「うぅ~……お尻が……」
古ぼけた地方路線バスから一人の少女が降り立つ。外見は十代半ばで白いワンピースと麦わら帽子をかぶり、そこからツーサイドアップにまとめられた赤茶色の髪が見える。いかにも夏の少女を思わせるような身なりをしていた。
そのワンピースから浮き出る彼女の体は、まだまだ子供っぽさは残るものの年相応の凹凸を身に着け、同年代よりもほんの少しだけ育ったバストとヒップを自慢にしていた。
だが、その育ったヒップはぼろぼろの座席に長時間座ったせいでカチコチに固まりそうで思わず少女はお尻をさする。まるで骨盤の奥がぎゅうと締め付けられるような不快感は、この年齢ならではの悩みなのだろう。昔は全く気にしなかったのに。
彼女を送り届けたバスはガタガタのエンジン音と慣れない人間が見たら不安になるような黒い煙を吐き出して走り去っていった。その後ろ姿を見送り、その光景は幼少期自分が過ごした時と全く変わっていなかったことに安堵し、深呼吸する。
しかしまだバスの排気ガスがほんのり残ってあまりいい空気ではなかったため、時間をおいてもう一度。引っ越してから年に一回は必ずここに帰っていたが、最近の数年は彼女の事情もあって来ることができなかった。毎日毎日忙しく、休暇もあまり取れなかったから今度こそはと上司に直談判し、見事九十六時間の休暇をもぎ取ることに成功したのだ。
バス停を降りた先に広がる田園風景を眺めながら、彼女は残暑の残る日差しから自分を守るための麦わら帽子の向きを整えると、キャリーバッグを握って歩き出す。唯一舗装された(といってもひび割れや穴はたくさんある)アスファルトの道路沿いに歩き、次の横道を右に入る。前方に数個の集落が立ち並び、その手前から二番目に見える立派な日本家屋が彼女の目的地だった。交通機関での移動は長かったが、徒歩での距離が圧倒的に短いというのは本当にありがたい。そんなことを考えながら彼女の胸はまた高鳴る。
玄関正面に立つと、立派な門が彼女を待っていた。しかしその門は両方とも開け放たれて、本来の役割である侵入者を防ぐという仕事を全く果たしていなかった。まぁこの辺りは泥棒が出るような場所じゃないし、今に始まったことでもないから今更とやかく言うものじゃない。むしろ何も変わっていないことが彼女を安心させて、何の緊張もなく潜り抜けることができた。
その先にはやはり開けっ放しの玄関。彼女は躊躇なく玄関に入ると声をかける。
「ごめんくださーい!」
ひと声かけて、一秒二秒、五秒と経過して十秒。返事が来ない。留守にしているのだろうかと思うが、耳を澄ませると裏庭の方からホースで水をかける音がする。サンダルを脱いで家に上がり、廊下を抜けて裏庭に続く部屋に慣れた足取りで向かう。そしてその先の裏庭に、ようやく住人と思われる人物の姿を確認した。
「あー! やっぱり居た!」
少女の声にようやく家主は気づき、やや眠たそうな顔でこちらに向く。十代後半のまだあどけなさが残る青年は、一瞬彼女が誰かわからなさそうな表情だったが、すぐに「あっ!」と声を上げた。
「お前……陽子か!?」
「うん! ただいま、兄貴!」
陽子と呼ばれた少女は裸足で庭に駆け出し、兄と呼んだ青年に抱き着いた。その予想外の勢い、そして成長した彼女の重みに耐えきれず尻もちをついてしまう。
「あいてて……ほんとに陽子か!? 大きくなったな!」
「あったりまえでしょ! 今年で十五なんだから!」
「お前の活躍はこっちでも聞くぞ。時々新聞にも出てびっくりだ。確か、艦娘の時の名前はええっと……」
「もう、忘れたの? 陽炎よ。か・げ・ろ・う」
そういうと、彼女はにっこりと太陽にも負けない満面の笑みを浮かべた。
彼女の名前は山本陽子。またの名を、陽炎型駆逐艦一番艦ネームシップ、「陽炎」である。
*
この小さな村は陽炎の生まれ故郷であった。故郷と言っても小学校に上がまでの六年と少しだったが、彼女はここが大好きで年に一回か二回はこの村に遊びに来るのが恒例だった。
陽炎が「兄貴」と呼んだ青年は実際のところ血の繋がった兄でもなんでもなく、お隣に住むただの幼馴染である。しかし兄のいない陽炎にとって彼は兄替わりで、向こうも陽炎を本当の妹のように面倒を見てくれたから懐くのにまったく時間はいらなかった。
だが、先ほど述べたように陽炎はここ数年この村に戻ることができなかった。その原因はもちろん艦娘になったためである。江ノ島で訓練を終え、横須賀に配属されて以来の約二年は連続した休暇を得ることがほとんどできなかった。せいぜいとれる休暇は一日か二日。片道半日かかるこの場所までは戻れずやきもきしていた。
