えっ、シスコン魔王様とスイッチ姫みたいな力ですか?   作:のんのんびり

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第百二十話 襲撃

 

 

 

 不安定な天気が続いていた梅雨が明け、夏の日差しが眩しく感じる時期となった頃。差し込む光にそっと目を細めながら、姫島朱璃(ひめじましゅり)は洗濯した衣服を干すために庭へと足を運んだ。娘を産んでからこれまで続けてきた彼女の日常であり、ささやかで穏やかな時間。亀裂が出来てしまった姫島本家との関係、そして娘が大きくなっていくこと以外、それほど変化が訪れることがなかった日々。夫や娘に気づかれないように漠然とした不安を笑顔で隠しながら、彼女は静かに過ごしてきた。そう、約一年前までは。

 

「いっくよぉー、キィくん!」

「オニニっ!」

 

 元気な娘の声が耳に入り、朱璃は庭の裏手の方へ顔を覗かせる。そこには、動きやすい服装に着替えた姫島朱乃と、ビシっと返事を返す小鬼が仲良く並んでいた。約一ヶ月前に姫島家へ訪れた魔法使いの少女の力によって、娘と小鬼との間に結ばれた使い魔契約。山の鬼っ子はマイペースドラゴンの教育のおかげもあり、すっかりこの一年間で現代文化に親しんでしまったようで、もうほとんど家の子みたいな扱いになっていた。朱璃が家事で忙しい時は、こうやって二人並んで過ごすのが当たり前になってきたほどに。

 

 どうやら武術の訓練をしているようで、姪から教わった武の型を一緒に確認しながら取り組んでいるようだった。「今度こそ、兄さまに一撃を入れようね!」と意欲を口に出しながら、契約をしたことでさらに意思疎通が出来るようになった小鬼との連携に今は力を入れているらしい。朱乃が腕を真っ直ぐに突き上げると、それを真似して小鬼も腕を振り上げる。遠くから見えるその光景の微笑ましさに、朱璃は二人に気づかれないように様子を伺いながら、くすくすと笑みを浮かべた。

 

 こうやって自然に微笑みがこぼれる様になったのは、いつぐらいからだっただろうか。今でも見えない不安や苦しさが胸に込み上げることはあっても、これからの未来に対して悲観ばかりしなくなっていったことも。遠い昔という訳ではないはずなのに、この一年の間に目が回る勢いで変化していった日常を思って、朱璃は晴れ渡った夏空へ眩し気に目を細める。自分の気持ちの変化と同時に、変わっていった今を懐かしんだ。

 

「それにしても、この家も随分近代的になったものね…。さすがは堕天使の技術力と言ってしまっていいのかしら……」

 

 改めて思い出すと、去年まではこの家にはテレビすらなかったのに、としみじみと呟く。朱璃が洗濯物を干すために外の物干し竿台に近づき、横のボタンを押すと『自動』で朱璃が洗濯物を干しやすい高さに変わった。まず手に持つ洗濯物を掛け、今度は隣のボタンを押すと、奥の竿が手前の竿と入れ替わるように動き、次の衣服を掛けていく。最後のボタンを押すと、日照センサーが働き、『自動』で太陽の光がよくあたる場所へ向かって物干し台が移動していった。もし雨が降ってきたら、『自動』で指定した場所へ向かってくれるので、普段は女手一つで過ごす朱璃にとっては、非常に助かる機能だった。

 

 最初の頃は、色々大丈夫なのかと心配してしまったが、今では慣れた手つきで近代……もしかしたら近未来までいっちゃっているかもしれない機械類を使いこなしていく。巨大ロボの格納庫建設のために何回か訪れた夫の上司(TSバージョン)が、少年の意見と姫島家の様子と親友の家の地下に勢いで秘密基地を造っちゃったお詫びに、「こんなのどうだ?」というノリで置いていった気遣いの品々だ。正直困惑も多大にあったが、便利ではあるのでそのままいただいてしまっている。彼女の夫が「あの、似た者師弟がッ……!」と頭を抱えていたのが、印象的だった。

