―――“葵の陣痛が始まったみたい”。
その言葉を聞いて、俺の頭に真っ先に浮かんだのは、数ヶ月前の我が子の誕生の日だった。鮮明にフラッシュバックしてきたその記憶に、思わず言葉を失う。
新しい命を産みおとそうと、愛おしい人が必死に痛みに耐えているのも知らず、俺は目の前のボールを必死に追っていた。それを愛おしい人―――楓が望んで、俺に教えなかったのは重々承知している。痛いほどわかる。だけど、とても悔しかった。
試合が終わって、スマホを手にした途端、楓からの電話があった。
息を切らして、とぎれとぎれの言葉で全てを伝えてくれた。それが、俺の事を考えてのことだと思うと、本当に申し訳なかった。
タクシーで病院に向かって、なんとか誕生の瞬間には立ち会うことはできたが、俺は楓が辛い時、そばにいてやれなかったことを今でも後悔している。
―――そんな状況に、今、大事な親友がなっている。
ならば、俺に出来るのはただ1つ。―――喝を入れてやることだ。
試合だとか、仲間だとか、サポーターだとか、勝敗だとか、それらが重要じゃないわけじゃない。むしろ、とても大切だし重要だと思う。
でも、それよりも、もっと大切なものがこの世にはある。そのことを、俺も親友の天馬も、知っている。
「天馬ッ!」
―――大切な人の元へと駆けだす天馬の背中に、大声で呼びかける。額には汗をかいているし、スパイクをはいているし、そもそもユニフォームだし、おかしい所だらけの天馬。だけど、とても不安で、楽しみな事は痛いほど伝わってくる。
「京介…?」
「…守れよ、空野のこと」
「ッ!…あぁ、サンキュー!」
出会ったころから変わらない、純真無垢な笑顔を俺に向けて、震える手でピースサインをしている。それにこたえるように、俺もピースサインをしてみる。
「…俺の分も、頑張れよ」
俺は、天馬に“あの日の自分”を重ねていた。
試合が始まる直前、監督が俺のところに来た。
天馬が居ないことに気付いたらしかった。
「何で松風が居ない」
「天馬は…子供が生まれそうなので、家に帰りました」
正直にそういうと、監督は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔になって俺の頭を撫でた。
「お前に続き、あの松風が、か…。剣城、よく松風に“行け”と言ってくれたな」
「監督…ありがとうございます」
そして、1つお願いしてみる。
「あの、天馬が今日でないことについて…俺が言ってもいいですか?」
「あぁ、いいが…どうしたんだ?」
「親友のため、俺ができる最善の事をしたいだけです」
久しぶりに浮かべたいたずらっ子のような笑み。中学校時代は、こんな日が来るなんて思っていなかった。
試合が始まる数分前、俺はコートの中心に立って、大きな声で叫ぶ。
「聞いてください!」
その声に、カメラも実況も、チームメイトも敵チームの選手も、サポーターも敵サポーターも、全てが俺を見据えた。
「今日の試合、松風選手の活躍を楽しみにしていた人もいると思います!でも、すいません!今日、天馬は試合に出ません!」
その言葉に、スタジアム中が騒然とする。動揺の声が俺のところまで聞こえる。
「剣城選手!松風選手が試合に出ないって、どういうことでしょうか?」
解説の声が聞こえる。その問いかけに、俺は答える。
「言葉の通りです!天馬は今日…大切な人が増えるんです!だから、天馬は奥さんのところに向かいました!皆さん!天馬の事、応援してやってください!」
瞬間、スタジアムが静寂に包まれる。
―――次に聞こえたのは、小さな手をたたく音だった。それは徐々に大きくなって…盛大な拍手となった。
「剣城ーッ!かっこいーッ!」
「天馬ッ、頑張れーッ!」
そんな声が、スタンドから次々上がる。俺は安心して、頭を下げる。
その後、遅れて試合は始まった。
天馬が居ないのはやっぱり少し辛かったが、辛くも俺たちは勝利した。
天馬が抜けた穴を、俺たちは必死にフォローした。天馬の代わりに入った選手は、緊張で固まっていたが、それも皆でフォローした。
結果、勝つことができた。
「剣城、よかったぞ、さっきのスピーチ」
中継も終わって、サポーターもスタジアムからでだしたころ、相手チームのGKの円堂さんがやってきた。
