提督と加賀 作:913
名を呼ばれ、振り向いた瞬間唐突に。
「……動くな」
両肩にゴツゴツとした手が載せられ、加賀は少し怯んだように後ろに下がった。
彼女は修羅の国かと勘違いされる程の地獄を生き抜いてきた旧来の艦娘にありがちな型である、『揚陸された時用の』体術及び白兵戦の達人である。
正直、彼女が最前線で補給も乏しく戦っていた頃は敵深海棲艦に上陸されるところを何とかしろ、という任務のパターンが多かった。
無駄に撃つ弾はない。
牽制に撃つ弾はない。
一撃必殺で行かねば、嬲り殺される。
故に、自然と喧嘩めいた乱雑な体術と一撃必殺の射術が身についた。
勿論、身につかない艦娘たちは深海棲艦によって殺されていっている。
そんな彼女にかかれば、今肩に手をかけている男など鎧袖一触に投げ飛ばせるはずであった。
「目を逸らすな」
だが、彼女ができたことと言えばただ目を逸らしてその場から意識だけでも逃がそうとすることくらいである。
そして、それも直ぐ様潰されてしまった。
「俺を見ろ」
日本人らしい黒眼と黒髪。自分より高い身長と、何だかんだ言いつつガッシリとした体格。
提督を見上げるように、加賀はおずおずと視線を戻す。
彼女は、案外と人の頼みを断われない女であった。
そして、心を許した存在からが押してくると極端に弱くなる。
心を許している提督からの肉体的な接触と、相変わらず全く霊的強制力を持たないものの何故か従ってしまう女としての従順さ。
それが、彼女の身体を縛っていた。
「…………うん、正常」
白い弓道着めいた服から手を離し、肩を一回叩いて一歩下がる。
確かな意思を感じさせる琥珀色の瞳をじっくりと覗けば、そうでないことはひと目でわかった。
「……今のはどういうことかしら?」
僅かに乱れた呼吸を深呼吸して整え、早鐘を打つ心臓を瞑目することで通常に戻す。
内心の動揺を感じさせない強い意思を湛えた眼が、提督の身体を鋭く射抜いた。
「いや、深海棲艦が擬態能力を身につけたという報告が上がっていてね」
「擬態?」
三日前。国内でも有数の巨大な施設を持つ鎮守府である横浜鎮守府が突如来襲した深海棲艦に襲われて潰滅寸前の被害を被った。
それと前後して提督が秘書艦に刺殺され、出撃用の艤装を纏う為の機構が最新鋭の爆撃機によって破損。
この先制攻撃によって指揮官と武装を失った横浜鎮守府は、ろくな抵抗もできず叩き潰されたのである。
壊された鎮守府は放棄が基本だとはいえ、壊されたのは国防の要である横浜鎮守府。
おいそれと放棄するわけにもいかず、現在は育成中の提督候補生と呉・大湊・佐伯から派遣された艦娘たちが再建に掛かっていた。
「……それは、私に伝えていいの?」
「うん」
横浜鎮守府の惨劇を聞き、眉を一つ動かした加賀は極めて冷静な問いを投げた。
無論、平静なわけではない。同胞が殆ど無抵抗なまま殺されたことに対する同情と、敵に対する怒りはある。
だがそれは、人がテレビで殺人事件の報道を見た時の気持ちと何ら変わりない。
つまり、それより何より彼の無防備な意識が問題なのだ。
「私に対して何も伝えず、きちんと精密検査を秘密裏に行うべきです」
自分の不器用さを気遣い、受け入れてくれたこともあり、加賀が抱く密やかな恋慕は一層濃いものになっている。
己を知り、受け入れてもらうということこそ、彼女が恋愛において求めるものだった。
人ではない自分を人のように扱ってもらい、更には内面を認めてもらったことは、彼が彼女の心を占める割合が増している現象の一助となっていたのである。
「あなたは些か軽率に過ぎます。もう少し強かに振る舞うべきです」
そして彼女は彼を大事に思うが故に、少し煩く注意を促した。
「軽率ってわけじゃなくて、君を信じてるんだよ。君が居なきゃ俺は何も出来ないからね」
「…………そう」
加賀はツン、とそっぽを向く。
直接的な信頼の言葉が恥ずかしかったということもあった。
だがそれより何よりも、無言で示してくれた『加賀は裏切ることはない』という盤石な信頼が嬉しかったのである。
「………………」
それを見た提督は、左右の指の第一関節同士を打ち合わせ、鳴らした。
彼が真面目に考えている時の、特有の所作である。
「どうかしましたか?」
「…………いや、似てるなー、と」
「他の『加賀』と、かしら?」
ならば、似ている似ていると言う必要もない。
そんなことを思いつつ、加賀は自分の中で最適と思える問いを投げた。
提督の表情には、珍しく懐古の念が滲み出ている。
彼が懐古するということは、殆ど確実に南方に引きこもる前に出会ったということになるだろう。
何せ、現在唯一とすら言えるほどに希少な連絡を取り合っている提督であり、同じく北に引きこもっている長門提督は空母を持たない。
軽空母は何隻か持っているらしいが、兎に角別な『加賀』はあちらに居なかった。
