終末の物語   作:Wiseman

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第十話 わがままな娘

 まどかは立ち上がって、広々とした部屋の中を目的もなく歩いて回った。

 埃ひとつない、隅々まで掃除の行き届いた部屋。まどかには、それがマミの魔法少女としての覚悟の表れのようにも感じられた。

 ひとたび戦いに出れば、もう二度と、家には帰って来られないかもしれない。彼女達を待ち受けるのは、戦いの果てに訪れる消滅――。自室のベッドでの安らかな最期など、彼女達には望んでも手に入らないものだ。

 しかし、マミは再び帰ってきた。杏子の力添えと、さやかの思わぬ形での助勢により、マミは暁美ほむらの結界から救出された。

 今は、ロフト上のベッドで休んでいる。長時間、肉体と魂が切り離された状態にあったマミは、救出された後も体調が全快せず、長い休息をとっていた。

 案の定というべきか、マミの生還の報せを聞いたなぎさが家に駆けつけ、今はベッドの傍らで彼女の回復を待っている。ソウルジェムの穢れが酷かったので、杏子の手に入れたグリーフシードにより、浄化を施していた。なぎさは浄化能力の失われたグリーフシードを脇に捨てると、新しいグリーフシードを彼女のソウルジェムの近くに添える、という単純作業を繰り返しながら、ひたすらマミが回復するのを待ち続けた。

 杏子は、機嫌が良さそうである。部屋に置いてあった高価そうな缶入りのクッキーを勝手に開けて、今まさにすべてを平らげようとしているところであった。まどかはその行為を咎めようとはしなかった。彼女の力がなければ、マミは今でも囚われの身のままであっただろうから。

 機嫌が良さそうに見えても、杏子の心中は複雑なはずである。ダークオーブを砕かれ、訳のわからぬまま蘇生し、暁美ほむらとの取引の真実を知った時、彼女は絶望しかけていた。

 だがさやかが現れ、マミのソウルジェムを奪還し、さやかのソウルジェムを手に取り、マミを連れて結界を脱出したとき、彼女の目には微かな輝きが戻っていた。

 まどかはそれとなく、さやかのソウルジェムを拾い上げた後に杏子の身に起こった出来事について聞き出そうとした。だが杏子は、

「天使が舞い降りた」

 と一言呟いただけで、それ以上多くを語ろうとはしなかった。

 さやかのことだから、きっと杏子のことを口汚く罵ったのではないかとまどかは心配していたが、今の杏子の様子を見るに、そうではなさそうだと感じ、深く安堵した。

 気がつくと、杏子は缶入りのクッキーを一人で平らげてしまっていた。

「ねえ」

 まどかは、かねてから感じていた疑問を杏子に投げかけた。

「マミさんも知ってるの?ソウルジェムが、魔法少女の魂だってこと」

「魔法少女はみんな知ってる……みんな、それを承知のうえでこの力を手に入れたんだ」

 杏子は簡単に言うが、そう簡単に納得できるような話ではないと、まどかは感じている。

「腑に落ちないって顔だな」

 まどかの顔を見た杏子が、察するように言った。

「だって……」

「人にはさ、それがどんなに辛い道だって分かっていても、選ばなくちゃいけない時があるんだよ。あたしにもマミにもそれがあった」

 その後、杏子は付け加えるように、

「さやかにも」

 と呟いた。

「さやかちゃんから聞いたの。杏子ちゃんのこと」

 まどかの言葉を聞くや、杏子は顔を逸らしてしばらく沈黙した。

「言っとくけど、あたしは魔法少女になったことを後悔してた訳じゃない。あの時あたしが何もしなかったら、きっと、一家全員野垂れ死んでただろう。けど……すべてに納得できていた訳でもなかった。……命が惜しくてこの力を手に入れた……そのつもりだったけど……あたしは、死ぬのが怖かったんじゃない……ひとりになるのが怖かった。そんなことに今更気づくなんて、ほんとバカだよな、あたし」

 杏子はそう言って自分を責めるが、まどかは彼女を責める気にはなれなかった。自分の生きる道が危ぶまれたとき、それを回避する道があるなら、普通の人間はそちらを選んでしまうものだ。まどかは、もし自分が杏子の立場だったらと、考えずにはいられなかった。そして、考えたとき、やはり杏子のことを責められないと思うのである。

「杏子ちゃんは、ひとりじゃないよ」

 まどかは、杏子に後ろを振り向くように目で促した。

 ちょうど杏子の背後で、目を覚ましたマミがなぎさと共にロフトから降りてくるところであった。

「もういいのか?」

 案ずるように、杏子がマミに問う。

「おかげさまで、だいぶ良くなったわ」

 結界を脱出した時より、マミの顔色は確かに良くなっていた。

 パジャマ姿のままゆっくりとした足取りで卓の前に進むと、マミは腰をおろす。

 そして、まどかと杏子の二人に向かって、深々と頭を下げた。

「二人とも、本当にありがとう」

「ああ、そんな」

 まどかは、戸惑う他なかった。年上の人に頭を下げられるのは、生まれて初めてのことである。

「いいって。お礼ならもう貰っちまったし」

 杏子は素っ気なく言いながら、空になったクッキーの缶をひっくり返した。

 マミは一瞬呆気にとられたような表情を見せた後、クスクスと笑った。

「あ、ずるいのです」

 なぎさが言うと、まどかと杏子も思わず笑みをこぼした。こんな風に誰かと笑い合うのは、本当に久し振りであった。

「それに、助けたのはあたしじゃなくて、さやかだ」

 感傷に浸るように、杏子が言う。

「美樹さん……あの子もきっと、課せられた使命を果たすまで、この世界で戦い続けるのね」

 マミの言う「使命」が何であるのか、まどかには分からない。マミはどうやら、まどかと杏子の知り得ない重要な情報を持っている様子である。さやかの友達として、いま彼女がどのような状況にあるのか、まどかはどうしても知りたかった。

「佐倉さん。暁美ほむらの今の状況は?」

「使い魔にあいつの結界を見張らせてるけど、まったく動きがない。たぶん、さやかの与えたダメージがよほど痛手になってるんだろう。まだしばらくは動けないと思う。あと、この家の周りを怪しい小動物がうろついてたけど……。まあ、とりあえず今は心配しなくていい」

 杏子はキュゥべえに対する警戒も怠っていなかった。彼女によると、このマンションに近づこうとする彼等の個体は、一匹残らず駆除されるという。その方法は想像したくなかったが、少なくとも今は安心して良さそうである。

「彼女への対抗策を考えるなら、今が最大の好機というわけね」

「……けどマミ。本当に、あんたの話を信じて大丈夫なのか?あいつは……人の記憶を自在に操れるんだろ?あんただって、もしかしたら、出鱈目な記憶を植え付けられてるかもしれない」

「もし記憶を書き換えられてしまったのだとしたら、それを確かめる手段は私達には無いわ……」

「それもそうだな……」

「けど安心して。私は彼女にとって都合の悪い情報も知ってる。彼女はきっと、私が考えを変えるまで、ずっとあそこに幽閉しておくつもりだったんでしょうね。だから記憶をそのままにしておいた。私は自分の記憶を信じる。あなたも、私の言うことを信じてくれる?」

