えっ、シスコン魔王様とスイッチ姫みたいな力ですか? 作:のんのんびり
「お疲れ様カナたん、レーシュ様。ジュース持ってきたよー」
「サンキュー、デュリオ。……シスターさんや妹さんは?」
「そっちは大丈夫。今後はゆっくり眠ることができるから、心身の療養に専念できるって。お姉さん、ものすごく感謝していたよ」
「そっか、よかったぁ」
教会の治療が無事に終わった後、治療後の患者や教会への対応と、俺の消耗具合から休憩が必要だと隣の部屋で待機していた。デュリオからもらったジュースのふたを開け、ゴクゴクと喉を潤しておく。世間様に向けた治療は初めてだったので、現在教会内部は騒然としているようだ。噂や話には聞いていても、本当に神器症の治療が出来るのかお偉いさん方は半信半疑だったらしい。永い年月もの間、不治の病と診断されていたんだから、それも仕方がないだろうけど。
おじいちゃんは治療の成功をヴァチカンの上層部に報告し、実際に治療された患者を診たり、治療の噂が広がったりで外はちょっと大変みたい。今外に出るのは危ないかもしれないので、少し落ち着いたら帰る予定である。おじいちゃんとデュリオがいるから絡まれないだろうけど、来週の治療からは完全に動物園のパンダ状態になるかもとのこと。俺もアガレス産の胃薬を注文しておこうかなぁ…。
「ごめんね、カナたん。お偉いさん方には、ちゃんと治療のことは言っておいたのにさぁ…」
「まぁ、実際に自分の目で見ないと信じられないことは色々あるさ」
「じいさんが対応してくれているけど、治療の詳細を求める声が結構あったみたい。カナたんの神器は見ただけで
「お、落ち着くのか…?」
「治療の詳細とじいさんの怒りだったら、どっちに天秤が傾くと思う?」
物理最強おじいちゃんです。敬虔な信徒ほど、天使や猊下に睨まれるようなことはしないってことか。相棒が聖書の神様の御子だと教えてもらった数少ないトップの方々は静観の構えらしいので、ほどほどのポストの人達が騒いでいるらしい。けど、そういう人達なら司祭枢機卿に文句なんて言えない。確かに物理的に静かにはできるだろう。
「今のところ魔法使いに対する不信感もあるだろうから、無駄に騒いでケチをつけたいだけの人もいるしね。とりあえず、カナたんは教会の内情とか気にせず治療に専念してほしいかな。実績さえ積めば、うるさい人達だって静かになるから」
「お、おう。教会関係はさっぱりわからないから、おじいちゃんとデュリオの言う通りにするよ」
「本当にごめん。カナたんとレーシュ様が、教会の子たちを治療してくれているのは二人の善意によるものなのに…」
呆れたように肩を竦めるデュリオの様子的に、教会の過激派や頑固な人達の対応はやっぱり大変らしい。俺自身のことだけど、教会関係は二人に任せるのが一番だろう。俺だって進んで嫌な思いはしたくないし、喧嘩を売られても困る。元々敵対していた組織同士の人間だから仕方がない部分はあるだろうけど、このあたりの価値観の違いは時間をかけて変えていくしかないだろう。
「カナたんの治療を見るのは二回目だけど、相変わらず綺麗な禁手だよね。聖なるオーラに全身が包まれる感覚は圧倒的だし、紅い半透明の翼もキラキラ輝いていて神々しいし」
「あぁー、そうなんだ。禁手中は治療に集中しないといけないから、俺自身はよくわかんないんだよなぁー」
「えっ、禁手の練習とか協会ではやっていないの?」
「やって…ないな。俺自身の問題なんだけど、治療以外で禁手は一切使っていない」
おじいちゃんを待っている間、デュリオとおしゃべりをしていたが、今日の治療の話になって俺は頬を掻いて困ったような笑みが浮かんだ。アザゼル先生から禁手時の状態は聞いていたけど、俺自身はあまり実感が湧いていなかったりする。俺が禁手をしたのは、神器症の治療でのみなので今回を入れてようやく三回目だ。原作でバンバン禁手のバーゲンセールをしていたイッセーたちのことを思えば、どう考えても少ないだろう。
