前2話の補完の補完になってない補完です汗
竜華さん視点で進みます。
アリガトウ〜と合わせて読むと、多分1.2倍位でわかり易いかと思われます。
朝、まだ街も寝静まる早朝。
竜華は独りベッドから身を起こす、最早アラームなど必要ない。
意識の奥に染み付いた時間の感覚は、定刻通りに脳を覚醒させる。
軽く伸びをしながら身体を解して、向かうのは浴室。
寝間着代わりの下着を脱ぎ捨てて蛇口を捻る。
昨日の夜にタイマーを掛けておいたお陰で、湯加減は良い塩梅だ。
シャワーの先端から勢いよく迸る温水に全身を濡らしていると、
巡る血流すら熱を取り戻したようで何とも心地が良かった。
彼女の髪の毛は清流に墨汁を垂らしたように美しく流れた。
その上を浴室の灯りに照らされた橙色に光る露が転がり落ちる様は、
漆黒の夜空に流星が幾条も駆けるかの如くである。
頃合いと見てお湯を止める。
暖かく心地の良いお湯に身を晒していたいのは山々だが、
迫る時間がそれを許してはくれない。
棚から取り出した仄かに洗剤の薫るバスタオルで、全身を拭き上げる。
竜華は蝶番の軋みを聞きながら部屋に戻り、化粧台の前に腰を下ろした。
なんでも、清水谷家の女性に代々伝わる嫁入り道具らしいそれ。
三面鏡を備えた古風な拵えの化粧台は、
殺風景な部屋の中にあって不釣り合いな大昔の遺物。
竜化が家を出る際に母がくれたシロモノである。
——嫁入り
その、随分と縁の無さそうな単語を脳裏で反芻し苦笑いを浮かべる。
それから、竜華は髪を乾かして化粧を施す為の下地作りに取り掛かった。
化粧水、乳液から始まり。
薄く取ったファンデーションをムラ無く塗り広げて行く。
不評だったしっかりしたアイメイクは避け、
施すのは自然で優しげな印象を作るブラウン基調のメイク。
ビューラーでまつ毛を緩やかに上を向かせ、グロスを引く。
暖かなピンクに色を変えた唇を2、3度開閉し馴染ませれば取り敢えず完成だ。
次は洋服。
クローゼットを開き、如何なる場所にも合うように揃えられた服を一つ一つ吟味して行く。
しかし、導かれるように手が止まったのは無地のブラウス。
襟に刺繍が入り首周りのみシースルーになっているそれは、竜華のお気に入りの一着である。
これを選んだ時は、黒のタイトスカートを合わせるのが彼女の流儀。
腰のファスナーを引き上げ、耳にピアスを通す。
首には入社祝いとして自分で購入した14金の細いネックレス。
これで準備は整った。
竜華は鏡で自分の姿を確認すると、よし、と小さく声を上げた。
*****
メーカーの社長付き秘書室勤務。
聞こえは良いが業務内容はどうかと問われれば、
竜華は間違いなく辛いと答えるだろう。
取引先の名だたる企業の社長達とも顔を合わせることも多く、
政治家主催のパーティーに出席することもある。
時と場合によって相応の着こなしが必要とされる上、
それなりの立ち居振舞いも要求される。
竜華自身、朝からクローゼットの前でうんうん唸るのはもう慣れてしまっていたが、
これをストレスと言わずになんと言えようか。
竜華は黙々と革巻きのハンドルを握る。
愛車はアルピンホワイトのBMW M4クーペ。
BMW M4をベースに〝M〟によってチューニングが為された、
シリーズ切ってのスポーツモデル。
『羊の革を被った狼』と評された先代E92型M3クーペの後継である。
竜華にとっては運転しにくいことこの上ない7速のデュアルクラッチトランスミッションと、
ボンネットの下に隠すのは直列6気筒ツインターボエンジン。
最高出力317kwを誇るそのエンジンは桁外れの431馬力を叩き出す、
掛け値なしのモンスターマシン。
日本の狭い行動では手に余るようなこの車に、竜華が乗っている理由は単純。
社長命令だから、である。
車検毎に車を乗り換えると言う人間もいるにはいるが、
竜華の会社の社長も得てしてその類の人間だったのだ。
