さつばつぐらし!   作:備品猫

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第終話

 西の空が、茜色に染まり始めた。

 影は伸び、あらゆるものを覆っていく。ゆっくりと、世界が暗闇の中におちる時間。もしくは、人ではない魑魅魍魎が跋扈する逢魔時。

 学生達にとっては放課後の時間。

 “あの日”まではライトを点け、遅くまで練習をしていた部活動の面々も、今では仲良く揃って校門から出て行く。

 そのまま直帰で自宅へ。

 少しでも成績を上げるために塾へ。

 小腹が空いたのでコンビニへ。

 友達と遊ぶために駅前やショッピングモールへ。

 各々が思い思いに学校から離れていく。

 

 ――しかし、彼等が目指す先は薄く闇が覆う街だ。そこに灯りのついた住宅など一つもない。

 灯りが点いていないのは住宅だけではない。

 今頃は定時前の仕事を片付けているだろう勤め人達のオフィスビル。

 帰宅で賑わう駅前。

 深夜も閉まらない事が売りのコンビニ。

 道路で点滅する信号機。

 自動車のライト。

 夜道を照らす街灯。

 全てが、“あの日”から暗闇の中で沈黙していた。

 この街を見知った者が見れば、その者は恐らく恐怖するだろう。

 自動車のエンジン音。家族同士の会話。テレビから漏れる音。群れる人間が放出する微かな熱であったり、雑音ともとれる人間の息遣い。そんな『人の気配』とも呼ばれる微弱な刺激。

 この街から、それらは一切感じられないからだ。

 確かに、かつてそこは閑静な住宅街だった。

 だが例え夜であろうと、この街からそれらが失われる事は無かった。それらが無くなる事はつまり、人間の営みが無くなる事であり――人間がいなくなる事であるからだ。

 本来あったものが途端になくなった不気味な街。

 廃墟となった街はその内に暗闇と空虚を抱え、寂寞とした空気の中で沈黙している。

 

 ――ただし、その主人たる人間は今尚動き回り、この街で夜を過ごしていた。

 

 *

 

 部活動で残れる時間も過ぎ、生徒は追い出される様に校門から出て行く。

 今の学校に残るのは残りの仕事を済ませる教師達だけの筈だが――

 

「運動部の皆、帰ってくね」

「放課後だからね」

 

 外を眺める由紀の言葉に悠里が相槌をうつ。いつもの会話である為に、あまり考えずに会話をしている。

 

「ゆきも手伝えよー」

「はーい」

 

 胡桃が皿を並べ始め、由紀がお箸とコップを準備する。

 並べられた机の上にはコンロが置かれ、悠里がフライパンで卵をかき混ぜながら炒めている。

 

「今日も学校でご飯だねー」

「学園生活部だからね」

「……どうしたんだよ。ニヤニヤして」

「いやー、改めて学校で晩御飯を食べるって思うと何だかワクワクして」

「まぁ……確かに」

 

 学園生活部は私立巡ヶ丘学院高等学校で生活する部活動だ。今は晩御飯の時間なので、とある教室を借りてその準備をしていた。

 

「はーい。もう出来るわよー」

 

 大きめのお椀に盛られた温かいご飯に、悠里がふわふわに仕上げた卵をかける。次に胡桃がそこに温められた餡をかけていく。

 

「おー!餡かけオムライスだー!」

「天津飯だよ」

 

 三人分の準備が出来ると、悠里も後片付けをそこそこに席につく。

 二人ともが席に着いた事を確認する。由紀はお預けをくらった犬の様に悠里の言葉を待っている。

 

「じゃあ、いただきます」

「「いっただっきまーす」」

 

 *

 

 街灯や電信柱は倒れ、道路を塞いでいる。

 自動車も走らなくなり、舗装する者もいなくなった道路には生命力に溢れた草がアスファルトを割って生えてきている。

 

「……」

 