禁手は神器の最終形態みたいなものだから、普通ならガンガン使って習熟度を上げて、使いこなせるように練習するべきだと思う。禁手で能力を一回使うたびに疲労でぶっ倒れるとか、どう考えても使い勝手が悪すぎる。イッセーだって、最初は十秒ぐらいしかもたなかった禁手だったけど、訓練を重ねたことで持続時間や威力をどんどん延ばすことができていた。少なくとも、今の俺の禁手は実戦だと全く使い物にならないだろう。
初めての禁手の時は、数時間ぐらい昏倒していた。三回目になって考えると、禁手に至れば至るほど疲労度は軽減し、効率は良くなっている実感がある。この十年近く、神器の『概念消滅』の異能を俺は日常的に使いまくっていた。そのおかげで今では息をするように相棒を使いこなせるし、習熟度も戦闘でしか使っていない他の所有者と比べると上の方だと自負している。そこまで理解していても、俺は禁手だけはどうしても意識して避けてしまっていた。
「神の奇跡というか、信徒の皆さんの祈りの力を俺が個人的なことで使っちゃうのは、やっぱり申し訳ないって気分になるんだよなぁ…」
「そっか、カナたんの禁手はシステムに送られた信徒の祈りの力を奇跡に還元して、それをコントロールすることで神器の不具合を書き換えているんだっけ」
「そうそう、だから俺が禁手を使う時は困っている誰かを助けるために使いたいんだ。もちろん、俺自身に危険が迫っていたら使わせてもらうぐらいはするけど」
さすがに禁手の練習や日常生活のために、神の奇跡を無駄打ちするのは罪悪感の方が強い。神様への願いを込めた純粋な祈りを、俺が好き勝手使っていいはずがないからだ。俺の禁手は信徒の祈りを媒介に使っているので、天界を維持する分や不完全でもこの世界に奇跡を分配する分を考えれば、多用するのはまずいのである。神の奇跡は有限なのだから。
「……なるほど。カナたんがそうやって考えてくれるからこそ、ミカエル様達も信じて力を託すことができたって事っスね。神様の奇跡が使えるって誘惑に打ち勝てる強い自制心を、カナたんはちゃんと持っていたから…」
「あのデュリオ、そのキラキラした眼差しはやめて。そんな大そうな志があるわけじゃないぞ、俺。ただ単に奇跡を使ってでも叶えたい欲望みたいなものが、そんなにないっていうか…。お金はあるし、地位もこれ以上いらないし、交友関係も文句ないし、趣味も安上がりだし、わざわざ奇跡を使わなくてもいいやっていう恵まれた環境だからってのもあるからさ」
これは本心からそう思っている。なんせ悪魔である魔王様から、直々に強欲だとお墨付きをもらっている人間なんだから。大人たちが色々配慮して、今の俺の環境を作っていってくれたのは間違いない。それぐらい、今の俺は満たされてしまっている。だから、奇跡に頼ってまで叶えたい願いがあんまり思いつかないのだ。
一応願い事を考えれば、異世界のこととか、原作知識のこととか、『
「それに、たぶん相棒が奇跡を好き勝手使うのは許さないと思うしな」
「えっ、そうなの? 過保護なぐらいカナたんに甘いって聞いていたけど」
「いや、過保護なのは間違いないんだけどさ…。あれで相棒って厳しいんだよ。年齢制限に引っかかるものは強制的にモザイクをかけてくるし、ゲームで夜更かししようものなら昏倒させてくるし、食生活が乱れないように栄養バランスを考えなさいって神託を下ろして来るし…。だから、奇跡の力で堕落するなんてこと相棒が許す訳なくて、ちゃんと自分の力でやり遂げなさいって怒られると思う」
「カナたんとレーシュ様の関係って…」
