泥の奈落は呪詛に満ちていた。心臓を貫かれ、死体となった神父は聖杯の中へと墜落し続けていた。
上も無く、下も無く、左右が存在しない。
平均感覚が無い空間において人間の知覚は簡単に狂う。宇宙空間以上に自分が此処に居るという実感が無い暗闇の世界は、正気を保つだけでも精神が疲労する。
―――死ね―――
呪いだ。この呪いが自分を言峰士人にした。
―――死ね―――
死ねだと。何を言っている。ならば何故、あの時に殺さなかったのか。
―――死ね―――
これでは死ねない。こんな程度では死ねない。もっと、もっと、魂が潰れるには余りにも軽過ぎる。
「―――――――そうか……」
士人は既に理解していた。この呪いはもう、自分の心と乖離している。自分があの時奪われたものを永遠に理解出来ないと、彼は遂に理解した。それはつまり、喪失した自分自身を見出した事に他ならない。
泥人形と言う言葉は実に適切だ。
真似事しか出来ない不確かな空白。
知るべきことなど本当は何も無い。
この空虚な自己を実感してしまえば、既に先の真実は分かり切った末路である。後は得るだけの結果に過ぎない。
―――言峰士人は理解した。
これが、これこそが自分から中身を奪い取った聖杯の泥なのだ。
「……やっと、始められる――――」
彼は実感し、己を知った。失った物、欲しかった物、そんな事に価値は無いが意味はある。それは嘗ての自分であった。
ならば、手に入れておこう。機能せず、何も変わらないとしても、無価値な不実を心に仕舞う。
「―――
呪文を詠唱し、治癒を開始する。魔力を膨大に使った有り得ない蘇生方法。しかし、魔力源に満ちたこの世界であれば、神父程度の霊媒術の心得さえあれば実に容易かった。また、自分自身の心象風景の特性を考慮すれば、それは尚更簡単な作業でしか無い。
神父からすれば呪いなど、魔力の源でしかない。
悪魔の呪詛を飲み干す異常な魂の器こそが、固有結界という異端が生まれた大元の原因であるのだから。
「―――――――――」
士人は再度、この世界を見回した。闇と泥に、呪詛の世界。
何も無い。魔力に満ちているだけの空間。
だが、士人は其処で違和感を突然感じた。それはとても懐かしく、間違えようの無い人物の気配であった。
「―――久方ぶりだな、士人」
「
「ふむ、その通り。私は夢でも幻でも無い、お前の父である本物の言峰綺礼だ」
余りにも唐突だった。長身を包むカソックの衣装。士人の前には養父の神父が佇んでいた。
姿は死んだ当時よりも若いのであるが、確かにその人物は言峰綺礼。何も無い暗闇の泥の中、光が無い世界である筈のこの場所で確かに姿が見えていた。
「死んだと思っていたが。……ここは墓の下か?」
「肯定も否定も出来ん。だが、私の墓として、この聖杯という墓所は居心地は別段悪くは無いな」
「成る程。あの世という訳ではないみたいだ。まだここは、外れているものの現世の世界という訳だな」
此処に居たって神父は欠片の傷心も焦心も無い。死んだ養父の神父に会えた事に対する感傷も無ければ、聖杯の地獄に堕ちた現状に対する絶望も無い。
そんな息子を見て、綺礼は優しい表情で微笑んだ。愉しさと嬉しさに満ちた神父らしい笑みで。彼にとって士人と此処で再開するとは思わなかったが、予想外の事態こそ歓迎すべき変化でもあった。
「……しかし、この様なところに囚われていたとは。
泥の呪詛は何処までも陰湿なのだな。魂は言葉通り地獄送りになったのか」
「ふむ。地獄送りとは的を得ている。私もまさか死した後、ここに囚われるとは予想も出来なかった」
「皮肉なことだ。死に際の遺言を聞き、その結果再び会うことになるとは、成るべくして成った因果なのだろう」
「―――ふ。我が子ながら、実に悪辣だ。おまえの言葉を聞いていると、昔の自分を思い出して愉快な気分になる」
「……それで、今がどういう状況なのか、出来たら説明して貰いたいのだが?」
「良かろう。息子の頼みだ、父として応えるのは当然のこと」
本来ならば、感動の対面とでも言うべき場面なのかもしれない。なにせ、死に別れた筈の父と子の再開だ。
しかし、この神父二人にそんな感傷は皆無。目の前に広がる何もかもを肯定し、世界全てを納得した上で現実を生きている。ならばこそ、この度の奇跡の如き偶然も当たり前の事実。
浮かべる表情は人間味の無い笑顔。
有りの儘で愉快に愉悦を娯楽する。
言葉も最低限交わせば必要分に事足りている。お互いの感情を理解し合う必要が無いからこそ、相手の行動原理から精神を簡単に察知出来てしまうのだ。
「ここは聖杯の中。如何やらお前は泥へ取り込まれ、アンリ・マユに囚われたのだろう。
―――だが、脱出する術ならば存在している。
気が付いていると思うが、今の聖杯は外部と孔で繋がっている。
肉体を失くし、泥と化した死者である私には到底不可能。だが、生者で在るおまえであれば脱出も可能だろう」
「……そうか。
ならば、今すべきことも見えてくる」
再開の喜びも無く、神父はただ単純に今すべきことを思考する。
「―――ククク。やはりおまえは私以上に破綻している。
若い頃の私とは違い、自分で自己を見出せたからこそ、そこまでの異常な精神を理性で運営出来る訳だ」
「趣味の悪さは死んでも治らないと見える。
……実に安心出来たよ。
在り方という魂のカタチに、人は生死に関係無く縛られるのだと深く学べたぞ」
「当然だ。自分の死から学べる事柄など、終わり程度しかない。そこから悟れるのは、今までの過程による結果の見直しだ。
手に入れていた物を再認識し、其処から得られるのは自己の澱となる」
「まぁ、実際に死んだ者の言葉だ。俺としても、忘れないよう心に刻んでおこう」
「おまえは相変わらず、可愛げが欠片も無い息子だ」
「何を今更。言峰綺礼の息子としては、実に出来た神父へと育ったと自負しているのだがな」
「成る程。確かにその通りだ。……とは言え、おまえの状況を考えれば少しでも時間が欲しいだろう?
