えっ、シスコン魔王様とスイッチ姫みたいな力ですか?   作:のんのんびり

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第二百二十九話 詠

 

 

 

「ここは…?」

 

 突然の開けた景色が目の前に現れたことに、俺は呆然と目を瞬かせる。何故俺は大海原のど真ん中でふよふよ浮いているのだろうか。俺は冥界のグレモリー公爵邸にいたはずで…、そもそも冥界に海は存在しないはず。レヴィアタンの血筋を引く少女の神器を目覚めさせるために、『慈悲(ケセド)』で「干渉(インターフィア)」を使ったのは覚えているのだが…。

 

《対象の魂への接続を確認》

「魂? つまり、ここはイングヴィルドさんの精神世界ってこと?」

《肯定》

 

 さすが、困った時の相棒である。それにしても、まさか精神世界に入ってしまうとは。でも確かに乳神様に俺が憑依された時、俺の魂に干渉されて見た光景や雰囲気と似ている気がする。俺の時は木が一本と一面の野原だったけど、イングヴィルドさんの場合はこの一面の海ってことなのか。

 

 資料で彼女に関する情報を見たけど、その内容はあまりにも少なかった。九十年以上前に悪魔の血が隔世遺伝によって目覚め、それと同時に眠りの病を発症する。そして彼女の両親によって人間界に召喚された悪魔がレヴィアタンの血筋だと気づき、秘密裏に保護したということしかわかっていない。当時彼女を保護した悪魔が、いかに彼女の持つ悪魔の血しか興味がなかったかが窺える。人間としての彼女の記録がほとんどないに等しかったからだ。

 

 人間としての彼女に関する記録は、「イングヴィルド」という名前だけ。生まれや苗字すら記録に残されていないことに溜め息も吐きたくなる。魂に映し出される光景は、その人の起源や縁が深いものなどが映し出されやすい。もしかしたら、彼女にとって「海」は大切なものなのかもしれないな。

 

「そういえば、神器はその人の「起源」に引かれやすい傾向があったな。相棒、イングヴィルドさんの神器が何か分かったか?」

《……正体不明(ブラックボックス)

「えっ?」

《否定、黄昏の遺物》

 

 ちょっと待とうか、相棒。神器を統括しているシステムそのものである相棒が、知らない神器ってどういうこと? 黄昏の遺物ではないってことは、これは『聖書の神様が創った神器ではない』ということになる。でも、彼女から感じられたオーラは、間違いなく俺がよく知る神器の波動だったはずだ。

 

 相棒が知らないということは、少なくとも彼女の持つ神器は本来あるデータベースに存在していないってことだろう。相棒は一部のシステムを活用することは出来るようになったが、まだまだ触れられないデータも多い。特に神器システムはそれが顕著だ。困惑する俺に向けて、相棒もまた考えるように言葉を紡いだ。

 

《『時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)』》

「……それって、原作のギャスパーの神器が進化してできた新しい神器だっけ」

《肯定。黄昏の遺物を逸脱する異常(バグ)。神器含めシステムのデータは『世界』から常に抽出され自動更新される》

「自動更新…。それって相棒の意思を挟まずに?」

《勝手にポン》

 

 こら、真面目な説明を面倒だからって投げやりになるんじゃない。俺がだいたい相棒の考えを思念で感じ取れるからって手抜きをしないの。あとで先生たちに詳しく説明するのは俺になるんだから!

