一階からけたたましい音が聞こえてくる。
消火栓に付いた火災報知器。
それは本来、人間に注意を喚起し避難を促すものだった。例え人間でない獣であろうと、その大きく不安を煽る音には近付かないだろう。
だが、それに気付いた彼等はゆっくりと階下から聞こえる音に向かっていた。
その音の意味さえ憶えていないのだろう。興味を惹かれた様に彼等は体をそちらに向けていく。
だが、注意を完全に向けれる訳ではない。その進行方向に獲物がいるならば、彼等はそれに食らいつこうとする。
「おらっ!」
襲い掛かってきた一体の足をシャベルで払って倒す。しかし、止めを刺す暇は無い。ぞろぞろと廊下から彼等が出てきたからだ。
足立は傍に置いてあった消火器を手に取り、安全栓を抜いてホースの先を彼等に向ける。
そこへ、シャベルを振り回しながら胡桃が階段を駆け上がってきた。
「足立!」
「遅いぞ!」
「階段にも来てたぞ! 食い止めとけよ!」
胡桃の怒鳴り声に足立は顔を引きつらせる。
当初の考えでは火災報知器を鳴らした胡桃が安全に二階まで戻って来れるように、足立が二階で退路を確保しておく手筈だった。しかし、想像よりも多く押し寄せて来た彼等を捌ききれず、そのまま階段へと行かせてしまったのだ。
「あぁ……すまない」
足立は階段を駆け上がってきた胡桃を先に三階へと登らせ、消火剤を彼等に吹き付ける。
火元を吹き飛ばす勢いは生身の人間には痛い程である。彼等は足立から避けるように一階へ降りる階段へと向かって行く。
「足立! 上がれ!」
「ああ!」
消火器の噴射が弱くなってきたのを感じた足立は、消火器を階段へと転がす。周りは消化剤で白い煙に満たされているため、視界に頼れなくなった彼等は火災報知器の音のする一階へ向かう。足立はその隙に階段を登り、バリケードを超えた。
「ふう……」
「流石りーさん、良い案だよ」
「……全くだ」
胡桃の意見に、足立は強く同意する。
今回の火災報知器で誘き寄せる考えも、消火器の利用も全て悠里の提案である。三階制圧時の防犯ブザーの利用も、彼女の機転があったからだ。
悠里は先を見通し幾通りも方法を考えている。胡桃も足立も、彼女の作戦無しでは今頃どうなっていたか分からない。
「さ。あいつらが一階に行くまで戻って時間でも潰そうぜ」
「そうだな」
彼等が三階へと上る気配を見せないと判断した二人は、生徒会室へと戻っていった。
*
人間は弱い存在だ。
それは肉体的な意味であると同時に、精神的な意味でもある。
個人で思い付いた事を実行出来ないというのは珍しくない。人間は個人の能力を無意識に理解していて、失敗の危険に怯えてしまう事が多いからだ。
だからこそ、人は集団を作る。
集団になることで強くなる。
個人では到底出来ない事を集団になる事で成し遂げる。 純粋な力の量から、精神的な安心感、集団内の勢いというのも有る。
そして今の巡ヶ丘学院高等学校の状態を考えれば、集団として行動することは絶対である。悠里と慈はそう考えていた。
「部活動?」
「はい。そう思って、目的があった方が良いと思って」
慈は学校内を生活圏にする事を目的にしているが、正直今の悠里にはやる気が出る考えではなかった。生活が安定し危険も減ると分かってはいるが、変わり果てた彼等と外の光景を見る度に気が沈んでしまうからだ。胡桃達も健気に振舞っているが、内に溜め込んでいる物は皆同じだろう。さらに外界から何の接触も情報も無いため、救助が来るのかさえ怪しい状況である。
この先に希望が見えない。
生活圏を広げた所で状況は変わらず、外の光景も変わらないだろう。
人は苦痛を無条件では受け入れない。その末に求めたり望んでいるモノがあるからこそ、人は苦痛に耐えられるのだ。
だから、せめて部活による生活だと意味を持たせ、昔のように過ごせるように思う事。彼等に怯える生活では心も体も、いつか疲弊してしまう。
