62話 【朝日優真の傷 III 】 優牙
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“例の事件”が起こって以降、俺の日常は大きく狂った。
あの事件が起きた後、荒川と気を失った俺は救急車でそれぞれ別の病院に運ばれた。
俺は2日も意識を失っており、俺抜きで事件は一応の終結の形を見せていて。
今回の一件は
学校としては、傷害事件にしたくなかったのだろうか…幸いにも目撃者は少なかったから偽装は簡単、そんな魂胆なのかもしれない。
この事実を聞いた時、俺はあまりの驚きに何も言うことができなかったが、『大人達』によって結論付けられたそれを覆すことはできず、結局俺は無罪放免となった。
そして俺は退院した後も学校に行けなくなった……正確には、“部屋からでれなくなった”。
まず、根本的にシャーペンが持てない。
シャーペンでなくとも、表面が光り輝くものや金属を含むものを持つと“あの光景”がフラッシュバックし、
他人に会うのが怖い。
無意識の内に友人を手にかけたという事実。
そんな状況で他人に会おうなどと思えるわけがない。
いつまた俺の手で、誰かを傷つけてしまうのかもわからないのに。
ドン、ドン、ドン。
「優真ー?」
朝8時。平日のこの時間にもかかわらず、俺は二階にある部屋の布団に包まっていた。
「………………」
「学校、行かないの?」
「……放っといて」
「……そう。朝ご飯、ここに置いとくから」
「………………」
何度も繰り返したこのやり取り。
俺の母親は、部屋に閉じこもり切りの俺に何も言わず、俺のやりたいようにさせてくれている。
「……それじゃあね。今日は風呂には入りなさいね。母さん、朝9時に家を出て夕方5時に帰ってくるから、その間にね」
「……………ありがと」
母さんは俺の『誰にも会いたくない』という心情を汲んで、自分の居ない時間……即ち家で1人の時間を教えてくれる。
その間に俺は風呂などを済ませるのだ。
それ以外は、“無”。
逃げる。ただ逃げる。
己が背負った業から。逃れられるはずもない、その業からただ。
俺への責任は問われなかったといえ、完全に
“俺がやった”と知っているのに、“俺は悪くない”と
ふと気を抜けば心に襲いかかる、あの“生暖かさ”
人を傷つけるのは、“痛い”んだって
そんな当たり前のことを、心の底から痛感した
「ぁ…………ぁあぁぁ……」
自分の中にあんな感情があるなんて知らなかった。
ドス黒く、心の底から湧き上がる“殺意”。
自覚は、ある。
あの時俺は、心の底から“殺したい”と思った。
殺したいという思いが爆発したと思ったもう次の瞬間には……俺の手は、血に濡れていて。
だから……怖い
人と関わるのが
誰かと関われば、きっと俺はまた傷つけてしまう
嫌だ
もう、誰も傷つけたくない
傷つけたくないから─────
俺は今日も、
▼
それから8月になった。学校は夏休みには入り、俺は背徳感を感じることなく部屋に篭り続けている。
この間に、凛や花陽は俺の元へと来てくれていたようだが、俺は頑なにそれを拒み続けた。理由は、今更言うまでもないだろ?
そして俺の耳に届いた足音。
それは紛れもなく、母さんが俺の部屋にご飯を届けに来た音……ではなくて。
そして母さんのこの言葉を境に、俺の運命は大きく変わる。
「優真……久々に、外に出てみない?」
外…………に……?
