オーバーロード 葛藤の放浪者(仮)   作:とくと

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プロローグ

 深く息を吸い込めば、嗅ぎ慣れた匂いがするのに、視界いっぱいに広がっているのは月光による木漏れ日の碧い輝きの森だった。

 

 天上から注ぐ蒼い光を受けて、淡く蒼く、虹色の輝きを孕む水晶の樹木や草花の代わりに群生する天然の水晶柱。その木々の透き通った葉脈の向こう側には真っ暗な夜の闇が広がっている。しかし、そこに一片の恐怖も感じないのは、宵闇の中にぽっかりと浮かび上がる青い月と、無数の星々が宝石のようにまたたくきらめきがあるからだ。

 息を呑むような美しい光景だった。瞬きするのも忘れて目が乾くのすら惜しくないような、幻想的な光景だった。その最中で見下ろした自らの掌は、同じように仄青白い微光を纏っているように見える。どんな才能と名声のある芸術家であっても、この美しさを表現することはけして出来ないだろうとさえ思えてしまう。だが、驚くことに、ここにあるその全てがヒトの手によるある種の創造物のうちのひとつであったのだ。群生する水晶の柱などは、鉱石の図鑑で見る非人工の結晶となんら変わりない上に、水晶の樹木とて、透き通っていること以外に自然の樹木と全く同じように見える。今自らの目に見えているもの全てが、血の通った誰かの作り出したものだったのだ。

 

「ちょっと、大げさだね」

 

 思ったこと全てを素直に告げると、目の前の人はそう呟いた。その横顔はいかにも冷徹そうで、さながら鋼鉄の刃のようである。けれど、その声には隠し切れない明らかな喜色が混じっていた。きっと、似たようなことを考えていて、大方を代弁するようにこちらが言ってしまったのが、少し恥ずかしくもあり、それでいて、同じ感想を抱けたことが嬉しかったのだろう。

 こことは全く別の場所の全く異なる光景を前にして、今と同じやり取りを何度もした気がする。このやり取りは何度目だか知ってるか、そう尋ねながら面白くなって思わず笑ってしまうと、拗ねたようにふいと顔を背けられてしまった。それが、気を悪くしたわけではなく単に照れているだけだと分かるのは、これまでの経験と付き合いの長さに由来するものである。どうせ数秒もしないうちにすぐ話しかけてくるはずだ。今までもそうだった。これから先、一週間後も、一ヵ月後も、きっとまた、同じことを繰り返すのだろう。

 そう、思っていた。この時は、まだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 二十二世紀某日。

 かつて日本中を熱狂させたDMMO−RPGの金字塔『YGGDRASIL(ユグドラシル)』が、流転するゲーム業界の宿命に従って、ついにサービス終了の日を迎えようとしていた。

 

 かつての栄光を失くしたゲームの向かうべき終焉を迎えるべく、主要ポータルのあるタウンに集まったプレイヤーは、今や千を超えようとしている。五百をゆうに超える種族や職業、クリエイトツールと課金諸々次第で自由に弄れる外装(ビジュアル)や装備品、NPC(Non Player Character)。爆発的な現象にまでなった“外装人気”の結果がここにあった。

 個々人の差はあれど、自らのアバターに注ぎ込んだ血と汗と涙と時間、様々な手間の全てがイコールで金銭と繋がっているといって過言ではないこの世界が、この日限りで全て無に帰してしまうのだ。ブームが過ぎ、すっかり離れてしまったとはいえ、“ユグドラシル最後の日”と題打たれたイベント告知のGMメッセージに懐かしさを覚えて、注ぎ込んだ情熱と愛着を思い出して“さびしい”と感じてしまったユーザーが少なからずいるのも事実だった。告知をした運営側にも、同じような心境のスタッフがいるのだろうか、イベント最後に打ち上げられる花火は、それはそれは立派なものらしいと専らの噂である。最後のイベントの花火を見るため、九つの世界、各サーバの主要都市に指定された街には、徐々に徐々に人が集結しつつあった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 その都市にも、プレイヤーたちが続々と集まってきていた。城砦国家という設定が公式から割り振られたこの大きな都市の広場で行われる最後の花火イベントに向けて、多種多様なアバターが大通りを凱旋するかのように押し寄せてくる中、人の流れに逆らって路地裏へと外れていく影がある。ささやかなブーツの足音とともに雑踏から抜け出したその影は人の疎らな路地の半ばまで進むと、周囲に聴こえないほど微かに、ゆるゆると息を吐き出すような、そんな声を漏らす。

 それは真っ赤な外套に身を包んだ男のアバターだった。

 外套の下には、クロースアーマーとブレーサー、薄手のブリガンダイン――何れも少しずつ明度の違う落ち着いた深紅で揃えられている――を身に付けており、腰には白く細い棒のようなものを佩いている。年の頃は十代後半から二十代前半ぐらいだろうか。緩やかな曲線を描いて波打つ赤い髪に縁取られた生白い顔には、切れ長の碧眼、真一文字に引き結ばれた唇。燃えるようなカラーリングに反して、その表情にはさながら氷のような鋭い翳りが宿されていた。

