希編が完成しました。希の父親が希を翻弄していきます(笑)
この話は会話が多く、楽しんでもらえると思います。
それではどうぞ。
絵里の姿が完全に見えなくなってしまうと、希は彼女とは反対の方向に歩き始めた。別れ際に絵里が触れてくれた左肩のかすかな感触がうすれぬように、ゆっくりと。
しかし無遠慮な大量の通行人が次々と現れてくるこの通りで、長くその余韻に浸っていることはできなかった。日本の人口が減少しているというのは、果たして本当なのかと思った。ハイヒールで神経質な音を立てて歩いてきた女の肩が希に軽くぶつかり、きつい香水の匂いがした。
家に帰る前に、希はスーパーに寄り、きらしていた食材を買った。食パンや卵、チーズ、ベーコン、うどん、キャベツ、レタス、玉ねぎといったいかにも無個性なラインナップだった。その後神田明神を再び訪れ、父が無事東京に着きますように、と念じておいた。
そう、今日は父に会うのだ。彼は今日の夜、大阪からわざわざ希に会うためだけに東京にやってくる。そして次の日には再び大阪へ帰っていく。
希は父についてあまり詳しいことを知らない。父はよく喋るタイプの人間だったが、自分のことはあまり話さなかった。
希が父について確かに知っていることは、今年で47歳になるということと、酒が大好きだということくらいだった。中学を卒業するまで同じ家に住んでいたというのに、このありさまだ。
しかしそれは希が父と仲が良くないということではなかった。父は友人の少なかった希の良い話し相手だったし、希は彼の声や顔が好きだった。客観的に見ても、父はルックスが良い。きっと授業参観に来てくれたとしたら、周囲の母親がため息をついて、「あの方は誰のお父さんかしら」と気にせざるを得ないような、そんな顔立ちをしている。背も高い。俳優だといっても通用するのではないかとさえ思う・・・・・・
もうやめよう。まるで私がファザーコンプレックスみたいだ。
家に帰ると、希はまず食材を冷蔵庫に放り込み、シャワーを浴びた。そして体を乾かすと、部屋の掃除を始めた。部屋が散らかったままで父に会うのはどうしてか嫌だったのだ。といっても一人暮らしで物も少なく、部屋も小さいので、掃除もあっけなく終えてしまった。
希は急に手持ち無沙汰になってしまい、さっき別れたばかりだが、絵里に明日のことについてのメール打った。
そして仕方なく宿題の続きを始めた。英語では相変わらず小難しい題材が扱われていた。数学ではサインとコサインを取り違えて、図形の面積が負の値になった。
携帯が鳴った。一人ぼっちの静かな部屋では、その音はいつも必要以上に大きく感じる。父からの着信だった。
「よう希。俺は予定通り新幹線に乗れてる。待ち合わせにも間に合いそうだ」
少しかすれているが、男性としては少し高めの声だ。いつもの声。車内のためか、声量は抑え気味だ。
「よかった。えっと、18時に東京メトロの表参道駅、だっけ」
「そうだ。表参道のB4番出口だ。地下鉄は面倒だからタクシーを使え。東京ってのは訳がわからんくらい大量の人間が住んでるからな。地下鉄なんぞにとても乗ってられない」
「それは大阪も同じじゃない?」
「その通りだ。都会ってのはまったくもってろくでもない場所だ。」
「いいとこだってあるよ」
「それはそうだ。例えば、東京には気の利いたレストランとうまい酒と、洗練された女と、そしてお前の家があり、お前の通う高校がある」
この人は新幹線の中でなんてことを言うのだろうか。
「・・・・・・わかったから、とりあえず気を付けてきてね」
「ああ。最大限のおしゃれをして出て来いよ。なんせ年に一度あるかないかの大切なデートだからな。しかし、肌の露出は最小限にすることだ。最近はやたらとみせればいいって考えが若い女の中で主流らしいが、まったくもってわかっちゃいない。それでは男の想像力の介入する余地がなくなってしまう。実体をうまく隠して、ポジティブな錯覚を起こさせるってこと。それが恋愛において重要なウエイトを占めているってのに」
・・・・・・長い。セリフが長い。
それに高校二年の娘に熱く語るようなないようでもない気がする。
「わかったよ。でもスカートでいく」
「オーケーだ。スカートなんて若いうちしか着られないからな。せいぜい大学生までだろうな。しかし、お前の母さんはいつまでたってもスカートの似合う数少ない女だった。晴れた春の草原で、夢中になって蝶を追いかける羽のない妖精みたいな」
