空の一切を覆いつくす程に眼前に広がるワイバーンの軍勢に、私は震えることしか出来なかった。
マシュとジャンヌの宝具による護りがなければ、とっくの昔に命を落としていたであろう。
否、数など問題ではない。
あの中の一体でも二人の防御を超えて私の前に立ってしまえば、その時点で終わり。
凡人には決して埋められない、弱肉強食の節理。
物語の登場人物のように、人が竜に勝てる訳がない。
所詮自分は、マスター適性があるだけの一般人でしかない。
魔術なんて知らないし、ただ言われるがままに正義感だけは一丁前にこの領域に踏み込んだ、身分不相応も甚だしい愚か者。それが私、菅野理子を象徴する要素。
空想上の世界に乗り込んだからと言って、自分がその恩恵を受けられる保証なんてどこにもないのに。自分ではそう思っていないつもりでも、自分はどこか特別なんだと錯覚していたのかもしれない。
――でも、これが現実。
ハンマーで頭部を殴られる以上の衝撃が一斉に私を襲い、今の私は木偶人形にさえなり得ない芥に成り果てている。
初めてのレイシフトの時は、最後の方で気絶していたせいでどういう状況だったかを理解したのは、全て終わってから聞いただけの中身を伴わない薄っぺらな現実のみ。
きっと――いや、間違いなく。言葉以上に熾烈な戦いがあった。
今みたいにみんなが決死の覚悟で臨み、明日を掴む為に武器を振るっていたに違いない。
なら、私は何?
世界を救いたいなんて甘い理想だけは抱いておいて、それを全部自分以外の誰かに擦り付けて、傍観者を気取っている。
これなら、自分の手を汚してでも悪事を為そうとする人間の方がまだ高潔ではないか。
「マシュ……みんな……!!」
私はただ、立ち膝の姿勢で無事を祈ることしか出来ない。
那岐さんが目の前で消えたあの時、私は那岐さんに押しのけられ、尻餅をついたと同時に彼はその姿を消した。
見えない速度で私が立っていた付近を何かが通り過ぎたと同時に彼も消えたことから、その何かが那岐さんを連れ去ったのかもしれない。
本当の狙いが私だったのか、それとも余波に巻き込まれない為にこんなことをしたのか。それは分からない。
どちらにせよ、私はまた那岐さんに助けられてしまったことだけは確かで。逆に私は、そんな那岐さんの安否さえ確かめる手段を持っていない。
リリィちゃん達が消えた居ないことから、死んではいないことだけは確かだけど、それで安心する理由にはならない。
思えば、ここに来てからずっとこうだ。
気持ち程度のサポートさえ出来ず、ただ目の前で誰かが傷つくことを傍観することしか出来ないなんて、そんな残酷なことったらない。
傷……?そうだ、傷。思い出した。
思えば、所長が治癒の魔術を使っていたではないか。
私でも、習えば使えるようになるかもしれない。少なくとも、最低限の素養はあると思う。魔術回路がなかったら、サーヴァントを現界させることもパスを繋ぐことも出来ないんだし。
希望は見えた。所詮付け焼き刃だとしても、絆創膏ぐらいの価値しかなくても、ないよりはマシだ。――そう思わなくては、自分で自分が許せなくなる。
それよりも、今の今までそんな考えにさえ及ばなかった自分のお気楽さが許せない。
私だって当事者なのに、何だこの体たらくは。馬鹿じゃないのか。
「ごめんね……ごめんね……!!」
涙交じりの懺悔は、戦場の音に掻き消される。
決して届かないと理解しつつも、敢えてここで吐き出すのは、みんなの前では笑顔でいたいから。
自己満足で本心を覆い隠し、嘘の笑顔で皆を迎えよう。
マスターである私が不安な顔をしていては、彼らは満足に戦えないだろうから。
きっと気付かれるだろう。それでも、私が笑顔で在り続ける間は、詮索はしない筈。彼らは聡い人達だから。
今はただ、毒にも薬にもならない祈りを捧げよう。ただ、自己満足の為に。
祈りを捧げるその手は、強く握り締められて爪で傷つき、微かに血で濡れていた。
灼熱を纏って那岐の背後から現れたタラスク。
それはまるで大気圏を超えた隕石のようで、通り過ぎるだけで周囲一帯は吹き飛び、焦土と化す生きた災害と化していた。
そんな現象を前に、振り返った那岐は動揺することはなかった。
ただ、静かに両手を前に突き出したかと思うと、静かに息を吐く。
