その日、アルトリウスはご機嫌だった。
当時、普通の大型犬サイズに成長していたシフは、なぜそんなにアルトリウスがご機嫌なのかわからなかったが、大事で大好きなアルトリウスがご機嫌であるという事実に嬉しくなり、尻尾を振ってアルトリウスの周りをぐるぐると回った。
アルトリウスはそんなシフの動きがおかしかったのか、楽しげに笑いつつ、その手にしていた剣を鞘から抜いて、自慢げに掲げてみせた。
「見てくれ、シフ。さっき王から剣を賜ったんだ。以前の戦功に対するご褒美だとさ」
それはシフの眼から見ても綺麗な剣だった。研ぎ澄まされた刀身は青く光り輝くほど綺麗で、しかし同時に実用性に足る強度を有しているのが目に見えてわかった。アルトリウスの戦い方はどちらかというと荒っぽいものであったが、その剣ならば十分以上に役目を果たしてくれるだろう。
アルトリウスは重そうな剣を片手で振り回して、肩に背負う。アルトリウスはかなり大柄な存在だったが彼に合わせて造られた剣だけあって、完璧に似合っている。シフは褒める気持ちを込めて何度も鳴いた。その意味を正確に理解したアルトリウスは微笑みながらシフの頭を撫で、歩き出す。
「さあ、早速だがこいつの初陣を飾るとしよう。南の森に大量の魔物が湧いたと聞く。そいつらが悪さをする前に一掃しなければな――いくぞ、相棒」
歩き出したアルトリウスの背中を、シフは追いかけた。
王に賜ったというその剣を用いて、幾多もの伝説を作り上げていくのであろうという確信を持って、シフはアルトリウスの後ろを追いかけた。
そんなアルトリウスが相棒と呼んでくれる事実に、この上ない歓喜を覚えつつ、それに相応しい自分になるためにさらなる鍛錬を積もうとシフは自身の心に誓うのだった。
もう何度見たかわからない、アルトリウスとの思い出の夢を見ていたシフの意識は覚醒に近づいていた。鼻孔をくすぐる甘い匂いに、シフがゆっくりと瞼を開ける。
ひとりの少女が目の前に座っていた。シフが眼を覚ましたことに気づいたのか、立ち上がって油断なく武器を手にしつつ、話しかけてくる。
「えーと、とりあえず、私はあなたを傷つける気はないんだけど……言葉はわかるのかな?」
シフはその言葉の細かな意図まで理解できるほどではなかったが、ひとまず敵意がないことは理解していた。ゆえに、特に敵意を向けることなく、ゆっくりと体を起こす。周囲の状況を確認しようと見回したシフは、周囲に無数の獣がいて、それがこちらの動きを見つめているのを感じた。
しかし、シフにとってその周囲にいる獣は警戒にも値しない存在だった。ただ、唯一、目の前にいる人間のような少女からは警戒するに値する何かを感じていた。
ゆえに、シフはじっとその少女を見つめる。
その存在が敵なのか味方なのか、シフは測りかねていた。
シフがそんな風に考えている一方。
対峙しているアウラ・ベラ・フィオーラはこの世界に来て初めての経験に、背中を嫌な汗が流れるのを感じていた。
森の中で倒れていた狼の姿をした魔獣を、アウラが発見したのは数刻前のこと。そのあまりに美しい毛並みと、意識を失っていても感じる強大な力の波動は、アウラを警戒させつつも、ナザリックにとって有益なものを発見できたことに対する喜びに胸中を満たさせた。
外傷もなにもなかったため、ひとまず安全な場所に藁を敷いて寝かせていたのだが、眼を覚ました狼は、アウラの想像を超えて強大な存在だと否が応でも自覚させられた。
(まるでアインズ様を目の前にしたかのような威圧感……! そんなはずないけど、まさか、至高の御方々に匹敵する……? いや、たかが獣が、そんなのありえない!)
アウラは必死に自分の想像を否定する。
だが、少なくとも守護者の中では最弱の自分が勝てる相手ではないことは認めざるを得ない。魔物を魅了する能力はあるが、それに抵抗された時のことを考えると不用意には放てない。それが失敗すれば敵対行動だと受け取られてしまいかねないからだ。
(こんなことなら、せめてコキュートスにでも来てもらっておけば良かった……!)
