えっ、シスコン魔王様とスイッチ姫みたいな力ですか?   作:のんのんびり

95 / 225
第九十五話 奏

 

 

 

《――依木(よりき)の望むままに》

 

 (こえ)が、聴こえた。短いながらも、はっきりと告げる確かな意思。初めて聞いたはずなのに、ずっと昔から耳にしていたような懐かしい声音。どこか機械的で、男なのか、女なのかもよくわからないような神秘的な響き。だけど、不思議と冷たさは感じなかった。

 

 ふと、それと同時に感じたのは淡く輝く紅い光だった。目に映る全てが(くれない)に染まり、光を触ってみようと手を伸ばしても、何かに触れることはできない。いや、そもそも手は動いているのだろうか。この紅い光を感じる目だって、本当に自分が見ている景色なんだろうか。

 

 さっきまで煩いぐらいに鳴っていたはずの心臓の音もわからない。そういえば、椅子に座っていたはずなのに、いつの間に俺は立っていたんだろうか。待て、そもそも俺は今立っているのか? 止めどなく溢れてくる疑問と、まるで夢遊病のようにふらふらとする、よくわからない自分自身。

 

 もしかして、これって夢なのかな? そう感じてしまうぐらいに、現在は非現実的過ぎる状態である。そんな風にぼんやりとしていた俺に向かって、また声が聴こえたような気がした。今度は内容を聞き取ることができなかったけど、何かを伝えようとする思念は感じる。

 

『……望むままに』

 

 あの聲は、俺にそう伝えた。俺の望むままに進めばいい、と優しく背中を押してくれるような温かい思念。それに嬉しさがこみ上げる。俺が相棒を間違えるはずがない。相棒の声を、俺は確かに聴くことができた。

 

 俺がそう望むのなら、これからも相棒はずっと一緒にいてくれる。不安に揺れる俺の想いに真摯に応えようと、今まであった筈の壁すら越えてしまったのだから。全身を包み込むような安心感が、己のずっと奥にある心にも届いたような気がした。

 

『また、何かの声? いや、音? これは何かの、……(うた)?』

 

 なんだか呼ばれているような気がする。きっとこの声が呼んでいるのだろう。俺の応えを待つように、(うた)も聞こえてくる。まるで引き寄せられるように、声が聞こえるところへ行ってみるべきかと思案する。そんな風に悩んでいた俺を、何かが遠ざける様に阻む気配がした。それに驚いたが、不思議とその気配に警戒心は起こらなかった。

 

 その気配は、俺に向かってどこか咎めるような思念を送ってくる。なんだか迷子になっている俺に、しっかりしなさいと怒っているような…、どんな例えだよ。その間にも、どんどんと沁み込んでくる謳と、それを聞かせないように遮るような何か。えっと、結局俺はどうすればいいんだ? 帰るにしても、どうやって帰ればいいのかわからないんだけど…。

 

 それでも、俺のことを呼んでいる声があるのなら、せめて返事ぐらい返すのが礼儀じゃないだろうか? そう考えた俺に、俺の前にいた何かが俺の頭らへんに触れた。流れ込んでくる優しい思念と一緒に、何かを俺に聞かせるようにそっと記憶の中の囁きを拾った。

 

『キミ、神器の中に潜ったことは?』

『えっ、潜る? いえ、たぶんないですけど。……あれ、神器の中に潜ることができるのは、魂を封じられたタイプのものだけじゃ』

『あぁ、よく知っているね。なら、忠告だ』

 

 あれ、これって…。確かアジュカ様と初めて出会った時にした会話だ。懐かしい、あの時はとにかく頑張らないといけない! と思って突っ走っていたから、ご迷惑をたくさんかけたな。そして確かこの後、魔王様から言われた言葉は……。

 

『もし神器に呼ばれることがあったら、その声を聴くかどうかはしっかり考えてからにしなさい』

「――あっ!?」

 

