Fate all of the world   作:源氏物語・葵尋人・物の怪

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正義の味方を目指す者

「なぁ、理睲《リセイ》。理睲は、自分の名前好きかい?」

 

 まだ少年が幼かった頃。

 仕事でよく家を空けていた少年の父が、久方ぶりに帰って来てのある日の昼下がり。

 慣れ親しんだ我が家のリビングのソファに腰を下ろす、更に自分の膝の上で、無邪気な顔で『三だいの機関車』を読む息子に、父は語りかけた。

 漸く、物の分別が付くか付かないかという時分の子供だ。

 聞かれても、その真意が分かる筈も無く――

 

「だいすきだよ!」

 

 只、溢れんばかりの輝く笑顔で然う答えた。

 

「そうか、それは良かった」

 

 父もそれを見て、無骨を絵に書いたような傷だらけの顔に何処か悲しげな微笑を作る。

 何かを懐かしむように、また、悼むように。

 

「――お前の名前はね、ダディとマミィにとってとても大切で、そしてとても感謝している人に肖った名前なんだ」

「あやかるって、なあに?」

 

 首を傾げる我が子に、父は優しく温かい声色で答える。

 

「その人が凄いから、その人みたいになって欲しくて、似た名前を付けた――みたいな感じかな?」

「ふーん、そうなんだ」

 

 この年頃の子供というのは、新しいことを覚える度――しかもそれが自分にとって難しいと感じることであればあるほど――喜びを露わにするものだ。

 理睲もその例に漏れなかった。

 

「ねぇ、ダディ」

「なんだい、理睲」

「そのひとってすごいの?」

 

 子供というのは、興味の対象が次々移り変わり、話の脈絡が掴み難いものだ。

 多分に漏れず、理睲もまた唐突に父に訊ねる。

 

「うん、とても」

 

 父は、自信をもって答える。

 

「言峰璃正――強く、優しく、そしてマリアナの水底より深い信仰心を持った理想の神父様だったよ」

 

 そして、窓の傍に飾られた写真を見る。

 ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂を背景に、少年とその姉、二人の母と、そして父が幸せそうに笑う家族写真が、外から差す日差しに照らされていた。

 父は、それを感慨深そうな面持ちで見つめている。

 

「……あの人がいなかったらね、この写真は無かったかもしれないんだ」

「りょこう、できなかった?」

 

 首を傾ぐ理睲の頭を父は微笑みつつ、皮が捲れ、風化した掌で撫でる。

 

「そういう意味でもあるね。でも、それを言うなら、みんなでバーベキューしたり、海に行ったり、モノポリーをしたりすることもなかったんだよ」

「そうなの?」

「そうなんだよ。あの人がいなければ、理睲や姫麗《キレイ》――お前の姉さんだって本当はいなかったかもしれないのだから」

 

 まだ幼い理睲はその意味を理解しかね、首を傾げるばかりであった。

 併し、理解は出来ずとも、父にとっては『とてもじゅうようなこと』なのであることは感じ取れた。

 カーテンが、部屋に入り込む暖かな風に揺れている。

 庭の木々が揺れ、葉と葉が擦れ合う音の間に、小鳥の鳴き声が入って来た。

 

「じゃあ、そのひとがいなかったら、ダディやマミィといっしょにいれないんだね」

 

 それを聞いて父は、フフフと笑みを零し、息子の髪を沙羅沙羅と撫でる。

 

「……理睲は賢いなぁ。そう――だから、璃正さんは凄いんだよ」

 

 その言葉には、特に『凄い』に強い熱が籠っていた。

 理睲は思った。

 ――ダディは、りせいさんのことをとっても『そんけー』してるんだ。

 父が尊敬する人物の存在。それは理睲にとって青天の霹靂であった。

 理睲のとっての父とは『正義の味方』であり、『何でも出来るスーパーヒーロー』なのだ。

 そんな父の尊敬する人物――つまり『ダディよりすごいひと』がいることなど、ただ驚愕するしかないことだった。

 そして、父をも超える知の存在が、理睲の目に燦然と輝いていて見える。

 どく、どく。

 屹度、言葉にすれば、こんな音。理睲はそれが、何処から来ているのか分からなかった。

 気が付けば理睲は絵本を閉じていた。

 

「理睲?」

 

