長沢勇治 3 5.5 3人の殺害
矢幡麗佳 8 Death 近距離でPDAを5つ破壊
色条優希 4 6.4 首輪を3つ取得
漆山権造 A Death QのPDA所有者の殺害
手塚義光 5 1.2 24箇所のチェックポイント通過
陸島文香 9 6.6 自分以外の全参加者の死亡
郷田真弓 Q Death 71時間の経過
御剣総一 2 5.8 JOKERのPDAの破壊
姫萩咲実 6 6.0 JOKERの偽装機能を5回以上使用
北条かりん K Death PDAを5つ収集
葉月克巳 7 4.1 全員との遭遇
綺堂渚 J Death 24時間一緒にいた人間の生存
高山浩太 10 3.9 首輪が5つ作動
……ふう。
大きく深呼吸しながら、冷たいドアノブにそっと手を掛ける。
――ここに文香さんが……いるのか。
自分の意思とは逆に妙な悪寒が走る。皆が何と言おうと、文香は総一にとって敵とは思えなかった。散々お世話になった頼りになるお姉さん……。
そのはずだった。
それなのに一体、何を恐れているのだろうか。
警戒するに越したことはない……。だが今、文香と話せるのは自分だけではないのか? そう思うと変に身構えるのも良くないような気がしたのだ。
――行こう。
重々しい鉄の扉をゆっくりと開けると、眼前に広がったのはざっと六十畳はあるだろう、だだっ広い部屋だった。隅の方には鉄製の机や椅子が乱雑に重ねられており、いくつかのダンボールも散見される。
そして無機質なグレーに紛れてひと際映える青……
部屋の中心に佇んでいた青いスーツの女性はドアの音に気付くと静かに振り返り、こちらに歩み寄ってくる。
「来てくれたのね……総一君」
「ふ、文香さん……?」
「もう……20分遅刻よ? 道に迷っていたのかしら?」
先ほどまでとは明らかに雰囲気が変わっている文香の姿に、総一は驚いた。そこには今までで一番美しい文香がいたのだ。活気のある健康的な色気も特徴ではあったが、今回は真逆とも言える妖艶なオーラを醸し出していた。数時間前に消火器の直撃を受け、鬼の形相を浮かべていたのが嘘であるかのように。総一が言葉を失うのも無理はなかった。
「どうしたの? あたしに何かついてる? うふふ」
「い、いえ……。どうしたんですか……?」
「あら、あたしがお化粧したらおかしいかしら?」
「そ、そんな! ただ、き、綺麗だな……って……」
――総一君、帰ったらお姉さんとデートしない?
おちゃらけて放った文香の台詞が総一の脳内に蘇る。彼女が本当に男と逢瀬を重ねるとしたならば、おそらくこのような大人の魅力を感じさせることもあるのだろう。
「ふふ、ありがと。……どう? ゲームは順調かしら? みんな元気にしてる?」
「は、はい……」
ゲームへの不参加、脱出を説き断固否定していた文香にしては妙だと総一は戸惑い、生返事が吐き出される。度重なるトラブルやPDAのせいだろうか。一瞬、別の関係ない存在が化けているのではないかと勘ぐりそうになるものの、そんなことがあるはずがない。何より長い時間を共にし、助け合ってきた仲間である。総一は文香を傷つけまいと、必死に言葉を繋いだ。
「みんな……文香さんの事を、心配してますよ……」
「ふふふ。そうかしら……? いいのよ、無理しなくて。優しいのね……」
「いえ、無理なんて……。少なくとも俺は心配でしたよ」
雰囲気が変わっていても、仕草や口調は文香のままである。そうだ、いつもの文香さんと何ら変わりはないんだ――
自らにそう言い聞かせつつ疑問と不安を胸に次の言葉を考えていると、文香が徐々に距離を詰めながら口を開く。
「この首輪……邪魔よね……」
いつの間にか目の前に来ていた文香は、自身と総一の首輪に手を添え、もの欲しそうな視線で彼を見上げる。
「せっかく、総一君とデートの時間なのに。いくらお揃いだからって、こんなもの付けてくれちゃって。ね? 運営の連中、ファッションセンスなさすぎだわ。これじゃ、首筋にキスもできないじゃない」
「え、ええ……」
文香の言わんとすることがわからず、間の抜けた返事が漏れ出した。かの漆山なら目の色変えて襲い掛かりかねない距離、そして囁きでも、総一には緊張と違和感が走り、身体が反応できずにいた。
「……外しちゃいましょうか? この首輪……。ねえ? 総一君。うふふふ」
文香はいったん身を離して徐にPDAを取り出すと、思わせぶりに総一とそれを交互に見比べる。やがて、PDAの画面を総一の方へゆっくりと向けた。そこには――
「……文香さん、それは……!!」
総一は初めて見る絵柄に驚き、目を見開く。画面に踊る存在は、やっと見つけたのかと嘲笑っているのか、漸く会えたなと微笑んでいるのか……。
「そうよ。JOKER」
CGで描かれたピエロがおどけながらこちらを見つめている。あれほど探していたJOKER……自身の首輪を外し、咲実を助けるためのPDA。多くの参加者を不安と恐怖に陥れ、ゲームを沸かせていた悪魔のカード。