「……何考えてるんだよ、嫌だよそんなの」
「今日1日だけで良いから。それに……
──あなたの苦痛を、取り除いてくれるかもしれないの」
「!? ……俺には苦痛なんか、ないよ…」
「優真、お願い。今日だけで良い。今日だけで良いから───母さんのワガママを聞いてくれないかしら」
「………………」
母さんの表情は、ドア越しでも容易に想像がついた。
俺の事を思い、苦しみ……顔を歪めて、祈るように心からの思いを絞り出している…。
『余計なお世話だ』なんて思いは全く起こらなくて。寧ろ申し訳なさが勝った。
母さんに、こんなに負担をかけていたのか、と。
「……わかった。行く」
「優真……!ありがとう!」
外へ、出る。
人に、会う。
1ヶ月と少し…実時間にすれば短いが体感的にはもう何年も出ていないような気がする。
俺は勇気を振り絞り……ドアを開ける。
そこに笑顔で立っていた母親を見た瞬間
俺の全身を駆け巡る、悪寒
鮮明に脳内で掘り起こされる、
「あぁ…………あああああああ」
ふと俺の右手を見ると
その手は真っ赤に濡れていて
ぬるり、と生暖かい液体が、俺の右手を滴り落ち
「ああああああああああああああああ!!!!」
俺が背負っている業は、俺の想像を遥かに超えるレベルで心に棘……否、最早“槍”として突き刺さっているようで。
ダメだ、俺はもう、誰かと触れ合うなんて──
そんな俺をふと包んだ、優しい温もり
それは母さんが、俺を優しく抱きしめてくれたことによるものだった。
「───大丈夫。母さんが側にいるわ」
不思議とその一言は、恐怖に震えていた俺の心を鎮めてくれた。
そして母さんは、俺の頭に手を乗せる。
「───どんな恐怖が訪れても、私はあなたの側にいる。絶対にどこかに行ったりしない。だから前を向いて?」
どうして母さんの言葉は、こんなにも勇気をくれるのだろう。
先程まで赤く見えていた手も、普通に見える。
震えも止んで、俺は改めて母さんの顔を直視した。
「……もう大丈夫、ありがと母さん」
「良かった。……じゃあ行きましょうか」
「そういえば、行くってどこに?」
「病院よ。“私の知り合いがいる病院に”、ね」
▼
久々の外。
夏真っ盛りの日差しは、しばらくインドアを極めていた俺の肌に容赦なく突き刺さる。車に乗る間と車から降りて屋内に入る間のわずかな時間でさえ俺の心はぐったりとしてしまった。
母親に連れてこられたのは『西木野総合病院』という、この辺で最も大きな病院。俺は今そこの1階のロビーで母親と共に座っている。
するとそこに、1人の女性が歩いてきた。
「初めまして、朝日君。私は西木野瑞姫。今回、あなたの担当を務めさせてもらうわ」
久々の他人との会話。
悪い人ではないというのはわかるのだが、俺は恐怖で目を逸らしてしまう。
「あ…あさ……朝日、優真で、す……」
「ふふふ。そんな緊張しなくてもいいのよ?」
「……じゃあ瑞姫、よろしく頼むわね」
「任せて。終わり次第、連絡するわ」
「母さん………」
「大丈夫よ。この人を信じて」
母さんはそう言って俺の頭を撫でると、西木野先生に俺を託して何処かへと行ってしまった。
「それじゃあ朝日君、こちらの部屋へ。…とその前に、はいコレ」
「これは……“目隠し”、ですか?」
「そうよ。これを付けて私の手を握って頂戴」
「っ……」
「大丈夫よ、そんなに怯えなくても」
恐る恐る目隠しをつけ、先生の手を握る。
そしてそのまま別室へと連れられて、椅子に座らされた。
先生の『取っていいわよ』という一言で、俺は自らの視界を遮っていた目隠しを外す。
そしてそれを取った俺の目の前に広がっていたのは
───────何本もの、ハサミ
しかも丁寧に、血で赤く濡れた。
「─────ッ!!!」
電流のように身体を奔る寒気
一瞬でフラッシュバックする“あの光景”
「あぁぁ、あぁあぁぁああ!!!!」
あまりの恐怖に、俺は叫ぶことしかできない。
誰か
誰か、助
「────オメェ、ふざけてんのか……!!」
直前まで叫び声を上げていた彼の突然の変貌具合に、瑞姫は“己の読みが正しかったこと”を確信した。
「────殺してやる」
“彼”は目の前にあるハサミを手に取った後立ち上がり、瑞姫に襲いかかろうとした……しかし“彼”は気付く。
自分と瑞姫が、透明なガラスのようなもので遮られていることに。
「薬物中毒者が、カウンセリング中に暴れ出しても大丈夫なようにこの部屋はあるの。
それよりも、“初めまして”?よね。
“貴方に会うため”に手荒な真似をしてごめんなさいね」
「……オレに…会うため?」
「力を貸して欲しいの。朝日優真君を、助けるために」
「…………………」
「貴方の力がないと不可能なの。お願い、この通りよ」
深く頭を下げた瑞姫。
それを黒い目の“彼”は、ただ見下ろすように見つめて……一言。
「……何をすればいい」
「! 力を…貸してくれるの?」
「御託はいい。さっさと言え」
「……ありがとう、本当にありがとう……」
先程よりもほんの少しだけ和らいだ殺気を纏う少年に、瑞姫は柔らかく笑いかけた。
「…………んぁ…」
眠りから目覚めたような感覚。
いつの間にか俺は眠っていたのだろうか。
そしてふと気づくと俺の手には
一本の鋏が握られていて
「あぁああああぁあああぁぁあああああ!!!」
そこまでかかってやっと思い出した。
西木野先生にこの部屋に連れられ、大量の血に濡れた鋏を見て、気を失ったことを。
「───お目覚めのようね」
ふと横から聞こえた声、その声の主を荒い呼吸のままに見る。
「……西木野……先、生…………」
「どう?久々に持った鋏の感想は」
「……ふざけてるん、ですか……!!」
「至って真面目よ?……さぁ朝日くん。
───その鋏で、私を刺しなさい」
「!?」
この人は一体、何を言ってるんだ…!?