 そんな荒れた道を、黒い影がゆっくりと進んでいた。

 真っ黒な、人の形をしたもの。

 まるで地面に映る影が起き上がったかのような、周りの人間と明らかに異なる姿。

 薄暗くなる空間の中でも一際異彩を放つその黒さは、どうやら焼けた痕のようだ。全身は固まったかの様にぎこちなく動き、歩を進める足からは地を踏みしめる度に炭化した皮膚がぐしゃりと音を立てている。

 毛髪は焼け、鼻は爛れて潰れ、その所為で頭はのっぺりとしていている。右目は失くしたのか暗い眼窩を晒し、左目の角膜は白く濁り視力があるのかどうかも怪しい。

 口だったのだろうか。顎の上にある微かに開いた穴の中も真っ黒に焼けている。

 燃えた時に着ていたのだろう衣服も焼け焦げ、微かに残った布の切れ端が張り付いているだけだ。

 

 全身が消し炭になった、焼死体。

 本来であれば動くことのないそれが、ゆっくりと進んでいる。

 

「……」

 

 “あの日”から、人間は人間という型に嵌る事をやめた。噛まれた傷が腐ろうと、手足がもげようと、腸が引き摺り出ていようと、人間は何事も無く過ごしている。

 人間はひたすら鈍感で、鈍重で、痴呆の様に彷徨い歩くようになった。そして、ひたすら貪欲になった。

 ただしその貪欲さは、今の人間にとってはどうする事も出来ないものだった。

 だから、普段の人間は特に何もしない。

 今の人間に出来るのは、頭の中にある記憶の断片を追いかける事だけ。

 道路を歩く黒い人も、今は記憶にある『帰り道』を追いかけているのだ。

 

「……」

 

 その歩が一軒の住宅の前で止まった。

 いたって普通の一戸建て。

 人間の住まなくなった住宅は急速に老朽化する。その家も水まわりがあの日から止まり、壁には黒いカビが広がっている。

 だが、電化製品からの火事が多く、近くの火事で壁を焼かれる場合が多かった事を考えれば、その家は比較的綺麗な状態で残っている。

 ――ただ、玄関や一階の窓硝子は割れており、壁にべっとりと付いている黒い血痕を見ると、この家も“あの日”の惨劇は免れなかったようだ。

 

 ここが『帰り道』の終着点。

 『家』の記憶が色濃く表れる場所。

 

「……」

 

 表札の掛かった門を通りすぎる。きっとここが自宅なのだろう。ゆっくりとした歩みではあるが、慣れた足取りで進んで行く。

 そうして扉が外れた玄関をくぐり抜け、荒れた靴置き場を通り過ぎようとした時――

 

 ひゅー。

 

 音を震わせながら、足元に小さな物体が近付く。汚れた黒い体毛と、靴下の様な足先の白い模様を持った四足歩行の小さな動物。

 

 ひゅー。ひゅー。

 

 猫だ。

 片耳は千切れ、後ろ足の片方は肉が削れ骨が覗いている。鳴き声をあげようとしているようだが、首輪の付いた喉元も喰われているのか、皮とささくれだった肉がぶら下がり、喉から漏れた空気に震えている。

 酷い傷だが、猫はそれを気にした様子もなく、よろよろと足元を擦り寄るように回る。

 真っ黒な人は立ち止まり、足元の小さな動物に一瞬だけ顔を向け――

 

「……」

 

 再び前に向き直り、連れ合うように、共に家の中へと入って行った。

 

 *

 

 

 ただいま。

 

 いただきます。

 

 おやすみ。

 

 

 *

 

「ん……」

 

 身体に染み付いた習慣で、悠里は目を覚ました。

 まだ外は暗く、由紀も胡桃も眠ったままだが、彼女の仕事は早朝から山程ある。

 二人を起こさないよう静かに起き上がると、ロッカーに吊るしてある制服に着替える。寝巻き用のジャージを掛け、上の棚から毎朝つかっているタオルを取り出す。

 