 目が、覚めた。

 

 

 

――――――

 

 

 

 目を見開く。俺は座り込んでいた体勢から、勢いよく上半身を起き上がらせて、無意識に止めてしまっていたらしい呼吸を再開する。何度も息を吸い込んでは吐き、早鐘を打つように心臓がドドドッと音を鳴らし、まるで全力疾走をした後みたいに肩が上下に揺れていた。

 

 永い幻影のような白昼夢を見ていた気分だ。混濁する思考とはっきりしない視界、何度も瞬きをしているはずなのにぼやけたままの景色。さっきまで考えていたことや、聞こえていたはずの何かが霞がかかったように見えなくなって隠されていく。気づけば俺の頭の中に残っていたのは、告げられた聲とアジュカ様からもらった忠告、そして胸の奥に沁み込むように流れた不思議な旋律だけだった。

 

 もしあの時、魔王様の忠告を思い出していなかったら、俺は何も疑問に思うことなくあの声に応えてしまっていたかもしれない。それほどまでに、安心していたように思う。何も心配することなんてないって軽い気持ちで、その声の隣に寄り添うように応えていただろう。今だって危機感のようなものは感じないけど、それでもあまりにも急すぎることに頭が追いついていなかった。

 

 たぶんこうして現実に戻って来れたのは、アジュカ様の忠告通り、ちゃんと考えないと駄目だって強く思ったからだと思う。こんな成り行き任せにではなく、ちゃんと向き合ってから応えたいと願った。まだ思考が上手くまとまっていないけど、今回の聲に応えなかったのは正しかったのだと直感した。

 

「……落ち着いたか?」

「……先生?」

「ゆっくり息を吸え。水は飲めるか?」

 

 外から入ってきた声を認識すると同時に、ようやく周りが見えてきた。背中に大量の汗をかいていたことに気づき、次に自分の肩の上に大きな手が乗っていたことを知る。俺が小さく頷いたのを見て、肩から手を放して水を流す音が耳に入る。そして目の前に差し出されたコップをゆっくりと掴み、冷たい水が口に運ばれていくごとにすっきりした気分になっていった。

 

 全ての水が飲み終わる頃には、視界はだいぶ晴れ、鉛のように重かったはずの身体は何不自由なく動かせた。それになんとも不思議な気分になる。さっきまで自分の身体じゃないみたいな違和感があったのに、今は呼吸も落ち着いて冷静に記憶を呼び起こすこともできる。さすがにぼんやりしていた時のことは、まるで虫食いにあったように途切れてしまっているけど。

 

 どうやら、現実世界ではそれほど時間は経っていなかったらしい。まだちょっとくらくらするけど、神器の検査をしていた最中だったことを思い出す。それで、相棒を信じていいのか質問をしたら、予想外にも声が返ってきて…。たぶん夢みたいな空間にいたのは、本当に一瞬だけだったんだろうな。

 

 

「お水、ありがとうございます。あの、先生…。いったい何が起こったんですか? 俺が見た、あの夢みたいな空間は……」

「……お前が神器と同調したと同時に、神器の奥にいる意思がお前の魂に直接干渉したことで起こった現象だと見ている。確証はないが、おそらくお前は神器の中へ潜っていたんじゃないかと考えている。お前の身体が思うように動かなかったのも、心身と魂の繋がりが一時的に薄くなってしまった弊害だろう」

 

 俺が落ち着いたとわかり、先生はあからさまにホッと肩の力を抜いていた。それにしても、あのふわふわしたような夢みたいな感じは魂の状態だったのか。そう考えるとこのくらくらする気持ち悪さは、さっき魂の検査をしていた時とちょっと似ているかもしれない。

 