「そんなこと、出来るわけがないでしょう!?」
「そう……残念だわ。
───“
「……!!」
この人が 紬を────?
「廃工場の裏の、小さな空き地。そこで寝てた紬ちゃんを手にかけたのは、私だって言ってるの」
「……冗談も大概にしてください」
「信じないの?じゃあもっと詳しく話してあげましょうか。あの子が最期にどんな感じだったかを、ね」
「……ふざけ…るな……!」
「あの子の鳴き声、今でも耳から離れないわぁ…とても“イイ声”で鳴い」
「やめろおぉおオオオオオオオオ!!!」
尚“ナニか”を俺に話そうとする先生の声を遮り、俺は力の限り叫んだ。
この人が、紬を?
本当にそうなのだろうか。
でもここまで詳しくはこの人が知っているはずがない。
“廃工場”、“小さな空き地”……これらの単語は、俺の身に起きた事件を詳しく知っている人ではないと出てこない単語だ。
この人が、紬を。
最初は疑問に思っていた問いかけが、だんだん確信に変わってゆく。
この人が……紬を!!
そう認めた瞬間…黒い感情が湧き上がる。
紬……紬…紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬紬
うううううううああああうううあああううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああうううあああううああああああああああああああああああああああああああああああああうううああああうううあああううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああうううああああうううあああううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
握った鋏を“カタキ”へと向ける。
ガタガタと震えるこの手は、この人への殺意か、それとも怒りか。
そんなことはどうでもいい
だって俺は今から、この人を─────
しかし
俺の手は何秒経っても、何分経っても動くことはない。
「どうしたの?私を刺さないの?」
「……り……だ…」
「……?」
「──無理…だよ……俺には…………出来ないっ…」
どれだけの殺意に突き動かされようと、俺には出来なかった。
重さ自体は翔太達に向けた殺意と遜色ないのに、体はどれだけ経っても動かない。
そんな俺の様子を見た西木野先生は優しく笑い、俺の手に握られた鋏を取り除いた後……正面から俺を優しく抱きしめた。
「────そう、“あなたには出来ないの”」
「え…………?」
「あなたは私に凶器を向けても、それを振るえなかった。貴方の優しさの表れよ」
「……なんで、そんな…………」
「あなたはとても優しい人。あなたには人を傷つけることなんてできない。
だからもう、自分を
もうこれ以上、自分を傷つけるのはやめて」
「自分を…………ゆるす…………」
「あなたはずっと、自分を罪人として縛り続けてきた。でもいいのよ。まずはあなた自身が、自分を赦してあげて」
俺は、自分自身を
「あぁ、うぁあ……あぁぁ……」
赦しても、いいのかな
「ごめん……なさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「いいのよ。あなたは何も……気にしなくていいの。誰もあなたを責めはしないわ」
「ごめんなさい……ぐすっ……ごめんなさい……うわぁぁ……」
先生の温もりと、優しい言葉で初めて気づいた。
俺はただ、誰かからの一言……自分を“赦す”、“許し”が欲しかったんだって。
『罪人なんかじゃない』って、『誰かを傷つけるなんてあなたには出来ない』って。
ただその一言が、欲しかっただけなんだ。
▼
「……さっきは手荒な真似をしてごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です。むしろ感謝してます」
改めて“通常の”診察室へ通され、俺は今先生と向かい合って座っている。
先生の“荒療治”で、俺のトラウマはある程度克服された…少なくとも、鋏を見た程度では動悸が起こらないレベルまでは。
「……それで先生。先生が紬を傷つけたっていうのは……嘘なんですよね?」
「ええ。あれはあなたの殺意を私に向けるための……ブラックジョークね」
「ブラックジョークって…笑い話になりませんよ。
……それより、
先程も言ったが、先生の口からは事件の関係者しか知りえないような単語が出た。
厳重な箝口令が敷いてあるその情報を、この人はどこから手に入れたのだろうか。
「ふふ、簡単なことよ?