(そろそろ替え時かしら)

 

 糸がほつれ、擦れて薄くなってしまったタオルを見ながら悠里は考える。こういった日用品はなるべく替えずに長く使っているが、それでも限度というものがある。

 わざわざ使い続けるよりは、替えた方が効率的だろう。

 

(これはあとで雑巾に縫い直しましょう)

 

 いくつかの仕事を新たに考えながら悠里は放送室から出る。

 まだ太陽は顔を出しておらず、廊下は薄暗い。だが、前が見えない程ではない。

 悠里は眉一つ歪めるでもなく、汚れた廊下を進む。

 

(シャンプーもそろそろ切れそうだし……胡桃の為に制服の予備も欲しいわね)

 

 三階の廊下は――というより校舎全体が汚い。

 壁には黒い汚れが染み付き、窓硝子は殆ど割れている。掃除しなければならないと分かってはいるのだが、どこから手を付けたらいいのか分からないし、全てを綺麗にしようと思う程のやる気は、今の学園生活部にはなかった。

 

(それから……)

 

 今の学園生活部はとても静かだ。

 由紀の笑顔も、胡桃の活発さも、今ではあまり見られない。

 当たり前だ。今まで五人で生活していたのに、急に二人もいなくなったのだ。寂しさを感じない方がおかしいだろう。

 大きな要素を失うのは、大きな悲しみだ。

 今の悠里達は、自分達の中にぽっかりと空いた空間をどうするか、持て余している状態だった。

 

(他にやる事……)

 

 屋上へと辿り着いた悠里は、菜園の様子を見て回る。早朝の世話は昔からしていたが、今では暇さえあればこの菜園か家計簿とにらめっこする日々を送っていた。

 

 ひたすら、何かをする。何かを考える。

 それが最近の悠里の行動だった。

 他の事は考えたくなかった。いなくなった二人の事も、彼等の事も、外の世界の事も。

 

(ほんと――何て卑怯者なのかしら)

 

 辛い事は考えたくないなんて、とんだ快楽主義者だ。

 だが、仕方なかった。

 そうしないと、悠里の気持ちは落ち着かせられなかった。

 どうしようもない苦境の底で、現実を直視しない事で辛うじて平静を保ってきた。

 そうしないと自分は生きられない。そうしたら自分は生きていられる。そうしないと、『生きたい』とそんな切実な願いさえ聞いてくれない理不尽な世界で自分は窒息してしまう。

 

 人間は弱い。

 生きたい。そんな折れてしまいそうな思いを保つ事は今の世界では難しい。

 いったい、どうすればいいのだろうか。

 ……もしかしたら、いっそのこと

 

「おはよう。りーさん」

 

 そうやってぼーっと考え事をしていると、欠伸をしながら胡桃が近付いてきた。毎日の習慣だ。悠里が起きると、少し後に胡桃が起きる。そして二人で朝食を食べようとする頃に由紀も起きてくる。

 

「おはよう。くるみ」

「何か野菜を睨み付けてたけど……大丈夫か?」

「ええ、大丈夫よ。ゆきちゃんにどうやって食べさせようかと考えてたの」

 

 心配そうに聞く胡桃に、悠里は苦笑しながらそう返す。

 さっきまで考えていた事は、もう忘れていた。

 

「あはは。あいつ好き嫌い多いもんなー」

「野菜はちゃんと摂らないと身体の調子が悪くなるのに」

 

 いや、良くしたところで何をするのだろう。

 結局この学校の中でずっといるだけなのに。

 明日なんて、あって無いようなものなのに。

 

「何か手伝う事ある?」

「水やりも終わったから、虫が付いてないか見てくれる?そうしたら朝食にしましょ」

「はーい」

 