「あたしが持っていたの。……ごめんね。騙すつもりはなかったのよ……。本当はいつかあたしの口から言うべきだと思ったんだけど。ボウヤに先を越されちゃったわね……」
俯いた文香が掠れそうな声で呟く。自身の行いを後悔しているのか、その姿は今までで一番悲しそうにさえ見える程だった。
だが――
持っているのならどうして言ってくれなかったのか……。自分たちを泳がせて何をするつもりだったのか……。
長沢の言葉を思い出す。
しかし……他の参加者ならばともかく、仮にもあの文香である。そうしなければならない理由があるはずだ。総一はそう信じて疑わなかった。頭の中を整理しきれずに呆然としていると、やがて文香の細く白い指に力がこもる。
「総一君の首輪はこのJOKERを破壊すれば外れるのよね……? うふふふふ……」
いつの間にか顔を上げた文香の表情はどこか虚ろ気だった。そして彼女の事情に感情を込めていた総一も、つい反応が覚束なくなる。
「じゃあ……行くわよ、総一君」
「え……?」
「こんなセンスの無い首輪、デートに必要ないでしょ?」
文香の無機質な言葉が響くと、今まさに彼女の手の中にあるPDAが軋み始め、ミシミシと音を立てる。心の準備もなく唖然と見つめていた総一は、刹那に忘れてはならぬことを思い出し、はっと我に返る。
「文香さん、待ってください! まだ、咲実さんがいます。JOKERを5回以上使ってから壊さないと……!」
「あら……あたしとデートしてるのに咲実ちゃんの心配をしちゃうのね? 総一君」
「文香さん、そんな、冗談を言ってる場合じゃ……」
「冗談……ですって……?」
一瞬、文香の目に恐ろしい力が宿り、総一を射抜く。彼にしてみればこのような状況でデートなどと言う文香の仕草は冗談なのかもしれない。だが、精神状態によるとは言え、異性を想う女性と会いながら、他の存在を気にかけるという行為は裏切りであり、場合によっては後々恨まれる遠因ともなり得る。
「冗談……ねえ……。うふふふふ……」
沈黙と共に文香の手から力が抜け、PDAが理不尽な力から解放される。そのまま文香はゆっくりと総一の方へ目線を動かす。目が合うと心なし怒っているような、睨むような視線に総一は気圧される。その瞳には涙が浮かんでいるように見えるくらいの錯覚を覚えた。
「…………」
「総一君と咲実ちゃんのPDAが逆だったらよかったのに……とか思ってる?」
「え……?」
先ほどまでの険しい表情が一転、穏やかな笑顔となって語り掛ける文香に、総一は安堵しながらも言葉を失う。事実、そう思ったことがないわけではない。ただ破壊する方が5回使用した確証を得るよりも容易いのだ。咲実の命を優先させるのならば、総一がそう考えるのも当然ではある。
「図星でしょ? お姉さん、総一君のことはわかっているのよ。うふふ」
「はぁ!? ちょ、ちょっと、待てよ、御剣の兄ちゃん!! 何考えてんだよ!?」
一人で文香の元へ行くなどと言う……予想だにしない総一の言葉に、長沢は素っ頓狂な声を上げる。他の面々も信じられないような表情を浮かべて総一に視線を集中させた。それもそのはず、文香は今に至るまで長沢と優希、高山には敵対行動どころか、何の躊躇いもなく殺しにかかってきたのだ。聞くところによれば、同情の余地は少ないとは言え漆山を殺したのも文香であり、確証がなくとも葉月に重傷を負わせたのもまた文香となれば……。いくら総一と咲実に害がなかったとはいえ、一人で会いに行くなど、認められるものではない。
「御剣さん……。それで、文香さんはなんて……」
――お願いって、何ですか?
――あたしの事よ。あたしの話を聞いて欲しいの。全てを君に話すわ。まだ伝えてないこともあるし、JOKERだって必要でしょ? あたしがそっちへ行ってあげてもいいんだけど、優希ちゃんも、ボウヤもいるはず……よね……? 悪戯に若い子たちを怖がらせても仕方がないし……。あたしの……PDAも、バレちゃってるわよ……ね?
文香の声が徐々に嗄れていくのがわかる。普段の強気かつ大胆不敵な振舞いからは想像もできない雰囲気が否応なく耳へ流れ込んでくる。先ほどの行動を本格的に後悔しているのかもしれない。
――だから、総一君一人で来て欲しいの。お願い……。
――文香、さん……。そんな悲しまないでください。俺は知っています。そうしなければならない理由があったんですよね? 俺たちにPDAを偽ってまで成し遂げなければならないことが……。
――ふふふ、総一君……。君はあたしの事を買い被り過ぎよ。正直、今となってはどうでもいいこともあるんだけど、ね……。でも、ありがとう……。
そうだ。まだ終わったわけじゃないんだ。どこかにあるはずなんだ。俺の身を犠牲にしてでもみんなが助かる方法が……。
――待っててください。俺、今から文香さんに会いに行きます……!