 父が不思議そうに理睲の顔を覗き込む。

 その次の瞬間には理睲は父の膝の上からぴょこんと飛び降りていた。

 そして、理睲は父を真っ直ぐ見つめる。

 改めて見ると、とても大きい人であった。優しく、偶には怖く、でも優しく、そして強い『ダディ』。

 どく、どく――。

 最早、理睲の耳には首の下から湧き上がってくるその音すらも聞こえない。

 

「じゃ、じゃあ」

 

 声が上擦る。

 

「じゃあ、ぼくりせいさんみたいな、ダディにすごいっていってもらえる『せいぎのみかた』になりたい!」

 

 歯を見せて、顔が皺で一杯になるほど笑って、高らかに夢を語り上げた。

 ――なれるかな? 無理って言われないかな?

 どく、どく、どく、どく、どく――。

 屹度、父にはこの音が届いてしまっていた。

 父の答えは――

 

「どうしてないてるの? ダディ?」

 

 落涙。

乾いた土のひび割れに水が滲み込むように、一筋の涙が大きな切り傷の目立つ左頬を伝う。

 

「あれ? ははは、どうしてだろう?」

 

 自分自身で気付いていなかったようで、父は眼鏡を取り、涙を拭った。

 理睲は目を丸くし、口を半開きにした。

 父が泣いている所など、今迄、見たことがなかったから。

 父は強い存在だった。その強さが揺らいだ故に、理睲は不安になり、父に訊ねようとした。

 だいじょうぶと――

 

「理睲っ……!」

 

 併し、それを言うことは適わない。

 抱擁。痛い程、強く、そして何処までも温かく、それでいて何処か縋るように、父は息子を抱きしめる。

 

「ありがとう……。本当にありがとうッ……!」

 

 何故、『ありがとう』と言われたのか。

 子供の頭では分からない。否、16歳の今になって尚、慈島理睲《いつくしまりせい》にはあの時の――2004年の、まだ寒さが残る三月の――父の感謝と抱擁、そして自分に初めて見せた涙の意味は分からない。

 只、分かるのはこの光景は死んだとしても忘れないということ。

 そして、父に語った夢は何があろうと手放さないということだけだ。

 

 

 

 ジリィィイイィィ――――…………。

 目覚ましの音が、気怠い闇の中に割り込んできて、理睲は半ば微睡乍ら、瞼を粉骨砕身こじ開けつつ、掛け布団と共に上体を起こす。

 

 ――ジェームスだ……。

 

 掛け布団カヴァーに描かれた、多数の人面機関車の内、赤い機体のモノが眠気眼の先に止まり、今にも霧散してしまいそうな思考の内でそう呟いた。

 ジリィィイイィィ――――……………。

 次に理睲は、部屋に充満する喧しさを漸く気にし出し、枕元の目覚まし時計をぶっ叩くようにして止める。

 

「くそう、眠い」

 

 そうボヤキ乍ら、理睲は自分の頭を二、三度小突いた。

 何時も乍らに、朝の辛さには辟易せざるを得なかった。

 併し、起きない訳にはいかない。

 毎朝、四時から学校に登降するまでの七時までの鍛錬。ふと気が付いた頃から理睲の習慣となっていたもの。理睲にとって欠かしてはならないものであった。

 慈島理睲はカトリックの暗部たる聖堂教会に所属する代行者であった。代行者というのは教義に反する存在――魔道や悪魔と戦い絶滅する存在である。魔術師も死徒――一般的な言い方をすれば吸血鬼のような怪物――もこの世には存在している。信仰と言う名の正義の名の下にそれらと戦うのが理睲の役割である。

 仕事を始めたのは十二歳の頃から。その仕事に憧れていたのは、『父』という存在を認識し、信仰を持った頃から。

 

 ――強くなりたい。父さんに認められるほどに。

 

 齢五十にして未だ前線で戦い続ける代行者である父、慈島辰吏《いつくしましんり》に対して幼い理睲が口にした夢であり、そして誓い。

 それを果たす為に理睲はひたすらに強さを求めていた。

 

 ――誰よりも、父さんよりも、もっと。

 

 そう思い続け、格闘術を学び、洗礼詠唱を学び、黒鍵を使いこなし――そして嘗て魔術師であった母から魔術を学んだ。その結果理睲は強くなった。それこそ、並み程度の死徒ならば、単身でも倒せる程に。