 

「要するに、イングヴィルドさんの神器は聖書の神様が死んだ後に神器システムが自動で生み出した新種の神器って認識でOK?」

《肯定》

「マジかよ、神器って勝手に増えるのかよ…」

 

 いや、確かに神様と魔王が死んだ影響で色々と異常(バグ)が起きているのは知っていたけど…。相棒曰く、世界を回すシステムだからこそ世界の状況に合わせて『最適』なルートを進めるように備える機能が元々あるらしい。だから神様というブレーンがいなくなっても、『世界』から抽出したデータを基に自動で運行することができた。

 

 そういえば、原作では未曽有の出来事がいくつも起きているって為政者の皆さんが話していたのを思い出す。そんな未来が来ると状況を鑑みたシステムが、新たな神器を創り出すに至った。神器システムはまだまだ解明されていない部分が多いらしいけど、とんでもない機能を聖書の神様は遺したものである。

 

《依木の元の神器も黄昏の死後に『世界』から抽出して生まれた》

「俺の元神器って、『消滅の紅緋槍(ルイン・ロンスカーレット)』のことか?」

《魔王なりきりネタ神器》

「ちょっと、こら…」

 

 淡々と俺の神器をネタ扱いしないでよ、色とか能力的に否定はできないけどさ。……なるほど、サーゼクス様が生まれたのは聖書の神様が死んだ後だ。『超越者』と呼ばれるほどの存在が『世界』に生まれた影響を受けたシステムが、それに似た神器を作成したってことか。サーゼクス様、マジで元ネタだったよ。

 

 世界の歴史から神器が生まれる。ヴァレリーさんが持っていた『幽世の聖杯(セフィロト・グラール)』だって、最後の晩餐で使われイエスの血を受けた「聖杯」を基に創られた神滅具だ。実際、これとは別の「本物の聖杯」が存在しているのは原作で明記されていた。

 

 『世界』から抽出されたデータを汲み取ったシステムが、聖書の神様しか知り得ないブラックボックスを経て創られ、ランダムな人間の魂へと転移する。それを世界の様子を見て感知した『叡智の結晶(相棒)』が「あっ、こんな神器ができたんだ。へぇー」と後付けで記録していくって訳か。先生がまた頭を抱えそうな事実である。

 

「今の相棒は元ある神器を「変革」させることはできるけど、「革新」することはできないんだよな? 相棒の意思で新しい神器を創るみたいなことは」

《「無」から「有」への権限はなし》

「了解。まぁ、自動で出来ちゃうものは今のところ対処の仕様がないか」

 

 このあたりの詳しいことは、またアザゼル先生のような専門家がいるところで続きをやろう。相棒はシステムそのものではあるんだけど、自身も把握できていない構造がまだまだある。それだけ複雑で、秘密主義な神様が創っただけある。俺も人間だからって、身体の構造の全てを知っているかと言われたら知らないしな。相棒がシステムを掌握する道は長そうである。

 

 

「よし、難しい話は終わり! 今必要な情報は、イングヴィルドさんの神器は相棒も知らないことから九十年前に創られたばかりの『一点もの』か『希少なもの』の可能性が高い。彼女が生まれてから九十年以上、全くこの神器の情報がシステムに更新されていないのがその証拠だ」

 

 俺が持っていた『消滅の紅緋槍(ルイン・ロンスカーレット)』みたいな量産型の神器なら、すでに誰かが使って相棒が認識しているはずである。それがないってことは、彼女が持つ神器は未だ誰も発現したことがない。うん、こういう唯一無二的な神器は大抵ヤバいものであることが多いのだ。

 

「……相棒、そんな神器を力尽くで覚醒させて大丈夫だと思う?」

《危険と判断。強制的に『慈悲(ケセド)』の「干渉」を切断可能》

「緊急離脱はできる訳ね。なら、まずはイングヴィルドさんを探そうか。彼女を起こせるなら、それに越したことはないし」

 

 どうも嫌な予感がするんだよなぁー。システムを統括する相棒なら、並みの神器ならいくら暴走しても抑えられる自信がある。だけど、神滅具のような異常(バグ)が相手だった場合、迂闊に暴走させるのはまずい。先生達から教わったが、俺のこういう危機察知に関する時の勘は外れない。

 

 万が一のためにメフィスト様やグレイフィアさんが待機してくれているとはいえ、神滅具を暴走させたら外にいるグレモリー公爵邸に迷惑をかけてしまう可能性が高い。なので、まずは情報収集をするべきだろう。彼女の持つ神器が何なのか、彼女の精神がどういう状態なのかを『理解(ビナー)』を使って把握するのが先決だ。