 

 

「……この家も、いつの間にか明るくなったわね」

 

 家も人も、と彼女は心の中でそっと呟く。それと同時に思い出したのは、三人だけで暮らしていた閉じた世界のこと。たまにしか帰って来れないバラキエルを待ち続け、寂しさを笑顔で覆う娘を思い続けていた日々。それがまさか、たった一人の少年との関わりでここまで変化するとは当時は誰も想像できなかっただろう。

 

 この閉じた世界に新しい風を吹き込んで欲しいと考えていたら、風どころか暴風のような勢いで何もかもをぶっ飛ばしていったのだから。小さな魔法使いの少年は、本当に魔法のような出来事を次々に起こしていっただろう。物理的にも、精神的にも。新たにもたらされた幾瀬朱芭様と幾瀬鳶雄くんのことも含めて、思わず頭を抱えそうになってしまうほどに。

 

『やっぱり朱璃さんの作るご飯って美味しいよなぁー』

『うん! あのね、奏太兄さま。今日は朱乃がお味噌汁を作ったんだよ』

『えっ、マジで? ……おぉー、なかなか良い出汁が出ているじゃん』

『えへへー。隠し味は雷光を慎重に調節してね、使うことなの!』

『――うん? ……まぁ、料理に能力を使うのは別に普通のことか』

 

 普通じゃありません。そこはツッコんで欲しかった。ちょっと色々感化されてしまったところはあったけど、兄として妹にたくさんのことを教えてくれただろう。彼は姫島朱乃を一人の女の子として、ずっと見ていてくれたのだ。それも、堕天使と人間のハーフであることを当たり前のように受け入れて。普段は人間の女の子と同様に接するが、遊ぶときは雷光や堕天使の翼を使うことが『当然』のような遊びを一緒に行ってくれた。

 

 家族とは違う第三者の視点から、危ないことをしたら叱り、上手に出来たらたくさん褒め、朱乃が何をしたいのかを一番に考えてくれただろう。それがどれだけ姫島朱乃の自尊心を、純粋な人ではなく堕天使の血が流れる異形側である自分自身を受け入れる心を、これからの未来を見据える視点を育ててくれたことか。この一年で、随分明るくなった娘を思い、朱璃の心も一緒に軽くなっていったことだろう。

 

 

『おばさま、私はこれから『朱雀』継承の儀式に向かい、次期当主としての務めを果たして参ります。当主になった暁には、おばさまと朱乃が家に戻ってこられるようにどんどん改革を進めていきますので、どうか待っていてください』

『朱雀ちゃん…。あなたは、姫島の家に選ばれた存在なのよ。私達は、あなたの優しい気持ちだけで十分だから。私達に関わることで、朱雀ちゃんが辛い思いをしてほしくないの』

『……おばさまなら、きっとそう言うと思っていました。でも、私のこの夢は、もう私一人だけのものじゃないんです。私の夢を一緒に背負ってくれる友人達がいて、背中を押してくれる人たちだっていますから』

 

 そして、姉の娘であり、姪である姫島朱雀との再会。次期当主としての訓練に忙しいだろうに、時間を見つけては彼と一緒に朱乃とたくさん遊んでくれた。立派に成長した彼女と話をし、その一直線に突き進む危うさと優しさに心配しただろう。姫島の才能を持たない朱乃を朱雀が受け入れてくれただけで、朱璃は嬉しかったのだから。だからそれ以上を望んではいけない、と思っていたのだ。

 

 そして、儀式を受けるために別れを告げた最後の日。改めて誓いを口にした朱雀に、朱璃は沈痛な面持ちで首を横に振った。輝かしい未来が待っているはずの子どもに、自分の我儘を押し付けてはいけないと必死に言葉を紡いだ。しかし、そんな朱璃へ向けて、朱雀は柔らかな表情で胸を張ってみせた。

 

