さつばつぐらし!   作:備品猫

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バイバイ、めぐねえ。


第13話

「ん?」

 

 大きな物音が聞こえた。

 机や椅子が倒れるような音が、沢山。

 ただの好奇心で、何も考えずに音のした方へと由紀は身体を向けた。本当は直ぐにでも慈の元へ行かなければいけないのだが、優しく甘い慈なら多少の遅れは見逃してくれる筈だ。

 黒く乾いた血の汚れが、床や壁にこびり付き、窓硝子の割れた廊下の惨状の中でも、彼女はまるでそれらを気にする事もなくを歩いて行く。

 

「何だろ?」

 

 人が人を襲い始めた“あの日”に、それまでの由紀の日常は崩壊した。

 楽しかった事も、悲しかった事も全て“あの日”にご破算となってしまった。過去を振り返ったところで、無くなったものを哀しむ事しか出来ない。

 しかし、空白はまた埋めてしまえばいい。

 幸せな記憶で埋めていけばいい。

 例えその幸せな記憶が虚構によって成り立っていたとしても。

 何度も何度もメッキを塗り重ねれば、いつかそれが塊にもなるように。

 虚構さえも本当だと信じ切れるように。

 そう自分を思い込ませる為に、由紀は何度も過去の記憶に今の記憶を刷り重ねた。

 

 だから、階段に何が在ったのかも忘れていた。

 ただ近付いてはいけないという意識だけしかなかった。

 何故なら、丈槍由紀にとっての日常は、今や巡ヶ丘学院高等学校三階での生活だけだったからだ。

 起きるのも、寝るのも、食べるのも、学ぶのも、帰るのも、話すのも、すべて三階だけだ。

 どうしてなのかを、由紀は忘れた。

 その理由でさえも、思い出すには辛いのだから。

 

「――え」

 

 口から溢れる呟きと共に、持っていた課題が手から滑り落ちる。

 床に散らばる筆箱と数学の教材、そして帳面。落ちた拍子に開いた頁を見れば努力の跡は窺えるのだが、解いていた問題は殆ど正解していない。

 高校三年生になっていてもお世辞にも勉強が出来るわけではない由紀は、たまに慈による“補習”を受ける事になっている。多少苦ではあるが、慈は優しく教えてくれるし、時間制限もない。

 そして何より、出来た時に慈達が自分を褒めてくれる事が嬉しかった。

 

 それが由紀の日常だった。

 朝起きて朝食を食べ、午前の授業を受けて、昼食を食べる。眠気に襲われながらも午後の授業を受け、園芸部の手伝いをしたり、他の部活動をしたり。そして夕食を食べて、シャワーを浴びて、胡桃や悠里と話をしながらいつの間にか寝てしまう。

 学校で暮らす部活は変わっているが、楽しい生活だった。

 とても幸せな日常だった。

 

「あ……」

 

 床に散らばる教材など気にも止めず、由紀は一歩後ずさった。

 呼吸は乱れ始め、頭は今起こっている現象を咄嗟に理解する事は出来なかった。

 

 今、由紀の目の前にあるのは――明確な日常の終わり。

 日常を終わらせる存在。

 

「――ひっ」

 

 土色の手が動くと由紀は引き攣った悲鳴をあげる。

 死斑の浮いたその腕は、そのまま先にある階段の一段を掴み、愚鈍な動作で自身の身体を持ち上げた。

 それはバリケードの残骸である机や椅子を押し退けゆっくりと、だが着実に階段を登っている。

 

 その輪郭は、辛うじて人間だった。

 巡ヶ丘学院高等学校の制服を着ていて、頭があって、首があって、肩があって――

 しかし細部をよく見れば、四肢の何処かしらが欠損していたり、頭が割れて本来見えないような中身が見えていたり、腹から溢れた腸を引き摺っていたり、下半身を失っているものさえいた。

 どれだけその身体が人間と同じ物だろうと、それを操っている者が人間である筈がなかった。

 人間であるならば、その身体の状態に痛みで呻き、死んでさえいるはずだ。

 だが、それは動いている。

 それは、その身体で校舎を蠢いてる。

 “あの日”からずっと。

 

