提督と加賀 作:913
「加賀さーん!」
ムッハー、と言う顔そのままに、提督は凄まじい速度で突撃した。
加賀の顔は、いつものジト目半眼に小さな口が真一文字に結ばれている。
こてんと首を傾げ、加賀は提督の突撃に応えた。
「何かしら」
「夏ですよ!」
「ええ。暑いわね」
「ですよね!」
「はい。夏はあまり、好きではありません」
変にテンションが高い提督に圧倒されながら、加賀はウザがることもなく丁重に返す。
彼女は、夏はあまり好きではなかった。
自分の妹や僚友である赤城の姉を蹴り落として自分が命を永らえた原因となったあの大地震があったのも、夏。
特に思い出すわけではないが、何やら己の運命を感じずに要られない。
他人の生命を喰って、浅ましく貪って、生きる女、と言う。
「加賀さん?」
胸当てのすぐ上、道着の襟元をギュッと掴む。
一事が万事、彼女は不吉な予感を覚えることが多い。
このままでは自分は提督の命を貪って、また生き延びるのではないか。
加賀は、憂いを瞳に宿して視線を逸らした。
好きなひとの側に居るからかも、知れないが、兎に角マイナス思考が過ぎる。
「……ごめんなさいね。何かしら」
そう自戒して視線を上げた先には提督の顔。
向かい傷と呼ばれる頬を上から下に斜めに延びる傷が、提督の人の良さそうな顔に一種の凄みを植え付けていた。
「だから、海。行かない?」
「海?」
言葉の端に怪訝さを載せて、加賀は提督の提案に疑問を呈す。
特に何を問うたわけでもないが、その言葉の端には歓迎の念は浮かんでいなかった。
「うん、海水浴。みんなで行きたいなーって」
「そう」
気乗りのしない返事だな、と提督は思っている。
だが、自分が読み取る加賀の感情などは所謂誤報、大本営発表なことが多い。
これでも気乗りしてくれていると信じ、提督は最後の勇気を振り絞って加賀に声を掛けた。
「行かない?」
「いってらっしゃい」
提督の、心は折れた。
「では、お仕事が終わりましたので私はこれで」
「う、うん……」
告白してもいないのに失恋したような気分を味わった提督は、一人静に執務室でぐでんと座り込む。
あまり感じなかった暑さが、今は身を焼くように感じられていた。
一方、加賀。
「あ、加賀さん」
「ごめんなさい」
サラッと赤城を流し、加賀は共同部屋の自分のスペースに突撃する。
すぐさま道着を脱ぎ、袴を脱ぐ。ニーソックスを脱いで、サラシを取る。
「……慢心」
胸の間に溜まっていた汗を拭き取り、加賀は下着だけになった自分の身体を見て呟いた。
肥っている。ついついお魚の美味しい季節になったからということで夕食のお刺身をパクついて、このザマだった。
太腿が、柔らかい。下腹も流石に摘める程ではないにしろ、柔らかい。
胸も無駄に大きい。
何せ、もうすぐ三桁と言う不名誉に上ってしまいそうなのだ。
「…………絶対、提督には見せたく無いもの」
「何をです?」
とっさに道着を胸の前で盾とし、加賀は鏡に背中を付ける。
ドキドキと、胸が驚きで激しく脈動していた。
「あ、赤城さん」
「何を見せたくないんですか?」
「私の、その」
身体です。
そう言おうとして、加賀は黙る。
駄肉と言うべきだろう。そういう無駄な肉が、提督のことを好きになってから少しずつ付き始めていた。
トレーニングは、慢心していない。食事も多分、慢心していない。何故かそうなっているという、疑問がある。
現に、同じ量を食べて同じ量の運動をしている赤城の引き締まったプロポーションは一年前と変わっていなかった。
「身体ですか?」
「……はい」
だらしない身体だと、自分でも思っている。何せ胸が重さと大きさに負け始めているのだ。
九十と少しの時はまだまだ負けていなかったが、最近重さと大きさが逆襲。敗色が濃厚になりつつある。
「だらしない身体は、見せたくはありません」
「付き合えば、必ず見せてくれと言ってきますよ。提督、女の子の胸とお尻が大好きですから」
「ぇ、ぅ」
一番は脚ですが、と言いかけてやめる。
既に処理落ちしかけている加賀に、更なる情報はキツすぎるように思えたのだ。
「……嫌われ、ないでしょうか」
「勝手に見られて勝手に嫌われるなら、それまでの男の人ですよ」
「赤城さん。私が合わせてもらうのではないの。私が合わせるのよ」
加賀が、提督を好きなのだ。逆ではない。
その辺りを信じて疑っていない加賀の鋭い指摘を受けて、赤城は思わず肩を竦める。
何と言うか、全く自分に自信がないのだろう。
その顔には、泣きそうなほどの焦りが滲み出ていた。
「……どうにか、小さく見えないかしら」
「さあ」
「逆はあるのに、不公平よ」
いそいそと服を着込み、加賀は明らかに沈んだ様子で膝を抱える。
いつもサラシで誤魔化している身としては、水着を着て好きな人の前に立つというのは相当に難易度の高いことだった。
ただ、行きたいという気持ちはある。
海に行きたいと言うよりもひとりぼっちになりたくない、或いは提督にかまって欲しいというような気持ちが強い。
「まあ、みなさん行かれるようですからね」
「赤城さんも?」
「ええ」
「いつ誘われたの?」
「加賀さんの前だと思いますよ」
ヘタれていた、と言うよりヘタレ以外の何者でもなかった目に嫉妬の火種が灯り、思わず赤城は苦笑した。
相変わらず、全く理性的ではない。殆ど反射で感情が目に出てしまっている。
救いは表情豊かとは言い切れない所なのだろうが。
「……ごめんなさい」
「気にしていませんよ」
反射で嫉妬の眼差しを向けてしまったことに対するものなのか、加賀は十数秒の沈黙の後に謝った。
無口無表情で、気が強さを象徴するような猫のようなツリ目。
だが、押しに弱く、ヘタレで、寂しがり屋な、すぐに嫉妬する素直な構ってちゃん。あと、恥ずかしがり屋。
そういう風に―――つまるところは殆ど正確に、赤城は加賀を捉えていた。
世間一般では『知っているならば怒りも沸かない』とは言い切れないが、少なくとも赤城には怒りも沸かない。
「…………でも、そうね」
海水浴に行けないとはいえ、側に居られないのはたった一日。何だかんだで未だに自分が秘書艦を務めることの方が多いのだ。
いつも側に居ることができる。
幸せ、と言うべきだった。
だが、である。
「…………海水浴、行きたいわ」
「でしょうね」
人の欲望は再現が無い。海水浴と言う魅力的な行事はどうでもいいが、加賀は提督の側に居たかった。
「加賀さん、泳げましたっけ」
「いえ」
艦娘は基本的に、カナヅチが多い。赤城とか木曾とか如何にも武人然とした泳げそうな連中も泳げない。
加賀もその例外ではなかった。
「提督は泳げるそうです」
「はい」
「教えてもらうにかこつけて、ひっつくチャンスですよ?」
ダランとだらしなくベッドでうつ伏せに寝ていた加賀の背筋が、電流が流れたがごとくビクリと跳ねる。
「……ひっつく?」
「はい。もしかしたら溺れれば人工呼吸にかこつけてキスも、できるかもしれません」
「海水浴までに、絶対に体重を落とします」
全く太っていない身体を憎々しげに見つめ、加賀はぐっと拳を握った。
海水浴まで後、一週間の時点でのことである。