――嬉しいわ……総一君。じゃあ、西側の戦闘禁止エリアより3ブロック先の広い部屋で落ち合いましょ。待ってるわ。
ゲームを止めるため、長年にわたり運営組織と戦いを続けているテロ組織、エース。揺るぎない信念と正義の名のもとに何年も耐え忍び、何人もの同胞を犠牲にしてきた。そして、今まさにその苦労が報われようとしていた。
そのために、優希を保護しなければならなかった。
組織のボスにして優希の実父である、色条良輔を捕縛するために。
それが文香から聞いたエースの悲願であり、最終目標だった。
何十年もの間組織によってゲームは繰り返され、何の罪もない人々が参加させられて、そして死んでいった。それは紛れもない事実であり、許されない悪業である。
しかし……。
高山が語った事実はその場にいる全員を驚かせ、激しい衝撃を与えるに至った。一見、そのエースの行いは間違っていないともとれる。だがそれは、あくまでも自分と無関係だった存在ならば、の話である。
「かりんさんの……ご両親が……。文香さんの、その、エースに……ですか……?」
「そうだ。俺が育った孤児院の同期もな。その時は大分経営が傾いていてな……お世話になった院長を驚かせ、助けてやりたいと意気込んだ先の事だった」
「それじゃ……渚の姉ちゃんと同じじゃないか……。金がなくて、どうしようもなくて、さ……」
「組織も金に困窮している人間を調べた上で、誘いを持ち掛けているからな。俺の孤児院や、北条のご両親などが正にそれだ。最悪、彼女や綺堂のようにこのゲームに参加させられることすらある……」
当然、ゲームを運営している組織こそが諸悪の根源である。そして、それを滅ぼそうとしているエースは正義の味方なのだろう。だが、物事を紐解けば――
絶対的な正義や悪はなかなか存在しないものである。一方の主張を聞けば正しく思えても、深く調べれば必ず綻びが出てくる。それが致し方ないという段階の所業であれば話は別だったのかもしれないが……。
「でも、高山さん、ゲームの観客は大富豪や大金持ち、この国を動かすような奴らが刺激を求めて賭けを楽しんでいると……」
「常連どもはな。今話したのは曰くつきの民間人のことだ。招待客全員が奴らのように豪華な会場に呼ばれるわけではない。尤も、最近はインターネットの普及でオンライン上でも賭けができるようになっているがな」
「それで、エースの奴らに孤児院の友達が殺されて、おっさんの親友が敵討ちの為にゲームの組織に入っちゃったのか……」
「ああ。お前が生まれた頃の話だがな。それも奴だけではない。他にもエースに身内や友人を殺された民間人が、独自で調べた結果エースに辿りつき、復讐の為に組織に入ってしまったという話もある」
資金源を断つと言う名目で実行された、エースの闇……云わば民間人の殺害。以前に比べるとより大胆になり、忽然と姿を消す人間が増えているという。
「ゲームに纏わる犠牲や被害は国も警察も動いてはくれん。俺の同期の件も自殺で処理された。……孤児だったから、かもしれんがな……」
長沢はふと思い出した。あの黒ずくめの男……。
もしかしたら。
エースに恨みを持っているとするならば、死に際にそう言い残すことも辻褄が合う。
「そんな……そんなの悲しすぎます……。かりんさんも、ご両親も……病気の妹さんの為に……」
「……やりきれない話だね。復讐は復讐を生むだけだと言うが……これじゃ、本末転倒、負の連鎖だ」
咲実が目に涙を浮かべる傍ら、葉月が深いため息をつくと沈黙が訪れる。参加者同士の争いだったはずが、ゲームの運営組織とエースも加わった今、いったい何と戦いどう生き残ればいいのか。
何も知らなければ、エースに加担することで万事解決したのかもしれない。だが、色条良輔の拘束には失敗し、当のエース工作員は迂闊にコンタクトを取れる状態ではない。さらに組織と同様、さして罪のない民間人を手に掛けているようでは手を結ぶにも抵抗が生まれる。その犠牲がかりんの悲劇の始まりとなっては尚更である。
何より、長沢と優希、高山はもちろん、葉月も文香に対しては疑念、敵対心の方が大きくなっているのかもしれないのだ。
「どうだ。これでも連中のやってることが正しいと思えるのか」
高山の声が冷たい空間を震わせる。いつもの冷静沈着な言動とは打って変わって、僅かながら怒りの感情が込められているようにさえ思える……。
各々の正義に全員が迷っていた。
暫しの沈黙が流れると、咲実は気になっていた疑問を恐る恐る尋ねる。
「高山さん……その、ゲームを遊んだだけで、ターゲットになるってどういうことなんですか……?」
「今話したように、直接ゲームの観客として呼ばれなくとも、オンライン上でゲームの観客として賭けや見学ができる。架空の物語として演出されているのでな、誰もそれが本当のことなどとは思わんだろう」
「もしかして……そう言う、ゲーム……ギャンブルですか? そう思ってお金を賭けた人たちも、その……エース、の……?」
高山が深く頷くと、咲実は信じられないと言った表情で怯えの色を浮かべて周りを見回す。落胆して視線を落とす葉月、他に気になることがあるのか微妙にそわそわしている総一、話の内容が理解できず、ポカンとしている優希――
「ゲームにお金を賭けるのは自己責任だし、資金源なのは糾弾されるべきだが……ちょっと行き過ぎだね」