 それに、確かに俺が聴いたあの聲は、自分の耳で聞いたというより、水が紙に沁み込むように俺の中で広がっていたように思う。まさか相棒の声を聞いたと同時に、神器への初ダイブまでしてしまうとは。しかも無意識で。魂が封じられた神器にしかできないはずだけど、たぶん相棒がいる空間に繋がってしまったんだろうな。俺は自分の胸のあたりを手で押さえ、神器のオーラを感じながらアザゼル先生の方へ真っ直ぐに目を合わせた。

 

「それで、お前の方は何があった?」

「……相棒に呼ばれました」

「声を聴いたのか」

「はい、アレは間違いなく相棒の声でした。俺が間違えるはずがない」

 

 落ち着いてから何度も相棒に語り掛けているけど、先ほどのように声が返ってくることはない。ただどこか申し訳なさそうな思念が、俺に向かって送られてくるのを感じる。まるで焦らなくていいから、と俺を心配するように。あの時アジュカ様の忠告を思い出せたのは、たぶん相棒のおかげなんだろうな。

 

 確信はないけど、おそらく相棒は今までずっと俺に語り掛けてくれていたんだろう。それが今回、偶然にも何かが重なって相棒と繋がり、声が俺に届いたんじゃないかと思う。あと、なんとなくだけど…。相棒は声を俺に届けはしたけど、俺が神器の中にまでうっかり潜っちゃったのは想定外だったんじゃないかな。ただの予想だけど。

 

 あの時は、俺も必死に相棒へ語り掛けていた。正直に言えば、怖かったのだ。知らない間に、理由もわからない内に変化させられている自分自身に、相棒への不信感が一瞬でも()ぎってしまった。もちろん相棒なら何か理由があるんだろうし、きっと俺のためなんだろうとは思っていた。それだけの信頼を、俺は相棒からもらっているのだから。

 

 俺は無条件の信頼を相棒に持っているつもりだけど、今回の結果にはさすがにちょっと揺らいでしまったのだ。それが、あの必死の懇願に繋がってしまった。まぁ結局、相棒の声が聴けただけで普通に舞い上がっちゃって、それで満足してしまったのだから、俺って単純である。……もしかして俺、ラノベの幼馴染枠ぐらいちょろインなんてことはないよな? えーと、深くは考えない様にしよう…。

 

 

「いつものように相棒へ心の中で質問をしたら、応えてくれたんです。『依木(よりき)の望むままに』って」

「……依木だと? まさか、じゃあ神器の奥にいるアレは――。いや、だが…。違う、同じじゃないはずだ。俺が『あいつ』の存在を間違えるはずがない」

「先生…?」

 

 ぶつぶつと小声で呟き、表情からも焦燥が感じられる先生に、どうしたのかと目を瞬かせる。なんか声をかけづらい雰囲気だ。というより、今更だけど『依木(よりき)』ってどういう意味だろう。なんで「木」なんだ? 俺は普通の人間なんだけど…。

 

 直訳すると「寄りかかる木」だから、それで宿主ってことなのかな。それなら、普通に「宿主」じゃ駄目だったのだろうか。ちょっと相棒、キミは俺のことをどう思っているんだ。今まで俺の事を、ずっと「木」って呼んでいたの? それはそれでちょっと思うところがあるんだけど。脳内会議勃発である。

 

 そこはさ、俺は神器の所有者なんだからファンタジーの定番である「主」とか「主様」とか、少し恥ずかしいけど「ご主人様」とかじゃ駄目だったの? 実は幼馴染枠だったのなら、「カナタ」や「カナ」とか周りみたいに気安い感じでも俺はOKだよ。ドライグみたいに「相棒」呼びもむず痒いけどいいなって感じるけど、俺もお前のこと「相棒」呼びだし、なんかちょっと芸がないかも? とも思うんだよ。

 

 ……はっ!? まさか先生曰く、オカン枠として突き進む気なら、「息子」や「うちの子」みたいな呼び方がいいとか言わないよな? まぁ、もし相棒がそう呼びたいというのなら、一応俺も一考はするよ? タンニーンさんみたいなフルネーム枠は、相手が相棒だとちょっと距離を感じるから、もしかしたら交渉するかもしれないけどさ。

 

 ねぇ、相棒聞いてる? 思念でもいいから、俺の呼び方リストをちゃんと考えてよ。なんで「今は空気を読めよ…」的な感じの思念ばっかり送ってくるんだ。今後のことも考えたら、すごく大事な事だろう。そもそもややこしくなった原因は、相棒じゃんか。あっ、こら。さりげなくスルーしようとするな!

