えっ、シスコン魔王様とスイッチ姫みたいな力ですか?   作:のんのんびり

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 数話ほど修行編という名の日常ターンになります。


第百四十七話 起源

 

 

 

「それにしても、すごい森の中だなぁー。しかも傾斜や段差が多い分、なかなか険しいし」

「当然でしょ。人の手が一切入っていない自然の中を進むのだもの」

「ハイキングコースの有難さを感じるわ」

 

 今後山登りをするときは、山を切り開いた先人達の苦労に感謝しよう。そんなことを考えながら、これも大切な修行だと切り替え、的確に足場を見つけては瞬時に跳んで移動していった。相棒の力はちょっとお休みさせてもらっているので、これがなかなか難しかったりする。うっかり間違った足場に降りると崩れるし、地面がしっかり固まっていないと足を取られるし、重心に気を付けないとうっかり足を滑らせかねない道なき道。草木で覆われているから先行きの見通しも悪く、正直仙術もどきがなかったら進むのもきつかったと思う。

 

 自然豊かな場所とリクエストしたのはこっちだが、マジで本格的な登山になってきている。正直山を登るには最低限の荷物しかないことに不安を覚えるが、目の前でさっさと進む黒髪の後ろ姿を見ていると、そこまで心配はいらなさそうだ。彼女の足取りに一切の迷いがない。電話で会話をした時はわざわざこちらの修行に付き合ってくれることに申し訳なさを感じたが、正直いてくれて助かっている。本人も家の仕事で忙しいだろうにな。

 

「朱雀は何でそんなにぴょんぴょん進んで行けるんだ?」

「姫島……というより、五大宗家の子どもはしきたりで山ごもりをするのが掟だからよ。物心つく頃には山に放り込まれていたから、これぐらいの山なら大したことないわ」

「相変わらず、そっちは高度な教育をやっているなぁ…」

 

 俺の前を進む姫島朱雀の答えに、遠い目をしながらその背中を追っていく。お嬢様生活だけじゃなくて、正反対の野生生活まで経験済みとか、そりゃあこんな逞しい女子中学生が育つわ。日本の裏で魑魅魍魎と戦ってきた五大宗家は、四神と黄龍を司る一族である。彼らは万物が火・水・木・金・土の五種類の元素からなると考え、五大宗家はその元となる霊獣を代々継承して信仰してきた。自然いっぱいの山は崇拝の対象として尊ばれることもあるみたいだし、山で修行するのは自然大好きな彼らにとって当然の帰結だったのだろう。

 

「それにちょっと山で瞑想をしてくると言えば、家の者は特に不審に思わないから外に出やすいもの。久しぶりに身体も動かせて、こっちも気晴らしにちょうどよかったわ」

「現役の女子中学生が、山を憩いの場にしているのはいいのかと思うけど、快く送り出す実家もすごいな…」

「そういう家だもの」

 

 山道はそれなりに厳しくあったが、こんな風に世間話に花を咲かせるぐらいにはお互いに余裕がある。体力づくりは常に心掛けているから、目的地までこのまま特に問題もないだろう。二人だけの道のりは時々沈黙を生むこともあるけど、居心地の悪さはあまり感じない。お互いに遠慮がいらない相手だから、ということもあるだろうけど。人脈がどんどん広がっていった関係で最近は大人数で過ごすことが増えていたので、こうして誰かと二人きりで過ごすのは久々な気がした。

 

 さて、本日の朱芭さんの修行は野外で行うことになったため、こうして森の中を突っ切っているところだ。いつも通り幾瀬家で訓練はできるが、やはり家の中だとできることは限られてくる。それに精神統一をするにも、一般家庭の中ではそこまで深く瞑想するのは難しい。しかし、朱芭さんの体調面を考慮したら、遠出なんてできるわけがない。そんな色々と制限がある中での修行になるのは仕方がないため、こうして独自に動く必要がある場合もあった。

 