「あいつが言ってたんだ。『魔法少女の時代が終わる』って。その意味を確かめるまで、腹の虫が収まらねえ。いいだろう、あたしはマミに乗った」

「わたしも」

 まどかも同調する。

「鹿目さん……」

 マミが、力のない声を上げた。

「悪いけど、あなたをこれ以上巻き込むわけには……」

 マミのその言葉を、承服するわけにはいかなかった。それが自分の身を案じてのことだとしても、さやかや他の皆が置かれている状況を、そして何より自分自身のことを、まどかは知らなければならない。

「わたし、知りたいんです。みんなが傷ついて、傷つけあって……その何もかもがわたしのせいかもしれないのに、何も分からないまま、何もできないまま、ただ見ているだけなんて、もう嫌なんです。だからお願いです、マミさん。知っていることを、全部教えて下さい」

 まどかは必死に懇願するが、マミは視線を落としたまま、答えようとはしなかった。

「マミ、まどかの言うとおりだ。こいつは無関係じゃない」

 杏子が同意してくれた。だが、マミは躊躇いの表情を崩さなかった。

 しかし、マミならきっと自分の気持ちを理解してくれるはずだと、まどかは思っている。

 相手の意志を曲げてまでその人を守ろうとすることが、必ずしも当人の幸せに繋がるとは限らないということを、マミは知っているはずである。

 しばらくして、マミが顔を上げた。

「分かったわ。けど鹿目さん。私達には、あなたの人生を決定づける権利はない。だから、話をした上でどうするか、あなた自身に決めて欲しいの」

 重要な選択を強いるような、重みのある言葉だった。だがまどかは、戸惑いの表情を見せず、はっきりした口調で

「はい」

 と答える。

「あの……なぎさも……」

 ずっと何かを言いたそうにそわそわしていたなぎさが、恐る恐る口を開いた。

「なぎさは帰って」

 突き放すような態度で、マミが言った。

「ここから先は、私達三人で話をするから」

「でも……」

「お願い。あなたを巻き込むわけにはいかないの。あなたは家に帰って、お母さんを安心させてあげて」

 なぎさは勢いよく立ち上がると、一瞬マミを睨むような顔を見せた後、力なく俯き、振り返って玄関口へと歩いて行った。

 マミの力になりたいという彼女の気持ちを、まどかは理解している。だが、だからといって彼女を引き止めることはできなかった。

 玄関のドアが閉まる音を聞き届けた後、残された三人は顔を引き締め、本題に入る心の準備を始めた。

 マミは一言々々を噛みしめるような慎重さで、自身が暁美ほむらから得た真実を、二人に語って聞かせた。

 一通り話を聞き終えた後にまどかの中に残されたのは、暁美ほむらの計画に関する表面的な理解と、混乱であった。

「暁美ほむらは、この世界のすべての魔法少女を切り捨てようとしている。鹿目さん、あなた一人の幸せのために……。彼女はキュゥべえの力を利用して、〈円環の理〉が永久にこの世界に干渉できないように世界をつくり変えようとしている。けどそれは、この世界の魔法少女がもう、〈円環の理〉の救済を受けられなくなることを意味しているの。キュゥべえが魔獣のエネルギーを回収していたのは、それが彼女の計画のために必要だったから……」

 マミは話の最後に、暁美ほむらの計画をそう要約した。

「すまねえ、マミ」

 苦虫を噛み潰すような表情で、杏子が言った。

「そんなこととは知らずに、あいつに、力を貸しちまった」

「あなただけじゃないわ。……みんな、騙されていたのよ。魔法少女は知らず知らずのうちに、彼女の計画に手を貸していたの」

「そんな……」

 それは、残酷な真実だった。救済の力を信じて戦ってきたのに、自らその道を閉ざそうとしていたと知ったとき、マミはどんな気持ちだっただろうか。

「けどどうして……。〈円環の理〉は、悪魔を目の敵にする?そいつがこの世界に干渉さえしなければ、あの悪魔だって、こんな馬鹿げたことを考えずに済んだはずだろ?」

「自らに背き、この世界の秩序を乱す存在と考えているからよ。けど、悪魔を倒すことは、〈円環の理〉にとって通過点でしかない。彼女の最終目的は、自らの補完……」

 そこまで言うとマミは言葉を止め、胸に手を当てて軽く深呼吸した。

「鹿目さん……あなたの魂の回収よ」

「え……」

 まどかは、言葉を詰まらせた。まどかの魂。自分の魂――。

「鹿目さん。あなたは、かつて暁美ほむらが奪った〈円環の理〉の断片……、あなたこそが、私達の信じた希望の光だったの」

 まどかは、どんな真実も受け入れるつもりで、マミの言葉に耳を傾けていた。しかし、マミの言葉の意味を理解しようとしたとき、まどかの頭は本能的に彼女の言葉をブロックし、思考を停止させた。

「ちょっと待て。言ってる意味が分からねえぞ」

 杏子は目を大きく見開いて、まどかの顔を見た。

「私も、最初はわけが分からなかった。けど、そう考えたら、これまでのすべての辻褄が合う。〈円環の理〉の正体は、鹿目まどか――あなただったの」

 マミの言葉は、混乱する頭の中にゆっくりと浸透していった。それとともに、天地がひっくり返るような衝撃が、目眩のような感覚となってまどかを襲う。

「私達がもし、暁美ほむらの計画を止めることができたとしても、〈円環の理〉はこの世界への干渉を続ける。そうなれば魔法少女はおろか、この世界の文明そのものが存続の危機に立たされることになる。けどもし、鹿目さんが魔法少女となり、〈円環の理〉の元に帰れば、彼女は本来の自分を取り戻し、天使としてこの世界に縛られている美樹さんや、他の魔法少女達もきっと解放される。だから鹿目さん……」

 一息置いた後、マミは言葉を続ける。

「すべてはあなたの決断次第なの。暁美ほむらがあなたの幸せを願っている以上、あなたには、彼女に身を委ねるという生き方もある。けど、それでも暁美ほむらの計画を見過ごせないというのであれば、私もあなたと一緒に戦う」

 まどかは、マミの言葉を頭の中で整理するのに精一杯で、彼女の問いかけに即答できる状況ではなかった。

 自分という存在は、一体どこから来たのか――。その根幹的な部分が揺らぐのを感じていた。自分は鹿目知久と詢子という、普通の両親の間に生まれた普通の子供である。まどかはずっとそう思って生きてきたし、その事実を疑ったことなど一度もなかった。だがもし、前世というものがあるとしたら、自分はそこで、今と同じように、重要な選択を強いられるような場に直面していたのかもしれない。そして、その時の選択の結果が、今の自分に繋がっているとしたら――。

 自分はもう一度、選択しなければならない。魔法少女となって、自分の本来あるべき場所に還れば、すべての魔法少女が、否、この世界そのものが救われる。それはまどかにとって、この上ない喜びのはずである。