「何も知らない人まで……」
そして咲実は僅かながらに笑みを浮かべている長沢に視線を移す。引きこもってゲーム三昧だった少年ならば、何か知っているかもと期待を込めて。
「長沢君……。そのゲームって、もちろん遊んだことないんですよね?」
「ないけど、僕、聞いたことあるぜ。確かどっかからの招待メールがないとログインできないんだよな。今、僕たちがやってるのが正にこれなんだよ」
ルールを知らないゲームを姉に教える弟の如く、長沢はしたり顔で微笑んで見せると、急に人差し指を突き出すポーズを取り、振り返る。
「やい! お前ら見てるか!! 賭けるのなら僕たちにしておけよ? 間違っても文香のバ……」
「やめろ、長沢っ! 不謹慎すぎるぞ」
「痛て! 痛てててて!! じょ、冗談だよ! でも、いいじゃないか、少しくらいさぁ……」
「あはは、お兄ちゃん達、子供みたい」
「こらこら、遊んでる場合じゃないんだぞ」
誰に向けるでもない演出に不謹慎さを覚えつつも、優希が言葉を発したこともあってか重くなった空気が一瞬晴れた。
だが、それはひと時の安らぎに過ぎない。悪く言えば逃避とも取れる……。
300年前より始まり、進化し続けてきた悪魔のゲーム。その悪夢が終わる日……それは今日だったのかもしれない。しかし……発端は偶然の産物だったのである。イレギュラーによって生まれたチャンスは、イレギュラーによって泡沫と消え去り、最悪のタイミングで真実を齎したのだ。
「ちょっと待ってください、それじゃ……その鴻上大佐って人はそのことを知ってて……文香さんをこのゲームに送り込んだんですか?」
「……笑っちゃうわよね。ずっと仲間だと思って一緒に戦ってきたのに」
テロと戦うテロ組織、エース。彼らは過去のゲームで何度も工作員を送り込んできていた。
そして僅かながらとは言え、ゲームが行われる度に舞台となるこの建物内に、細工を施していった。
携帯電話をはじめ、外部との連絡手段が一切遮断されているにもかかわらず、文香がエースと連絡を取れるのは、過去においてエースの工作員が命と引き換えに仕掛け続けてきた細工の結果でもある。そして、今に至っては隙を見計らって、現場から仲間に組織の情報を提供できる程になっていた。
エースの工作員と言えど、参加者である以上自身が脱落――云わば殉職することは避けられず、プレイヤーとしてゲームに潜入して散っていった人間の数は計り知れない。ゲームを終わらせるため、ゲームを妨害しながらもゲームに参加すると言う、危険かつ過酷な任務を多くの犠牲の上に積み上げてきたのだ。
「それに、文香さんが昔、ゲームに参加していたなんて……」
「意外だったかしら? あたしもその頃は融通の利かない、お堅い女子高生だったわ……」
聞けば、その時のゲームで生き残ったプレイヤーは全員エースに参加しており、結束も固いはずだったのだ。それが……。
「本当のことを言うとね……信じたくなかったわ。でも……。あたしに配布されたPDAは9だったの。予定と違っていたからおかしいとは思っていたけど……。最初は何かの事故か、組織に感づかれたのかと思ったわ……。本当はね? 咲実ちゃんのPDAがあたしの物になるはずだったのよ」
伏し目がちに語る文香の表情にいつもの笑顔はなかった。微かに震える長い睫毛の奥の瞳は心持ち潤んでいるように見える。多少の苦難で音を上げるような人間ではないはずの文香が、消え入るような声を絞り出していると、その裏には余程辛い事情があったことが容易に察することができる。
「うふふふ……あたしらしくもないわね。いい大人がすることじゃないって、わかっていたけど……保護しなくちゃいけないはずの優希ちゃんに、何度も、何度も、当たっちゃって……」
「文香さん……」
気丈な文香の声が震え、言葉尻が掠れていく。彼女が俯くと艶のある青い髪がだらりと下がり、その隙間から透明の雫が滴り落ちる。
「あの子に何の罪もないのは、わかっていたわ……でも、でも、抑えられなかったのよ……。あなたの父親のせいで、あたし達は……!! そう思えば、思うほど……! それなのに、それなのに、あの子は無邪気に、のうのうと……!」
化粧を施して美しくなったはずの文香の表情が、涙に塗れて悲しみの色を醸し出していく。皮肉にもそれは下手な化粧水よりも美しさを彩る結果となる……。
その刹那、文香は顔を上げ、悲痛な面持ちで訴える。
「ねえ、総一……! 確かに考え方に違いがあったわ。だから派閥もあったし、いろいろ問題もあった。でも、でも……だからって、こんなことする必要ないじゃない!! そうでしょ!? こんな……女々しくて情けない嫌がらせ、仲間にすることじゃないわ!! 違って!? 文句があるなら直接あたしに言えばいいじゃない!!」
余程悔しかったのか、見たこともない文香の取り乱しように総一は言葉を失う。おそらく優希への異常とも言える過激な態度の裏には、仲間からの予期せぬ仕打ちがあったのだろう。本来ならば、自分達と同じように優希のことも守り、導いてくれたはずなのではないか。
仮にも仲間だと思っていた存在に嵌められ、その上あっさりと切り捨てられた現実は、文香から余裕を奪うのに十分過ぎた。彼女は悩みに悩み抜いた。なぜこんなことをされたのか……問い正すためにも生きて帰らなければならない。しかし、そのためには……。
