提督と加賀 作:913
赤城たちが去って、二時間程経った後。
少し続いた沈黙を打ち破るように、真面目な加賀に適当な話題を振ることに定評がある提督は口を開いた。
「ねぶるって、さ」
「?」
ねぶる。九州あたりの方言らしい。舐めるとほぼ同義。
頭にクエスチョンマークを浮かべながらも律儀にその言葉に対しての情報を脳内にあるだけ掻き集めた加賀は、一つ頷く。
何が来るのかわからないが、意味さえわかっていれば完全にわからなくなる、ということもあるまい。
彼女は、ごく常識的にそう思っていた。
「エロいよね」
「……え?」
「いや、だからさ。ねぶるって、エロいよね」
意味がわからない。
加賀の頭を、理解不能という四字がよぎり、埋め尽くす。
ねぶるの何がエロいのか、加賀にはまるで理解できなかった。
「加賀さんをねぶりたいです」
仕事に疲れた男特有の何も考えていない発言が飛び出し、加賀は更に困惑した。
最低限の嗜みとして香水くらいは付けたいと思っているが、なにせそのたぐいの嗜好品をつくる余裕がない。
それに、あったとしても値が張り、とても手を出せたものではない。
冬だから汗はかいていないと思いたいが、好きな人の前で道着の襟元を嗅いでみるわけにもいかなかった。
「……私、何の味もしないけれど」
どこをねぶるのか、わからない。
わからないが、提督がしたいならさせてあげたい。
だが、少し不安でもあるし、恥ずかしくもある。
少し怯みながら、加賀は健気にも姿勢を正して提督に向き直った。
彼女は基本的に身体を触られても、『大概にして欲しいものね』と―――つまり、程々にしてくれれば触っていいと言っていた。
即ち、『仕事にならないまでに滅茶苦茶しないならばお触りオーケー』である。
この本意を察知したというわけではなく、ただ単に辛抱たまらなくなっただけだが、以前の提督は半年に一回程の頻度で故意にお触りを求めてくる傾向にあった。
最近踏んだり、膝枕をしたり、計らずも添い寝できた、というようなことはあったが、八ヶ月前のように『加賀さーん!』とか言う喚声と共にアルコール臭が漂う突撃を喰らって臀部を引っ叩かれてから、とんとそのようなことはなかったのである。
(流石に動揺して、蹴り飛ばしてしまったからだと思っていたけれど)
自分は別にお触りは禁止していない。
ただ、事前に触ると言ってもらわないと、こちらも驚く。
それに、恥ずかしさに耐えるにも事前のシュミレーションが大事なのだ。
恥ずかしさのあまり蹴り飛ばしてしまったのは、その辺りが原因である。
酔っていたこともあって、その滑らかな蹴りで気絶した提督は酒を呑んでからの記憶を無くしてしまったらしいという報告を受けて、加賀は随分気に病んでいた。
「……ねぶる?」
「い、いや」
前回の臀部引っ叩き事件は、提督も加賀から『こういうことがあった』という形で聴いている。
流石に、提督も自分の頭が仕事のしすぎでおかしくなっていることを自覚し、慌ててそれを取り止めた。
「ちょっと頭がおかしくなってた。変なこと言ってごめんね」
「……別に、いいのだけれど」
触られるのは、嫌ではないのだ。嫌だと思ったら、海に投げ入れている。
だのに、臀部を引っ叩かれた加賀は叩かれた瞬間に少し艶やかで甘い吐息を漏らし、若干の痛みと喜びに思わず片目を瞑って顎を上に逸らしただけだった。
後に蹴ったが、それだけだった。
常に妄想の種にしてきた大破状態で骨が軋むほど抱きしめられた案件といい、加賀は提督にならばいじめられるのも許容できる。
と言うよりは寧ろ歓迎していた。
(そんなことは無いと思うけれど、私は痛いのが好きなのかしら)
負傷した時などは、目の前がチカリと燦めく程急激に頭に血が昇る。
だから、恐らくはそのようなことはない、はずだった。
結局、加賀の中では『何にせよ、提督が自分に構ってくれたから嬉しかったのだ』というところに落ち着く。
これも、割といつものことだった。
「休憩しよう。これ以上続けたら、何か意味わかんないこという自信がある」
「そう」
微かに吐いた息と共に漏れ声が、たまらなく艶めかしい。
無意識だろうとわかってはいるが、加賀を愛している提督にとってはその無意識かの些細な動作ですらドキリとしてしまう。
肌が、雪のように白い。
気候が近頃おかしくなっているこの世界では、旧フィリピンでも豪雪が降っていた。
「このままだと、歩けない程度に積もるね」
「はい」
カーテンから少し窓の外を覗かず、提督は異能で景色を感知して感想を述べる。
深海棲艦が出現してから発言した異能は、もはや眼で見たり鼻で嗅いだりすると同様に、自然に彼の第六感として備わっていた。
と言っても、少し張り詰める程度に、今は寒い。