 歩みを止めないまま、そんな男の顔が少しばかり俯く。唇は動いていないが、男の口元からは確かに、低く冷徹そうな声色で二度目の溜息が漏れ聴こえてきた。理由はごく簡単だ。何故なら――広場から一本別の通りに出ただけで、画面内の処理の速度が明らかに上がったためである。

 

「人多すぎ、重すぎ……落ちすぎ」

 

 そう呟いた声色はどんよりと沈んで、いっそう低い。何を隠そうこのプレイヤー、イベントが開催される広場へ行くたびに視界がフリーズしてサーバーから追い出され、その都度ログインし直すという作業を先ほどからずっと行っていたのである。現在ログインしているユーザーはかつての四分の一に満たないというのに、外装人気現象で一世風靡しただけあって、ひとりひとりのアバターのデータ量が半端ではなく、それが一箇所に集約されているために、後生大事に使っている少々旧世代のコンソールではどうあっても処理が追いつかないらしい。

 そんな作業を続けてかれこれ二時間が費やされた。二時間もだ。ユグドラシルのサービス終了寸前の、ユグドラシル最後の日の、貴重なプレイ時間の、二時間が、本当に無駄な作業で丸々と潰れてしまったのだ。もう花火を見たいという気すら失せてしまっていた。画面――視界の端に見える時計を確認すると、時刻はなんと“23:39”。もはや頭を抱えたくなってしまうほど時間は無い。こんなことならイベントなど最初から放っておいて、昔のゲーム雑誌に載せられていた『一度は見ておきたい! ユグドラシル美グラフィック百景』巡りにでも行っていれば、どれだけ有意義な最後を迎えられたことか。プレイヤーのリアルの口から三度目の溜息が漏れ出るとともに、アバターは高い壁の城門を潜って草原に踏み出していた。

 

 闇の帳が落ち、無数の星が散見する紺碧の夜空には丸い月がぽっかりと浮かんでおり、深々とした仄かに青白い光を大地に投げかけている。男の真っ赤な外套や髪、生白い顔にも、それは等しく注いでいた。視線を動かし、データの塊の月を仰いでぼんやりと見つめる。そうして黙って思考を巡らせた。

 

 世界が終わる最後の瞬間、どこで終わりを迎えるべきか。

 

 サービス終了の告知がされてから、ずっと、ずっと、そればかり考えていた。告知以前、時折思い出したようにログインすることもあったが、以前のようにユグドラシルをプレイすることはなくなっていた自分が、皮肉なもので、いざ終わりを提示されるとそのことばかりを考えて、気がつけば、暇を見つけてはたったの三十分でもログインするようになっていたのだ。

 ユグドラシルに戻るとともに、閉じた瞼の裏へフラッシュバックする追憶にはいつだってこの赤い色があった。手繰れば手繰るだけ思い出は蘇ってくる。まるで何かに突き動かされるように、今日までずっと、一人で、かつてのユグドラシルの日々の道筋を辿っていたのだ。最後を目前にして漸く冷静になった今思い返せば、それは正しく死に場所を求める旅だったと言える。

 だが残念なことに、費やした時間に対して、納得のいく“死に場所”はいつまでたっても見出せなかった。

 

 暫し考え込んでから視界の端にある小さなウィンドウをもう一度見る。時刻は“23:50”。もう悩んでいる時間は少しも残されていないことを知って、いくつかの候補の中で現在地から最も近い場所へ行くことに腹を決める。不意に上って来ようとする「本当にそこでいいのか?」という自らの欲張りな考えを押し込めて《飛行(フライ)》を発動させると、無風の風というべきものがアバターの外套の赤を夜空に舞い上げた。歩くよりも遥かに速い速度で景色が流れていくのを注意深く眺めながら移動すること数分。水平線を描く海が見え、その傍らに佇む目標地点を見つけてそちらへ飛び込むように急降下する。

 月光を青く反射している海を望む小高い丘の上に、そのオブジェクトは存在していた。海からの照り返しを受けて仄暗く浮かび上がる白亜の柱の瓦礫が麓から頂に向かって等間隔で建てられており、それらが導く丘の頂には杭のように穿たれた尖岩のサークルに囲まれるようにして、中心に祭壇が設置された寂れた石畳の舞台が作られている。

 ここはかつて“遠雷の丘”と呼ばれていた場所だ。

 

 まるで儀式が行われていたかのような祭壇があり、いかにも意味ありげに様々なものが置かれているが、特別なボスが配置されていることもなければ、周囲に現れる敵も辺り一帯の雑魚モンスターと変わりなく、アイテムが落ちていることも無い。当初某大型掲示板サイトの専用スレッドに「ここで遠雷のような不思議な音を聞いた」という言葉が書き込まれたことによってその名前が付けられ、世界観考察スレを中心に瞬く間に話題を浚っていった場所であった。

 秘境開拓ギルドの一部や他のスレを巻き込んで調査隊や周辺探索隊などが結成され、秘密のイベントが隠されている、などと噂されたこともあったが、結果的に、噂は噂で、所謂“グラフィック製作者の粋な遊び心の産物”であるということに落ち着くなり、すぐに目も向けられなくなった場所である。まとめサイトなどを見た新参者が訪れることもたまにあったようだが、ユグドラシルのブームが過去になって以来は存在すら忘れ去られてしまったようだ。