 

「……おい、カナタ。どうかしたのか?」

「えっ? あぁ、すみません。ちょっと相棒に俺の呼び方が「木」なのは嫌だから、別の呼び方にしてくれない? って話しかけているのに、スルーしてくるんですよ」

「お前、この状況でそれは空気を読めよ」

「えぇー」

 

 俺の様子に先生は疲れたように、だけどどこか安心したように笑うと、俺に付けていた装置を外して頭をポンポンと叩いた。なんか今日はよく頭を叩かれるな。とりあえず、本日の検査はここまでにして、念のため一日安静にして過ごす様に言われた。

 

 おそらくバラキエルさんがもうすぐ来るから、今日はそのまま個室で休んでいいそうだ。どうやら先ほどの検査内容について詳しく調べたいので、俺の面倒を見れる時間がなくなったらしい。まさかのここに来て放置。いや、確かに緊急事態は起きたけどさ。

 

 正直何が起こったのかよくわからないけど、この時点では憶測しかできないため、アザゼル先生からの説明は保留になるらしい。色々予想外のことが起きたから、改めて考えをまとめたいのだそうだ。神器のことはわかり次第、俺へ伝えてくれるそうだが、先生がかなり思い悩んでいるのはわかるので、あまり急かさない方がいいんだろうな。なんかお腹のあたりを手で押さえているし…。

 

 俺の方は、まぁなるようになるんじゃない? ってぐらいのんびりと考えてしまっている。ぶっちゃけ言ってしまえば、俺に難しいことはさっぱりわからないからな! 俺が望むままに突き進めばいいって相棒も言ってくれたし、何よりも弱者の立場である俺は、悩んで立ち止まっている暇なんてないのだ。とにかく前進あるのみだし、強くなるために努力をしないと、ラヴィニアのパートナーとして足手まといのままである。

 

 だから、相棒が俺との同調率を上げているというのなら、それも受け入れる。才能のない俺がこの世界で食らいつくには、相棒の力が必要不可欠だ。その神器の力を引き出せる性能が上がるというのなら、拒む理由なんて俺にはない。信じると決めたからには、最後まで信じよう。それが、俺なりに決めた今回の答えだった。

 

 

「カナタ。わかっているだろうが、迂闊に神器の声に耳を傾けないように気を付けておけ。お前をすぐに解放した様子から、一方的に呑み込むつもりはないようだが用心はしろ」

「……わかりました。ただ上手く言葉にできないんですけど、なんとなく相棒は俺の意思で決めるのを待ってくれている様に感じるんです」

 

 相棒は『望むままに』と俺に言った。それは、変化を望まないのなら今このままの状態でもいいということなんだろう。今のままこの関係が変わることなく、いつも通り裏の世界でコツコツと頑張って進んで行く人生。メフィスト様の部下として、ラヴィニアのパートナーとして、そして一人の人間として、この世界の流れと共に歩む生き方を。

 

 たぶんだけど、相棒の声に応えたら……今俺が見ている世界はガラッと変わってしまうような気がするのだ。神器に潜ったことで、相棒に近づいたことで、本能的に直感が働いた。あの声の先にある力は、一人の人間が持つには大きすぎる。それこそ、世界の流れそのものまで変えてしまうかもしれないぐらいに。

 

 あの時、相棒が俺を現実に戻してくれたのは、そんな力を俺が望んでいないことを理解してくれていたからだろう。だから、このまま進んでしまっても、声を受け入れない道を選んでも構わないのだと、あの空間できっと相棒が教えてくれた。