そんな中、長期休暇取得のチャンスを知り、この四日間の休暇をもぎ取るために社畜のごとく働いたのだ。いったいどれだけの苦労をしたのだろう。思い返すとある一定の期間の記憶がない。気づいたら自室のベッドの上だったなんて日もある。同室の皐月に「私どうやって帰ってきた?」と聞いたら呆れた顔になって答えてくれなかった。
だがその努力の甲斐あってこの休暇を手にすることができたのだ。承認をもらえた時は絶叫するかと思った。極力表に出さないようしていたつもりだったが、曙に「きもい」と言われてしまったのだからたぶん隠しきれていなかったのだろう。いろいろ迷惑だったかなとは思うが、今は考えないことにした。
陽炎こと陽子が遊びに来たという情報はすぐさま幼馴染一家に伝えられ、家族全員が文字通り家に飛んできた。しかも全員手土産持参である。父親は一体どうやって食べるのか、巨大な牛肉のブロックをトラックに載せて持ち帰り、母親は採れたての野菜を自転車に詰めるだけ大量に詰め込み、姉は焼肉セットをはじめとする調理器具一式とまるで打ち合わせたかのような展開だった。
皆が皆陽炎の訪問を喜び、ありったけの料理とビールを机の上に並べて歓迎してくれた。夕暮れを知らせるヒグラシがびっくりして鳴りを潜めるくらいの盛り上がりだった。
「いやー、陽子ちゃんも立派になって帰ってきたな! おじさんもうあんたが艦娘になるって聞いたときは不安で不安でよぉ」
がははと豪快をそのまま体言化したような父親がビールジョッキ片手に豪快に肉のブロックを口に入れてもぐもぐと美味しそうに頬張って飲み込む。そしてむせた。陽炎はこの村の猟師であり、本人いわく熊とCQCで戦い、勝利したというこの人。陽炎が小さい頃は良く腕にしがみついて持ち上げてもらった。その姿が熊に見えたから、通称熊おじさんと呼んでいる。
「ほんとにね~。海なんて全然近くないこんな村で生まれた子で大丈夫かしらって、わが子のように悩んだわ」
むせる父親の背中を平手で一発叩きながら、母親は笑顔で答える。父親の喉に詰まった肉が戻ってきたようで、顔色が良くなった。こちらの母君はこの豪快な夫と打って変わり、大和撫子を思わせるような美人である。村の人たちは「美女と野獣だ」と言っていたが、まさにその通りだろう。
「でもすごいじゃん。私は海の方の事情は知らないけど、大物張り倒してキス島の研究員脱出にも大きく貢献したんでしょ?」
と、長女が焼いた野菜を陽炎の器に入れながら言う。確かにいろいろやっていつの間にかあちこちの鎮守府に知られるようになったが、実際陽炎はその陰でいろいろ失敗したし、大声をあげて泣いたこともあったからこれと言ってちやほやされるようなことをしたイメージはなかった。
ただ、海にほとんど行ったことのないこの一家がこうやって称えてくれるのだから、頑張って損はなかったと言えるだろう。帰ってきて本当に良かったと思う。
「にしても兄貴」
と、陽炎は向かい側に座っているやたらと口数が少ない幼馴染へと目を向ける。じっと目を合わせようとするが、当の本人はどこかぎこちない動きで陽炎の目を見返し、誤魔化すようにして焼肉を口に入れた。
「なーんでさっきから喋らないのよ。最後に喋った言葉は『艦娘の時の名前はええっと……』で終わってるわよ」
「ンなこと言ったって、聞きたいことなんて親父たちがさっさと聞いちまったし、何を聞こうかなんて……」
「こいつ照れてんだよー」
と、横から長女が首を突っ込んできた。その顔は見合いをする若い男女を見る母親のようにニヤニヤとしていて、それが図星だったから弟は顔を真っ赤にして声を上げた。
「なっ、バカ姉貴何言ってんだ!」
「だってぇ? 一昨年と去年、陽子ちゃん戻ってこれなかった時のあんた、まるで女にフラれたダサ男みたいにしょげてたじゃん。でもいざ久々に会ってみたらこんな別嬪さんになってたからびっくりドッキリ!」
「てんめぇ適当なこと言うな!」
「おお、こわいこわい。さらば!」
と長女と長男の姉弟喧嘩が始まった。と言ってもこれはまだじゃれあい程度だからみんな大笑いして二人の追いかけっこを眺める。シャツの背中側を掴もうとした青年は逆に腕を掴まれて派手に吹っ飛ばされた。
「いやー、ぜひとも四日間ゆっくりお相手してやりたいんだけどなぁ」
姉がジャーマンスープレックスを決めたときに熊おじさんが少々ばつの悪い顔になって頭をバリバリと掻く。何かあったのだろうかと陽炎は向き直る。
