さつばつぐらし!   作:備品猫

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第11話

 “日常”は、脆い。

 それは周知の事実ではあるが、当たり前だからこそ思考を放棄してしまい、人は忘れてしまう。

 

(あぁ……どうして……)

 

 ついさっきまでいつも通りだった同僚が、友人が、家族が、自分に牙を剥く。

 そんな非日常で、自分が信じていた日常が崩れ去ったあの日に。屋上で変わり果てた街を見下ろしたあの時に、慈は思い知った筈だった。

 

(どうして……こんなこと……)

 

 自分の信じていた日常が、小さな非日常によって簡単に破壊される。

 そして、それはたった数枚の紙の束でもあり得た。

 落ち込んだ小石が、静かな水面に波紋を広げる様に。白無垢の衣服に付いた汚点が、全てを台無しにしてしまうの様に。

 日常は、悲しい程に繊細で、脆弱で、破綻し易いものなのだ。

『職員用緊急避難マニュアル』

 

 机の上に置かれた、職員室の戸棚に収められていたその薄い冊子の表紙にはそう印刷されていた。

 それは非常時にのみ開封を許され、職員の誰もが中身を知らなかったマニュアル。きっとその誰もが、不審者や防災についてのありふれた避難指示だと思っていたのだろう。

ー感染率の高いものは致死率が低く、致死率の低いものは感染率が高いー

ー研究途中の製品が漏洩した場合は、この限りではないー

 内容は理解は出来た。だが、納得することは出来なかった。

 まるで別の世界の文化を語られている様な、到底受け入れられない内容だったのだから。

 

 思い出すのは手探りでも由紀達と必死に生きようとしていた日々の記憶。

 襲い来る彼等。屋上で立て籠もった日々。生活圏の為のバリケード。

 自分は何も知らなかった。知らないからこそ哀れな被害者でいられた。

 だから、あの日起こった事には何の責任も考えなかった。

 現実は違った。慈は哀れな被害者ではなかった。今の状況を作りだした元凶だったのだ。

 末端だった、何も知らなかったなどとは言い訳にはならない。少なくとも、今頃にマニュアルの存在を思い出すような人間だったのだから言い訳のしようもない。慈自身があの日に思い出せていれば、事態はもっと好転していたかもしれないのだから。

 

(どうすれば……)

 

 何を求めているのか。

 ただの新米教師である自分に何をさせたいのか。

 出来ることなら今すぐに破り棄てたかった。悪趣味でふざけた代物だったと、その存在を忘れたかった。

 だがそんな事は出来ない。今の状況で唯一情報が得られたものが、皮肉にもこの忌々しい紙の束なのだから。

 

(どうすればいいの……どうすれば……)

 

 由紀達に知らせる訳にはいかない。まだ駄目なのだ。

 これは慈一人の問題であり、責任なのだから。

 ぼんやりとランプの光が灯る部屋の中で、慈は一人静かに苦悩するしかなかった。

 

「忘れるの?」

「忘れないよ」

 

 夢の中だというのに、不思議と思っていた事が口に出た。

 

「若狭も恵飛須沢も丈槍も佐倉先生も、全員守る」

 

 足立は目の前の死体に語る。

いつも通り頭が砕かれ、血に濡れた脳髄を晒した死体に。いつも通りの手順で葬られた死体に。

 

「せめて、守ってから死にたい」

 

 死人は普通話したりしないが、足立の夢の死人は生者の様な振る舞いをする。

 言葉を話し、歌を唄い、喜怒哀楽を示す。

 まるで、足立の記憶と同じ様な振る舞い。

 

「ごめんね。あの時守ってあげられなくて」

 

 だが、今回の死体は何も言わない。まるで足立に先を促す様に黙ったままだ。

 

「君を殺して生き延びたけど、やっぱり君がいないと俺は駄目だ」

 

 死体は返事もしない。

 足立は返事が無いことを特に気に留めた様子もなくそのまま続ける。

 

「だからって進んで死ぬ気も無い。それに、彼女達からの恩は踏み倒すわけにもいかない」

 

 足立は得物を掲げる。

 彼等を殺す。彼女達の日常を、学園生活部を脅かす全ての事から守る為に。

 その為に、狙うはその砕けた頭から溢れ落ちそうな柔らかな物体。

 

「だから、ちょっとだけ待ってて」

 

 振り下ろされた得物によって、血と脳梁が飛び散る。もはや頭は回復することも復元することも出来ない状態にまで破壊され、死体は二度と動かなくなる。

 だがーー

 

「すぐそばにいるからね」

 

 ずっと聞けなかった愛しい声が、足立には聞こえた。

 

