滝の音が聞こえる。
河東さざめはとある日の午後、竹で作られた釣竿を手にして森を歩いていた。白い羽織に袖口には刺繍。裾が彼女の歩みに合わせて揺れている。
腰には魚籠(びく) 竹で編まれたしっかりとしたつくりの物だが、彼女が作ったのではない。これは人里で買った物である。ただし腰に括り付けた紐は鮮やかな藍色。これはさざめが「色をつけた」物である。
さざめの頭部は雪の結晶のような刺繍の入った黒い布が巻かれている。刺繍の部分は白の糸で縫い込まれている。それに黒い髪。
さざめは大きく欠伸をしつつ、のんびりと歩いている。周りの木々の合間から漏れる日の光が暖かい。たまに鳥が鳴いている声を聴きながらさざめは散歩しているのだ。ただ、目的はある。説明するまでもないかもしれない。
しばらく歩くとざあと水の落ちる音が強くなった。さざめは木々の枝をかき分けて、そこに向かう。そこは彼女の「いきつけ」である。
突然目の前が明るくなった。さざめは眼を細めて、歩みは止めない。
閉じた視界は真っ暗。そのまま少し歩く。気まぐれである。
足で小石を蹴る。かつんと音がした。
頬を冷たい風が撫でる。水気をはらんだ心地よいもの。ちょっとだけさざめの口元がほころぶ。彼女はそうしてからゆっくりと眼を開けた。
そこは広い水辺だった。周りを森に囲まれた自然のプール。木々の緑が水面に映っている。
一方は断崖絶壁。ただしそこから止まることなく流れてくる、白い滝。ざあと止むことのない音が飛沫を立てている。
「よーし。今日はなんか釣れそうな気がする」
さざめはやる気をだした。もちろん彼女の目的は釣りである。彼女の多い趣味の一つであった。「今日は」などということでそこまで釣りの腕前は期待できそうにない。
水辺には大きな岩がある。人が数人寝そべることが出来そうなものだった。それはさざめの特等席である。彼女は「よっと」と声を出しながら、ジャンプして飛び乗る。岩はその下半分を水に浸かっている。絶好の「釣りスポット」である。
さざめは適当に昨日思いついた餌である「米つぶ」を釣り針にかけて、しゅっと釣竿を振る。白い糸が宙を舞い、ぽちゃりと水の中に吸い込まれていく。せっかちな彼女らしい動きだった。余談だが餌にきゅうりも考えたがやめた。自分で食べたいからだ。
彼女はそうしてから岩の上に腰を下ろした。さあいつくるかと言ったように真剣に釣り竿を両手で持っている。どんな大物でも小物でも吊り上げてやるつもりなのだろう。ただ彼女の忍耐力は仕立ての仕事以外はほとんど役に立たない。
しばらくしてさざめは釣り竿を立てたまま、岩の上で寝そべっていた。空を見上げると滝つぼの形がそのまま空の形になっている。青い空に雲はない。一羽の鴉天狗が飛んでいくのが見えたが、さざめは気にしない。
どうせ趣味の一貫である。何も急ぐことはない。せっつくこと多々あるとしても。
風がふく。さらさらと木から落ちてくる葉っぱ。さざめの近くに舞い降りたそれを彼女は指でつまんで顔の前に持ってくる。青々とした葉である。少し外側がぎざぎざしている。人間よりは長く生きていてもさざめは葉の『親』の名前を知らない。
指につままれた葉が揺れる。さざめの小さな指にちょっと力が入る。
みるみるうちに葉っぱが「紅葉」していく。緑から黄色、そして鮮やかな赤色。季節を先取りしたような光景。それはこの少女の「色を付ける程度の能力」でできたこと。平たく言えば色を付けただけである。
「ごめんよ」
のんびり謝りながら葉っぱを元に若々しい緑に戻してあげる。それからぱっと話すと風に乗って、水辺に降りて行った。水面に浮いた「彼」は緩やかな流れに乗って、すうと山を下りていく。どこにいくのだろう。
