GAMERA-ガメラ-/シンフォギアの守護者~The Guardian of Symphogear~第一楽章 作:フォレス・ノースウッド
自分の電脳そのものを『映画館』にした監督の『夢』を、もし朱音が見た時の感想回ですね。
カンナヅキ監督の夢――夢を見る者と、夢を生きる者
その映画には、始まりがなかった。
気づいた時には物語の只中にいて、登場人物たちは既に互いを愛し、憎み、何かを失い、それでもなお明日を求めて生きていた。
そして、終わりもなかった。
一つの幸福へ辿り着けば、そこから次の物語が始まる。
別離の後には再会が訪れ、死者さえも思い出の中で息を吹き返す。悲劇は決して無意味にならず、流された涙は必ず誰かに受け止められた。
観客が望む限り、物語は続く。
否……たとえ観客が望まなくなっても、物語の方からその心を掴み、決して手放そうとはしなかった。
薄暗い映画館。天井も壁も闇へ溶け、唯一の光源であるスクリーンだけが、淡い光を客席へ投げかけている。
幾列にも並んだ座席は、ほとんど埋まっていた。
老いた者。
若い者。
既に身体の大半を義体化した者。
まだ生身を多く残した者。
服装も年齢も境遇も異なる観客たちが、等しくスクリーンを見つめている。
誰一人、席を立とうとしない。
瞬きを忘れたように映像へ見入り、その頬には幸福そうな微笑みが浮かんでいた。
朱音は、最後列の通路に立っていた。
葡萄色を帯びた長い黒髪へ、スクリーンの光が幾度も色を変えて降り注ぐ。翡翠色の瞳にも、終わることのない夢が映っていた。
美しい映画だった。
演出は繊細で、台詞には温度があった。
音楽は観客の記憶へ入り込み、忘れたはずの感情を静かに呼び起こす。
現実では叶わなかった願い。
二度と会えない人。
選ばなかった人生。
失った故郷。
もし、あの時に戻れたなら。
もし、あの人が生きていたなら。
誰もが一度は抱く、答えのない祈り。
この映画は、それら全てへ映像という形を与えていた。
「どうだったかね、お嬢さん」
低い声が、すぐ横から聞こえた。
古びた帽子を被った男が、一つ離れた座席へ腰掛けている。
カンナヅキ監督。終わらない映画を作り上げ、自らもまた、その夢の中へ身を置き続ける映画監督その人。
「確かに、いい映画だったよ」
朱音は率直な感想を述べる。
「感動した。物語も映像も音楽も素晴らしかった。登場人物をもっと見ていたいとも思ったよ」
「それは光栄だ」
「だからこそ、惜しいな」
監督が目だけを朱音へ向ける。
「惜しい?」
「はい」
朱音は客席を見渡した。
観客たちは微笑んでいる。しかし、誰一人として隣の者と言葉を交わさない。互いの存在すら目に入っていないかのように、ただスクリーン一点のみを見つめている。
「私はどんな娯楽も、基本的には一過性のものだと私は思っている」
「随分と寂しい見方をする」
「そうかな?終わるから消えるわけじゃないよ。見終えた後にも台詞を思い出す。音楽を口ずさむ。誰かに感想を話したくなる。時には、人生の選択にまで影響する」
朱音は胸元と、首にかけている勾玉のペンダントへ指を添えた。
「作品が終わった後も、受け取ったものは観客の中に残る。だから娯楽は一過性でありながら、一過性だけでは終わらないんだ」
スクリーンの中で、主人公たちが再会を果たした。
客席のどこかから、押し殺した泣き声が聞こえる。
監督は満足そうに映像を見つめた。
「ならば、この映画は理想的ではないかね。観客が愛した物語を終わらせず、感動を永遠に与え続ける」
「それが少し頂けないと言っているのさ」
朱音の声は穏やかだった。
だが、言葉を曖昧にはしなかった。
「始まりも終わりもなく、観客を魅了したまま心を手放そうとしない。どれほど素晴らしい作品でも、それでは映画が観客の人生まで所有してしまう」
監督の目が細くなる。
「手厳しいなお嬢さん」
「作品そのものは褒めているよ」
「だからたちが悪い、理解した上で否定する者の言葉は、無知な批判より痛いものだ」