───
「……はい?」
「あなた自身の口から聞かせてもらったわ。あなたに一体何があったのかをね。ハサミの件は別口だけど」
「俺、そんなこと話した覚えは……」
「そう、私が聞いたのは“今のあなた”じゃない。
「な…………!?」
もう1人の……俺?
話の展開が急すぎて、追いつけない。
そんな俺を置き去りに、先生は話を進めていく。
「……さて、
「先生…………さっきから言ってることが」
「
ダメだ。何を言ってるのかがわからない。
全く身に覚えが無
「────これで満足か?」
突如雰囲気を変え、自分を睨みつける“彼”に、瑞姫はニコリと笑みを浮かべた。
「ありがとう。さっきのこともね」
「……うまくいってなかったら、タダじゃ済まさなかったけどなぁ?」
瑞姫が“彼”に持ちかけた提案は、以下の通り。
────『……で。オレは何をすればいい』
『彼に何があったのかを教えて頂戴。私が知っているのは、“彼がハサミで友人を傷つけてしまった”ということだけ。それが元凶で彼が閉じこもってしまったのはわかるけれど、“何が彼をそこまでの衝動に駆り立てたのか”を知りたい。
……全部“見てきた”あなたなら、知ってるでしょ?』
『……それを教えてどうなるんだ?』
『その前にひとつだけ確認させて。鋏を手に襲いかかったのは……あなたで間違いないのよね?』
『……あぁ』
『にもかかわらず彼は今、己が友人を傷つけたと思い込んでいる……だから理解してもらうの。“自分にはそんなことはできない”、って』
『……出来るのかよ』
『────私ならやれるわ』
『……しくじったら許さねェぞ』
『ありがとう。成功したら、あなたの話も聞きたいわね』
『成功したらな。……あいつには大切にしていた犬がいて──────』────
“彼”から優真に何が起きたのかを聞いた瑞姫は、優真のトラウマを取り払うために、“賭けた”。
優真が『自分の殺意で人を傷つけること』を恐れているなら、『その殺意で人を傷つけられないこと』を証明すれば良い。
最終的には、自分の中にいる“もう1人の自分”との対話を果たさなければならないのだが、そのスタートラインに立つためには優真が自分自身を“赦すこと”が必要だった。
自分自身は人を傷つけたりできないと、優真自身が理解する必要があったのだ。
そのことが、“自分の中に入るもうひとりの自分を自覚する根拠”になるのだから。
「さて、質問に答えてくれるかしら。あなたは何故生まれたの?」
「……もう1人の俺を、守るため」
「守る……ため」
「アイツは苦しんでた。親友との別れにも、イジメにも。
声が聞こえたんだ。誰にも迷惑をかけまいと1人で抱え込んだ、誰にも告げることなく溜め込んだ心の叫びが。だから───」
“彼”は告げる、その続きを。
「───アイツは俺が守る。アイツを傷つける奴は俺が許さねェ。
アイツにはただ───笑っていて欲しいから」
「……………」
瑞姫は迷っていた。『“彼”がしたことで、結果的に優真を傷つけることになってしまったこと』を、“彼”に告げるべきか。
……でも。
“彼”が荒川を傷つけたのも、もう1人の自分を守るため。
きっと“彼”はもうひとりの自分の負の感情を、一身に背負い続けていたのだろう。
壊れないように、潰れないようにと。
なんて優しくて───強い子なのだろう。
瑞姫は悲痛な思いで目の前の少年を見つめていた。
“もう1人の自分を守る”。
15にも満たない少年が背負うには、余りにも大きな覚悟。