滝の音だけが残った。さざめは少し眠たい。昨日は妙な「人間」がやってきて仕立ての仕事を夜遅くにやる羽目になった。彼女はまた大きく欠伸をする。空に向けて。全てがのんびりと過ぎていく。
だが、ふと釣り竿が揺れた。水面の糸が引かれている。
「おっ!!」
急に元気になったさざめが釣竿を握る。その瞬間強い引きを感じた。実際釣り糸が引かれて、竿が湾曲している。
「こ、こいつはおおものだ! に、にがすもんか」
さざめは目いっぱい力を入れる。妖怪の彼女が力をいれても「おおもの」は強い。さざめは立ち上がって両足で踏ん張る。それでも引き負けている。
「え、え? な、なんだ。ちょっ、やだ」
最後のほうは少女らしい声を出してしまった。彼女の顔は紅潮している。
そして、足が滑った。引きに負けたともいえる。さざめは岩の縁に立っていたから、勢い余って空中で一回転。さらにローリングしながら水中へざぶんと飛び込んだ。幸い滝壺は深い。頭を打つようなことはなかった。
さざめは流石に水中でおぼれるようなことはない。服の重みに負けないように足をばたつかせて水面に上がる。
「ぶはあ。な、なんだってんだ!」
黒髪が濡れてきらきらと光る。頬を水が落ちる。彼女はあわててあたりを見回す。あれだけ強い引きならば魚ではないだろう。もしかしたら危険な妖怪かもしれない。そう考えたのだ。
「あっーッはッはッ!!」
わざとしい笑い声がする。それでもさざめは相手の正体が直ぐに分かった。知り合いだからである。
「く、くっそ河城にとりぃ! どこだっ!」
「どこも何も目の前さっ!」
さざめは声を真上から感じる。見上げるとさっきまでさざめが座っていた岩の上で仁王立ちしている青髪の少女がいた。緑の帽子をかぶって、赤い珠のついた髪飾りをつけたツインテール。上下の服は青く、スカートには太陽のポケットがついた奇妙なつくり。
胸には鍵。そしてどやっとした憎たらしい顔。彼女こそ河童である「河城にとり」であった。
さざめは抗議する。
「くっそー。さっき水中から引っ張ったのもあんただな! 河童のくせして魚の振りしやがってぇ!」
「相変わらず口が悪いなぁ。それに河童の癖してって……ま、いいや」
「いや、良くない!!」
「わかったよ。今日はあんたにお仕事を頼みに来たのさ。報酬はちゃんと払うからそれで勘弁してくれよ」
「……しごと……?」
「そういうこと。ほら、早く上がりなよ」
「しごとを頼みにきて、どこに水に落とす意味があるんだっ!」
☆★☆
「それで何を仕立ててほしいいんだ」
水から上がったさざめは単刀直入に聞いた。彼女の仕事とは「仕立て屋」であること以外ない。それ以外のことを彼女はあまりうまくできないと自覚しているから、迷わない。
場所は先ほどの岩の上。にとりと向かい合わせに座ってもまだ広い。その青髪の河童は背中に背負ったバックをごそごそとして、とある「生地」を取り出した。青い生地である。厚手であるが艶があり、さざめが触ってみると手触りもいい。
「へえ、良い生地だね。これで何を仕立てればいいんだ」
「まったまった。これは我々河童が新しく作ってみたものなんだ。撥水性も十分で頑丈。それに軽くて手触りも抜群のすぐれものさ。ただ、頑丈すぎて針も通さない」
「針を通さない? なんだいそりゃあ」
にとりは手に持った青い生地をさざめに渡す。確かに軽いとさざめは感じた。それでもにとりの言う通り頑丈そうである。
「そこが今回のさざめに依頼のミソなんだけど、これを使って河童の衣服を一着用意してほしい。どうしても必要だからね」
「いやいや。待ってくれよ。針を通さないんじゃどうしようもないじゃないか。ワタシの能力は知っているだろう? どうしろっていうんだ」
「へえ」
にとりはにやりとする。ゆっくりとさざめに見せつける様に。