 日常は破綻しやすい。

 だから、今あるこの三階での日常でさえも簡単に破壊されるだろう。たとえその日常が幻想であろうと、虚構であろうと、思い込みであろうと、それを信じている由紀達の日常は破壊されるだろう。

 もはや後戻りは出来ない。この日常は足立を含めた全員が望んだものであり、永遠に続かせるべき日常なのだ。

 だから、その日常を脅かす要因は全て排除しなければいけない。それは足立が悠里に約束した事でもある。

 誰も欠けてはいけない日常ではある。

 しかし、絶対というのは不可能に近い。

 いつかこの日常に凶器が振り下ろされる時、足立は無事では済まない。そうなれば、この日常は綻びを生じさせる。五人というこの小さな世界で、一人でも抜けていく事がどんな影響を与えるのか想像も出来ない。

 だから――

 

(さて、どう書こうか……)

 

 せめて自分が去った時、彼女達が今まで通りでいられるように。

 せめて学園生活部という彼女達の世界の足枷にならない為に。

 せめて彼女達が悲しまずにいられるように。

 その思いを込めて、足立は紙に文字を連ねていった。

 

 

 生活していれば水も食料も減っていく。昔のような習慣で消費しているのなら、なおさら早く備蓄も尽きてしまう。

 その為、数日置きで胡桃と足立が購買部へ諸々の調達をしにいくことになっている。

 

「準備出来たぞ」

「よっと、さっと行ってくるよ」

「ええ、二人とも気を付けてね」

 

 足立の返事を聞いた胡桃はシャベルを担ぐと、手元の紙を持って立ち上がった。紙には悠里がリストアップした今後の生活に必要なものが記されている。

 

「あ! 購買部に行くの? 私も行くー」

「何言ってんだよ。ゆきはりーさんと三階にいること」

「そんなケチくさい事いわないでよー。ねえ足立君?」

「まだ下は危ないからな、恵飛須沢と同意見で」

「……もー、二人共ユーズーが利かないんだから」

 

 頬を膨らませて拗ねたような顔をする由紀。しつこくしてこない所を見ると、彼女も流石に自分達の立場を理解しているのだろう。

 

「今回はくるみと足立君が行くから。二階制圧したらゆきちゃんも一緒に行きましょう?」

「……はーい」

「わりぃな。お菓子とか取ってきてやるからさ」

「わーい!お菓子だったら何でも大歓迎だよー!」

 

 胡桃の言葉に、さっきまでの気落ちした顔をすぐに綻ばせる由紀。こういった子供のような彼女の純粋さと笑顔に、部員達はついつい彼女に対して甘やかしてしまうのだ。

 

「無理しちゃ駄目だからね」

 

 廊下へ出て行った二人に、悠里は念を押すように声をかける。

 

「大丈夫大丈夫。頼りになる足立もいるしさ」

「ふふ、そうね」

「その言葉、男冥利につきるよ」

「二人共、“相棒”だね!」

 

 由紀の言葉に、胡桃と足立は一瞬顔を見合わせる。

 

「ああ、恵飛須沢の手綱の握り方も分かってきたしな」

「私は犬かよ!」

 

 二人は何かと言い合いながら職員室へと向かって行った。

 

「まったく……めぐねえも人遣いが荒いよ」

「ごめんなさい」

 

 二人は苦笑を浮かべてはいるが、それは余裕を含んだものだった。バリケードを設置してからというもの、彼等に脅かされる事もなくなり、危険な事は三階から離れる事くらいだからだ。

 

「大丈夫、いけますよ」

 

 二階を確認していた足立からの合図に胡桃と慈はバリケードを越えて二階へ降りていく。

 

「よし、さっさと終わらせてランチタイムにしようぜ」

 

 胡桃の言葉に慈と足立は黙って頷くと素早く移動し始めた。

 

 

「ゆきちゃん? 昼食の準備を手伝ってくれる?」

「うん! いいよー!」

 

 悠里の言葉に由紀は笑顔で返す。その笑顔が悠里には眩しくて、ついつられるように笑みを浮かべてしまう。

 まるで子供のよう。明日に希望を持ち、それを心底楽しみにしている子供のようだ。昔の塞ぎ込んでいた姿は、もう見る影もない。

 

「じゃあこれを輪切りにしてくれる?」

「了解!」

 