 本日は朱芭さんから指示を受け、自然あふれる場所で瞑想を積み、自分の中にあるものを深く見つめ直すのが本日の課題である。なんとも抽象的な内容だが、今後秘術を行使していく上で、自分のオーラを乗せるのに最も適した依り代をイメージするのは大事なことらしい。簡単に言えば、自分をモチーフにした生き物や道具や方向が何かを探れって感じだ。つまりは「起源」であり、その者の「本質」とも言いかえれる。

 

 俺の場合は神器が槍だから「槍」でいい気もしたけど、朱芭さん曰く、どうも自分と相棒は完全に別枠だと考えてしまっているため、深層心理にズレが起こるかもしれないから却下と言われてしまった。正論過ぎて何も言えない。俺にとって相棒という存在が特別なだけで、別に「槍」そのものにはそこまで執着はない気がする。もし相棒が突然剣や杖になったら、めちゃくちゃ戸惑うだろうけど……それでも俺は相棒と一緒にいるだろうから。まぁ、神器に目覚めて九年間ずっと槍を使い続けてきたから、思い入れはもちろん一番あるけどね。

 

 しかし、そうなると全然思いつかない。「相棒」こそが俺の起源じゃないかと考えても、これまで紅い光でしか感じたことがないのでイメージが湧いてこないのだ。例えば原作の主人公である兵藤一誠や、そのライバルであるヴァーリ・ルシファーなら、自身の神器である「ドラゴン」と一心同体であることからわかりやすい。彼のヒロインたちも、「ドラゴン」に影響されてイメージを作り上げている姿があった。また姫島家なら、代々「鳥」をイメージしてそこに術を乗せていくスタイルだし、朱璃さんや朱乃ちゃんは「鬼」と「雷」をメインにしている。

 

「朱雀の「起源」って、やっぱり『霊獣朱雀』なのか?」

「えぇ、そうよ。私は生まれたときから、『霊獣朱雀』を自分の内に感じ取ることができたわ。だからこそ、真名そのものに「朱雀」という名前が与えられたのよ」

「なるほどなぁ…」

「奏太の場合は、そうね…。これまでの生き方がヒントになるんじゃないかしら」

 

 朱雀からのアドバイスに首を傾げながら、とりあえず考えてみることにする。これまでの生き方と言われてまず思いつくのは、……俺は随分『幸運』だったように思う。一つでも道が違ったら、間違いなく今この時はなかっただろうから。「相棒」に出会えて、「みんな」に出会えて、自分が進みたい未来に真っすぐに向かって行ける。努力だってもちろんしてきたけど、間違いなく『幸運』でもあったと感じた。

 

「えーと、運がいいとか……?」

「そうね、間違ってはいないと思うわ。奏太の人脈って明らかにおかしいし、ここぞでの勝負運も強い。様々な縁を繋ぎ、幸運を運ぶもの。まぁあなたの場合、それに伴う『変化』も激しい所為でとんでもなく大変な目にあうけどね。……真面目な話、いったい私に何度『取り扱い説明書』のバージョンアップを頼んでくるのよ。気づいたら、白龍皇を拾っていましたとか馬鹿なの?」

「真顔で暴言を吐かれた件。……ヴァーくん、いい子だよ?」

「朱乃やおばさまからも聞いているわ。まったくもう…」

 

 ぷりぷりと文句を言われたが、何だかんだで受け入れてフォローしてくれるところが姫島朱雀である。今回もこうして手伝ってくれているしな。朱芭さんから自然豊かな場所と言われたとき、オーラに満ちた自然はだいたい日本の古い組織が管理している場合が多い。なら、その古い日本の組織の次期当主に「どこか修行に良い場所はないー?」と聞くのは当然だろう。ちょっと呆れられたが、櫛橋家の『霊獣青龍』継承の儀式も無事に終わって手が空いたから、とわざわざこうやって来てくれたのだ。

 

 それにしても少しの会話だけだったけど、いくつか俺の「起源」に関するキーワードが揃った気がする。『幸運』『縁』『変化』に関連するもの。あともう一つ何か決定的なものがある気がするんだけど、それがわからなくてもやもやしてしまう。倉本奏太という人間を象徴する『何か』。それさえわかれば、一気にイメージが完成するような気がするんだよなぁ…。

 

