提督と加賀   作:913

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十一話

酔い潰れ、艦娘という戦闘能力に於いて人の上位に位置する種族から見ずともわかるほどに―――即ち一般人から見ても圧倒的に無防備な身体を支え、加賀は普段は見せぬ優しげな微笑を浮かべた。

体育座りから、正座へ。負荷が掛からないように最大限に気を遣いながら太腿に後頭部を乗せ、出会った時より随分と大人びた顔を見下ろす。

 

「……提督」

 

心配性で、臆病で、何よりも優しい。

自分を裏切らず、見放さず、ずっと日の目の見ない補給線の構築という地味な作業で支えていてくれた彼の身体を労るように、加賀は弓手で彼を撫でた。

 

加賀は、自分の膝に乗っている愛しい命を守る為に戦っている。

 

これは好きな対象にはパルスイートの如く甘くなり、嫌いな対象は蛇蝎の如く嫌う彼女らしい情の深さだとも言えたが、最も信じていた『海軍』という組織に裏切られたが故の極限状態での変質だと言えた。

 

どんなに性能が兵器そのものであり、護国の高尚な精神を持っていようと、ソレが人としての感情を持ち合わせている限り、海軍の高官たちは『都合が悪いから廃棄』などという兵器に対する扱いをしてはならなかったのである。

 

尤も、働かせるだけ働かせ、挙句に『叛いた時に手に負えない』という理由で敵を一隻でも道連れにしろとばかりに使い潰そうとした大本営への忠誠心はとっくに枯れ果てているが、人間そのものに怨みが有るわけではない。

 

この海軍に対する忠誠心の低下と人への愛の変わらなさは、これらを半ば独立した軍閥の様な形で南北に存在するのを認めざるを得ないという歪みを生んだ。

 

結果的にこの艦娘の力の源である艤装を着脱式にするという『安全対策』を普及させる為の部隊潰しは、世界でも屈指の精鋭機動部隊及び鬼神の如き練度を誇る水雷戦隊、精鋭水上艦隊とそれを補佐する水雷戦隊。繰り返しになるが、これらが軍閥化してしまったのである。

 

戦力としてはどの味方部隊よりも頼りになるが操縦桿を握ることすら許されることなく、下手に手を出せば食い千切られかねず、廃棄すらも不可能な兵器群と言うのが比島鎮守府―――通称・南方鎮守府への大本営からの認識だった。

 

「……ずっと、こうしていたいわね」

 

ある程度の従順さを示しながら、独立性を保つ。

こうすることで、幾ばくかの艦娘を喪うこと前提の作戦に於いて犠牲なしに切り抜け、無茶な作戦への参加を拒否することで艦載機の練度を磨り潰されるのを防げていた。

 

守勢に立つ前に戦没した加賀自身は経験していないが、人の身を手に入れてから得た知識として知っている『い号作戦』―――悪名高き『航空自滅戦』を日本の空母が経験するのは、ただの一度で充分であろう。

 

「…………む」

 

僅かに呻く提督の髪を白魚の指が梳き、柔らかな掌が風のように優しく頬を撫でた。

心底から、彼女は彼を愛しているのだろう。その手つきは、途中で酔いつぶれて寝てしまった男に対するものとは思えない程に丁寧だった。

 

(いつか、私が)

 

本当に、彼にこの恋慕が受け入れられたならば。

ずっと、共に時を歩めたならば。

 

自分もしわくちゃのおばあちゃんになった時、白髪になった彼の髪を梳き、若い時に酷使した身体を労ってということができるかもしれない。

 

近代化改修という外的手段によってしか身体が成長しない自分には、そんな夫婦にはなれないだろう。

そもそも、近代化改修しても内部能力が向上するだけなのだからどうしようもない。

 

世に住む女性たちからは羨まれる『肉体的変化のないままの死』だが、それによって付随する化け物扱いを加味すれば、どうだろうか。

不老を無くしても良いから、化け物のようなヒトモドキに向けられる視線を除いてほしいと思うのは、傲慢と言い切れるのか。

 