明言しないで、俺自身もよくわかっているから。他のことには無関心なのに、俺を健やかに育てるためなら相棒の「我」ってめちゃくちゃ強いのよ。七歳の頃から何度も助けられてお世話されてきて、しかも相棒の方が正論だから文句も言えない。先生曰く、こういう神器の干渉を当然のように受け入れられる俺だからこそ、相棒と良好な関係を築けるんだろうとは言われたけど。
「それに、禁手を使うと進行しちゃうからなぁ…」
「進行…? もしかして、何か副作用が?」
「副作用というか…。おじいちゃんから、デュリオは聞いていないのか?」
「……聞いていない」
てっきりおじいちゃんから聞いていると思っていたけど、まぁ確かに言いづらいか…。ここまで言って、だんまりの方がデュリオは傷つくだろう。将来的なことを考えれば、そこまで深刻な問題って訳ではない。納得だってしている。ただ、俺自身の心情の問題なだけ。だから、出来る限り明るめの声音で事情を伝えた。
「禁手による天使化の進行…」
「神様の領域に手を伸ばす代償がそれなら、安い方なんだと思う。将来的なことを考えれば、むしろプラスかもしれないしな。異世界の邪神がいつこの世界に目を付けるかわからない現状、人間の寿命や身体能力じゃ足りない可能性の方が高いだろうから」
「それは――」
「禁手に至るって決めたのは俺自身だ。だから、行き着く先が人間を終えることだっていうなら、ちゃんと受け入れる。だけど、今はまだ……人のままでいたいなっていう俺の我が儘みたいなもんだよ」
俺が禁手を渋る理由の一つ。あと一歩の勇気が持てていないだけのこと。この悩みも、いつかは吹っ切れると思っている。今後も禁手を行っていけば、人を終える分岐点と必ず向き合うことになるだろうから。アザゼル先生達も、このことに関しては俺の気持ちが大切だと見守ってくれているのだと思う。進む足を止めるつもりはないけど、その歩幅はまだ小さいものだった。
「悪い、なんか深刻な感じになっちゃったな」
「ううん…。俺こそ、知らずにごめん」
「デュリオは悪くないだろ」
「だったら、カナたんだって悪くないよ」
俺の言葉に返すように力強く告げたデュリオは、一度深く息を吐きだすと座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。そして真っ直ぐに俺の前までくると、片膝をついて頭を垂れだす。ギョッと目を見開いた俺が「何しているんだ」と言葉をかける前に、デュリオの声が俺の耳に届いた。
「あのさ、カナたん。俺はこれまでガキんちょ達のために、俺の手の届く範囲にいるみんなの笑顔を守るために戦ってきた。強くなることを選んだ。教会の戦士としては落第かもしれないけど、神様のためとか、世界のためって思いで戦ったことは、正直これまでちょびっとぐらいしかなかったと思う」
「いろいろな意味でぶっちゃけたな」
「だから、ずっと悔しかった。どれだけ強くなっても、天使の皆さんに認められる地位につけても、救うことができない弟や妹達がいたことを。俺じゃあどうすることもできないって事実に、何度も打ちのめされてきたから。何度も看取って、きたから…。もしみんなを救えるチャンスが微かにでもあったのなら、俺は迷わず手を伸ばしてしまうぐらい見境がなくなっていたと思う」
デュリオのその思いは本物だろう。実際に彼はその目標のために、人間から転生天使になる道を原作では選んでいたから。アザゼル先生の尽力で神器症の症状を緩和できるようになった事実に心からの感謝と笑顔を浮かべ、クーデターを起こした仲間や師を止めようと全力で身体を張っていた。
「そんな俺に光をくれたのが、カナたんとレーシュ様だった。俺の願いは、俺の目標は、二人のおかげで叶うことができた。それは涙が出るほど嬉しくて、本当に感謝の気持ちしかないよ。でもさ、同時にこれから俺はどうしたらいいんだろうって迷いも少しあったんだ」
「デュリオ…」