「・・・・・・もう切るよ?」
父は母のことを少し好きすぎる。
「ああ、じゃあまたあとで。楽しみだ。気を付けてこいよ」
電話が切れた。よくもあそこまで舌がまわるものだ。彼は私の6倍くらい多く話をしていたような気がした。電話口でこれでは、実際に会ったら一体どれだけ喋るのだろうか。それとも、世間一般の父親というのは皆こんな風に話すのだろうか。
希は通話を終えると、再び宿題に取り掛かるような気分ではなくなった。
希はテレビをつけてコーヒーを沸かした。夕方の番組は街の庶民的レストランを紹介するものが多く、希は父はどこに私を連れていくつもりなのかと思った。あまり予想ができないが、おそらく良い店に行くことになるなと思った。
私への仕送りの額からして、父と母がなかなかに稼いでることは推測できた。セキュリティや立地を考えれば、この部屋の家賃だってそれなりに高いはずだ。
それだけに、父の職業がどんなものなのか気になった。せっかくだからこの機会に聞いてみよう。
コーヒーに手を付けてみると冷めきってしまっていたので、レンジで温めなおして飲んだ。
携帯を見てみると、絵里からの返信はまだだった。いつもならすぐに返事がくるのだが、彼女は今何をしているのだろうか。
去年のクリスマスも、希はこの部屋で絵里と過ごした。料理を二人で作り、絵里がケーキとシャンパンを買ってきた。お互いにささやかなプレゼントをした。
夜は同じベッドに入り、抱き合った。まだ付き合ってそれほど時間がたってなくて、キスがぎこちないものだったことを覚えている。
でもテクニックは問題じゃなかった。
心を通い合わせるために肉体が必要なだけのことだ。人間というのは、そういう点で不完全だと、希は思う。
体から魂が抜けだして、フィジカルな要素をすべて排除した交わりができればいいのにと、絵里を知ってから考えるようになった。
待ち合わせの時間が近づいてきて、希は電話で家の前にタクシーを呼んだ。コーヒーカップを片し、歯を磨いた。
さて、どんな服装で行けばよいのだろうか。希はたくさんの服を持っているわけではなく、気に入ったものを数点着まわすといったタイプだった。だから選択肢があまり多くない。
というか、父に会うのにどうしてそこまで服装に神経を使わなくてはいけないのだ。親子が久しぶりに会って、夕食をとるだけではないか・・・・・・
そう考えると気分が楽になった。オフホワイトのシャツにグレーのケーブルニットのカーディガン、それにネイビーのスカートを合わせた。
普通だ。とりたてていつもの恰好と変わらない。髪もいつも通り二つにまとめた。そしてコートとマフラーを身に着け、戸締りを確認し、部屋を後にした。
タクシーの運転手は50歳くらいの老人だった。彼は挨拶以外、余計なことは一言も口にしなかった。
車道はそれほど混雑していなかったが、歩道は相変わらず人がうじゃうじゃしていた。世間の人々はどうしてそんなにあくせくして移動しなくてはいけないのだろうと、希は不思議に思った。
目的地に到着したのは約束の時間の10分前だった。道が想定よりも空いていて、信号にもひとつも引っかからなかったのだ。
周りを見回して父の姿を探すと、彼はすぐに見つかった。両手をポケットに突っ込み、長い足を優雅に動かしてこちらに向かってきた。グレーのスーツに、鮮やかなブルーのタイを締めている。
「よう。久しぶりだな、マイ・スイート・エンジェル。早く会いたかったぜ」
希はちょっと帰りたくなった。なんだか三流洋画のヒロインになった気分だ。
「そんな怪訝な表情をするなよ。悪かった。そこにタクシーを待たせてあるから、行くぞ」
彼は優しく希の背中をたたき、二人は彼の来た方向へ歩き出した。横で希の恰好をしげしげと見つめ、父が言った。
「うん、なかなか悪くない。東京の女子高に通う17歳の乙女と言われても納得できるし、国立大学文学部の二回生だと言われてもうなずけるような、絶妙なチョイスだ。」
「褒めるならもっとわかりやすくして」
「俺はかなり真剣に褒めているつもりだ。自分の娘であることを差し引いても、良いセンスだと思ったぜ。しかし俺たちがこれから向かう店には、その格好は少しマッチしないな」
「どこに行くの?」