 悠里は保健の授業で学んだ内容をふと思い出す。

 幼児退行。受け入れがたい状況に直面した時、人は精神の防衛機構としてそのような症状を表すのだという。由紀のこの変化は正にそれなのだろう。

 受け入れ難い現実には拒絶を。悠里達も同じ様なもので、打ち込むべき目標がなければきっと今頃は自殺でもしたいたのかもしれない。

 形を変えた行動は間違いであったのか、正解であったのか。

 だが、悠里にとってそんな事はどうだって良かった。

 今の彼女の底抜けの明るさが有るから、自分達は絶望せずに生きてゆける。彼女の眩しい笑顔が、自分達に生きる気力を与えてくれる。彼女のお陰で明日に希望を持てる。

 この世界で、由紀はなくてはならない存在なのだ。彼女のいるこの日常が悠里達の全てなのだ。

 あの日全てを失った悠里達にとって、この新しい日常だけが縋り付く依り代なのだ。

 だから――

 

「うわっ! ど、どうしたのりーさん? 急に抱き付いてきて」

「ふふっ、ゆきちゃんは良い子だなあって」

「えへへ……もう、子供じゃないんだから」

 

 何があっても守り抜く。

 たとえ何があろうと。

 胸に抱いた確かな温もりを悠里は離さない。

 

 

 購買部にて調達を終えた三人は、慈の要望で図書室に来ていた。

 学園生活部と並行して慈が授業をしているため、その為の教材を取りにきていたのだ。

 

「ん? 何だそれ?」

 

 図書室の入り口で見張りをしていた胡桃は、戻って来た足立が持っている数冊の本を訝しげに見た。

 

「医療関係の本」

 

 足立は一冊を取り出すと表紙を見せる。幾つかのイラストと共に医療にちなんだタイトルが付けられていた。

 

「備えあれば憂いなし。こうゆう知識はあった方がいいだろ?」

「まあ、確かに……」

「そうゆう事だ。……先生はまだ見てるのか」

「めぐねえは国語教師だからな、他の教科までするとなると時間もかかるだろうな」

「なるほど」

 

 そう言うと足立は扉を少し開けて外の様子を確認する。降りる前に近くの彼等は粗方倒したが油断は出来ない。

 

「……なあ足立」

「……ん?」

 

 いつもと違う胡桃の声色に気付いた足立は、扉を閉めると胡桃の横に立って返事をする。

 

「あいつらってさ……意識って残ってるのかな」

 

 人間の意識。ひどく抽象的で哲学めいた事だが、足立には胡桃の言いたい事が理解出来た。

 

「……どうだろうな、俺も最近分からなくなってきた」

「……どうして?」

「ずっと、虫みたいに動いてるって思ってたんだよ。音とか光に反射的に反応してるだけだって。だけどさ……最近あいつらの数が増えてるよな?」

「ああ」

「みんな制服を着てて、学校に登校してるみたいに。ただの虫みたいなもんなら、わざわざ来る意味なんて無いんだよ。なのに……」

「……」

 

 胡桃にも思うところがあったのだろう。だが、まだ肯定も否定も出来ず黙っているしかなかった。まだ信じられる証拠もないが、それ以前に胡桃自身が受け入れられないのかもしれない。

 

「それが意識かどうかは俺にはわからない。……たとえ、あの頭に記憶が残ってるとしても、あいつらは襲ってくる」

 

 生徒の姿をした彼等を殺す事に胡桃は抵抗感を覚えていたのだろう。

 もしかしたら、彼等に生前の意識が残っているかもしれない。

 もしそうだとしたら、彼等は人間と何が違うのかと。もしそうだとしたら、自分はただの人殺しなのではないのか。

 そんな懸念があったのだろう。

 

「……しょうがないよな」

「……」

 

 胡桃の嚙みしめるように言った言葉に、足立は静かに頷くしかなかった。

 

 

 うえにある。

 このうえにある。

 

 雨から逃げる様に校舎に入った彼等の意識が求める。

 もはや彼等の身体と精神は繋がっていない。それどころか精神でさえまともに働いているわけではない。

 記憶は断片化し、相互の繋がりは無くなった。それに伴って彼等の生前の“心”や“想い”といったものは無くなった。

 彼等は、頭に残っている記憶の断片を見ているだけなのだ。そして、身体は強い記憶に従い彷徨い歩く。そして原始的な欲求に従った行動をする。

 

 そう、このうえにある。

 きっとこのうえにある。

 

 何があるかは関係ない。そこへ至る事が目的であって、その道中で欲求に従った行動をするだけだ。

 

 このうえだ。

 このうえにあるのよ。

 

 ゆっくりと、緩慢な動作で彼等は行進する。

 外には出られない。さらに外から入ってくる者達と共に目指すのだ。

 その光景はまるで、彼等の頭の中にある生前の記憶ととてもよく似ていた。




胡桃ちゃんの引き締まっているであろう足で、膝枕したい。
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