提督と加賀 作:913
ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調、『新世界より』。
内容を全く知らない人が聴いても『何かが迫ってくるような』印象を抱く、威圧感と勇壮さの双方を含有した序盤から始まるその一節は、提督の最も好みとする音曲だった。
そして。
「本当にこの曲に似合うな、君は」
「そうでしょう?」
身体のラインをくっきりと表す灰色のボディースーツとフラスコの底を逆さにして鍔を付けたような軍帽。
ボディースーツから独立した長手袋が肘のすぐ下を縛り、前膊を覆っている。
当然ながらスカートを履かずにニーソックスで済ませ、二の腕までもが剥き出しになったことで更に健康的な色気を醸し出す彼女の艤装には、その武威の象徴たる砲塔がない。
つまり、今の彼女は艤装の機械部分を取り払ったような格好であった。
「いいのよ、もっと褒めても」
ドイツらしい鉄の質実剛健な美と無骨ながら暗さを感じさせる鋭利なデザインを船体は、まさしく魔王の座乗艦といったところであろう。
兎にも角にも、これほどまでにラスボス感が溢れんばかりに剥き出しになった艦も珍しかった。
こんな物が『新世界より』をBGMに砲塔を向けて迫ってきたら。
そして、四百発の鉄の塊をぶつけられても沈まなかったら。
そう考えると、少し空恐ろしいものがある。
「本当にカッコいいな。貴族らしい派手さとドイツらしい無骨さが同居してるあたり、擽られるものがあるよ」
「そうでしょう、そうでしょう?」
日本にもビックセブンや最強や違法建築など多彩な戦艦が存在するが、ドイツびいきなところがある提督からすれば戦艦ビスマルクが一番だった。
勿論、このドヤっている金髪碧眼の艦娘も、鉄血宰相ヒゲオットーも好きである。
要は、そういうことなのだ、
「指揮官用に変異した艦と言えば泊地ALの南部中将んとこの長門だけど、君も中々の性能だ」
「そうよ、Admiral。私に座乗している限り、貴方の安全は何人たりとも侵せないわ」
指揮官用と名付られた艦娘が、初期の頃は複数存在している。
彼女等は移動用の脚としてモデルになった艦艇を喚び出すことができ、しかも提督を艦娘本人の意思によって艤装内に収容することができた。
つまり、提督を無理矢理にでも艦艇に座乗させた後に喚び出した艦娘が艤装に戻せば幽閉することが可能なのである。
無論、このような機能は後期型にはない。そんなことをしたら神隠しが続出してしまうし、現に磨り潰し際には指揮官用の艦娘が最優先の目標となった。
これをすれば、提督の異能が艦娘にも賦与される。ビスマルクが北条某を艤装に迎え入れれば運が上がり、命中率と索敵能力に大幅な補正が掛かった。
長門が南部某を艤装に迎え入れれば火力と装甲が跳ね上がる。
即ち、人間からすればただでさえ手のつけられない艦娘が更に手がつけられないということになるため、この機能は削除された。
それに、座乗艦が沈めば提督も死ぬ。
提督が艦娘の実力を信じ、命を無条件で預けなければならないこともあり、これは互いに信頼し合っているが前提の初期機能だと言えた。
「……信頼し合うことができると、カミサマは思ってたんだろうね」
「まあ、仕方ないでしょう。私達も広義で見れば深海棲艦と変わらない桁の外れた力を持つ異分子なのだし、恐れる気持ちを抱くことは必然、ではないの?」
少し鬱になった提督の思考が更に鬱へと行かぬよう、ビスマルクはさらりと思考の綱を切る。
思いやりからくるさりげないフォローと、元来のサバサバした気質もあり、この二人の合性はすこぶる良い。
加賀が同方向へと追従するタイプならば、ビスマルクは異方向へと引っ張っていくタイプであることも幸いした。
二人揃えれば程良く天秤の釣り合いが取れるのである。
「……不思議なものだね」