訓練を重ねた手練れのテロリストと言えど、無差別な殺戮には抵抗があった。増してや本来はゲームを否定し、運営組織と戦う身である。
そこへ舞い降りたイレギュラー。一気に組織へ攻勢をかけるチャンス……。文香にとっては最悪のタイミングだった。彼女は迷った。そして混乱した。自身の正義の為に何を成すべきだったのか……。
エースの信念に基づいて行動しなければならない時に、上司に陥れられ、仲間も信用できるかどうかわからない。そして生きて帰らなければならない……。そこへ与えられた生還条件は皆殺し……。
もしも、タカ派の暴走や鴻上の奸計がなければ、己の身を犠牲にしてでも優希を守り、エースの作戦遂行の為に死力を尽くしていたのだろう。仲間より齎された疑惑の念、何よりその仕打ちが中途半端に彼女を生き延びようとするきっかけを作り、暗躍させ、計らずもゲームを盛り上げる方向へ走らせてしまったのである。
テロリストとはいえ、陸島文香もまた人間だったのだ。硝煙と煙幕、爆薬と銃撃のヒロインなどでは断じてない……。
だから、彼女が笑うのは他でもない。自身の心を現状から守るためであり、自分がやっている残酷な行いから目を逸らすためだったのだ……。それは皮肉にもエースによって両親を失い、巡り巡ってゲームに参加させられた結果、かりんが陥った状況そのものであった。
利害が逆である高山はともかく、優希への陰湿かつ残酷な辛い態度や、葛藤を抱える不遇の少女を煽ったことに加え、無害な初老の男性を狙撃したことはもちろん、積極的な攻撃意思のない手塚を執拗に追い回して銃撃をかけたこと、そして組織の人間とは言え理由をつけて渚に致命傷を与え、長沢を激怒させたこと……。
全て、心の底ではわかっていた。
あたしはなんて残酷なことを――
大切な人が傷つけられた長沢が怒りにまかせて叫べば叫ぶほど、それはもう一人の自分に罵られているような気さえしていたのだ……。
自分が組織から受けた仕打ちと同じことを……。
その意味では自身への挑発的な罵倒は、己の真意から目を逸らし、少年へ怒りを向けていられる分、気が楽だったのかもしれない……。
「うわっ、文香さん!?」
突然、自身の懐に飛び込んできた文香に総一は驚く。
「総一……あたしは、あたしはどうしたらいいの……!」
あれだけ自分たちを導いてくれた文香が総一の背中に手を回し、胸に顔を埋めて泣いている。総一は半ば放心状態になりながらそんな彼女を支えるのが精一杯だった。
自分の方が大人だと言うのに、高校生の少年に縋って泣いている……それほど文香の精神は追い詰められていた。それは、見放されたと思っていた自身を受け入れてくれた……むしろ嬉しさから出た行動だったのかもしれない。
だが……。慰めの言葉も解決策も、何も見当たらない。文香は自分を頼って連絡してきたというのに何もできないとは……。悲しみと共に自分に不甲斐なさを覚える。
――ねえ、総一!? 私は間違っていないわよね……? それなのに、どうして……!?
文香の姿に懐かしい面影が重なる。
――そうだ、あいつも……。
いじめられっ子の同級生男子をかばった時、仲間外れの女子を迎え入れた時……。正しいことをしたと思った彼女を待ち受けていたのは、さらなる暴力や陰湿な嫌がらせだけだった。そして、彼女を守ってくれる者は誰もいなかった。
――あの時、泣きながらそう訴えてきたあいつに、俺は何もしてやれなかった……。
「文香さん。ここから脱出しましょう。みんなで力を合わせれば、きっと誰も死なずに外へ出る方法だって……」
「総一……。でも、あたしは……あんなにひどいことを……!」
「みんながどう思っていようとも、文香さんがいなければ俺はここまで来れませんでした。それに、少なくとも俺は……優しく、強いあなたしか知りませんから……」
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。総一は声を絞り出すように泣き続ける文香の両肩に手を添えると、彼女の目を見つめてしっかりと言い切った。
長沢や優希が訴えていた文香のもう一つの顔も知らないわけではない。だが、そんな彼女を見ていない以上、どこかに文香を信じようという思いがあったのだ。
「そのためでしたら、俺の命なんてどうだっていいんです!! 誰かを、文香さんを……俺の命と引き換えに助けられるのなら……!!」
文香は涙目になった瞳を開き、ゆっくりと総一を見上げる。彼の言葉に希望が湧いたのか、仄かな笑みを浮かべながらも、再び涙が零れ出した。
「……うふふふ。やっぱり、君は優しいわ、総一。……でもね、もう……遅いのよ。あたしが帰る場所はもう、ないの……。それに……あたしは罪を犯しすぎたわ……生きて帰るために多くの人を傷つけて……正義を名乗る資格なんてないの……」
「何を言ってるんですか! 俺たちがいるじゃないですか!! エースに戻れなくたって、文香さんには俺たちがいます!!」
真剣な総一の言葉に、再び涙が溢れ出る……。
――しかし、総一は気づいていなかった。文香の精神は既に戻れないところまで来てしまっていたことを。
そして……隠し続けてきた自身の本性が見破られていたことを――!