「それは申し訳ない」
「謝罪を求めたわけではないさ」
監督は帽子のつばへ指を掛け、客席を見渡した。
「つまり我々観客には、戻るべき現実があるとでも?」
監督の飄々としたその声から、先ほどまでの余裕が薄れ始めていた。
「ここにいる者たちの過去を、あんたは知っているのかね?現実へ帰れば、また独りになる者もいる。病と痛みに苛まれる者もいる。貧困から逃れられない者。愛する家族を失った者。生きる理由そのものをなくした者もいる」
観客の顔が、スクリーンの光に照らされる。
若い男の目から涙が流れていた。
映像の中では、母親らしき女性が彼を抱き締めている。
現実には、もう存在しない人なのかもしれない。
「この映画の中でだけ、彼らは幸福でいられる、そういう人々から夢を取り上げ、冷たい現実へ追い返して――あんたは、その後に責任を負えるのかね?」
監督の言葉は単なる皮肉でもなければ、ましてや映画を守るための詭弁でもない。
自分の作品に救いを求めて訪れた者たちを、長く見続けてきたからこその問いかけだった。
朱音はすぐには監督からの問いに答えなかった。
観客の一人ひとりを見つめる。
幸福そうな顔。
忘れていた温もりを取り戻した顔。
ようやく居場所を見つけた顔。
そこから追い出すことが救いになるなどと、軽々しく言えるはずがない。
「負えないよ」
観客を一通り見渡した朱音は答えた。監督の眉が僅かに動く。
「神様でも負えないだろうな」
「……ほう」
「現実へ戻った人が必ず幸福になれるなんて、私には約束できない。失ったものを返すこともできない。病も孤独も貧困も、扉を出た途端に消えてはくれない」
「ならば、なぜ目覚めさせる?」
「私は夢から起きることを強制したいわけじゃないよ」
朱音は正面のスクリーンへ顔を向けた。
「私が守りたいのは――『目覚める道』――が残されていることさ」
「同じことではないのか?」
「私にとっては別物、ここで休むことと、ここから出られないことは、まるで違う」
朱音の翡翠色の瞳へ、映写機から放射される夢の光が映る。
「現実がつらい時、物語の中へ逃げてもいい。映画に泣かせてもらい、音楽に慰めてもらい、明日を迎えるまで架空の誰かに寄り添ってもらってもいい」
「逃避を認めるのか」
「もちろん、逃げでもしないと乗り越えられない、生き延びられない夜もある」
監督は僅かに意外そうな顔をした。
朱音は現実へ戻るべきだと説くと思っていたのだろう。
「今すぐ立てとは言えないよ。夢の中で休む時間だって必要だ。でも、いつか外へ出たいと思った時に扉が開かないのは困る」
「外へ出たいと思わなければ?」
「残ることを選べばいい」
「一生でも?」
「本当に本人が選んだものなら」
朱音は客席を示した。
「けど今の彼らは選び続けているのかな?それとも映画に選ばされ続けている?どっちなんだろうね監督」
監督は答えなかった。
スクリーンの光が、古びた帽子の下に濃い影を作る。
「夢から覚める自由。夢へ戻る自由。そして、夢と現実の間を何度でも行き来する自由」
朱音は静かに続けた。
「私が守りたいのは、どちらか一方じゃない。行き来できる道だよ」
「随分と欲張りだ」
「リアルとロマンは、二兎とも追えるのが信条でね」
「二兎を追う者は一兎をも得ず、とも言うが?」
「だからこそ、両方を追いかける甲斐があるんじゃないか」
朱音は微笑んだ。
「逃がしたら、また追えばいい。追いかけている時間だって、人生なんだから」
監督は小さく鼻を鳴らした。
「リアリストだな」
「そう見える?」
「夢より不確かな現実を選べと言っているように見える」
「なら敢えて言えば、夢を現実で追い求めたいんだよ、私は――」
朱音の声に、初めて微かな熱が宿った。
「幾星霜を経ても残る名作も、時代の中で消えていった作品も、完成しなかった作品も、誰にも見つけてもらえなかった作品も――作り手たちは大なり小なり、『夢のような瞬間(かがやき)を現実に作り出そう』と立ち向かった人たちだと信じたい」
