サヨウナラから始めよう   作:駄犬@

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サヨウナラから始めよう

天気は予報通りとは行かなかった。

 

当然傘など持っていないせいで、折角の楽しいデートが台無しである。

お互い休みも取らずに日程を調整した久々の休暇は、最後の最後に天候に裏切られる結果となった。

 

しかし、久はそれでも久し振りに顔を突き合せる恋人との細やかな幸せを噛み締める。

 

この日の為に必死に見繕った一張羅を降り注ぐ雨に晒しながらも、

久は顔のにやけが止まらない程に、心を舞い上がらせていた。

 

水溜りを靴で盛大に撥ね退けながら、何とか久の住むマンションの玄関に着いた時には、二人して濡れ鼠が可愛く見えるほどに全身水浸しであった。

 

久は、バッグの中に入れておいたお陰で、水難を免れたハンカチタオルを取り出して

気休めにでもなればと恋人の顔を拭こうと手を伸ばす——

 

——が、ハンカチが頬に届くことはなく

ハンカチを握る手は虚空を彷徨う。

 

「え?」

 

想定外の出来事に、動揺を隠そうともせずに素っ頓狂な声を上げた。

ちらりと視線を落とすと、コンクリートに濡れた靴底が描いた押絵から恋人が後ろに下がったのだと合点がいった。

前髪から水滴を滴らせたまま顔を俯かせる、恋人の只ならぬ様子。

久はその場を取り繕うようにわざと明るい声を上げる。

 

「えっ?ちょっと、どうしたのよ?」

 

きっと、この恋人は自分をからかっているのだ。

きっと、そうに違いないと久は自分に言い聞かせる。

それでも、恋人の口から久が期待していた返答はない。

 

替わりに、昔話を紡ぐかのように訥々と語られた恋人の言葉、

〝ソレ〟は久から容易く思考力を奪い去った。

何を言われているのか、理解できない。

 

——理解したくない

 

久はひたすらにかぶりを振る。

得体の知れない、ぬめりを伴った〝ソレ〟を否定するように。

 

そんな久の様子に恋人はその場を後にした。

震える唇で心から溢れたように一言だけ言葉を遺して。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎——」

 

**********

 

耳を劈くような強烈な悲鳴を上げる携帯を、

目を閉じたまま探り当て何とか黙らせる事に成功する。

 

霞む視界の中で確認した携帯のホーム画面には、

起床の時刻を示す憂鬱な数字の羅列が浮かび上がっている。

 

そのままもう一度睡眠に没入したい欲望を、あらん限りの精神力で押さえ込む。

ベッドの上でゆっくりと上半身を起こすと、

途端にこめかみを万力で締め上げられたような痛みが走った。

規則的に頭に響く鈍痛は、覚醒しきらない脳を薄いまどろみから無理やりに現実へと引き上げる。

 

二日酔い、ある意味社会人の勲章とも言えるその現象に

久は、大きく溜息を吐きながら恨み言にも似た言葉を、誰にともなく喉の奥から絞り出す。

 

「あったま……いたぁ……」

 

申し訳程度に身体に引っ掛かる掛け布団を引き剥がして立ち上がると、

ずり落ちた下着の肩紐を、指先で摘み上げながら洗面所へと向かう。

 

通勤用のスーツのままベッドにダイブしていなかったのは幸いと言えるだろうが

今、この洗面所の鏡に映る自分の顔は、如何ともしがたいものがある。

寝る前に落とさなかったせいで崩れた化粧の下に見え隠れする荒れた肌と、

睡眠不足で浮腫んだ顔は、さながら試合を終えたボクサーのようだ。

 

こんな顔を誰に見せられると言うのだ。

久は顔を引きつらせ、慌てて化粧を落とさんと蛇口を捻った。

 

*****

 

熱いシャワーを浴び、制限時間内で出来る限りのケアを施したお陰で

幾分かはマシになった顔で電車に揺られる。

 

何とか、マスクで出勤といった情けないことにならなくて済んだのは不幸中の幸いだったが、

都会の電車、と言うのは二日酔いの身には中々に堪えるものがある。

 

二日酔いの人間のための優先席、があっても良いのではないか。

取り留めのない思考を頭の痛みで霧散させながら、久は満員電車を内心で呪う。

 