「明日の朝から、俺たち三人家にいないんだよなぁ。ちょっと猟師組合の方に呼び出されて、一週間ほど家内と娘引っ張っていくことになったんだ」
「あれ。兄貴は行かないんですか?」
「全員で行きたいんだが、作物の心配があってな。兄弟どっちかが残るってじゃんけんして負けた」
「じゃあ……」
と、陽炎は考える。と言うか考えなくても分かる。明日から三日間帰るまで、彼と一つ屋根の下二人きりで過ごすという事なのだ。
姉から絞め技を食らっていた彼もまたその一言ではっとし、姉は「ほっほーう」と弱みを握ったいじめっ子のような顔になった。
「おい、成人間近に控えても腑抜けたままのわが弟よ」
「なんだよ……」
「春が来たな」
「もうすぐ秋だっつーの!!」
顔を真っ赤にした弟を、姉はカラカラと笑い飛ばして家の中に戻る。たまったものじゃないと彼は天を仰いだ。そんな二人のやり取りを陽炎は苦笑いして見守る。
「まぁ、もし気にするって言うなら知り合いの家紹介しておくぞ。陽子ちゃんも年頃だからなぁ。デレカシーってやつもあるだろうよ」
「お気遣いありがとうございます。でも私ここの家好きですし、せっかく戻ったのにあまり知らない人の家で寝るっていう方が疲れちゃいますよ。だからこのままで大丈夫です」
「ほーう! 嬉しいこと言ってくれるね! うちの息子不束者だけどどうかよろしく頼むよ!」
「親父! 変なこと言うんじゃねぇ! と言うか不束者は女性、それでもって妻になった人が使うものだろうが!」
「おう、じゃあお前は陽子ちゃんの旦那さんだな」
あはははと家じゅうで笑いが起こり、陽炎も思わず声を上げて笑ってしまう。ただ、こうやってからかわれると面白くないのが男の性であり、青年はふんすふんすと頭に血を上らせながら家に上がり、プレートの上に残っていた焼肉を全部平らげてやった。
おかげで家族の焼肉が全滅し、焼き野菜だけになってしまう。その結果また小規模の乱闘が起きることになったのだが、この一家はいつもこんな感じなので陽炎は特に気に留めず白飯を口に運ぶのだった。
*
翌朝。家族用の軽自動車に乗った一家三人は、見送りに来た陽炎と青年にしばしの別れを告げていた。
「じゃ、頼むぞ。鶏と野菜の世話、しっかりな」
「分かってるって。そっちも滅多にいかない都会だからってはしゃぐなよ」
「なーに心配すんな。遠出なんて今に始まったことじゃない。それよりもだ」
ちょいちょいと父親に手招きされ、なんだと顔を近づける。
「チャンスだろ。男みせろや」
「なんでそうなるんだよ!」
「おい、わが弟よ」
今度は後部座席にいた姉がちょいちょいと手招きをする。今度は一体なんだと若干うんざりした顔で近づくと、手を出せと言われた。
言われた通り右手を出すと、何かをそっと握らされた。なんだこれとその場で開けると手の中にあったのは正方形の銀色のパッケージ。密閉されているだろうその中にはグニグニとした円形状のゴム製品が入っているのが伺えた。
しかしそんなことを確認しなくても、それがなんなのかすぐに理解した瞬間、思わず姉を殴りそうになった。何が一番まずかったかというと、その手の中にあるブツをばっちり陽炎も覗き込んでいたからだ。なんで今ここで渡すんだ。
「ふっざけんなクソ姉貴!!」
「はーっはっは! あーばよー、とっつぁーん!!」
と、軽自動車は黒い煙を吐き出しながらあっという間に消えて行ってしまった。それを呆然と見送る二人だが、手の中にあるものの存在を思い出して若干気まずくなる。とりあえず冷静になって、渡されたブツをポケットに突っ込みながら陽炎に「朝ごはん食べるか」と促し、彼女も「うん」と目を少し泳がせながら答えた。
幸いなことに、若干空気の悪い時間は続いたがお腹を満たせばそんなのもすぐに忘れて二人は打ち解け、二人は気兼ねなくお互いのここ数年間の話に花を咲かせることができた。今は陽炎が横須賀で教導をやっているという話題に入ったところだった。
「へー、教導なんてやってるのか。今や教える側か」
「でもまったく考えてもみなかったわ。誰かに教えるなんて一回もやったことないし、メンバーは問題児だらけでまとまらないしでほんとなんで私がこんな目にって思ったわ」
「でもそれを乗り越えてあの活躍なんだろ? やっぱりすごいじゃないか」
「ううん、戦艦や空母の人たちの方がもっと頑張ってるわ」