 だが、まだ足りない。強くなった理睲を父が褒めたことがまだ無い。

 それは、自分よりも強い代行者がまだまだ沢山いるからだと、理睲は考える。

 例えば、聖別された鋼の体を持つ駆動英雄《アンドロイド》の男。他者の霊障を自らの身体にも具現化させる悪魔祓い。また、父の辰吏は息子を指して言峰璃正の息子の全盛期にすら及んでいないとすら語る。

 そして、元々影たる聖堂協会の更に黒い部分。言うならば、闇。二十七いる、最も危険な死徒達の祖とも渡り合う構成員七名予備役一名の最強戦力。一人一人が城を爆砕し、都市を撃滅し、国を灰塵と帰す魔人の集団。

 その名を“埋葬機関”。

 当然、理睲はこの“埋葬機関”には遠く、那由他を那由他で掛けても足りない程遠く及ばない。

 故に、理睲は彼らに憧れた。そして、信仰の為、また父に認められる為に彼らになりたいとさえ思った。彼には才能は足りないのかもしれない。けれど、主の御名を崇め、そして励むことに対して――陳腐な言い方に直せば『努力』に於いて理睲は誰よりも才に恵まれていると自負しているし、また多くの代行者が彼の行動を見てそう言う。ならば、その『努力』を肉が削げ落ち、骨が擦り切れる程行えば或いは自分も……と、理睲は思っているのだ。

 其の為には今日も今日とて鍛錬。

 理睲はクローゼットから、黒い法衣《カソック》を引っ張り出し、姿見の前に立つ。

 

 ――うーん、やっぱり伸びてないよね……。

 

 姿見に映る寝巻姿の自分を見て、理睲は少しばかり肩を落とした。

 148㎝。理睲は16歳にして身長が小学5年生程度しかない。理睲のコンプレックスの一つであった。

 幼い内に筋肉を付けすぎると身長が伸びなくなるとそのような俗説が蔓延しているが、理睲はまさしくその典型例だった。それを指し示すように寝巻の上からは分かり辛いが全身の筋肉は鎧のように頑健に鍛えられており、体重は60㎏と体格から考えればかなり重い部類である。

 

 ――もう少し、もう少しだけで良いから身長が欲しいんだよね。

 

 一般的なイメージとして。長身の人間は力強く、男らしく見られやすい。なまじっか、理睲は大柄な父を見て育った為に、その考えを強く抱いていたのだ。

 そして、その父故の、もう一つのコンプレックス。

 

 ――顔も、もっと男らしい感じに……。

 理睲は所謂童顔で、また女性的な顔立ちをしていた。似ている人物を上げるならば、萩原朔太郎。そう、鳶色の髪と目をした萩原朔太郎の最も美麗に映った写真の姿を残して子供になったような容貌である。

 対し、父の辰吏は顔中傷だらけの上に、ヘルマン・ゲーリングのような強面であった。

 その面差しが、理睲にとっては理想であり、正義の味方そのものであった。

 併し、無い物強請りをしたところで、直ぐに人形然とした自分が歴戦の騎士のような漢になれるかと言われればそんなことはないということを、理睲は知っていた。

 

 ――大丈夫。皇帝ナポレオンだって、征服王イスカンダルだって、チビだったんだ。それに、この体、敵が油断してくれて結構、便利だし。うん、大丈夫だ。

 

 気休めにしかならない、自己暗示をし、理睲は漸く、服を着替え始めた。

 

「あれ?」

 

 そこで、自分の身に起こった変化に気が付いた。勿論、身長が数ミクロン伸びていたなどと言う吉報ではなく――。

 

「なんだ、これ? 刺青?」

 

 右手の甲。交差した二本の鍵と十字架が描かれた赤血色の刺青があった。

 

 ――ローマ教皇の紋章にそっくりだけど……。

 

 理睲はうーんと、唸り声を上げた。

 刺青を入れた覚えは無い。所謂、聖痕《スティグマ》とも違うように思われる。そして、何より、此れは、キリスト教の領分ではなく、魔術の領分のように理睲には感じられた。

 

 ――とすれば、母さんに聞いた方が良いかな?