そもそも、この加賀は自然発生型。その中でも最古で最初の『加賀』である。
他の量産型とは違い、今までどれくらいの自分の分体とも言えるクローンたちが死んでいったか、あと何人生き残っているかもわかる。
旧型の加賀は自分を除いて全て海色に溶け、残るは新型の自分が何人か。
この沈んだ中に提督と出会った『加賀』が居たのかは、わからない。
だが、新型と顔を合わせる機会はなかったはずだ。
であるが故にその沈んだうちの誰かが提督と接触したのであろうと、思っていたのだが。
「あれは加賀さんじゃなかったよ。雰囲気が似てるだけで」
「?」
むっとしたような思案顔でコテンと首を傾げ、加賀は仕事をしながら思案に耽る。
自分がこの世に現れた最初の艦娘の一員であり、最初の加賀であることに対しての疑いはなかった。
同じく相棒の赤城や後輩とも言える二航戦の二人、木曾と鈴谷も最初の艦娘―――数多居た自然発生型の中でも正式なオリジナルである。
「いつ会ったの?」
「君たちが来る前の横浜空襲で」
横浜空襲。連合軍が大敗北を喫し、制海権を握られる事態になった人類が、制空権までもを奪われることになった一連の空戦の果てに行われた各国の大都市に向けて行われた空襲の一部。
日本で狙われたのは札幌・仙台・大阪・東京・横浜・京都・神戸・呉・北九州・宮崎・那覇など。死傷者は万を超え、未だに正確な犠牲者は数え切れていなかった。
この提督は、深海棲艦機動部隊に標的にされた横浜に住んでいたのである。
「……ごめんなさい」
嫌なことを思い出させてしまってごめんなさいとでも言うのか、出てくるのが遅くてごめんなさいとでも言いたかったのか。
艤装を纏えば飛行甲板が装着される方の腕を逆の手で掴み、己の無力を苛むような、身を切るような謝罪。
それは如何にも根が真面目で責任感が強く、気に入った対象にはとことん甘い彼女らしい無念さ溢れる物だった。
「いや、別にいいよ。家族とかは無事だし」
その頃から既に豪運を発揮していた彼は、横浜に居ても傷ひとつ負わなかったし、両親は父方の実家である甲府に行っていたから、実質彼の親族に死傷者はでていなかった。
「俺の上に変なのが幾つも浮かんでから、こりゃ死んだかなーと思ったんだけどね」
「それは、敵の艦載機ではなかったの?」
「いや。爆弾落としてこなかったし、ちょっとありえないほどの美人が庇ってくれたりして、死ななかった」
今確認されている深海棲艦は、日本語にかかわらずあらゆる言語が辿々しい。
一方で、その美人は『それっぽかった』が、日本語が極めて流暢だったのである。
「探してはいるんだよ。空襲が終わって、親と会う直前まで居てくれたから幻では無いと思うんだけど」
「…………む」
その似たような美人に感謝する気持ちもあるが、彼女としては嫉妬の方が先に立った。
乙女心と理性の二律相反、というやつであろう。何にせよ、彼女は案外単純な性格であり、かなり重度のヤキモチ焼きであった。
「何故怒る」
「怒ってません」
「というか、案外君は感情豊かなの?」
「私は至って冷静です」
感情が豊かなのかと問い、冷静ですと返ってくる辺りに彼女はかなりムキになっている。
自己嫌悪から悔恨、それから怒り。謎且つ激動の変遷を見せる加賀の感情は、提督に理解し切れないものだった。
「冷静に自己嫌悪しています」
「ああ、戻ったのね」
結局怒りらしき感情は一週回って自己嫌悪に還り、止まったらしい。
全く以って道程はわからないが、彼女の機嫌状態が怒りでなくなったことは提督にとって素直に喜ばしいと言える。
「……その方には私からも感謝を表したいものです」
結果的に嫉妬心を殺し切ることに成功したのか、加賀は素直にその似たような美人とやらを認めた。
勿論、己は人ではないというコンプレックスから生まれた『できれば見つかって欲しくない』というような考え方は捨てきれていないが、それを求めるのは酷というものだろう。
誰もが誰も、聖人のようにさっぱりしているわけではない。彼女はあくまでも好きな人に好かれたいだけで、ライバルを増やした上で手に入れたい訳ではなかった。
有り体に言えば、なるべくストレートに、浮気を防止する為にも彼の選べる答えを自分以外なくした上で手に入れたいのである。
(卑怯かもしれないけれど……)
恋愛も特定のものを奪っている以上、戦いと何ら変わりない。
戦いに卑怯も糞もないと、彼女は身に沁みて知っていた。
「てことで加賀さん、横浜行くから用意。頼むよ」
「私も?」
「うん。秘書官も同伴するようにってことらしいよ」
二つ指で挟んだ書類をひらひらと見せ、渡す。
元々、提督となれる素養を持つ者はそう多くない。
相手方が進化したらしいということを、より詳しい状態で共有することが求められていた。