深海棲艦という人類の天敵が現れて海上を席巻し、その天敵である艦娘という新種が台頭し。

嵐のような時代の渦中に生きているにはあまりにも、それは穏やかに凪いだ思考だった。

 

「……!」

 

いつになく冷たい眼差しが己の身体を貫き、白いものが僅かに混ざった黒髪を梳いていた手が掴まれる。

酔いが別な何かに変わったような怜悧さが、彼の身体に満ちていた。

 

「君か」

 

「はい」

 

女性特有の柔らかな脂肪が、鍛えた者特有のしなやかな筋肉を包んでいる。

いつものそそっかしさを収めた提督は、加賀の手を掴んだ手を離した。

 

酔いが、彼の明晰とは言えない頭を醒している。

何重にもなる自己暗示の末に消し去った情報が、僅かに脳裏に去来していた。

 

「いやな夢を見た」

 

日頃から無感動だ無感動だと言われている自分よりもよっぽど起伏のない、平坦な言葉。

感情が凍り付いたような寒さを持つ言の葉が、誰よりも似合わない人物から漏れている。

 

「……暫く、いいか?」

 

加賀は、無言で頷く。

彼が何を求めて言っているかはわかる。が、何を考えているかまではわからない。

 

彼女は、ただただ彼の変化を受け入れた。

どう変わろうと、彼女の気持ちは変わらない。彼が何処へ行こうと、拒まれない限りは従うし、死ねと言われれば死ぬだろう。

 

愛という人にしか生まれ得ない感情は、彼女をがんじがらめに縛り付けていた。

 

「ありがと」

 

瞼が閉じられる前に一言、いつもの温さが戻ったような声が漏れる。

自分の大腿部に頭を置いた場合の寝心地は、案外と悪くはないらしかった。

 

「何も聞かないんだね」

 

「……あなたが何をしようと、私の行動に何ら変化をもたらすことはありませんから」

 

「そっか」

 

まだ二十代の半ばにもなっていないのに、その言葉には老いがある。

老練さや、老獪さではない。生きていくことに疲れ切ったような響きと、風韻。

精神的に疲弊し切ったような、そんな蒙さが今の彼にはあったのだ。

 

「……暫く鎮守府の外に出たらどうかしら」

 

もうすぐ本土に着く。艦娘という異種との暮らしに疲れ切ってしまったならば、彼と同じ人間という存在は精神的な回復の大いなる一助となるだろう。

 

自分では何もできないことに悔しさを感じながらも、彼女の中では提督の異常な疲弊をどうにかすることが優先されていた。

 

「いや」

 

提督は、剥き出しになった疲労の極にある自分を好きな女に遂に見せてしまったことを憎みながら、端的に断りの言葉を述べる。

 

罪悪感は、あった。

無感動・無表情と揃っているが決して無感情な訳ではなく、本心から自分を心配してくれている人間を無碍にするのは、心が痛い。

 

だが、外に出る気にはならなかった。

 

重責と艦娘たちから逃げたい逃げたいと思っているが、その癖一番逃げたくないと思っているのは彼なのである。

 

「それより、驚かないんだね」

 

「……あなたは、元から少し暗い人でしたから」

 

「なるほど」

 

秘書官として共に戦い、他の五隻が来るまで共にいただけはあった。

自分と居た時と複数を指揮下に容れた時からの変化に対しての違和感のようなものは、やはり少なからずあったのだろう。

 

ただ、押し込めていただけで。

 

「加賀さんは、夢とかある?」

 

「唐突ですね」

 

「ま、ね」

 

無理矢理話題を変えた自覚はあるのか、提督は目を閉じたまま皮肉げに口角を上げた。

この話と極度の疲弊がどう関係してくるかはわからないが、加賀は生来篤実で温和な性格をしている。

 

少しばかり血の気が多いが、それは個性というものだった。

つまり、疲弊し切った人間を問い詰めてどうにかしようとするほど、無慈悲でも無関心でも無遠慮でもない。

 

「人間になりたいと、思っています」

 

少し力を入れれば、艤装の輪郭が身体を犯す。

ジワリと浮き出てくるそれは、彼女が人ならざるものであることの証しだった。

 

「……人間か」

 

「はい」

 