 

 理睲の母親、慈島アリーナは元魔術師――しかも、それなりの歴史を持ち『神秘性』が何より重視される魔術の秘匿と自衛を行う魔術協会でもかなり権威を持っていたさる名家の魔術刻印を受け継いだ一流の魔術師である。魔術刻印とは、魔術師の家系に受け継がれる研究成果を詰め込んだものであり、子孫代々に受け継ぐ遺産のこと。

 ……当然、本来理睲の母にはその名家に残り、子を残し刻印を存続させるという使命がある筈なのだが、如何いう訳か実質的に魔術協会と敵対関係にある聖堂教会の代行者と結婚してしまっている。その理由を以前、理睲は母に訊ねたが、帰って来た答えは『Nihil difficile amanti《愛する者に困難は無い》』という言葉だけであった。

 其の時の母から感じた得体の知れぬ不気味さを理睲は忘れない。仕事で家を空けることの多い父を支え続け、料理上手で、少しばかり天然、そして自分と姉に全霊の優しさで以て接した母に初めて『魔術師』としての性のようなものを垣間見た瞬間である。

 故、魔術の手解きを受ける時は仕方なしとしているが、平素理睲はあまり母の『魔術師』としての一面を見たくないと考えている。

 畢竟、理睲は右手に突然現れた刺青のことを聞く気になれないでいるのだ。

 

「でも、これ消しとかないとな……」

 

 ふと言葉が零れ落ち、理睲の顔は苦虫を噛み潰したように歪んだ。

 思い出されるのは、自身の姉のこと――。

 慈島姫麗《いつくしまきれい》。今年二十代の後半になる歳の離れた理睲の姉は理睲や辰吏と同じく代行者をしている。

 信仰心篤く、優しく、また清廉な父に育てられたにも関わらず、何が悪かったのか、姫麗という女は酷く歪んだ人格をしていた。

 端的に言ってしまえばサディスト。教会内で爪裏の針《アイゼルネ・ユングフラウ》と渾名される生粋の拷問マニアであり、今迄数多くの魔術師を拷問にかけ、魔道を忘れさせ信仰を覚えさせた代行者きっての変わり種である。

 本人曰く、『人を嫌ったことは一度としてなく、区別なく誰もを愛している』そうなのだが、理睲には一切信じられない。生を受けてより、姫麗に受けた数々の虐めの数々を述懐しつつ、理睲はそう考えた。

 目下問題は、この“虐め”が理由ありきで行われること。詰り、現在のような刺青という基督教徒にあるまじきものが存在しているなどの状態を指す。

 逆に言えば理由さえ無ければ理睲に被害が及ぶことなど有り得ないのだ。

 ともなれば、やはり母を頼るに他ない。姉は理睲にとって、深層心理に焼き付いた恐怖そのものであるのだ。

 然らば、話は速い。代行者であることを示す、黒の法衣に着替え、部屋を出、階段を下りリビングへと向かう。

 アリーナは盆栽と園芸が趣味であり、朝は庭で花か木の手入れをしているのが大抵だ。理睲が窓の外を見ると、やはり今朝もそうしていた。クリスマスローズのプランターの前に太く結ばれた黒い三つ編みが揺れている。

 窓を開け、

 

「母さん」

 

 と、身の丈およそ150cmの小柄な割烹着姿の女性に呼びかける。

 女性は三つ編みをふわりと揺らしながら、理睲の方を向く。

 

「何かしら? 理睲?」

 

 顔を傾け微笑む母は、不惑も超えた筈であるのに少女と見紛うような若さと、輝く星のような美貌を維持していた。

 一見奥ゆかしい大和撫子めいた完璧な女性。

併し、生え際から覗く、金の煌めきと、白雪の如き肌とが、彼女が日本人ではないことを暗に示している。

 

「ああ、朝ご飯ね。今日のお味噌汁は豆腐とワカメよぉ」

「違うって、そうじゃなくて」

 

 献立の話をし始めた母の言葉を理睲は遮る。

 

「あらあら? 違うの? じゃあ、なぁに?」

 

 頭の中に春風でも詰まっているかの如くに朗らかな微笑みを絶やさないアリーナに、理睲は右手の甲の刺青を見せた。

 

「これ、この刺青。朝起きたら、出来てたんだけどさ」

 

 説明をする理睲は気が付かない。瞬間――、アリーナの目がカッと見開かれたことに。

 

「多分、魔術《そっち》方面のモノだと思うんだけど。消し方分からな……」

 

 併し、言葉は続かなかった。途中で、アリーナは理睲の右手首を掴む。万力のような物凄い力で。

 

「母……さん……?」

 