「うふふふ……。ふふ……うふふ、ふふふ……」
「文香、さん……?」
「ふふふふ……。あはは……あはははははっ!!」
涙交じりの笑い声が冷たい空間に轟く……。
急な文香の変貌に総一は何が起きたのかわからず、思わず肩に置いた手を離してしまう。
「はぁ……はぁ……」
やがて彼女が涙を拭いながらゆっくりと顔を上げると、光と色を失った瞳と自らの瞳が交錯する。吸い込まれるような狂気を帯びた文香の瞳に浮かぶ大粒の涙……。それとは逆に、笑みを浮かべているかのような歪んだ深紅の唇が視界に飛び込んでくる。その表情は芸術のような美しさと、悪夢のような恐ろしさを同時に含んでいた。
「うふふふふ……。いいのよ、総一……無理しなくても……。あたし、わかっているから……君のことは……」
涙を流しながら赤い口紅を施した口角を釣り上げ、微笑みかける文香の声色はいつになく落ち着いていた。顔と感情、そして声がすべて明後日の方向へ向いて作り上げられた文香の笑顔……。
「ねえ……総一……。優希ちゃんに会いたいでしょ……?」
「え……」
「うふふふ……」
文香は不気味な笑みを浮かべつつ、右手でスカートの下を弄る。妖艶な表情と意味深な言葉にただ唖然としていると、やがてその細い指は何かに絡みつき、ゆっくりと総一の前に姿を現した。
「…………!」
「あたしが連れてってあげる……ふふふ」
総一が我に返ったその時、文香の右手には鋭利に光る銀色のナイフが握られていた。刃が照明を反射し、総一を目標として捉えたかの如く眩しく照らす。切っ先が少し淀んで見えるのはこれで、誰かを軽く傷つけたからなのか――
「一緒に逝きましょ……? 総一……」
「ふ、文香、さん……!?」
ただならぬ文香の様子を見て、総一は漸く「優希」の意味を理解した。その瞳からは既に光が失われており、いつかの爽やかな雰囲気は見る影もなくなっていた。
「うふふふ。そんな顔しないで、総一。……大丈夫よ。君を一人にさせはしないわ……。あたしもすぐに君の後を追うから……。だって、一人じゃ道に迷っちゃうでしょ? 案外、おっちょこちょいなところがあるし。ふふふ、うふふふ……」
「…………」
「あたしも会いたい人がいるの……うふふ。十数年ぶりかしら……」
ナイフを手にゆっくりと距離を縮めてくる文香に、総一は迷っていた……。
普通の人間ならば、恐怖に慄き、焦って取り乱し、必死の説得を試みるなり逃げ出すなりするのかもしれない……。
だが……。
「いいのよ、総一……君は間違ってなんかいない……。貴方が死ぬのはみんなを守るためじゃないわ……。あたしのお願いを聞くために、一緒についてきてくれるの。それだけなの……。誰の為でもない、君自身の為に。うふふふ」
――そうだ。俺は誰かの為に命を捨てるんじゃない。文香さんが寂しがるから……文香さんの為に、文香さんの手で……何より俺の意思であいつの元へ……。
文香の言葉を都合よく解釈し、総一は立ち竦む。
――これで、やっと……願いが叶うんだ……。ありがとう、文香さん……。俺を導いてくれて……。これは……自殺じゃない。旅立ち、だよな――
一歩、また一歩と、ナイフを手に不気味な笑顔を向けて歩み寄る文香、そして迫る銀の刃が自らに近づくたびに胸の高揚感すら覚える。
――もう少し……もう少しだ……。あはははは。優希……。これで……やっと、お前に……。お前を探す旅に、文香さんと……。
「どうしても行くのか」
「はい……。文香さんを放ってはおけませんから」
その場にいたメンバーの大半が異を唱える中、総一の決意は固かった。彼女の今までの行動を考えれば、敵意の薄い総一と言えど自殺行為でしかない。文香はもはや他のプレイヤーに敵対意識を隠さなくなりつつあるのだ。しかも彼女の生還条件を思えば……。おまけに素人から見て次元の違う戦闘力を持っているとなれば、全員で行くことさえ、危険なのである。
「嫌だよっ! 総一お兄ちゃん、おかしいよ……」
自分が受けてきた仕打ちを怯えながらも伝えきった優希が、震えながら声を上げる。頬に突き付けられたナイフ、目の前で揺れたバルカン砲、そして数々の暴行と脅迫、咥えさせられた拳銃……。
「どれも……常軌を逸しているね……。胸が痛くなるばかりだ。せめて、文香さんの動きを止める方法でもあれば……」
葉月は腕を組んで考え込む。相談窓口に寄せられる児童虐待の案件……。聞けば聞くほど不快になるものの、結局は何もできず、やがて取り返しのつかない惨劇が訪れる。過去に何度も経験した無念の感情……今まさにそれが思い起こされる一方、娘を持つ身としては複雑極まりない状況だった。優希はもちろんだが、文香に対しても自分の娘とそう感情的には変わらないのだ。
「なあ、御剣の兄ちゃん。放っておけよ、あんなの。あの女はもうどうしようもないんだ。優希の話もあるけど、渚の姉ちゃんを殺したのもあいつなんだぞ!! 葉月のおっさんを撃ったのもそうなんだろ!?」
「まだそうとは言い切れないが……。渚さんまで手に掛けていたのか……」
熱くなる長沢が振り返ると、葉月は懸念の表情を浮かべる。確証がない上に未だ文香の様子を見ていない彼にとっては、感情的には総一に近いのかもしれない。とは言え、長沢が本気で怒っているのは弥が上にも理解せざるを得なかった。葉月自身、今は無事だとしても、いつ腹の傷が疼きだすかわからないのだ。