それを目の前で見せられて、真実を告げようという気にはなれなかった。
「───ねぇ、あなた名前は?」
「……ねェよ、んなもん。オレはオレだ」
「そう……じゃあ私が付けてあげる」
「はァ?要らねェよ別に」
「私が呼びにくいの。“あなた”と呼び続けるのも迷惑だしね」
そして瑞姫は悩み、考え……付ける。
心優しい孤高の少年に相応しい、その名を。
「“ユウガ”、なんてどうかしら」
「ユウガ…………?」
「もう1人の自分を…朝日優真くんを守るために生まれた、“優しい牙”。どう?」
瑞姫の提案にしばらく黙りこんでいた“彼”は、突如ニヤリと笑みを浮かべ……
「いいじゃん、悪くないね。
───今日からオレは、ユウガだ」
満足そうにそう言うと、瑞姫に手を差し出した。
「───“アイツ”をよろしく頼むよ、“センセー”」
瑞姫はニコリと笑みを浮かべ……
「あなたにも色々協力してもらうわよ……ユウガ」
しっかりと、その手を握り返した。
「───────はッ」
まただ。突然の眠気……それから目覚めた俺は辺りを見回す。
「気が付いた?」
「西木野……先生」
背後からの呼びかけに振り向くと、“後ろに置いてあった何か”を手に西木野先生は俺の目の前に座った。
「時計、見てみて」
「……20分近く寝てたんですか、俺」
「そうね。最も私は“ずっとアナタと喋っていた”けれど」
「は……?だからさっきから一体……」
すると先生は無言で、俺の目の前に後ろから持ってきたカメラのとある映像を俺に見せた。
『────これで満足か?』
『ありがとう。さっきのこともね』
『……うまくいってなかったら、タダじゃ済まさなかったけどなぁ?』
「なん…………で…?」
喋って……いる。
俺と思わしき……いや俺だ。俺が先生と、会話を交わしている。
この口調、俺はこんな話し方は────!!
「朝日君…“解離性同一性障害”という言葉を聞いたことはあるかしら」
「!!」
解離性同一性障害───二重人格。
「俺が……そうだって言うんですか…?」
「ええ。“あなたの中に、もう1人のあなたがいる”」
「じゃあ……まさ、か……」
「その通り。荒川君を傷つけたのは……“あなたの中のもう1人のの自分”よ」
「──────っ」
この事実を受け止めた俺の身体がまず一番に起こした反応は……震え。
だって考えたことなんてないだろ?
────自分の中に、他人を殺しかねない狂気の人格が存在するなんて。
ましてやソイツは俺の無意識のうちに現れて、誰かを傷つけるのだから。
恐怖。
得体の知れないもう1人の自分への、心の底からの恐怖。
それに体を震わせる俺に、先生は優しく声をかける。
「……続きを見てくれるかしら」
先生は俺に再び画面を見せた。
『さて、質問に答えてくれるかしら。あなたは何故生まれたの?』
『……もう1人の俺を、守るため』
『守る……ため』
『アイツは苦しんでた。親友との別れにも、イジメにも。
声が聞こえたんだ。誰にも迷惑をかけまいと1人で抱え込んだ、誰にも告げることなく溜め込んだ心の叫びが。だから───アイツは俺が守る。アイツを傷つける奴は俺が許さねェ。
アイツにはただ───笑っていて欲しいから』
「………………」
俺の、ために。
誰にも頼ろうとせず、1人で抱え込もうとした俺にも理解者がいた。
────
迷惑をかけたくなかったから。
俺1人が我慢すれば済む問題だから。
そう心に言い聞かせて様々なことに耐えていたのは事実で。
俺の心は……“コイツ”に守られていた…?