 自分について考えながら草木が生い茂る山を登り続けた先で、ふと鼻孔をくすぐる様な匂いに顔を上げた。断続的に聞こえてくる水音と、シンと澄んだ清廉な空気。どうやらここが朱雀の目的地だったようで、先に到着した彼女は背負った荷物をてきぱきと近場の岩に下ろしている。俺も朱雀に倣って荷物を置いていき、目の前に広がる滝の美しさに思わず目を奪われた。

 

「さっ、ついたわよ。ここの滝は水流の水圧もちょうどよくて、龍脈が下を通っているから清めや瞑想を行うのに優れているの。私も久しぶりに来たわ」

「はぁー、見ているだけで何か心が洗われるような景色だな…。五大宗家って、いつもこんな山道を歩いて滝修行とかしているのか?」

「さすがにいつもは無理よ。だから『奥の院』の最奥に、人工的に作り出された小さな滝があるの。ただあそこは、五大宗家の中でも一定以上の権力を有した者だけが修行を行える神聖な場所。それ以外の者はこうやって自然に触れながら、己の身を清めてオーラを高めていくのよ」

 

 朱雀の説明から、五大宗家のしきたりの多さに相変わらずだと肩を竦める。この破天荒娘が家のしきたりに関して、愚痴の一つや二つぐらいこぼしたくなるのも頷けた。今日の課題である瞑想を行うため朱雀に相談した結果、滝行を行うことになったのだ。滝行は密教や修験道、神道の数ある修行の内の1つで、己と向き合い、強靭な精神を養うために行われてきた古典的な修行方法の一つである。

 

 確か作法として、白装束に着替えるんだよな。朱雀に言われて持ってきた着替えを手に、向こうの草むらで着替えてくると彼女に声をかけようとして――

 

「さっ、早くやるわよ」

「えっ?」

 

 バサッと着ていた服に手をかけた姫島朱雀に、俺の思考回路は停止した。

 

 

「――おまっ、おまッッ……! ここで当たり前のように、着替えようとするやつがいるかァッ!?」

「あら、私だってせっかくなら滝行をしたいもの」

「違う、そういう意味じゃねぇっーー!!」

 

 あまりにも平然と返されるものだから、俺の方がおかしいのかと思ってしまいそうになる。そうだったよ、こいつ忘れそうになるけど生粋の箱入りお嬢様だったわ…。使用人とか普通にいるし、周囲から見られることが当たり前の生活をしている。それに生まれたときから次期当主として定められ、厳しい修行をこなしてきた朱雀は、これまで普通の女の子としての生き方を周りから教わってこなかった。彼女の親や叔母であった朱璃さん以外、誰もが彼女を次の「姫島」を受け継ぐ存在としてしか見てこなかったのだ。

 

 つまり、姫島朱雀に対して「普通の女の子」のように見る者なんて一人もいない。彼らにとって朱雀は、自分たちが信仰する火の神の現身であり、『霊獣朱雀』そのものなのだ。彼女の場合はその身に秘める才能から多くの者に畏怖され、同年代からは完全に崇拝対象で、唯一対等に接してくれるのが同じ四神の後継者だけらしい。幼い頃に遊んだ叔母の朱璃さんに対して、朱雀があれだけ懐いていた背景にはそういう側面もあったのだ。

 

 俺からすればファミコンすぎる破天荒娘にしか見えないため、姫島の人たちはもっとこいつの教育を頑張った方がいいと思う。たぶん朱雀からの俺への信頼もあるし、ぶっちゃけ男として見られていないのはわかっているが、それでも異性に対する接し方を学んでほしい。いっそのこと、もうはとこの鳶雄にぶん投げてやりたいが、さすがに丸投げは可哀想なので友人としてできる限りは頑張ろう…。

 

 それから、何とか必死に朱雀を説得して別々に白装束を着ることができたが、これだけで一気に疲れを感じた。朱雀はさっさと慣れたように滝の方へ足を進め、岩の間から流れ出る水流に身を預けだす。目を閉じて、手を合わせて集中する朱雀に溜め息を一つ吐き、俺も少し離れた小さな滝に向かって歩みよった。

 