感動の再会に浸り、世間話をするのも一興だが、今は話を戻すとしよう」
「異論は無い。親子の最後として語るべきことは、
「有り難い。では、続きと行こうか」
何処か気味の悪い感情を表情に浮かべ、綺礼は澱んだ目のまま微笑む。
「まず脱出の手段であるが、これは限られている。
そも、無尽蔵の広さを持つ内部から破壊するのは不可能。物理的手段など初めから意味を成さない。ならば、この聖杯戦争というシステムそのものを利用する他ない」
聖杯を利用した脱出法。願望機としての機能では無く、これ自体を応用した理論が必要となると、数は限られてくる。となれば、士人に思い付く方法は限定されて一つの事柄が思い浮かばれた。
「―――サーヴァントの召喚システム、か?」
「ふむ。話が早くて結構」
満足げに頷く神父に、士人は話の続きを促すように見る。その視線さえ綺礼にとっては面白いのか、笑みを深めて話を続けた。
「おまえの知っている通り、サーヴァントの召喚には何かしらの触媒がいる。まぁ、孔の外部にいるあのアヴェンジャーそのものが十分触媒にもなるかもしれんが、それだけでは繋がりが不確かとも言える。例外的な内側から外側への、自分自身の召喚に確定的な道筋は無い。
故に、召喚を利用してここから抜け出すには、外へ繋がる触媒が必要になるのは分かるな?」
士人はそれに心当たりがあった。確か、あの人から貰ったアクセサリーが外部との繋がりになるかもしれない。聖杯の孔の近くにいるバゼット由来の魔術道具となれば、触媒として機能するか如何か賭けであるものの、試してみる価値はある。
……そして、神父本人は知らぬことであるが、そのアクセサリーはアヴェンジャーのサーヴァントも保有していた。
外部への触媒としては、十分以上の効果を発揮する代物である。聖杯のサーヴァントとして外に出ているアヴェンジャーとのラインがあれば、聖杯の中に閉じ込められた士人も外との繋がりを簡単に掴むことが可能となっていた。
「……おそらく、これが使える。不確かであるが、孔の位置も感覚でおおよそ把握出来た」
ポケットから取り出したアクセサリーに魔力を通す。そこから伸びるラインが、脱出口となる孔までの道を示している。
「ほう。中々に幸運が回って来たな」
「珍しくな。自分のことながら、ここまで都合が良いと後が怖いな」
「違いない。
……では、後の方法は分かっているな?」
「ああ、理解している」
ラインを紡ぎ、先を察知する。聖杯のシステムを利用する事で、孔から現世へと自分自身で自分自身を召喚する。
名残惜しさなど二人には無く、士人は死んだ父との会話もそこそこに現世へと帰る。綺礼も綺礼で、息子に人間味のある感情を向けている訳も無く、さも当然と言った姿で別れを告げる。
「これで二度目の別れとなる訳だ。聖杯が完全に壊れれば会う事も無いだろう」
「そうか。ここで会えた事自体、奇跡の様なもの。……もっとも奇跡などという言葉は、自分たちには一番似合わない言葉だがな」
「ふっ、そうだな……」
綺礼が自身の子を見る。泥よりも深い闇を宿す眼が、彼には似合わない感情で黒く淀んでいた。
「……さらばだ、我が息子。
二度目の言葉となるが、生き残れたなら世界を見て廻ると良い。この世界はお前の
「そうだな、それも楽しそうだ」
士人がポケットから取り出したアクセサリーを右手に握る。それが外界との触媒となり、彼は回路で外へのラインを感じ取った。
「……さようなら、
彼が小さく呟く。二度目となる別れの時、士人は泥から肉体を再構成させ聖杯から抜け出して行った。
―――泥のエーテルが神父を覆い、道を作り上げて行く。
彼の体が肉を取り戻していった。システムへ介入した圧迫は魂を軋ませ、想像を絶する激痛となって襲うものの、そんな程度の痛みは鍛錬で慣れている。意識するまでもなく、間違えることもなく、作業工程を完了させた。
「―――……ふむ」
息子が世界へと旅立った後の地獄、アンリ・マユの呪詛が満ちた聖杯の中。
「行ったか……―――」
暗い暗い闇の世界、一人で養子の神父がいた場所を見ながら綺礼が独り言を呟く。呪詛よりも暗い淀んだ眼がその場所を貫かんとばかりに眼光を放っていた。
「全てを悟り、尚も止まること無く進み続ける諦観無き意志。
―――素晴しく、狂っている。
故におまえは、誰も彼もが不必要なのだろう。だからこそ、聖杯に眠るアンリ・マユさえ取るに足らん些末事でしかない」
この地獄に堕ちてから、言峰綺礼は一カ月が過ぎ去っている。しかし、聖杯の中では時間の流れを感じにくく、体感的には一瞬でもあり、永遠でもあるような、狂った時間軸に囚われている。
また、言峰綺礼以外の他にも泥に囚われ、災害の時に此処へ堕ちて来た魂は多かれど、人格を保っている異常な者は他に類を見ていなかった。先程、ギルガメッシュの存在も感知出来たものの、サーヴァントであるアレは直ぐさま炉にくべられてエネルギー源と化していた。
―――例外は二名のみ。
一か月前から地獄の住民となった言峰綺礼と、五年前からここに堕ちていた一人の魔術師。
「面白い展開になってきたな。……そう思うだろう、衛宮切嗣?」
闇の奥の奥の奈落の底。そこへ響き渡せるかの如く神父の言葉が放たれた。
「――――――――――――――……」
そこには一人の男が存在していた。闇の中で確かに輪郭を形作る姿が確認できる。顔色は蒼白で血色が酷く悪い。双眼には何も映し出る事は無く、本当に死に切った屍の瞳。