そうやって謙遜はするが、実のところ陽炎だって自分のやってきたことはすごいことだと思っていた。本音を言うならば、「私はばらばらだった駆逐隊をまとめ上げて戦果だっていくつも挙げたぞ」と自慢してやりたいと思う。だがそんなことをしたところで今後もしっかりと結果を残せないと意味がないし、死んでしまえば元も子もないのだから、あまりどうこう言えるものじゃないと理解していた。
けど、実際は言いたい。だがみっともないから言わない。いろいろともどかしかったが、それを誤魔化すために陽炎は畳に転がった。
「んん~! あっちの寮じゃ畳部屋なんて戦艦クラスにならないともらえないから、こうしてごろごろするの最高!」
久々の畳の感触に懐かしさを感じながら、だらしなくごろごろと転がってみる。うつ伏せになると畳のいい香りが鼻孔をつつき、今までの疲れが消えていくような気がした。
「あ、そうだ!」
陽炎はぴょんと上体を起こし、くるりと体を回転させて四つん這いになると詰め寄った。
「兄貴、川に行こうよ!」
突然詰め寄ってくる陽炎に、一瞬どうしたのだと戸惑う彼だったが、小さい頃の彼女はこの近くにある川で遊ぶのが大好きだったのを思い出して納得する。確か、肩まで浸かるのが目標と言っていたがそれを達成する前に引っ越していたのだった。時々こっちに戻ることはあったが、川に行くことまではしなかったので彼女が行きたいと思うのも当然だろう。
「そうだな……」
しかしである。陽炎の顔が極端に近い。ぐっと近い距離にいる幼馴染の顔はまだ幼さを残してはいたが、ところどころに見受けられる大人の女への変化はかなりはっきりしており、以前のような「妹のような扱い」ができる気がしなかった。
加えて今の陽炎の服装にもやや問題がある。いくら羽目を外しに来たとはいえ、ホットパンツにキャミソールと言う半分下着だろうと言いたくなる服装は目に毒である。特に重力に従って胸元を大きく開けているキャミソールの奥に見受けられる二つの膨らみは破壊力が大きすぎた。最後に会ったときはまだまだ絶壁だったのに。
目のやり場に困りながらも、どうにか冷静さを保って川と言う単語に集中する。たしか、陽炎は小さい頃はよく近所の川で遊んでいた。もちろん彼もいっしょに行ったし、どこが彼女の一番好きな場所なのかも覚えていた。
「……よし、分かった」
とりあえず、そのキャミソールの奥にちらちら見えている膨らみを視界から消すために承諾することにした。
*
「いやっほぉーっ!」
ざぶんと音を立てて陽炎は川に飛び込む。昨日と打って変わり、今日は残暑厳しい強い日差しが降り注いでいた。だが裏を返せば川泳ぎにはぴったりのコンディションであり、この気温に川の冷たさは非常に心地よかった。
「ぷはぁ! 懐かしい!」
満足そうな顔をした陽炎が川の中から浮上する。ここに至るまで陽炎が水着を持ってくるのを忘れたというハプニングはあったが、タンスの奥深くに眠っていたはずの姉のお古であるスクール水着が弟の部屋に置かれていて早急に解決した。なおサイズもそう大差はないそうだ。
そんなこんなで旧型スクール水着を着た陽炎は悠々と川を泳ぎまわり、存分に休日を謳歌していた。こうしてみると本当にただの子供にしか見えないのだが、一度艤装を背負い、海に出れば彼女は深海棲艦という恐ろしい存在と戦うのだ。その時の彼女を見たことはない。だが生まれ故郷とはいえ、ちょっと田舎に行けばどこにでもあるような川でここまで楽しそうにするのは、それだけの激務をこなしているというのがよくわかった。
(ああ……本当に懐かしいなぁ……)
そんな陽炎は水中に潜り、川底に沿って泳ぐ陽炎は眼下に見える石ころにでさえも懐かしいと思える気がしていた。それだけこの場所には思い入れも深く、夏場の遊び場といえばほぼ毎日ここだった。
まだまだ小さかったから遊びに行く時はいつも彼と一緒で、最初は水の掛け合いから始まって翌年は膝まで水が浸かるくらいの場所まで行けるようになり、その翌年はお腹、次は胸、さぁ来年は肩まで浸かって川底を見てみようと思っていたが、その前に引っ越してしまった。子供のころ見ていた川は、今は行ってみると狭くなっていた。
「兄貴ーっ! 一緒に入ろうよー!」
浮上した陽炎は岸でこちらを見ている彼に向けて声をかける。一応向こうも水着は着ているのだが、持ち込んだレジャーシートの上で軽く手を上げて答えるだけだった。
見るからにやる気を感じることができなかった。まるで家族サービスに海に連れて行って、一人浜辺でビールを飲んでいる父親の様だ。陽炎はそんな幼馴染を不服そうな顔で見つめて呟く。
「もう……私は兄貴と泳ぎたいのに」
せっかくの休暇である。懐かしい人と一緒に懐かしい場所に来たのに一人で泳いでいては楽しさも半減である。陽炎は岸に向けて泳ぎだして強引に彼を引っ張り出そうと決める。