「うわっ、冷たっ!?」

「そこで固まっていても、体温を奪われるだけよ。最初は衝撃や冷たさを感じるけど、徐々に水に打たれる感覚だけが残るようになるわ。それまで耐えなさい」

「お、おう…」

 

 朱雀に言われた通りに思い切って滝の中へ入り、頭部から落ちてくる滝の水に身を任せる。見様見真似で朱雀と同じように目を閉じ、なんとか無心になって滝に打たれ続けた。五月になってだいぶ暖かくなったように感じていたけど、これはマジで辛い。ガチガチと音が鳴る歯を噛みしめ、上から落ちてくる衝撃に姿勢を崩さないようにしないといけない。合掌した手の平だけが、唯一感じる温もりである。滝行が立派な修行扱いなのが、身をもって理解できました。

 

 それから数分後。朱雀からの合図で第一回目の滝行は終わったが、正直瞑想できるほどの余裕がなかった。持ってきたタオルに包まり、朱雀が召喚してくれた『霊獣朱雀』の炎に当たりながらガクガクと震えるしかない。ストーブ役ありがとうございます、『霊獣朱雀』さん。あとできればもうちょっと火加減強めでお願いします。こう、ほんのり温かな感じで。姫島が信仰する神様に温度調整をお願いする俺に、霊獣さんから呆れたような思念を感じたけど、寒くて仕方がないのであんまり気にしないことにした。

 

 まぁ滝行初心者は、だいたいこんなものらしい。これから何回かチャレンジしてまずは身体を慣らしていくようだ。滝行プロのお言葉に従いますよ、はい…。相棒が心配そうに思念を送ってくるので、大丈夫だと笑って小さく呟いた。心配性の相棒には悪いけど、女の子が平然と滝行をこなしている隣で異能に頼るのは、ちょっと男として俺にもプライドがあるのですよ。そんな俺の意思を汲んでくれたのか、三三七拍子で紅い光を点滅してくれる相棒。ちょっと癒された。

 

「さぁ、次のセットに行くわよ。準備はいい?」

「が、頑張りまーす」

 

 ウキウキした足取りで再び滝に打たれに行く滝行ガールに遠い目をしながら、こうして俺の修行はまだまだ続いていくのであった。 

 

 

 

――――――

 

 

 

「ん……」

 

 枕代わりにしていた自分の腕からカクンと落ちた頭が、不意に意識を浮上させる。どうやらうたた寝をしてしまっていたらしいと思い至り、ヴァーリ・ルシファーは気だるげに上半身を起き上がらせた。うとうととする目元に映るのは、少し伸びた銀色の髪と一冊のノート。そこにはヴァーリが考えたカッコいい必殺技がいくつも載っていて、少し視線を上げると参考にしていた漫画がテーブルの上に重ねられていた。

 

 これらはヴァーリにとって兄代わりの少年とその使い魔が、「これおすすめだよ!」と頼んでもいないのにどんどん持ってきたものだ。わざわざ持ってきてもらって見ないのもな…、と律儀に手に取った結果、こうして読み込んでしまっているのだから自分でもちょっと呆れる。始めの頃は、強くなること以外に興味がなかった。……いや、それ以外どうすればいいのかわからなかったヴァーリにとって、様々な刺激をお節介で与えてくる周囲は少し煩わしくもあり、口では言えないが感謝もしていた。

 

 壁に立てかけられている時計を見ると、どうやら一時間ぐらい眠っていたようだ。朱乃は『堕ちてきた者たち(ネフィリム)』の幼少クラスに赴く日だったようで、時間的にもうすぐ家へ帰ってくる頃だろう。まだどこか夢心地のようなふわふわとした思考。思えば、こんなにも穏やかな日々を過ごせるようになるとは、ほんの半年前までは思いもよらなかったことだ。小さな部屋に縮こまり、いつ「父親」や「あの男」の目に映るのかに怯え、孤独と痛みに苛まれ続けた毎日。いつも傷だらけで、お腹だって空かせていたことだろう。そう思うと、ぐぅと小さな音がヴァーリの耳に入った。

 

《――――――》

「大丈夫だ、もう起きた。……少し、小腹が空いたな」

 