 

 だけど、もしも俺が「人」には過ぎたる力をそれでも望むのなら。どうしても叶えたい願いが出来たその時は。耳に――いや、魂に残っているあの空間で聴いた謳を(うた)えばいいのだろう。あの謳を捧げる、それがきっと「世界の均衡を崩す力」へと昇華する。……それが、漠然とわかった。

 

「そうか、そこまで気付いているのなら、俺から言うことはない」

「はははっ、はい。俺としては、今でも十分にデンジャラスな人生を送っているので、これ以上の波乱万丈さなんて望みませんしね。あんまり難しく考えても仕方がないので、アザゼル先生の言うとおり、俺に出来る範囲でやれることを頑張ることにします」

 

 まさか神器について知るために『神の子を見張る者(グリゴリ)』へ行ったら、数段飛ばして『禁手(バランス・ブレイク)』に至れるかもしれない方法を知ることになるとは思わなかったよ。それも、たぶんこの世界にとっては、至らない方がいいのだろうと思われる方面に。世界の均衡を崩す、とはよく言ったもんだよ。まさに禁じられた手段、ってやつなんだろうな。

 

 人間として、人としての当たり前の生をこれからも過ごしていきたいのなら、きっと今のままでいればいい。俺だってちゃんと強くなるために今後も修行するし、成長だってするんだから、わざわざ「人」を越える力なんて欲しがる必要なんてないと思う。兵藤一誠たちのように死線を潜り抜けたい訳じゃないし、戦闘なんてまっぴらごめんだ。避けられるのなら、喜んで避けるのが俺である。

 

 何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し、ってやつだ。それに過ぎた力を持つことで、俺と関わりのあるヒト達が巻き込まれたりなんてしたら嫌だから。力がある故に孤独になる道を選ぶぐらいなら、力がなくて必死に足掻きながらもみんなで進む道を選びたいと思った。それが、今の俺の気持ちだ。

 

 選択を急ぐ必要はない。だから、しっかり考えて神器と向き合っていこう。これから先、俺自身が「人」として後悔しないためにも。

 

 

 

――――――

 

 

 

「なぁ、ディハウザー。悪魔は命名の時に何かルールがあったりするのかい? 悪魔なりの名前のご利益などもあるんだろうか」

『悪魔の名前で、ご利益などを考えたことはなかったが…。貴族悪魔の中には、先代から名をいただくことはありますが、家によってやり方は違いますね』

 

 かれこれ一時間ほど、このようなとりとめのない会話を続けている二人の男性。一人は銀色の髪と暗緑色の瞳を持った秀麗な容姿を持つ転生悪魔であり、そして悪魔すら震えさせる策謀と実力で最上級悪魔へと上り詰めた魔術師――リュディガー・ローゼンクロイツ。悪魔らしく奏太(いたいけな子ども)に悪知恵をノリで授けるような悪魔である。

 

 そんな彼が魔方陣を起動させて通信している相手は、これもまた冥界の悪魔達にしてみれば名前を知っていて当然の人物――皇帝、ディハウザー・ベリアル。しかし現在の彼は髪と同じ灰色の瞳に疲れを滲ませながら、リュディガーの話に相槌を打っている状態だった。半年前のストライキで、お互いにプライベートも含めだいぶ打ち解けてきたとはいえ、それでも今回のような身になるのかわからないような会話を続けるのは初めての事だろう。

 

 そうなっている原因は、いつも冷静沈着で優雅さを忘れない『番狂わせの魔術師(アプセッティング・ソーサラー)』が、珍しく動揺を見せているからだろう。ディハウザーとしても、最初は物珍しさと微笑ましさもあって付き合っていたが、さすがに疲労を感じてきた。

 