 だが同時に、別の感情が、その一歩を踏み止まらせようとしている。〈円環の理〉へ還れば、おそらく二度と、大切な家族のもとへは帰って来られなくなる。

 思考は巡り、まどかは答えを見失った。

 三人とも目を伏せ、長い沈黙が続く。

「そんな話があるかよ……」

 杏子の一言が、沈黙を破った。

「マミ、あんた……自分が何を言ってるかわかってんのか?それじゃあまるで……まどかが生贄じゃないか……!」

 杏子が感情的に責め立てると、マミは表情を曇らせた。

「もちろん……他に皆を救う方法があるなら私もそうする。けど、〈円環の理〉は……人の理解を超えた存在よ。私達の力では……どうすることもできないのよ」

「…………放っときゃあいいじゃねえか」

 どこか迷いを含んだような口調で、杏子が呟く。

「あいつの……暁美ほむらの好きなようにさせてやるんだよ。それで……魔法少女はみんな破滅しちまうかもしれないけど、別に世界が滅びる訳じゃない。あいつの思い通りにさせておけば、まどかはこの世界で平穏に暮らせるんだろ?別に、みんなを助ける義理なんて――」

 思考に浸るあまり、杏子とマミの口論の内容も、まどかの耳には届かなくなっていた。だが、杏子の発したその言葉が、まどかの意識を思考の海から現実へと引き戻した。杏子は、魔法少女の犠牲によってまどかとこの世界が救われるのなら、それでも構わないじゃないか、という様なことを言っている。暁美ほむらへの同調とも受け取れる言葉。

 この世界で、最も尊いものは一体何なのか。まどかにとって、最も尊ぶべきものは何なのか。

 瞬間、嵐のように吹き荒んでいた心が、静寂へと帰るのを感じた。

「駄目……」

 咄嗟に出たまどかの一言が、杏子の言葉を遮る。

「駄目だよ、杏子ちゃん」

 まどかはゆっくりと立ち上がり、表情を引き締め、杏子に視線を向けた。

「放っておいたら、さやかちゃんやマミさんはどうなるの?」

 まどかが問いかけると、杏子は黙ったまま目を背けてしまった。

「さやかちゃんは、この世界で戦いを続けてるんでしょ?もし暁美さんの思い通りの世界が完成しちゃったら、さやかちゃんは、もとの居場所に帰れなくなるかもしれない。それに、マミさんだって……。二人だけじゃない。魔法少女はみんな、辛い運命を受け入れて、戦う道を選んだ。けどそれは、戦いの終わりに、希望があるって信じたから。なのに、その希望の光を奪うなんて……そんなの、認めちゃ駄目だよ。……だからわたし、決めたよ」

 まどかは一呼吸置くと、迷いを断ち切ったような笑みを浮かべて、杏子とマミの顔を見た。

「わたし、魔法少女になる」

 穏やかな、しかしはっきりとした口調で、まどかは自身の決意を二人に明かした。

「杏子ちゃん、わたしは生贄になるわけじゃない。みんなの希望になる――。わたしが本当の居場所に帰るだけでそれが果たせるの。だから、そんな顔しないで」

「けど……」

「鹿目さん……」

 二人が、まどかの決意を簡単には受け入れないであろうことは、まどかも予想していた。マミにはマミの、杏子には杏子の優しさがある。その優しさが、まどかの重い決意にブレーキをかけようとしていた。

 だが、まどかの決意が揺らぐことはなかった。自分ひとりの幸せのために、他の人々が苦しむ姿を黙って見過ごすことは、自分にとってこの上ない苦痛となるだろう。

 時間の流れとともに、杏子とマミの二人も、まどかの決意を受け入れるのが最善の道だということを、受け入れるようになっていった。

「あなたの気持ちはよく分かったわ。けど、ひとつだけ大きな問題がある」

 マミの言葉が、長い沈黙を破った。

「キュゥべえだな?」

 杏子が問う。

「ええ。あれは完全に、暁美ほむらの支配下にある。彼女の支配が続く限り、鹿目さんが魔法少女になることを認めないでしょうね。だから、鹿目さんが魔法少女になるには、まず暁美ほむらを退ける必要がある。鹿目さん、あなたにもその覚悟を決めて貰う必要があるの」

 まどかに魔法少女の素質が無いという、彼の言葉は嘘だった。しかしそれは、まどかに普通の人間としての生を全うさせるという、暁美ほむらの意思による嘘だった。その嘘が、今ではまどかが前に進む上での障害となっている。

 深く考えると、迷いが生じてしまいそうだった。まどかはまだ、彼女がなぜ他者を犠牲にしてまで自分の幸福を望むのか、その真意を知らない。だがそれでも、決断しなければならなかった。さやかや、詩花や、ほかのすべての魔法少女のために。

「仕方ないよ」

 感情を押し殺した冷淡な口調で、まどかは言う。

「みんなを助けるためにそうしないといけないのなら、仕方ないと思う」

「……分かったわ。私達の力で、暁美ほむらを倒す。問題は……それが可能かどうか……」

 マミの懸念はもっともだった。彼女は魔法少女を凌駕する力を持つ上に、杏子と同様、不死身と考えられている。

「さやかのおかげで、あいつも無敵じゃないってことが分かった」

 杏子が言う。

「けど多分、あたし達の力であいつを倒すのは無理だろう。……けど、〈円環の理〉は、今でもこの世界に使いを放ってるんだろ?あいつらをうまく味方につけることができれば、あるいは……」

「それは危険だわ、佐倉さん。美樹さんはともかく、他の天使達はあなたのことも敵とみなすかもしれない」

「けど……他にどんな方法が……」

 話し合いは、早くも暗礁に乗り上げようとしていた。杏子は一度彼女に敗れている上に、下手に対峙すれば、また以前のように、彼女は杏子を支配下に置こうとするかもしれない。残る希望はマミだが、それではマミが犠牲になるかもしれない。マミは魔法少女であり、その力は有限なのだ。暁美ほむらを相手に、勝ち目など無いのではないか――。まどかは、そしておそらく他の二人も、そう考え始めていた。

 突然、玄関から物音が聞こえて、三人の会話が遮られた。

 三人は一様に玄関に目を向けた。ちょうどその瞬間、小柄な少女が玄関のドアを開けて外に飛び出そうとしていた。

「なぎさ!」

 マミが、声を上げた。

 一同は面食らってしまった。なぎさが家に帰る素振りを見せながらずっとこの部屋に留まり、隠れて三人の会話に聞き耳を立てていたのだ。

 マミは慌てて立ち上がり、なぎさの後を追うように外に飛び出した。まどかと杏子もその後を追った。

 なぎさが目指したのは、マンションの屋上のようである。

 なぎさの後を追うマミの後を追い、まどかと杏子もやがて屋上に着いた。

 なぎさは広い屋上の中央に立っていた。胸に手を当て、深呼吸をしながら、何かを念じるように瞳を閉じる。

 マミの手が、背後からなぎさの腕を掴んだ。

「何をするつもりなの」

 険しい表情で、マミは問いかける。

「どうして……こんな大事なこと……なぎさ抜きで決めるのです」

「あなたには関わりのないことだからよ」

「……あります!」

 なぎさはマミの手を振りほどくと、顔を引き締め、マミの顔を見据えた。

「マミさん」

 口を挟むべきかどうか、まどかは迷っていた。だが、なぎさの表情を見た途端、衝動的に、彼女を放っておけないという思いが沸き起こった。

「話を、聞いてあげて……」

 懇願するように、まどかは言った。

 マミは沈黙し、なぎさと向き合う。

「……ぜんぶ聞いてました。暁美お姉ちゃんが何をしようとしているか。どうしてみんなが戦わないといけないか。でも……でも、お願いなのです。暁美お姉ちゃんと、戦わないで……」

