「ふふん、これでバッチリ」
モニターの電源を入れ、ヘッドホンをかける。
私、雪ノ下陽乃は退屈していた。
2月下旬、大学は春休みに入り、最初の何日かは友人たちと普通の大学生が過ごすような春休みを過ごしていたわけだけど、それももう飽きちゃったんだよね。
ちょっと前までならこんなときは雪乃ちゃんや比企谷君をからかっていたんだけどなぁ。
バレンタインデー以降、比企谷君たちの関係に何か進展があったようで雪乃ちゃんも少し雰囲気が変わった。変わったというのは悪い方ではなく良い方にだと思う。
流石にここまでいい流れで来ている子たちを邪魔するのは気が引けるから今までのようなことはせず、これからは温かく見守ってあげようと思ったわけ。
「さてと、どれどれ……そろそろ放課後だよね」
さっきつけたモニターの画面には奉仕部の部室が映し出されている。彼らを見守るためにはどうしたら良いかと考えたとき私は、「奉仕部に監視カメラと盗聴器を設置しちゃえばいいじゃない」という考えを思いついた。こうすれば静かにあの子達を見守っててあげられるしね!
思いついたら即行動、雪ノ下建設の提携している○ルソックから監視カメラをうば……、頂き、盗聴器は自分で作ってみた。それから総武高に夜中にしの、なんやかんやして部室にカメラと盗聴器を設置したのだ。
しばらく誰もいない部室を眺めていると、カチャッという音が鳴り扉が開かれた。扉の向こうから現れたのは雪乃ちゃんだ。
雪乃ちゃんはそのまま扉を閉めてスタスタと歩き、ポットの電源を入れて窓際の席に着く。鞄から文庫本を取り出し読書を始める。
「ん~、雪乃ちゃん可愛いし、見てるのはいいんだけどやっぱり何かないとつまんないなぁ」
読書しているだけだとやっぱり退屈してしまう。何かないかな、なんて思っていると雪乃ちゃんが立ち上がり、ポットを確認した。どうやらお湯が沸いたようで紅茶の準備でもするのだろう。やはり他に比企谷君とか来ないと暇そうだなと思っていた時だった。
雪乃ちゃんがボソッと『比企谷君の湯呑……』と呟くと置いてあったパンさんの絵柄の湯呑を手に取り眺め始めた。うん? 比企谷君の湯呑なんて手にしてどうするんだろ。
「……えっ!?」
少しの間、比企谷君のものと思われる湯呑を眺めていた雪乃ちゃんは、何を思ったのか急にその飲み口をぱくっと口にくわえたのだ。状況がよく理解できずに呆然としていると『ふふっ……間接キスね……』と雪乃ちゃんが呟いた。いやいやいや、え? 雪乃ちゃん、いつの間にそんな子になっちゃったの……? こんなことする雪乃ちゃん、お姉ちゃん知らないんだけど!?