『おばさま、逆ですよ。これは、私の我儘なんです。堂々と私が、おばさまと朱乃と一緒にいたいだけなんです。私の我儘で、おばさまと朱乃を勝手に助けるんですよ』

『朱雀ちゃん…』

『だから、おばさまが家に戻った時、すごく心配させた母さまへの言葉をちゃんと考えて待っていてくださいね』

 

 茶目っ気が含まれた夕陽色の瞳には、強く眩しい光が宿っていた。決して譲ることのない、真っ直ぐなまでの意思。悲痛な覚悟はそこになく、あるのは絶対に叶えてみせるという自信に溢れた決意だった。その目と真っ直ぐに向き合ったことで、朱璃がどれだけ止めても朱雀の想いは変わらないのだと悟ったのだ。

 

 朱璃と朱乃を家に戻してみせる。それがどれほど無謀なことなのかを朱璃はわかっていた。だから、姪を心配する内容を口にしながら、無理だと勝手に決めつけていたのだ。しかし、諦めることのない光を見つけたことで、朱璃の中でようやく朱雀の誓いがじわじわと心に響いてくる。もう諦めていたはずの朱璃の願いの種に、光が当たったのだ。

 

『おばさま、どうか諦めないで。朱乃とおじさまとの未来を、信じてください』

 

 朱雀は朱璃の手を取り、ギュッと握りしめる。どこか儚げで、いつか手の届かないところへ消えてしまいそうな叔母の存在を確かめるように、温かな熱を混じり合わせた。その手の温かさに、自分の我儘で手放したはずの姫島の家族との繋がりを朱璃は思い出す。自分勝手に振り払ったこの手を、まだ繋がっているんだと必死に掴もうとしてくれている家族がいることを。

 

 夫であるバラキエルと出会い、通じ合った事に後悔はなかった。愛しい娘ができ、三人で暮らす慎ましいながらも幸せを感じる生活。彼女は『姫島』としての生き方ではなく、一人の女としての道を選んだ。姫島に望まれないたった一人の娘の『母』であることを選んだのだ。その選択が、『罪』であることはわかっていた。だから彼女は、自分の所為で夫が姫島に恨まれていることに心を痛め、これ以上の幸せを望んではいけないと心のどこかで思っていたのだ。

 

『護ります。私は『朱雀』を継承し、姫島の当主になる者。私がこれからの『姫島』の体現者になってみせます!』

 

 力強く胸に片手を当て、姫島の業を全て背負うと宣言する朱雀へ、朱璃はもう引き止める言葉を口にすることはできなかった。一瞬でも、夢を見てしまったから。朱雀の夢が本当に叶ったら、と願ってしまったから。心に差し込んだ光が、自身の犯した『罪』すらも優しく包み込んでくれたような気がしたから。

 

 その温かい眩しさを受け入れた朱璃の口から出てきた言葉は、朱雀の背中を押すことになった。

 

『朱雀ちゃん。……無理だけは、しちゃだめだからね』

『――ッ、はいっ!』

 

 朱璃から告げられた言葉に、朱雀は満面の笑みを浮かべて返事をする。子ども故に護らなくてはいけないと思っていた姪は、次期当主としての覚悟を胸に、前へ進む道を選んでいたことに気づかされた。姫島朱璃と姫島朱雀の最後の別れは、お互いに笑顔で向かい合ったのであった。

 

 

「今頃朱雀ちゃんは、継承の儀式を行っている頃かしら…」

 

 朱雀とのやり取りを思い出したのは、今日がその日であったからだろう。朱夏(しゅか)に相応しい、雲一つない晴れ渡った空。日が長い夏の季節であるが、その空も少しずつ赤みを帯び出している。心の中で姪を応援するように空へ祈りを捧げ、これから夕飯の準備に取り掛かろうとしていた手が一端止まった。

 

「母さまー。今日は父さま、お夕飯には帰ってくるんだよね?」

「えぇ、そう聞いているわ。急にお仕事が入っちゃって、残念だったわね」

「むぅー、今日はお休みだって言っていたのに…」

「オニー」

 