「そうね、良いわね部活! 何て部活にしようかしら?」
「そうですね……学園、生活部」
「学校暮らし、なんてね」
悠里の考えに慈が笑う。
安易な名前であると悠里も思うが、言った後でもこれ程当て嵌まる名前もないと思った。
笑顔を浮かべながら慈は立ち上がり、職員室の戸棚から一枚の紙を取り出して来た。
「これは……申請書ですか?」
「新しい部活を始めるなら、これからでしょ? 折角なら形から入らないとね」
「ふふっ。そうですね、めぐねえ」
「ふふふ。あっ、悠里さん。めぐねえじゃなくて佐倉先生」
「はい、佐倉先生。あっ、顧問は勿論佐倉先生ですよ?」
「ええ、分かりました。学園生活部部長さん」
*
「学園生活部?」
「そう。めぐねえと相談して。ただ暮らすのも疲れるだけだから、部活動と思ってこの学校に泊まろうって」
一階の火災報知器が二階の彼等をなるべく多く引き寄せるまで、胡桃と足立は三階の生徒会室にて休憩を取っていた。
下で鳴る火災報知器を聞きながら胡桃はシャベルの手入れを、足立は文庫本を読んでいる。
そこへ悠里が一枚の紙を持って来て、慈と話し合った事を胡桃と足立に説明していた。
「これは自分達が自主的に暮らしているだけであって、別に彼等がいるから学校にいるんじゃないって。そう思った方が気も楽だと思うの」
「ふーん……私は良いと思うよ。学校生活ならやる事も沢山あるしな」
胡桃は同意を示すように足立へ視線を向けた。
「俺も目的意識を持つのは良いと思うけど」
「……けど?」
「何て言うかな……だからって現状を受け入れないのは駄目、じゃないかな」
その言葉に、意味が理解出来ないといった風に悠里と胡桃は顔を足立に向けた。
「すぐ下にも、外を見れば彼等はいるんだ。……今置かれている状況が変わるわけじゃないだろ?」
足立には悠里が言っていることは分かる。
悠里達に会う前の、惰性で生きていた日々。
その生活を経験したからこそ、足立も目的を作る事は良い事だと思っている。
だが悠里が語る学園生活部は、今の状況を忘れようとしている。外を見ずに、この小さな生活圏で学校の真似事をする現実逃避の集団になろうとしている。
どんなに逃げようとも、窓を覗けばそこには現実がある。その足元で彼等は彷徨っている。
目を背けても、それが無くなる訳ではないのだ。
「逃げる前に、現状の打開を目指すべきじゃないかな。……って思って」
「そう……でも。だからって、外を見たって辛いだけじゃない」
「いや、でも」
「友達も皆あんなのになって……家族の安否さえ分からないの……それでも足立君は外を見ろって言うの?」
苦しそうに、自分の内に溜め込んだ物を吐き出すように悠里は話し続けた。
「私たちは此処から動けない……助けが来るまでこの学校から出られないの。……貴方はそれでも現実を見ろっていうの? 足立君は、それでも耐えられるの?」
それは一番状況を考えている悠里の言葉だからこそ、重みを持っていた。
「……それとも、足立君には、現状を打開する方法があるの?」
「……」
足立は何も答えられない。答える事が出来なかった。
足立の沈黙をどうとったのかは分からない。ただ悠里は視線を自分の手元に向けて口を開いた。
「ごめんね……でも私は耐えられない」
重苦しい沈黙が生徒会室に横たわる。
今まで鳴っていた火災報知器の音も、いつしか止んでいた。
*
深夜ともいえる時間帯。
慈は手にした懐中電灯で暗闇を裂きながら、足立と共に廊下を歩いていた。
今では天井の電灯も使えるのだが、彼等が光に反応すると考えられる為、節電の意味も込めて灯りは付けていない。
三階を制圧した日から、深夜の見回りは慈と足立の仕事であった。バリケードの点検と彼等が侵入してないかの確認。昼夜が逆転した生活になるが、足立は一階で過ごしていた頃と同じ為慣れたものである。ただ、慈は足立のようにはいかない為、一通り見終わった後は足立だけで警戒を続けている状態だ。