「ほら何してんの! 兄貴も泳ごうよ!」
川の中から岩場に座り込む幼馴染に向けて笑顔で呼びかける。そういうと彼は一瞬硬直し、すぐに目線を逸らして「俺はいい」と返事をする。もしかして照れているのだろうか? 陽炎はちらりと自分の胸の膨らみに目を向け、そしてもう一度幼馴染を見る。どことなく頬が赤い気がした。
にやり。陽炎はいったん川から上がるとそっと彼の隣に密着してみる。年頃の女の子がそんなことをすれば同じく年頃の男は飛び上がりそうになるわけで、実際飛び退きそうになったのを両腕でがっちりホールドして抑え込んだ。
「もしかして、兄貴照れてる~?」
「ばっ、お前寄りすぎだ!」
「昔は抱っことかおんぶもしてくれたのに?」
「今と昔は違うだろ!」
面白い。それなりに彼の方が大人のはずなのにこうも初心な反応をされるとからかいたくなってしまう。陽炎の悪戯心が刺激され、実はちょっと自慢である自分の胸を腕に押し付けてみる。程よく「むにゅっ」という上手く具現化できない柔らかさがスク水越しに伝わり、「ひっ!」みたいな声が聞こえる。何とも情けない声に、こいつは本当に男なのかと陽炎は疑いたくなった。
「おおおおおお前な! お互いいい年になってんだからもうちょっとわきまえろよ!」
「別にいいじゃないの。ここは滅多に人なんて来ないし、第一ここの人たち私たちの関係知らない人なんていないじゃない」
「聞きようによっては勘違いするようなことを言うんじゃない!」
「別に勘違いする奴はさせていいんじゃない? うりうり~」
むにゅむにゅと自分の胸を押し付けて初心な幼馴染の反応を楽しむ陽炎。しかしやや反応が薄くなった。どうしただろうと顔を見ると、相変わらず顔は赤いがごくりと喉が鳴るのが聞こえた。その反応を見て陽炎は思いのほか自分がやりすぎたのだと気が付く。もっとじたばたするのだと思っていたから、変な空気が流れてしまった。
「……えっとぉ」
何か言葉は浮かばないのだろうかと思ったが、幼馴染は何も言うことなく陽炎の胸元をじっと見つめていた。その目つきは完全に陽炎を異性と認識し、一歩間違えれば手を出してきそうなそんな雰囲気だった。
「な、なにじっと見てんのよこのスケベ兄貴!」
「ばっ、いや違う! っていうか陽子が押し付けてきたんだろうが! そんなことされたら誰だって落ち着かなくなるだろ!」
「だからってガン見し過ぎ!」
ばしゃ、と陽炎は川の水を思い切り叩きつけて川に飛び込む。突然の奇襲に対応できなかった幼馴染は顔面にクリティカルヒットを受けて鼻に水が入りせき込む。
「げっほげほ……この、やったな!」
彼はこれを陽炎の挑戦と受け取ったのだろう。川に飛び込むと畑仕事で鍛え上げた己の腕力を存分に使って川の水を持ち上げ、陽炎に投げつける。その予想外の水量に陽炎はむせてしまい、負けじと応戦。ばしゃばしゃと水が跳ねまわり、いつしか二人の笑い声が響き渡る。
「わっぷ、冷てぇ! こうしてやる!」
「きゃあ! やったなぁ、砲撃開始!」
と、陽炎が足に踏ん張りを入れた瞬間だった。運悪く苔の生えた石に力を入れてしまい、土台を失った陽炎は思いっきり前のめりになる。
「うわぁっ!?」
「陽子危なっ――!」
何が起きたか理解できない彼の溝折に頭が激突し、衝撃のあまり二人はそのまま川に倒れ、派手な水しぶきが上がった。
「……空、青いね」
ぷかぷかと川に浮かぶ陽炎は無意識につぶやく。すぐ隣に同じく川に浮いていた彼も「ああ」と返事をする。周囲は鳴りを潜め、やや遅れて土の中から出てきた蝉の鳴き声と川のせせらぎだけが聞こえていた。
「向こうの鎮守府の空ってね、こことは全然違うんだよね」
「都会の埃っぽい空ってやつ?」
「うーん、それとはちょっと違うんだよね。都会でもきれいな時はきれいだし。ただ、やっぱりこことは違うのよ」
「俺にはよくわからないな」
「私もよくわからないわ」
「なんじゃそりゃ?」
「まぁ……でも悪くないのよ。都会の空ってやつも」
そういう陽炎の横顔はどこか遠くを見ているような気がした。ただ、その清々しい顔を見るとどこか不安な気持ちになってしまう。彼女がこのまま永久に遠くへ行ってしまいそうな、そんな不安を感じる。まるで陽炎が引っ越すことが決まった時に感じた時と同じような不安感だった。
「さってと! 兄貴、競争しよう!」
起き上がった陽炎がそっと手を差し出す。太陽を背に笑顔を見せる陽炎は、さっきまでの遠くを見ているような表情と打って変わり、まぶしい笑顔を向けていた。さっき感じた不安は気のせいだったのだろうか。