「あのなぁ、なぎさ」

 駄々をこねる子供をあやすような口調で、杏子が言う。

「ぜんぶ聞いてたんなら分かるだろ?戦う以外に、みんなを助ける道は無いんだよ」

 なぎさは突然、まどかに視線を向けた。

「まどかは、本当にそれでいいのですか」

「え……」

 彼女の突然の問いかけに、まどかは沈黙してしまった。その言葉は、自分よりはるかに小さな子供が発した言葉とは思えないほど、まどかの心に重くのしかかった。「これでいい」と、胸を張って答えることができないのだ。

「分かってます。みんなの、気持ちも……。なぎさだって、誰かの役に立ちたいってずっと思ってたから。でも……暁美お姉ちゃんと戦わなくても、みんなを助ける方法があると思うのです。だから、どうか、なぎさの話を聞いてください……!」

 なぎさの言葉に、三人は揃って息を呑んだ。彼女はただ感情に任せて部屋を飛び出したのではなく、彼女には彼女の考えがある様子である。

 まどかは、なぎさの話に耳を傾けるべきだと考えた。実際、なぎさが部屋を飛び出すまで、三人の話し合いは行き詰まっていたのだ。

 だが同時に、なぎさの提案が、彼女にとって極めて重い決断であるという予感も抱いていた。

 その予感は、的中することとなる。

 

 

 

 

   ――――

 

 この空を見るのは、何度目だろうか。

 気がつくと暁美ほむらは、空を見上げていた。黒く厚い雲が、まるで台風の過ぎ去った後のように速い速度で流れている。

 ほむらが横たわっていたのは、粉砕され、何重にも積み重ねられたコンクリートの瓦礫の上だった。人間が群れをなして築き上げてきた文明は、一人の少女の呪いを前に無力であった。森が一瞬にして砂漠と化したかのように、見渡す限りのビル群は破壊され、瓦礫の荒野へと変わった。

 その真っ只中に、ほむらは一人、仰向けに横たわっていた。

 この光景を、ほむらは何度も見てきた。これが一体何度目なのか、数えるのもやめるほどに、繰り返し見てきた景色だった。

 ほむらはこの破壊を止めようとした。止められるのは自分しかいないと信じ込み、呪いの化身たる「奴」に戦いを挑んだ。だが、ほむらは敗れた。再び、敗れた。

 すべての力を使い果たし、ソウルジェムは限界まで黒く染まっていた。

 ほむらは焦っていた。すべてを「やり直す」ために必要な魔力さえ、彼女には残されていなかった。早くソウルジェムを浄化しなければ、自身が抱いた希望はここで潰えてしまう。

 必死で、上体を起こそうとする。だが、満足に身体を動かすだけの魔力も尽きてしまったのか、身体の自由が効かない。まともに動くのは、手と首だけであった。

 首を横に傾け、ほむらは周囲を見渡す。瓦礫の荒野のあちこちにある窪みに、雨による水たまりが出来上がっていた。

 遠くに、一人の少女の姿を発見した。桃色と白を基調とした衣装に身を包み、魔女のグリーフシードを手に握りながら、瓦礫の中を何かを探すようにさまよい歩いていた。

「まどか……」

 助けを求めるように、ほむらは彼女の名前を呼んだ。しかし、その弱々しい声は雨音にかき消され、自分の耳にすら満足に届かない。

 やがて、まどかの視線がこちらに向いた。

 ほむらは絶望の中に、わずかな希望を見出した。まどかが自分の存在に気づき、慌ててこちらに駆け寄ってきたのだ。ほむらには既に、他のあらゆる光景が見えなくなっていた。破壊し尽くされた街も、荒れた空も、そのすべてが視界から消え、ただ必死に、こちらに駆け寄ってくるまどかの姿を見つめた。

 まどかはほむらの数歩手前まで近づくと、そこで膝を地についた。そこには一人の少女が横たわっていて、手には黒く染まったソウルジェムが握られていた。

 まどかは慈悲に満ちた表情で少女の目を見ると、手に持っていたグリーフシードを、そっと少女のソウルジェムにかざした。

 ほむらの心に灯っていたかすかな希望の灯は、瞬く間に消え去った。

 まどかはほむらの存在に気づいていなかった。その傍らに倒れていたマミを見つけ、彼女の元に駆け寄り、彼女のソウルジェムを浄化したのだ。

 浄化が済むと、まどかはマミの身体を両腕で抱え、立ち上がった。

 その瞬間、まどかの視線が、こちらを向いた。

 まどか……たすけて……。

 声を発する力も失われ、ただ虚しく、口だけがそのように動いた。たとえグリーフシードが無くとも、まどかなら、目の前で力尽きようとしている自分を見捨てない筈だ。そう信じて、ほむらは必死に、目で助けを求めた。

 まどかは、目でこちらを捉えたまま、ゆっくりと後ずさりする。

(待って……)

 助けて欲しい。たとえマミをここに置き去りにしてでも、自分を助けて欲しい。そんな醜い考えに染まり、それに呼応するように、ソウルジェムの軋む音が、耳に響いた。

 まどかは、ほむらの心の訴えを汲み取ろうとはしなかった。

 背中を見せると、マミを抱えたまま、遠くへと走り去って行ってしまった。

(待って……まどか……まどか!)

 残るすべての力を振り絞って、上体を起こした。腕を地面に突いて、起こした身体を支えようとする。が、ほむらの身体は再び崩れ落ちた。

 右腕が、衣装の袖だけを残して、消えて無くなっている。

 雨の音も瓦礫の崩れる音も、すべてが消え、ソウルジェムの軋む音だけが、聴覚を貫いた。

 

 

 乱れる呼吸を整えながら、ほむらは周囲を見回した。

 自分がいたのは、病室のベッドの上だった。

 いったいどれほどの間眠っていたのだろうか。おそらく何日、という単位だろう。途方も無く長い夢を見ていた気がする。

 はじめは、楽しい夢だった。まどかと、さやかと、マミと、杏子と、五人で楽しく学校で語らったり、パーティをする夢。自分で自分を、笑い飛ばしたくなる。そんな瞬間など、現実には――自身の築き上げたあの偽りの世界を除いて―― 一度も無かったというのに。

 そして、あの夢だ。何度も何度も繰り返される、迷宮を彷徨い続けるかのような夢。

 上体を起こし、素足を床に降ろして、立ち上がろうとする。だが、脚に力が入らず、崩れ落ちるように膝をつき、両手を床についた。

 両手――。

 ほむらは視界に入る自身の両手を見て、目眩のような感覚に襲われた。

 美樹さやかに奪われたはずの右腕が、ある。

 だがそれは、人間の手ではなかった。黒く変質し、左手で触れると皮膚は異常なまでに硬く、乾燥していた。

 それは自身が無意識の内に再生した義手だった。義手はしかし、脳が命じるままに動いた。

 ほむらは一瞬、このおぞましい右手を切り落としてしまいたい衝動に駆られ、左手で強く、義手の手首を掴んだ。右手に、痛みが走るのを感じる。

 心を落ち着かせ、ほむらはゆっくり立ち上がった。

 ほむらが居たのは、かつて自分が普通の人間だった頃に、その人生の多くの時間を過ごした病室と、瓜二つの部屋だった。だが、窓ガラスは一枚残らず割れ、壁に掛けられたカレンダーには、すべての日付にバツ印が無造作に書き殴られている。病室の外は厚い雲に覆われ、昼か夜か判断できないほどに暗い。