 

「それにしても、一面海ばっかりだな…。それに生き物の気配もしない」

 

 俺は精神体で浮いていた身体を水面に近づけると、そっと水を掬うように手を入れてみたが少し抵抗のようなものが感じられただけで『何も』掬うことができなかった。つまり、この目に見える『海』は虚像。潮の匂いも感じられない、心が映し出すただの情景。本物の海ではないから、溺れることはないだろう。

 

 俺が今いるのは魂の表層部分。表層にイングヴィルドさんの意識は感じられないから、残るは深層部分(海の中)。つまり、内部に入るには『沈む』しかない。魂への沈み方は、相棒のところへ行くために三回ぐらい経験済みなのでやり方はわかっているけど、まさか深海に潜ることになるとは思っていなかったよ。

 

「海洋恐怖症だったら、この時点でリタイアだったぞ…」

《恐怖消滅可能》

「あぁー、もし途中で無理そうだったら頼むわ」

 

 さすがに海の中を深く潜ったことはないので、そのあたりの精神的なケアは相棒に任せよう。俺は右手に相棒を握り直し、深く何度も呼吸を整える。波が海を走る音だけが響く中、俺は意を決して海の中へ身体を沈みこませた。

 

「――っ! やっぱ、息はできるか」

 

 俺の吐き出した息が泡となり、海上へ昇っていくのを目で追いながら、身体を沈みこませるように意識をしながら奥へと泳いでいく。徐々に光が遠くなり、抵抗のようなものが強くなってきたあたりで、相棒の異能で「干渉」して自分に馴染ませていく。普段なら綺麗に見えるだろう海の中は、一切の生物の気配がないからか不気味にも見えた。

 

 これはおそらくこの精神世界の主であるイングヴィルドさんが、深い眠りについてしまっているのが原因だろう。もし彼女に意識があったら、彼女が望む海の景色が見られただろうから。俺はそれを残念に思いながらも、意識は沈み続けることに集中する。周りはどんどん暗く重くなっていくが、相棒が光源代わりに光ってくれるので迷うことはない。イングヴィルドさんの神器は眠っているとはいえ、そのオーラは微かでも感じられる。それを目印に深奥へとさらに沈んで行った。

 

 

「あれ、あのあたり何か光っていないか?」

《神器の力の残滓》

「神器から漏れた力が淡い薄紫色の粒子になって浮き上がっているのか」

 

 どうやら神器の力が微かだけど漏れだしているようだ。神器の方は休眠状態とはいえ、イングヴィルドさんよりもしかしたら眠りは浅いのかもしれない。淡く光る粒子が増えていくにつれ、俺の目に映ったのは海底で眠る薄紫に光る海水で出来た巨大なドラゴンの姿だった。ドラゴンの目は固く閉ざされ、海の底へ静かに沈んでいる。俺は目を大きく見開き、その美しさも合わせてしばらく呆然と眺めてしまった。

 

「まさか、イングヴィルドさんの神器はドラゴンが封じられた封印系の神器だったのか?」

《……否定。龍を含む他の魂の不在を確認》

「言われてみれば、確かにあの海水で出来たドラゴンに命は感じないな。それでも精神世界でわざわざドラゴンを形作っていることから、全くの無関係って訳でもないだろうけど」

 

 もしかすると、イングヴィルドさんの神器は『ドラゴン』と『海』に関係しているのかもしれない。うわぁー、全く異なる二つの特性を所持する神器って、もうすでに神滅具の認定基準を一つ達成しちゃっているんだけど。しかも『ハイスクールD×D』の世界でドラゴンに関する神器って、どう考えてもフラグとしか思えない件。イングヴィルドさん、やっぱり原作に何かしら関わりがあるヒトなのかもしれないなぁ…。

 