「なら、生かしておく理由もないだろ。みんなで力を合わせてやっちまおうぜ!」
「……前にも言っただろ、長沢。お前は自分の首輪さえ外れればそれでいいのか? 文香さんを殺して解除条件を満たそうなんて、俺が許さない」
「おい、御剣の兄ちゃん!! そういう意味じゃないんだよ!! あいつを倒さなきゃ、みんな殺されるかもしれないんだぞ!!」
逸る長沢を諫めたつもりでいた総一だが、彼の見解は既に外れていた。何故、長沢は文香に対する強硬策を推すのか……その理由は倫理的に間違ってはいても、総一が思うよりも純粋で澄んだものではあったのだが……。
ゲーム終了まで10時間を切っている今、文香をこのまま放置しておけばどうなるか……何もしてこないという保証はどこにもない。かと言って逃げ続けていれば、やがて首輪の外れていない人間が倒れることになる。
そして、長沢の提案は尤もであれど葉月は思案顔だった。かりんと自分を襲った理由は? いまだ敵対心よりも娘を保護しなくてはという感情に近いものがあり、問答無用で攻撃を仕掛けるには抵抗がある。
「御剣……。名案でもあるのか? 奴はテロリストだ。正面から挑めば仮に勝てたとしても犠牲者が出るのは必至だ。もしも我々の動きを察知されていたら、下手に近づけば全滅の恐れすらある」
――それなら文香さんが助かるじゃないか……。
……!? でも、そうか。咲実さんたちは……。
高山の懸念に対して、一瞬とんでもないことを考えかけた総一は即座に邪な想像を掻き消した。自分がどうなろうと構わなくとも、それを他人に、増してや咲実や優希に要求できるはずがない。
「御剣、聞こえているか……? 既に陸島の精神は病みかけている。あの目は正気の人間のものではない。錯乱した人間を甘く見るな。不用意に出向けばおそらく命の保証はないだろう」
幾多の戦場を生き延びてきた傭兵でも、思い出しただけで吐き気がしてくる。カッと見開かれた目に、笑っているような……それでいて泣いているような表情で、少女に拳銃を咥えさせて呪いの言葉を吐くテロリスト。そして不気味な笑い声……。
淡々と話す高山の表情が嫌なことでも思い出したかのように苦々しくなる。
「い、いやっ! いやーーっ!!」
優希が急に身震いし出したかと思うと、泣き声に近い叫び声を上げて座り込んだ。高山と同じものを思い出してしまったのかもしれない。慌てて長沢が声をかけて慰めたものの、震えは止まりそうもない。
「ゆ、優希!! 大丈夫かよ!? ……おい、御剣の兄ちゃん」
仲間たちが否定すればするほど、総一は自身の使命感が燃え上がるのを意識せずにはいられなかった。文香はそんな怖い人じゃないはずなのに……。
「大丈夫ですよ。文香さんと戦う必要はありませんし、俺にとっては大切な人ですから。それに……咲実さんのためにもJOKERは使ってもらう必要があります。たとえ俺の命と引き換えにしても。あの人を助けられるのは俺だけなんです」
「……しかし総一君、気持ちはわかるが、態々一人で行くことはないんだ」
「そうだよ。……総一お兄ちゃん、死んじゃうよ……!! 嫌だよ……!」
文香の恐ろしさを身に染みて味わってきた優希が悲鳴に近い声を上げる。年端のいかぬ少女にしてみれば、必死で逃れてきた相手の元へもう一度向かうなどと、理解不能である。
「文香さんは俺一人に来て欲しいと言ってました。きっとその理由があるんだと思います。文香さんがJOKERを持っている以上、避けては通れません。それに首輪があれば優希を助けることができますし、俺にもしものことがあったら……優希と高山さんの首輪を外す手助けができます」
総一は達観していた。全員が助かる為の最善策はこれしかない。仮に自分の身に何があろうとも代わりに誰かしら助けることができる。それが文香の望みだと言うのなら行かない手はないはずだった。
「総一お兄ちゃん……」
優希は不安げに総一を見上げる。だが……その表情は心配しているそれとは違う、どうかしている人物に怯えている視線に近いものだった。納得いかない顔つきの長沢。思案顔の葉月、何かを感じ取ったかのような高山……。
「これは優希の為でもあるんだ、だから、信じて待ってろよ? 優希。俺一人の犠牲で他の人たちが助かるのなら……」
もはや後には退けないし、退くつもりもない。俺にしかできないことなんだ。
いよいよ決意を固め別れを切り出そうとしたその時――
「確かに完璧ですね。その言い訳は」
「え……?」
聞き慣れた声。しかし、今まで聞いたこともないような毅然とした響きだった。
「さ、咲実さん……?」
その冷たく強い言葉が咲実によって放たれたものだと理解するまで、些か時間がかかっていた。総一だけではない。その場にいたすべての人物が驚き、静まり返る。
「言い訳って……なんだよ? 咲実の姉ちゃん」
場違いともとれる唐突な発言に長沢は単純な疑問をぶつける。だが、咲実はそんな長沢を諫めるかのように微笑みかけると、総一の方に向き直った。
「ずっと、ずっと疑問でした。悩んでいました。御剣さん、どうしてあなたはそこまで自分の身を犠牲にしてまで、私たちを守ろうとしてるんだろうって」
「な、何を……?」
言うまでもなく、死んだ恋人である桜姫優希との誓いだった。
