提督と加賀 作:913
秘書艦加賀の朝は早い。
まず、隣室で爆睡している提督を起こさないように気を配りながら五時に起床し、パジャマのままで台所に立ち朝ご飯の仕込み。
次いで六時頃に髪をゴムで括り、更に服装を整えた後に同じ航空母艦である鳳翔と洗濯。
七時頃に鎮守府に所属する全艦娘の点呼をとってそれぞれを時間割通りに動かし、八時頃に射場で身体を目覚めさせた後、台所に立つ。
この日、彼女は九時には提督を起こしに私室に入った。
「……ん」
どちらかと言えば女ぐさい、ふわりと甘いような匂いと時々混じる火薬の臭いがする鎮守府内で、その一室は最早異空間である。
暑い、というのか。男の野性味が漂うような臭いが、ツンと加賀の高い鼻についた。
ここだけが男の臭いを発している。臭いを嗅ぐほどに親しい男性を持たない彼女からすれば、提督の私室は男の臭いというより、提督の臭いに満ちていた。
「提督、起きて」
軽く掛け布団に半身を埋めながら、加賀は寝間着に包まれた彼の身体を揺り動かす。
提督が東京の大本営に呼び出されてから今日に至るまでの二ヶ月もの間、加賀はこの行為を行えなかった。
「……ぉはよう」
「はい」
無表情のままに、加賀は精一杯の愛想を振り撒きながら提督の起床してから一言目の言葉に応える。
「おはようございます、提督」
「うん」
相変わらずの無表情に逆に安堵の気持ちを抱き、提督は適当に返事をした。
おはようからおはようと返された場合、次に何を返せばよいのかを彼は知らない。加賀との会話では基本的に、相手側から振らないと話にならないのが難点である。
口数が少ないというわけではないのだが、彼女は常に不興そうな顔をしていた。
「ごめんね、寝起き悪くて」
「いえ」
膠も無い。そして話が続かない。
最近は大本営付きの艦娘との儀礼的且つ気遣いに溢れた会話に終始していた為、彼はこのぶっきらぼうさを忘れていたのである。
「……機嫌悪い?」
「いえ」
無言。ひたすらに、無言。ジーッとこちらを見つめてくるだけで、話を振ろうが要らぬとばかりに切り捨てられ、彼はすごく気まずかった。
そもそも、会話がうまい方ではない。戦も大してうまくない。大本営で長門提督とやった戦術シミュレーションでも、勝算が僅かな博打に関しては勝てたがどう足掻いても互角や優勢の時には勝てなかった。
つまり、駆け引きも大してうまくはない。心理戦も、先読みも下手だと言っても良いであろう。
「ご飯」
「はい」
真顔で凝視されるという非常に居心地の悪い状況下を三十分ほど耐え抜き、提督は無我の境地に達しかけていた。
彼は別に加賀のことが嫌いではないが、ひたすら黙られると後ろめたいことが山ほどある都合上、苦しい。
一見すると怜悧そうに見える瞳に見つめられると何もかも暴かれそうだし、それを抜きにしても美人に見つめられるのはこっ恥ずかしいというのも、ある。
そんな中で彼女が発した一単語は、罪人に差し伸べられた蜘蛛の糸の如く感じられた。
「できています」
「そっか。ありがと」
相も変わらぬ単語文にさらりと礼を交えて返しつつ、提督は加賀の視線から逃れるように立ち上がる。
追尾してくる視線から逃げるように速めに脚を動かし、警察から逃げる犯罪者の如き敏捷性で提督は加賀から逃げ出した。
しかし。
「待って」
加賀警察こと加賀さんは犯罪者カッコカリの逃亡を裾を掴むことによって未然に防ぐ。
別に彼女は提督の後ろめたい事例を問い詰めたいとかそういうわけではない。ただ単純に歩幅を狭めて欲しかっただけであった。
加賀は、女性にしては身長が高い。160センチ代半ばといったところであろう。
そして、脚も相当に長い。黄金比と呼ばれる100センチ少しあるが、身長的には20センチほど負けていた。
適当に歩いていい提督とは違い、加賀には多少なりとも女性の嗜みというものがある。早足にはなれても大股にはなれないのだ。
「何かな?」
「できれば、歩幅をあわせて欲しいのだけれど」
