南太平洋海戦に敗北した米海軍は、稼働空母ゼロという事態に落ち込んでいた。
ガダルカナルを無視するのも止む無しかと思われた時、ある者が奇抜な作戦を提案された。
すなわち、戦艦部隊を夜間ガダルカナルに接近し、艦砲射撃を行い、そのまま退避する
作戦であった。
幸いにも高速戦艦は数隻無事であった。
その提案はそのまま受け入れられて、作戦が行われた。
結果は
大成功であった。
まさか、夜間に艦砲射撃を行うことを夢にも思っていなかった海軍基地部隊は、
奇襲を受け、戦力の40パーセントが焼き払われた。
その効果は翌日のエスピリットサントからの爆撃機が被害無しで帰れたことから窺えよう。
その戦果を拡大するべく、彼らを再び出撃させたが、日本海軍も黙って指をくわえているはずもなく、比叡・霧島を中心とする艦隊が立ち塞がった。
しかし
彼女たちは、戦艦籍にあるとはいえ、元は装甲の薄い巡洋戦艦で米軍の戦艦よりも劣っていた。
駆逐艦綾波が単艦で駆逐艦4隻・巡洋艦1隻を撃沈破、戦艦と巡洋艦が共同で戦艦1隻を
大破させるなど大活躍したが
戦艦比叡が撃沈、霧島が大破するなど大損害をこうむり、更に、目標であった、
ガダルカナル艦砲射撃を阻止することはできなかった。
こうして、ガダルカナルの航空機のほとんどが破壊され、ガダルカナルの基地の能力を
失った。
この戦果により、ヌーメアから、上陸部隊が移動開始したことを察した海軍は会議で紛糾された。
この時、機動艦隊は最悪にも、戦力再編成中だったり、メンテナス中で、すぐに動ける
空母が1隻も無かったのである。
輸送艦を撃沈させるだの、もう一度決戦を行うだの、ガダルカナルを死守するだの様々な意見が交わされたが、
結局、航空要員はそのまま撤退させて、残りの陸・海軍陸戦隊はそのままガダルカナルを死守することとなった。
本当は、航空要員も陸戦隊へ編入する案もあったが、搭乗員を大切にする山本五十六大将がその案を却下されたとも言われている。
こうして、飛べる零戦の数機はそのままラバウルへと下がり、航空要員は、補給にやってきた、駆逐艦に便乗される形で下がることとなった。
彼らは、複雑な表情で遠ざかるガダルカナル島を見送ったとも言われている。
1942年を年末に差し掛かった、12月7日にガダルカナル島の上陸が始まった。
奇しくも、その日は太平洋開戦日であった。
パールハーバーの懺劇を知っていた海兵の彼らの士気は高く
「パールハーバーの復讐だ!!」と叫んだとも言われている。
ガダルカナル島を守備するのは、陸海合わせても6千人しかなかった。
そこに、米軍の2万人が上陸が開始された。
絶望的な戦力差であった。
しかし、陸海の彼らは、最後の一兵まで諦めなかった。
ある機銃小隊は、米軍部隊を3日間足止めさせたり、ある歩兵隊は夜襲をもって戦線を僅かに押し上げたり、ある戦車部隊は上陸した直後に強襲し、上陸第1波を失敗させるという大戦果を挙げるなどそれぞれが活躍した。
特に、砲兵隊が装備していた、105ミリカノン砲や75ミリ野砲は低弾道性を利用して、砲位置を特定されないようゲリラ射撃を繰り返し、戦車を十数両破壊するなど大活躍された。
だが、絶望的な戦力差を覆すには至らず、じりじりと戦力を減らされ、上陸されて1ヶ月過ぎた1943年1月についに万歳突撃が敢行され、彼らは玉砕した。
大本営も彼らの全滅をもって、玉砕されたと発表し、以後続く玉砕という言葉が初めて
使われだした。
だが、彼らは最終的に玉砕されたとはいえ、1か月以上も戦い続けるという大激戦を繰り広げ、米軍も4千人以上の死傷者を出すという、少なくない被害を出していた。
また、ごく少数の生き延びた日本軍はゲリラ攻撃を続け、最後の日本兵が降伏したのは、終戦から2年後だった・・・。
しかしながら、彼らの活躍は無駄だったわけでない。
防衛戦の貴重な戦訓を送り続け、この戦訓はサイパン・ペリュリュー・硫黄島で活躍される事になる。
また、彼らが奮闘したことによって、1か月以上ガダルカナル基地が使えなかったことによって、航空部隊の補充の時間稼ぎを行うことができた。
ジャングルや 名も無き兵士どもが 眠りつく
戦後、ある詩人が訪れた際に詠まれた歌であった。