 ほむらは重い身体を動かし、病室を出た。どこまでも続く長い病院の廊下を、歩き続ける。廊下の先が、不自然に捻れている。

 自分はまだ夢の中にいるのではないか。そんな疑念が、ほむらの中にはあった。

 しかし、やがて意識が明瞭になり、これが紛れもない現実だということを、受け入れざるを得なくなった。

 ほむらの結界は深部に進めば進むほど、意識による制御が効かなくなり、深層心理が反映されやすくなる。どうやら夢を見ている間に、無意識のうちに、「やり直した」後に最初に目にするであろう光景を、結界内につくりあげてしまったようだ。

 何にしても、最悪の気分だった。それが先ほどまで見ていた夢のせいなのか、現実で起こった出来事のせいなのか、わからない。

 歩き続けるうちに、ほむらは巴マミを幽閉していた場所にたどり着いた。

 中央の台座には添えられていた花だけが残され、そこにマミの姿はなかった。花は枯れ、光を失っていた。

 ほむらは台座の脇に膝を落とすと、添えられていた花を両手で掻き散らかした。

 マミが既にこの場所に居ないことなど、最初から分かっていた。が、実際にもぬけの殻となったその台座を目にした瞬間、抑えていた苛立ちが爆発し、ほむらは無意味な行動に走っていた。

 まどかはマミのソウルジェムを奪い、ここで彼女の抜け殻を見つけ、彼女を連れて結界を脱出した。その間、ほむらのことを顧みようとは一切しなかった。

「こういう結果になるって分かってた癖に。その時が来たら受け入れられないなんて……」

 嘲るような声が聞こえて、ほむらは思わず顔を上げた。

 気がつくと、ほむらは子供部屋にいた。

 床一面に、画用紙にクレヨンで殴り書きされたまどかの絵が散らばっている。

 そして目の前には、黒い洋服を身にまとった少女がいた。

 一瞬、鏡を見ているかのような錯覚に陥ったが、よく見ると、視界に映る少女は自分よりずっと幼かった。目の前にいたのは、幼い頃の自分だった。

「ねえ、どうしてそこまで必死になるの」

 幼い自分が、問いかけてくる。手に、ピンク色のクレヨンが握られている。

「そんなの、決まってるでしょ……あの子の幸せのためよ」

「それほんとう?」

 少女が、素っ頓狂な声を上げた。

「本当は、憎んでるんじゃないの?」

「違うっ」

 答えた瞬間、再び周囲の光景が変わった。

 目の前に現れたのは、美樹さやかだった。魔法少女の姿に身を包み、膝を落としてしゃがみ込む自分を見下すように眺めながら、目の前に立っていた。

「本当は見返りを求めてるくせに、わかって貰えないから、憎んでるんでしょ?わかるよ、その気持ち」

「違うっ」

 まどかを憎むなどあり得ない。反射的に、彼女の言葉を否定する。

 今度は、背後に人の気配を感じた。視線を後ろに向けると、そこには佐倉杏子がいた。

「本当は試したかったんだろ?」

 嘲笑いながら、杏子が問いかける。

「あいつの目の前で、あいつの大事なモノをぶっ壊したらどんな反応するかって……だからあんなこと……」

「違うっ!」

 杏子のダークオーブを砕いたのは彼女に真実を知らしめる為であって、まどかに見せる為などではない。

 だが、彼女達の問いかけは、他ならぬ自分の内から出たものである。この結界内には自分自身しかおらず、目の前で問いを投げている彼女達は自分自身の投影に他ならない。

 自分の本当の気持ちがどこにあるのか、ほむらは分からなくなっていた。自分は今日までの生のすべてをまどかに捧げてきた。決して、まどかを憎んでなどいない。そう胸を張って言えるだけの自信さえ、ほむらは失いかけていた。

「見返りなんて、いらない。私は、まどかを……」

 突然、何者かに背後から服を引っ張られるのを感じ、反射的に振り返った。

 幻覚は消え去り、目の前には子供の姿をした使い魔達が、ほむらの様子を伺いながら立っていた。

「貴方達……」

 これまでずっと命令に従わず、勝手気ままに遊んでばかりいた子供達が、どういう訳か自分を気にかけるような素振りを見せている。彼等の不気味な表情から感情を読み取ることはできない――そもそも彼等に感情があるのかどうかすら、主であるほむらには分からないが、今の彼等が、まるで自分の身を案じているように見えて、ほむらは困惑した。

 子供達の背後から、キュゥべえが歩み寄ってきた。

「随分と長い眠りだったね」

 こちらを気遣うわけでもない素っ気ない口調で、彼は言う。

「マスター、君に良い知らせがある。……遮断フィールドの準備が整った。あとは君の命令を待つだけだ」

 報せを聞いた瞬間、抑え切れない高揚感に、彼女は溺れた。そうだ。この日の為に、自分は戦い、耐え忍んで来たのだ。遮断フィールドを完成させ、〈円環の理〉をこの世界から排除し、まどかは普通の人間に戻る。その瞬間が、もう目の前に迫っている。

 思わず笑みがこぼれ、高らかな笑い声が静寂を破り、薄暗い空間に響き渡った。

「貴方の負けよ……巴マミ」

 何も憂える必要などなかった。自分の悲願は間もなく遂げられるのだから――。

 

 

 

 

   ――――

 

 自宅に戻ったなぎさは、リビングの椅子に座って考え事をしていた。

 なぎさの提案に、まどかも杏子も理解を示してくれた。だがマミは違った。

 その理由は、なぎさも分かっている。ひとたび道を選択すれば、もう二度と、引き返すことができないからだ。

 だが同時に、なぎさは自分の案こそが最善であると信じていたから、マミに対し、引こうとはしなかった。結果、マミとは口論になりかけた。

 口論と言っても、対等な口論をするには二人の歳は離れすぎていた。なぎさは子供であったし、口喧嘩など殆どしたことがなかったから、マミを言葉で負かすことなどできなかった。

 途方に暮れかけたとき、杏子が言った。親とちゃんと話して、なぎさ自身が決めたらいい、と。

 杏子がそう言うと、マミは黙り込んでしまった。マミ自身、なぎさの提案を拒絶してその後どうするか、道が見えていなかったのだろう。

 なぎさの心は、決まっている。自分の力を使って、暁美ほむらとマミ達の対立を終わらせる。

 マミの部屋で三人の会話を盗み聞きしていたとき、なぎさは、暁美ほむらと病院で出会った時のことを思い出していた。涙で頬を濡らした彼女の姿が、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。あの時なぜ彼女が泣いていたのか、はっきりとは分からない。だが、なぎさには、彼女がただの同情で泣いていたようには思えなかった。

 あれは、人間の涙だ。彼女の正体が人間でないと知った後でも、なぎさはそう思い続けてきた。彼女がどんな非道に手を染めようと、そのどこかには人間の心がある。なぎさはその心の一部を垣間見てしまった。見てしまったが故に、彼女とマミ達が対立して双方が傷つくのを、放っておくことができなかった。