「胡桃ちゃんから大体の話は聞いたわ」
「……そう、ですか」
慈の言葉に、足立は曖昧に返事をする。
話とは、生徒会室での悠里と足立の事だろう。あの後、由紀や慈が生徒会室に入ってきた為、二人の話も曖昧に終わってしまった。足立も、その事で煮え切らない気分でいたのだ。
「確かに、足立さんの言う事も一理あると思うの」
「……」
現実から目を背けず、現実を見つめる事。足立が悠里へと提案した事だ。
「でもね、正直。みんな一杯一杯だと思うの」
「……そうですね」
日常が崩壊したあの日から、慈達は様々な物を失った。
家族、友人、同僚、生徒、教師。人間関係だけでも、個人で繋がっていたもの殆どが無くなった。勿論、全員が死んだか彼等になったとは断定は出来ないが、現状では希望さえも見出せない。
「希望のない中で生きる事は難しいわ。……辛いだけだもの」
「……」
慈の言葉に、足立は黙るしかなかった。一階で一縷の望みに縋り続けた生活を思い出したからだ。
「現実逃避だと思う。……でもね、それでしか、もう生きる気力は持てないと思うの」
生きる為の希望。もはやそれは彼等が溢れる外には無い。
「三階を制圧してから、由紀ちゃん。どんどん辛い顔をしてるの。昔を思い出してしまうんだと思う。このままだと……」
慈は途中で口を噤んだが、何を言おうとしているかは足立には分かった。
生きる気力を無くし、絶望した人間は、自分の命に執着しない。明日の心配もしなければ、危険を避ける事も無くなるだろう。運良く生きても惰性の内に死ぬか、もしくは自ら命を絶つか。
二人は最後のバリケードを見る為に階段を降りる。慈は懐中電灯を切り、踊り場に作られたバリケードを手分けをして点検した。
ふと、足立は二階に目を向ける。
「……」
バリケードの向こうに、当然の如く彼等はいる。
あの日から変わらず制服を着た死体が、階段前で止まっていた。ここまで来たが、階段の段差を前に動けずにいるのだろう。
彼等の、変わり果てた姿を見ながら足立は改めて思った。
(外は、現実は地獄だ)
日常の崩壊したあの日から、道徳も倫理も価値観も根刮ぎ無くなった。
苦しみは絶えることなく、終わりは誰にも分からない。
『足立君は、それでも耐えられるの?』
悠里の言葉が脳裏で響く
希望のない現実の中で、絶望の続く現実の中で、耐え続ける事が出来るのか。
(それでも……生きなければいけないのなら)
希望が外に見出せないのなら、夢を内側で作るしかない。
悠里達は生きようとしている。生きる為に足掻いている。その方法が正しいかは分からない。間違っているとも言えない。
点検を終え、階段を登りながら慈は口を開いた。
「私はね、足立くん。どうしようもなく辛いなら、逃げるべきだと思ってる」
「……」
「ごめんね。責めるつもりじゃないの。……それに、足立さんの言う通り、逃げてばかりじゃいけないわ。貴方の意見で一旦、冷静に考えられたわ」
「……そうですか」
「本当よ? 足立さんみたいな意見が無いと皆んな可笑しな方向に行ってたかもしれないわ」
「そう……ですかね」
「ええ。……それじゃあ、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
それだけ足立は言うと、踵を返し暗闇の校舎を歩き出した。
その背後で、ゆっくりと放送室の扉の閉まる音が聞こえた。
*
早朝。太陽は出ているが、まだ薄暗い校舎を悠里は歩いていた。
日課である屋上の菜園を見る為である。
植物も人間と同じで、水や栄養を欲しがり病気になれば適切な処置を施さないといけない。その為にも毎日の観察は必要であった。
菜園で育てる野菜は、今の悠里達の貴重な食糧源でもあり、保存食では賄えない食物繊維は健康に大きく貢献する。
「……」