「……わかってくれたかしら」
未だ呆然とした頭の中に、先生の声がスッと入り込んでくる。先生が俺を見る目は……悲しみ若干の悲しみ…儚さを帯びていた。
「……荒川君を傷つけたのは、あなたの中にいる、“もう1人のあなた”。そしてその動機は…“あなたを守るため”なの」
「……そんなのって…」
「あなたの言いたいことはわかる。でも彼は……ユウガは間違いなく、誰よりも朝日君のことを大事に思ってる。それだけは、わかってあげてくれないかしら」
「……ユウ、ガ…」
ユウガ。
それが…もうひとりの俺の名前なのだろうか。
俺を守るために、何てことをしてくれたんだ
お前がそんなことをしたから俺は。
そんな思いを抱く反面
───俺のために、ありがとう。
そんな思いの方が、不思議と大きかった。
初めてだったから。誰かに守られるという感覚は。
「……いい奴なんですね、コイツ。まぁめちゃくちゃ迷惑被ってますケド」
「……“彼”を、許してくれるの…?」
「“赦す”しかないでしょ。……っていうか、先生が言ってくれたんですよ?」
──『だからもう、自分を赦してもいいのよ』──
「コイツ……ユウガは“俺”なんです。だからコイツも……赦されてもいいでしょう?」
ニコリと笑ってそう言った俺に先生は最初は驚きを浮かべていたが、ややあってその表情を笑顔に変えると、俺の頭を撫でる。
「……いい傾向よ。解離性同一性障害の治療のステップで肝心なのは……“もう1人の自分の存在を認めること”。普通はこんなに早く受け入れることは難しいんだけど」
「認めるしかないですよ。それに……守られてる自覚も多少はあったので」
俺の怒りが限界を超えそうになった時、俺の意識は“誰かが仕組んだように”ブラックアウトした。
今思えばあれは、ユウガが俺のためにしていてくれたことだったのだろう。
俺が壊れないように、誰かを傷つけないように。
「治療が進めば、ユウガは消えるんですか…?」
「……そういうことになるわね」
「……そうですか…」
「……どうしたの?」
「話して……みたいんです。一言、お礼も言いたい」
「ふふっ。きっとユウガもその言葉を聞けて喜んでるわよ」
先生は、笑いながら俺の胸を指差した。
「…ユウガは、俺の記憶を保持してるんですか?」
「そうよ?」
「なんか……不公平ですね」
「まぁ今後治療を続ければ、いつかできるようにもなってくるはずよ。……それで朝日君、提案があるの」
「提案……ですか?」
「あなた───“私の学校”に通うつもりはない?」
「先生の……学校?」
西木野先生は医者なのに、学校……?
そんな俺の心情を察したかのように、先生は続きを話し出す。
「……ここ、西木野総合病院では今年から病院内で通級性の学校も経営してるの。対象者は、“心に傷を抱えている子供達”。そこで治療を兼ねた勉学を行っているのだけれど……あなたも通ってみない?」
「心に……傷……」
今の話は正直───とても魅力的に思えた。
己のトラウマを多少は乗り越えたとはいえ、二学期に教室に戻ってあの教室でやり直す…というのは精神的に耐えられないものがある。
あのクラスには……
それを“逃げ”だと言われるかもしれないが、再びアイツらの顔を見たら───“何をするかわからない”……
「……正直、興味はあります。一度母親に…」
「その必要はないわ。予めあなたのお母さんに許可は取ってあるの」
「えっ…?」
「お母さん言ってたわよ。
『優真がやりたいように、選ばせてあげて』
ってね」
「……母さん」
本当に、俺は恵まれてる。
こんなに素敵な母親が近くにいてくれて、本当に幸せだ。
溢れかけた涙を無理やり拭い、改めて先生の目を見て────
「行きます、よろしくお願いします、先生!」
俺は一歩、踏み出した。
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「さて、改めて説明を加えようかしら」
一通りを話し合えて、瑞姫さんは解説口調へと変わる。
「時折貴女達に姿を見せていた、威圧感を放つ“もう1人の朝日君……彼の名は、“ユウガ”。
もう1人の自分を守るために生まれた、第2の人格」
「ユウガ……」
その名前は、不思議と私の胸に入り込んできた。
私達を守ってくれた彼は、優真ではなく…ユウガ。
突然の事で正直受け入れがたくはあるが、何故だか納得がいって。
「……さて、ここからはクエスチョンタイム。貴女達には問いに答えてもらうわ」
「……問題、ですか…」
「そんなに固くならなくても大丈夫よ、園田さん。
───
「優真に、何が起きたか…」
「そしてもう1つ。
「優真くんの……秘密?」
「今までの私の話に、その鍵はいくらでもあったわ。あとはそれを繋ぐだけよ。この問いに答えられたら、彼にまつわる“最後の話”をしてあげる」
「……いきなり理不尽じゃありませんか?」