 俺は恐る恐る海水ドラゴンへ近づき、じっくりと観察してみる。紫色に輝く粒子が海水と一緒に龍の姿を形作っているようで、怖ろしいよりも幻想的な印象の方が強い。深海で周りが暗いこともあって、まるでイルミネーションを見ているような感じである。まじまじと見つめた先で、ふとそのドラゴンの手元に膜みたいにできた泡があることに気づいた。

 

「あれって、まさかイングヴィルドさん?」

 

 遠目だったけど、先ほどベッドの上で眠っていた女性と同じ紫色の長い髪が見えた。確かめるために近づくと、薄い膜のような水泡の中に間違いなく彼女はいた。イングヴィルドさんは膝を抱えるように丸まって眠っているようで、彼女が着ている白いワンピースと髪がふわふわと浮いている。俺は泡に手を触れるが、かなりの弾力があって割れる気配はない。柔らかそうな見た目なのに、空間そのものが隔てられているような…、なんだか遮断されているような感じだ。

 

 もしかしてこの泡みたいなのが、肉体と精神の接続不良を起こしている原因が可視化したものだろうか。ここは精神世界の海の中だから、見た目が水泡として現れたのだろう。そして、そんな泡を囲うように鎮座するドラゴンは、泡から微かに漏れ出た彼女のオーラが粒子となって作られているようだ。海水ドラゴンはまるで卵を温め、護るような態勢でその泡を自らの腕に包み込んでいた。

 

「……このドラゴン、もしかして眠っている宿主を守ろうとしている?」

《本能の防衛》

「……そっか。いい子みたいだな」

 

 こんな暗い海底へ沈むほどに眠りが深い主を一人ぼっちにしないように、まだ目覚めていないにも関わらず神器の本能がこうして表へ現れたのだろう。俺はこの光景を見てホッと息を吐く。これまでの状況を考えると、彼女の神器はかなり特殊なものであり、危険な力でもあるかもしれない。最悪、神滅具級が飛び出してくるかもしれないのだ。本当にこの神器を目覚めさせていいのかと考えもした。

 

 だけど、きっと大丈夫だろう。俺は右手に持つ神器を見て笑みがこぼれる。俺が神器に目覚めた時、そのオーラに幼い俺が耐えられないと感じた神器が必死に『俺』を助けようともがいてくれたことを思い出す。その結果が『前世の俺』を憑依させるというとんでもない方法だったけど、そのおかげで今があると言ってもいい。宿主と神器は一蓮托生なんだから。

 

「お前も助けたいんだな」

 

 俺は彼女を覆う水泡に優しく触れ、目を閉じて紅いオーラを流し込んでいく。そして、呼びかける。『聲』を届ける。無理やり叩き起こす必要はない。すでに神器は無意識とはいえ、宿主を護りたいという意志をみせているのだから。だったら俺がやるべきことは、その後押しだけだ。

 

「さぁ、一緒に起こすぞ。その意志を燃料にイングヴィルドさんを導くんだ」

 

 彼女たちの周りを浮遊していた薄紫色の粒子が少しずつ海水ドラゴンへと集まり出し、イルミネーションのような輝きがさらに増していく。兵藤一誠が行っていた『乳語翻訳(パイリンガル)』が女性の乳房から心の声を魂へ届けるものなら、俺は『神器システム』を通して心の声を魂へ直接送り込む。

 

「『慈悲(ケセド)ッ!!』」

 

 俺の背中から紅い翼が現れ、泡が反射して見えた俺の瞳の半分も紅に染まっていた。相棒と共同で力を発揮できる禁手状態じゃないとまだ使えないけど、ここが勝負どころだと彼女の神器へさらに呼びかける。そして、より強い「干渉(インターフィア)」を受けたことによって、「理解(ビナー)」の権能が彼女に宿る神器の力を教えてくれた。

 

 

神器(セイクリッド・ギア) 『終わる翠緑海の詠(ネレイス・キリエ)』》

 

 