 なぎさは俯きがちだった顔を上げた。同じ室内で、母が本を読んでいる。まるで身体だけをこの場に残して心は本の中に吸い込まれてしまったかのように、身動きひとつせず目で本の内容を追っている。

「お母さん、あの……」

 なぎさが恐る恐る声を掛けると、母の目がなぎさに向いた。

「言いつけを破ってごめんなさい……。また、マミと会ってました」

 なぎさはこれまでの事を正直に打ち明け、母に謝った。

 母はすぐに怒り出す様子もなく、ゆっくり口を開いた。

「もう会わないって約束してくれたら、これまでの事は忘れてあげる」

 母の言葉を聞いて、この場を嘘で取り繕ってしまおうかという考えが、一瞬浮かんだ。だが、それは出来なかった。母としっかり話をすると、マミ達と約束したのだ。

 なぎさは意を決し、正直に答えた。

「ごめんなさい。その約束は守れません」

 母は立ち上がると、急ぎ足でなぎさに歩み寄り、掲げた掌をなぎさの頬に浴びせた。パンッという乾いた音が静寂の室内に響く。

「どうして……どうしてわかってくれないの……?」

 母は膝を落としてなぎさの肩に両手を添えると、声を震わせながら問いかける。

「わかってる。お母さんがずっとわたしの心配をしてくれてたこと、わたしのために今の生き方を選んでくれたこと。わたしだって、お母さんのこと大好きだから、家族を……大事にしなきゃいけないって、わかってる。けどわたし、マミと出会って分かったことがあるの。この世界には、たとえひとりになっても、ほかの大勢のために頑張ってる人達がいるって……。わたし達は、そういう人達に守られて生きてるんだって……。でも今、そのみんなが、大変な目に遭ってるの。助けを必要としてるの。だから……」

「だからって、あなたが行く必要は……」

「大切な友達なの」

 なぎさが言うと、母は目を大きく見開いて沈黙した。肩に添えられた母の手に、力が入るのを感じた。

 母は明らかに、何かを考えている様子だった。だが、それが何であるか、なぎさには分からない。

「もしも……あの子達を見捨てたら……?」

 母が問う。

「後悔する。たぶん、一生……」

 なぎさは答える。

 母は再び沈黙し、考えに耽るように、瞳を小刻みに動かした。その目は、なぎさを見ているようで、見ていなかった。まるで遠い過去に思いを馳せるかのように、その目は何もない宙を捉えている。なぎさは、母はきっと頑なになぎさの申し出を拒絶するだろうと思っていただけに、今の母の様子には戸惑った。

「こんな時……正しい母親なら、どうすると思う……?」

 母が再び問う。

 なぎさは困ってしまった。正しい母親の行いというものを考えるにはなぎさは幼すぎたし、母がなぜそのような質問をするのかも分からなかった。

「わからない……けど、たぶん、止めると思う……」

「そう」

 母は一言呟くと、なぎさの肩に添えていた手を離し、ゆっくりと立ち上がった。

「行きなさい」

 低く、落ち着いた声で、母は言った。

 なぎさはどう答えてよいか分からなかった。母のその答えを望んでいたはずなのに、いざその答えが返ってくると、急に突き放されたような寂しさが湧き上がってきて、ただ茫然と、母の立ち姿を眺めることしかできなかった。

「あなたが正しいと思うことをすればいい。ただし、もしあなたが帰って来なかったら、その時は……分かっているわね?」

 その時は、マミを只では置かないと、言いたいのだろう。

「約束する。必ず帰ってくるって……」

 なぎさはそう言って、ゆっくり後ずさりした。

「わがままな娘で、ごめんなさい」

 なぎさは駆けるようにリビングを出ると、その足で家を飛び出した。

 庭先に、案ずるような顔をしたマミが立っていた。

 

 

 

 

   ――――

 

 自室に戻ったまどかは、机の引出しに仕舞っておいたノートを取り出すと、真っ白なページにペンの先を置いた。

 目を閉じて、心を落ち着かせ、夢想する。自分が魔法少女になるとしたら、どんな姿をしているだろうか。

 ひとつの明瞭なイメージが浮かぶと、まどかは目を開け、ペンを動かし始めた。

 描き始めてみると、自分でも不思議に感じる程に、ペンはスムーズに動いた。考えながら描くというよりも、頭の中に完成されたイメージをそのまま紙に描き写すという感覚だった。

 絵は、ほんの数分で完成した。白と桃色を基調とした、明るく女の子らしい衣装。

 完成した絵を眺めているとき、ふと、なぎさのことが頭に浮かんだ。

「まどかは、本当にそれでいいのですか」

 あの時なぎさが発した言葉が、今でも頭を離れない。

 まどかは、覚悟していたつもりだった。暁美ほむらと戦わなければ、魔法少女達を破滅から救うことはできない。だが、なぎさに諭され、それが半端な覚悟に過ぎないことを思い知らされた。まどかはまだ、暁美ほむらの真意を知らない。彼女が何のために自分の幸福を願い、そのために他の魔法少女を犠牲にしようとしているのか。それを知らぬまま戦いとなり、双方が傷つくのを黙って見ていることなど、まどかにはできない。

 戦いを避ける事ができるのなら、それに越したことはない。なぎさの提案は、その意味で、大きな可能性と希望を秘めていた。

 だが、後悔も残る。過酷な戦いに身を投げるには、なぎさは幼すぎると思った。だが、彼女の意志は固かった。マミは反対したが、マミをもってしても、彼女の意志を曲げることはできないだろう。

 一体どちらの道が正しいのか、まどかには分からない。

 机の上に立て掛けてあった写真に、まどかは目を向けた。一枚はさやかの写った写真。もう一枚は詩花の写った写真。眺めながら、ある考えが浮かぶ。

 自分は本当に、彼女達を救うために魔法少女になる道を選んだのだろうか。

 本当は、彼女達と同じ場所に行きたいだけなのではないか。

 そうだ。自分はもう一度、彼女達に会いたい。だが、それは――。

 まどかは、椅子を回転させて部屋を見渡した。

 両親が外出中だったので、まどかは自室でタツヤの面倒を見ていた。

 ひとりで積み木遊びに興じるタツヤの正面に、腰を下ろす。

「何つくってるの?」

「きだよ」

「き?」

 まどかは首を傾げながら、積み木で築かれた彼の創作物を眺めた。なるほど、積み木をまっすぐに積み上げているから、木というわけか。幼児らしい想像力に、まどかは笑みをこぼした。

 まどかは両手をタツヤの脇に差して抱え上げた。

 抱き上げる度に、体重が少しずつ重くなっていくのを感じる。成長の証だった。

「タツヤは大きくなったらどんな大人になるのかな?パパみたいな優しい人?ママみたいな頑張り屋さん?」

 問いかけの意味を理解できなかったのか、タツヤはきょとんとした表情で応える。

「わたしは多分、タツヤが大人になるのを見届けてあげられないけど……。わたしはもう、この世界にいられなくなっちゃったから。わたしがこの世界にいるとね、みんなが不幸になるの。きっと、パパやママやタツヤのことも不幸にしてしまう……。けどね、わたしには皆を助けることもできるの。わたしが、ここじゃない、遠くの世界に行けば……。でも、そこに行ったら、もうここには帰って来られなくなる。皆とも会えなくなっちゃうの。ねえ……もしタツヤだったら、どっちを選ぶ……?」