「あ…………」

 

 そう、現実だ。

 何て事はない。“あの日”からずっと近くにあった現実だ。

 そして――見て見ぬふりをしていた現実だ。

 

 所詮臭い物に蓋をしていただけで、根本的な解決にはなっていなかったのだ。

 どれだけ記憶から抹消して、見て見ぬふりをしていても、それは変わらず存在していた。

 そして由紀は考えてもいなかった。

 自分達の平和が脅かされる可能性を。自分達の日常があまりにも不安定だということを。

 いや、それもまた信じていなかっただけなのかもしれない。自分に都合の良いようにしか捉えられず、学園生活部という環境が拍車を掛けていたのかもしれない。

 “あの日”までの日常は、簡単に崩壊したというのに。

 

「うあ……ああ……」

 

 由紀は呻きながら首を左右に振った。

 目の前の現実を否定したくて何度も振った。

 あり得ない。

 こんな存在は由紀の世界には有ってはならない。存在してはならないのだ。

 しかし、目の前の存在は由紀の願い通りには消えてくれず、ゆっくりと距離を縮めてくる。

 それどころか、重たげな足音と鼻を刺す異臭を伴って、さらにその存在を確固たるものとしていた。

 

「…………あ……ああ」

 

 口から意味のない声が漏れる。

 由紀は激しく振っていた頭を腕で抱え、まるで身体を守る様にその場にうずくまった。

 その姿は、辛い現実から必死に逃避しようとしていた“あの日”の姿と何も変わってはいなかった。

 記憶はようやく喚び起こされ、思考は“あの日”の記憶と共に彼等に食べられる光景ばかりを想像する。

 

 その死体のような身体で押し倒され、手足を押さえつられる。

 涎を垂らすその口で噛みつかれ、皮膚を、肉を、脂肪を、筋肉を、骨を断ち切られる。

 五臓六腑を引き摺り出され、血を撒き散らし、悲鳴をあげながら、のたうちまわり、生きたまま食べられる。

 そして最後には、彼等と同じ様に――

 

「……ああ……ああああ――」

 

 逃げないと。

 ようやく働き始めた頭が喚き散らす。

 今すぐ逃げないと終わってしまう。

 ここで逃げないと全てが終わってしまう。

 今までの現実が。

 由紀の幸せが。

 “あの日”のように――

 

 だが足は震え、身体は強張り、彼等から眼を逸らせない。

 のしかかる恐怖に身を竦めたままの由紀に、彼等はゆっくりと手を伸ばし、そして――

 

「ゆきちゃん!」

 

 鋭い声が響くと同時に、由紀は倒された。

 慈に一緒になって、抱き締められるように押し倒されたのだ。由紀に襲いかかろうとしていた一体は、目の前の獲物が一瞬だけいなくなり混乱する。

 そして、白い煙が後追いする彼等に浴びせかけられた。

 

「ゆきちゃん!」

「ゆき!」

 

 シャベルを持った胡桃と、消火器を持った悠里が由紀と慈の元へ駆けつける。

 三人の姿を見た由紀の表情から強張りが抜ける。

 

 いつだって由紀を守ってくれる皆。

 皆がこの幸せな日常を守ってくれる。

 その中で由紀は笑顔でいれば良かった。そうする事が良いと慈が言ってくれたのだから。

 だが、都合の良い日常は続かない。

 今、由紀が直面している危機は“あの日”と同じだ。それまでの日常を破壊する人間だった存在がいるのだ。

 だから――

 

「あうっ……!」

「――めぐねえ!」

 

 慈の口から苦悶の声があがる。

 両腕を無くしている一体が、器用にも慈の細い腕に噛み付いているからだ。

 

「こんのっ!」

 

 怒りに顔を歪めた胡桃が、噛み付くその顔にシャベルを振るう。

 直撃したシャベルはぐしゃりと顔面を潰し、噛み付いていた一体は脱力したように慈の腕から口を離した。

 