大きな汚れしか取れていない為、廊下は今だあの日の惨劇を物語っている。
日常が崩壊したあの日、悠里が最初に考えたのは家族の無事だった。だが、どんなに祈ろうと、屋上から見える街の惨状が家族の末路を物語っていた。
だから悠里は考えた。
今を生き残る術。生き残った者の健康や栄養管理。三階の制圧方法。彼等をどうすれば誘き寄せるか。彼等の安全な対処法や退路の作り方。
色々な事を何回も何通りも考えた。ただひたすら、他の事を考えないように。家族がどうなったのか考えないように。崩壊した日常を考えないように。
だから、足立の指摘した通り、悠里が考えたいた学園生活部は現実から目を背け逃避する集団だ。
だが、今の状態で誰が悠里の行動を批判するだろうか。
もはや縋るべき希望は何処にも無い。それでも生きたいなら、この空間だけで自分を守るために塞ぎこむしかない。
「……あら?」
「おはよう。お邪魔してるよ」
扉を開けると先客がいた。
菜園の野菜を前にした足立が、悠里に挨拶をする。
「……つまみ食いはいけないわよ?」
「分かってるよ、まだ青いしな。手伝うよ」
「ありがとう。じゃあジョウロでそのトマトに水をあげてくれるかしら」
「分かった」
二人はそれぞれの仕事の分担に従って野菜の世話をしていく。
「昨日は言い過ぎた。ごめん」
背中合わせの状態で足立は謝罪を口にする。何となく、顔を見合わせて話すには恥ずかしかったからだ。
「……いや、足立君の意見はもっともよ」
「……でも、辛いよな」
「……そうね」
「俺は中学まで部活してたけどさ。辛くなって高校からやってないんだ」
「あら? そうなの?」
「ああ。だから、俺は人の事言えなかったよ」
「それは……」
事の大きさが違う。そう悠里は言おうとしたが、その程度差の線引きは何処なのかと思うと言葉に詰まってしまう。
そして足立は言いにくそうに話し続けた。
「あの後で言うのも可笑しいけど、やっぱり部活作ってくれないか」
「……いいの?」
「元から俺一人の意見で決めるもんじゃないしな。……それに、俺も疲れてきたよ」
校庭を見ながら足立は溜息をついた。
まるで朝練をするように、彼等は朝早くからこの学校へやってくる。
「でもな、やっぱりみんなが目を瞑ってる訳にはいかない。……だから、俺はなるべく現実を見るよ」
平和でいる為には治安の維持が必要なように、悠里達が部活動という幻想の中で生きるには現実に目を光らせなければいけない。
いつ何時、彼等が牙を剥くか誰にも分からないのだから。
「若狭達の学園生活部を守る。君達が平和でいられるように、俺が彼等に立ち向かうよ」
学校の部活動。それで悠里達が笑顔で生きる気力を持っていられるのなら、その虚構や幻想を守る。
「だから、これが俺の入部するにあたっての目標。……まぁ、当分は恵飛須沢の力も借りるかもしれない。でも、いつかあいつも若狭達といられるようにする」
足立は宣言し終えたように、再びジョウロで水を遣りはじめた。
「……足立君がこんな情熱家だったとは知らなかったわ」
悠里は掛ける言葉が見つからず、やっと出てきたのは返事になっていない言葉だった。
「惚れると熱いよ?」
「ええ、不覚にもドキッとしちゃったわ」
芝居掛かった口調の足立に、悠里も同じく冗談で返す。そんな無駄なやり取りで二人の顔に笑顔が生まれた。
こんな風に毎日を過ごしたい。そう悠里は思えた。
足立の言う通り、厳しい現実に立ち向かう事も大切な事だ。だが、それは今からゆっくりと考えればいい事だろう。
「……そうね。私も目標を作るわ」
現実から逃げる為に働くのではなく、足立や慈達の健康を守る為に働こう。自分だけの為ではなく、全員の為に。現実を直視しないのは前と同じだが、そこはもう許して欲しい。
「へぇ、どんな?」
「ふふっ、内緒よ」
そう言って、悠里は微笑を浮かべた。
やっとこさ学園生活部設立。
うーん、色々と難しい。