「いいだろう。手加減しないからな」
陽炎の手を握り、川に沈めていた体を起こす。いろいろ思うところはあったが、今は何も考えないことにした。どうせすぐに忘れるだろう。
「ふっふっふ。昔の様には負けないわよ」
「艦娘になったからっていい気にならないことだな。こちらとて鍛えてるんでな」
お互い念入りにストレッチを開始し、その目に闘志が宿る。陽炎が手にするのは大型の水鉄砲。彼もまた中型水鉄砲を両手に構えた二丁拳銃スタイル。二人の川遊びはまだまだ終わりそうになかった。
*
「陽子ー、スイカ切ったぞー」
「はーい」
と、Tシャツと短パンに着替え、縁側に座っていた陽炎の傍に程よい大きさにカットされたスイカの乗った皿と麦茶が置かる。それを陽炎と挟む形で彼がどっさりと座り、一息。辺りはすっかり暗くなり、夕食を終えた二人はまだうっすらとオレンジ色の光が残る西の空を見ながらデザートを食べようと思い立ち、今に至る。
陽炎は出されたスイカに手を伸ばし、一口。井戸水でキンキンに冷やしたスイカは美味で、たまらず陽炎は歓喜の唸り声を上げてしまう。
「んぅ~~、おいしい! やっぱり三丁目のおばさんが育てるスイカは最高ね!」
「同感だ。このスイカを超えるものに出会ったことは未だにないな」
「本当に帰ってきてよかった……こっちに来るときはこれが一番の楽しみだったりするのよ」
「結局は食い物か」
「あら、食事は大事よ。鎮守府でも間宮さんっていう人が作るデザートは美味しいのよ」
「そんなにか?」
「間宮さんのアイス食べたらいつもより1.3倍くらい強くなれる気がするわ」
「なんか具体的過ぎて逆にリアル……」
そよ風が吹き、ちりーんと屋根から釣り下ろされた風鈴が小さく鳴る。しゃくしゃくと二人がスイカを食べる音。夕方の主役演奏家であるヒグラシは鳴りを潜め、主役は鈴虫へと変わっていく。やがて星たちが一つ、また一つと輝きだして夜の訪れを告げる。
いつの間にか用意したスイカはすべてなくなり、空いた皿を後ろに下げて二人は氷の入った麦茶片手に何も考えずに夜空を見上げる。またちりーんと風鈴が鳴り、まるで場繋ぎを買って出たかのように聞こえた。
「……陽子」
「なーに?」
少し低いトーンで、彼は陽炎に呼びかけた。どこか不安そうなその声色は陽炎の意識を集中させるには十分だった。けど、彼が何か不安に思っているということにはすでに察していた。
「次はいつこっちに帰ってくるんだ?」
「そうねー……もう一年くらいは帰ってこれないかな」
「だよな……」
「もしかして、私が向こうに行ったまま帰ってこないとか思ってる?」
ピクリと彼の眉間が動くのを陽炎は見逃さなかった。彼がやたらともやもやしていた原因はこれかと確信が行く。実のところ川で遊んでいた時から何となく察しはしていた。教導や秘書官もこなすようになったせいか、いろいろな所へ気を使うようになり、察するという能力が磨き上げられた。おかげで私生活でもばっちり発揮してくれた。
「なんていうか……都会の話をするお前ってさ、時々輝いているんだ。よく『都会に出たら故郷が恋しくなる』っていうけど、お前にはそれを感じない。向こうの住み心地もいいんだろうなって思う。けどそれがいいように感じられないんだ。どんどんお前が遠くに行くような、そんな気がする」
「ふーん……そんな風に見えたんだ」
陽炎はどうしたものかと思う。実際彼の言う通り、都会は結構暮らしやすい。呉や横須賀、大きいところには何回も行ったし横須賀に関しては住んでいる。その横須賀には頼れる仲間たちがいて自分のことを慕ってくれる。それがとても楽しくて充実していた。
「ま、兄貴の言う通り確かに向こうにずっと住んでもいいかなって思うことはあるよ」
その言葉を言うと、彼の吐く息に落胆が混じった。これはおそらく陽炎がもう帰ってこないと思ってがっかりしたのだろう。まだ最後まで言ってないのに、せっかちな人だと苦笑いしてしまう。
「なーに辛気臭い顔してるのよ」
陽炎はそっと彼の手の上に自分の手を置いた。驚いた彼は思わず陽炎の顔を見下ろすと、にっこりと笑みを浮かべる年下幼馴染の姿があった。その顔はまるで怯える子供をなだめるような優しい大人の笑みで、その魅力に心臓が高鳴るのを感じた。
「兄貴って結構寂しがり屋だよね」
「ち、違うって……ただ、なんて言うか……」
「都会に私を盗られるのが嫌、とかでしょ?」
「…………」