そうして、電車の中で雨の湿気と共に揉みくちゃにされている内に会社最寄りの駅に着く。

人垣を掻き分けながらやっとの思いで電車から降り、

そのまま人の波に身を任せ改札へ向かう。

カバンから慌てて取り出したICカードの定期をかざし改札を抜け外へ出ると、

もう勤務先の商業ビルは目と鼻の先である。

 

何となく見覚えのある上司や同僚とうんざりとしながら挨拶を交わす。

会社の自動ドアを抜けると感じる、涼やかで無機質な風。

エアコンの効いたエントランスの空気は、二日酔いの身体には少しだけ心地がいい。

夏の雨天の外気に蒸されて、珠のような汗がじっとりと滲む額を久はハンカチで軽く拭った。

 

ふと受付を見やると、如何にも外面だけで採用されたような受付嬢2人が、

ぺちゃぺちゃと喋りながら手鏡で化粧の確認をしているのが目に入って来る。

久は、その2人に小さく舌打ちを一つくれてやると、

腕の時計を一瞥してオフィスへ向かうべく足を早めた。

 

*****

 

整然と並んだ社員の前で声も高らかに喋る上司。

それをいつも以上に聞き流して、

朝礼が終わった瞬間に久は自らの机に突っ伏す形でデスクに上半身を投げる。

 

朝一から仕事を放棄したような久の振る舞いに、

隣の同僚が目を剥いてこちらを伺っているが、

そんな瑣末なことは歯牙にも掛けない。

 

「うあー……」

 

そのままの体勢で一人唸っていると、突然顔の前で響く鈍い音。

目を開けると、見慣れた赤いマグカップが目の前に置かれていた。

オフィスの照明を受けて安っぽいプラスチックのように表面を光らせるそれは、

去年の冬に久自身が購入した私物である。

蜘蛛の糸を引っ張り上げるように立つ湯気と香る豆の匂いのお陰で、

その中はコーヒーで満たされているのだと分かった。

 

「二日酔いですか?」

 

シャキッとして下さい、と久の視界の外から溜息混じりに説教をするのは、

久の後輩社員である二条泉——

 

彼女はインターハイで活躍した関西の選手。

その彼女が入社して来た時には、偶然も面白いものね、と独りごちた覚えがある。

お互い面識は無かったけれど、泉の竹を割ったような性格のお陰で、

直ぐに打ち解けて今では夜な夜な杯を交わす仲にまでなった。

 

久は、折角の後輩の好意に甘えんと、

漬け物石を乗せたようにずっしりと重い頭を、ゆっくりと持ち上げる。

 

マグに入れられたコーヒーの香りが、久が身体を起こした事によって一層鼻腔を擽った。

気休め程度に2度3度と息を吹きかけて一口啜ると、

インスタントの物とは思えない芳醇な芳ばしさを孕んだ、程良い苦味が口腔に一気に広がる。

 

それを、ゆっくりと口の中で転がすように味わいながら嚥下する。

一口をたっぷりと時間を掛けて味わった所で両手ごとマグを机に置き、

泉の方に久は向き直る。

 

「ありがとう、やっぱりバリスタのコーヒーは最高ね」

 

仕事しろって言われてるみたいだわ、

と、久は嘆息混じりに軽口を一つ添える。

 

「ソレも、ありますけどね?」

 

眉を顰めて腕組みをする後輩に軽く切り返されてしまって、

久の顔には自然と笑みが零れる。

泉の気遣いとコーヒーのほろ苦さに、

久は頭痛がなんとなく和らいだ気がした。

 

*****

 

終業時刻が迫って来る頃には、今朝から引き摺っていた頭痛——

もとい二日酔いもすっかり影を潜めており

久はデスクワークを黙々とこなしながら、その瞬間を今か今かと待ちわびていた。

オフィス全体の空気が、何処か浮ついて感じるのも同じ理由だろう。

 

始まるカウントダウン。

秒針が頂点にゆっくりと近づいて行く。

 

高まる緊張で胸が早鐘を打つのが分かる。

秒針の動きに合わせて指先で机を静かに叩く。

 

そして迎える歓喜の瞬間——終業時刻。

 

年季の入った椅子から弾けるように立ち上がり、

同僚への挨拶もそこそこに、久が一目散に向かったのは泉の席。

旋風のように近づいてきた姿に、彼女はビクリと肩を震わせて訝しげな表情を浮かべる。

 

