完全にのぞえりです。それ以外の7人は登場しません。まだμ’sができる前のお話です。
それでは、どうぞ。
12月22日の朝はひどく冷え込んでいた。冷気はガラスや壁をすり抜けて、部屋のすべてのものを静かに包み込んでいた。絢瀬絵里は目を覚ました。枕元のスマートフォンは、まだアラームが鳴るまでに19分の余裕があることを示している。つまり時間は午前7時11分ということになる。冬休みの初日だというのに、彼女には惰眠を貪るつもりはないようだ。
公立高校の冬休みは12月23日からというのが一般的だが、彼女の通う音ノ木坂学院ではそれが一日前倒しにされていた。彼女は先日、終業式で生徒会長のあいさつを済ませたばかりであり、その他にも冬休み前に片づけなくてはいけない案件の処理に明け暮れていたのだ。
絵里はベッドから起き上がりカーテンを開けた。そこにあるはずの太陽は分厚い雲に遮られ、外は薄暗く、雨の予感を抱かせた。窓を開けると、鋭い刃物のような冷たさが室内の停滞した空気に割り込んできた。そのまま開け放しておくと、カーペットに座り込み、ストレッチを始めた。全身のいたるところの腱を伸ばしていき、意識から眠りの残滓を取り払ってゆく。それが終るとそのまま自重による筋力トレーニングに移行していった。それほど激しいものではないにせよ、筋肉は適度な痛みを訴え、体の密度が増していくような気がする。隣の部屋でまだ寝ているはずの妹を起こさないように、音は極力立てないようにしている。全行程が終了すると、ゆっくりと起き上がり、下階にシャワーを浴びに向かった。
これが絵里の日課だった。今は部活動に所属していない彼女だったが、バレエを習っていた幼いころの習慣から、ストレッチとトレーニングは欠かしていない。熱めのシャワーで汗を流し、体を乾かして再び自室に戻った。顔にかかる金髪を右手で払い、卓上カレンダーの赤丸で囲んだ部分を見つめる。12月24日、二日後だ。頬が少し緩んでいくのを自覚しつつ、机に向かい、冬の課題に指定されている英語のテキストを広げた。一日何ページずつやればよいのかを吟味し、まっさらな1ページ目に早速取り掛かる。朝食は亜里沙が起きてから一緒に摂ろう。そう考えながら、列挙された英単語を文法的に正確に並び変えていった。If we neglect exercising, our body will・・・・・・ペンを持ったまま、「希はまだ寝てるでしょうね」と小さく声にした。
東條希が目を覚ましたのは絵里とほぼ同時刻だった。やはり寒さのせいだった。しかし彼女は絵里とは違って最初から二度寝を決め込んでいた。アラームの設定も解除済みである。こんな寒い朝に、しかも冬休みの初日に早起きなんてしたら罰が当たると考えているようだった。
冷えた両足をこすり合わせ、目を閉じてちぢこまりながら、閉じこめた暖かさの幸せをかみしめていた。連日生徒会の仕事が忙しい中、加えて期末テストも乗り切ったのだから、二度寝くらい許してよねと心の中で絵里に囁いた。やがて再び意識は眠りの中に沈んでいった。静かに寝息を立てながら、輪郭のあやふやな夢をみた。再び目を覚ますと既に10時半をまわっていた。午前中のほとんどを寝て過ごすといつも必ず後悔するのだが、それは睡眠の誘惑の前では常に力不足なのだ。それが冬の朝ともなればなおさらである。「やっちゃったなあ」とつぶやきつつも、彼女はなかなか布団から出ない。小さくうなりながら頭の位置を何度も変え、やっと起き上がった時には、時計の短針は11をぴたりと指していた。「ああ・・・・・・」とため息交じりの声を吐き出し、ベッドから腰を上げた。
たっぷりとした髪を両手で後ろに持っていき、洗面台で顔を洗った。冬の水は冷たかったが、眠気は完全に払いきれなかった。まさか午前中があと一時間も残されていないとは思ってもみなかった様子だったが、「まあ、朝ごはん代、節約できたしね」とポジティブな考え方を表明した。「やっぱり一人暮らしだと、独り言が増えるなあ」とつぶやきながら冷蔵庫を開け、卵とベーコンを取り出し、ケトルのスイッチを入れた。そしてパンを一切れトースターにかけた後、手早くベーコンエッグを完成させた。食事を済ませて薄いコーヒーが少し覚めるのを待つ間、午後は図書館で宿題をやると心の中で決心した。上くちびるにぶつかった一口目のコーヒーは熱かったが、そのまま飲んだ。「そうじゃないと、絵里ちに怒られちゃうもんね」と嬉しそうな様子で口にした。意識は既に二日後の約束に、クリスマス・イブにあった。
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二人がいわゆる恋仲になったのは、去年の10月ごろだった。夏がその姿を完全に消し、街は秋と冬が混ざり合ったような様相だった。澄み渡る空気の中で、街路樹は金色に染まっていった。鳥たちは夏よりもきびきびと羽ばたいているように感じられた。
