提督と加賀 作:913
バレンタインデーの、提督と加賀
二月十四日、早朝。
所謂バレンタインデーの朝早い時間から、朝飯を間宮の食堂でとった提督の色々な意味でブラックな一日は幕を開けた。
「ていとーくさん!」
「おお、瑞鶴」
初手から黒い。
いつもの迷彩の騎士鎧の胸パーツのような胸当て。どちらかと言えば胸当てと言うよりも装甲に近く見える艤装と深い紺色の艤装を纏い、弓を持てば完全な臨戦態勢となる瑞鶴に出会し、提督は軽い感じに挨拶を返す。
よう、というような。つまるところは気安い友達に対するような態度であった。
共通話題こと加賀をネタにするあたり、極めて良好な関係を築けていると言える。
だから、であろう。
「提督さん、これ」
「お、チョコ?」
「そ。どうせ今年も私だけだと思うから、早めにあげるわ。ちゃんお返し、よろしくね」
瑞鶴は少なくとも表面上は割と気楽に、チョコを渡した。
彼女の言った去年のバレンタイン。提督は加賀以外の空母勢からチョコを貰っている。
しかし、セットで来た二航戦以外は個人的に渡してきたので、提督も二航戦はセットでいる時に、他の空母勢には個人で居る時に返していた。
「お返しか……リクエストは?」
「今日中に思いついたら頼むけど、思いつかなかったら提督さんが考えて?」
「了解」
流石に去年急遽身につけたお菓子のレシピレパートリーが尽きつつある彼は、軽く頭を悩ませつつ首を傾げる。
瑞鶴と廊下で別れたあともその悩みは続き、執務室に通じる曲がり角を曲がろうとして、提督はふと後ろを振り向いた。
慌てて姿を隠したような物音と、後方の曲がり角から見えるサイドテール。
「加賀さん、何やってんの?」
「…………いえ」
そう言えば今日は加賀さんが起こしに来なかったな、と。提督はここでようやく気づいた。
日常生活における欠落に、人は時に鈍感になってしまうらしい。
「どうかした―――」
左手にチョコを持っている提督を鋭利な眼差しで貫き、加賀はプイッと横を向いて俯いた。
どうやら朝っぱらから不機嫌モードらしいと、提督はここで敏感に悟る。
彼は正の感情には疎いが、負の感情には鋭敏な感覚を持っていた。
「―――どうかしたのですか?」
「何でもありません」
怒っていようが目付きの怜悧さと鉄面皮っぷりは変わらない。思わず敬語になった提督を、彼女は変な目で一瞥した後に再び視線を逸らす。
加賀は、別に怒ってはいなかった。ただ、嫉妬している。
しかしながら、そんな女心の機微がわかれば提督はとっくに誰かと結ばれていたであろうし、加賀に対しての理解は『顔に出ないだけで相当に感情を豊かな激情家』という妥当なものながら、その感情を読み取るまでには至っていない。
「加賀さん、怒ってます?」
「怒っていません」
声音は非常に平静であり、表情も凪いだ海のように穏やかである。
が、内面が嵐になろうが津波が起ころうが、基本的にはそう見える。
つまるところ、視覚と聴覚はまったく宛にならなかった。
戦々恐々としながら職務を遂行し始めた提督だが、執務室に入った時点で、加賀の嫉妬は鎮火されている。
一回目の好機は逃したが、職務を共に、そして二人きりで遂行できる以上はまだまだ好機はあると判断していた。
そして、一日の殆どを提督と過ごせるということを今更ながら認識し、若干機嫌が良くなってきたのである。
(あ、なんか加賀さん、機嫌直ったな)
一通り目を通してサインをし、判子を押す。
主に読むことに時間をとられながら、提督は思春期の学徒のようにチラチラと気になる相手の様子を窺っていた。
その結果、纏っている雰囲気のようなものが緩和されたことを知ることが出来たのである。
「加賀さん」
「はい」
ちゃんと顔を向けて返事をしてくれたことを喜び、提督はその返事の仕方の内容から機嫌がマシになったことを確信した。
『なんですか』、とかならば機嫌が悪い。『はい』、ならばそこそこ機嫌がいい。そして何より、こちらから目を逸らしていない。
「いや、別に何でもない」
「そう」
基本的にこの娘、機嫌いい時は二文字で返事を返す傾向にあるんだな、と。
提督は今更ながら理解した。本当に今更ではあるが。
「提督。あの、休息をとられませんか?」
はじまって一時間も経ってないのに休息を勧めてくる加賀に、提督は凄まじい違和感を抱く。
あの、昼休みにすら仕事をこなす加賀さんがどうかしたのか、と。提督は本気で心配になってしまっていた。
「ちょっと失礼」
基本的には提督のする、己を対象にとった行為には無抵抗な加賀のすべすべした頬を抓み、軽く引っ張る。
赤城かなんかが変装しているかもしれないと、彼は正気で信じていた。
「……?」
抓まれた頬に手を当てながら軽く首を傾げる加賀にたまらないものを感じながら、提督はボソリと呟く。
「変装じゃないのか……」
「あの、私は深海棲艦どもに成り代わられてはいないのだけれど」
前に本土であった提督殺害事件に関しての風聞を突如として信じたのかと判断した加賀は、基本的に身の潔白の証明がしようがないこの事件に自分が無関係であることを弁明しようとしたのである。
それを手で制し、どう信頼を示せばわからないといった体で提督は慌てて事情を説明した。
「いや、それに関しては心配してない。だけどほら、こんな短時間で休息っていうのは、何かあったのかと思って」
「……いえ、その、別に」