 

 祭壇の上に降り立ち、限りない静寂の中で、耳朶を掠めていく潮騒を背景に再三時計を確認する。時刻は“23:57”。いざ最後の場所に立ってみると体の内側から言いようのない寂寥感がこみ上げてきて、同時に、少なからず安心していた。決め兼ねていた死に場所を、ようやっと得たからなのだろうか。目を少し伏せて――ああ、折角魔法職を取っているのだから、ここで何かどかんと魔法でも打ち上げようか、と思い至る。

 何とも言い難い安直な考えに、自分で笑ってしまった。しかし普段のプレイスタイル……慎重すぎるチキンプレイで、そしてその魔法に関わるいくらかの問題故に、覚えている中で最も強大な魔法を打つことはまず無かったことも同時に思い出した。最後の日、最後の瞬間だ。花火が見れない代わりに、出し惜しみせずに使ってしまおう。その方が、彼だってきっと喜ぶはずだ。

 

 このアバターが取っている種族は、外見面でいくらか優遇されているばかりに、他種族と比較するとパラメータが圧倒的に劣るという根本的な欠点があった。そんな種族であっても勿論、ユグドラシルの魔法階位において最も強大な魔法――所謂“超位魔法”を使う方法は、幾らでも存在しており、このアバターが持つクラスや上位種族を取る事なども、そんな方法のうちの一つだ。

 だが、その上位種族というのは、超位魔法を使うために特殊な条件を発生させなければならず、更にそこには二つ程ペナルティが存在する。ひとつは、その条件の発生自体に特別な装備やコストが必要ない代わりに、ステータスにおける“運”のパラメータを加味された確率によって付与が決まる厄介なバッドステータスがあることだ。幸運の女神が微笑んで、バッドステータスの付与が免除されれば、物理攻撃と物理防御の値を魔法防御・魔法攻撃力に全て割り振るという諸刃の効果――これが二つ目のペナルティである――に加えて、それらの強化に特化したバフの効果を上乗せした恐ろしい魔法火力ステータスで魔術を放つことができ、あまつさえMP消費を二分の一にするスキルを有しているので、第七階位以下の魔法ならば弾丸の様に打ち出すことも可能であり、超位魔法の発動権もその手に転がり込んでくるのだ。……勿論、制限時間付きであるが。

 それにより“もしも対人戦で出会ったらきっと害悪”と呼ばれるほどの性能の発揮と、加えて処理落ちするほど派手になったカッコいい魔法エフェクトを発動させることができる。しかし、その成功確率は想像を絶するほどに低いことでも有名だった。最盛期のユグドラシルにおいて、その貴重な成功例は途中から慌てて撮り始めたような中途半端な動画でしか見ることが出来ないと囁かれている程である。

 下手をすれば……否、下手をしなくとも、最後の日の最後の行動が失敗で終わってしまうかもしれない。だが、周囲は見事に御誂え向きの無人である。成功しなくても他人に迷惑はかけないし、いつか忘れるか、笑い話にすればいい。それだけのことだ。

 

 できるならばうまく発動して欲しいと淡く願いながら、戦闘コマンドリストを呼び出して、殆ど使うことのなかったその文字を選択した。程なくしてアバターの周囲に輝く魔法陣が展開を始める。アバターを中心に次から次へと浮かび上がっては留まる魔法陣は、あっという間に視界を白く埋め尽くし、外套の赤色は光の繭の中に包まれて見えなくなってしまった。

 

 白一色の視界の中で運との最後の賭けの最中、そっと目を閉じる。すると、眩い光を受けて少しだけ白んだ瞼の裏側に、赤い外套の後姿が浮かび上がって来た。それとともに、記憶のどこかから懐かしい声が聞こえてきたような気がして、愛しさに似た寂寞とノスタルジーがない交ぜになったような、酷く穏やかな気持ちが心を満たしていく。

 ここで、終わる。

 追憶を追いかけた日々の中で、忘れてしまいたかったことを思い出して、今も尚後悔し続けている自分を少しだけ嗤った。けれどそれも、もうお終いだ。消えてゆく彼は、やがて忘却の波に浚われて、遠くへ、見えなくなってしまう。

 

(……イングワズ。短い間だったけど、ありがとう)

 

 埋没しそうな刹那の思考を切りやめて最後の最後に考えたのは、真っ赤な外套に身を包んだこのデータへの感謝だった。閉じていた瞳を開けば、いっぱいに広がっていた白い光は晴れて、段々と視界が赤く染まっていくのが見える。このエフェクトは確か、バッドステータスが発動すると現れるものだったはず。

 

「…………ああ。やっぱり、失敗か……――」

 

 徐々に染まり行く視界に向かってそう呟いたのは、ひどく残念そうな女の、最後の声だった。

 そして――

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ――その日、どこか遠くで、雷の落ちる音がした。

 

 

 

 

 

---

プロローグ 了




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