 小鬼との修行が終わったのか、台所へひょっこり顔を出した朱乃に朱璃は優し気に頭を撫でる。今日は父親と街へ出かける予定だったので、それを楽しみにしていた娘は不貞腐れながら母へぷんぷんと怒り出す。父と一緒にもうすぐ来る朱璃の誕生日プレゼントを買いに行く予定だったため、それが延期になったのはさすがにお気に召さなかったらしい。それに小さく笑いながら、朱璃は汗をかいた娘をお風呂へと案内した。

 

「あのヒトも朱乃との買い物を、きっと楽しみにしていたわ。だから、あんまり怒らないであげてね」

「はーい。……父さま、この前見た怖い人達みたいなヒトと今も戦っているのかな」

「……朱乃」

 

 砂まみれになっていた朱乃の服を脱がし、シャワーを頭からかけてあげるとギュッと目を瞑って艶やかな黒髪を水で流していった。一緒に汚れた小鬼も、頭からお湯をかぶり、ぶるぶると身体を震わせている。そんな最中、ポツリと娘が呟いた言葉に、朱璃はすぐに返事を返せなかった。

 

 一年ほど姫島家に来れなくなる朱雀が最後に告げた、『姫島が高名な術者を雇ったらしい』という情報を受け取り、バラキエルはアザゼルと相談して長期の任務や遠方の任務をしばらく受けないように気を付け、様子を見ることにしたのだ。『姫島の闇』が『雷光』のことを指すのかはわからないが、彼らの生徒である少年が「嫌な予感がする」と直感を告げたことも含め、警戒態勢を()いておくべきだろうと頷き合った。

 

 それから、堕天使側から秘かに姫島の動向を探り続けたことで、その術者達が『雷光』の住処へと向かっていることが判明し、バラキエルが迎え撃つことになったのだ。堕天使の敷地へと彼らが入る様子を、『侵入者発見ジゾーくん』に内蔵した防犯カメラの映像から確認した後、雷光はすばやく空を駆けて三の鳥居より先に行かせないように立ち塞がった。四の鳥居の先は、自分の生徒の頑張りで酷いことになっているので、せめてもの情けだった。

 

 朱璃と朱乃も安全を考え、ザゼルガァーに搭乗しながら画面に映る映像から様子を伺う。朱雀たちとの関わりによって、朱乃も黒い翼を持つ者として自分は当事者なのだとしっかり事態を認識していた。最初は朱乃には見せるべきではない、とバラキエルは考えたが、朱乃自身がちゃんと知っておきたいと懇願したのだ。さすがに戦闘の様子は刺激が強すぎるため見せられないが、戦闘が始まるまでは自分の立ち位置を改めて確認することを含め、ジッと父親と術者達の様子を見続けた。

 

 そうして現れた術者達は、厳しい顔で佇む『雷光』と相対し、姫島本家から姫島朱璃の奪還を依頼されたことを告げた。それにバラキエルは冷静に、姫島朱璃を洗脳していないこと、彼女とは互いに想いあって一緒にいることを話し、娘を心配する気持ちもわかるが故に、このような強硬手段ではなく堕天使の幹部として穏便に交渉できるのならしたい、と必死に言葉を紡いだ。朱乃はその言葉に、ギュッと母の服を強く握りしめながら聞いていた。

 

 堕天使側は姫島本家と何とか話し合いができないか、と粘り強く語り掛けたが、突如バラキエルの死角から術が放たれたことで交渉は決裂する。武人としての経験から瞬時に雷を放ち、相手の術を相殺した『雷光』に驚きの声が上がった。おそらく交渉をする振りをしながら、最初から彼らはバラキエルの不意を打つ算段だったのだろう。それに歯を噛みしめる『雷光』へ、奇襲が失敗したことに舌打ちをし、異形の言葉など信じられるか、と術者達は嘲るような表情で武器を向けた。

 

『この先に、依頼された娘がいるのだろう。通らせてもらうぞ』

『……この先へ向かう気なら、地獄へ落ちるぞ(二重の意味で)』

『はっ、地獄ね…。この人数をたった一人で相手にする気とはな……』

 