「都内某所。知る人ぞ知る、レストラン。知ってるか?レストランというのは実はフランス語なんだぜ」
この人は必ずと言っていいほど二文以上話す癖があるようだ、と希は思った。
「というわけで、お前にはこれからドレスアップをしてもらう。ほんの30分ほどだ、大したことじゃない。」
「え、ドレスアップ?」
当然だ、という風に父は話す。
「そうだ。店のドレスコードを突破しなきゃならん。だからお前がどんな服装をしてきたとしても、衣装替えは必然だったってわけだ。ははは」
ははは、ではない。最大限におしゃれしろといったのはあんただろ、と希は心の中で毒づいたが、現実の世界でそれは長い溜息になった。
「・・・・・・ていうか、タクシー遠くない?お父さんどこから歩いてきたの?」
「すぐそこだ」
父が5メートル位先を指さして、にやけながら続けた。
「お前にこの話をしなければ、と思ってわざと遠くに停めてあったのさ。ほとんどジャスト・タイムだ。まったく、自分の感覚が怖い」
父はくくくと怪しい笑いをもらした。
希は唖然とした。呆れを通り越し、むしろ感心した。まあ、車内であんなことを言われるよりは、歩いた方がマシだったかもしれないが。
タクシーに乗り込むと、父は運転手に聞いたこともない店の名前を告げた。運転手は、希が乗ってきたタクシーの運転手よりもさらに年老いているようにみえた。彼はかしこまりました、と言い、ゆっくりと車が発進した。
そしてわずか二分足らずで停車した。到着いたしました、と運転手が言った。
目的の店は、通りをわずか数百メートル直進したところにあったのだ。
降車して店の前に立つと、希は背筋が伸びるような思いがした。見るからに高級店だ。庶民を近づけさせないようなオーラを、間違いなく放出している。
希は、自分がまるで高級すし店に間違って入荷されたカニかまぼこになったみたいな気分だった。
「おい、突っ立ってないでいくぞ」
父が希の手をぐいぐい引っ張っていく。いらっしゃいませ、と品の良い女性の店員が出迎えてくれた。店内はかいだことのない匂いがした。
「彼女に似合うドレスを選んでやって欲しいんだ。なるべく派手じゃなくそして品の良いやつがいい」
父は希の肩をたたきながら店員にそう言った。彼の口調から察するに、この店に来たのは初めてではなさそうだ。
かしこまりました、ではこちらに、と促され、希たちは彼女について行った。
そして父と店員が議論を重ね、紺のワンピースを選んだ。希もそれがいい、と言った。実際とても素敵なドレスだった。少々大人っぽ過ぎるかもしれないが。
そんな勢いで父は、パンプス、シルバーの細くて繊細なネックレス、そしてブラックのクラッチバッグまで選び、希はそれを身に着けた。店員は簡単なヘアアレンジまでしてくれた。
「うん、実に素晴らしい。さすが母さんの娘なだけはある。こうしてみると、地位はそれほど高くはないが王族のパーティに呼ばれてしまい、おずおずと控えめに参上した、二流貴族だが素晴らしく美しい娘のようだ」
この人、どうして言っていて恥ずかしくないのだろうか。
希は恥ずかしくて、まともに鏡を見ることができなかった。会計の際は、怖くて値段を確認できなかった。希はこの店でほとんど一言も喋らなかった。
店を出ると、一瞬でもこの姿で通りにでなくてはいけないのが死ぬほど恥ずかしかった。
「さあ、準備は万端だな。腹が減ったし、ディナーにしよう」
父が嬉しそうに声をあげた。
「私はもう本当におなかいっぱいなんだけど」
希は精一杯の嫌味を込めたつもりだったが、父はふははは、と笑い飛ばした。
ふははは、ではないのだ、本当に・・・・・・
二人は再びタクシーに乗り込んだ。ここから10分ほどで店に着くらしい。
ありがたいことに、車内では父はほとんど話さなかった。しかし、それは食事中に思い切り喋るためのクールダウンのようなものではないかとも思われた。
彼は一体いつになったら電源が切れるのだろうか。きっと彼の内部には心臓が二つあり、腎臓が三つあり、膵臓が四つあるのだ。そして声帯は特別製で、どれだけ声を出しても喉がかれることはない・・・・・・くだらない妄想だと希は思った。
お読みいただき、ありがとうございました。
きっと(1)と(2)合わせたら5000字くらい希の父親は喋りますね。
次回もよろしくお願いいたします。