誰かに夢を見せたい。
誰かを笑わせたい。
誰かの心を動かしたい。
自分が見た景色を、まだ見ぬ誰かへ手渡したい。
頭の中にしか存在しなかった夢を、脚本へ変え、映像へ変え、音へ変え、一つの作品として現実へ生み落とす。
そこには迷いも、失敗も、妥協もある。
届かなかった作品もある。
忘れ去られた物語もある。
それでも、現実の中で夢へ手を伸ばしたことまで無意味にはならない。
「だからこそ、自分の夢など持っていても意味がないと、誰かへ明け渡してしまうのは――」
朱音は客席へ視線を戻した。
「生きながらの死だよ」
映画館へ沈黙が落ちた。
スクリーンの中では音楽が流れ続けている。
だが監督は、もはや映像を見ていなかった。
目の前の少女を見上げている。
「……お嬢さんは夢を否定しているのではないのだな」
「最初からそう言っているよ。いい映画だった、と」
「夢を見た人間が、その先を生きることを諦めるのが嫌なのか」
「ご明察」
朱音は一つ空いた隣の席へ腰掛けた。
二人の視線が、同じ高さになる。
「もう一つ、聞いてもいいかな?監督」
「何だね?」
「あなた自身は、この映画を完成させた時、嬉しかった?」
監督は怪訝そうに目を細めた。
「当然だろう。私が追い求めた映画なのだから」
「脚本を書いて、映像を作って、何度も失敗して?」
「ああ」
「途中で投げ出したくなったことも?」
「数え切れん」
「それでも完成させた」
「そうだ」
「その喜びは、誰かに見せてもらった夢じゃないでしょう?」
監督の顔から、僅かに表情が消えた。
「あなたが現実の中で悩み、作り続けた末に手に入れたもの、観客のみんなにも、まだ自分で見つけていない喜びがあるかもしれない」
「見つからないかもしれんぞ」
「うん」
「夢など追わず、ここへ残った方が幸福だったと後悔するかもしれない」
「それも否定できない」
「それでも外へ出せと?」
「外へ出るかどうかはその人次第、せめて出ようと決めた時に、扉を残してほしい」
朱音は譲らなかった。
「幸福になれる保証がないからって、可能性ごと奪っていいのも残酷な現実の、また一つの形だと思うから」
監督は、ゆっくりとスクリーンへ向き直った。
そこには彼が作り上げた、完全な夢がある。
痛みさえ物語へ昇華され、失敗さえ次の成功への伏線となり、愛する者との別れにも必ず意味が与えられる世界。
現実は、そうではない。
無意味な別れがある。
報われない努力がある。
誰にも知られず終わる人生もある。
それでも、この映画を作り上げた自分自身は、完成された夢の登場人物ではなかった。
失敗し、迷い、報われる保証もないまま、現実の中で夢を追った一人の人間だった。
「皮肉なものだな」
「何がだい?」
「夢を作ることへ人生を費やした私が、観客には夢の中で人生を終えることを勧めている」
「監督、私はそこまでは切り捨てたりはしませんよ」
朱音は首を横へ振った。
「あなたは、観客に幸福でいてほしかったんでしょう?」
「……ああ」
「それは素敵な願いだと思う」
偽りの慰めではなかった。
朱音は監督の作品を否定していない。
人々を救いたいと願った心まで、支配欲の一言で切り捨てようともしていない。
「映画は観客の心を動かしていいし、人生を変えてしまう魔法を持っても良い」
そこで一度、言葉を切り。
「ただ、その一人一人の心そのものまで所有してはいけない」
「映画監督に向かって、観客の人生まで演出するなと言うわけか」
「そういうことですね」
「最後まで手厳しいな」
「感想全部、本当ですよ」
朱音は胸元へ手を添えた。
「とてもいい映画だった。だから、きっと忘れない」
「……そうか」
「忘れられない映画と、忘れることを許さない映画は、別物だからね」
長い沈黙の後、監督は低く笑った。
敗北を認める笑いではない。
長く撮れずにいた一場面の構図を、ようやく見つけた映画人の笑いだった。
「なら聞こう、お嬢さん」
「うん?」