おかしい、最近雪乃ちゃんが良い方向に変わっていってくれてると思ったのに……、これ、ただの危ない子だよ? 可愛いからまだ許されるかもしれないけど。
それから雪乃ちゃんはその湯呑に紅茶を入れて飲み始める。飲んでいる途中に『やっぱりこの湯呑で飲む紅茶は特別美味しいわね』なんて言ってた……、ダメだこの子、早く何とかしないと……。
さっきまでは軽い気持ちで見てたのに今はもうなんか頭を抱えながら見てる。雪乃ちゃんは紅茶を一口飲むと飲み口を少し回転させながら飲んでいた。もうこれは完全に手遅れかもしれない。
そう思った時だった。奉仕部の扉が開かれ、比企谷君が現れた。ちょうど紅茶を飲み終えた雪乃ちゃんは、持っていた湯呑を自分の後ろに隠す。
『ど、どどどどうしたの、比企谷君』
『いや、どうしたのって部活に来ただけなんだが』
そう言って鞄とマフラーを置いて席につく。
『そ、そうね、そうよね』
雪乃ちゃん動揺しすぎでしょ……、いやまあ、それだけのことしてたけどさぁ。
『今、紅茶を淹れるわ。由比ヶ浜さんはどうしたの?』
『おう、さんきゅ。由比ヶ浜なら葉山たちとまだ話してる。長くなりそうだから先にきたわ』
『そ、そうなのね』
まだ動揺している雪乃ちゃんがカメラからでもわかるぐらい震えながら紅茶を彼の湯呑に入れて渡す。それを手に取り、一口飲むと、『やっぱ、美味いわ』と感想を言う比企谷君。まさか自分が意図せず関節キスをしているとも知らずに。しかも濃厚なやつ。……関節キスで濃厚って何? 飲み口舐め回してるとかそんな感じ? ちょっと無理。
比企谷君が紅茶を飲んでいる間、雪乃ちゃんは彼の口元を見ているようで頬を赤く染めていた。普通だったらこの表情を可愛いな、なんて思うとこなんだけど、さっきの見ちゃうとねぇ……。
『そ、そういえばお茶菓子を切らしていたわね、ちょっと買いに行ってくるわね』
『お、おう。じゃあ留守番してるわ』
二人でいるのが気まずくなったのか雪乃ちゃんはそう言って部室を出て行ってしまった。
「んー、比企谷君をからかうのは面白いけど一人の比企谷君みてもなぁ……」
誰かが来るまで暇でも潰してようと思い、近くにあった文庫本を手に取り読み始める。何ページか読んでいるとヘッドホンから『ふぅ、ふぅ、ふぅ』という声が聞こえたので比企谷君が何かしているのかなと思ってモニターを見てみると……腹筋をしてた。……はい? なんで彼は腹筋してるの? どこかのサイトでひっかかっちゃって罰として腹筋でもしてるの? もうはるのんわかんないよ?
『ふぅ……あっちいな』
何回やっていたかわからないが彼はそう言うと上着を脱ぎ始めて上半身裸になった。比企谷君の肉体は意外にもかなり筋肉がついていて腹筋も見事にわれている。え、何? ちょっとかっこ、いやいやいや。イメージと違いすぎるでしょ! てかなんで服脱いじゃってるの!? 今2月だよ? 寒くないの!?
『おっし、あれやるか』
そう言って彼は急に逆立ちをし始めた。いや、本当になんで? しかもそこから彼は逆立ちをしたまま腕立て伏せをし始めたのだ。
私は呆然としながらその光景を静かに見守っていた。いや、それが目的だったのかもしれないけど、こんなの私の思い描いてたのと全然違うんだけど!?
『おわっ!?』
何回も逆立ちでの腕立て伏せをしているとバランスを崩してしまったのか比企谷君は背中から床に腰を打ち付けた。
「ちょっ、大丈夫なの!?」
思わずそう言ってしまったが、もちろんその言葉は彼には届かない。
『ってぇ……。こりゃやっちまったかな。保健室で湿布でももらってくるか……』
うん、ダメなんだね。
筋トレをして熱くなったのか、タンクトップだけを着直して部室をあとにする比企谷君。いや、待って? 今普通にスルーしそうになったけどなんで比企谷君タンクトップなの!? すっごい似合わないんだけど! 変、すっごい変!
そんなツッコミを入れていると保健室に向かったのだろう部室には既に比企谷君の姿はなかった。
また部室に誰もいなくなったのでさっき読み始めた文庫本を再び読み始めようと思った時だった。
『やっはろー!』
この声はガハマちゃんか。本当にいつもあの挨拶なんだね。
『あれ? 誰もいないのかな』
辺りを見渡して一人呟きながら席に着く。
『うーん、ゆきのんとヒッキーの鞄はあるし、どこか行ったのかな?』
ちょっと寂しげな表情をするガハマちゃん。あらやだ可愛い。雪乃ちゃんとは違った可愛さだよね。
さっきまで濃すぎるような映像を見させられていたせいかな、なんかガハマちゃんを見てると癒されるなぁ。
『あっ、ヒッキーの上着……なんであるんだろ?』
彼がさっき脱ぎ捨てた上着に気づき手に取るガハマちゃん。たたんであげるのかな? なんて思っていた時期が私にもありました。
ガハマちゃんは比企谷君の上着を手に取ると上着の脇の辺りを顔に押し付け始めたのだ。
『ヒッキーの上着……えへへ。ヒッキーの匂いがするよー』
何度も何度も顔に押し付けてクンクンとまるで子犬のように匂いを嗅いでいる。
「ちょっと待って!? この部活本当に大丈夫なの!?」
先ほどからのあまりの異常な光景に私は柄にもなく大きな声を上げてしまう。いや、だってこんなの絶対おかしいよ!?