 辛い事実を改めて考えるよりは先の事を考えた方が建設的であるし、過ぎた過去に感傷的になっている場合ではない。

 思い出すのは全部終わってから。

 悠里にはやらなければならない事が山程あるのだから。

 

 *

 

 夜が明ける。

 まだ太陽は顔を出していないが、圧倒的な明るさが地平から溢れ、暗闇を払っていく。

 暗闇の中、刺激がなく殆ど動いていなかった人間達も目を覚ます。

 寝室から出ると、いつもの習慣に沿って自宅を徘徊する。

 顔を洗う為に洗面所に。

 朝食を摂るためにキッチンに。

 そうして身支度を終え、玄関から出て行く。

 会社や――学校へ行くために。

 

 *

 

 

 おはよう。

 

 いただきます。

 

 いってきます。

 

 

 *

 

「おはよー……」

「遅刻だぞー」

「遅刻よ。ゆきちゃん」

 

 寝癖を付けたまま挨拶をする由紀に学園生活部の面々はいつも通りの返事をする。

 時間としてはまだ一限目が始まる時刻では無いが、学園生活部の活動時間は既に始まっているのだ。

 

「えへへ〜……」

「何で嬉しそうなんだよ」

「だってさ、家で寝坊すると学校に行きたくなくなるけど、そもそも学校にいると遅刻も関係ないな〜って思えるから余裕を持って二度寝出来るんだよね〜」

 

 だらけきった言葉に二人は呆れて返す言葉も出てこない。

 由紀は鼻歌を歌いながら朝食であるコーンフレークに水で溶かした粉ミルクをかけ、添えられたドライフルーツと一緒にかきこんでいく。

 

「……ところでゆきちゃん。数学の問題は解けたの?」

「……」

「あとで一緒にしましょうね」

「は〜い……」

「ゆきは誰よりも早く寝るからなー」

「そういえばくるみも、出してた数学ノートの途中式がすっ飛ばされてたんだけど」

「……」

「……二人とも、補習ね」

 

 *

 

「……」

 

 一階の教室を覗く。

 “あの日”に数人で立て籠もった教室であり、すぐに足立の一人部屋になってしまった教室。

 閉めた筈の扉が開いていたのでもしやと思ったが、室内には誰も居なかった。あの後彼等がやって来たのだろうか。もしかしたら、“あの日”に立て籠もっていた足立以外の数人の内の誰かだったのかもしれない。

 あまり良い思い出でもないが、一緒にいた人達がいなくなるのは寂しい。ほんの一晩だけだが、それでも困難を乗り越えようとした仲間だったのだ。

 

「……」

 

 一階は他に用事も無いので、とりあえず足立は二階にある自分のクラスへ向かった。

 教室に入ったが、こちらも知り合いは居なかった。血が床に飛び散り、倒れた机と椅子があるだけだ。

 クラスの思い出は沢山ある。三年間一緒だった仲の良い学友もいた。学校行事にクラス一丸で必死になった事もあった。

 隅の壁にはそんな思い出の写真が沢山貼られている。汚れたり破れたりしているが、思い出の確かな証明にはなっている。

 

「……」

 

 一通りクラスの思い出を堪能した足立は、次は彼女がいるクラスへと向かった。

 “あの日”も確か、こうやって彼女に会いに行っていた気がする。それから一緒に帰って――

 

 だが、彼女のクラスへ向かう途中で、足立は何かにぶつかった。

 おかしい。この先はまだ廊下が続いている筈。彼女のクラスはこの先にある筈だ。

 しかしどんなに進もうとしても、目の前の障害物を押し退ける事は出来ない。

 

「……」

 

 そこでふと、足立は思い出した。少しだけ繋がっている様々な記憶の断片から。

 三階。部活。学園生活部。足立が入っていた部活。

 強い思い出があるわけではないが、真新しい記憶だけに鮮明に浮かび上がる。

 

「……」

 