『だから、ローゼンクロイツ殿の出身に合わせた名前でいいんじゃないだろうか? ちなみに、性別は判明しているのかい?』

「あぁ、男児だそうだ。ふむ、ならドイツ名で私の家名と合いそうなものがいいか…。『アロイス』、『オスカー』、『ヴィルヘルム』、『ノルベルト』、あとは……」

『さて、それではローゼンクロイツ殿。そろそろ通信を切ってもいいかな?』

「まだ付き合え、ディハウザー。キミの今日と明日の予定はすでにこちらで掴んでいる。息子が無事に産まれるまでじっと待つことしかできない私の精神安定のために、付き合うのが同士(とも)というものだろう」

『待て、万が一難産だったら、日を跨いでも私を付き合わせる気か!?』

 

 ドイツ近郊にある、『薔薇十字団(ローゼンクロイツァー)』が援助している病院の出産待合室にて。リュディガー・ローゼンクロイツは真剣な表情で椅子に座り、じっとその時を待ち続けていた。妻が臨月に入ったころには、すでにいつ産まれても駆けつけられるように仕事を調整し、急ぎの仕事を的確に容赦なく眷属達へ割り振り、人間である妻の体調を考慮して人間界まで赴いての出産準備。そんな落ち着きのない悪魔の夫に、人間の奥さんの方から「そこに座って待っていなさい」と告げられ、現在に至る。

 

 人間から悪魔に転生したリュディガーは永い年月を生き、レーティングゲームの選手として活躍してきた。その永き時の中で一人の女性と気持ちを通わせ、夫婦二人の穏やかな家庭を築き、そして今日ついに念願の第一子が産まれるのだ。純血の悪魔に比べて転生悪魔は子どもが産まれやすいと言われているが、それでも相当に長い年月が必要だった。

 

 悪魔の出生率の低さの関係上、人間である妻の年齢を考えれば、子どもを一人産むのが限界だろう。少なくともリュディガーは、悪魔に転生したとはいえ人間としての価値観の方が比重が大きい。今の愛する妻以外の女性を他に娶るつもりはないし、産まれてくる息子に父親としてできる全てを持って愛そうと考えていた。普段は悪魔よりも恐ろしい悪魔と言われているリュディガーだが、今の心ここにあらずで待ち続ける様子は、一人の父親そのものだった。

 

『はぁ…、わかりました。ではもう少しだけですよ』

「すまない、感謝する。そういえば、ベリアル家は本家に親戚一同で暮らしているんだったね。ディハウザーは、赤ん坊を育てた経験はあるか?」

『えぇ、ありますよ。クレーリアのオムツを替えてあげたり、離乳食を食べさせてあげたり、懐かしいものです』

「……幼い頃に組織の子の世話をしたり、書物で学んだりはしたが、育児経験はそちらの方がありそうだね。今度詳しい体験談を聞かせてもらいたい」

『ふっ、それでは秘蔵のアルバムも見せてあげましょう』

 

 さらりと幼少期の黒歴史を語られることになった、クレーリア・ベリアルであった。

 

 

『それにしても、改めて「名前」を考えるのは大変みたいですね。それで、ローゼンクロイツ殿。息子さんに付ける名前は、もう決まったのですか?』

「……最終的には、我が子をこの目で見てから決めることにするよ。『名は体を表す』という言葉がある。息子のために最高の名前を付けてあげたいからね」

「そ、そうか。まぁ、奥さんとゆっくり考えたらいいさ」

 

 まだ結婚をしていないディハウザーが、今のリュディガーにかけられる言葉などそう多くはないだろう。とにかく無言になったら気まずいので、なんとか話題を見つけたい。この男は息子が産まれるまで、本気でディハウザーを解放することはないだろうから。ちなみにリュディガーは、皇帝のお人好しな性格も考慮して生贄に選んでいた。

 

『えーと、そうだ。名前と言えば、確か人間界のアジア方面に住んでいるヒト達は、「漢字」という文字を使うらしいね。カナタくんの字も、一つひとつに意味が込められていると聞いて、面白いと思ったよ』