それからもずっと上着に、というか主に脇の下辺りを顔にスリスリと擦りつけて甘い表情を浮かべるガハマちゃん。途中、『あ、よだれ付いちゃった』とか言ってたけど、もうそれただの変態さんだよ! いや、ね? 雪乃ちゃんの時も言ったけどさ、確かにあなたたちは可愛いよ? でも、でもその可愛い表情浮かべてる理由がおかしいよね!?
『あ、電話だ』
上着を置いてポケットから携帯を取り出して話し始めるガハマちゃん。
『もしもし、あ、ゆきのん? うん、うん、わかった、今行くね!』
雪乃ちゃんに呼ばれたのだろうか。電話を切り、比企谷君の上着を名残惜しそうに見つめてガハマちゃんは部室をあとにした。
「はぁ、流石に疲れるね、これ」
軽い気持ちで盗撮盗聴とかしようと考えちゃダメだな……。私の想像してたような光景なんか微塵もなくて未だに困惑している。だってあの3人がだよ? 1人の時はなにあれ!? どう考えてもおかしいよ!
そう思ってモニターの電源を落とそうとした時、またもや奉仕部の扉が開かれ『こんにちはーっ』という声とともに亜麻色の髪の少女が入ってくる。いろはちゃんだ。
『あれ、誰もいないのかな』
そう言って、さも当然のようにいろはちゃんは比企谷君の席に座った。そしてガハマちゃん同様に比企谷君の上着を見つけるとクンカクンカと匂いを嗅ぎ始めたのだ。何これ流行ってるの? それとも比企谷君の上着が余程いい匂いでもするの? 今度私も嗅いでみようかな……。
『なんかいつもの先輩の匂いと違う……、女の匂いがするんだけど』
うん、さっきガハマちゃんがあなたと同じことしてたからね。ガハマちゃんの匂いだね。というかそもそもいつもの比企谷君の匂いって何かな? いつも今みたいなことしてるんだね、絶対そうだよね?
比企谷君の匂い以外に女の子の匂いを感じ取ったいろはちゃんは、急に不機嫌な顔になり、席を立つといきなり服を脱ぎ始めた……って、えええ!? なんでそうなるの!? 最近の高校生事情が私にはもうまったくわからないよ!? 何? 私がもう歳をとりすぎちゃったの? 今の高校生はもうみんなこんな感じなの!? ていうかいろはちゃん、今ここで誰か来たらどうするの、今、下はスカート履いてるけど上はもうブラ1枚なんだけど!?