「なんですか?そない慌てて……」

 

「何よ、つれないわね?だから貴女はいつまで経っても独り身なのよ」

 

ほっといて下さい、と頬を膨らませる泉の腕を引っ張るようにして、

慌ただしく二人はオフィスを後にした。

 

 

*****

 

二人が訪れたのはいつもの見知った居酒屋。

すだれなど一切なく、ワンフロア何処でも見渡せる店内は、

テーブル備え付けの七輪で焼肉を食べながらアルコールを楽しむという単純明快なスタイル。

 

華金のこの時間、店内は仕事帰りの社会人で溢れていた。

運良く待ち時間なしで案内された席で、泉が久の対面に座るが早いか口を開く。

 

「センパイ……大丈夫なんですか……?」

 

「大丈夫って、なにがよ?」

 

彼女の目から放たれる心配そうな視線を他所に、

少し脂でベトついたメニューを捲り始める。

 

「人の心配は良いから若者は食べて飲みなさい!これは先輩命令よ!」

 

近くを通りかかった店員を呼び止めてハイボールをオーダーしながら、

びしりとそう言い切った先輩社員に泉は曖昧な返事を返すことしか出来ず、

おずおずと注文を口にする。

 

「あ、じゃあレモンハイを……」

 

「後、飲み放題にしてね、それとこの3500円のコースを」

 

後輩に遠回しな〝飲め〟宣言をして、

久は傍らに置いた箱から紙巻を1本引き抜いて火を付けると、

満足そうに口からゆったりと煙を吐き出した。

 

*****

 

耳を劈くような強烈な悲鳴を上げる携帯を、

目を閉じたまま探り当て何とか黙らせる事に成功する。

 

霞む視界の中で確認した携帯のホーム画面には、

起床の時刻を示す憂鬱な数字の羅列が浮かび上がっている。

 

そのままもう一度睡眠に没入したい欲望を、あらん限りの精神力で押さえ込む。

ゆっくりと上半身を起こすと、途端にこめかみを万力で締め上げられたような痛みが走った。

規則的に頭に響く鈍痛は、覚醒しきらない脳を薄いまどろみから無理やりに現実へと引き上げる。

 

「あったま……いたぁ……」

 

昨日に引き続いて完膚無きまでの二日酔い。

 

休日だというのにいつもの時刻にアラームを掛けた自分に辟易しながらも、

酷い胸焼けと頭痛のせいで否応無く目が醒めてしまう。

久はベッドに寝そべったままカーテンに目を移した。

 

普段であればもうカーテンの隙間から溢れた日光が目に眩しい時間帯である筈だが、

今日に限ってそれが無い。

 

久が不審に思い意識を外に向けると、

しきりに窓が何かにノックされるような音が、聴こえてくるのに気が付いた。

 

「雨かぁ……」

 

ハンマーで小突かれるような頭痛に堪えながら

久がベッドの上で身を捻ると、机に置かれた1枚のメモが目に入った。

 

ベッドからよろよろと重い頭ごと身を起こし、ぼやけた視界のまま目を走らせると、

蚯蚓がのたくったような線ではあったが確かに後輩の字で、

ご馳走様でしたーーとだけ短く綴ってある。

 

いつの間にか寝巻きに着替えている自らの格好と、部屋の隅に丁寧に畳まれた洋服から察するに、どうやら今回は後輩にまで迷惑を掛けてしまったらしい。

自己嫌悪で更に重くなったような気がする頭を抱えていると、ふいに目線を感じる。

 

ハッとして、その方向を見ると古びた1枚の写真が目に飛び込んで来た。

 

ゆっくりと立ち上がり、壁に掛かるコルクボードからそれを縫い付けているピンを乱暴に抜き去ると、写真は枯葉のようにひらりと虚空を舞う。

 

赤茶けた写真の中の2人の輝く笑顔が、

鋭利な刃物のように心に突き立たてられたせいなのか、久は全身を強張らせる。

 

半年前に撮られた

その〝たった1枚の写真〟

その〝たった2人の笑顔〟

 

喉が腫れた様な感覚にうまく呼吸が出来ず、胸が酸に焼かれたように熱を帯びる。

言葉の代わりに喉から溢れた嗚咽は、涙となって流れ落ち、床に横たわる写真の上で飛び散った。

 

*****

 