 きょろきょろと周囲を見渡してみたが、手ごろに食べられそうなものはない。仕方なく何かないか探そうと欠伸をし、椅子からゆっくりと立ち上がった。そうして目元を手の甲で擦りながら部屋を出ると、トントントンとリズミカルな音が鳴っていることに気づく。幼い頃に、時々耳にしていたような懐かしいリズム。未だぼんやりする思考のまま、気づけばヴァーリはその音の発信源に向かって歩いていた。

 

 その音は少しずつ明確になっていき、壁一枚挟んだところまで行きつく。そして壁から顔を出し、そっと向こう側をおそるおそる覗き込んだ。そんなヴァーリの視点から見えたのは、長い黒髪を持つ女性の後ろ姿。「父親」と「あの男」の目を盗んで、「あの人」はいつもあぁやって台所に立ってヴァーリの食事を作ってくれた。小さい頃のヴァーリの身長では、彼女の足元やお尻しか見えなかったなと思い出す。今みたいにお腹を空かせ、早くできないかとずっとその後ろ姿を眺めていたような気がした。

 

「……母さん」

 

 無意識に呟いてしまった声を拾ったのか、黒髪の女性がゆっくりとこちらに振り向く。母親と同じ黒い髪を持った――優し気な目元以外は全く違う人。東洋人らしい女性の顔と違い、母は欧州出身だったのだから。それを認識すると同時に、急激に意識が現実に戻った。バッと口元を手の平で覆い、今の発言を聞かれていなかったかと冷や汗が流れる。恥ずかしさと自己嫌悪に唇を噛みしめ、視線を明後日の方向に向けるしかなかった。

 

 母親のことは、もうとっくに折り合いをつけていたつもりだった。もちろん、記憶を失った彼女をいずれ探したいとは思っていたが、それと同時に彼女の傍に自分はいない方がいいだろうとも思っていた。ヴァーリ・ルシファーという子どもは、結局最初から最後まで彼女を傷つける存在でしかなかったから。だからせめて無事を確認することができたら、自分はもう大丈夫だからと一言告げて、二度と危険な目にあわない安全なところで幸せな生涯を送ってほしいと願っていた。裏の世界でしか生きられない「異形」の息子のことなんて忘れて、表の世界の日の当たる温かい場所で「人」としてのこれからの人生を…。

 

 そう考えていた。そう決めていた。もう自分に母親はいない。いや、いらない。「母親」という存在として彼女を縛り付けてはならない。求めてしまえば、また傷つけてしまうだけだから。何度もヴァーリを父親の暴力から守ろうとして、その度に殴られて、泣き顔ばかりが記憶に浮かぶ女性。母の幸せは、自分に関わらないことなんだと物心がつく頃にはすでに悟っていた。

 

 ――だって「あの人」は、いつだって悲しそうな顔で自分を見ていたから。

 

 

「あら、ヴァーリくん。どうかしたの?」

「……別に」

「もしかして、匂いにつられてお腹が減っちゃった?」

 

 自分に向けてくれる、朗らかで優しい笑顔。和やかな声音は、ズキズキと苛むヴァーリの心をそっと包んでくれるようで。まるで記憶の中の母が、自分に向けてくれているかのような錯覚を覚えてしまう。それにやめてほしいと目を閉じたくなる。思わず耳を塞ぎたくなる。この人は自分の母親じゃない。わかっているのに、そんな当たり前のことにショックを受ける弱い自分が嫌になりそうだった。

 

 ほんの数ヶ月前、ヴァーリの環境は一変した。倉本奏太に手を差し伸べられ、それを握ったその後からヴァーリの周囲は随分騒がしくなっただろう。おいしい食事と生きていくために必要な教育、そしてヴァーリ・ルシファーを受け入れてくれる存在。これまで悪意しか受けてこなかったヴァーリにとって、初めて安心を覚えられた場所。先ほどのようなうたた寝ができること自体、これまでありえなかったのだから。

 