分かりやすい図星の反応である。やっぱりかと陽炎は呆れ半分、嬉しさ半分で顔を近づけ、まるで子供をやさしく抱き上げる母親のような声色で語りかける。
「バカね。確かに向こうの住み心地はいいけどさ。やっぱり物足りないのよ。慕ってくれる仲間も上司も居る。けどね、時々足りなくなるのよ」
「……ここ、が?」
陽炎は無言で首を振る。空いていたもう片方の手をそっと彼の頬に置き、優しく撫でる。ぴくりと強張る感触。緊張しているのだろう、実際自分だって平静を保ってはいるが緊張はしているのだ。ここで初心な女の子みたいな反応ができたら、彼がリードしてくれただろうか。
「違うわ。兄貴がいないの」
「お……れ?」
予想外の答えに、彼の顔はきょとんとしてしまう。その何とも言えない間抜けな顔がツボに入りそうだったが、今ここで笑うのはせっかくの雰囲気が台無しなのですぐに持ち直して言葉を重ねる。
「そ。忘れたとは言わせないわよ。私が引っ越す前、兄貴に告白したじゃないの」
告白? 何のことだと言いかけて喉まで登ったその言葉をぐっと飲みこむ。そうだ、たしか陽炎が引っ越すときにバスに乗る直前言っていた。「戻って来たら、アニキのカノジョになる!」と言いながらほっぺにチューしてきたのだ。
「いや、忘れてないが……っていうかあれ本気だったのか!?」
「あたりまえじゃない。私こう見えて純愛なんだから。初恋は何としてでも実らせる主義なのよ」
ぽす、と陽炎は彼の胸板に自分の顔を押し付けると、両腕を腰に回してぎゅっと力を込める。それこそ甘えてくる猫のように自分の顔をこすり付け、自分の匂いを彼の鼻腔に送り込む。できるだけ自分に惹かれるように、自分しか見えなくするように。
「だからね。実のところ兄貴がいれば私はどこだって行けるの。確かにここは大事な思い出の場所。でもその思い出を作ってくれたのは兄貴なのよ。兄貴がいなきゃ、ここへの思いも半減する。だから私は気持ちをはっきり伝えるために帰ってきた。ねぇ、兄貴は私のことどう思ってる?」
顔をあげて問いかける陽炎。その上目遣いには羞恥と期待の眼差しがまじりあい、男の心をくすぐるには十分すぎる威力だった。
実際彼も陽炎に想いを寄せていた。正確に言えば彼女が戻ってからその気持ちがはっきりと浮上したのが正解であるが、より女性として魅力的になった彼女はもう自分の知っている妹分ではなく、一人の女になっていた。
そんな彼女を見れば落ちるのに一日もいらないだろう。いや、もしかしたら待っていたのかもしれない。彼女が立派な女になって帰ってきたときに、はっきりと好きだと言えるように自分のどこかで決めていたのかもしれない。
しかしそんな彼女の過去を知る男は自分以外にほとんどいない。そんな優越感が彼を満たし、陽炎を独り占めにしたいという欲望が湧き上がる。都会の悪い男にたぶらかされたらどうしようか。頭を金髪に染め上げたテレビで見る黒ギャルみたいになったらどうしようかと思ったこともあった。
だが陽炎はまっすぐに育って帰ってきた。まったく変わっていないのは自分へ向けられた好意ではっきりわかった。
「……実をいうと、少し不安だったんだ」
「どうして?」
「こっちに来てから、時々お前は遠くを見ていた。その表情を見ていると、もしかしたらもうこっちに戻ってこなくなるんじゃないかって無意味に怖くなってな。都会に、お前を持っていかれそうで……」
「ふふっ、やっぱりね。それでちょっとばかし浮かない顔だったんだ」
「まぁな。嫉妬、って奴かな」
気恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼を、同じように陽炎は笑顔で見つめる。ここまでくればもう言葉はいらない。これだけの情報量があれば十分だ。
陽炎は目を閉じて、んっ、と唇を近づける。待っているのサイン。ここは男から行くべきなのだろう。沈まれ心臓よ、ここはゆっくりと落ち着いて対応するのだ。
ゆっくりと陽炎の肩を掴み、つばを飲み込む。意外と華奢なその体は触れてみてようやくわかるもので、それがまた喉を乾かしていく。その感触だけで体が固まりそうだった。
待っている陽炎だって少しでも気を抜けば爆発しそうなほど緊張していた。血液の流れが先頭の時よりも早い。今自分の初めてを捧げるのだ。同じ駆逐艦の仲間ではもしかしたら自分が一番早いかもしれない、男女間の世界へと足を踏み入れるのだと思うと興奮と緊張が収まりそうになかった。
両肩を掴まれ、いよいよだと身構える彼女。その手はさっき握った時よりも大きく、そしてたくましく感じる。