出逢った日、

 

出掛けた場所、

 

交わした言葉、

 

過ごした時間は忘れようとすればするほど鮮明に蘇り、

今日の今日まで片時たりとも忘れたことなどない。

 

いや、忘れることなど出来なかった。

 

部屋の中を見渡せば、狭い箱の風景はあの頃から何も変わっていない。

2人分の食器、洗面台のコップに刺された色違いの歯ブラシ、

日捲りのカレンダーすらも日付を進めるのを止めてしまっている。

我ながら諦めの悪い、とも思うがあの人が最期に口にした

〝◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎〟の一言が、心に火傷の跡を残したように消えてくれない。

 

これが、しがみ付きの恋ーーなのだろう。

 

久がベッドを背もたれにして火の付いた煙草を咥えたまま、

床に落ちたままの写真をぼんやりと眺めていると、

気付いた時には時計の針は既に正午を回っていた。

規則的に傾いては立ち上がる秒針は、動きを止める素振りさえ無く、

狭い円盤の中をひたすら駆け巡る。

 

煙草が逆さまに『生えた』ようになっている灰皿に、咥えていた煙草を捻じ込むと

糸を切られたあやつり人形のようにかくりと体育座りに組んだ膝に頭を乗せた。

 

身体を包む倦怠感は、まだ少し残るアルコールのせいだけでは無いだろう、

静かな部屋に響く雨粒が、ガラスに当たって弾ける音は孤独感を加速させた。

 

ふと、ぱたぱたと続く雨の音に不協和音が混じり込む。

何かが小刻みに震える様なその音は、枕元に置いた携帯への着信であった。

 

久は一旦無視を決め込むが、あまりにも長い呼び出しにとうとう痺れを切らし、

眉を顰めて携帯の通話のボタンを押す。

 

もしもし、と僅かに緊張を滲ませて聞こえてきたのは後輩の声。

 

「あ、寝てはりました?すんません」

 

「起きてはいたわ、一応ね」

 

「なら、良かったです、昨日のお礼を改めて言いたくって……」

 

礼を言うのはこっちの方だ、と久は彼女の気遣いに心の底から感謝した。

 

——尤も、それを口にすることは無かったが。

 

「それと……」

 

電話の向こうで急に声のトーンを落とした後輩が何かを言い淀んだのに、首を捻ると臙脂色の髪の毛がするりと肩を流れる。

 

「どうしたの?らしくないわよ」

 

「あ、いや……昨日もかなりハイペースで飲んではったんで、大丈夫ですか……?」

 

何と、二日酔いの心配までしてくれているらしい。

 

昔から後輩には恵まれてはいたが、

やはり元々そういう星の下に産まれたのだろう

久は自嘲気味に小さく笑い声を上げた。

 

「どうしたんです?急に笑って……」

 

「あぁ……いえね、本当に貴女ってかわいい後輩だわ」

 

茶化すような久の口振りに「からかわないで下さい」と電話口で抗議する後輩は一つ咳払いをして、いかにも本題、といったように話しを切り出してきた。

 

「それで、昨日の今日でアレなんですが、今日の夜とかお時間ありますか?」

 

「あら、泉からのお誘いなんて珍しいわね?まだ少しお酒残ってるんだけどなー?しかも雨、降ってるし」

 

「それは、OKっちゅうことでええんですね?」

 

この後輩も自分に対する大分接し方が分かってきたのだろう、

久は再び、小さく笑いながら泉の誘いを快諾した。

 

*****

 

久が泉に指定された集合場所は、駅の裏路地にある一見寂れた赤提灯の店である。

 

もう入ってます、と言うSNSのメッセージを確認すると、

久は店を目の前にして何かを確認するように深く息を吐いて傘を閉じ、年季の入った暖簾をくぐった。

 

店内に入ると最初に久の目に飛び込んできたのは狭い店内と、

いかにも大将と言わんばかりの風貌の男性が、

カウンターの奥で黙々と何かの具材を竹串に刺している姿。

 

慣れない雰囲気の店内と炭火に脂が焦がされる臭いに気圧されて

久が忙しなく店内を見渡していると、

カウンターの一番奥で手を振る後輩の姿を視界に捉える。

 

「すんません、雨の中呼び出してもうて、隣どうぞ」

 