その姿を見る神父が笑った。深く深く奈落より深く、闇の中で笑顔を浮かべた。
「……ああ。本当に、愉しくなりそうだ」
―――闇が支配する世界で神父の声が響く。それは何処までも不吉な韻が込められていた。
◇◇◇
聖杯が膨張する。倒されたサーヴァントを吸収した事により、さらに強大なエネルギーを得た為、向こう側に繋がる孔が深く大きく広がった。
アーチャーとセイバーの傷は増え、屍になる一歩手前。衛宮士郎は既に力尽きる寸前の壊れた機械の如く、只管に投影を続けて射出している。凛とバゼットも、視界がもはや霞んで機能出来なくなるまで衰弱している。特に凛は自分の生命力も削りながら士郎へと魔力を送っており、バゼットもバゼットで生命活動が停止するまで肉体を酷使してしまった。
―――天には黒い孔と、磔のまま眠るイリヤスフィール。
―――地には悠然と君臨する黒衣を着込むサーヴァント。
一対二の剣戟は、無論のことアヴェンジャーの方が圧倒的に優勢を保っていた。敵の二人はそもそも瀕死の傷を負い、さらに片腕が斬り落とされている。ここまで戦えている事実こそ恐ろしいまでの戦意である。
「――――んで、バゼット。そろそろ滅ぼされる心構えで出来てんのかな?」
アヴェンジャーの両手にはダインスレフとデュランダル。それに対していたバゼットは、真っ直ぐに振り抜いていた拳を脱力したようにダランと垂らす。
「……何故、フラガラックは確かに効いた筈――――!」
バゼットは確かに先程、ダインスレフを発動させたアヴェンジャーに対してフラガラックを成功させた。
「そんなの決まってんだろーがよ。短時間なら、心臓が無くても生きられる生き物だってだけの話さ」
確かにアヴェンジャーの心臓は急所の一つ。人体である限り全身の血液を循環させる臓器であると同時に、サーヴァントとしても霊核となる重要な個所。
とは言え、その定義に今のアヴェンジャーは当て嵌まらなかった。
風穴を開けられる事を予め知っていた彼は、自分自身に擬似的な蘇生を掛けておいた。つまるところ、心臓に泥を詰めておいたのだ。そして死亡する前に、準備しておいた泥で一気に心臓を蘇生させる。トリックとしてはそれだけの単純な行為。だが、それがサーヴァントして如何に規格外の外法であるのか、理解出来ない者はこの場に存在していなかった。
「まぁ、それじゃあ改めて―――
泥の魔力を限界まで注がれた魔剣は呪詛を膨らます。
「ヒッヒッヒッヒッヒ! ……あーあ、遂にこの愉しい殺し合いも終わりになっちまうのか」
アヴェンジャーを無造作に剣軍を投影し、それを雨嵐と敵に降り注いだ。士郎はなんとか全て迎撃したものの、血を明らかに危険な量で吐き出して肉体が停止した。次の瞬間には蘇生したものの、もはや剣と化した体は人間としての機能が消えて行っている。
アーチャーも投影によって援護しようとするも、アヴェンジャーの剣戟によってそれは許されない。ダインスレフによって更なる身体機能強化により、有り得ない迅さで間合いに入り込んでいる。敵が左手に持つ魔剣の一振りで、自分が持つ魔剣が圧倒的な破壊力で粉砕され、アーチャーは一気に危機へ陥った。
そして、血が吹き出た。肩から腰まで斜めに斬り裂かれた。心臓まで届いてはいないものの、直ぐに戦闘を再開できる状態では無くなった。
「……―――――!」
アヴェンジャーが攻撃行動をする事により、アーチャーによって作られた敵の死角からセイバーは斬り掛った。しかし、それは右手に握るデュランダルによって防がれる。
キィン、とセイバーは斬撃を打ち返された。刹那、彼女は敵の攻撃を直感で察知する。アヴェンジャーは魔剣により狂化された身体能力で、セイバーの想定外の筋力と速度で反撃した。
「―――
光り輝く絶世の名剣が、王の聖剣を弾き飛ばした。天使の祝福が悪魔に加護を与えたのだ。
「これで戦闘終了かな?」
「―――――……くっ!」
セイバーの前でアヴェンジャーが厭らしいニタ付いた笑みを浮かべた。下卑た表情は、まるで女を犯す前の野獣みたいに興奮した畜生だ。そして、この悪魔はそれ以上の鬼畜外道でもある。
「あぁ、そうだ。手足を捥いで達磨にした後、何も出来ないあいつらの前で犯してやるのも一興かな。
……いや、達磨にする前に普通にヤってみるかな。やっぱ世の中、効率的で生産的じゃないと回らないし。そこそこのインパクトも必要かな。
でも、より地獄の底みたいに苦しませるには……むぅ、どうすればいいのやら」
獲物を如何に料理してやるか思案し、隙だらけに見えている。しかし、その全てがアヴェンジャーと言う人物の狡猾さが見せるブラフ。更に言えば、この男は嘘をついていない。心の底から、どう苦しめて、どう犯して、最後の最期でどう殺してやろうか、楽しく堪らないと愉悦に浸っている。
「まぁ、まずは―――世界を滅ぼす景気付けといきますか」
アヴェンジャーが天使の聖剣を振り上げた。剣先には通り道にはセイバーがいる。
「―――セイバー……!」
近くにいるアーチャーが叫ぶ。既に命が削れて死にそうな凛も、息を飲んで顔を絶望に染まらせている。バゼットも士郎も、動かない体で助けようと足掻いて、結局何も出来ずにいた。
邪悪な笑みが終わりを告げる。
セイバーにその剣が降り落ちる時、誰もが彼女の敗北を幻視した。
「――――――――――あ……?」
……鎖が絡まっている。