 その答えは、既に出ているはずだった。マミの部屋ですべての真実を知ったとき、躊躇せず皆を救う道を選んだつもりだった。

 しかし、それが考え抜いた上での結論ではないということに、まどかは気づかされた。

 〈円環の理〉へと帰れば、もう二度と家族と会うことはできない。タツヤと対面することで、その事実と向き合うこととなった。

 そして向き合った瞬間、溢れ出した涙がまどかの頬を濡らした。その涙を抑える術を見い出せぬまま、まどかはタツヤの目の前で泣き続けた。

 

 

 

 

   ――――

 

 その日の見滝原市の空は、厚い雲に覆われていた。

 風は次第に強くなり、雲は波のような速さで流れていく。。

 街の中心地の超高層ビルの屋上に佇む暁美ほむらは、荒天のことなど気にも留めず、荒れた空を見上げながら笑みを浮かべていた。

 自身の悲願が間もなく遂げられる。その事実のみが頭の中を何度も巡り、ほむらは気分の高揚を抑えられずにいた。

 ……まどか、貴方はようやく、戦いの枷から解き放たれる。普通の人間に戻れるのよ……。

 まどかの幸福を望むあまり、まどかとの間に容易に埋めがたい亀裂が生じてしまった。だが、もはやその事さえ、今のほむらにとっては重要なことではなくなっていた。

 遮断フィールドを完成させ、〈円環の理〉の影響力を排除すれば、世界は再び自分の意のままとなる。まどかの記憶を操ることも再び可能となるだろう。埋め合わせの手段など、いくらでもあるのだ。

「さあ、インキュベーター。始めて頂戴」

 傍らに佇むキュゥべえに対し、彼女は遮断フィールドの構築を命じた。

 命じられると、彼は背中の卵型の模様からグリーフシードを何個か放出させ、それらを使って小規模な遮断フィールドをつくり上げた。その大きさは、ソウルジェムがちょうど収まる程度の極めて小さいものだった。

 遮断フィールドが一体どのような仕組みなのか、また彼が如何にして宇宙規模のフィールドを構築するのか、ほむらはその殆どを知らない。彼等の文明の持つ技術は、地球上の文明しか知らない彼女の理解を遥かに超えている。

 だが、技術の詳細について、彼女は興味を持たなかった。彼女にとっては、まどかこそがすべてである。その他すべては、まどかの幸福を実現するための道具に過ぎないのだ。

 命令を実行しようとするキュゥべえの姿を見守りながら、ほむらは時が来るのを待ち続けた。

 

 

 時が経つにつれ、風は次第に強くなり、厚く黒い雲は今にも雨を落としそうな程に重量感を湛えていた。

 キュゥべえに命令を下してから、既に数分が経過している。

 彼は、まるで球遊びに興じる小動物のように、発生させた遮断フィールドを前足で転がして遊んでいる。命令に従う気がないのか、あるいはただふざけているだけなのか、その無表情からは判断できない。

「何をしているの、インキュベーター」

 焦燥の入り混じった低い声で、暁美ほむらは問いかける。

 キュゥべえの視線が、ほむらに移った。

「……気が変わったのさ」

 素っ気ない口調で、彼は答えた。

「ねえ、ほむら。せっかくこれだけの膨大なエネルギーを集めたんだ。もっと有効な使い道を考えた方がいいんじゃないかな」

「貴方の意思など訊いていない。私は命じたのよ。遮断フィールドを完成させて、まどかと……この世界を救う。集めたエネルギーはその為の物。それ以外の使い道なんて存在しないの」

 ほむらの中に、ひとつの戸惑いが起こった。彼は常に余計な一言の多い下僕ではあったが、これまで命令に背いたことは一度もなかった。しかし、今の彼の態度は明らかに反抗的である。

 キュゥべえは遮断フィールドに前足を添えると、フィールドは解かれ、残されたグリーフシードがパラパラと音を立てて地面に転がった。

「インキュベーター!」

 苛立ちが増し、彼の首根っこを掴んで持ち上げると、ほむらは彼に怒りの眼差しを向けた。

「この日が来るのを、私がどれだけ待ったと思っているの?」

 怒りに声を震わせながら、彼に問いかける。

「……十年といったところかな?君にとっては長い年月だったろう。もちろん、僕にとっても……長くて……実に無意味な日々だった」

「何ですって?」

 無意味なものか。まどかの為に尽くしてきた今日までのすべてが、無意味であるはずがない。

「早くしないと……あいつ……あいつが来たら、何もかも手遅れになる!」

 やがて来るであろう最悪の事態を想像したとき、下僕への怒りは焦りの感情でかき消された。

 

 

 

 

   ――――

 

 暁美ほむらから身を隠すためにマミが用意したホテルの一室で、まどかはひとり、知らせを待っていた。

 なぎさの「提案」通りに事が運べば、まどかは魔法少女になることが叶い、魔法少女達を、延いてはこの世界を救うことが出来る。

 しかし、まどかの迷いはまだ完全に晴れたわけではなかった。迷いのひとつは、なぎさを巻き込んでしまったこと、もうひとつは、両親に何も伝えずに家を出てしまったことである。

 何も伝えなかったというより、伝える言葉を見つけられなかったという方が正しいのかもしれない。自分がこの世界を去ることで世界が救われる――。そんなありのままの事実を話したところで、母や父が納得する筈が無い。かといって、遠回しな表現で別れを告げるのも、両親を騙すようで罪悪感が残る。

 まどかの心中は、屋外を吹き荒れる嵐のように掻き乱れていた。

 つけっぱなしにされたテレビでは、ニュースキャスターが不要な外出を控えるように呼びかけている。

 窓に目を向けると、横殴りの強い雨が窓を打ち付け、パラパラと激しい音を立てていた。

 その光景が、まどかをより一層不安にさせた。

 突然、地震のような大きな揺れを感じ、まどかの意識は長く深い思考の渦から現実へと引き戻された。

 まどかは慌てて、室内を見回した。部屋中の設備がガタガタと音を立てて揺れている。

 揺れは、ほんの数秒で収まった。地震にしては短すぎると、まどかは感じた。

 理由も分からず、まどかは不安に襲われた。普段の地震では感じることのない、根拠不明の不安だった。

 静寂へと戻った部屋の中で、まどかは茫然と佇んだ。揺れは収まった。揺れによる被害も殆ど無い。にも関わらず、心の中に不安が広がっていく。そして、その不安の正体を確かめる術が分からない。