一秒にも満たない間を超えて、タラスクは那岐を蹂躙する――筈だった。
――それは、紛れもなく英雄の所業だった。
形状を認識できないほどの回転と、万物を焼き尽くさんとする災害を、彼は受け止めていた。ただの素手で、だ。
「■■■■■■■■――!!」
那岐が放ったそれは、最早声とは呼べない叫び。
本来ならば刹那にも満たない間に塵と化す筈の肉体は健在で、それどころか地面を削りながらも最終的にはタラスクと拮抗する状況にまで持ち込んだという事実は、あまりにも現実離れしていた。
身体全体が悲鳴を上げながらも、さも当たり前のように再生する肉体。
一般成人男性程の肉体的質量しか持たないにも関わらず、巨人を彷彿とさせる腕力で隕石と化したタラスクを押し留めたその光景は、敵方からすれば悪夢と呼ぶに相応しいものだった。
――にも関わらず、その光景を見守るマルタの表情は、酷く平坦なもの。それこそ、出来て当然だと確信するように、つまらなさそうに眺めている。
そして、那岐は大きく右腕を振りかぶったかと思うと、その背後に自分のそれよりも三倍はある巨大な聖人の手を顕現させ、そのまま振りぬいた。
那岐の拳がタラスクの顔面に直撃すると同時に、聖人の掌底がタラスクの甲羅を震わせる。
何度も、何度も何度も何度も――ただの一度の容赦もなく繰り返されたそれに対し、タラスクは反撃することさえままならない。
「『Lift off!!』」
悪魔の脚を顕現させ、膝が鼻に接触する勢いでタラスクを蹴り上げる。
t単位はあるであろう巨体を軽々と上空へと吹き飛ばしたかと思うと、聖人の手がタラスクを掴み――地面へと叩きつけた。
「『You――grounded!!』」
轟音。タラスクを中心に出来上がるクレーター。
タラスクの重量と那岐の全力による地面への叩き落としの相乗効果が生んだ惨状は、凄まじいものであった。
堅牢を誇る甲羅はひび割れて形を保つのがやっとの状態。その中身もまた、甲羅を通して伝わる衝撃をモロに受けたことで最早痙攣するだけの機械に成り果てていた。
「――まぁ、こんなものでしょう」
マルタは自らの宝具であるタラスクを一瞥すると、すぐさま那岐に視線を向ける。
漏れた声色からは、どこか不満の色が見えた。
これだけの成果を出して尚、マルタの理想には遠いと言うことなのか。
「やはり、ちぐはぐですね。どちらにも依存せず両立した使い方が出来るのは評価出来ます、が――それだけです。半端な状態で力を扱えば、それは全て負担となって貴方に帰ってくる。短期決戦ならばいざ知らず、このままでは自滅するでしょうね」
マルタは再び杖を手に取ったかと思うと、静かに言葉を紡ぎ出す。
言語とも呼べない難解な音が透き通る声と共に広がっていく。
そして、紡ぎ終えると同時に杖を地面に突き立てると、杖を中心に銀幕の薄い壁が展開される。
それは那岐にぶつかることなく素通りし、半径100メートルほどまで広がったかと思うと、動きを止めた。
「さぁ、来なさい」
マルタは挑発するように手首を内側に仰ぐ。
那岐もそれに応えるように脚に力を籠め、一足飛びでマルタに肉薄する――筈だった。
「――――がっ!!」
那岐は無様に地面を擦るように倒れ込む。
那岐自身理解が追い付いていないのか、体勢を立て直すことなく倒れたままとなっていた。
「脚がまともに動かないでしょう?先程展開したのは、対悪魔用の結界です。本来ならば、高位の悪魔でさえ身動き一つ取れないレベルのものですが――貴方にとっては多少痺れる程度でしょうね」
「……それでこのザマか」
「タカが足の痺れレベルですが――私を相手取るには、致命的な問題なのではないかしら?」
那岐はその問いに答えることなく、聖人の掌で地面を押し、後方に跳躍する。
目標は、結界の外。脱出することさえ出来れば、不利な状況をイーブンにまで持ち込める故の、正常な思考の帰結。
故に、読まれやすい。
「させると思ってるの?」
那岐の跳躍よりも早く駆けるマルタ。
空中に身を投げた状態でありながら那岐は鋭い蹴りを浴びせる。
しかし、読んでいたかのようにマルタは身を屈ませ、そのまま空振りした悪魔の脚を掴んだかと思うと、片手で軽々と那岐を地面へと叩きつけた。