「もちろん、ガキんちょ達を守るって気持ちは変わっていない。和平や異世界への対処とか、問題はまだまだたくさんある。ただ……カナたんが俺の代わりに頑張ってくれたから、もうそのことは気にしなくていいんだって考えが本当に正しいのかってずっと思っていたんだ。俺の願いをカナたんに背負わせて、俺はこのまま何も変わらないままでいていいのかって。そんなことをさっきまで考えていた」
「……さっきまで?」
「結論は、いい訳ないって答えに今さっき振り切ったからっ!」
下げていた頭を上げて、輝きを増した視線とぶつかる。言い切るように告げられた決意は、融通が利かないぐらい真っ直ぐな少年の覚悟が込められていた。
「神器症の治療はカナたんにしかできない。この道を決断してくれたカナたんに、感謝の気持ちしかない。だけど、俺の願いをカナたんだけに背負わせるのは違う。種族とか所属とか関係なく、カナたんがカナたんらしくいられる居場所を守るのが、俺がこれからやるべきことだって思った。俺がこれまで培ってきた力や地位の使い道は、そしてこれからも強くなっていく理由は、これしかないって感じたんだッ!」
「う、うん」
「カナたんが俺の願いを叶えてくれるなら、俺はカナたんの願いを全力でサポートするだけっ! 俺はカナたんの前に立ちふさがる障害を斬り払う剣であり、守護の盾となる。それが、これから進むべき俺の選んだ道っスよ!」
信徒スイッチの入ったデュリオが止まんない…。いや、デュリオが言いたいことはわかるし、気持ちも理解できる。これまで目指していた目標が叶っちゃったから、それを叶えてくれた俺の願いを今度はデュリオが叶えるように頑張るってことだろう。そういうことなら、ありがとうってお礼を言うだけでいいはずなんだけど、これ絶対に軽い気持ちで安請け合いしたらまずい熱量である。
でも、デュリオの思いは素直に嬉しかった。まだ人間でいたいって俺の想いに応えるために、俺が治療以外で禁手しなくて済むように前に立つんだと言ってくれたのだと思うから。たとえ人を終えることになったとしても、ちゃんと傍で俺を支えてくれようと頑張ってくれる人達がいる。そう実感するたびに、俺の中の恐怖心が少しずつ小さくなっていくのを感じた。
「……うん、ありがとう。デュリオ、これからもよろしくな」
「うん、任せて! カナたんの剣として、レーシュ様の使徒として、立ち塞がる相手は容赦しないっス!」
「ほ、ほどほどに頼むよ」
温厚なデュリオなら大丈夫だと思うけど、キミ教会でも上から数えた方が早い実力者だからね。本当にほどほどにするんだよ。将来的にキミは転生天使になって、天界のジョーカーに選ばれ……るのか? あれ、さっきも話していたけどデュリオが転生天使になることを選んだのは、『手の届く範囲にいるガキんちょどもの笑顔を守るため』だよな。その想いの中に、神器症の治療の可能性に近づくためって理由もたぶん含まれていたと思う。
そうなると、転生天使というか…、わざわざ人間をやめてまで天界のために御使いになることを今の彼は選ぶだろうか? 原作のイリナちゃんみたいに、天使の皆様への信仰心の為に転生を選ぶとは思えない。自分の意思で人間をやめるって、義務なんかよりも相当な強い想いや意地がないと無理だ。おじいちゃん――ストラーダ猊下にも原作で御使いのオファーがあったらしいけど、彼は人のまま逝くことを選んでいたように。そういう可能性もあるわけだよな。
「…………」
朱芭さんのように、人としての終わりを願うように…。
「――カナたん?」
「ん、ごめん。何でもない。ちょっと冷えてきたなって」
「ヨーロッパの冬は寒いからね、確かに冷え込んできたかも。今は二月の半ばだし、春になるまであとちょっとって感じだね」
「そうだな。あと少し、だな…」