促されるままに久が席に着くと同時に、目の前に白い陶器製の小鉢が置かれた。

ぶっきらぼうに置かれたその器の中には、

根菜と蒟蒻が黄金色の出汁に身を浸らせ、その上に刻み葱がたっぷりと盛られている。

 

その中の銀杏に切られた大根を一つ箸で摘み上げ口に入れると、

大豆の旨味が溶け出した塩辛いだけではない醤油と大根の甘さが口一杯に広がった。

 

「やだ……なにこれ……すっごい美味しい……」

 

図らずも、久の口から感動が溢れる。

その様子を隣で笑いを噛み殺しながら見ていた泉が、してやったりと口を開く。

 

「でしょ?ここの大将、愛想は悪いけど腕は最高なんですよ」

 

ばかやろう、とカウンター越しに叱られて、

泉は久にしか見えない角度でペロリと舌を出した。

そのやり取りから、泉が相当足繁くこの店に通っていることが窺い知れる。

 

大将から飲み物の注文を催促され、いつもの、と後輩が声を張ると、

透明な液体がなみなみと注がれたグラスが目に前に置かれ、

隣には後を追うように長方形の皿が並べられた。

その長方形の舞台の上では、竹串に身を通した鶏肉がブラウンのドレスを纏ったように、

その身を光らせている。

 

鳥の脂とタレが炭火に炙られて漂わせる匂いに釣られて、

誘われるように久の手が伸びる。

炭火で熱された竹串の持ち手を、指先に力を込めながら持ち上げ、

先端の一切れに思い切りかぶり付く。

 

一度咀嚼した所で、思わず久は目を見張った。

 

口に入れた瞬間の鶏身の柔らかさ、素材の甘み、

濃ゆさを持ちながらも決してくどくない絶妙な調合のタレ、

程よく火の通ったこの鳥のもも肉は正に絶品であろう。

 

久は呆然としたまま、水面を鏡のように煌かせるグラスに手を伸ばし、静かに口を付けた。

この独特な香りは恐らく芋焼酎なのだろうが——

 

ーー癖が全く感じられない。

 

焼き芋を溶かして混ぜ込んだような甘みが、鼻腔まで一気に抜けて行くと同時に、

仄かに残る、熟成された強くも柔らかいアルコールの余韻。

 

串とグラスをそれぞれ定位置に戻し、久は目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

 

「負けたわ……」

 

「別に、勝負とかしてないですやん」

 

それに、と彼女は続けた。

 

「たまには、ゆっくり飲むのも良いもんでしょ?」

 

そうね、と頷きだけで返し、久は冷えない内にと串の二切れ目を口に運ぶと、

そのまま最後尾まで勢い良く頬張った。

 

余程の隠れた銘店なのだろう、この店を見つけた後輩の目敏さに久は舌を巻く。

他に客が入る様子もない店内では、テレビから聞こえるスポーツニュースの音声と、

大将がカチャカチャと食器を洗う音しか聞こえて来ない。

二人の間に、いつの間にか揺蕩っていた沈黙を破ったのは泉だった。

 

「センパイ、もうヤメにしませんか……?」

 

一転して真剣味を孕んだ彼女の声色に、

久はグラスを手に取り一口喉に流し込み、首を捻る。

 

「言ってる意味が分からないわね?私が何をヤメればいいのかしら?」

 

彼女の質問の意図など分かっていた。

今の返答は空返事にも等しいものだったが、

泉の言葉にざらつく心が、素直な返答を許してくれなかったのだ。

 

そんなことはおくびにも出さず、

軽口の一つでも言ってからかってやろうかと久は顔を上げる。

その目に飛び込んで来たのは普段の溌剌とした彼女からは想像も出来ないような、悲痛な影を落とした後輩の顔。

 

唇を縫い付けたように固く結び、

僅かに震える彼女の瞳は凪を沈めたかのように揺らめいている。

 

その表情に久が息を詰まらせると、

独り言のように先程の言葉を語気を強めて繰り返した。

 

「センパイ、もう、ヤメましょう」

 

*****

 

「別に、泉には関係」

 

ないじゃない、と久が言い掛けた所で、

泉が、置いていた拳を机に乱暴に叩き付け立ち上がる。

傍のグラスに注がれた焼酎の表面が、石を投じたように波紋を広げる。

 