「この映画館を出た者が、現実に絶望して戻ってきたらどうする?」
「扉が開いているなら、また観ればいい」
「追い返さないのか?」
「どうして?」
朱音は不思議そうに首を傾げた。
「一度で立ち直れないなら、二度でも三度でも夢を借りればいい。娯楽は、そのくらい都合がよくてもいいだろう?」
「いつまでも往復するだけかもしれん」
「それも本人が選ぶならね」
「夢を見て、現実へ戻り、また傷ついて夢へ逃げる。その繰り返しに何の意味がある?」
「戻っていけた分だけ、まだ終わらずに進められた『確かな現実』が道になってる」
朱音の答えに、監督は押し黙った。
「だからどんな映画も、エンドロールが必要だと思うよ」
「物語の終了を告げるためか?」
「夢を観客の心へ返すため」
スクリーンの物語が終わる。
劇場へ明かりが戻る。
観客は余韻を胸へ抱き、自分の足で席を立つ。
そして映画から受け取った何かを、それぞれの現実へ持ち帰る。
誰かへ感想を伝える者もいるだろう。
自分でも物語を作ろうとする者がいるかもしれない。
何も変わらない者もいる。
明日には内容の半分を忘れる者さえいる。
それでいい。
作品をどう受け取り、何を持ち帰り、いつ手放すか、それは観客が決めることだった。
「エンドロールの後には、観客自身の物語が待っている」
監督は長く、長くスクリーンを見つめた。
やがて、帽子のつばへ指を添える。
「……一本取られたよ、お嬢さん」
「私は感想を話したまでで、打ち負かす気は微塵もなかったんですけど?」
「分かっている、だから厄介なのさ」
監督が片手を上げる。
スクリーンの映像が、僅かに揺らいだ。
物語の中にいた登場人物たちが、初めて観客席へ顔を向ける。
そして、静かに一礼した。
暗転。しばしの沈黙。
やがて黒い画面の下から、白い文字がゆっくりと流れ始める。
出演者。
脚本家。
撮影者。
音楽家。
美術を作った者。
名も残らないほど多くの、夢を現実へ変えるために働いた者たちの名前。
エンドロールだった。
観客たちの表情が動く。
夢から乱暴に引き剝がされたのではない。
長い旅を終え、余韻の中で目を覚ますように、誰かが瞬きをした。
別の誰かが、隣に座る者の存在へ初めて気づく。
泣いていた若者は、スクリーンから目を逸らさないまま、それでも自分の手を強く握った。
劇場の側面へ、細い光が差し込む。
それまで闇へ溶けていた扉の輪郭が浮かび上がった。
扉は開いている。
立つ者もいた。
まだ立てない者もいた。
立ち上がりかけ、もう一度座る者もいた。
誰も急かされない。
誰も追い出されない。
ただ、出ることも残ることも、再び選べるようになっていた。
朱音は席から立ち上がる。
スクリーンには最後の名前が流れ、やがて光だけが残った。
「素敵な映画をありがとう、監督」
「もう一度観ていかないのかね?」
「今日は帰るよ」
「現実へ?」
「ええ、私にも、私だけの続きがありますから」
朱音は出口へ向かって歩き出した。
扉の前で足を止め、振り返る。
カンナヅキ監督は、まだ座席に残っていた。
しかし、その姿は先ほどまでと違って見えた。
終わらない夢へ閉じこもる亡霊ではない。
一本の映画を観客へ手渡し、その反応を静かに見送る映画監督の顔だった。
「素晴らしい夢をありがとうございます、監督」
朱音は微笑む。
「だから今度は――この夢を抱えて、目覚めるとします」
監督は答えなかった。
ただ、帽子のつばを僅かに持ち上げる。
その口元には、満足そうな笑みがあった。
朱音は扉を押し開けた。
外から差し込む光が、暗い映画館の床へ一本の道を作る。
その光は夢を焼き消さない。
スクリーンで見た景色も、流した涙も、胸を震わせた音楽も、全て観客の中へ残っている。
夢を見ることは、生きることを諦める理由ではない。
夢とは本来、まだ存在しない景色へ、現実から手を伸ばすためのものだ。
朱音は光の中へ一歩を踏み出した。
映画は終わった。
だからこそ――彼女自身の物語が、また始まった。
終幕。