「円堂さん…ありがとうございます。円堂さんには、息子が生まれた時の事、話しましたよね?」
「あぁ、楓が辛い時に一緒にいてやれなかったって、言ってたな」
「…はい。その状況に、天馬が居たんです。俺は、あの日の自分に今日の天馬を重ねただけなんですよ」
すると円堂さんは、中学時代に教えてもらっていたころと変わらない、太陽のような笑顔を俺に向けた。
「それができるお前はすごいな。さすが、俺の教え子だ」
「円堂さん…ありがとうございます」
円堂さんと一緒にいると、それだけで心が温まる。
スタジアムを出ると、近くの公園をいつも走っている。一種の習慣で、おそらく楓も知らないはずだ。
だが、今日は公園のベンチで楓がココアを飲みながら本を読んで待っていた。剣聖も一緒に抱かれていた。
今にも雪が降り出しそうな12月の真っ暗な夜の闇の中、震えながら本を読んでいる楓は、実に儚げだった。
「楓、どうしたんだ」
「京介、待ってたのよ。いつもここをジョギングして帰ってくるでしょ?」
「なんで…知ってるんだ?俺、言ったことあったっけ?」
「ないけど…ここね、秋には金木犀のにおいがすごいの。そのにおいが京介のジャージに、毎試合ごと帰ってきたらついてるから…それで気付いたの」
「すごいな…さすが楓」
「これでも一応、妻ですからね」
そういいながら、ふふっと笑う楓は、やっぱりいつも以上に儚げだった。
そして、空から真っ白な雪が降ってきた。ココアからたっていた湯気も消え、俺と楓と剣聖の息だけが白く染まっていった。
「天馬のところね、ちゃんと生まれたよ。元気な男の子」
―――帰り道、家まで雪の積もる道を2人で歩く。すっかり日も短くなって、街灯が俺たちを照らしだす以外、人気もなかった。
「そうか…よかった」
「本当…京介、今日のあれ、カッコよかったよ」
「それか…皆に言われて、若干恥ずかしくなってきたところだ」
楓は控えめに笑いながら、首を横にふる。絹のように繊細で綺麗で上品な黄髪に積もった雪が、はらはらと舞い落ちる。
「そんなことないよ。京介、ものすごくカッコよかった。…でもね」
「なんだよ、“でも”って」
俺は少しジト目で楓を見る。
楓は、首をかしげながらうーん、と唸った。
「ちょっと嫉妬かな?…いや、言わなかった私が悪いんだけどさ…天馬はさ、王子様みたいに葵のもとにやってきたけど、京介はそうじゃなかったじゃない?」
やっぱりそのことか。
そんな事を思いつつ、楓から目をそむける。楓は、帽子をかぶった剣聖の頭を優しくなでる。
「ごめん…」
「…京介、知ってる?私の中では“そばにいてほしい時”と“一緒にいてほしい時”は違うんだよ?違いがわかんないかもしれないけどね」
「どういうことだ…?」
首をかしげると、楓はまた優しく微笑んだ。
「そばにいてほしいっていうのは、例えば陣痛が来たときとかかな。そばにいて、励ましてほしいとか、そんな感じ。でもね、私はそれよりも、“一緒にいてほしい時”のほうが、よっぽど大切なの」
「一緒にいてほしい時って…いつだよ?」
「…剣聖が生まれた時よ。一緒にいて、喜びを共有したかったの。それが叶ったから、私はとっても幸せ」
そういって、剣聖を抱きしめる楓は、やっぱりもう“母親”で。
何度も見てきた光景のはずなのに、本当に癒されて、幸せな気持ちになった。
そして、俺に視線を移した楓は、目を細めて優しく微笑んだ。
本当に幸せそうに、儚げに微笑むものだから、目が離せなかった。
「―――一緒にいてほしい時を、共有してくれてありがとう、京介」
そういう楓の事を、俺は強く抱きしめた。剣聖もまとめて、愛を確かめるように、強く―――優しく抱きしめた。
俺も笑顔になって、楓を見る。
「これからも、親子3人よろしくな」
すると、楓は静かに首を振る。でも、顔は笑っていて、優しくて。
俺から体を離すと、静かに俺の手を自分の手と重ねて、お腹の上に乗せた。
「3人じゃなくて、4人だよ」
「…え…?そ、それって…まさか…!?」
「…妊娠4カ月だって。もうそろそろ安定期だし、伝えてもいいかなって思って。剣聖に、弟か妹が出来るの」
その言葉を聞いて、俺はまた楓を抱きしめた。
「―――ありがとう、楓。愛してる」
「ありがと、京介。私も―――愛してる」