 最終通告を告げる『雷光』へ、術者達は一斉に武器を手に取り、容赦なく襲い掛かった。そこで映像が途切れたことに朱乃と朱璃は息を呑むが、おそらくバラキエルが映像を見せないようにジゾーくんに内蔵されていた映像記録に電流を流して止めたのだろう。

 

『父さま…、父さまッ……』

『大丈夫、父さまなら大丈夫よ。朱乃』

 

 映像は止まったが、朱璃だけは式紙を使って外の様子を探っていたからこそ、涙を流して震える娘を抱きしめながら、優しく何度も言葉をかけた。母の冷静な言葉を聞き、必死に涙をこらえるように唇を引き結んだ朱乃は、父親の無事を祈るようにギュッと手を合わせる。兄や姉から、父はすごく強い武人だと聞かされてきた。父が今まで受けてきた悪意を知り、それでも自分達を護ろうとしてくれている姿を知った。朱乃はただただ、父の無事だけを祈り続けた。

 

 それから、次に通信が繋がったのは兄からだった。万が一のため、姿を消して『雷光』の後続に控えていた兄から、バラキエル一人で術者達を退けたことが伝えられ、ようやく肩の力を抜くことが出来たのだ。父はその後処理に追われているのと、兄の感知を使って他に潜んでいる者がいないかを確認出来たら戻ってくると知らせを受ける。朱乃はホッと息を吐き、安心からか意識を落とし、朱璃は娘を抱きかかえながら受けた報告の内容を考えていた。

 

 『雷光』が術者達の命を奪わずに逃走を許したのは、彼らが姫島本家が雇った者であったからだろう。関係の悪化を防ぐためでもあり、堕天使側が交渉を望んでいる事を姫島本家へ伝えるメッセンジャー役。そして、どれだけ武力を揃えようと『雷光』は越えられない、ことを暗に伝えるために。術者達にしてみれば屈辱的な扱いだろうが、姫島との関係を優先的に考えた結果なのだろう。信じていたが、夫が無事であることに朱璃もようやく安堵の息を吐いたのであった。

 

 

「大丈夫よ。あのヒトが強いのは、一緒に修行をしている朱乃が一番よくわかっているでしょう?」

「うん…。あのね、もし父さまが怪我をしちゃっていたら、朱乃が治してあげるの。朱雀姉さまに、怪我をした時の方法をいっぱい教えてもらったんだよ」

「そう、さすがは朱乃のお姉ちゃんね。それなら、父さまも安心よ」

 

 朱乃が先ほど告げた『この前』とは、ほんの数週間前の出来事だ。当時のことを思い出し、朱璃は自分に流れる血の業に唇を噛みしめる。あれから静かなものだが、姫島が諦めたかはわからない。さすがに『雷光』一人にあっさり撃退された術者達が、また同じように乗り込んでくるとは思えない。二度目の襲撃となれば、バラキエルも容赦はしないだろう。そのため、しばらくは姫島の動向を探るべきだろう、と総督とバラキエルで話し合われたそうだ。

 

 まだまだ幼い娘は、あの映像を見て恐怖を感じただろう。しかし、それを呑み込んで少しずつ自分に出来ることをやろうと前に進んでいる。姫島の血筋が父親と娘を苦しめていることに悔やむ気持ちは晴れないが、それでも朱雀と約束した言葉が朱璃を奮い立たせた。これからも家族三人で過ごせる未来を信じる。そのために、朱璃自身も自分に出来ることは何かを考えるようになっていた。

 

「さぁ、スッキリしたわ。お仕事を頑張ってきた父さまのためにも、うんと美味しいお夕飯を作ってあげなきゃね」

「私もお手伝いする! 父さまはたくさん食べるから、大好きな肉じゃがをいっぱい作ってあげるの!」

「ふふっ、頼もしいお手伝いさんね。それじゃあ、さっそく取り掛かりましょうか」

「おー!」

 

