誰かを批難する時に、悪魔という概念を使う。
残酷で残虐で残忍で、そういった諸々の悪い意味を込めて使われる。
人間が表す悪を具現化したものが悪魔なら、悪魔は人間と殆ど変わらないのかもしれない。
では、校庭を彷徨う彼等は悪魔だろうか。
元が人間である彼等が人間を襲い貪り喰う様は残酷で残虐で残忍であろう。だが、もはや人間の意識が無くなった様な彼等は獣と大差ない。弱肉強食の世界でそれは当たり前の事で、それを悪魔の所業とは誰も言わないように、彼等もまた悪魔ではないだろう。
悪魔と罵ったところで彼等には関係もないだろうが。
ブルーシートに包まったまま足立は空を見上げた。
あの日から変わらない青い空が延々と続いている。雲がゆったりと流れ、鳥が飛び回るいつもの空。まるで昔の日常がそのまま続いているように感じてしまう程に爽やかな空。
崩壊することもなく、かと言って急激な変化が起きるわけでも無く、足立の日常は今まで続いていた。何の不安も無く、空を見上げて翌日の天気を気にするような日々だった。
だが空の下の街の有様は、日常が崩壊したあの時を思い起こさせるには十分だった。
道路のコンクリートは割れ、事故を起こしたであろうひしゃげた車はそのまま放置され、電信柱や街灯は倒れている。
密集した住宅の壁は割れ、汚れている。人間の居なくなった住宅は急速に老朽化する。事件の時に火事が起こったであろう家は、周りの家々を巻き込み、焼け残った残骸を晒している。
それらを直す人間も、それどころか気にする人間さえも今はいない。いなくなった。
「人間のいなくなった世界……か」
テレビやインターネットでたびたび再現映像が流され、人間のいた社会が長い歳月をかけて風化して消えていく様を足立は思い出す。
全て消えていく。
人間の社会や営みがどれ程発展しようと、それは自然に還っていく。
「うち……大丈夫かな」
ふと呟いてから、今まで家族の心配を一度もしなかった事に気付いた。
足立の家は一般的な、どちらかと言えば恵まれた家庭だった。両親は足立を不自由のない様に育て、足立自身も両親に感謝しても憎む事は無かった。社会人の兄とも不仲ではなかった。
何故今まで家族の事を考えなかったのか。
余裕が無かったからだ。自分の命すら危険な状況で、他の事を気にする余裕が無かったからだ。そう思いたかった。
自分は我が身可愛さで、大切なものまで忘れてしまう浅ましい人間じゃない。足立はそう思いたかった。
「猫は……大丈夫だな」
言ってると不思議と笑みがこぼれた。足立家が飼っていた猫達は勝手に外に遊びに行き、餌と快適な寝床の為に家に帰ってくる強かな猫達だった。家族が消えても何も変わる事無く生きている気がした。
「猫を飼っていたんですか?」
慈が後ろから尋ねてくる。近くで胡桃が寝ている為、声は小さい。
「二匹いました。あいつらの事だから無事だろうなって……どうしました?」
「疲れてると思うけど、少しいいかしら?」
「ええ、大丈夫ですよ。……ていうか先生の方が大丈夫ですか? 腰とか」
「ごめんね……先生なのに情けなくて」
とほほ、と言いながら足立の隣に慈が座る。先程まで話していた悠里は由紀と共に菜園の様子を見ている。
「出来ればで良いんだけど、学校内の様子とか教えてくれないかしら?」
「……分かりました」
それから足立は、自分の今までの成り行きを学校内の様子を交えつつ、彼等の動きや習性のようなものも慈に話した。
「……じゃあ一階は、もう誰も居ないのね」
「多分……ですけど。二階や三階はまだちゃんと探してないんで分かりませんけど、正直可能性は低いと思います」
「そう……」
一階で徘徊しているものは日が沈むと共に学校から出て行く。そのまま残っているものもいるが、それでも数える程だった。
しかし一階の彼等と違い、二階や三階からは段差を嫌って殆ど動かない。その為に足立は二階や三階への探索に踏み切れずにもいたのだ。
立て篭もるのにも限界があって、食料や水も有限だ。足立の記憶が正しければ食料がある購買部には、足立以外誰も訪れている気配は無かった。
だが、まだ誰かが生きているかもしれない。
食料もあって、彼等から運良く逃げ延びた者が二階や三階で生きているかもしれない。
慈はそう思っても探しに行こうとは言えなかった。
無闇に動けばどうなるかは今回の探索で嫌という程思い知った。計画や安全性を考慮しなければ、次はないだろう。
残酷な判断であるが、例え今誰かが彼等に襲われ救助を求めていようと、今の慈達には何も出来ない。今いる者達を危険に晒してまで動くことは出来ない。
それが今の慈の判断だった。
「いつか、三階から彼等を追い出して生活圏にしようと思ってるんだけど。足立君はどう思う?」
「危険だ……ていうのは承知なんですよね」
足立の確認に慈は苦笑を返すしかなかった。
「ここでの生活も限界があるからね」
「安全を求めるなら、一体ずつ倒して、長い時間をかけて制圧するしかないですね」
「やっぱりそうよねぇ……」
「あとは道を塞げる……バリケードみたいなものとか」
「それは机と椅子でどうにか出来ると思うわ。有刺鉄線があったの」
どうして有刺鉄線が学校にあるのか。何処からか取ってきた訳でもないだろう。足立は疑問を抱かずにはいられなかったが、有るなら使えばいいと考えるのを諦めた。