告白は希の方からだった。二人は生徒会の仕事を終わらせ、下校している最中だった。その日はイチョウ並木が見事だというスポットに出向いていた。二列のそれらは黄金に燃え上がり、落ち葉は路を覆い尽くして黄色の絨毯を作り上げていた。「すごいわ。評判通りね」と、ローファーで金の扇を踏みしめながら絵里が言うと、「そうやね、ほんとに綺麗」と希が応じた。
そのまま二人は歩いていた。ポニーテールでうなじがむき出しの絵里が、首筋が冷えるのを感じていたとき、うつむいた希が唐突に立ち止まり、ぽそりとつぶやいたのだ。
「絵里ち、うち、絵里ちが好き。」
絵里も立ち止まり、その言葉を反芻しつつ希の半分伏せられた目を覗う。長いまつげに中途半端に隠されたエメラルドの瞳は少しうるみ、神秘的な光をたたえていた。透明な湖に静かに沈められた宝石のようだった。当惑はしなかった。いずれそういう瞬間が訪れると、きっとお互いに無意識で知っていたのだ。現実が後から予測をなぞっているだけのことだった。左手を希の冷たい右手に絡ませ、顔を寄せて囁いた。
「私だって好きよ、希。」
本来、絵里は、こういった普通ではない愛のかたちには決して肯定的ではなかったが、あの瞬間、何かが彼女の中で弾けて消えた。あの消え入りそうな緑と、かすかなくちびるの震えを見たとき、ひそめていた想いが静かに頭をのぞかせてきたのを感じた。希の手に触れた瞬間、それは確信に変わった。
希は、それが絵里よりも少し早かっただけのことだった。心の水面下の我慢比べに負けてしまったともいえるが、むしろ彼女が勝者ともいえた。それはまるで、実はどちらが勝っても両者にひとつのトロフィーが授与される、予定調和のゲームのようなものだった。
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二人が初めて出会ったのは音ノ木坂学院の入学式の日だった。式が終わると、教室に向かい最初のオリエンテーションが行われた。
担任の教師が名前を黒板に書いて挨拶を済ませると、その次は生徒の番だった。絵里は希のひとつ前の席に座っていた。自分の番が回ってくると、すっと立ち上がり、簡潔な自己紹介を済ませた。よく通る低めな声は、周囲の同級生をつっぱねるような響きを伴っていた。それに淡いブルーの強気な瞳が相まって、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。恐らくクラスメイトらの受けた心象は決してよくはなかっただろうが、希は少し違っていた。彼女が硬い膜で守っているのは、ゆるぎない自意識であり、純粋な心なのだ。それに気づくことができたのは、まとった鎧は違えど、本質的に希も同じ種類の人間だったからだ。席に着いた絵里の背中をじっと見つめるあまり、希は自分の順番であることをしばし忘れていた。
入学から数日経過したある日、真っ先に帰ろうとしていた絵里を希は追いかけ、階段の踊り場で思い切って声をかけた。「あの」と、思ったよりも大きな声が出てしまった様子だった。絵里は階段の途中で立ち止まって振り返り、「あなたは?」と希を一瞥した。口は真一文字に結ばれ、例の強い光をたたえる瞳で希を見上げていた。「わ、わたし」と、怖気づいて声が震えた。青色の視線からつい目を背けてしまい、何も言うことができなくなった。実際のこの数秒間は、彼女にとっては何倍にも引き延ばされて感じられたに違いない。しかしとうとう意を決し、笑顔でこう言った。
「うち、東條希。」
希が最初の一歩を踏み出したあとは、彼女が想像していたよりもすんなりと2人の距離は縮まっていった。それは、重たいものを押して動かすとき、ひとたび動き始めれば最初ほど力が要らないことを希に連想させた。二人はお互いのことを少しずつ打ち明けていった。
絵里にはロシア人の祖母がおり、彼女自身はクォーターであること、その祖母は音ノ木坂学院の卒業生であり、彼女の大切な母校のため、生徒会に入り学校をより良くしていくつもりだということ、亜里沙という妹がいること、「ハラショー」が口癖であること(初めて希の前でそれを口にしたとき、絵里は顔を真っ赤にしていた)。
希は両親の転勤が多く、さまざまな土地を転々としていたこと、現在はマンションで一人暮らしをしていること、たまに神田明神でお手伝いをしていること、占いが好きで、常にタロットカードを携帯していること。なぜか運が強いこと。
二人に流れる時間が積み重なっていくたび、心と心は確実に近づいていった。お互いが胸の中で、「やっと見つけた」と叫んでいた。相手の声が聴きたくてたまらなくなり、何でもないことで通話することがあった。その気になれば、二人は永遠に会話を続けることができた。しかしやがて、沈黙さえも慈しむことができるようになった。むやみに現実的な接触をせずとも、内側で相手の存在をゆるぎないものに感じるようになっていった。
ありがとうございました。
すごくゆっくりと話が進みますが、最後まで見守ってくださる方、よろしくおねがいします。
ちょっと高校二年生ぽくないかな・・・・・・?