 初めて俺が神器をその手に覚醒させた時に聞こえた『聲』。どこか機械的な、だけどどこか意思が感じられるような声。男なのか、女なのかもわからない不思議な響き。システムとして神器の解析を完了させた相棒がその名を呼ぶと同時に、力強い本流のようなオーラが彼女から溢れだした。

 

 己の名を聞き届けた神器――『終わる翠緑海の詠(ネレイス・キリエ)』の覚醒である。

 

「相棒! 目覚めの反動は俺が抑えるから、神器の制御部分を頼むッ!」

 

 イングヴィルドさんの身体から紫色の粒子が溢れだし、外界へと流れ込むオーラが増していく。彼女の魂と直接つながっている神器が覚醒したことで、内側から外側へとアクセスしようとオーラがさらに勢いを増していくのがわかる。先ほどまで死んだように静かだった海が荒れ出してきたということは、それだけ精神世界が揺さぶられているということ。

 

 俺は仏教の秘術でイングヴィルドさんの精神世界が荒れ過ぎないように集中し、その間に神器システムで繋がっている相棒が『終わる翠緑海の詠(ネレイス・キリエ)』がこの水泡から宿主を助け出せるように導く。イングヴィルドさんを覆っていた薄紫の海水ドラゴンの形が徐々に崩れていき、加勢するように彼女の中へ吸い込まれていくことでさらにオーラの輝きが増していった。

 

《―――― ―――― ――――― ――――》

 

「……これは、(うた)?」

《翠緑の(うた)

「神器がイングヴィルドさんへの思いを偶詠(ぐうえい)にしているのか」

 

 ここが精神世界だからだろう。人の言葉を発せない神器からの思いが、まるで謳のように心へ朗詠されていく。その『聲』が海に波紋を起こすと同時に、泡の中で眠っていた少女の瞼がピクリと動いたのが分かった。先ほどまで一切の動きを見せなかったイングヴィルドさんの初めての反応に、俺は泡に手を当ててジッと待つ。さらに閉じられていた唇が震え出し、握り込んでいた手の平が少しずつ開かれていく。

 

 

「イングヴィルドさん?」

「……っ」

 

 次に見えたのは、オレンジの光を宿した琥珀(アンバー)のような透明感のある二つの瞳だった。紫の髪と目を引くオレンジの色彩が整った容姿と合わさって、より現実離れした美しさを見せていた。ベッドで見た彼女は九十年という長い眠りによって儚さと衰弱した印象を受けたけど、それでも綺麗な娘だなぁとは思っていたが…。これは一枚の絵画を見ているような気分になる。

 

 ここは精神世界だからか、本来の健康だった時の彼女に近い状態なのだろう。イングヴィルドさんは何度も目を瞬かせ、ぼんやりとした様子でぼぉーと海の中を眺めている。まだ夢心地さが抜けない感じだったが、不意に俺に気づいたのか琥珀色の瞳が驚きで見開かれたのが分かった。たぶん意識がまだ完全には覚醒していないのだろう。今の彼女は夢を見ている感覚なのかもしれない。

 

「……お迎え?」

「えっ?」

「だって、天使様が…」

 

 たどたどしく眠そうな声音から聞き取れた言葉に、俺は乾いた笑みを浮かべる。そういえば、まだ背中に羽根が生えたままでしたね。うっかりしていた。表の世界で暮らしていた人間からすれば、非現実的過ぎて脳が処理しきれなくて当然だろう。俺は役目を終えた翼をしまうように意識すると、音もなくスッと半透明の翼も消えていった。

 

 先ほどまであんなに荒れ狂っていた海が、彼女の目覚めと同時に凪いだように流れている。今のイングヴィルドさんの気持ちを表すかのようにぷかぷかと漂うように。相棒曰く、神器は目覚めてすぐに大きな力を行使して役目を終えたからか、しばらくは彼女の中で眠りにつくようだ。それでも、神器の覚醒による補助のおかげで、イングヴィルドさんの精神は目覚めることができた。

 

