昔、村上春樹の小説で、己の世界から青色が消えてしまった人の話を読んだことがある。カミングセンチュリーの狂騒の中、視界から青という青がすべて消えてしまいうろたえる主人公、理解できない、しようともしない周囲の人々。笑いどころがあるわけでもないのに読んでいてにやにやしていた記憶。
いま、俺の前に広がっているのは白と黒だけで構成された世界。モノクロ写真のような、色をなくし、鮮やかさを失った世界。
会場に次々とやってくる人に頭を下げる。悲しみを湛えた顔、『この度は…』悲痛そうな声。事務的に頭を下げて、上げて、下げて。
「京太郎さん、そろそろ」
「はい」
声をかけられて、俺も会場に入る。白黒の世界、白のバリエーションが拡がる。明るい白、暗い白、黒。
ぴかっ。急に光が眼に飛び込んで、俺は反射的に目をとじる。そろりと瞼を開けば、光源は会場前方に鎮座まします禿頭。
俺は禿頭のいる前方まで進み、禿頭に頭を下げる。禿頭も立ち上がってお辞儀を返してくる。
禿頭の横に設えられた椅子に座り、前を向く。花、白い箱、額に入った写真。笑顔の彼女は、もういない。禿頭が仕事を始める。
儀式は滞りなく進んだ。最後にあいさつを求められて、俺はマイクを持って会場の前に進み出る。
「本日はお越し頂きありがとうございます。喪主の須賀京太郎です」
言葉が続かない。認識が追いつかない。
「…故人は大阪の出身ですので、参列いただいた皆様の中にもはるばる大阪からお越しくださった方が大勢いらっしゃると思います。お手数おかけしすみません」
どうにか頭を回し、たわいもないことをだらだらと喋っている。
「…故人は…生きようとしていました…最後まで…命尽きる、その瞬間まで…『まだ、生きていたい』と…申しておりました…残念でなりません。ありがとうございました」
俺は何を言っているのだろう。ぼんやりしたままあいさつを終えると、そこら中からすすり泣く声が聞こえてきた。
悲しみをかきたてる音楽が流れる。「それでは、最後のお別れを」儀式も終盤、人々が白い箱のまわりに集まる。
箱のふたを開く。白装束で横たわる彼女。花が次々と入れられ、ふたが閉じられる。
4人ほどと協力して箱をかつぐ。肩にずしりとのしかかる重み。消えた命、残された抜け殻の、重み。
躓かないように足元を見る。ぽとり、靴に滴った一滴は汗か涙か。
外に出る。黒塗りの霊柩車。頼んでわざわざ回してもらった、今や貴重な宮型霊柩車。
「葬式の時、霊柩車が来るやろ?うちな、あのお堂みたいのが乗ったキラキラしたやつ好きやってん」
彼女の声と笑顔が、浮かんで消える。
「では、斎場にまいります。皆様はこちらでお待ちください」
頭を下げて、霊柩車に乗り込む。焼き場にはだれもついてこないように頼んである。
ふあぁん。クラクションを鳴らして、車が走りだす。
車の中。運転手を除けば、車内には俺と禿頭の二人だけ。
「…ここで停めてください」
運転手に声をかけて、丘の上で車を停めてもらう。禿頭が怪訝そうに俺を見る。
「ここ、怜とよく来たんです。春は桜が綺麗で、風も気持ち良くて」
「…そうか」
禿頭が頷く。俺は目を細めて、窓から見える桜の木を眺める。
「…ありがとうございました、出してください」
斎場。係員がキャスターを持ってこちらへ向かってくる。霊柩車の観音扉を開き、棺を乗せる。
炉の前にやってくる。扉の横に「No.3 須賀家」と書かれたプレートが付いている。
禿頭がお経を唱える。俺は棺に手を合わせ、目を閉じる。
「それでは、最後のお別れを」棺のふたが開けられる。花にかこまれて横たわる怜は、今にもにんまり笑って起き上がり、「ドッキリぃ〜」とでも言いそうなくらいに顔色がいい。けれど、俺が合わせられた手をとると、生きていてはあり得ないほどひんやりとしている。
合わせられた手をほどき、左手の薬指に残されていた指輪をそっと抜き取る。手を離して一歩離れると、禿頭が棺のそばに来て、懐から一通の封筒を取り出し、手の下に差し込んだ。振り返って俺を見て、「なんもしてやれへんかったな、結局」と寂しそうに微笑む。
怜の顔を見つめる。言葉に表せない思いが胸をかき乱して、俺は屍となった彼女にくちづける。温かみを失った彼女の唇。
思いはさらに暴れまわり、俺はぎゅっと目を閉じる。抑えられずに、涙があふれて流れ落ちる。
棺のふたを閉じる。係員がキャスターを操作して、棺が炉に吸いこまれる。
「どうぞ」係員がボタンを示す。遺族に点火させるのか、と戸惑いを覚える。
ボタンに歩み寄り、深呼吸。指をボタンにあてて、瞳を閉じて。
__さよなら。
そっと、ボタンを押した。
振り返ると、ちょうど禿頭が膝から崩れ落ちそうになっていた。あわてて駆け寄る。
野獣の咆哮のような嗚咽。いま僧侶としての仕事を終えた禿頭__義父は、己の娘の死を悼むひとりの男として、感情に身を任せただ泣いていた。
「なんでや…なんでや怜!なんでこんな早うに…わしら残して逝ってもうたんや!親不孝もんや…親不孝もんやぁ!」
ずっと抑えてきた悲しみを叩きつけるように、ぶちまけるように叫ぶ義父。俺はただ黙って彼を抱きしめる事しかできなかった。
コマ送りのように、彼女の記憶がフラッシュバックする。幼き日、初めて出会ったとき。麻雀を教えてくれたとき、無垢な笑顔。進学先を迷っていたとき、真剣な表情。病に倒れたとき、苦しみの顔。インハイで最強の敵に見えたとき、不敵な笑み、疲れた表情。友人から恋人になったとき、いたずらっ子のようなにやにや笑い。はじめて体を重ねたとき、痛みをこらえた儚げな微笑。証の指輪、誓いのキス。息をひきとる瞬間、こぼれおちた一粒の涙__。
感情の防波堤が崩れる。
ああ。もう彼女はいない。彼女に触れる事も、話しかけることも、笑い合うこともできない。
俺は義父を抱きしめたまま、感情を吐き出す。二人の男の悲しみが、斎場にこだまする。
二人で骨を拾う。かしゃり、かしゃり、壺に入れた骨がぶつかって音を立てる。
係員が骨で満たされた壺を白い箱に入れる。俺は黙って箱を受け取り、係員に頭を下げる。
そして、1年が経った。
大阪。怜の実家の寺に、彼女の墓はある。京太郎は墓の前で手を合わせる。左手の薬指には、ダイヤの嵌まったプラチナの指輪。
二人の結婚指輪を溶かして一つの指輪につくりかえ、怜の遺骨から作った人工ダイヤを嵌めたものだ。
もう、1年か。つぶやいて、京太郎は空を見上げる。太陽が傾き、赤みのさしはじめた空に、怜の笑顔が浮かんだ。気がした。