俺は手元にある携帯電話を手の平で遊ぶように撫でると、そっとポケットの中に入れておいた。今度の休日に、ちょっと顔を見に行ってもいいかな…。少し前に正月の挨拶には行ったけど、もう一ヶ月も経ったのかと月日の早さを感じてしまう。駒王町の探検ツアーや本格的な治療が始まったりで、だんだんと忙しくなってきている。だからこれが、……もしかしたらゆっくり彼女と過ごせる最後の時間かもしれない。
時期的には中途半端かもしれないけど、あいつらも高校受験が終わって、もう合格発表もあった頃だろう。それなら忙しくはないと思うし、合格祝いでも持って行けばいいか。……たぶん、合格しているよな? 電話のついでに朱芭さんから聞いておこう。とりあえず、帰省ついでに幾瀬家へ遊びに行くぐらいならできるだろう。
「なぁ、デュリオ。この後の美味しいもの巡りでさ、俺の後輩達の合格祝いのプレゼントも一緒に買いたいんだけど、寄り道とかしてもいいか?」
「大丈夫、問題ないよ。カナたんの後輩くんかー、どんな子なの?」
「女子力の塊でブラウニーみたいなやつ。将来的に女難の相で苦労しそう」
「……さすがはカナたんの後輩。属性が濃いなぁ…」
鳶雄も何だかんだで生まれが特殊だし、今世の神滅具所有者ってキャラが濃いのは確か。ラヴィニアも元一般人枠なんだけど、凄腕の魔法使いで天然で可愛いし。現役一般人枠のはずのイッセーくんが、一番属性が尖がっているしな。絶対に埋もれないぜ、
それからデュリオと合格祝いのプレゼントについて相談し合い、初めての教会での治療はおじいちゃんが帰って来たと同時に完了となった。部屋を出て帰るためにヴァチカン本部を歩いている間、周りからいくつもの視線は感じたけど、おじいちゃんがスッと視線を向けるだけでビクッとして離れていった。さすがは、最強おじいちゃんである。
一度協会に戻って私服に着替えてから向かうため、転移魔方陣まで三人で歩いていった。さすがにこの豪華な祭服のまま食べ歩く勇気はない。汚しても相棒でクリーニングできるとはいえ、周りの視線とか絶対に落ち着かないだろうから。デュリオは普段着が祭服だから気にせず食べ歩けるらしいけど、あいつの精神力鋼過ぎるだろ…。出会った頃のラヴィニアがそうだったけど、表の目を気にせず裏側の服装のまま歩けるのって一種の職業病だよなぁー。
どうせなら私服でのびのびと食べに行こうぜ。俺……のじゃサイズが合うかわからないから、リーバンからちょっと服を貸してもらって。むしろあいつを連れて、デュリオの服選びのためにまずは服屋に連れていくべきか? 裏側の俺の数少ない男友達だし、俺よりかはファッションに詳しいだろう。暇そうにしていたら、男三人で遊びに行くのも楽しそうだ。
その後、デュリオとリーバンを引き合わせたら「お前、俺が
デュリオのおすすめを食べ歩き、お土産やプレゼントを三人で話し合い、新たな美味しいものを開拓する時間。その間は今後の不安とか考えず、のびのびと過ごすことができたと思う。吹きすさぶ冷たい風が頬を撫でながら、冬の終わりが近づいてきているのを少しずつ感じたのであった。
――――――
「バウッ!」
「うわっ!?」
日本にある一軒家の庭で、黒髪の少年は大型犬に突然吠えられ、思わず情けない声をあげてしまった。自分の身長の半分ぐらいはある大きさの犬が、キラキラした目で見つめてくる。人懐っこく、尻尾も嬉しそうにブンブンと振っているのを見れば、犬好きなら大歓迎な光景だろう。しかし、残念ながら少年はそこまで動物が好きな訳ではない。むしろ、全力で甘えてこようとする大型の動物など、猛獣と変わらない認識だった。
「ちょっと、鳶雄。もうすぐ高校生になるんだから犬に吠えられたぐらいで驚かないでよ」
「そ、そんなこと言われても、苦手なものは仕方がないだろ…」
腰が引けている幼馴染に肩を竦めた
「バウッ、バァウっ!!」