 「兄」ができた。「姉」ができた。「先生」ができた。ヴァーリの中で折り合いをつけながら、カテゴリーを一つひとつ作り上げていく。まだどう表現したらいいのか迷う立ち位置の者もいるが、概ね自分の中に落とし込むことはできていたのだ。しかし、ただ一人だけどうしても言葉に表すことに躊躇する人がいた。その立ち位置が、あまりに自分が知っている人と似すぎていたから。

 

「そうだわ、よかったら味見してみてくれないかしら。この前、奏太くんが持ってきてくれた魚介類から作ったお出汁なのよ」

「…………」

「ダメかしら?」

「……ダメ、じゃない」

 

 この人に頼まれると、どうしても断れない。この人だけは、どうしても悲しい顔をさせたくないと思ってしまう。それが自分の弱い心の所為だとわかってはいても、どうしても重ねて見てしまう自分がいた。おずおずと近づいたヴァーリに黒髪の女性――姫島朱璃は温かな微笑みを浮かべる。朱璃はお玉で鍋の中の汁や具材を掬い、小さなお椀の中へと注ぎ入れた。そのままヴァーリの身長に合わせて膝を折ると、温かな湯気と食欲をそそる匂いを放つ煮物をそっと彼に手渡した。

 

 母親と同じ柔らかな黒髪。年齢も同じぐらいの女性。そして異形の夫を持ち、その間に子どもを(もう)けた人間の母親。決定的な違いがあるとすれば、ヴァーリの父親は戯れに母に手を出しただけで、そこに家族の愛など一つもなかったことだろうか。それと、リゼヴィムという祖父を持ってしまったことも不運の一つだっただろう。

 

「はい、どうぞ。熱いからやけどに気を付けてね」

「俺は悪魔の血とドラゴンを宿す奇跡の存在だぞ。人間のようにやけどなんてしない」

「あらあら、そうなの? 確かにドラゴンって火を噴くから大丈夫なのかしら。ヴァーリくんも火を噴けるの?」

「俺は、……まだ噴けないが。いつか噴けるようになる」

「ふふっ。じゃあ今は気を付けないといけないかもね」

 

 一瞬、母親と朱璃が重なった。こうして笑いかけてくれる母と、楽しそうに話す自分を空想してしまう。異形側の存在であるヴァーリを当たり前のように受け入れてくれる家族。それは、まさに夢物語のような時間だろう…。そこまで考えて瞬時にヴァーリは首を横に振り、さっきまで思っていたことを打ち消すように煮物を口の中へ運んでいく。口いっぱいに広がる出汁の効いたオカズに目を輝かせ、お腹を空かせていたこともあり、最後まで無言で完食してしまった。

 

「どうかしら?」

「……柔らかくて食べやすく、栄養価も高い…と思う」

 

 朱璃の真っすぐな視線から逃げるように、うつむき加減で憮然と伝える。いつもだったら、ここまで言って終わるだろう評価。素直じゃないと自分でも思うが、その続きを口にするのが何となくできなくてどうしても言えなかった。

 

 

『いいか、ヴァーくん。挨拶をする。お礼を言う。迷惑をかけたらきちんと謝る。最低限これだけは人としてちゃんとやろうな』

『むっ、俺はただの人間じゃ…』

『はいはい、わかっているけどそれとこれとは話が別です。ドラゴンのリンだってちゃんと言ったらできたのに、ヴァーくんはできないの?』

『グッ……』

 

 いつだったか、奏太との会話を思い出す。彼は普段そこまで煩くなく、むしろヴァーリを甘やかすことの方が多いのだが、ここぞというところは本当に頑固だった。それは彼の使い魔の扱いを見ていればわかるが、リンのお願いを当たり前のように聞きながら、アレで何だかんだと手綱はしっかり握っていたりすることからもわかる。自由奔放なドラゴンの子どもに言うことを聞かせているあたり、大人のドラゴンたちが安心して子どもを預けた背景には、きちんとした線引きが彼の中にあったからだろう。

 