一瞬止まる呼吸。視界が朦朧とする中、直感的に首を横に振ると、頭のあった位置がマルタの拳によって陥没した。
寝転がる体勢のままマルタへと拳を放つも、それをマルタは目を閉じた状態で首だけ動かして回避。その拳を掴み、あろうことか頭突きをブチかました。
「その程度?ならとんだ期待外れね」
マルタの穏やかだった口調は次第に粗雑かつ冷淡になっていく。
「『Spark it up!!』」
那岐はマルタの襟首を乱暴に掴み上げ、頭突きを鸚鵡返し、その勢いのまま巴投げで体勢を立て直す。
マルタも空中で姿勢を整え着地する。しかし、ノーダメージでは終わらない。
「~~~~ッッ!!やれば出来るじゃないの、出愚の坊!」
額を抑えながら歯を剥きだすように笑うマルタに、聖女の面影はない。
互いの視界にあるのは、闘争本能に身を任せた獣のみ。
「オラ、掛かってきなさい半端者!!私の教育、アンタの血反吐ごとまるっと味わうがいいわ!!」
「それは光栄――だ!!」
マルタと那岐の拳が衝突する。
衝突の余波で木々が揺れ、枝葉が千切れるように舞う。
そこからは、最早泥仕合だった。
互いが互いの間合いに常に入り込み、ただひたすらに殴る。
右の頬を抉られれば右の頬を。顔面ならば顔面を。
意趣返しが如く繰り返されるそれは、華々しさとは縁遠い原始的な暴力のみが蔓延る殺伐とした舞台を幻視させる程に雄々しく、そして力強かった。
現代を生きる者を神代に生きた聖女が導こうと、己の全てを賭けて対峙する。
言葉にすれば尊いそれも、現実を見せつけられれば何と陳腐なことか。
マルタの伝説は有名とは言い難いが、触りだけ知る限りでも、彼女の異常性が窺える。
道具を用いたとはいえ、単体で龍種を抑え込み、あまつさえ村まで持ち帰ったなど、聖女と言う名に相応しくない破天荒な人柄が浮き彫りになっている。
奇跡の力、と安易に決めつけるのは容易だが、現実はそれ以上に出鱈目であるなど、誰が想像できる?
聖女?笑わせてくれる。那岐の目に映る女は、そんな儚げな印象とは真逆の存在だ。
対して、マルタも思う。愉しいと。相応しくないと理解しつつも、そんな猟奇的な感想を抱かずにはいられない。
元来、彼女は聖女と呼ばれるには些か自己が強すぎた。
しかし唯我独尊という訳でもなく、妹弟の世話を献身的に日常的に行ってきたことから、寧ろ愛情は深い性質にある。
それ故に、彼女は常に抑圧されることを強いられてきた。
聖女として生きることも、姉として下の子達を支えることも、決して苦痛ではなかった。
だが、それでも――望まれる『聖女としてのマルタ』と言う目に見えないプレッシャーは、確かに彼女の心に影を落としていた。ストレスという形で。
威光だけで言えば遥か上を行く聖人が身近に存在していた為、祀り上げられる程ではなかったにしても、やはり聖人と聖女ではカテゴリーが違うらしく、崇拝の目が分離することはなかった。
だからこそ、親しい人間だけにしか見せない『聖女ではないマルタ』が貴重で尊いものであると、真の彼女を知る人は思うだろう。
その稀有な彼女の魂は、今目の前にいる男によって丸裸にされている。
龍種でさえも服従する程の腕力。それに連動するように素の性格は活動的で勝ち気。
その全てを解放する、となれば聖女と言う肩書そのものを捨てる覚悟で臨まなければならない。それほどに、彼女は強すぎた。
「ハァアアアア――!!」
「『Ahhhhhh――!!』」
しかし、そんな彼女の全てを受け止めてなお余裕のある目の前の青年、那岐に彼女は夢中になっていた。
タラスクの甲羅すら破壊する拳は、同レベルのそれによって我が身に振りかかり、それでいて相手も当たらない為に残像を残す速度で動き続ける。
脚の痺れに慣れて来たのか、それとも漸く目覚めて来たのか。それを考える余裕はない。
刹那に放たれる拳や蹴りの数は、数えることさえ不可能なレベルに昇華している。
時には素直に、時には搦め手を使い、一手一手を読み合って騙し、躱し、一撃を叩き込む。
実にシンプルで、原始的な戦い。だが、そんな野生の解放をマルタは甘美としていた。
異常だろう。狂っていると思われるだろう。
それがどうした。そんな腑抜けた感想に何の価値がある?