復讐のサーヴァントは手を振り下すその瞬間―――自分が右腕を完全に拘束されている現状を察した。手に持つ聖剣ごと纏めて鎖は強く、それこそ捻り潰す勢いで巻き付いていた。
「……馬鹿、な。聖杯で何が――――!?」
振り向いたアヴェンジャーは黒い孔を咄嗟に視た。そこから自分を縛る鎖が出ているのを確認した。
「―――言峰、士人……か!」
神父服を着た男の腕が中から伸びていた。それは次第に姿を表し、両腕を使って遂に上半身まで外へ脱出していた。
「もう少し気張れよ、悪魔。俺が中に戻っても意味が成せないだろうが」
「――――ギ……!」
悪魔の唸り声。骨が砕け、肉が裂ける程の圧力が右腕に負荷された。
そして神父は力の限り、自分が握り締める鎖を引っ張った。その勢いのまま孔から飛び出し、彼は危な気も無く地面へと着地する。
……その姿は余りにも現実離れし過ぎている。無論、心臓に傷は無く、気配は生きている人間そのもの。
彼は極々当然の如く死者から生者に帰って現世へと帰還して来た。それも、聖杯の中から外部からの助けを一切必要とする事無く、だ。
「先程は殺してくれて感謝する。あれが無くば先の人生、娯楽を逃していたかもしれんのでね」
「……おいおい。マジかよ。どうなってやがる、聖杯さんよ。と言うよりもさ、アンタほんとに人間か? つーか、聖杯の中で一体なにをして来たんだ?」
「いや、別段これと言って大したことはしていない。見た目通り、呼吸も苦しい程の地獄であったぞ。とは言え、既に乗り越えた悪夢となれば、寝心地はさほど良いものではない」
つまるところ、それは底無しの空虚。もはや、地獄を経験した程度では揺るがない。
「くく。アハハハハハ……―――良い狂気だ。背筋が凍るぞ」
アヴェンジャーの敵意が完全に移り替わった。彼の視線の先には神父ただ一人のみ。
彼は無造作と言える動きで鎖を魔剣で切り裂いた。それによって張り詰めていた銀色の鎖が緩み、神父が手に持つ武器が地面に落ちた。そのまま鎖を投げ捨て、悪罪を二本投影して両手に握る。構えを取る事も無く、いっそ実に無警戒な姿で悪神と対峙していた。
「―――言、峰か……?」
呟くように静かな、しかしその場に居た全員に聞こえる声で士郎が訊く。いや、衛宮士郎以外に言葉を発する気力が無かったとも言えるだろう。
「生きていたか、衛宮。だが、どうやら全員、死ぬ一歩手前なようだ」
言峰士人は悠然と歩む。聖杯を背に、彼はアヴェンジャーを通り過ぎて進んで行く。
……アンリ・マユは茫然と神父の後ろ姿を見送った。
何だ、それは。何故、おまえがそんな真似をする。有り得ない以前に想像も想定もしていない不気味さが、悪神の脳裏を過ぎって行った。
「―――もしかして、言峰士人。アンタ、オレと殺し合うつもりか?」
「不服なのか? ……意外だな」
「……ハハ。あはっはっはっはっはっはははははははは!!!」
黒衣の男は耐え切れないと甲高い声で笑った。少し聞いただけで吐き気の余り、気を失いそうなる程に悪意が満ちていた。両手で顔を覆い隠し、後ろへと退いて行った。
そして、丁度泥の沼に沈む寸前で停止する。視界を戻せば、瀕死にまで追い詰められた嘗ての敵を守護するかの如く、言峰士人が自分に対峙していた。
「あのさぁ。しっかり理解出来てるのか、神父さん?
オレの復活はアンタにとっても愉しい筈だ。その心の空白を埋められるのは、このオレの世界くらいなモノだ」
アヴェンジャーの体に憑依したアンリ・マユの人格が、今の魂の過去である言峰士人に話し掛ける。甚振る様に、憐れむ様に、悪魔より儚い神父に笑顔を送る。
「……結局のところ、アンタがどんなに足掻いて生き抜いた果てで、その隙間に何にも埋められないなら、泥の虚無で真っ黒く塗り潰すしかないんじゃないかな?」
アレの話は正しく悪魔の言葉。何を求めているのか、全て見抜かれている。言峰士人と言う存在が渇望すべき事を正しく言い当てる。欲望が無い故に欲望を求め、絶望を味わえないが故に絶望を求め、感情を失くしたが故に感情を求め、その不毛こそが言峰士人の正体。
飢える事に飢えるなど人の営みでは無い、ヒトが抱ける業では無い。しかし、悪魔はそれを容認し、聖杯の中はヒトの答えで溢れている。
「……例え、お前の作り出した世界が私の答えであろうが、その世界はお前の結末だ。
私の求道は私の未来だ、この絶望も私のモノだ。
どの様な結末であろうとも、そこまでの過程こそ私の求道になる。
―――故に、その全てに決着を付けたい。それこそが私の求めた
その言葉で目を見開き、凶悪な表情で笑みを作り出すアンリ・マユ。
「いやはや全く、アンタの思考回路は悪魔な俺でも理解できないな。
さっさと俺に殺されて、さっきみたいに泥の中でグッスリ眠ってれば、全てが巧く事を運ばせられたんだぞ―――お互いにさぁ……!」
言峰士人は悪魔を切り捨てる。もう不必要な娯楽に興味は無い。自分の中の聖杯の呪いは、アンリマユになど惹かれていなかった。
―――否。もはや、聖杯の呪いではない。
この呪詛は既に言峰士人そのものと化している。これは今まで生きてきた士人の泥となっている。
「―――邪魔だ、アンリ・マユ。
お前が持つ人間全ての悪の中に答えは無い」
宣告はそれだけ良い。いや、もはや言葉は不要なのだ。互いに殺す決意だけは決まっていた。
「無様だな、神父。そんなものが言峰士人の答えだって言えるんか、其処になんの価値がある?」