「うぅ……っ」

「めぐねえ!?」

 

 噛まれた腕を押さえ、うずくまる慈を由紀は抱きしめる。

 顎が食い込んだ傷が深いのだろう。

 二の腕から滲む血の量は増え続け、腕を、脇を、腰を伝い、慈のワンピースを黒く汚していく。

 

「ゆきちゃん! このままめぐねえを放送室まで運ぶわ!」

「う、うん!」

 

 中身が空っぽになった消火器を捨てた悠里が慈の肩を抱く。由紀もそれに倣う様に悠里の反対から慈の肩を抱く。

 慈は痛みに呻くが、今は怪我を気にしている余裕はない。

 胡桃が彼等の相手をしている隙に三人は歩き出す。

 ゆっくりと、胡桃が後を追う彼等を蹴散らしながら、四人は放送室へと向かう。

 慈の腕から伝う血液が、ぽたりぽたりと廊下に跡を残す。

 

「急げっ!」

 

 放送室のすぐ近くまで来ると、胡桃は由紀達の前に出て扉を開ける。

 そして彼女達が放送室へ入ろうとした、その時――

 

「――え?」

 

 由紀と胡桃と悠里の三人は、部屋の中へと押し込まれた。

 

 

 噛み付かれた腕を押さえながら、慈は三人がいる放送室の扉にもたれ掛かった。

 周りは彼等が取り囲み、慈へゆっくりと近付いてくる。

 

(みんな大丈夫かな……)

 

 ひどく間延びした時間の中にいるように感じる。

 今の慈からしてみれば、目と鼻の先にいる彼等の動きは、まるでコマ送りのように遅く感じた。

 もともと彼等の動きはぎこちなく鈍い。しかし今はそれ以上に彼等の動きが遅く見える。

 この感覚が意味するものを、慈は薄々気付き始めている。

 

「駄目だゆき!もう――」

「放してっ!」

 

 もう自分は助からない。

 慈はそう確信していた。

 例え今、この瞬間に奇跡が起きて、彼等が何もせずに此処から立ち去ったとしても、もう慈は助からないだろう。

 彼等に食われれば、噛みつかれれば、その後どうなるかは何となく分かっていた。

 そして、ようやくその事を実感した。

 何となく、噛まれた腕から違和感を感じていた。

 

 燃えているように熱い。

 火傷の様な痛みが内側を遡上している。まるで侵食していくように、そこから身体を喰らっていくように。

 痛みに感覚は麻痺し、まるで自分の腕ではないようにすら感じる。

 出血は止まらず、噛まれた箇所からは血が絶えず流れている。

 これはただの怪我ではない。

 まるで毒だ。

 身体中を侵食し、感覚を狂わし、神経までも狂わす猛毒。

 ただし、これは患者を殺すためだけの毒ではない。

 

「まだめぐねえが外に……! 早くしないと!」

 

 胡桃の制止の言葉を聞かず、叫ぶ由紀の声が扉越しに聞こえてくる。

 出来れば聞きたくはなかった。

 彼女にはずっと笑っていて欲しかったから。

 彼女が悲痛な叫び声があげることは嫌だったから。

 

(みんな…………ごめんね)

 

 しかし、もう遅い。

 この扉は開けられない。開けたら最後、慈だけでなく部屋の中の三人までも犠牲になる。

 助かるには、もう何もかも遅い。

 彼等はもう目と鼻の先なのだから。

 そして慈も、もうすぐそんな彼等の仲間入りを果たす事になる。

 

 ……いや、もしかしたら“あの日”から慈の運命は決まっていたのかもしれない。

 我が身可愛さで生徒も同僚も見捨てた“あの日”に。屋上で立て籠もっていたあの時から。

 もしくはもっと前。あの忌々しいマニュアルを詳しく調べていなかった為に、全てが崩壊してしまったのかもしれない。

 ひょっとして、自分は産まれた時から……。

 そんな途方も無い事を考えてしまう程に、慈の中の時間はゆっくりと過ぎていた。

 