積もるのは見なくともわかる程だが、歩けない程度に、と言ったところに彼の特異性が表れていると言えるだろう。
彼は視界が潰されても、全く日常生活に支障をきたさない稀有な人物なのだから。
「あ、そうだ」
「?」
「ボランティアしよう。街の雪もさ、掻いちゃおうよ」
フィリピンには艦娘のみが住んでいるわけではなく、日本国民も住んでいた。
資源を惜しみなく使って明石の工廠で大量生産された水耕プラントや人造蛋白プラントなどを使い、本土の様に餓えてはいない。
寧ろ、配給制だからこその食生活が完全に補償されているおかげで嗜好品の生産が進んでいる。
香水などはまだまだ値が張るが、ほそぼそと作られているのが現状だった。
一度まっさらな廃墟にされただけに一から街区画を整備でき、農業用区画や畜産用区画などに本土の生存競争で敗れた者たちを入植させて自給自足を行っていた。
もっとも、人の手で作る野菜も肉も、美味いとはいえ嗜好品。自給自足できている主な要因は水耕プラントや人造蛋白プラントなどがフル稼働しているからである。
つまり海軍が、と言うよりも提督率いる比島鎮守府がこの比島に住む人々の最低限の、だが本土ではそれすらも難しい暮らしを支えていた。
だから別に艦娘との関係は険悪と言うわけではないが、良好とも言い難い。
生きていくに困っていた人間が生きていくに困らない食生活を保障されたにも関わらず彼らの不満がまだあるのは、政治における区画割り、入植者の選別権などを海軍に牛耳られているからであろう。
誰にでも言えることだが、欲望とは際限がないものなのだ。
故に謂わば、普通、という線を挟んで無関心でいるような関係である。
個性派揃いの艦娘と、恨み骨髄な古参の加賀等を抑えたり宥めたりし、大本営との間を取り持ってきた調整役たる提督としては、この関係を少しでも良好な―――とまではいかずとも、マシなものに変えたかった。
「反対です」
「え、なんで?」
「一度こちらが雪掻きを手伝えば、今度積もった時に『なぜ手伝わないのか』と言われるでしょう。つけあがらせない方が懸命よ」
頭から人の自立心と善性を信じていない加賀の言葉に、提督は少し困ったように笑う。
それはその通りだと思うし、自分も欲望には限りがないことだとわかってもいる。
なにせこの美人の側に居て、少し声をかけていただけるだけでもありがたかったのに、今ではお触りをしたいと思ったり、ねぶりたいなどとトチ狂ったことを言い出す始末。
そのような人間が、彼の一番身近に居た。
と言うより、自分である。
「そ、そうですね」
「欲望には際限がないわ。私も夢のようなことを一度でもしてもらったら、またして欲しいと思うもの」
「……なんか、やけに実体験有りげな言葉だね」
「…………いつもそう思っているから、当然よ」
やっぱり、国防を全て艦娘に依存しているから、だろうか。
深海棲艦と互角に戦えるのが彼女たちだけだとわかってきた最初の頃、彼女らはまるで賓客のような待遇を受けた。
三食はまだまだ今に比べたら安かった―――とはいえ、あたかも神に接するようにして、高級品であることは変わりなかった天然の肉が付き、米や野菜も存分に饗す。
それが量産可能であり、人に従う者であるとわかってから、熱い掌返しを自分達はやった。
神は隷僕になったのである。
人の抱く感情は、守ってくれるだけで有り難いと言う素朴な感謝から、守るのは当然だと言う傲慢に変わったのだ。
「ごめんね、加賀さん」
「……?」
何で身を切られたように痛切な表情を見せて彼が謝るのか、加賀にはわからない。
提督からすれば神から隷僕へと貶めた人間という存在を、それでも守ってくれている艦娘と言う存在に対する謝罪と感謝であるが、加賀は彼の思考を覗けない。
唐突に謝られたようにしか、感じることができなかった。
「……何を、謝っているの?」
「君たちに生死が賭かる程の迷惑をかけている、ことに対して」
加賀には、わからなかった。
この君たちが、という表現が艦娘と言う全体を表していることが、わからなかったのである。
「……よくわからないけれど、私はやりたくてやっています。貴方は謝るより、お礼を言って欲しいわ」
そして、できれば褒めて欲しい。
撫でて、腰の辺りに腕を回してもらう。
耳元でありがとう、と呟いてもらって、軋むほどに抱き締めて欲しかった。
だが、提督はそう大胆なことが出来るわけではない。
ちらりと加賀を見て、提督は俯く。
どうしよう、と言うような戸惑いを見て、加賀はぺこりと頭を垂れた。
撫でろ、と言うのである。
癖っ毛がぴょこりと跳ねている加賀の柔らかな黒髪に手を添え、提督は恐る恐る、優しく撫でた。
「……ありがと。今までも、これからも」
加賀は、そうされるだけで幸せだった。