「できないんだ?」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
にとりの魂胆は単純である。さざめを怒らせて焚き付けようとしているのだろう。それはさざめにもわかる。だが、我慢できなかった。彼女は胸を張って啖呵を切る。
「だ、誰に言ってるんだ! 幻想郷で私以上の仕立て屋がどこにいるんだ! やってやる! 報酬はいつもの倍だからな。経費も払ってくれよ!!」
「おお、流石だねっ! 報酬はいつもの1.2倍はあげるよっ! ところでけいひってなに?」
「ケチ!」
「褒め言葉だね!」
静かな水辺でしょうもない言葉の応酬。それだけ仲の良い証拠なのかもしれない。二人はそれから少しの間言い合いを続けた。言い合っているのは仕事の条件についてである。値切り、値上げ無限に言い合う。
そんなこんなでさざめとにとりは肩で息をしながら向かいあっていた。
「はあはあ、に、にとり。それじゃあ報酬はいつもの1.5倍。経費は成果次第であんた持ちってことでいいね」
「はあはあ。い、いいよ。ちなみに必要なサイズは私程度と思ってくれてもいいよ。期限はとりあえず3ヶ月ってところかな……冬の前には終わらせてくれ」
二人はそれだけ言い合うとその場にへたり込んだ。疲れたのである。やっとこの水辺に静寂が戻ってきた。にとりとさざめは息を整えて、お互いに見合う。それだけで何だか笑いたくなった。
くすくすとお互いに少女らしい笑みを見せる。昔から付き合い自体は長い。
にとりは笑みをたたえたまま、立ち上がって岩の上を歩く。行くのは陸ではない、満々と清水の流れる水辺側である。
「それじゃあ帰るか。用事も済んだし……仕立て、楽しみにしているから、早く作ってもいいんだよ」
「ちょっと待った。にとり」
「ん? なに?」
「次からは水に落とすようなことはしないでくれ。ワタシの着ているのは普通の服なんだ。あんたみたいな防水なんちゃらの生地じゃない」
「ああ、そのことか」
にとりはくるっとさざめを振り返る。後ろにはきらきら日に光る水辺。それにざあと落ちていく滝。そして何か企んだ笑顔。
「さざめ。あんたは一つ勘違いしてる。竿をひっぱったのは私じゃない」
「え……? そ、それじゃあ」
「たまにはプールを掃除してやらんとってことで少しだけここにいてもらってるんだ。淡水で悪いんだけど、人里近くの川は狭いし」
「な、なにを言っているんだ? た、たんすい、っなに?」
「まあ、こういうことさ」
にとりは片手をあげてぱちんと指を鳴らす。
その瞬間、水面が大きく盛り上がり灰色の巨大な影がざばあと飛び上がった。
灰色の毛、長いひげ。体をくねらせながらさざめをちらりと見たつぶらな瞳。それは一瞬のことで直ぐに水中に戻っていった。海獣である。さざめは口を小さくあけて、しぶきを顔を受けた。
「な、なんだいありゃあ……に、にと、あ、あれ? にとり」
さざめが横を向くとにとりは既にいない。今の一瞬で水中にもぐっていったのだろうか、それは想像でしかない。さざめはふうと息を吐いて両手を組む。それから困ったように眉を寄せる。
「まったくいつも突拍子なんだからなぁ。まあ、いいや。とりあえず針が通らないと言ってたな……特別な奴を用意しないといけないのかな……それに糸も防水用のものをどっかからもってこないと。はあ、いろいろと忙しいなぁ」
ぼやきながらも空想は浮かぶ。仕事の成果を出すことは彼女にとっても楽しい。そうやって考えていると一つの答えが頭に浮かぶこともあるのだ。
さざめの脳に一つの疑問が生まれた。彼女はぼんやりとあたりを見回して、口に出す。
「ワタシの……竿……」
それはどこにいったかはわからない。だがこれから短い間に、彼女はいろんなところに行くことになった。