「価値など不要。私が欲しているモノがこの世に無いのであれば、自分で世界を巡り、自分の手で生み出せば良い。
……なに、作るのは慣れている。
そも、材料はこの世界に溢れ返っている。見つからない事は多々あれど、足りなくなる事はそうそうに無い」
「―――へぇ……そう。なるほど、そう言う訳ですか。
アンタにそこまで開き直られてしまったら―――オレが直接この手で殺すしかないじゃないかよ」
壮絶な笑み。心を殺すような殺意。
「お前が、私を殺すだと。アヴェンジャーの真似事しか出来ない傀儡の生き物が、なにを言うかと考えていたが。
―――無駄な事だ。
その身では言峰士人に届きはしない。幻想は有り得ないからこそ、奇跡に等しいのだよ」
聖杯の意志で動く操り人形に、言峰士人は倒せないと彼は行った。そんな幻想が現実を侵食する事は無く、悪魔が人間を滅ぼすなんて奇跡は有り得ないと神父は嘲笑った。
「ひひひ。言うじゃねぇか―――んじゃ、死に様を期待して殺してやるよ」
―――神父に躊躇いは無かった。
敵が未来の自分に乗り移ったアンリ・マユであろうとも、邪魔な輩を排除するのに手加減は無い。元より、遠慮などする気も無い。
聖剣と魔剣を手に、黒衣の悪魔は疾走。魔剣によって狂化した肉体に限界は存在せず、既に音速を凌駕した魔速の迅さで神父に迫る。殺意と悪意をごちゃ混ぜにした汚濁の視線が余りにも禍々しい。
「―――罪を我が手に」
士人が行ったのは余りにも単純な呪文詠唱。しかし、たった一言で握る一対の剣の存在感は、爆発的なまでに膨れ上がった。
一閃。デュランダルを粉砕する。
二閃。ダインスレフを両断する。
瞬間二合の剣戟でアヴェンジャーは刹那の間で無手と化す。
「―――――――――は?」
その間抜けた隙に断頭一振り。アヴェンジャーは首を狙った斬撃を避け、次に来た頭をカチ割る振り下ろしを後退して回避。そのまま間合いと取る。
「待て待て待て……!」
再度投影した魔剣によって接近して来た士人の刃を防ぐも、さも当たり前の如く真っ二つにされる。次の斬撃に合わせて投影するも、それも破壊され、次も次も次も、そのまた次も破壊され続ける。武器を一撃で破壊されながらも、アヴェンジャーは紙一重で剣を避けた。
理解が追い付かない。何故、この魂の過去である未熟者にここまで一方的に攻め込まれるのか?
だが、今はまだ分からないのであれば、それを放置する。解答を捜し当てる為に思考は回し続けるも、今は
戦術的に逆転の策を見出さなければならない。
故に、強引に距離を取ったアヴェンジャーは、敵へ向けて投影を展開。間合いを離し、物量で勝る自分の投影弾幕で圧倒。上空には、余りにも数多い聖剣、魔剣、名剣。そして槍に、斧に、鎚に、杭に、時代も選ばず古今東西全ての武器が並んでいる!
「もう一度、消えちまいな―――!」
―――まるで、硝子細工みたいだった。
それも壁が壊れないのに、何度何度も叩き付ける子供の癇癪に似た行為。全て、言峰士人の手によって破壊され続けた。
アヴェンジャーによって創造されたデュランダル、アスカロン、ダインスレフ、カラドボルグ、メロダック、その全ての聖剣魔剣が一対の剣に粉砕される。
……有り得ない。理論が通らない。
一本一本が聖杯のバックアップによって完成品に近い精度を持つ。それを多寡が知れた程度の宝具ランクしかない剣が、一体どんな概念が持てば全てを凌駕出来るのか。
「―――アヴェンジャー。お前の憎悪はその程度か?」
「…………っ――――――!」
先程までの戦闘とは余りにも違った。五人を相手に圧倒していたアンリ・マユだが、不意打ちで殺した筈の人間一人に王手を掛けられる一歩手前まで攻撃が通じない。不気味を越えて理不尽だった。こうなる原理が思い浮かばない。しかし、原因が何かは段々と察することが出来てくる。
アヴェンジャーは投影を装備し、再度剣戟を繰り返す。
その度に武器は破壊され、投影を練り直した。多種多様な武器に切り替え、連続的に戦闘で攻め殺さんと進撃する。
余りにも巨大な神の鉄槌が、刀身二尺程度の双剣の一振りで破壊される。
黄金に光り輝く神の大斧が、無造作な斬撃が当たった瞬間に壊れ消える。
―――他の武器も同様に消滅され続けた。
神霊が使う武器も無駄となり、英霊が無双すべく存在する武具も無駄になった。ありとあらゆる概念、古今東西の神話伝承がたかだか一対の剣を越えられず、当たり前に消え果てる。其処に魔術師としての魔術的な理論が無い。概念はより強力な概念の前に敗北するが、神父が持つ剣よりも遥かに強い神秘で挑んでも、悪魔は一方的に敗北する。
その事実を前にして、アヴェンジャーは見逃していた概念を悟った。思考が回り、一つの結論を導き出そうと白熱する。
「……まさか、それは――――」
そして、アヴェンジャーは遂に気が付いた。壊された武器と、壊している武器の類似点に到達する!
「―――お前、その双剣はそう言うカラクリかよ。クソが……っ!」
言峰士人が投影する
この剣の前において、こと言峰士人の他の投影物はがらくた以下の妄想に成り下がる。この剣だけが言峰士人唯一オリジナルのカタチ。この剣だけが彼の魂の中にある黒い太陽そのもの。
悪罪の前において、他の投影物では触れただけで砕け散る。構成された因子そのものが規格外の固さを持っていた。
―――故に、空白から生み出された剣は、言峰士人の投影物の前でのみ最強と化す……!