「あぁ、倉本奏太くんは日本人だったね。私たちのような横文字の名前を持つ者からしたら、珍しいだろう」

『えぇ、確かカナタくんなら、「音を『(かな)』でる」という漢字を使ったはずですね』

「『(かなで)』か。音色を合わせることから「調和」の意味を持ち、人をまとめるという意味もあったか。この漢字が出来た成り立ちも、綺麗なものだったと記憶しているよ」

 

 優秀な魔法使いであるリュディガーは、日本や中国の術式にも興味を持ち、悪魔の永い生を利用して様々な書物や伝承を集めてきた。中国に古くから伝わる仙術や陰陽術、日本の退魔士の一族の秘伝など、気になるものは数多くある。「漢字」もその時に学び、知識として取り入れてきた。情報を武器に成り上がってきたからこそ、彼にとって新たな知識を得ることは苦ではなかった。

 

 そして、ディハウザーの口から出てきた一人の少年の名前。それにリュディガーは、楽し気に肩を揺らした。レーティングゲームのストライキの裏を知る二人にとっては、最も関わりのある人間の少年。リュディガーにしてみれば、日ごろから通信でよく話をし、話のタネにちょっと悪いことを教えている関係だった。

 

 ちなみに、リュディガーが奏太と良好な関係を築いてきたのは、彼の発想の面白さを傍で見るだけでなく、とある打算も働いていたからだ。悪魔と人間の恋人のために真剣に戦ったあの少年なら、もうすぐ生まれてくるハーフ悪魔の息子と仲良く遊んでくれるだろうという願い。きっと彼なら、年が少し離れているとはいえ、自分の息子と兄弟のような関係になってくれるかもしれないと思えたのだ。

 

 リュディガーはレーティングゲームのプロプレイヤーであるため、長い間人間界に居座ることはできない。冥界に連れてくるにしても、人間である妻のことを考えれば数年は人間界で暮らした方がいいだろう。母親や『薔薇十字団(ローゼンクロイツァー)』の仲間はいるが、少しでも息子が寂しい思いをしないように打てる手立ては全て打っておきたかった。

 

 だから奏太にも、息子が産まれたら一緒に遊んであげて欲しいことをすでに話している。子どもへのおもちゃや遊びなども話し、同じヨーロッパに結社を構える『灰色の魔術師(グラウ・ツァオベラー)』なら、行き来もそこまで難しくはない。彼が冥界に修行へ向かう前の通信で、もうすぐ息子が産まれるだろうことを伝えると、「楽しみにしています」と笑顔を浮かべて祝福してくれた少年。それを思い出し、リュディガーは口元を綻ばせた。

 

『『奏』の成り立ちですか?』

「あぁ、漢字上部の「(ホウ)」は神が乗り移る木の枝のことを表し、漢字下部にある末広がりの「天」の部分は、両手でものを捧げるという意味があるのさ。あと、音楽を神に捧げることで、神が木に降りるのを待ったという意味もあったらしい」

『なるほど…、そんな意味があったのですか』

 

 魔術師から伝えられる知識に、ディハウザーは感嘆の声をあげる。以前奏太から「前に小学校の宿題で、自分の名前の由来を調べるのがあったんですけど…。父さんに聞いたら、俺の名前、なんだか響きがいいからと縁起の良い画数の関係で決められたみたいなんです。小学校で発表するのに、もうちょっと他に理由がなかったのかよ、と子どもながら思いましたね…」としみじみ語っていた姿を思い出す。日本の名づけも大変らしい。

 

 

 そんな会話を続けていた最中、待ち続けていた出産室の中が騒がしくなったことをリュディガーは感じ取った。ディハウザーもその雰囲気に気づいて口を閉じ、二人して出産が行われている部屋の扉を見つめる。時間にしてはほんの数分ほどだっただろうが、男達にとっては、永い、永い時間が流れたように感じた。