「えっ、ちょッ――!? こらっ、こっちに来るなァッーー!!」
突進してきた大型犬を見て恐怖に顔を引きつらせた鳶雄は、全力疾走で庭を逃げ回るが当然ながら遊びと思っている相手も全力で追いかけてくる。ぜぇぜぇと呼吸が荒くなってきた頃、何度も止めるように促すが、遊び心に火がついたワンコは止まらない。そんな人間と犬のチェイスを縁側に座って、笑って応援する非情な幼馴染。中学三年生――いや、もうすぐ高校に上がる年だというのにガチで涙が出そうだった。
そして当然ながら、男子中学生の足で犬に勝てるわけもなく…。後ろから飛びかかってきた犬の体当たりを背中に受け、鳶雄は悲鳴をあげて芝生へと伏したのであった。ゴールデンレトリーバーは勝利のポーズを鳶雄の背中の上で高らかに決めると、容赦なくその頭をペロペロと嘗め回す。全力疾走した後の更なる蹂躙に鳶雄はなすすべもなく、幼馴染に涙目で助けを求めるしかなかった。
「だ、大丈夫?」
「……だ、大丈夫」
「ごめんね、鳶雄。ちょっとやり過ぎちゃった」
「いや、ちょっとじゃない…」
その後、紗枝の命令で鳶雄への悪戯をそそくさと止めたワンコに恨めしそうな目を向けながら、涎でベトベトになった黒髪を嫌そうに整えておく。すっかり憔悴した幼馴染に、さすがの紗枝も申し訳なさそうに謝る。謝るぐらいならもっと早く助けてほしかった、と文句を言いそうになった時、温かな手の感触に言葉が止まった。子どもをあやすように鳶雄の頭を優しく撫でる温もり。その心地よさと心配げな瞳に、何だかんだで許してしまうあたり、自分も甘いなぁと溜め息を吐いた。
こんな光景、絶対に知り合いには見せられない。高校生になる年齢で、犬に追いかけられて涙目になって、それを慰めるように幼馴染に頭をよしよしされているなんて…。冷静に考察すると、恥ずかしくて仕方がないだろう。赤面しそうな顔を紗枝に見られないように庭の入り口へと逸らすように向けると、――そこには口元を手で覆ってキラキラとした眼差しを向けてくるはとこ。さらに「あらあら、青春ねー」と頬に手を当てて微笑ましそうにする従姉妹叔母と、くすくすと笑う最愛の祖母の姿が…。
「うわぁ…、うわぁー」
「朱乃、こういう時はそっと生暖かく見守っておくのよ。背景のように静かに、こっそり見て楽しむものなのよ」
「は、はい、母さま。こっそり楽しみます。私は背景、背景…」
「まったく、鳶雄は紗枝ちゃんがいないとダメなのね」
めっちゃ見られていた。しかも、まだ見学する気満々である。切実にやめてください。
「うわぁぁッーー!? ちがっ! こ、これは……ただ、ちょっとっ……!」
「大丈夫だよ、鳶雄兄さま。ちゃんとわかっているから」
「えぇ、わかっているわ。ふふふっ」
「本当にやめて! その慈愛の表情やめてくださいっ、お願いですから!」
恥ずかしさに真っ赤になった鳶雄は慌てて立ち上がると、倒れた時についた芝生の汚れを急いで払い落とす。紗枝は姫島一家と朱芭に一瞬驚いた後、ペコリと丁寧にお辞儀を返す。わたわたする鳶雄を紗枝が落ち着きなさい、と宥めている間に、東城家におじゃまする三人。学校の友達じゃなかっただけよかったのだろうが、だからって身内に見られるのも十分に恥ずかしかった。
「この年になって、半ベソかいて女子に頭を撫でられているところを見られるなんて…」
「別に変じゃないと思うよ。奏太兄さまが父さまとの訓練で泣いていたら、私もよく頭をよしよししてあげていたから。すごく喜んでくれていたよ?」
「あの先輩、精神力鋼過ぎるだろ…」
小学生に頭を撫でられて喜ぶ高校生が身近にいることに、遠い目になる後輩だった。
「ふふっ、可愛いワンちゃんね」
「はい、金次郎って言うんです。親戚が旅行に行っている間は、
「ほら、大丈夫よ。この子は頭を撫でられるのが大好きみたいだから」
「えっ、俺がこいつを撫でるの?」