共存と言う夢を望んだからこそ鷹派になった加賀と、全てが終わったらひっそりと去ればいいと言う端から共存という夢を不可能視していたからこそ鳩派なビスマルクと言う構造は、中々に世の中に蔓延る感情というものの複雑さを感じさせた。
愛しているからこそ、憎む。
見切ったからこそ、庇う。
どちらが正しく、望ましいのかは定かではない。
しかし、どちらも完全に徹し切れていないところが人らしかった。
憎んでいても、滅ぼそうとしない。
見切っていても、執着を捨てない。
曖昧さのない一徹さが『潔さ』とされて美徳とされるが、提督は潔い人間などはこの世には居ないと考えている。
一方を見ているということは真逆であるもう一方を背に抱えるか、或いは捨てているということであり、その決断に後悔こそ抱かないものの残執はある。
彼自身、あの時艦娘と呼ばれる彼女らの命を―――彼自身がそうなるこも望んでいないにも関わらず―――背負ってしまった提督としての職責を全うする為、そして自分が自分たちの為に傷だらけになりながらも戦ってくれた彼女らを見捨てると言う罪悪感に耐えられないことを知っているが為に、人を敵に回した。
後悔はしていないが、あの時に失われた絆も確かにある。
それを懐かしむのは、潔くないというものだ。しかし、彼は懐かしまずにはいられない。
捨ててきた物と言うのは、時として残酷なまでのきらびやかさを纏うものである。
それを目にして懐かしまないほど、彼は達観できていなかった。
「感情というものは、本当に不思議なものよ。鉄の塊だった頃は知らなかったから、まだまだわからないことが多いけれど、これだけは言えるわ」
「俺も言える。でも、後悔はしないように生きてる」
彼らしからぬ男らしい言い切りにビスマルクが提督の顔を覗き込むと、そこには案の定の苦笑があった。
「……んだと、思う。だといいな、かも知れない。でも、見捨てたくは無かった」
「それでこそ貴方、というものじゃないかしら」
「かもな。できればカッコ良くなりたかったんだが」
気の強さ、誇り高さと、明敏さに、高貴な血が醸し出す気品。
これら四個の題目を与えられた神が彫刻したならばこのような仕上がりになると確信を抱かせる美貌に母性愛を滲ませながら微笑し、ビスマルクは軽やかなステップを踏む。
カン、カン、カン、と。
ハイヒールが甲板を叩く硬質な音をリズミカルに響かせながら、ビスマルクは提督の正面に回り込んだ。
「凡庸ながら、譲れないものがあったのでしょう?」
「そ。せめて職責だけは、って言うことだけで、カッコ良さなんかありゃしないさ」
「凡庸な意地、いいじゃない。私は格好良いと思うし―――」
美貌に竦んだ提督の左横を通り抜けざまに、ビスマルクは密やかに呟いた。
「―――意地を貫く姿は、私、とっても好きよ」
秘事を囁く乙女のような頬の赤みと、僅かに震える声を必死に整えるあまりに上擦ったような、そんな声。
それらには気づかず、思わぬ言葉と常の健康的な色気とは違った艶やかな色気に数瞬硬直した後、バネ仕掛けの人形のように背後へ振り向く。
潮風に靡く金髪が、やけに鮮やかに目に焼きついていた。
そして、一方。
「…………変な声になってた、わよね」
告白である、つもりはない。ただ、態度だけで示していた好意を表に出しただけ。
告白はもっと盛大に、明確にやる。曖昧さは、性に合わない。
少し戸惑ったような反応には、いつもの通りの態度で応えればいい。そうすれば、彼は自分を『己に対して好意を抱いているか、いないか』という境目に分類するはずだ。
完全に分類されては、一挙手一投足に目を向けられることはほとんど無い。曖昧だからこそ、目に止まる。
「問題は、私といったところかしら」
私室の扉に背中で凭れながら、胸に手を当てて動悸を冷ます。
「気張りなさい、私」
まだ僅かに赤味がさしたままの頬をピシャンと両手で叩き、気合を入れ直した。
さあ、勝負はこれから。
戦場での口癖であるそれが、心の中で反芻されていた。