本来、アウラには使役する魔物がいるため、個の力が劣っていても恐れることはなかった。アウラの力の神髄は個としてのものではなく、群としてのもの。たとえ自分が勝てなくとも、集団戦に限れば他の守護者をも圧倒しうる。ゆえに、この狼がいくら強大でも、所詮は個であり、シモベを多数連れたアウラに勝るものではない――はずだった。
だが、その狼の強大さに、アウラの使役下にある魔獣たちは圧倒され、満足に身動きすら取れていない。アウラのお気に入りであるフェンリルのフェンや、イツァムナーのクアドラシルでさえ、狼の威圧感の前に、萎縮してしまっている。
鞭を手にしたアウラはいつでも攻撃や防御に出られるようにしつつ、狼の反応を待った。緊張感が満ちる、しばしの沈黙。
先に動いたのは狼だった。
不意に視線をアウラから外すと、その頭をゆっくりと地面に接するように伏せる。それは服従という様子ではなかったが、害意や敵意がないことを示すポーズのようだった。
相手に襲い掛かってくる様子がないことを確認したアウラは、安堵から大きく息を吐き出す。まだ相手のスタンスはよくわからないが、ひとまずいきなり襲われることはなさそうだった。
アウラは大丈夫そうなことを悟り、〈伝言〉を用いてアインズに連絡を取る。
『アインズ様、お伝えしたいことがございます』
『アウラか。どうした?』
彼女の敬愛する主人の優しい返事に、アウラはうっとりしつつも、真面目に職務を全うする。
『森で珍しい狼……いえ、狼の姿をした魔獣と思われる存在を発見しました。私の使役するフェンリル並みの大きさで、その力は……私を優に凌いでいると思われます。畏れながら……アインズ様に匹敵する力の持ち主だと感じました』
自身の力が劣っていることを認めることになるため、できれば言いたくなかったが、言わずに秘匿することなどできない。正確な情報の伝達は、自身の矜持よりも優先されるべき事柄だからだ。
『なんだと?』
実際、その情報がもたらされたことで、アインズの中でこのことの重要性は一気に跳ね上がったようだった。
『わかった。その魔獣はどうしている? お前の存在に気づいてはいないのか?』
『それが――』
アウラは森の中を哨戒している最中に倒れている狼を見つけたこと、狼が気絶していたのでひとまず安全な場所で介抱していたこと、眼が覚めた狼に言葉は通じない様子だが、自分たちを襲う気配は見せていないことを伝える。
『ふむ……なるほどな。それほどの存在がなぜ倒れていたかは気になるが……言葉が通じない相手と、敵対関係を築かずに済んだのは大きい。でかしたぞアウラ』
『ありがとうございます!』
アインズ様に褒められた。
アウラは引き締めた表情が思わず崩れるのを抑えきれなかった。
『これより戦力を整え、すぐにお前の元に向かう。それまで、十分に警戒しつつ、その狼の監視を続けよ。万が一の時はシモベを盾にしてでも生き残るのだ。わかったな、アウラ』
『はい!』
アウラはそう元気よく答え、狼を逃がさないように、かといって刺激しないように、観察を続けることにした。
狼は王者の貫録と言わんばかりに目を閉じて体を休めている。
自分が敵にも値しないと判断されているようで不快な感情が湧き上がるが、それならそれで好都合だった。
(アインズ様が来るまで、じっとしておいてよ……?)
緊張感を維持しつつ、アウラは狼を監視するという大役に集中した。
アウラとの〈伝言〉を切ったアインズに、目の前に控えていたアルベドが話しかけてくる。
「いかがなさいましたか?」
「アウラが大森林の調査中に、アウラを超え、私に匹敵する力を持つと思われる狼を発見したらしい」
その情報を伝えられ、アルベドの表情が硬くなる。
「……! それは、非常に懸念すべき事態かと。すぐに討伐隊を編成して……」
「待て待て、焦るな。意志の疎通ができていないことから、ユグドラシルのプレイヤーが変化したものではないとは思うが……なにか重要なファクターになる存在かもしれん。敵対を前提に考えるな」
アインズがそう告げると、アルベドは恐縮して頭を下げた。
「申し訳ありません。軽率でした」
「構わん。だが、十分な警戒はしていく必要がある。……あと、意思の疎通ができる可能性はすべて試すべきだな。意志の疎通さえできれば、こちらが取れる対応も大きく変わってくる」
アインズはそう考え、動物と意思を疎通できる魔法がなかったかどうか記憶を探る。
(……私に使える魔法にはないな。ビーストテイマーであり、ハイ・テイマーであるアウラに意志の疎通ができなかったということは……スキルで意志の疎通を図るのは難しいか。と、なると……もっと種族的な方法に頼るか)
アインズはアルベドに命じる。
「まず戦力としてアルベド、コキュートス、それからいざという時のためにヴィクティムを連れて行く。低位のシモベは私達のレベル相手では刺激するだけになって役に立たんだろうから要らん。エイトエッジアサシンのような奴らもだ。少数精鋭でいくぞ。あとは……」
最後に連れて行く部下の名前をアインズは告げた。
「