そよ風が吹く。それに合わせてまた風鈴が鳴る。ほんの一瞬だけ鈴虫の歌が止まり、麦茶の中に入っていた氷が解けてグラスを叩く。その瞬間、二人の唇が重なった。想像よりも小さく、そしてやわらかい陽炎の唇はたった今自分のものになった。そう思うと体が一気に暴走しそうになるが、ぐっとこらえる。
だが、女性の唇というものは男の理性を破壊し続ける恐ろしい兵器だった。どうにかして唇を離そうとしても本能が体を乗っ取り、そのまま彼女の唇をむさぼるように求めていく。
「んっ……あに、き……」
陽炎も一度唇を離すべきなのだと思っていた。けど抵抗しようにも体に力が入らない。さっきまで緊張で引っ張られたばねの様に強張っていた体は完全に力を失い、そのまま畳の上に押し倒される。少しばかり息苦しい。どうにか呼吸路を確保しようと唇から舌を出す。だがその行為をディープキスと思ったのか、向こうから一気に舌を入れられて陽炎の舌が弄ばれる。
「んんっ!!?」
唇と唇を重ねるキスは漫画やドラマで散々見た。だがここまで激しく求められるのは初めてだったから、陽炎は一瞬逃げ出しそうになるが、あっという間に自分の唇と口の中を制圧され、そうなったら無抵抗になるしかなかった。今まで受け入れたことのない男性の舌に、自分は怯えるしかないのだ。それを楽しむかのように、陽炎に侵入してきた舌は彼女の下唇を舐めずりし、上唇へと移動。そのまま歯の裏を舐め回し、僅かにはみ出ている陽炎の舌を自分の口の中に吸い上げた。
「んっ!? んぅ、むっ……んぐぅ、ぁっ……」
何もできない。彼の気持ちが徐々に欲望に染まっていくのが手に取るようにわかった。しかし嫌だとは思わない。この激しさが、この乱暴さが彼の気持ちを示しているのだから。ここまで気持ちが爆発するほど、自分のことを想ってくれていた。そして自分にそれだけの魅力があったことに、陽炎は満足した。
ようやく二人の口が離れたのは五分以上経ってからだった。さすがに呼吸が苦しくなってお互いどちらからともなく口を離し、荒い呼吸を繰り返す。
見てみると陽炎は半ば放心状態で呼吸をし、目にうっすらと涙を浮かべていた。その口からはどちらの物かわからない唾液が流れ、着ているTシャツの隙間からは下着がちらついていた。
「……大丈夫か、陽子?」
「うん……キスってすごいんだね」
どうにか発した声は蚊の羽音のように小さい。うつろな目で考えもまとまらず、しかし脈拍だけは異常に高い。お腹の奥がきゅんと切なくなる気がして、それ誤魔化そうと足がもぞもぞと動く。きっと求めているのだ。その先を、まだ熟し切っていない自分の体では早いかもしれないその先の交わりを。
「兄貴……」
「なんだ?」
「お布団……敷いて?」
「…………わかった」
その日の夜は、やたらと蒸し暑い夜だった。陽炎は、後にそう記憶している。
*
暑い。起きてから陽炎の第一声はそれだった。たまらず布団から跳ね起き、汗でじっとりと湿っている額を腕で拭う。その際に髪の毛が張り付いているのに気が付いて相当な寝汗をかいていたのだろうと察する。
気温自体はそんなに高くなさそうではあるが、こうも暑苦しい原因に心当たりがあった。それは隣でぐっすりといびきをかいて寝ているこの幼馴染であろう。布団の中でお互い全裸で密着して寝ればいやでも暑くなる。これが冬場などだったら程よい暖かさなのだろうが、今は残暑を残す九月である。まだまだ密着して寝るには暑いことこの上ない。
体を起こしてから数分、体の火照りは鳴りを潜め、体は常温に戻る。改めて周囲を見回すと、脱ぎ散らかされた服や下着が散乱し、敷布団を見てみると湿った跡や若干の血痕が残っていた。そして下腹部に感じる違和感と未開封のまま無造作に置かれたスキン用具。自分のお腹に手を当て、夢じゃなかったと再認識した。
「ん~……どうした、陽子」
もぞもぞと体を動かしながら、彼も体を起こす。寝ぼけているのか陽炎とは正反対のほうに顔を向けている。やれやれと思いながら陽炎は彼のほほに手を当て、自分のほうに向ける。
「おはよ、兄貴」
そしてそのまま昨日とは逆に、自分から唇を押し付ける。寝ぼけていた向こうはまた少しだけ何が起きたか分からなさそうにしていたが、すぐさま意識がはっきりして負けじと陽炎の体に腕を回す。
二人の唇が触れ合い、唾液が交じり合う音は卑猥そのものである。敷布団に人の体が擦れる音と二人の荒い口呼吸が部屋の中を支配する。
部屋の壁に掛けられた時計の針が一秒、また一秒と時を刻む。陽炎の休暇は、あと四十八時間残っていた。