 

 そして、ついに待ち続けていた微かな産声が、扉の先からリュディガーの耳に入る。それに一筋の涙が父親となった男の瞼から思わずこぼれ、ディハウザーも新たな命の誕生に感動しながらも、しっかりと空気を読んで「おめでとうございます、ローゼンクロイツ殿」と短い祝辞を告げた後、静かに通信を終わらせた。この後、出産祝いでも買いに行こうか、と何の前触れもなく突然の通信で数時間拘束されていた皇帝(お人好し)はそっと席を立った。

 

 

「……どうしたんだ?」

 

 あれから数分ほど経ち、父親である自分を呼びに来るだろう医師を待ち続けていたが、一向にその気配がない。赤ん坊の泣き声や何やら話し合うような声、そして妻である女性の声も悪魔として鋭敏になっている聴覚は確かに拾っている。子どもも生まれ、妻も無事に出産を終えただろうに、何故父親である自分を呼びに来ない。

 

 さすがに許可もなく出産室に入ることはしないが、それでも不安や焦燥が彼の胸の中で燻る。沈黙し続ける時間に耐え切れず、何度も扉に手をかけそうになる己を自制しながら、リュディガーはそれでも待った。そして、ついにその扉が開かれる。バッと勢いよく彼が顔を上げた先にいたのは、妻の出産のために夫婦で何度も相談をし合った、信頼する助産師の姿。熟年の落ち着いた雰囲気を纏う、裏の世界にも精通するベテランの女性。

 

 しかし、彼女がリュディガーの顔を見た瞬間、その表情が僅かに強張ったのが見えた。それでも自分の役目を果たそうと彼女は真っ直ぐに足を進め、沈痛さに唇を噛みしめながらも、父親へその事実を伝えるために口を開く。リュディガーとその妻が、どれだけ我が子を待っていたのかを彼女は知っていた。助産師として今まで磨き上げてきた経験を下に、必ず二人に子どもを届けようと考えていた。

 

 そして、無事に子どもは産まれた。出産した奥さんの体調も問題ない。全てが上手くいった、……はずだった。彼女は自分の声が震えないように深く息を吸い、真実を告げた。

 

「……持病、ですか?」

「はい。この病は、魂すら(むしば)みます。おそらく、お子様が長く生きることはできないでしょう」

「そんな、馬鹿な…。そうだ、私は魔法使いだっ! あらゆる魔術の知識を、我が子のために捧げられる。それに永き時を生きる悪魔の妙技なら、救えるかもしれん! レーティングゲームで稼いできた富や、最上級悪魔として使える権力だってある。何か、何か救える方法がっ……!」

「ローゼンクロイツ様。私はこの病を持ってしまった子どもを知っています。その最後も…。そして、そんな子どもたちを救う方法が見つかっていないことも……私は知っているのです」

 

 名のついた病なら、まだマシだっただろう。どれほどの難病だろうと、リュディガーは最高峰の魔法使いであり、レーティングゲームのトップランカーとして築いてきた実績から、あらゆる治療を受けさせることができたはずだから。しかし、残酷にもこの病を治す術は、誰も見つけられていない。治す手掛かりさえ見つかっていなかったのだ。

 

「ローゼンクロイツ様のお子様は、……神器(セイクリッド・ギア)を持ってお生まれになりました。しかし、神器に対する抵抗力が弱いため、神器のオーラの影響がその身体だけでなく、魂にまで及んでいます。もはや私達に出来ることは、少しでもあの子の心が救われることを願うしかありません」

 

 宣告された余命。生まれながらにして、命の刻限が定められた子。神がいなくなったこの世界で、その運命を覆すことはできないだろう。それこそ、「世界」の予想や計算すら容易に打ち砕くような奇跡を起こす――そんな運命に愛された存在でなければ。

 

 ――激動へと繋がる世界の流れが、また一つの時を刻んだ。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。