 その形相は、理睲の目にはとても恐ろしく映った。

 光彩が、無い。何処までも冷たく、剣の切っ先を突き付けられているような厭な緊張感を理睲は覚える。

 

「答えなさい、理睲。コレ、本当に今日、突然出来たの?」

「そ、そうだよ。第一、僕が刺青なんて入れに行くわけないじゃないか」

「辰吏くんにはちゃんと話したの!?」

「話してない」

 

 理睲がそう答えると、アリーナは『辰吏くん!』と家の中に向かって、有らん限り大声で夫に呼び掛ける。

 理睲は驚いた。理睲が知る限り、アリーナは夫のことを少なくとも子供の前では『お父さん』と呼ぶ。

 故、理睲はアリーナが平静にないこと、母の心を乱す何かが自分の右手の刺青にあるということを理解する。

 暫くして、法衣姿の辰吏が遣って来た。

 

「……一体如何した、母さん。今、大事な電話を受け取っていた最中《さなか》だったのだ」

 

 辰吏の強面は、殊更に困ったような色を見せていた。

 

「自分の息子のこと以上に大事な電話が有りますか! それよりも、これを見てちょうだい!」

 

 アリーナは理睲の手を引っ張って、父の前に持ってくる。

 

「本当に如何した、騒々しい。それに子供の前では恥ずかしいから名前で呼び合うのは止めようとあれほ……ど……?」

 

 辰吏から継の口上は出なかった。

 驚愕。駭然。

 父は眼鏡の奥の目を引き千切れんばかり見開く。

 

「“令呪”……だと……!?」

 

 理睲の耳に入った単語は聞きなれないものだった。

 

「如何いうこと? だって、冬木の大聖杯は……」

 

 今度はあまりにも聞き覚えがある単語であった。

 聖杯というのは、共観福音書(ヨハネ、マルコ、マタイ、ルカ)に於いて最後の晩餐、Jesusがパンを自らの肉、ワインを自らの血として使徒に分け与える際、その『血』を注いだ杯を指す。

 ロンギヌスの槍、ヘレナの聖釘、ロンバルディアの鉄王冠、トリノの聖骸布……。それらと同じく、“聖遺物”と呼ばれるものの一つ。

 聖堂教会にも聖遺物を鑑定、及び回収する部署が存在するが、聖杯について、今迄見つかったそれら総てが本物ではない。ここまでが理睲の聞き及ぶ知識だ。

 ――如何して、魔術の領分だろうこの刺青の話題で、そんな言葉が出てくるんだ?

 と、一瞬思ったが、此処で更にあることを思い出す。

 それは、“聖杯”と名付けられた礼装を巡る闘争。

 

「“聖杯戦争”――」

 

 辰吏はその名を口にした。

 それは七人の魔術師による殺し合い。

 それは七騎のサーヴァント――英霊と呼ばれる伝説や逸話を持つ存在――用いた儀式。

 

「確かに、冬木の地に於けるそれは幕を引いた。だが、聖杯と名付けられた礼装が見つかり、同じような闘争が行われることだって無きにしも非ずだ。そうだろう?」

「まさか……!」

 

 辰吏の言わんとしていることを理解したアリーナが驚愕し、理睲の腕を離した。

 

「如何いうことだよ、父さん! 訳分からないよ!」

 

 理解が及ばぬ理睲は父に訊ねる。

 辰吏はすっと、目を閉じる。

 

「遂今し方の電話……。『一年後の十二月、静岡県鬼松市にて第二次聖杯戦争開催。慈島辰吏をその監督役として召喚する』。凡そ、こういった旨のものだった」

 

 理睲はその言葉を聞いて、答えを弾き出す。

 右手の刺青、“令呪”の意味を。

 

「此れは、詰り、その参加者の証ってこと?」

「正解《ライト》。使役するサーヴァントに対しての三度の絶対命令権だ」

「でも、如何して!? 僕、そんなのが開かれるなんて知らなかったのに……」

 

 その回答はアリーナによってもたらされる。

 

「知っているか、知っていないかは関係ない。自分の意思もまた、関係ない。聖杯戦争の参加者を選ぶのは、聖杯という万能の願望器としての性質を持つであろう礼装そのものなの」

 

 まるで物が意思を持っているかのようだった。

 否、或いは持っているのかもしれないと理睲は考えた。英霊を呼び寄せるなどという奇跡を起こせるという以上、意思が宿っていたとしておかしな話はないと。

 そう考えていると、アリーナの両手が、自分の手を優しく包んでいた。

 