「あります!大ありですよ!毎日毎日、二日酔いで会社に来てはマトモに仕事はしないで!顔色は悪いし、最近は碌にご飯も食べてないでしょう!?」

 

唾を飛ばしながら、捲し立てる後輩。

座ったままぽかんと口を開けて聞いている久に、泉は更に詰め寄る。

 

「もうヤメましょう!そんなセンパイ、私が見たくないですから、これでも、めちゃ心配してるん、ですか、ら……」

 

尻すぼみに弱くなる語気とは裏腹に、

彼女の目に煌々と宿る決意の色と頬を伝う白銀の雫。

決して明るいとは言えない店内においても、久にはそれが何であるかよく分かった。

 

そこまで言い終わって、泉は椅子にどかりと座り直し、

目の前のグラスを引っ手繰るように掴み上げて一気に呷る。

 

大将につくねと軟骨、更に焼酎をロックで頼んだ後、

鬱憤を晴らすかのように、突き出しの小鉢の中身を行儀悪く箸で掻き込んだ。

 

後輩の吐露した烈火の如き感情を深く噛み締めながら、

久は何故だか胸に湧いてくる埋み火のような暖かさに目を細めた。

 

*****

 

「ほら、しっかり歩いて?」

 

「あるいてますよー」

 

あの後、1人ハイペースで飲み続けた泉は、なんのことはない——

 

1人で酔いつぶれ、事もあろうに自ら説教をした久の肩を借りたまま、

呂律も怪しくそう答えた。

夜も随分と深まり、二人が歩く繁華街も雨のせいもあるのか人影も少なく、

夜空を彩り光るネオンだけが寂しげに瞬いている。

 

こうして1本の傘を2人で使いながら肩を組んでいると、

あの人が同じように酩酊してしまって

一人では歩けなくなっていた時のことを思い出す。

 

あれはちょうど半年前ほどだったか。

下戸な癖に無理して飲んで、挙句に脚も立たなくなるほどに酔っ払っていたあの人。

瞳を酔いに潤ませながら、金色の髪を揺らしてふらふらと歩いていた姿が脳裏に浮かぶ。

 

時折苦しげに呻き声を上げる後輩の横顔を、

久が覗き込むとアルコールのせいか、

顔は紅を塗りたくったように赤く火照っている。

 

この様子では、この後輩は明日の貴重な休日を頭痛と供に過ごす事になるだろう。

経験則から導き出した答えに、久にはこの後輩がとても気の毒に思えてくる。

 

暫く無言のまま歩いていると、泉が何事かを呟いているのに気が付いた久は、

肩を貸したままの後輩の口元に耳を寄せる。

 

「せんぱーい、もうやめてくださいねー?」

 

ふにゃふにゃと譫言のように繰り返す後輩の言葉を反芻して、

久は、隣で醜態を晒す後輩に聞こえるのすら憚るように小さく、

誰ともなしに感謝の言葉を口にした。

 

「ありがとう——」

 

*****

 

週の始めの月曜日。

降り続いていた雨も止み、朝は空気も冴え渡っている。

 

そんな秋の気配すら漂う職場に意気揚々と現れた久の姿に、

泉は危うく口に含んでいたコーヒーを噴き出しそうになるのを寸前で堪えた。

 

無理もない、胸の辺りまであった髪の毛は今や肩口まで切り落とされて、

これまで律儀にスーツでの出社を使命のように繰り返していた彼女が、

今日に限ってはドレープを効かせた白いブラウスに、

ウエストを強調する黒いペンシルスカートで現れたのだ。

 

その変貌ぶりには彼女だけではなく、

オフィスにいた誰もが度肝を抜かれたことだろう。

現に泉の前に机を並べる同僚などは、

取り落としたボールペンを慌てて拾っている最中である。

 

「おはようございまーす!」

 

普段とは違う清廉な声が、高らかにフロア全体に響き渡る。

高らかに朝の挨拶を済ませた久は、踊るように軽やかな足取りで自らのデスクに付いた。

 

鳩が豆鉄砲を食らったように静まり返ったオフィスは、

責任者の朝礼の号令と共に俄かに音を取り戻していった。

 

*****

 

朝礼が終わると同時に、

泉は呑気に給湯室でコーヒーに舌鼓を打つ久を見つけて駆け寄る。

 

「センパイ!どうしたんですか!?何かあったんですか!?」

 

後輩の尋常ならざる表情に、久は驚いて目を白黒させる。

 