 先ほどまでの不安を拭うように、母娘は元気よく腕を捲って食材の準備を始める。最新式の冷蔵庫から野菜を取り出し、高さを調節できる機能がついたキッチンの作業台を朱乃の身長に合わせ、慣れた手つきで包丁を片手に食材を切り出した。娘もだいぶ近未来性能に馴染んだようで、逆にコレに慣れちゃっていいのかしら…? と別の意味で一抹の不安を浮かべながらも、順調に共同作業を続けていった。

 

 炊飯器にお米をセットし、ようやく夕飯の準備が一段落ついてきた頃。バラキエルが帰ってきたらすぐに食べられるように、ラップでお皿を包む作業を朱乃に任せ、シンクの掃除を朱璃は黙々と行っていた。空は徐々に夕陽色が綺麗に映り出し、黄昏がもうすぐ訪れそうな様子に目を細める。大空を羽ばたくあの黒い翼が、暗闇で見えなくなってしまう前に帰ってきて欲しい。朱乃には仕事だからと言って納得させたが、朱璃自身も言い知れぬ不安が胸に残っているのを感じていた。それを考えないように、小さく首を横に振って散らした。

 

 黄昏に近づく刻限。『雷光』を待ち続けていた母娘の目に、――使い魔である小鬼の慌てた様子が映った。

 

 

「オニニッ!? オニ、オニッ!!」

「わっ、どうしたのキィくん? そんなに慌てて、ご飯はまだだよ」

「オーニィー!」

 

 そういえば、普段は朱乃の傍でお手伝いをしてくれていた小鬼の姿が、ふと見えなくなっていたことに二人は気づく。慌てた様子で朱乃と朱璃の衣服を小さな身体を使って引っ張る小鬼に、二人は顔を見合わせ、居間のテレビの前へ向かった。マイペースドラゴンに振り回され続けたおかげか、ちょっとやそっとのことでは慌てることのない使い魔が、ここまで狼狽する姿に嫌な予感が過ぎったのだ。

 

 居間には、兄が設置をお願いした大型テレビが鎮座している。そこで毎日、仕事の休憩時間にバラキエルとテレビ電話通信を楽しんだり、朝の子ども劇場を見たり、姫島家の大事な日常のサイクルの一つとなっている場所。そして、もう一つ。このテレビには、この山に入ろうとする者を映し出す防犯の機能もあった。チカチカと山へ近づく者がいることを知らせるランプが点灯していて、それに父親が帰ってきたのかと思ったのは一瞬だけだった。 

 

 恐る恐る映像に目を向けると、目に映ったのは闇に紛れ込むような色を纏った何人もの人物の姿。ジゾーくんから映し出される統率された動きと男たちの昏い目つきは、一般人だとはとても思えなかった。入り口である鳥居の前へ集まった彼らは、結界が張られていることを悟り、一人の人物が前進して来るのが映った。

 

「この人、この前父さまが追い払った人……?」

 

 朱乃は、その人物の顔に見覚えがあった。数週間前、バラキエルと対峙した術者の一人だと。よく見ると、他にも何人か見覚えがあるが、大多数の者はわからない。姫島が依頼した術者達は全員日本人だと思っていたが、明らかに洋風な顔立ちの者も見られ、以前と違って統一性があまり感じられなかった。

 

「待って、おかしいわ。そんな、あり得ない…。まさか、姫島の『約定』を破ったの?」

「か、母さま?」

 

 バラキエルから堕天使と敵対するいくつかの組織の特徴について聞き及んでいた朱璃は、彼らが纏う衣服や武器、刻まれた文様などから状況を推察し、顔からサッと色を無くしていく。姫島本家に依頼され、襲撃を仕掛けた者たちが、別の組織の介入を許したのだと気づく。数週間前の彼らの会話を思い返せば、少なくとも姫島は強引な手段を選びながらも、堕天使と本格的に敵対しないギリギリを狙っていた。彼らの目的は堕天使ではなく、あくまで洗脳されたとされる朱璃の奪還だったのだから。故にバラキエルも、術者達を退けただけで、それ以上は手を出さなかったのだ。

 