 そんな奏太のお節介は当然ながらヴァーリにも向かい、その頑固さにはさすがに辟易してしまった。なので奏太の前では、一応気を付けるようにはなったのだ。そんなヴァーリの態度に仕方がなさそうに肩を竦めながらそれ以上は求めず、それ以降はきちんとできた時に嬉しそうに褒めてくるようになった。恥ずかしいからやめろと言っているのだが、気づけばだんだんと慣らされていっただろう。ヴァーリの中から見ていたアルビオンが、一番その変化に呆然としていたかもしれない。

 

『あと、これは出来たらだけど…。相手を褒めることも大切だからね』

『はぁ……?』

『褒めるっていうのは、いうなれば「認める」ってことだからだよ。別に過剰にやる必要はないし、ヴァーくんが感じた主観で決めればいい。だけどさ、純粋に褒められて嫌なヒトはいないと思う。言葉一つで相手を笑顔にできるって考えたらスゴイだろ?』

 

 ニッと笑って銀色の髪を撫でられ、羞恥からバシッとその手を払い落したのはよく覚えている。大きなお世話だと思いながら、それでも彼に教えられた言葉は不思議と覚えていた。ヴァーリは煮物が入っていたお椀をギュッと握り、もごもごと唇を動かす。その様子に朱璃は気づき、彼の言葉が聞こえるようにじっと待った。

 

 朱璃に重ねていた自身の母親の過去。彼女の悲しそうな顔は思い出せても、嬉しそうな笑った顔はわからない。ヴァーリにできたのは、できる限り母との関わりを絶ち、少しでも父親の暴力から遠ざけることだけだったから。それしかヴァーリから母親に与えられるものはなかったし、他に思いつく方法もなかった。自分の存在は彼女を傷つけるだけだからと、そう思っていたから。

 

 今でもヴァーリはそう思っている。自分の存在が優しい人を傷つけ、失わせてしまうだけでしかないと――。ヴァーリ・ルシファーが、生まれた時から辿ることになる「起源(運命)」。呪われたルシファーの血を持ち、戦いの宿命を背負う白き龍を宿した自分のことを誰よりも理解していたから。

 

《――――――》

「……っ」

 

 そんなヴァーリの葛藤に背中を押すように胸のあたりからオーラが流れ、冷たく感じていた心に温もりが生まれたことを感じる。ヴァーリの過去や思いを誰よりも理解し、ずっと傍で支えてきてくれた相棒。これまでヴァーリの心の傷に寄り添ってきたからこそ、今ここで発破をかけられるのは自分しかいないと、アルビオンは深く深く聲を響かせる。

 

 アルビオンにとって、今代の宿主は今までとは違う存在だった。魔王の血筋と類い稀なる才能を秘めたこともそうだが、何よりもアルビオンという個を一番に認めてくれた。頼る者がいなかった幼い少年にとって、アルビオンは唯一の味方だったことも大きいだろう。倉本奏太が孤独だった四年間で神器に対して絶対的な信頼を寄せたように、ヴァーリもまた神器だけが心の拠り所だったのだ。

 

 本来なら来るべき赤き龍との宿命に向け、宿主に余計なものは必要ないとアルビオンは切り捨ててよかった。強くなってほしいという願いは変わらない。しかし、この少年にはそれだけで終わってほしくないという思いも芽生えていた。この四ヶ月で見せられた、ヴァーリの心の変化を彼は一番に感じ取っていたから。

 

 「悪魔」にも「人間」にもなれなかった少年は、自分を唯一受け入れてくれた「ドラゴン」のように生きる道を選んだ。その生き方を否定はしない。ヴァーリ・ルシファーは、どこまでいっても「異形」でしかないのは事実なのだから。表の人の世界で、彼は生きることができない。しかし、それでも彼の心は間違いなく「人」でもあるのだ。

 

《――いけ、ヴァーリ》

 

 身体の奥から微かに広がった聲が、ヴァーリの中にあった一つの枷を外した。

 

 

「あと…」

 

 喉が枯れたように掠れた自分の声に一度唾を飲み込み、拳を握って言葉を繋げた。

 

「料理は、すごく……う、…うまかった……」

 

 途切れ途切れの声は、最後の方は尻すぼみになってしまった。せっかく口に出したのに、これでは相手に聞こえているのかもわからない。頬を真っ赤に染め、あまりの羞恥心から逃げ出したい衝動に襲われる。それでも、ヴァーリは歯を食いしばってここに留まった。どうしても見ておきたい、……見なければならないものが一つだけあったから。