「なら、早いうちにしないといけませんね」
「焦りは禁物よ」
焦りは禁物だが、臆病になることではない。
三階の状況がよく分かっていないなら、今は手探りで行くしかない。
今動かなければ屋上で餓死にするだけだ。
「分かっています。……あと恵飛須沢のことなんですけど。あいつって何部だったんですか?」
「え? 陸上部よ?」
「……女子があんな簡単にシャベルを振るえますかね」
どんなに腐った体でも、その首を飛ばすのは相当な力がいる筈だ。足立も彼等に奇襲をかけていたのは安全性の面もあったが、一撃で沈黙させることが出来なかったからだ。
シャベルは強度も高く、鋭い先は有効だろう。だが、ただの女生徒が振るうには重すぎるはずだ。
そのシャベルで二体の首を一気に吹き飛ばす胡桃はどこかおかしい。足立にはそう思えて仕方なかった。
「まるで私が女子じゃない、みたいな言い方だな」
胡桃が不満顔を向けて足立達に言う。
「あ……別に、いや…………すまん」
「いいよ。別に」
そう言いながら胡桃は立ち上がって手摺に頬杖をつく。その目は校庭で彷徨い歩く彼等を見ていた。
「……ちょうどそこで、最初に殺したんだ」
胡桃が動かした視線の先、足立のすぐ側の床に完全に拭き取れなかった血の汚れがあった。
「その時から何か……体がよく動くんだよ。リミッター解除ってやつだな」
胡桃は色々伏せて足立に話した。まるでゲームで新しい能力を手に入れて嬉しそうな顔で。
慈にはその場で見ていた当事者であるが故に、胡桃が平気な素振りをしているのが痛々しく感じた。
彼女がその後どれだけ泣いて、どれだけ後悔していたか。吹っ切れたと言ってはいるが、嘘だという事は慈には分かっていた。
「でもそれって、大丈夫じゃないだろ」
「……自分の体なんだ。ちゃんと休んでるし、お前よりはちゃんと体調を把握してるよ。だから大丈夫」
話は終わったとばかりに胡桃は手摺から離れると、悠里の元に向かって行った。
「……」
「お節介だって言われるけど、恵飛須沢さん無理してると思うの。……多分これからも無理をすると思う」
慈の苦しそうな告白を足立は黙って聞く。
「私じゃ恵飛須沢さんを助ける……というか手伝えない。だから、お願いなんだけど、恵飛須沢さんが無理をしそうになったら助けてくれないかしら」
足立には佐倉慈という人物が生徒に人気なわけが少し分かった気がした。
「ええ、わかりました」
誰よりも生徒を心配して、その目線に立って一緒に考えてくれる。まるで友達のような先生。教師として経験が浅いからか適切な助言ができる訳ではないが、その姿勢は生徒達にはやはり好評だったのだろう。
「さて。日も傾いてきたし、夕食にしましょうか」
さっきまでの真面目な口調を明るく切り替えて慈が提案する。
この学校を離れる前に、慈のその人となりを理解できて足立は嬉しかった。
*
日が沈もうとしている。
西の空は綺麗な橙色をしており、暗くなる空からは星の光も現れている。闇がゆっくりと周りを覆っている。いつもなら既に灯っている家々の光も無いため、闇の中で見える光は足立の前にあるライトからだけだった。
下校の時間。その日の学業を終えて生徒が帰宅する時刻。
校庭や一階から出て行く彼等を横目で見ながら足立は氷砂糖を舐める。
「懐中ライトなんて、どうして持ってるんだよ」
「ん、いや購買部にあったのを拝借したんだ」
購買部には非常用の物資が沢山置いてあり、その中から持って行った物の一つがライトだった。暗い校舎内で使おうとしていたが、彼等を呼び寄せてしまうかもしれなかった為あまり使う機会はなかったが。
「まぁ学校なら、それくらい有りそうよね」
「しかし……この学校、設備は本当に充実してるよなぁ。ソーラーパネルまで付けてさ」
「環境に優しい学校なんじゃないか」
「屋上の、野菜にやってるお水も雨水を濾過したのを使ってるって聞いたわ」
「今時の学校は凄いもんだな。ずっと住めるかもな」
「今時って……足立なんか年寄りくさいぞ」
「ああ、よく言われたよ」
ただし足立の年寄り臭い話し方は大体演技である。
屋上の面々はライトと保存食の乾パンを囲んで質素な食事をとっていた。購買から調達したとは言え、今の状態がいつまで続くか分からない為食料はあまり消費できない。
「めぐねえ、これパサパサするね……」
「……サバイバルって感じで先生好きだけどなぁ」
「どうした丈槍。食える時に食っとかないと、体を動かせないぞ」
足立の年老いた声の演技に丈槍は小さく吹き出す。
「足立くん……本当におじいちゃんみたい」
「……女の子の一番の化粧は笑顔だって聞くからな。笑っていれば大丈夫だろ、多分」
「うん」
塞ぎこんでいた由紀も慈と話すうちに笑顔を取り戻している。
良い傾向だと足立は思う。確かに今の状況では塞ぎこむのも無理はなかったが、それでも生き残るなら前を向かないといけない。
「多分って……」
「締まらないわねぇ……」
笑う門には福来る。
辛くても前を向いて進めば、良い事があるはずだ。そうやって希望を持たないと、不安に押し潰されてしまう。
この全員で生き残る為に。
「……若狭。その缶詰くれないか?」
「駄目よ」