かくして、竜華が車を持っていないことを聞き付けた社長がこの車を半ば無理矢理のように押し付けて来た、と言うのが事の顛末である——
とは言え、駆け出し社会人の竜華にこの車の車体額など到底払える筈も無い。
名目上の〝社用車〟を自由に使わせて貰っているに過ぎないが、
それもまた社内に敵を増やしてしまった原因になっていた。
しかし、竜華にとっては有難い提案だったとも言えよう。
機能的で洗練された内装は、竜華にイイ車だな——程度の感想を抱かせ、
電車での通勤を避けられる位には役に立ったからだ。
竜華は混み合う道に舌打ちを一つくれると、
カーステレオのボリュームを少しだけ上げる。
ラジオから流れるのは、
男性2組のシンガーが唄う失恋のバラードだった。
*****
雨で渋滞する、都内の猥雑な道を運転すること1時間弱。
会社併設の立体駐車場に車を停め、エントランスに足を踏み入れる。
するとオフィスに急ぐ同僚達の中で、見知った後ろ姿が歩いているのが目に入った。
雨に濡れたのだろう。
肩に掛けたバッグをハンカチで拭いている彼女に駆け寄り肩を叩く。
びくりと肩を震わせて振り向いたのは、上京して来てから出来た数少ない友人の一人。
相当に着回しているのだろう、皺の寄ったグレーのスーツを着込み、
濃紅の髪の毛に特徴的な団子を作っている彼女は同期の臼沢塞だ。
岩手の代表として3年時のインターハイに出ていたという同好の士である彼女とは、
こうして偶に顔を合わせては挨拶をし合う位には仲が良い。
僅かな時間ではあったが他愛もない会話をして塞と別れ、竜華は自らの職場へと急ぐ。
塞の追い縋るような視線には気付かないままに。
*****
「はぁ……」
社長を会合へと送り出し、缶コーヒーを片手に束の間の休息を嚙み締める。
贔屓にしているカフェのコーヒーとは比べるまでも無いが、
こんな時に限っては些か悪くないと感じてしまうのは何故なのか。
中身を飲み干して疲れ毎吐き出すように再び溜息を漏らすと、
傍に置いた携帯が着信を知らせているのに気が付く。
タッチパネルの液晶に浮かぶのは、こっちで出来たもう一人の〝友人〟の名前。
送られて来たのは、冷淡な程に簡潔な内容で。
画面に表示されたのは、時間を表す数字が四桁のみ。
「相変わらずやなぁ……」
竜華はそう独りごちて、承諾する旨の返信をする為に指を走らせた。
*****
部屋に散乱する衣服と、悲鳴を上げるベッド。
飽きもせず続けている、奇妙な関係。
竜華は身体の外も中すらも蹂躙されていた。
身体を這い回る長い舌は意思を持っているようで、
白く細長い指は内臓を掻き回している。
腹の底から湧き上がるような嬌声と快楽の波を抑え切れないまま、
竜華は〝友人〟の顔を盗み見る。
滾る情欲を宿らせながら揺らめく双眸は、憐憫に陰っているようにも見える。
やがて、熱鉄を流し込んだような感覚が全身の神経を一気に駆け抜ける。
大きく身体を痙攣させながら、竜華は四肢を力なくベッドに沈めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バーで声を掛けた金髪の女性は、桧森誓子と言った。
暗い顔のままカウンターで静かにグラスを煽る儚げなその姿。
あの人を重ねるには十分過ぎて、 声を掛けずには居られなかった。
——高校時代
ずっと隣に居てくれると思っていたあの人は、
いつの間にか私の元を離れてしまって。
きっと自分のことを好きでいてくれていると思っていたあの人は、
いつの間にか他のヒトと恋仲になっていて。
〝当たり前〟に甘えていた自分に絶望すら覚えた。
燻り続ける思いは行き場を失くし、道行く人にすらその面影を探し続けていた。
そして今日、遂に見つけた懐かしい面影の持ち主を見て、竜華の心に澱んだ感情が湧く。
「■■■■■……」
このヒトなら私の褪せた思いに、再び色を付けてくれるはず——