 

 ヴァーリは不安を必死に隠しながら、ゆっくりと顔を上げる。俯いていた視線を上げていけば、自分の背丈に合わせて屈んでくれていた朱璃の顔を見るのはすぐだ。そして、ヴァーリが持っていた空っぽのお椀を朱璃が優しい手付きで受け取るのも同時であった。

 

「ありがとう、ヴァーリくん。美味しく食べてくれて、すごく嬉しいわ」

「――――――」

 

 そこにあったのは、春の木漏れ日のような温かな笑顔で――。あんな自分の拙い言葉一つで、こんなにも嬉しそうな顔が見れたことにヴァーリは衝撃を受けた。きっと朱璃は感じた感情をそのままに、当たり前のように表情を浮かべただけ。だけどそれだけのことが、ヴァーリにとっては信じられないことだったのだ。「優しい人」を傷つけることしかできないと怯えていた幼い自分が、初めてちゃんと前を向いたような気がした。

 

 

「母さま、ヴァーリくん、ただいまー!」

「オニ、オニニー!」

「あらあら、お帰りなさい。もうすぐご飯ができるわよ」

「はーい!」

 

 玄関口から聞こえた姫島朱乃の声で我に返ったヴァーリは、すぐさま朱璃から視線を外し、先ほどまでノートを書いていた部屋へと咄嗟に転がり込んだ。姫島家で用意されたもう一つの自分の部屋。最初は必要ないと突っぱねたが、ほぼ毎日食事を食べにくるのと、気分転換に一人になりたい時に便利なため、空いていた一室を結局もらうことになった場所。そこでヴァーリは、先ほどまでの言葉にならない感情を持て余しながら、傍にあったクッションにポスッと顔をうずめるしかなかった。

 

 らしくないことを口にしたのは、自分が一番理解している。寝起きで寝ぼけて、やらかしてしまったことも。それでも、口に出した言葉に後悔は起こらなかった。ただヴァーリにとって、素直に受け止めることが難儀であっただけで…。そこまで考えて、ヴァーリは思い出す。言葉が詰まった自分へ最後の後押しをしてくれた存在を。

 

「……アルビオン?」

 

 確かに聴こえたはずの、荘厳で力強い相棒の聲。咄嗟に耳を澄ませてみるが、念波は感じても声は何も聞こえない。どうやら、まだ完全に彼の声を聞ける段階ではないらしい。しかし、ヴァーリは確かにアルビオンの声を聞くことができたのだ。着実に成長している実感。それにうずうずとした嬉しさが頬を緩ませ、自分でもにやけてしまっているのがわかった。

 

「ありがとう、相棒…」

 

 不思議と今までと違い、素直に気持ちを言葉として表すことができた。自分の中にあった抵抗が、少し薄くなったように感じる。その変化が何なのかはヴァーリにはわからなかったが、心に深く刺さっていた何かが和らいだような気がした。それと同時に、これまで朱璃に感じてきた漠然とした言いようのない負い目は、これからは少しずつ薄らいでいくだろうことも。

 

「ヴァーリくん、ご飯ができ上がるみたいだから食器を並べるの手伝ってぇー」

「オー二ー!」

「……まったく」

 

 扉の向こうから聞こえた朱乃と小鬼の声に肩を竦めると、軽く頬を叩いてヴァーリは立ち上がる。気持ちの切り替えはもう問題ない。それに、やらなければならないことなんてまだまだいくらでもある。まずは朱璃の食事をいただいてアザゼルのところに帰ったら、アルビオンの声が聞こえたことを報告して驚かせたい。そして次のステップへ進み、今度こそ彼と話がしたいと思う。傍にあった鏡を見れば、そこには普段のふてぶてしい表情を浮かべた自分がいた。

 

 ヴァーリ・ルシファーは「異形」として生き、そして強くなる。ただほんの少しだけ、「人」である自分を認めてもいいのかもしれないと、そっと胸に手を当てた。

 

 


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