――ズルするな、我慢しろ。
総一にとって全てだった、桜姫優希。彼女の愚直なまでの真っ直ぐな心意気は、自身の心に受け継いでいたはずだった。だから、このゲームで自分だけが助かろうなどと許さない。人殺しなどもっての外……。たとえ己の身を滅ぼしてでも、ゲームに参加させられた人々を限りなく救う。
――そうだ。それがあいつとの約束だからだ。
総一はそう信じて疑わなかった。その意識、理由は尊いものであり自分がその場に立っている自我そのものでもあった。
咲実はそんな総一の姿に感謝していた。そして、その行動が本気で自分たちを守ろうとしていることに疑いの余地はなかった。だが、あまりにも我が身を省みない――自己犠牲的な精神にはある種の疑問が生まれ始めていた。
何を持ってそこまで自分たちを守ろうとするのか――
やがて明らかになった自身と瓜二つと言う桜姫優希の存在。総一の行動理念は全て彼女の為……そう理解するまで大して時間はかからなかった。
だが、そうだとしても自分たちを守ってくれる行為自体に嘘はない。
そう思おうとしていた。何よりも感謝していた。
しかし、総一が守っているのは桜姫優希との約束、幻影に対する想いが結果的に自分たちを守っていたのであり、自分たちの方は見ていなかったのである。
そんな総一に対して様々な想いを抱き、感情を動かされていた。
だが、それは咲実自身の為ではなく死んだ恋人との約束の為の行動だった。それらに時に喜び、時には泣く自分が限りなく悔しかった。
そう。……総一は元から狂っていたのだ……。大切な人を失ったあの日から……。その歪んだ欲望と捻じ曲げられた心は固く閉ざされており、誰にも気づかれることはなかった。本人ですら気づくことがないままに。
つい先ほどまでは――
だから、本来ならば馬鹿げている文香の願い事も、脳に心地よく響く甘い囁きとなっていたのである。
「本当はもっと楽な方法があるんだけど……これが一番いいの。ナイフで刺すとね……? 赤い血が吹き出して、確かな感触を得られるのよ……。あたしも、君も……うふふふ。総一の血なら少しはこの身に浴びてみたいし……。痛いかもしれないけど……すぐ楽になるからね? 総一……」
――この痛みを乗り越えさえすれば……やっと、会える……優希に……。そうだよな……これくらいの痛み、みんなのそばにいられなかった罰として受けないとな……俺は。あはははっ――
「ごめんね……。許して……総一……」
自らの願いを受け入れ、棒立ちとなった総一に安心したのか、文香はナイフを手に微かな笑顔を浮かべながらゆっくりと近づいていく。涙で歪んだ顔と光を失った瞳……深紅の口紅によりひと際映える唇、そして対照的なスーツのブルー。
「じゃあ……いいかしら? 総一……。ほんの少し、我慢してね……?」
「はい……お願いします……文香さん……」
総一の意識は既に空を飛んでいた。その表情は直後に訪れる快楽に浸り、自我を失った哀れな少年そのものだった。僅かでも正気が残されているのなら、目の前の恐ろしい存在から逃れようとしただろう……。だが、総一の目に映っているのは……
文香を通して垣間見える、強気なあの笑顔……桜色の髪の……。
「ありがとう……。嬉しいわ……総一……」
幻影に向かってか、卑しい笑顔にただ頷く。虚ろな瞳で優しく囁くように語り掛ける文香の恐ろしい声すら聞こえずに……。生気の抜けた互いの双眸がそれぞれ、総一を、そして文香を狂わせていく。
やがて互いの吐息が聞こえるくらいの距離へと迫ると、文香は凭れかかるかのように総一の頬に左手を添える。
「ああ……総一……!」
少し背の高い総一を見上げると、文香の虚ろな瞳から涙が零れ落ちる。自身を受け入れてくれたその姿が限りなく愛おしくなり、総一を抱きしめるかのように身体が吸い寄せられていく。
「あたしと一緒に、死んで……!」
狂気を含んだ甘い問いかけに、総一はゆっくりと頷く。その仕草を見て安心したのか、文香は歪んだ薄笑いを浮かべつつ、撫でるように左手を総一の頬から首に回し、自らの身を預けようとする。
「愛してるわ、総一……」
理性を失ったテロリストは目の前の存在に口づけようと、徐に顔を近づける……。ヒールを履いた足首が張り、互いの唇が触れようとする瞬間……文香は最後の楔を打ち込むべく、ナイフを手にした右手を勢いよく総一に向けて突き出――
――今、そっちへ行くよ……優希……。
「だから、御託を並べてねえでさっさとやっちまえっての。どうしてか、悪党って奴は冥土の土産とばかりにベラベラまくし立てて余計な時間を与えちまうんだよなぁ……で、失敗するわけだ。クックック……」
最新鋭の機材に囲まれた部屋の中央に陣取る青年は、悠長に煙草を吹かしながらさも楽しそうにモニターを眺める。それは全てが思い通りになるとでも言いたげな余裕を醸し出していた。
「ったく……くだらねえ三文芝居を長々と見せやがって。お前さん、女優としてはともかくテロリスト失格だぜ。昼ドラみてえな愛憎劇なんざ今日日流行らねえんだよ。これなら、まだ小僧とゴスロリ女のラジオドラマの方が数倍マシだったぜ……なぁ? 金持ちさんどもよ?」
獲物を見つけたかのような鋭い目つきで画面を睨むと、彼は包帯を巻いた左腕を撫で始める。
――さあて、フィナーレの幕が上がるぜぇ……!