「死ねや神父!!」
ならば、此方も同じものを使うのみ。アヴェンジャーも同じ剣を二本同時投影し、それを双剣として装備する。
―――悪魔と神父が剣で踊った。
連続的な高速剣戟が金属音を撒き散らす。耳が弾ける程の高鳴りと、目が潰れる程の火花が舞い灯る。
「――――あ?」
砕けた。同じ得物であるのに、六回斬り合っただけで砕け散った。
「馬鹿な…………っ!」
次は五回。その次は三回。その次は二回。そして、もう既に一撃で粉砕される様に追い詰められる。
投影、破壊、投影、破壊。アヴェンジャーは無尽蔵の魔力で悪罪を何度も何度も投影しているにも関わらず、ただの一度も神父の剣を破壊出来ていなかった。
「ふざける―――なぁ……っ!」
筋肉が膨らみ、骨格が軋む。アヴェンジャーの悪罪へ大量の魔力が流入し、鈍く光る刃が肥大化。刀身が悪魔の翼の如き異形と化す。
そして、徹甲作用と大陸武術を応用した強引な二刃同時斬撃は、目標の神父で交差して一点集中する。もはやバーサーカーが誇る十二の試練さえ一度は砕くまで殺傷能力が高まり、たかだか人間でしかない言峰士人では肉片に変わるだけ。
―――その必殺が、一方的に降り注いだ。
神父はただ、二本のツインを双剣のように構えているのみ。
「………クソが!」
目前の悪魔の罵倒。砕け散るはアヴェンジャーの剣。ただ単純に強化された剣が強化されてない剣と衝突し、強化された双剣が崩壊して消え去った。
そして、返し刀に士人が敵を切り裂く。傷からは赤い血ではなく、黒く染まった呪詛と化した血液が飛び散る。その呪詛は一滴肌に付いただけで、水に墨汁を垂らす様に染まり尽くして呪殺する極限の呪いであるにも関わらず、神父は全身でその返り血を浴びてもいつものように微笑むだけ。
黒いアヴェンジャーの肉を削がれ、骨まで抉られる。そして、その悪魔にも神父と似た笑顔が浮かび、顔に亀裂が入ったように敵を嘲笑った。
「
その時、言峰士人に対して呪いが襲い掛かった。アヴェンジャーと痛覚が共有さえ、彼が感じている痛みが神父も感覚した。規格外の激痛が奔り、傷が無いのに傷を受けたと錯覚する痛みに全身が硬直する―――ことは無かった。神父は表情一つ変えることなく、敵を斬る。
―――彼は当たり前のように斬り続けた。斬って斬って、呪われる。
呪いである時点で、神父はそれを受け入れている。ただ純粋に体を動かす邪魔になるから、痛みを無視している。無効化しているのではなく、毒は毒として飲み干して、死んでいるのに生きてられるよう活動する。幻痛は遠慮なく増え続け、神父の痛覚を削り続け、復讐者の傷は深くなり続ける。
「―――は! 自己から呪いを外してんのかよテメェ……っ!」
アヴェンジャーの宝具を無効化する事など不可能。正確には、言峰士人の体質も呪詛を許容しているだけであり、無効化をしている訳ではない。そして、痛覚を共有する宝具の呪いは魂に干渉する物であり、防御など発動された時点で無理なのだ。
だが、呪いであるだけで神父には耐えられた。この人の世界に満ちている痛み、苦しみ、乾き、憎しみ、悲しみ、ありとあらゆる全ての負を既に耐え抜いた肉体と精神は、もはやその魂さえも呪いを祝福するほど強くなった。
「その呪い―――私が祝福しよう」
斬る。呪う。斬る。呪う。斬る。呪う――――!
流石の士人も魂を直接干渉して痛みを共有する宝具化した呪術を前に、無効化する事は出来ない。効果も弱まるどころか、共鳴してより新鮮な感覚に襲われている程だろう。本来ならば一度きりの効果が永続し、泥の共鳴によって呪詛は更に深くなるばかり。呪いを消去する為には、宝具の使用者を殺害するしかない。
「―――――グ!」
一本―――ツインがアヴェンジャーの剣を壊しながら胴体に突き刺さった。
「ギィ………!」
二本―――剣がまた敵の武器を粉砕し、その上半身を串刺しにした。
三本―――言峰士人が投擲した二本の剣が円を描き、アヴェンジャーがそれを避けた先を見切って剣を刺した。
そして、また新しく神父は
―――しかし、それでも彼は止まらない。
両手に持つ剣を二本同時に突き放ち、双剣によって二つある肺を潰し、そのまま刺した。七本目の致死の一撃が下された。
「――――――――――――――」
アヴェンジャーの視線と言峰士人の視線が交差する。復讐者の痛みは言峰士人も感覚しているが、それでも動きを止めずに刺し込む異常な攻撃は、敵に悪寒を感じさせながらも、その狂気がアヴェンジャーを心地良くさせていた。
―――そして、神父の一突き。
アヴェンジャーはその攻撃を双剣を重ねて防ごうとするも、その二本の武器を撃ち砕かれる。そのまま剣を避ける事も出来ず、心臓に一撃を向かい入れる事しか出来なかった。八本目の剣が彼を殺す。
「――――………はっはっははははははは!