 しかし、これは完全に約定違反である。堕天使と本格的に敵対行動を取っている組織を介入させるなど、堕天使の組織への宣戦布告と取られてもおかしくない。それに姫島にとって、堕天使と共にいる朱璃とその娘は、決して口外してほしくない存在のはず。だからわざわざ姫島の『奥』にまで招いて、自分達にとっての汚点を外に洩らさないように考慮したのだろう。それを彼らは、『雷光』に対する恨みを晴らすために台無しにしたのだ。

 

 バラキエルがいない状況もあるが、朱璃が顔色を無くした一番の理由は、彼らは姫島の意向など全く考慮しないだろうということだ。つまり、朱璃の奪還など頭になく、自分達が敵対する組織の幹部を貶めるために、堕天使に関与する人間と『雷光』の娘を粛清しに来た。自分が姫島に大人しく帰れば、朱乃は見逃してくれるかもしれないという一縷の望みさえなくなったのだ。

 

「母さま! 父さまに伝えないとっ!」

 

 ハッと朱乃の訴えに目を見開き、緊急時に知らせるための連絡先へと繋げる。これで朱璃達に何かあったと夫は気づくだろうが、果たして間に合うか。今回の仕事は武闘派のバラキエルでなければ解決できないだろうと、トップから緊急で呼び出されたものだ。ここでのんびりしている訳にはいかないだろう。

 

 術者の男が複雑な印を結び、入り口に張られていた認識を歪ませる結界が破られ、大勢の人間たちが敷地内へ侵入してくるのが見える。朱璃は朱乃の手を引き、急いで防衛・緊急脱出用に設置されたザゼルガァーの下へ向かおうと立ち上がった。

 

「あっ、確か何かあったら必ず知らせてくれって、奏太兄さまが……」

「駄目よ! 相手は子どもだろうと躊躇なく殺しに来る相手。奏太くんを巻き込む訳には――」

「オニっ!」

 

 ポチっと、小鬼が緊急時の連絡先を送信した。送信先はバラキエルではなく、朱乃にとって兄である人物へと向かった信号。それにポカンと口を開く朱璃だったが、小鬼は両手を上げて朱乃へガッツポーズをした。

 

「えっと、奏太兄さまから事前にキィくんにお願いしていたんだって。きっと緊急時、母さまは兄さまを巻き込ませないようにするだろうから、頼んでいたみたい…」

「あ、あの子は……」

 

 思わず呻くように呟いてしまった。普段は大らかで抜けている部分もある少年だが、ここぞという時に働く直感は朱璃自身も舌を巻いていたのだ。それがまさか、この場面で適応されるなど考えてもいなかった。無茶だけはしないで欲しいと願いながら、母として娘を守るために、そして朱雀との約束を守るために朱璃は駆けだした。おそらく襲撃者は、もうすぐ四の鳥居へとたどり着く頃だろうから。

 

 闇を纏う集団は止まることなく粛々と進み続ける。己の中の正義を掲げ、忌々しき邪悪なる黒き天使に鉄槌を下すために。乱れることのない走行は、昏い威圧を纏いながら確実に姫島家との距離を詰めていく。彼らは何も語ることはせず、内に秘めた憎悪の感情が紅色の夕差しと共に山を蹂躙していった。

 

 

 ……さて、あまりにもシリアスな空気と突然の事態に慌てていたため、朱璃と朱乃はうっかり抜けてしまっていたが、何故あの時バラキエルは大急ぎで三の鳥居まで襲撃者達を出迎えたのだろうか。その答えは、青に混じり合うように溶ける紅や黄金にも見える混沌とした空を思い起こすような、深淵が顔を覗かせるとわかっていたが故に。

 

 黄昏にまた一歩近付き、止まることのない行軍は第四の鳥居を真っ直ぐに駆け抜けていった先で――

 

 

 

 ――カチリッ!

 

『ミルキーマジカル・スタンドアァッ~~プッ! レッツ、レボリューション!!』

 

 

『……えっ?』

『――!!??』

 

 

 地獄が、始まった。

 

 


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