「おはよう、眠り姫様。俺はえっと…まだ天使じゃないから、お迎えではないよ」

「そうなの?」

「うん」

「……誰?」

「うんうん、初対面の相手にまずするべき、シンプル且つ大事な疑問だね」

 

 こてんと首を傾げるイングヴィルドさんからは危機感のような焦りは一切感じられない。本当に不思議そうな表情を浮かべるだけだ。キミね、寝起きとはいえ知らない場所で見知らぬ男が目の前にいきなり立っていて警戒心なしはまずいでしょ。悲鳴を上げてほしい訳じゃないけど、もう少し別の反応があるんじゃないか? 何かこう…、長年の経験則からすでに天然オーラが漂ってくるようで、ちょっと遠い目になってしまった。

 

 原作のカテレア・レヴィアタンが苛烈な性格だったからレヴィアタンの血筋を持つイングヴィルドさんがどんなヒトなのか考えてはいたけど、これは別の意味で心配になるタイプだったようだ。今も物珍しそうに海の中を興味深そうに眺めている。自分を包んでいる水泡をちょんちょんと触っては割れない不思議さに目をぱちぱちとさせていた。まぁ、夢だと思っているのなら仕方がないのかな。

 

 ここはまだ精神世界の中だし、目覚めたばかりの彼女に負担はあまりかけられない。とにかくまずは魂の表層部分に戻ることが先決だろう。ここはだいぶ深いところなので、一緒に連れていくぐらいはしたいのだがついてきてくれるだろうか。

 

「海? 私、泡の中にいるの?」

「たくさん疑問はあるだろうけど、ここは深海だからまずは明るいところへいかないか。その泡は不具合が可視化されてできたもの。目覚めた今のキミなら、自分の意思で壊せるはずだ」

「壊す…」

 

 魂が活性化して意思が目覚めたのなら、後は肉体との接続を行うだけ。やり方を説明しようと口を開きかけた瞬間、彼女は突然手に魔力を籠めだした。

 

「えい」

 

 軽い掛け声と共に拳を振り下ろし、パンッ! とあっさり泡を破壊してしまった。

 

「……えっ、魔力を使えるの?」

「……? 魔力って何?」

「いや、今使ったやつ」

「…………?」

 

 またよくわからないと首を傾げるイングヴィルドさんに、俺は察する。あっ、これ全く意識せずに潜在能力を発揮しちゃうタイプの天才型だと。ラヴィニアや朱雀も天才型だけど、二人はわりと理論をちゃんと理解してからさらに潜在能力を伸ばしていくタイプである。だけどたぶんイングヴィルドさんは、「やろうと思ったら何かできちゃった」的なヴァーくんタイプなのだろう。俺にもそういう感じの才能がちょっと欲しかったよ!

 

「息ができる」

「あぁー、ここは海であって海じゃないからね。夢の中にいると思ったらいいよ」

「夢…」

「そして、今からキミはその夢から目覚めるところなんだ」

 

 この夢から覚めて現実を直視した時、彼女は果たして現実(それ)を受け止めることができるのだろうか。不安はある。それでも、このまま目覚めないままでいるのはよくない。彼女の神器はずっと傍で宿主を支え続け、そして生きてほしいと真摯な祈りを詠にして届けた。その詠を聞いたからこそ、彼女を救う願いはきちんと果たす。

 

「イングヴィルドさん」

「イング、ヴィルド…?」

「もしかして、憶えていない?」

「……たぶん、私の名前?」

 

 たぶんって、しかも疑問形…。これは永い眠りの所為で記憶に障害が起こっている可能性が高い。あまり感情が現れないのも、記憶の弊害によって心が麻痺してしまっているからかもしれない。こういうタイプは診察で見たことがあるけど、下手に刺激するのは悪手だ。彼女の朧げな様子に、これ以上不安にさせない方がいいと判断した俺は行動に移すべく真っすぐに左手を伸ばした。

 

