比類するものがいないほど尊い存在が過ごすはずの部屋からは、その至高の気配以外、まるで生き物の気配を感じられなかった。
部屋の入り口を警護するものの姿すらないので、デミウルゴスは人払いをしたのだと理解する一方で、無防備な部屋の様子に少しばかり不安を覚えた。
この扉の先にいるのは、至高の四十一人のうちの一人だ。
どのような状態であろうとデミウルゴスを含むナザリックの者たちは、至高の存在が外部の敵に後れを取るとは微塵も思っていない。それどころか、そもそもこのナザリック地下大墳墓に侵入してこようとするような不届き者の存在を、ここまでの階層を守護する者たちはけして許さない。
そしてなにより、かつて一度の敗北を味わった戦いのときであってもこの「第九階層」まで足を踏み入れた敵は存在しないという前提がある。
――それでも、今はこれまでと少しばかり状況が違う。
「未知の場所ではどんな間違いがあるかわからない」という至高の最高責任者の言葉をうかがった以上は、仕えるべき我らは気を引き締めなければならないのだ。そうして、万が一にでもその間違いとやらが起きたとき、我らはまず主人たちに仇なす愚か者をこの世から跡形なく始末しなくてはならない。もしも力の及ばぬ相手だった場合、主人たちを守る盾となって死なねばならない。
けれどもそのためにはまず、部下を周囲に置いていただかねばならないのだ。
自分ごときの存在のために部屋の主人が、シュヴァインが人払いをしたという事実を目の当たりにして、デミウルゴスの胸にはまず申し訳なさが募る。けれどもそれに続いて、なによりも尊い存在にここまで目をかけていただいているのだという喜びが染み入るように広がっていく。
その理由がいかなるものであろうと、…たとえこのあとに先日の無礼を詫びるために死を要求されたとしても、デミウルゴスにとっては至高の御方に死を看取ってもらえるというのは極上の蜜とも言える扱いだった。
そうして正反対の感情が胸中で渦巻いているのを感じながら、デミウルゴスは扉を四度叩いた。
中から短い返答が聞こえて、開いた扉から聞こえたのは、まず、蛇の鳴き声だった。
×××
「お前が呼び出された理由はわかっているか?」
「はっ、無論でございます。先日の無礼、当然不問にできるものではございません」
床に膝をついて畏まるデミウルゴスに「面を上げろ」という抑揚のない声が飛ぶ。
それに従って顔を上げ、主人を視界に収めると、そこへ広がる光景にデミウルゴスは思わず息を飲んだ。
ナザリック地下大墳墓の者の目に映るシュヴァインとは、常に至高の四十一人の名前に恥じぬ支配者の気配を纏った男である。
それは同じく仕えるべき主人であるモモンガも同様で、それでなおモモンガは至高の最高責任者として相応しい絶望のオーラすら纏って守護者たちを圧倒するのだから、至高の四十一人とはそういうものだと、我らよりもはるかに格の違う素晴らしい方々なのだと認識している。それはデミウルゴスだけの感情に限らず、ナザリックの者ならば共通の意見であるだろう。
しかしデミウルゴスが畏怖し、敬愛してやまないのは、シュヴァインという人物がナザリックの者に認識させるのは、その支配者の気配のみに限られているという点だ。
この部屋へ訪れたデミウルゴスが「部屋の中にシュヴァインがいる」ということを認識できたのもひとえにその気配を感知したからであり、それ以外の生き物としての気配を感じることはまるでできなかった。呼吸を、匂いを、足音を、そして心臓の音の一片すら存在しないもののように振る舞い行動するシュヴァインの芸当は、まさに
この主人が本気を出せばその支配者の気配すら認識させず、誰にも見つからずにナザリックを縦横無尽に駆け抜けることすら可能だろう。
二日前にシュヴァインが行った第十階層から第一階層までを走り抜けるという行為は、本人は鍛錬だったと言うが、最高責任者たるモモンガの真意を組めずに意識の緩んだ守護者たちを叱咤するためだったに違いない。そうしてアルベドと相談して警備体制を見直したところ、実際に警護の穴が見つかったのだからシュヴァインには感服せざるを得ない。
だからこそ先日第七階層でシュヴァインを見つけたことは奇跡であったし、奇跡が起きたということは、彼の体調が本当によくなかったという証明になる。…指輪を忘れるほどに憔悴していたのだからうなずける。
シュヴァイン自身は万全になったと言うが、もしそれが不治の病であった場合を考えると、デミウルゴスは今でも涙腺が潤むのを抑えられない。
しかしこうして変わりのない、見事としか言いようのない姿に戻ったシュヴァインに謁見したからこそ、デミウルゴスは息を飲んだのだ。思わず霞みそうになる意識を引き戻しているのは、支配者の気配による威圧と、無様な姿を晒すことは許されないという固い覚悟だ。
思わず一礼しそうになった自分を引きとめて、デミウルゴスはシュヴァインの言葉を待った。
「わたしの体調も回復してな。これからはナザリックの外の様子を調べるのに、わたしが直々に赴くこともあるだろう」