(先生、悪いことしたよね)

 

 力が抜けた身体を床へと下ろし、慈は残ってしまう四人に懺悔する。

 

 結局自分は保身に徹したまま最期を迎えてしまった。

 慈がいなくなった後、マニュアルに気付いた彼女達はきっと怒るだろう。

 何でこんな事を起こしたのか。知っていたのに何故教えなかったのか。どうして相談してくなかったのか。

 いや、心優しい彼女達の事だ。

 そうやって責めてきても、あとでちゃんと話し合えた筈だ。

 

「…………私――」

 

 彼女達は大切な、大切な自分の生徒。

 もう、絶対に失いたくない。“あの日”に全てを失った今だからこそ痛烈に思えた。

 慈は教師だが、この三階での生活で彼女達から様々なものを学んだのだ。

 彼女達がいたから、慈は先生でいられたのだ。

 扉は分厚く、彼女達に聞こえるかは分からない。

 だがそれでも、慈は言わずにはいられなかった。

 

「――みんなの先生でよかった」

 

 言葉で想いを伝える。

 言語を理解しないような彼等ではないうちに。

 せめて、最期には人間らしく幕を降ろせるように。

 

(あぁ――)

 

 ゆっくりと意識が沈んでいく。

 これまで慈の身体を支配していた意識が、ゆっくりと崩れていく。

 せめて彼等が、これから仲間入りを果たす自分を含めた彼等が、彼女達を襲う事の無いように願いながら。

 

「――お…………な……か……が」

 

 そんな言葉と共に、慈の意識は沈んでいった。

 

 

 雨は延々と降り続いていた。

 鈍色の厚い雨雲は、まるで何処までも広がっているかのようである。

 この空の下で、外を出歩く者はいない。

 それは彼等も例外では無かった。

 雨に濡れてはいけないという彼等の中の記憶が、校舎内へと向かわせる事になった。

 だが、校舎内は雨から逃げて入って来た彼等と、元から徘徊していた彼等でいっぱいである。

 まるで濃度勾配に従う様に、彼等は狭い場所から広い場所へと向かって行った。

 すなわち、校舎を上へ上へと登りだしたのだ。

 しかし、三階への階段はバリケードで塞がっていた。

 

「おなか……すい……」

 

 かり……

 

 二階ももう彼等でいっぱいだ。残っているのは三階しかない。

 だから彼等はバリケードに群がった。

 記憶にはその先に階段があるのだ。彼等はひたすら、執拗に記憶に沿って進もうとした。

 その押し合いへし合いで、何体かは潰れてしまった程だ。

 そして根を上げたバリケードは倒壊し、彼等は我先にと三階への階段を登った。

 

「あ……け……て……」

 

 かり……かり……

 

 彼等は酷く貪欲でもあった。

 記憶に沿って三階まで来たが、その途中で感覚をとても刺激する存在がいたのだ。腹を空かせた彼等が喰らい付こうとしないはずがない。

 

「せんせい……みんな…………好き……だから」

 

 かり……かり……がり……

 

 その存在は扉の奥へ逃げ込んでしまった。

 しかし、だからといって彼等はそう簡単には諦めない。

 バリケードにそうしたように、その扉を力任せに壊してしまえばいいのだ。

 爪が剥がれても、指の骨が折れても、腐った傷口が擦れても、何度も何度も扉を叩く。

 扉の前の存在が邪魔だったが、それも今では彼等と同じように扉を叩いている。

 

「どうして…………あけて……くれないの」

 

 がり……がり……がり……

 

 放送室の扉が悲鳴を上げ始めた。

 扉が破壊され、その部屋の中へと彼等が雪崩れ込むのは時間の問題だろう。

 

 細い首を噛み千切り、溢れ出る鮮血を飲み干そう。

 腹を食い破り、詰まっている臓器を平らげよう。

 腕や足を捥ぎ取り、柔らかな肉を頬張り、骨の髄まで食い尽くそう。

 その名の通りの、血沸き肉踊る宴はもうすぐだ。

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