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ちょ……チ、カコ、激し、って……んっ」
腹ごなしに頼んだデリバリーのピザを二人で食べ終えた後、
再び始められたその行為。
竜華の制止を懇願する声は、快楽に圧されて言葉にならない。
誓子が求めてきた、窒息しそうな程に深い口付け。
絡め取られた舌が、口内で飴玉のように転がされ淫靡な水音を立てる。
「はぁッ……んっ……」
空調の切られた部屋で、誓子の額に浮かんだ汗が頬に墜ちた。
顔の窪みを伝って口の端までやって来たそれを、竜華は愛おしそうに舐めとる。
竜華は乱暴にずり上げられた下着を鬱陶しく思いながらも、
甘く湿った泥濘に次第に意識を沈め行く。
顳顬に溜まる絶頂の波が限界に達した所で、
竜華は誓子の身体を掻き抱くようにしがみ付いた。
ーーこの歪に爛れた関係の正体に、彼女は気付いているのだろうか。
*****
知っているし、分かっている。
誓子が私に何を求めているのか。
知っているし、分かっている。
誓子が私に何をして欲しいのか。
だが、〝私が〟彼女にも何かを〝求めている〟ことなど誓子は夢にも思わないだろう。
だからほら、今日もこうして私を気遣い、彼女は静かに布団を抜け出すのだ。
私の胸の内に巣食う汚い一面を知らないから。
私を利用していると思い込んでいるから。
臆病で薄汚いのはよっぽど私の方なのに。
誓子の啜り泣く声は薄暗い部屋の中、
雨音に掻き消されることもなく竜華の耳にはっきりと届いた。
*****
朝、まだ街も寝静まる早朝。
竜華は独りベッドから身を起こす、最早アラームなど必要ない。
意識の奥に染み付いた時間の感覚は、定刻通りに寸分の狂いもなく脳を覚醒させる。
竜華は湿って居心地の悪いベッドから抜け出すと、手際良く身支度を整える。
誓子が目を覚ます気配は無い。
外に出ると、昨日と変わらぬ雨雲が灰色の絵の具のように重苦しく空を染めていた。
そこから垂れる水滴が糸を引いて街に注いでいる。
最寄りの駐車場に止めた車に乗り込むと、
今まで友人と肌を重ねていたマンションをちらりと一瞥する。
「ごめんな……」
呟きと同時に火を入れられたエンジンは、
マフラーから早朝に似つかわしくない唸り声を上げる。
踏み込まれたアクセルに呼応して、白狼は雄叫びを住宅街に物悲しく反響させた。
*****
会社に着いたのは時間ギリギリ。
あれから、一度家に帰って普段と同じ手順を踏んで出社したのだから無理もない。
おちおちコーヒーすら飲んでいられないような忙しない朝は嫌いだが、身から出た錆。
竜華はバタバタとオフィスに駆け込みパソコンを立ち上げた。
朝の日課のメールを確認し、1日のスケジュールの確認。
幸いにも朝一から社外に出る要件は入っていないようだ。
その事実が、竜華を安堵させる。
「昼過ぎまではゆったり出来るなぁ……」
時計とスケジュールを照らし合わせながら独りごちて、
竜華は思い付いたように携帯を取り出す。
たまには二人で外食して見るのも良いかも知れない。
昼休憩になれば携帯も確認するはずだ。
目当ての名前を電話帳から見つけ出し、
嬉々とした表情を浮かべて文面の作成に掛かった。
*****
誓子を呼び出したのは、竜華が贔屓にしているお気に入りのイタリアン・カフェ。
もう少し涼しくて晴れているならば外のテラス席で優雅にお茶でも出来たのだろうが、晩夏とは言えまだ日中は幾分蒸し暑い。
竜華は仕方なく店内の一番奥の席に陣取った。
此処ならば人の往来もなく、落ち着いて話も出来ると踏んでの選択。
先に頼んでおいたイタリア風アイスコーヒー、カッフェ・フレッドを啜りながら携帯を開く。
メールに返事こそあったものの、まだ誓子の姿は見えない。
同時に、仕事のメールが来ていないか確認していると目の前で止まった足音。
何となく誰か予想が付きはしたが、竜華は顔を上げてあっけらかんと口を開く。