薄いピンクのブラを着けただけになったいろはちゃんは、そのまま比企谷君の上着を着ると、自分の匂いを上着に染み付かせようとするかのように自分の肌を擦りつけている。
『ふふんっ、これで先輩の匂いは私の匂いで上塗りされましたね。あ、ていうか今なんか先輩に包まれてるみたい……』
もうだめねこの子達、本当になんとかしないと……。温かく見守るとかそういうレベルじゃないよね――
それからいろはちゃんは満足したのか上着を脱ぎ、自分の制服に着替える。誰もいないのがつまらなかったのか、そのまま部室をあとにするとちょうど入れ替わりで雪乃ちゃんとガハマちゃんが戻ってきた。
『そういえばヒッキーどこにいったか知ってる?』
『いえ、私が買い出しに行く時は留守番をしてると言ってたのだけれど』
二人はどうやら比企谷君がどこにいるか気になるみたい。まさか誰もいないところで逆立ち腕立て伏せをして、態勢崩して怪我したなんて思わないよね。
『なんだ戻ってたのか』
しばらく雪乃ちゃんとガハマちゃんの二人の、のほほんとした光景を眺めていると保健室から比企谷君が戻ってきたようだ。二人の時は本当に平和なんだねこの部活。
『ところで比企谷君、なぜあなたはこの寒い日にその……タンクトップ一枚なのかしら?』
『そうそう、なんで!?』
二人が比企谷君の服装に対してツッコミをいれる。そりゃそうだよね、普通に考えて冬にタンクトップ一枚って。それになんか比企谷君がこの格好してるとただの変質者に見えるもん。
『いや、まあ、あれだ。いろいろあったんだよ』
筋トレをしていたというのが恥ずかしいのだろうか、曖昧に答えて自分の上着を手に取って着替える。
『ん? なんかこの上着、すげー甘い匂いがするんだけど? それになんか温かいし』
比企谷君の言葉に一瞬体がビクっとなるガハマちゃん。うん、自分の匂いだと思うよね、さっきあんなことしてたしね。でもね、お姉さん知ってる。それいろはちゃんの匂いだよ。
『あ、甘い匂いってあたしの匂い……?』
あ、聞くんだこの子。
『いや、由比ヶ浜の匂いじゃないな。まあ、別に臭いとかじゃなしいいか。むしろいい匂いだし』
あ、いいんだね。それとガハマちゃんの匂いじゃないって即答しちゃうのもお姉さん何かひっかかるんだけどな? 気にしすぎなのかな私が。そしてその上着をちょっと前まで、いろはちゃんがほとんど裸で着てたって知ったら比企谷君はどんな顔するんだろうか。
部室に3人が揃うとさっきまでの濃い光景とは違い、のんびりとした退屈な時間が過ぎていく。雪乃ちゃんと比企谷君はずっと読書してるし、ガハマちゃんは携帯を弄ってる。そのまま下校のチャイムが鳴り、解散しようとする3人。そこへ、この部活の顧問である靜ちゃんがやってきた。
『雪ノ下、帰るなら戸締りは今日は私がやっておくから大丈夫だ』
雪乃ちゃんが『わかりました』と返事をすると3人は仲良く部室を出て行く。
ところで、靜ちゃんは何をしに部室に来たんだろうか?
『最近は校内でタバコ吸えないからなぁ……』
窓を開け、タバコを吸い始める。あ、これダメな大人だ。部室を喫煙所にしてるよ、この人。
『ん、比企谷のやつマフラーを忘れてるじゃないか』
タバコを吸い終わると、どうやら比企谷君が忘れたと思われるマフラーに気づき、手にとった。もうなんか今までの映像とか見てると大体想像できちゃうんだけどね? まさかね、教師が……あぁ、普通に首に巻きつけちゃったよ。
『比企谷の匂いだな……』
顧問までこれじゃあねぇ。先ほどまでの映像に比べるとたかだかマフラーを巻いただけなのでそんなに驚くこともなく、今日はこれでおしまいかなと思ったときだった。
『平塚先生、寒そうですね。俺のマフラー使ってくださいよ』
「え?」
靜ちゃんが急に独り言を言い始めたのだ。しかも何故かたぶん仮想比企谷君。
『お、おい。やめないか。生徒のものを借りるなんて……それに君の方が寒くなってしまうだろ?』
『俺は平気です……それよりも平塚先生が寒い方が俺には耐えられませんよ』
『ひ、比企谷……』
『比企谷なんてやめてくださよ。八幡って呼んでくれませんか?』
『じゃ、じゃあ、私のことも静、と呼んでくれないか』
『静、好きだよ……』
『キャーーー、キャーーー』
「…………」
ありのままのことを話すよ? 急に靜ちゃんが独り言を始めたと思ったら、何故か比企谷君に告白される感じのシチュエーションで一人演技して、しかも最後は自分で言った台詞で恥ずかしがり、両手で顔を覆い「キャーキャー」叫んでる。
もう私には何がなんだかわからなくなり、そのままモニターの電源を落とし、それから私が奉仕部の部室を盗撮することはなかった――