「いや、ならいいんだけどね」
語調と表情以外は明らかに挙動不審な点には目を瞑り、提督は次なる書類に取り掛かる。
彼には、加賀が無駄な器用さを発揮し、彼が変な体勢を取らない限りは見えないように、自分で作ったチョコレートを膝に置いていることなど知る由もなかった。
(このままでは、また去年の二の舞いになる気がするわね……)
去年の今日。
ほとんど公私共にセットで行動している二航戦以外の空母勢がチョコレートを手製で各個に用意し、各自がバラバラに渡して行ったのは前述した通りであるが、加賀も実は作っていたのである。
どう渡せばいいか、ということをひたすら悩み、何も言わずに仕事に打ち込んだ結果、結局のところ渡せずじまいに終わっていた。
故に今回は朝早く渡す様にアクションをとり、次いで先程も休息を提案して、『疲れているようだから』という理由をつけて無理なく渡そうとした。が、ダメ。
「具合が悪いんなら、非番で暇してる誰かと交代させようか?」
携帯端末で外出している艦娘と部屋で暇してる艦娘を適当にリストアップしながら、提督は気を使っているつもりで提案する。
だが、完璧に職務に私情を挟んでしまっているという自覚のある真面目な人間に対し、純粋な心配ほど突き刺さる物もない。
「結構です」
「あ、そうですか……」
膠も無く断られたことに対して特に感想を述べることなく、軽く怯んだような感じを僅かに滲ませて提督は退いた。
そう言えば、去年もこの頃は挙動不審で、挙動不審が終わった後には何故か落ち込んでいたな、と。
あと少し進めば理由やら何やらに辿り着けそうなところで立ち止まり、事実を額面通りに受け取るにとどめている提督の気楽な思考に対し、加賀は私人としての自己嫌悪と公人としての自己嫌悪に駆られていた。
私人としては、ヘタレ。
公人としては、落第点。
赤城に『私人としての実行力と決断力は、公人としての実行力と決断力の百分の一にも満たない』と断言される程、加賀はヘタレている。
嫌っている者達に対してならともかく、好いている相手に対して生の感情を表に出すということが怖く、表に出した結果拒絶されるのが怖い。
自分からは頼むことなどできないし、迫ることもできないが、頼まれれば断れないし、迫られれば受け入れてしまうようなアンバランスさを不本意ながら持っていた。
(…………どうしましょう)
前に提督を嫌っていた頃の方が、寧ろ感情を表に出せている。
鉄面皮なのは変わらないが、語気と言葉のチョイスの方面において、それは確実だった。
一人途方に暮れている加賀は、口を開けばそこから魂が出てしまいそうな程にぽけーっとして見えたらしい。
提督の加賀に対する心配は積もるばかりであったが、加賀が結構と言ったからには休養を受け入れるような性格でもないことを知っていた彼は、とりあえず端末を開いて赤城にメールで以って問う。
『加賀さんの様子がおかしいのだけど、心当たりはありませんか?』
返ってくるのは、速かった。
『解決したいのなら、仕事をすることです』
加賀の内面と提督の習性を読み切った赤城の的確なアドバイスである。
提督が真面目に仕事をすれば、確実に疲労する。
疲労すれば、それを見た加賀は『疲労回復にどうぞ』という格好の口実を見つけてチョコを渡すことができる。
結果、解決する。
その適切にして周到なアドバイスの真意を加賀からチョコをもらえるという考えを根底から持っていない提督がわかるはずもなく、彼は一つ首を傾げて仕事に戻った。
訳がわからないことにもとりあえず従ってみる素直さと言うのは、彼の人格的な美徳であろう。流されやすい、主体性に欠ける、とも言えるが。
(ともかく、他人に意見を求めた以上は従おう)
提督はその優秀な参謀を活かせる程度の持ち前の素直さを発揮し、仕事にコツコツと打ち込みはじめた。
加賀も三十分が経過する頃には機能停止から機能鈍化程度にまで持ち直している。
結果として、計朝八時から五時間の労働によって、書類の第一陣は壊滅した。
次の第二陣が来るかもしれないのは、遠征艦隊が帰還する夜の七時。ヒトキュウマルマルになってからなので、それまでには六時間のモラトリアムがある。
「あー、疲れた」
ここまでが、赤城の計算通りだった。そしてこれからが、加賀の計画通りだった。
「提督」
「はい?」
割りと食い気味に、加賀は珍しく焦りと緊張という感情を語気に籠めて提督に対して声を紡いだ。
その後ろ手には既に、器用に膝に乗せていたチョコが握られている。
一昨年は、チョコを作るほどの食生活的な余裕と時間的な余裕がなかった。
去年は好機を見逃し続けて結局渡せなかった。
去年のホワイトデーにおける提督の行動を影から見た時に募った今年こそ、という気持ちは、加賀にこの千載一遇の好機を逃させなかったのである。
「疲れている時は、甘い物がいいと聴きました」
「あぁ、デスノートでもそう言ってたしね」
極めてレトロな漫画を読み漁るのが趣味な提督らしい相槌に頷きつつ、加賀は勇気を振り絞ってチョコをぐいっと突き出した。
「提督、甘いものがお好きでしたら、これを」
「…………加賀さん、これバレンタインチョコ、だったりする?」
一瞬、情けなく喜びに歪みそうになった顔を全霊を以って律し、加賀はせめてもの強がりと、恥ずかしさを取り隠すためにぽつりとこぼした。
「いえ、意味はありません」