうのが落ちでもあるが、それを踏まえても………自分でも不思議なくらい、逃げる気になれなかった。
むしろ、さっきまでの一人でいる時より、張り詰めていた体が、すっかり和らいで落ち着いてしまっている。
(どうなっちまってんだ……)
「分からないのは無理ないさ」
惑ってばかりのクリスに。
「だって人間(ひと)ほど、わけの分からない生命(いきもの)は、いないからな」
「はぁ?」
クリスからは、それに拍車をかける言葉を、朱音は齎してきた。
「どう意味だよ……それ?」
「言葉通りの意味」
当然ながら疑問を投げたクリスに対し、目を閉じたまま、朱音は言葉を繋げていく。
「肉体はひよっちいのに、知性と感情とエゴだけはやたら大きくて、なのに長い年月が経っても未だに持て余してて、変化と多様性に富んだ生態系の枝葉から生まれたのに、しばしばその変わり様と多様さを恐れるわ詰るわ否定するわで、貴方の憎む醜い争いで血を流し続ける歪と矛盾だらけで謎だらけの生態の主な困ったさんの集まり、よく性善とか性悪、光と闇(day and night)とか、白黒つけるとか神の子とか言うけど、結局こういう理屈たちは私達のわけわかんなさの裏返しだ、こんな生き物たちだから、その心(ひととなり)を読み解こうなんて難しいさ、そうだな………それらしい喩えを上げるなら」
一転、翡翠の瞳を露わにすると、双眸を顔ごと見上げさせた。
目線を追うクリスだが、その先は一見、壁と天井のつなぎ目。
「月……月を地上から見ること」
「つき?」
しかし朱音が見ているのは、その遥か向こうの空の外の星で、クリスの口は思わず相手の比喩に鸚鵡返しをした。
「地上(ここ)から見える月なんて、それこそほんの一部、裏側なんて見たくても見えない、表面だってたくさんのクレーターでしかないのに、見る人の気分と心象によって〝女性〟にも〝蟹〟にも〝兎〟にも見えてしまう」
太陽光と雨雲と建物によって隠されている月代を、朱音は見つめ続ける。
クリスは無自覚に、詩的な響きで紡ぐ澄んだ朱音の声に、聞き耳を立てていた。
「まあもっとコンパクトな言い方を使って本質の欠片を表現するなら……〝chaos〟……〝混沌〟だな、暗黙のルールで成り立っているこの地球(ほし)の生態系からの産児でもあったのに、わざわざ法やら罰やらを具体的に文面化して民族性とか宗教などを付け加えないと秩序を作るにも苦労する、そういう混沌さとわけ分かんなさが特に溢れてる、それこそバルバルデのような国にいる人々を相手にしていたにしては………貴方の両親は、少々甘ちゃんが過ぎていたのかもしれない」
が、自身の父と母の言及をされて、突然胸の中でざわめきが走り。
「言ってくれるじゃねえかよ………」
朱音を見ていた目を、背けさせた。
(なんでだよ………こいつの言うことはその通りじゃないか……なのになんで、こんなもやるんだ……)
被戦地で難民救済。
歌で世界を救う。
クリス曰く〝夢想拗らせた挙句死んだ〟自分の両親に関する、朱音の厳しい言葉と、彼女の語る〝人間像〟には頷かされるものばかりな……筈なのに、特に親絡みで、その心は喩え難い〝もやもや〟が渦巻いていた。
「だからこそ、私、忘れない様心がけている、クリス」
するとクリスを、ファーストネームのみで呼びかける、朱音の声が聞こえた。
今となっては憎くもある、父と母から貰った名前を呼ばれたクリスは、振り向く。
翡翠色の眼と、合った。
こうしてちゃんと、自分と他人との、お互いの瞳を正面から合わせあうのは、クリスにとって、長く久しいものであった。
「人間(ひと)の見えにくい心を、たとえ少しでも―――〝人を見ようとする、知ろうとする努力〟を忘れてはいけない、世界を変えたいのなら、今を生きている全ての人々でできている一人一人を知る、その一人一人を変えたければ―――まず〝自分自身〟も知ってあげて、変えてあげることだ」
「…………」
朱音の眼差しに乗って流れるその言葉の数々が、クリスの瞳を通じて、頑なな心に、染み入っていく。
「なんてね、長話はこの辺にしておくわ」
そうして朱音は、普段の中性的口調から時折出てくる女性言葉を口にして立ち上がり、その場から立ち去ろうとしたが。
「あ………まだ言ってなかったな」
二歩ほど進むと、また立ち止まり。
「友達を助けてくれて、ありがとう」
「え?」
「おい……」
友達――未来の危機を影から救ってくれた礼を述べて、今度こそ静かに、クリスの隠れ家となっているこの部屋を、後にした。
残されて、また部屋の中一人きりとなったクリスは、朱音が置いて行ったランチトートの中を見てみた。
そこには、ラップでくるんだおにぎりもう二点と、パック飲料、そしてフードパックに盛られた〝お好み焼き〟が入っていた。
根無し草の生活でも艶を失っていない綺麗な銀色の後ろ髪を指で掻いたクリスは、しょうがねえなと言った調子で取り出すと、膝の上で蓋を開け、付属していたプラスチックのフォークで、食べ始めた。
一口、二口、三口。
少しずつ食して、味わっていくごとに、彼女の涙腺が刺激され、目じりから涙が零れ始めた。
(なんで………ぬるいのに………あったけえんだよ)
頬に雫が流れ、鼻をすすらせつつも、朱音が作ったおにぎりと、お好み焼きを、最後まで食べ続けていった。
つづく。
原作ではこの場面弦さんなのに朱音になってる本作ですが、やはり最後の一押しは弦さんにちゃんと担ってもらいますので。