「……でも、私は理睲にそんなものに参加して欲しくはないわ」

「母さん?」

 

 手が震えている。今迄、何度だって、どんな死徒や魔術師との戦いであっても笑顔で自分や父を送り出した母が初めて見せる恐れ。

 理睲は動揺する。

 息子の力を信じてやれぬ程、アリーナという人間は狭量ではなかった筈だ。息子の闘いにしゃしゃり出る程、過保護でもなかった筈だ。代行者という人種が死を想い乍ら《メメント・モリで》生きていることは重々承知の筈だ。

 ――なのに、如何して?

 

「母さん、これは私達が決めて良い問題では……」

「分かっています!」

 

 辰吏が諭そうと肩に触れると、アリーナは声を荒げた。

 

「そんなこと、分かっているわよ! でも、アレだけは! アレだけは怖いの!」

 

 ガタガタと、自らの肩を抱き、肌を蒼白に染め乍らアリーナは心中を吐露する。

 

「辰吏くん、君も知っている筈よ。私達の恩人、言峰璃正神父に起こった悲劇を! その息子、言峰綺礼の変貌を!」

 

 言峰璃正、言峰綺礼の親子。

 彼らは冬木市にて行われていた聖杯戦争において監督役を勤めた人物である。

 親の璃正は戦時中に行われた第三次、90年代に行われた第四次を監督し、その第四次の最中に死亡。

 息子の綺礼は第五次を監督し、親と同じく、死亡――。

 

「あんなに素晴らしい璃正神父が殺されてしまった。卑劣な魔術師の毒牙に掛って」

 

 悲しい出来事であったに違いない。併し、アリーナを怖れさせるのはそれではない。 確かに大切な人の死は悲しい。だが、魔術師とは元来、根源と呼ばれる世界総ての始まりにして終わりを記した究極の英知に至る為に、多くの『死』を積み重ねる生き物である。

 それを目指す為、一歩でも進めるならば、死すら是とするよう教育されているのだ。アリーナには元来、死を受け入れるだけの下地があった。

 

「死んでしまっただけの璃正神父はまだ幸せよ。けれど、綺礼くんは、彼の変貌は何なの!?」

 

 受け入れ難かったのは、変貌の方。

 

「辰吏くん、覚えてるよね? 綺礼くんの優しさを。子供を身籠って、だけど、死ぬかもしれない程、危なかった時。綺礼くん、貴方に任された大切な仕事、偉い人に掛け合って代わってくれたのよね?」

 

 静かに辰吏は頷く。

 

「忘れる筈がない。だから、私は生まれた子に彼の名の音から取って“姫麗”と名付けたんだ。彼のように篤実たれと」

 

 そう語る言葉は、冷然に過ぎていた。

 

「それくらい、綺礼くんは立派な人だった。なのに……」

 

 それ以上、アリーナは語れなかった。言葉にするのも憚られたことだった。

 彼が亡き後、彼がいた教会で、死体同然の子供が見つかったことなど。彼の監督した第五次聖杯戦争、その裏には彼の暗躍があったことなど。

 思い出し、アリーナは泣いた。

 

「……アレは、アレだけはいけない。人を変えてしまう……。度し難い程、取り返しがつかないくらいに……」

 

 辰吏は妻をそっと抱き寄せる。

 

「君の気持ちは、分かる。僕だって辛い。だけど、僕達は理睲の親だから。理睲の前に下りた大きな選択はちゃんと理睲に選ばせなければならない。仮令、それで僕達の知っている理睲がいなくなってしまうのだとしても」

 

 ね、アリーナ。

 そう、妻の名を呼ぶ辰吏は無骨を絵に書いた普段の鉄面皮が嘘であるかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。

 それは、まだ幼かった頃に見ていた父の表情と重なり、理睲は懐かしさを覚えた。

 アリーナは涙を拭き、辰吏の胸から離れ、辰吏はアリーナの隣に寄り添う。

 

「それで、理睲」

 

 辰吏は理睲に向き直った。

 

「君は――否、お前は如何したい?」

 

 理睲の、正義の味方を何より目指した少年の答えは――。

 




 赤で宣言。
 原作同様、言峰綺礼の本質は彼の父や妻ですら見抜けなかった。
 辰吏やアリーナも見抜けなかった人物である。
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