「なんや、来てたんなら声くらいかけてーな」
「あんたが呼んだんでしょ」
咄嗟に出た軽口は誓子に一蹴されてしまった。
彼女は荷物を置きながら、通り掛かったウエイターを呼び止めている。
それに便乗してボンゴレを追加注文。
ランチに来たのだから、何か食べてもバチは当たるまい。
程なくして運ばれて来たボンゴレをフォークに巻きつけながら
折角の飲み物を乱暴に掻き混ぜる誓子に、竜華は眉間に皺を寄せる。
「そんなんしてると、味薄なるで」
「いいの」
それにしても、と続けた誓子は一拍置いて言葉を続けた。
「あんたからランチの誘いなんて珍しいわね」
眉毛を片方釣り上げながら発せられた、誓子の見え見えの皮肉。
自分はセックスの誘いは頻繁にして来る癖にな——
竜華はフォークに巻き取ったパスタを頬張りながら胸の内で皮肉を打ち返した。
だが、その小馬鹿にしたような皮肉すら懐かしく感じる。
思い浮かぶ顔と咀嚼したボンゴレを纏めて飲み込んで、竜華は口を開いた。
「ええやん、たまには普通の食事っちゅうのも」
なんかデートしてるみたいやんか、と続けると、
対面に座る誓子は口に含んだ飲み物を盛大に吹き出した。
しきりに咳き込む誓子を見て、竜華は笑う。
こう言った反応までも似ているではないか、余りにも。
すると、誓子が激情を露わに立ち上がる。
財布を取り出し何事かを呟くと、
引き抜いた紙幣を机に叩き付けそのまま店を後にしてしまった。
静かな昼下がりの平穏を乱した張本人が居なくなると、
一連の騒動で水を打ったように静まり返った店内は、次第に音を取り戻していく。
一人残された席で、竜華は氷が融けて薄くなったアイスコーヒーを一口啜る。
感情を削ぎ落とした能面のような表情で。
*****
午後からの業務を何とかこなし、
竜華は肩を揉みながら椅子の背もたれに思い切り体重を掛けた。
時計を見ると、とっくに普段の退勤時刻は超えている。
書類の整理が長引いてしまったせいで、
周りを見渡せばオフィスには竜華一人だけになってしまっていた。
無言で取り出した携帯には珍しく、誓子からの連絡はない。
「相当おかんむりやな……」
となれば取るべき手段は一つだ。
いつの時代も〝恋人〟と仲違いしたのなら、謝罪の言葉がその特効薬となるはず。
この時間なら恐らく、誓子も家に帰っているだろう。
竜華は帰り支度をしながら通話の発信ボタンを押した。
*****
雨の中、路上に停車する白い車が一台。
中には二つの人影を乗せている。
ルーフを雨粒が叩く音が煩わしくて仕方ないが、今は我慢するしかあるまい。
「ごめんな」
肌に張り付くような息の詰まる緊張漂う車内。
外を見つめる誓子の横顔に向けて、竜華は謝罪の言葉を紡いだ。
それが本心からの言葉だったかは、竜華にも分からない。
ふと、カーステレオに意識を向けると聞こえてくるのは、いつか聞いた失恋のバラード。
隣からいなくなった恋人に届かない声を伝えようとするその歌詞は、竜華の心情を綴ったようでシンパシーを感じずには居られなかった。
ただ、一つ矛盾があるとするならば。
〝恋人〟は今目の前にいる、ということだ。
竜華の謝罪の言葉で堰を切ったように溢れ出す誓子の泪と言葉。
それを遮るように、竜華は誓子の方に腕を伸ばした。
薄い布越しに伝わる誓子の心臓の鼓動は、竜華のそれより僅かに速い。
風呂上がりなのか、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが鼻を擽る。
「知っとるよ」
発した言葉は咽び泣く誓子をあやす為か、それとも——
*****
誓子は私のことをズルい女と呼んだ。
言い得て妙とはこのことだろう。
誓子の言葉に成る程、と眉を片方釣り上げる。
捨てられないのなら、捨てずに。
忘れられないのなら、そのままで。
竜華は〝昔のように〟笑う〝恋人〟に口付ける。
軽く、それでいて甘い口付けは、何かを確認するように交わされた。