 戻らないと、部長に怒られてしまう。

 戻らないと、シャベルで殴られるかもしれない。

 戻らないと、笑顔が見られない。

 戻らないと、授業が受けられない。

 戻らないと――

 

 次々と湧き上がる記憶に当てられ、足立は三階へ向かおうとする。

 だが、堅牢なバリケードは、その先へ足立を一歩も進ませてはくれない。

 

「……」

 

 バリケード。

 彼等を阻む為の。

 彼等。

 彼等とは。

 自分は、今――

 

 *

 

「それじゃあ、見回り行ってくる」

「ええ。無茶しちゃ駄目よ?」

「分かってるって」

 

 悠里の小言をあしらって、胡桃はシャベルを軽々と肩に担いで部屋から出て行く。

 

「いってらっしゃーい」

「おう。いってきます」

 

 由紀に挨拶を返し、部室の扉を閉める。

 綺麗な室内から一転、汚れた廊下はまるで別の世界に来てしまったように感じるだろう。だが、そんな感覚はもう胡桃達には残っていない。

 

「……よし」

 

 気を引き締めた胡桃はいつも通り、バリケードを点検しに行く。

 今までは足立の仕事だったのだが、居なくなってしまっては胡桃がするしかない仕事だ。

 

「……ん?」

 

 階段を下りていくと、異臭が鼻についた。

それと共に、ガチャガチャと何かが机にぶつかる音も聞こえる。

 バリケード近付いて見ると、何かが引っかかっている。いや、何かというのはおかしいのかもしれない。

 人である事は形から分かる。だが、真っ黒なのだ。

 身体がぶつかる度に、バリケードを縛る有刺鉄線が刺さっている。胡桃はよく見てから分かったのだが、どうやらその黒さは焼けた痕であるらしく――棘が刺さる度に瘡蓋の様な火傷の痕が捲れ、内側から血の混じった粘り気のある液体が溢れている。

 不快な臭いの原因は、どうやら真っ黒なそれのようだ。

 

「そんなになってまで動くのかよ……」

 

 酸鼻を極めるその体。

 胡桃は不快感を露わにして、それに言葉を吐き捨てる。胡桃は自分の中に、苛立ちと共にどす黒く汚い感情が内から湧き出るのを感じた。

 

 こいつらがいなければ。

 

 彼等を目にする度に、何度も思った事だった。

 どうしようもない事だと胡桃も理解している。

 彼等は人間でなく、人でないものを憎んだところで、彼等は謝罪することも、後悔することも、理解する事さえしないだろう。

 どんなに彼等を無残に殺しても、胡桃のこの感情は洗われることはない。

 

「っ……」

 

 多分、体格からして男だろう。

 そのシルエットに、胡桃は微かに見覚えがある気がしたが、もう確かめる術もない。

 胡桃は黒いそれを睨み付けながら、バリケードを音を立てずに登る。黒いそれはまだ気付いていないようだ。無理もないだろう。視覚が機能しているかさえあの状態では怪しい。

 登りきったバリケードから外側へと飛び降りる。ようやく気付いたらしい。それは胡桃の方へゆっくりと身体を向ける。

 

「ふん!」

 

 胡桃は素早くシャベルを振り、真っ黒なそれの足を掬って転ばせる。ぐちゃりと、それは体液を飛び散らせながら倒れる。起き上がろうとじたばたとしているが、焼けて固まった身体は思う様に動いていない。

 胡桃はいつも通り、足でそれの身体を押さえつけ、シャベルを振り上げる。

 そこまでして、ようやく胡桃の中の激情が冷めていった。真っ黒なそれを見つめていた憎しみのこもった瞳は、哀れみを込めたそれへと変わる。

 

「……」

 

 彼等を殺す事に、もはや抵抗はない。

 たとえ誰であろうと、それが彼等なら、胡桃がする事は決まっている。

 じゃないと、“あの日”の自分がした事も、今までの自分がしてきた事も、何の為だったのかわからなくなる。

 もう胡桃はあとには引けない。

 あとは、この手を振り下ろすだけだ。

 そして、いつかきっと――

 