理性的な視点で他者を評価して智慧者を気取る阿呆の評価など、それこそ芥にさえ劣る。
そも、今のマルタは狂化を掛けられていることを忘れてはならない。
理性で抑え込んでいたとはいえ、タガが外れればこんなもの。逆に言えば、理性で抑え込めるほど彼女の聖女としてのスタイルは完成されていたとも言える。
『聖女のマルタ』も『村娘としてのマルタ』も、ひっくるめて自分なのだと。拳に想いを込めて放ち続ける。
これでもかと言う程に思いの丈を乗せた暴力は、那岐に余すところなく受け止められている。
那岐は肉体を砕けば再生、肉を裂けば再生を繰り返す。それと比較して魔力供給こそあれど自然治癒能力は人並みである故に消耗の止まらないマルタ。
理不尽とは思わない。そも前提として、自己と他者を照らし合わせる時点で間違っている。
サーヴァントとして現界され、生前の能力とは比べ物にならないぐらいに劣化しているとはいえ、それでも全力であることに変わりはない。
固有スキルである『奇蹟』を使えば、そのような枷を外すことは容易だが、それは『仕上げ』に取っておく必要がある。
「――――ごっ」
思考に集中し過ぎていた。
眼前に迫る拳を護ることも回避することも出来ず、全力の拳を叩きこまれた。
ゴム毬のように跳ね、大地を削り、結界の外にまで弾き飛ばされたマルタの肉体はそこでようやく勢いが収まった。
鼻が完全に折れている。気付かなかったが、肋骨も何本逝っているか想像もできない。
顔そのものも醜く腫れ上がり、端正で美しかった造形は最早見る影もない。
しかしそれを本人は意に介した様子もなく、鼻を無理矢理正中線に戻し、鼻血を勢いよく飛ばす。
それに呼応するように那岐も結界の外から現れるが、表情に疲労の色こそ見えるが肉体そのものは無傷そのもの。
「今のは効いたわ……。ああ、痛い。痛くて堪らない、けど――」
弱音のような言葉とは裏腹に、目の奥に宿る闘志は未だ燃え尽きてはいない。
「――それが楽しくて、本当に仕方がないのよ」
恍惚とした笑みで、那岐と向かい合う。
那岐はそれに、無言で答える。
連れない、と思いつつも口にはしない。
「とはいえ、そろそろ私も限界。そろそろ『仕上げ』と行きましょうか」
痛みに耐えるようにおもむろに立ち上がると、マルタは祈りを捧げる態勢を取る。
それを静かに見守る那岐は、何を思ってその光景を眺めているのか。
かくして、祈りに応えるようにマルタが発光し始める。
「奇蹟って言うのはね、些細なことから人理を捻じ曲げる程の大規模なものまで多々あるけれど、その差の基準は何だと思う?」
マルタは一呼吸置き、続ける。
「人理を捻じ曲げる程の奇蹟が起きる時はね、共通して人類の歴史を揺るがすターニングポイントが関わっているのよ。世界の創造然り、ノアの洪水然り、人類の生誕から存続に掛けて、その安定が揺らぐその時、奇蹟は最大限の力を発揮する。そして、その中心にいるのは、貴方」
「何を――」
「奇蹟とは、起こるべくして起こる変革であり、それは無意識の願望によって形を成す。貴方の望みは、何?」
――――瞬間、世界が爆ぜた。
閃光の先に創造されるは、影。
それは、那岐にとって近しい者であり、超えるべき目標のひとつであり、魂の破片。
「――兄貴」
那岐の驚愕がありありと表情に現れる。
目の前の男は、那岐の知る限り粗雑で下品で弟を弄り倒すことを日常とする、謂わばロクデナシの駄目人間。
だが、その奥底に眠る誇り高き魂は、共通の父から最も色濃く受け継がれている、密かに尊敬もしていた存在。
「『――Let's rock, baby』」
業火を纏う籠手と具足を嵌めた兄の片割れ――ダンテの影は、不敵な笑みで那岐を見据えていた。
Q:理子ちゃん曇りそう
A:私の作品中で曇るヒロインは優遇されるシステム
Q:タラスクさんの咬ませ犬以下の仕打ち
A:ベヨネッタだって衛星キャッチボールしてたし、これぐらい出来ないと話にならないと思うんだ
Q:泥臭い戦い(笑)
A:血生臭い戦いだったね(一方のみ)
Q:姐さんの素のスペックが想像できない件
A:ベヨ姐ぐらいとなら張り合えそう(白目)
Q:おい、最後何か出て来たぞ
A:勢いに任せて出した
Q:那岐君何考えて生きてるの?
A:いずれ分かるさ、いずれな……。