後ろ裾を掴まれては逃げることすら覚束ない。全くと言っていいほど表情は変わっていないが、無表情で小首を傾げているあたりに彼女の僅かな愛嬌が感じられる。
表情は動かないが、彼女自身に感情がないわけではないのだ。
「ごめん」
「いえ」
一回目を瞑り、頷くだけで意思を示す。
「原稿ありがと。うまくいったよ」
「当然です」
彼女は、作戦計画から演説用の原稿、果ては対大本営用の答弁に至るまでのすべての立案を提督からぶん投げられていた。
彼女がその意思を示す場所は現場である海上しかなく、他は将である提督を補佐していればこれで事足りる。
では何故彼女自身が肝心なところで指揮を取らないかというと、その一番の要因には勝負運の無さが上げられた。
肝心なところでケチがつくというのか、勝ちきれないというのか。ありえないほどの不運で座礁したりしてしまいようなところが彼女にはある。自信家であり現にその能力も高いのだが、指揮官に必要不可欠な能力である運というものが憑いていなかった。
「提督は、運がいいもの」
しかし、ここにその憑いていない運という要素を豊富に備えた男がいる。
彼は運が良かった。それも生半可なものではなく、運が絡む勝負事と名のつく物に―――ルールさえ知っていれば―――負けたことがなく、幸運艦の代名詞的な存在である雪風にすらじゃんけんで勝てる程には運が良かった。
戦争というものが国家による賭博であるならば、将軍とか提督とかいう職にある人間は国家から掛け金をもらった賭博師であろう。
戦術や勝ち方に当たる賭博の技術は参謀とかそこいらに任せられるが、運を貸すのは将軍とか提督とか呼ばれる者達であらねばならない。
この運に誰よりも他の将軍よりも遥かに恵まれた者だけが名将になれた。
その点、この男には名将になる適正があるのだろう。技巧はないが、勝利を引き寄せる豪運があった。
「加賀さんの原稿が良かったんだよ」
「……そう」
いつにもまして無口な加賀だが、実は相当な気分高揚状態にある。
二ヶ月振りに会えて嬉しく思っているし、懐かしくもあった。
彼が側に居ない時に時々胸を打つ寂寥感に悩まされることがなくなり、朝起きた時もいつになく敏活に身体にバネが利いているような感覚すらあったのである。
弾むような、というのか。新たな空気で満たされたゴムまりのような弾力性が彼女の心を被っていた。
「提督」
「何かな?」
加賀のパーソナルな返事が『いえ』か『ええ』で済まされるように、提督のパーソナルな返事は『はい』か『何かな?』で済まされる。
一応色々考えてもこれしか出てこない加賀に対し、提督は何も考えていない時にこれが出るのだから酷いものであった。
「…………」
「…………何かな?」
名前を取り敢えず呼んでみたものの、彼女には何故自分が彼を呼んだかが自分にもわからない。
嬉しさという空気を入れられて弾むような心がそうさせたとしか、言えなかった。
「……ごめんなさい。何でもないわ」
「すごい気になるんだけど……」
気になると言われても、彼女には何の考え腹案もない。普段は理性的な仮面を被っている彼女には珍しく欲望のままに行動した結果である。
本当に何の用もなしに、彼女は思わず彼を呼んでしまったのだ。
「本当に何でもないの。ごめんなさいね」
考え込む時や、博打に打って出る時に両手の指のみを何回か拍手するように打ち付けて鳴らす癖が、彼にはある。
今回も思わず手を打ちつけながら、提督は少し首を傾げて頷いた。
嘗て『今日は暑いね』と言ったら『南方の夏はそういうものではないの?』と返されたあたりに彼女の無駄話を嫌う性質を感じた提督からすれば、加賀がただ名前を呼ぶというような無駄話をするとは考えられなかったのである。
加賀からすればこの『南方の夏はそういうものではないの?』という発言は皮肉でも嫌味でもなく、純粋な本音から発された天然の社交辞令潰しだったのだが、そんなことが件の真顔で言われてわかるわけもなかった。
「変な加賀さんだね」
「む」
ピクリと片眉が動き、ほんの僅かだが不況げに顔が顰められる。
無論、それは前を歩く提督にはわからなかった。