窓から見える夜の海に、彼女の敵である深海棲艦は居ない。

このような海が世界全てに広がれば、彼女は人間になれるような気がしていた。

 

根拠などは、そこにない。ただ、漠然とした希望のようなものがある。

 

深海棲艦へのカウンターとして生まれたのが艦娘という存在なのであれば、深海棲艦が居なくなれば消えるしかない。

種が消えるならば、その生物的特徴である艤装をもが消えて人となるのではないか。

 

「難しいだろうね」

 

「だからこその、夢です」

 

叶わないからこそ人は夢を見るとは、誰の言葉だっただろう。

人ではないものの、苦悩する彼女の内面は限りなく人間に近かった。

 

「人間になりたいと思って生きれていたら、きっとそれは人間なんだと思うよ」

 

「そうでしょうか」

 

「獣は人間として生きようとなんざ思わないだろうし、ね。まあ、受け売りだけど」

 

いつもの表面を滑るような会話ではなく、内面に触れていくような、そんな言葉。

 

「因みに俺はサラリーマンになりたかった。そこそこ幸せで、夜まで働いたら嫁さんが待っててくれてる、みたいな。そういうの、好きなんだ」

 

「いい夢だと思います」

 

一も二もなく、加賀は反射的に首肯する。

尤も、反射的にとは言えども聞いていて落ち着くような緩急のない声色は変わらなかった。

 

加賀の声は、一定した抑揚がある。常人のように感情に応じて上げもしないし下げもしないし面白味もないが、彼女の声にはある種の魔力があった。

 

「…………落ち着く」

 

「?」

 

「瑞鶴みたいな感情剥き出しな喋り方も可愛げがあっていいけど、加賀さんの声は何よりも落ち着くね」

 

瑞鶴みたいな、と言った瞬間に凍った眼差しが瞬時に溶け、加賀の纏う雰囲気が一層和らぐ。

提督が幾ら偽った明るさを失って怜悧に見えようが、能力的には微動だにしない。

即ち、微妙な目の色の変化については感じ取ることなど出来はしなかった。

「……あの子と比べないでくれるかしら」

 

「ごめんごめん」

 

別に、馬鹿にしているわけではない。瑞鶴のことは認めているし、その明るさと無邪気さからくる女性らしい可愛らしさを羨んでもいる。

しかし恋する乙女である彼女には、二人きりでいる時に他の女の話題を振られるだけで頭にきた。

 

まあ、頭にきても何をするわけでもない。強いて言うなれば機嫌が少し悪くなるくらいであろう。

 

他の女に興味を示さねば、極めて彼女は無害であった。

 

「温い」

 

「よく言われます」

 

明確な眠気を感じさせるゆったりとした声に、加賀は僅かなおかしみを覚えた。

自分が隣座った時はあんなに挙動不審だったのにも関わらず、部分的にとは言え殆ど密着している今はリラックスしているような感さえある。

 

「酔いも覚めかけだし、水飲んでから寝室に行く。このままだと明日は加賀さんと顔もあわせられない感じになりそうだ」

 

「どうせ酔いは覚めるのですから、変わらないのでは?」

 

「違う。今なら恥ずかしいだけだから、顔をまともに見れないのは一日で済む」

 

「朝までこうだったら、どうなるのかしら?」

 

「負荷をかけた罪悪感と昨日の恥ずかしさ、起きたときの恥ずかしさで三倍になる」

 

酔っているからか、いつもと違って本音をボロボロと出している提督の言動を受け止め、加賀はくるくると思考を廻らした。

 

恥ずかしい、という言葉の真意は何なのか。

 

スタンダードに酔い潰れたところを見せて……ということか、或いは。

 

そこまで考え、加賀は激しく頭を振った。

 

(有り得ません)

 

彼に膝枕を自分がされたら、どうなるか。

 

恐らく、きっと、恥ずかしくなる。

 

だって、それは自分が彼のことを好きだから。

 

つまり、それは。

 

(有り得ません)

 

希望的観測を呟く脳内赤城さんからモナカを没収すると、加賀は重みの消えた太腿に残った温もりを撫で、立ち上がる。

 

彼女自身も、酔っていた。


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