遂にオレまで殺害し、ここまで狂い果てたと言うのか神父! 良いだろう!!」
「――――ならば、お前を泥で作り上げた
心臓を串刺し、胴体に何本もの剣が突き刺さっている。アヴェンジャーは勿論のこと、宝具の呪いで痛覚を共有している士人も壮絶な激痛を受けているのだが、その当の二人は楽しくて仕方が無いと笑みを浮かべている。
「お前が捜す答えなんてな――――結局、何処にも存在しない。
この世全ての悪にさえ見当たらないなんてモノならば、何処まで地獄を潜り続ければ其処に辿り着けるって言うんだ……」
―――哀れむ声。この悪魔は悲しんでいる。その上で楽しんでいる。
人を理解出来ず、人に理解されない存在である神父は、同類は存在しても世界の何処にも答えは無い。理解し合える例外はいたとしても、自分の中の空白を共感して認め合える存在はいない。自分の中に無いから外に求めたのに、外の世界にはそんなモノは無い。人の悪性を全て知る悪魔の中にも無く、その悪魔でも答えを与える事が出来ぬのであれば、もうそこから先は暗闇だけが広がっている。
呪いしか心を動かせない神父は、善悪真贋混じり合うこの世全てから、自分の答えを見付けねばならなくなったのだ。唯一神父に感動を与える呪詛に無い物であれば、世界にそもそも答えなど存在しないと言うのに、彼は死ぬまで足掻き続けねばならない事が今、決定する。
―――そして、決意した。自分はもう止まる事なく、存在を掛けて進む続けること。だからここで、その想いを言葉にしよう。決着はここに。自分の始まりを葬り去る。
「
―――爆発。四散。そして、その場に残る物は下半身のみ。
轟く爆音が鳴り、炸裂する光が血を撒き散らした。アヴェンジャーの壮絶な最期は、言峰士人による幕引きとなる。
「この世全ての悪よ。自分には何も無いと言ったな。
―――しかし、お前にはお前の真実が在った。それを知る事は出来た。故に、それだけは貰って行くぞ」
消える悪魔。血も空気に溶けていき、その痕跡を何一事無く消滅する。肉も骨も血も失い、そして精神も魂も向こう側へ還って行った。甦ったアヴェンジャーのサーヴァントは、自分の過去と自分が生み出した成れの果てに敗れ去った。
―――アヴェンジャーが、言峰士人に敗北した。
この顛末を見届けた者はエミヤシロウと、凛とバゼット。セイバーも目が見えなくも、全てを悟っている。そして、今はまだ未熟な正義の味方は全ての悪を背負った悪魔が、求道者によって消えていく光景を静かに見守った。
そして、神父は独り、何も思うこと無く静かに生きていた。あの時と同じように聖杯を―――黒い太陽を見上げている。嘗て十年前に味わった地獄を踏破し、彼は自分自身の力で結末を見る。
「――――――――――……」
言峰士人は自分にとって役目を果たした聖杯を見る。あれはもう、不必要だと改めて確信した。
自分の衝動を完全に理解した神父にとって、世界を旅をし、様々な事柄を見ることが今の自分にとって大切な事。自分はまず、知ることから始めなくてはならない。
「……後は好きにしろ。聖杯はお前達の所有物だ。第五次聖杯戦争監督役として、最後を見届けよう」
それだけだった。神父は言葉少なく宣告し、聖杯から離れて行く。もう、言峰士人の聖杯戦争は終わったのだ。ギルガメッシュは戦いの中で死に、佐々木小次郎も本懐を遂げた。
―――聖杯の孔に彼は微笑んだ。
知るべきコト、得るべきモノは、全て自分の手の中に存在している。
神父は背を向けて歩いて行く。戦う意志が無いのは明白で、脅威の一欠片も無い無防備な姿で遠ざかって行く。
誰よりも透明な笑みを浮かべる神父は、自己を悟って未来を目指す。だけど今は、敵対している師匠と、正義の味方と、執行者をどうやって言い包めるか思考する。本当に儘ならない、と彼は笑顔のまま小さく呟き、まるで降参した兵士のように両手を上げた。
◇◇◇
士郎は無事、イリヤスフィールを助け出す事が出来た。投影した毛布で少女を丁寧に包み、両腕で小さい体を抱き支えている。アーチャーも心なしか、安堵の表情で少女を見守っていた。
セイバーは目を癒すも、アーチャーと同じ片腕は無いままの状態。バゼットは体に鞭を入れ、まだ膝が折れないようにしていた。凛は凛で、全力で自分の弟子をこれでもかと睨んでいる。
そして士人は大人しく、彼らを見守っている。本当に危害を加える気はなく、先程まで上げていた両手の降参のポーズに嘘はないみたいだった。しかし、今の現状で一番力を温存しているのは間違いなくこの神父。その気になれば皆殺しも可能だろう。生き残ったサーヴァントと魔術師で、神父に対し即座に対応可能なように囲んでいるが、それも実際は形だけとなってしまっている。
「……終わったか。
しかし、問題はこれの後始末だ」
アーチャーが見上げるのは、黒い太陽となった地獄の孔。中身が人類全ての呪詛が詰め込まれていると言う産物は、一度解き放たれてしまえば人の世界は消えて無くなるだろう。
「―――バカ弟子。あんた、何か考えはあるんでしょ?」
凛が猛烈に尖らせた目付きで弟子を睨み付ける。もはや身内を見る目ではないのだが、隠し切れない遠坂凛としての情が気配に出て仕舞っている。
そんな割り切れない彼女の人間性を愉快に思い、士人は楽しそうに口元を歪めた。
「そうだな……あの孔を消し去れば、この度の聖杯戦争は完了する。そうしてくれると、俺としても有り難い。
……ほら、世界が滅ぶと困るだろう?