「そんなに嫌がったら可哀そうよ。それにね、鳶雄」
そっと優しい手付きで孫の手を取ると、一緒に犬の頭を撫でるように手を重ねる。大人しく頭を撫でられる犬に警戒心がだんだんと薄くなると、さわさわと感じる触り心地に気持ちよさを感じてきた。あれだけ犬に苦手意識を感じていたのに、単純な自分の思考に少し呆れる。しかし、それもこうして隣に祖母がいてくれるからだろう。ずっと昔から、心から安心できる自分の居場所だったから。
「……犬を嫌ってはダメよ。いつかあなたが選んだ子が、……いえ、あなたを選んだ子が現れるかもしれないのだから」
「祖母ちゃん…?」
朱芭の言葉の意味を、鳶雄には理解できなかった。だけど、それを聞き返すことができなかったのは、犬を見つめる祖母の眼差しが優し気でありながら、どこか消えてなくなってしまいそうなほど儚く感じてしまったからだろう。不可思議な胸騒ぎのような、言い表すことができない心のざわつき。重なる手の温かさから、ちゃんと傍にいるのだと感じるのに。この時の祖母の表情が何故か目に焼き付いて離れなかった。
「そうそう、次の休日に奏太さんが日本へ帰国するみたいなのよ」
「えっ、先輩が? この時期に日本へ?」
「……そうみたい。その時に鳶雄や紗枝ちゃんの陵空高校の合格祝いもしたいんですって。英語の勉強では、二人ともお世話になったんでしょう?」
朱芭にそう言われて、確かに受験勉強ではお世話になったことを思い出す。元々面倒見のいい先輩だったので、特に英語で涙目になって騒ぐ佐々木のために夏休みの時自分たちも一緒に勉強を見てもらったのだ。先輩の性格や行動で忘れそうになるが、アレで海外留学までしている超優等生である。お世話になっているし、尊敬もしているのだが、本当に意識しないとうっかり忘れそうになる先輩の威厳だった。
「そっか、次に先輩に会うのは春休みぐらいかなって思っていたけど…。それなら、美味しいものを用意しておかないとだね」
「えぇ、お願いしてもいいかしら。みんなで賑やかに食卓を囲むことができるのも、きっと…」
何を作ろうかメニューを考えていたため、朱芭が小声で呟いた最後の言葉を聞き逃した鳶雄は、首を傾げて振り向くが何でもないと笑顔を浮かべられた。それに思案した鳶雄だったが、「バウッ!」と突然吠えられたことに、思わず犬の頭に乗せていた手をバッと離してしまう。それに周りから笑われてしまったことに恥ずかしくなり、羞恥を隠すように鳶雄は視線を空へと仰いだ。
「……あっ、桜」
そして、ふと気づくと街道に植えられた桜の小さな蕾が目に入る。去年の春に、先輩の卒業祝いに行ったお花見。祖母と二人で桜を静かに眺めた時間。ほんの一年前の出来事だったはずなのに、それが何故か遠い昔のことのように感じてしまった。
冬がもうすぐ終わりを迎える。春はまだ少し遠いはずなのに、そんな寂寞とした思いが鳶雄の胸中に浮かんだのであった。
――――――
――奏太の教会での初治療が終わった頃。その時の天界では、重要な話し合いのために熾天使四人が集まっていた。厳しい表情を浮かべる天使長ミカエルは、人間界から送られてきた倉本奏太の様子に関する報告書を読んでいた。天使であるため、なかなか奏太と接点を持てないことを苦慮して、ヴァスコ・ストラーダに頼んでいたものである。それを真剣な表情で見つめるラファエル、ウリエル、ガブリエルは固唾をのんで見守っていた。
「……やはり、ですか」
「ミカエル様。それで、奏太くんの様子は…」
「教会の信徒たちには、こちらでも対応しておく必要があるでしょう。それよりも、こちらは緊急で考えなくてはならない事案が一つあります」
深く息を吐いて呼吸を整えるミカエルの深刻そうな雰囲気に、天使達も覚悟を決めて言葉を待つ。天使長はゆっくりと視線を合わせると、先ほどまで見ていた報告書を三人にも見えるようにテーブルの上に差し出した。