「そんな…、そのようなことは我々にお任せください」
「ああ、それでもいいのだけれど。今日は少し試してみたいことがあってな」
「試してみたいこと、ですか」
「そうだ。もし未だにわたしの体調が万全でない場合、敵と遭遇したときに、身を守る手段が働かなければ困るだろう」
「仰る通りです」
「わたしの力がきちんと敵を苦しませるに値するか。体調はすでに万全か。デミウルゴス、お前に少しばかり手伝って欲しいんだ」
「…はい、畏まりました」
声が震えていない自信がなかった。
それは恐怖や絶望ではなく、歓喜から来るものであった。
「とは言うものの、先日も言った通りお前を死なせるつもりは毛頭ないからな。ここに状態異常を回復させるポーションを揃えた。毒や麻痺の類いなら一分、いや四十秒…三十秒耐えてみせろ。石化ならあとで解いてやる。それで先日のことは不問だ。今後とも変わらずにナザリックへ忠義を尽くしてもらう」
敬愛する主人が自分の体調を確認するのに、実験体になれと言われている。
これを理解のない愚か者が聞けば憤慨するかも知れないが、デミウルゴスはそうは思わない。きっと、他の守護者たちだってそうだろう。
実験というのは失敗を考慮して行うものだ。つまりシュヴァインは失敗してもデミウルゴスはけして反撃をしないと、…勿論反撃するつもりなんてものは微塵もないが、信頼するに値する人物なのだと評価していることになる。これを歓喜と言わずなんと表現すればいいのか。
先日の無礼を詫びようにも、これではまるで罰になっていないではないか。
そう思ったけれど至高の御方の決定は絶対だ。デミウルゴスに意見する権利などあるはずもなかった。
鱗模様に覆われた手に招かれてデミウルゴスはシュヴァインの足元に跪く。
喜びと緊張で頭がうまく働かない中で、主人の手が自分の首に回った。ああそうだ、障害物を取り除かなくてはいけない。
「申し訳ありません、私が」
「いや、いい」
「…お手を煩わせます。お許しください」
「気にしなくていいとも」
ネクタイが揺すられてゆっくりと開放感がやってくる。全て外すのかと思っていたけれど、途中で服の襟を引かれて首回りを暴かれた。
そうして主人の手が首筋をなぞって自分の血管を確認しているのを感じて、歓喜と、至高の御方の力の一部を受けるのだという恐怖が無意識に身体を震わせる。
「状態異常の耐性を外しておけよ」
「は、すでに」
頬に息がかかるほど顔が近く、シュヴァインの唇のはしから鋭い毒牙が光って見えた。
そして、激痛が走る。
「…っ」
首から全身に向けて激痛が走っていくのについで、眩暈が起こる。
視界のはしに映るシュヴァインの握った懐中時計を確認したけれど、その秒針はほとんど動いていなかった。状態異常の耐性を取り払ったと言えども悪魔である自分を一瞬でここまで苦しめる、それほど強力な毒だということだ。
身体が傾くのを感じたが、襲ってきた吐き気に耐えるばかりでそれどころではない。けれども不意に首を撫でられて、自分が伏せっているのがとんでもない場所だと知る。
「も、もうしわけ、ありません…! すぐに立ちます…!」
「構わない。むしろ平然とされたほうが困るだろう」
そういうわけにもいかない、という言葉は吐き気に飲み込まれた。さすがに主人の膝元で吐瀉物を撒き散らすのは自分の忠誠心が許さない。
きつく唇を噛み締めて襲いかかってくる症状に耐える。時間が経てば経つほど、全身の痛みが増して意識が朦朧とする。けれどもそれを引き留めるようにシュヴァインの声がデミウルゴスの耳をくすぐった。
「デミウルゴス、今お前を襲っている状態異常はなんだ」
「…猛毒、です…。ぅ…、さすがは…シュヴァインさま…、すばらしいおちからです…」
シュヴァインの手がデミウルゴスの背中をさする。
デミウルゴスはそれだけで猛毒の症状が和らぐような気がして、そして実験体になったこと自体が褒美であることのように感じた。
そうしていつの間にかシュヴァインが、手に取ったポーションをデミウルゴスへ押しつける。それを素直に受け取ろうとして、実験前に主人が言っていたことを思い出した。
「三十秒耐えてみせろ。それで先日のことは不問だ」
秒針はまだ指定の時間を指していない。
ゆったりと労わるようにデミウルゴスの背中を撫でる主人の髪の蛇が鳴いている。いや、嗤っている。苦しくて苦しくてどうしようもないときに、甘いえさをぶら下げるのは悪魔の常套だ。至高の御方であるシュヴァインがそれを知らないはずはないだろう。
…つまりこれは、自分の忠義を試されているのだとデミウルゴスは確信した。
「まだ、二十秒あります…ので…」
至高の御方に今後とも仕えるためならば、デミウルゴスにとってこんな苦痛は、なんの障害にもならないのだ。これだけで第七階層での無礼を不問だと言うならば、一時間だろうと一週間だろうとこの猛毒に耐える自信があった。
デミウルゴスはただただ唇を噛んで、できるだけ痛みを意識しないようにしながら、敬愛してやまない相手に背中を撫でられる僥倖だけを皮膚に焼きつけた。