「……おやすみなさい」

 

 ざくり。

 そんな今までとは違った音をたて、黒いそれは動かなくなった。

 

 *

 

 

 さようなら。

 

 

 *

 

 たまに。

 本当に、ごくたまにであるが。

 普段は呻き声しかあげない彼等が、言葉のような音を発する事がある。

 それはとても途切れ途切れで、空耳であったのかもしれない。

 彼等の口は意識して動いたわけでもないだろう。

 頭の中で蘇る記憶にあてられて、ふと出てきたものに違いない。

 ただ、それは昔の人間とそこまで変わっていない行動だろう。

 頭の中の記憶通りの挨拶、知っているからこそ出てくる会話、無意識に紡ぎ出される言葉。知識と行動の根本部分は、彼等も元が人であるだけに同じだ。

 それらは人として生きていた頃とそこまで変わった行動でもない。

 彼等は意識も無ければ、意思もない。

 ただ其処にあるだけ。

 通ったその跡に爪痕を残して行く、雨や風などの現象と同じだ。

 しかし、彼等に未来は無い。

 時間という概念すら放棄した彼等の頭は、時の流れに囚われない。

 あるのは追いかける為の自らの記憶だけ。

 彼等は己の中で生き続けた。

 

 *

 

「すぅ……すぅ……」

 

 机の上で、少女が穏やかな寝息をたてて眠っている。

 教室のど真ん中だというのに、大した度胸である。見れば、角が生えたような黒い帽子を被ったままである。

 

「……ふぁ〜い。ん?」

 

 まだ眠気が取れていないのか、少女は気怠そうに眠気眼のまま顔を上げる。

 

「……おはようございます」

 

 丈槍由紀は、私立巡ヶ丘学院高等学校の三年生である。

 受験や就職を考える時期に差し掛かり、勉強に身を入れる立場である。

 

「えへへ……。りーさんがなかなか厳しくって。遅くまで勉強してたんだ〜」

 

 苦笑いを浮かべ、周りにそう言い訳する。

 昨晩は、由紀のあまりの勉強の出来具合に、学園生活部全員で勉強会をしていたのだ。

 悠里は普段の甘さを改めたのか、その時は妥協を許さず、自力で問題が解けるようになるまで眠らせてはくれなかったのだ。

 

「じゃあ部活行ってくるから。バイバイ」

 

 挨拶をすると、由紀はさっさと教室から出て行く。

 廊下であるにも関わらず、走って部室を目指す。

 

「――」

 

 ぼかされた景色を、“あの日”に置き換えていく。

 荒れた教室も、割れた窓硝子も、汚れた廊下も。暖かな、“あの日”に代わっていく。

 ここは学校で。由紀はここの生徒の一人で。

 その事実さえあれば、由紀の現実は決まっている。

 

「――ん」

 

 全ては幻想だ。

 だが、由紀はこの幻想を愛している。

 そもそも幻想でないものなどあるのだろうか。

 この頭で認識する事が全てだ。その全てが由紀の現実になる。

 その幻想でさえ、由紀にとっては現実なのだ。

 

「――ちゃん」

 

 もしかして、この世界で夢をみてはいけないのだろうか。希望を持ってはいけないのだろうか。

 いや。

 絶対にそんな事はない。

 だって、夢も希望も無かったら、あんなにも苦しそうな顔をしてしまうのだから。

 だって、夢と希望を持てば、こんなにも笑顔になれるのだから。

 だって、学校は――

 

「ゆきちゃん」

 

 こんなにも楽しく、ワクワクするのだから。




これにて『さつばつぐらし!』本編は終了となります。
作者自身のお話はここに書くと邪魔なので、活動報告のページにでも載せておきます。
ここまで付き合って下さった皆様。
本当にありがとうございました。
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