あの孔さえ塞いでしまえば、この世に地獄が具現する事もないと考えられるが」
「へぇ、そう。なるほどね。
―――確かに、それが一番手っ取り早そう」
凛が思案する中、バゼットが動きが鈍い体で無理をして士人へと近づく。彼女には、この神父に聞かなくてはならない事が出来てしまった。
「それで士人君、貴方はこれで満足なのですか?」
「ある程度は。……まぁ、ギルの為に聖杯を手に入れたがったが、どうやら別段自分には必要ではなかった。
聖杯を面白い逸品とは思えるものの、やはり世界を知らぬ身である自分としては、欲する理由も湧かないようだ」
「―――それはつまり……」
まだ、諦め切れていないという訳では、と彼女は言葉を続ける勇気は無かった。そうなれば、再戦は必須になってしまう。何より、戦意も殺意も無い友人の子と再び殺し合うのは、彼女としても避けたいもの。そんなバゼットの葛藤を知ってか知らずか、士人は士人でいつもの笑みを浮かべ、楽しそうに会話を続ける。
「何も無い。もう、殺し合う理由も消えている」
彼も彼で、多くのモノを失っている。バゼットはその事実に気付き、結局は自分と同じなのだと考えた。
「―――そう、ですね。
戦争はこれで終わりにしましょう」
「感謝する。俺もこれで終わりにしたかった」
セイバーは相変わらず士人を全力で警戒し、アーチャーもアーチャーで直ぐさま殺せるように構えている。明確に聖杯戦争を降りたと宣告したものの、監督役でありながら隠れて参戦していた人物を信用する訳にいかないのだ。
確かにこの神父は嘘を言わず、その言葉が本当なのだと直感でわかっても、しなくてはならない線引きが其処にはあった。
アーチャーとバゼットと凛は、この聖杯の破壊方法について話し合っている。士郎も話し合いに参加しつつ神父の監視もしており、イリヤの容態に気をやっている。その時丁度、セイバーは士人と視線が合った。
彼女は彼を見て、ある種の疑問が湧く。それは彼女の中では今となっても不自然で、不気味なのは事実である。
「……コトミネジンド。確かに、敵であった貴方によって私たちは助かりました。
しかし、その、私達を助けようなどと、そんな心変わりをした理由はなんなのです?」
セイバーは、自分が消えてしまう前に聞いておきたいと思った。彼女にとって初めて会う人種である神父は、士郎やアーチャーにも似た雰囲気を持ちながらも、その在り方が自分には理解不可能なまで歪んでいる。歪んでいることは分かるが、どう歪んでいるかが欠片も悟れない。
……それが不可思議だった。自分も自分が歪曲しているのを今回の聖杯戦争で気付く事が出来たが、それは自分に似た鏡を見た事による副作用。しかし、視野は広がった所為か、あのギルガメッシュと家族のように接していた神父の事を知りたいと思えた。
「―――ギルが死んだからだ。そも、それ以外に戦い抜く理由を、この聖杯戦争で持つ事が出来なかった」
「……え?」
「意外かな? まぁ、確かに、そう思われるのも仕方がない」
「――――――」
セイバーはそれ以上何も言わなかった。聞かずとも分かったから、もうそれで良いと思えた。この男が自分以外の誰かの為に、自分の王の為に、その命を賭けて戦争に挑んでいた。
―――王として、アルトリア・ペンドラゴンは言峰士人の忠誠を知る。
自然と警戒心が薄れてしまう。
行動原理がわかってしまった。
確かに、この神父が持つ求道は、彼本人にしか価値が無い破綻者固有のもの。しかし、自分達と戦っていた訳は、嘗て身近にあった騎士たちの行動原理と似通った理由である。彼ら騎士達の忠誠と、士人のギルガメッシュに対する誓いは違うかもしれないが、セイバーはその在り方を個人的に良しとした。歪んでいようとも最後まで尽くしたのであれば、それは本物で在って欲しいと思えた。
「―――そうですか。
ギルガメッシュもまた、一人の王であった訳ですね」
何処となく、彼女の神父を見る目が変わる。警戒を解く事は無いが、纏っている雰囲気がそこまで刺々しいものではなくなった。
「セイバー、少し良いかしら?」
「ええ。大丈夫です、凛」
サーヴァントと魔術師たちの会話に士人は入らない。結果的にどうするべきか分かってはいるが、彼はその事を喋る気もなければ、その様子を観察するのも一興であった。
「――――――――」
「――――――――」
そして、衛宮士郎と言峰士人の間に今は言葉は不必要。語るべき事は腐るほどあるが、今は良い。士郎には見送らなければならない相手がおり、守らなくてはならない人を背負っている。士人もまた、第五次聖杯戦争の終わりを見送らなくてはならない。
まだ、別れを済ます必要は無い。故に今は、しなくてはならない事を済ますのが先決。
どうやら、決着の方法を決めたようだ。必要となる令呪も凛の物で事足りる。
セイバーが持つエクスカリバーをアーチャーは左手で握った。彼女が握る剣の柄を支える様に、彼は下から強く真名解放を成す為の構えを作る。
そして、二人は背中合わせのまま聖剣を静かに上に掲げていく。刃は強く眩い極光に満ち―――今、最強の聖剣が解放される。
「「
真名を共に紡ぐ。唱えしは星が生み出した神造兵装。数多の兵たちの希望を束ねた戦場の輝き。
「「――――
聖杯の孔が、両断された。神父の前で、正義の味方の前で、魔術師の前で、執行者の前で、サーヴァントによる戦争の結末が見届けられた。
そんなこんなで第五次聖杯戦争も終了しました。もっと書き込めば良いのですが、この話は特に言峰士人の物語として書いていますので、他の人物の描写は主人公を目立たせる為にカットしました。
いや、他の登場人物たちの会話も書いたのですが、そうすると主人公が会話的に傍役になるは、最後の聖杯破壊場面はただの見届け人になってしまうので、何となく書けませんでした。なので彼らの別れの場面なども、原作に近いのでカットです。そして、セイバーとアーチャーが共にどうなって終わりの場面を迎えたのかは、皆さまの脳内に任せます。あるいは、何時か外伝的に載せるかもです。
そして、感想でエクスカリバーの使用方法を当てた読者様、私の負けです。まさか、そこまで先読みされるとは思いませんでした。ラブカリバーを悟られるとは、恐るべし。
では、読んで頂きありがとうございました。