「戦士ヴァスコ・ストラーダに頼んでいた、奏太くんの好きな物の報告。戦士デュリオのおかげで、好みのお菓子の種類は把握できました。しかも、それだけでなくまさか私の羽一つで、ここまで歓喜してもらえるとは…。ですが、由々しき問題も起こりました」
「天使の羽でできた羽毛布団…」
「我々が人間界に降臨した際、抜け落ちた羽をお守りにしてありがたがる人間は見たことがありますが…」
「いったい何枚の羽が必要になるのでしょう…」
ごくりと唾を飲みこみ、それぞれが自分の黄金の羽をさわさわと触る。天使として永い時を生きてきたが、今回の事案は四大熾天使達が難しい顔で悩むほどの難題だった。羽ぐらいで喜んでもらえるならという気持ちはあるが、さすがに寝具になるほどの量となるとヤバい。「神の炎」として、どんな状況でも果敢に挑んできたウリエルが脂汗を額に浮かべるほどの危機。誰もが沈痛な思いで羽を触っていた。
「ミ、ミカエル様。別に倉本奏太殿は、天使の羽で羽毛布団を欲しがった訳ではありません。ちょっとした例えのつもりで言っただけなのでしょう」
「えぇ、それは私もわかっています。でも、……あげたら喜びますよね?」
「確かに、悪魔と堕天使にない天使の強みはこの羽でしょう。堕天使のは夏用と奏太くんは言っていましたから」
「やはり、毟るしか…ないのか……」
天使として、次代の御子のために、その神の子のためにどれだけ献身できるのか。今、それを試されている時なのだ。これは、我ら天使に与えられた試練なのである。何度も名残惜しそうに羽を撫でたミカエルは深々と精神統一をした後、覚悟を決めた表情で意を決して口を開いた。
「私が、やりましょう。天使長として、なすべきことを果たします!」
『ミカエル様ッ…!!』
「お待ちください、ミカエル様。それは、些か早計かもしれません」
「……ガブリエル?」
右手を自らの羽へ持って行こうとしたミカエルを静止するように、真っ直ぐな声が会議場に響いた。天界一の美女にして、天界最強の女性天使であるガブリエル。彼女は普段のおっとりした表情ではなく、知性を帯びた瞳で考え込んだ後、確固たる意志をのせて言葉を紡いだ。
「奏太くんは神器の不具合に苦しむ子どもを助けるために、禁手へと至ってくれたとても優しい子です。そんな子が、天使長が毟った羽で出来た寝具を喜ぶでしょうか? きっと奏太くんは天使長の羽が剥げたことに申し訳なくなって、逆に悲しんでしまうかもしれません」
「――ッ!? そ、それは、確かにっ……!」
「だが、それだといったいどうすれば…」
ガブリエルの懸念はもっともだと判断した天使達は、再び思考の海へと航海しだす。やはり天使の羽で羽毛布団など、夢のまた夢のことだったのか。誰もが諦めかけたその時、ラファエルがおずおずと片手をあげた。
「思ったのだが、毟らなければいいんじゃないか? 日本の信徒から聞いたのだが、日本には『赤色の羽根』と呼ばれる貧しい子どもたちのために集金をするシステムがあるらしい。我々だけで集めるのが難しいのなら、抜け落ちた羽を天界にいる天使全員に集めさせれば…」
「なるほど、『天使の羽根共同募
光明が見えた。多少の時間はかかるかもしれないが、天使全員が協力する共同作業なら成功する可能性はグッと高まる。抜け落ちた羽を使用しているので、奏太が罪悪感を覚えることもない。まさに完璧な作戦だった。
「いいでしょう。それでは、天界に早速御触れを出します。今この瞬間にも抜け落ちた羽を無駄にしないためにも!」
『ハっ、より良き天界の未来のために!』
ミカエルが片手をあげて力強く宣言すると、それに応えるように三人も胸に手を当てて誓いを口にした。こうして四大熾天使の皆さんは、今日も真面目にお仕事を頑張っているのであった。