私の声は、意図せずやや不満げなものになってしまった。それを意に介さず瑞姫さんは笑う。
「……これは私の口からじゃなくて、貴女達自身で気づいてほしいの。その方が…………」
「瑞姫さん…?」
「…いいえ、なんでもないわ。さぁ、皆で話し合ってみて頂戴。時間は特に設けないから」
話し合いを促され、私達は改めて互いの顔を見回す。穂乃果だけは部屋の隅で俯いたまま動こうとしなかったのだけれど、それを見てにこが小さく舌打ちをした。
「……どうするのよ、絵里」
「どうするも何も……じゃあ、海未。貴女は瑞姫さんの話を聞いてどう思った?」
「えっ、私ですか…?そう、ですね……
普通に考えれば“
海未の意見に、何人かのメンバーは賛成の意を唱えた。
「……そーね、私も賛成よ。ってか、私にはそれしか思いつかないわ」
「………………凛も。信じたくはないけど…」
「…私も、そう思うけど………何かが…。えりちは?えりちはどう思うの?」
「…………私は…」
私の考えは、皆と同じ。
……だけど私も希と同じように、それを鵜呑みにはできない。
瑞姫さんの先ほどの話を聞いて、違和感が膨らむばかり。
どこかがおかしい。何かが違う。
漠然とした違和感に過ぎないけれど、どうにも無視していいものじゃない気がして。
その時。
「───みんな……本気で言ってるの?」
その呟きは、静寂の中鮮明に響き渡った。
声の主は───
「真姫……?」
「そんなのおかしいわよ。今の話を聞く限り、“ユウガ”さんは優真さんやその大切な何かを守るために生まれて、動いてる。そうでしょ?」
───『アイツは俺が守る。アイツを傷つける奴は、オレが許さねェ』───
「……そんな人が、
「!」
そこで私は気づいた。
今まで自分が感じていた、不自然な違和感の正体に。
───『オレが壊した。あいつはオレらにとって邪魔でしかない』──
「どう考えても、矛盾してるわよ」
そう、そこ。
真姫の言葉通り、瑞姫さんから語られたユウガの人間像は、とても優真を大切にしているように思われた。
そんな彼が、優真のことを“オレらの邪魔”などと…
─────
今まで何気なく聞き流していたその言葉。
それが途端に不自然なものに思えて。
「……ねぇ、みんな」
「どうしたのですか?絵里」
「ユウガが使っていた“オレら”っていう言葉。
“オレら”って誰のことだと思う?」
皆は黙り込み、私の問いの答えを考える。
口を開いたのはやはりというべきか、にこだった。
「……普通に考えれば、私達とユウガのことじゃないの?」
「私も最初はそう思ってた。でもきっと……違う」
「違う…?」
「もし仮にそうだとしたら、
「……!」
突然に湧き出てきたたくさんの疑問点、それに悩まされる頭を整理するように私は言葉を続ける。
「“オレら”が示すのがユウガと私達なら、“
「───彼の言う“オレら”の中に、私達は入っていないということですか…?」
「でもそれがどうしたのよ。“ユウガ”が優真を壊したことには変わりないじゃない」
「…わかってる、わかってるけどっ……!」
真姫と私が挙げた2つの疑問点。
この2つを無視したまま安直な結論へと持っていっていいはずがない。
優真を守るために生まれたユウガ。
優真を傷つけて壊したユウガ。
相反する言動、噛み合わない行動。
オレら。
手元に余ったピースはどこにもハマらず、目の前の
袋小路に迷い込んだ私の思考に、救いの手を差し伸べたのは。
「────“前提”」
「……花陽?」
「────
「前提が……違う?」
「当たり前に思っていたことが、もし──違っていたとしたら」
花陽の顔は青ざめていて、声も震えていたけれど…強い意志を、確かに感じた。
正解が───わかったというの?
『当たり前に思っていること』を取り払う。
“この問題を一番複雑化しているモノ”を取り払った時。
「っ────────!!」
先程まで超難題に見えていたパズルは、いとも簡単な問題へと姿を変えた。
“ハメ違えていたピース”を外すだけで、“答えのピース”が私の手元に現れる。
でも、これって、そんな
「……ぁあ……あぁぁ…………」
「……絵里、ちゃん……?」
震え出した体、それを不審がるように凛が私に心配げに声をかけた。
それ程に…“私が悟った真実”は驚愕的なもので。
だってこの事実は、私達の今までを壊しかねなくて
「……嘘、でしょ…?」
声の方を見ると、顔を真っ青に変えた真姫の姿が。
…きっと彼女も辿り着いたのね、私と同じ真実に。
『彼、朝日優真君は“解離性同一性障害”───
────
「だから……
もし
「絵里、真姫!一体何がわかったのですか!?」
私達が2年以上過ごしてきた彼が
「答えなさいよ、絵里!!」
───
「─────────3人」
「え……?」
「────
連続投稿は一旦ここまでです。
次回、63話【朝日優真の傷 IV 】 仮面
今回もありがとうございました!