「俺は倉本奏太。イングヴィルドさんの主治医で――簡単に言うと先生だな」

「先生?」

「詳しいことは目覚めたら話すよ。不安はたくさんあるだろうけど、一緒に夢から覚めよう。俺やキミを心配するヒト達が待っているから」

 

 差し出された手の平に彼女は少しだけ逡巡を見せたが、ゆっくりと俺の手を握り返してくれた。記憶もあやふやで恐怖心だってあるだろうに、こうして俺のことを信頼してくれたことに笑みが浮かんだ。

 

「信じてくれてありがとう」

「……ずっと、私を呼ぶ声が聞こえた気がするんです。必死に、何度も」

「…………」

「その声を、詠を、先生が届けてくれたような気がしたから。だから信じます」

 

 そう返事を返すと、イングヴィルドさんはふわっと柔らかな微笑みを浮かべてくれた。それに思わず見惚れてしまったが、相棒から生暖かい思念が送られてきたので慌ててキリっと表情を引き締める。危ない危ない、同じ年の異性だけど相手は俺の患者である。主治医として、冷静で公正な態度を取らないと患者を不安がらせるだけだ。それに、記憶のことも考えたら傍にいるのは女性の方がいいだろう。改めて、リアスちゃん達がいてくれてよかったと思う。

 

「海面を目指すけど、泳げそう?」

「わからないけど、泳ぎたい」

「頼もしい答えで」

 

 さすがは精神世界が海一色なだけはある。記憶はないけど、知識的なものはあるのだろう。溺れない海というものにぼんやりしながらも目が輝いているから。実際、手を繋いで泳ぎ始めたら安定した泳ぎを見せてくれた。もしかすると、元々海辺の近くとかに住んでいたのかもしれないな。冥界には海はないけど、いつか人間界の本物の海を見せてあげたいものである。

 

 ただレヴィアタンの血筋のことを考えると、彼女が目覚めたからといって自由に行動するのは難しいだろう。それに『眠りの病』の治療を公表するのも難しい。まず、イングヴィルドさんは明らかに特殊な事例だ。悪魔の血が隔世遺伝によって目覚めた神器持ち。今回は神器を基点に魂へ「干渉」することで、彼女を目覚めさせることができた。しかし、大勢の『眠りの病』の患者は純粋な悪魔なのである。

 

 それでも、魂を活性化させ眠っている精神を目覚めさせることで肉体との接続不良を治すことが可能という結果は叩き出せた。そこからメスを入れていくことはできるだろう。だが、今も眠そうなイングヴィルドさんの様子から、これで完治したとは言い難いとも思う。神器のおかげで接続は保たれているが、おそらくそれが無くなったらまた眠りについてしまう可能性が高いからだ。

 

 原作でアザゼル先生が軽度の神器症の患者に解呪術式を施すことで、神器によるアレルギーを緩和させていた描写があったことを思い出す。神器は魂とくっ付いているので、それに干渉できるという制御術式は悪魔の『眠りの病』にも効果があるかもしれない。さらに魂関連の術は仏教陣営の十八番(おはこ)である。玄奘老師に閉ざされた魂や精神へ干渉できる方法がないか調べてもらうこともできるだろう。

 

 今回は神器側から「干渉」することで何とかなっただけで、接続不良に関する研究は全然足りていない。しばらくはイングヴィルドさんを検診しながら研究し、彼女の『眠りの病』を完治させることを目標に頑張っていこう。各勢力の技術的な助けも必要だろうから時間はかかるだろうけど、神器症の時は治療までに丸三年はかかったのだ。あの時よりも成長できていると思いたいな。

 

「光が」

「あぁ、海面だ」

 

 手を伸ばした先の煌めきに向かって二人で手を伸ばすと同時に、意識が急激に引き上げられていく感覚を覚える。これは乳神様とのお別れの時の感覚と似ているので、どうやら無事に目覚めを迎えられそうである。次第に視界が白に染まっていくのを感じながら、俺の意識は反転したのであった。

 

 

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