「何かって……貴女が言ったんじゃない……?」

 

淹れたばかりのインスタントのコーヒーを、上質なワインの様に優雅に口に運びつつ語られた、久の予期せぬ返答に泉は呆気にとられて目を見開いた。

 

「え……?」

 

「だーかーら、貴方が言ったのよ?『もうやめて下さい』ってね……?」

 

久は手にしたマグを置き、だらりと下げた掌を組んで続ける。

 

「あれだけ、真剣に泣き付かれたら私だって思うところ位あるわよ……でもまぁ、そんなことより単純に嬉しかったし貴女が気付かせてくれたのよ、このままじゃダメなんだってね」

 

組んだ掌を解き、何処か落ち着かない様子で久は頬を掻く。

 

「だからね?もう、止めることにしたわ、これは私なりの意思表示ってワケ」

 

スカートの裾を摘んで仰々しく一礼すると、

泉を一人残して、久は給湯室から足早に出て行った。

 

*****

 

久はデスクワークを黙々とこなしながら、

その瞬間を今か今かと待ちわびていた。

オフィス全体の空気が、何処か浮ついて感じるのも同じ理由だろう。

 

始まるカウントダウン。

秒針が頂点にゆっくりと近づいて行く。

 

高まる緊張で胸が早鐘を打つのが分かる。

秒針の動きに合わせて指先で机を静かに叩く。

 

そして迎える歓喜の瞬間——終業時刻。

 

久が椅子から発條のように跳び上がり一目散に向かったのは、

泉の席——ではなく。

 

オフィスへの出入り口。

 

「お疲れ様でした!」

 

と、いつに無く豪放に言い放たれた退勤の挨拶は、

今朝同様、オフィスの時間を止めてしまうには十分過ぎるほど晴れやかな気色を孕んでいた。

 

オフィスの入る商業ビルを一歩出て天を仰ぐ。

そこには自らの髪のように臙脂に染まる空が、林立する摩天楼の間を縫って広がっている。

夏も終わりを迎えるこの時期は、夜を迎える時間帯ともなれば肌寒さすら感じさせる。

 

久は、思い切り背伸びをしながら大きな欠伸を一つ噛み殺した。

 

*****

 

オフィス街を抜け繁華街に出ると、仕事終わりの社会人や学生の姿で溢れている。

その雑踏を鼻歌交じりにすり抜けながら、

手頃な雀荘を物色していると道の向こうに見えた人影に、久ははたと脚を停めた。

 

見間違える筈がない。

歩きに合わせて揺れる金色の長い髪、

十字を切ったように特徴的な睫毛に縁取られたアメジスト色の瞳。

その人物はあの日と変わらず、隣に立つ女性に笑みを送っている。

 

——昔、好きだった笑顔と全く同じ微笑みを。

 

そして深呼吸一つに歩き出した久と、かつての恋人の邂逅はついに成就し得ない。

 

貫かれた沈黙は、久から元恋人へ送られた『最期の言葉』

 

思い出は、所詮思い出にしか過ぎない。

それを気付かせてくれたのは他でもない、関西から来た後輩で。

彼女には、きっとこの先も頭が上がらないことだろう。

得意げな表情で胸を張る後輩を想像して、久は思わず吹き出す。

 

自分がいくら泣き喚き、いくらアルコールに溺れた所で、

あの言葉の意味も、あの人が考えていた事も分からない。

写真立ての二人はもう戻っては来ない。

 

だからこそ、過去と向き合って進むことを選択出来たのだ。

 

ーーそれが私の覚悟

 

繁華街の雑踏に紛れ、消えていく二人を振り返る事もなく。

久は、既に夕まずめとなった空を再び仰ぎ見る。

あの人が置いていった『モノ』は、少しずつ捨てて行こう。

 

「サヨウナラ——!」

 

寂しげに、しかし力強く呟かれた言葉は、

喧騒に掻き消されて誰の耳にも入る事はなかったが、

久の腕を〝疼かせる〟には十分だった。

 

「よーし、打つぞー!」

 

もう、牌を握らなくなって久しいが、たまには気晴らしに打つのもいいかも知れない。

ワイシャツの裾を捲り上げて言い放たれた彼女の堂々たる宣誓は、夜の帳が下り始めた街に深く深く溶け込んで行った。

 

 

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