 まどかはひとまず、部屋の外に出ることにした。エレベーターで一階に降り、傘も持たず、ホテルのエントランスから外に出る。

 自動扉が開いた瞬間、横殴りの雨に襲われた。昼間だというのに、周囲は日暮れ刻のように薄暗い。

 何者かに見張られている――。

 突然、まどかはそんな感覚に陥った。単なる他者の視線とは違う。もっと大きな存在に見張られているような、不思議な感覚だった。不安の正体は、これだろうか。

 まどかは道路まで進んで、左右を見渡した。荒れた雲と、降りしきる雨以外に、特に変わった様子は見られない。

 次にまどかは、真上を見上げた。

 一瞬、立ち眩みのような感覚に、まどかは襲われた。同時に、ずっと感じていた不安の正体が、ようやく明瞭となった。

 自身の頭上の数百メートル上空に、異様な造形の物体が浮かんでいる。

 まどかの意識は一瞬にして、その造形物に奪われた。注意深く観察すると、物体は回転する巨大な歯車と、それにぶら下がる青いドレスを身にまとった人形のようなもので構成されていた。巨大であるが故に、地上に大きな影を落としている。周囲が異様に暗いと感じた原因はこれであった。

 それは、圧倒的な存在感をもって上空に漂っていた。にも関わらず、周囲の通行人の誰一人として、その造形物に気づいている者は居なかった。

 まどかは狼狽し、思考する余裕も失っていたが、やがて、その造形物とさやかと同じようにこの世界に送られた〈円環の理〉の使いであることを理解した。

 であるすれば、彼女もまた、〈円環の理〉に導かれた魔法少女ということになる。そう考えた途端、心の中を支配していた恐怖心が不思議と和らいだ。

 突然、これまで受けたことのない激しい突風が、まどかを襲った。

 まどかは反射的に目を閉じ、顔を両腕で覆う。

 視界が真っ暗になった瞬間、まどかの脳裏に、奇妙なイメージが浮かんだ。ちょうど今のような大嵐の中を、三つ編みの少女に手を引かれて飛び回る、不思議なイメージだった。最も不思議だったのは、手を引かれる先の空に、今まさにまどかが目にしている造形物が浮かんでいることだった。

 突風が収まると、まどかは再び目を開け、空を見上げた。

 一瞬目に浮かんだイメージは、明らかに自分のどの記憶にも無い光景だった。にも関わらず、それが自分の記憶であるように感じられる。

 再び、まどかの視界に、空を駆ける一人の少女の姿が飛び込んできた。まどかは少女を注視しようとするが、輪郭が見えるだけで、詳細な姿を捉えることができない。分かるのは、長い髪をなびかせているという事だけであった。最初に脳裏に浮かんだ、三つ編みの少女とは髪型が違う。しかし、同一人物であることは疑いようがなかった。

 それは、幻視だった。しかし、ただの幻視ではなく、自身の記憶の投影であると、まどかは確信した。

 まどかは無意識のうちに、その不鮮明なイメージをより鮮明なものにしようと、必死で記憶を辿り始めた。まるで、海に潜って真珠を探すような感覚に近かった。自身の記憶がそれほどまでに深く広大であることに、まどかは驚きを禁じ得なかった。

 記憶の海を漂ううちに、まどかはあることに気づいた。記憶のあらゆる場面に、長い黒髪の少女がいるのだ。

 やがて、ひとつの鮮明なイメージが浮かぶ。

 赤縁の眼鏡と、三つ編みの長い髪が特徴的なその少女は、傷だらけの姿で、濁り切ったソウルジェムを手に握り、荒れ果てた大地にその身を転げながら、まどかに向かって微笑みかけた。

 瞬間、まどかの目に大粒の涙が溢れた。涙は風にあおられ、頬を伝うことなく飛び去った。

 どうして、忘れていたのだろう――。どうして、今日まで思い出すことが出来なかったのだろう――。自分には、かけがえの無い友達が居た筈なのに――。

 後悔と自責が、心に溢れ、まどかは泣き続けた。

 少女は戦っていたのだ。何度も倒れ、その度に立ち上がり、敵に戦いを挑み続けた。敵は、やがてまどかを襲う過酷な運命であった。まどかを破滅の運命から救うことこそが、少女にとっての人生の全てだった。

 その少女は、名を暁美ほむらといった。

 やがて、断片的に降って湧いた記憶の数々が、ひとつの物語のように、一本の線で結ばれた。かつて、こことは別の世界で、魔法少女の存在を知り、その過酷な運命を知り、自身が果たすべき使命を知った。その結果、自身が何者となったのか、いま、何をしなければならないか、そのすべてを悟った。

 しばらくして、まどかの脳裏に、別のイメージが湧いた。

 何かの器具を打ち付けられ、ボロボロになったソウルジェムが、使い捨てにされたゴミのように足元に散らばっている。

 その器具を取り付けた者の正体を、まどかはすぐに思い出した。それと同時に、背筋が凍るような感覚に襲われた。

「わたし達は……とんでもない間違いを……」

 思わず声を漏らすほど、まどかは狼狽した。暁美ほむらが何故頑なにまどかの正体について口を噤んできたのか、何故彼女が「彼」を支配下に置いていたのか、その理由を明確に悟ったのだ。

 今すぐなぎさ達を止めなければ――。その思いが頭をよぎり、まどかは携帯電話を手に取り、マミに連絡を取ろうとする。しかし、応じたのは携帯電話の電源が切られていることを告げる無情な機械音声だった。

 まどかは居ても立ってもいられなくなり、強くなり始めた風雨の中を駆け出した。

 

 

 

 

   ――――

 

 遠方の空に浮かぶ異様な造形物を目にしたとき、ほむらは戦慄した。距離にして数キロメートルは離れていたが、それでも、回転する歯車と、歯車に吊るされた人形の姿を、はっきりと視認することができた。

 ほむらの心は、間もなく悲願が果たされるという高揚感から、失意の底へと一気に叩き落とされた。その光景は、薄れて消えかかっていた戦いと恐怖の記憶を、鮮明なまでに蘇らせた。一度植え付けられた恐怖は、より強い力を手に入れた後であっても、簡単に拭い去ることはできない。

 ほむらは茫然としながらゆっくり膝を落とし、遠方の空を見つめ続けた。

「あれが君の恐れていたモノかい?」

 キュゥべえが尋ねたが、ほむらには答える余裕すらなかった。

「たしかに強そうではあるが……けど、暁美ほむら。君は悪魔なんだろう?神に抗う存在なんだろう?敵がどんな相手だろうと、戦って滅ぼせばいい。君の持つすべての力をぶつければ」

「馬鹿を言わないで!」

 ほむらは反射的に声を荒らげた。

「そんなことをすれば……世界が破滅すると……何度もそう言って聞かせたでしょう?」

「なぜそう断言出来る?神と悪魔がこの世界で衝突すれば人類は生き残れない。それが君の主張だが……。僕はむしろ、この目で確かめてみたい。神々の力を前にして、本当に人類は無力なのか」

 ほむらは茫然としたまま、彼の言葉に耳を傾ける。

「ねえ、ほむら。この星は、これまでに五回もの大量絶滅を経験しているんだろう?にもかかわらず、この星の生命が潰えることはなかった。むしろ、滅びが新たな進化をもたらしてきたと言っても良いくらいだ。僕達はそこに、生命の持つ、無限の可能性を感じずにはいられない。今ここに六度目の滅びが起こったとしても、この星の生命はまた必ず立ち上がる。まあ、その過程で人類は滅びるかもしれないけど、長い目で見れば、人類よりされに高度な知的生命が誕生するかもしれない。ほむら、君もそういう話に興味が湧かないかい?」

「何を、訳のわからないことを……」

 ほむらは混乱する他なかった。この小動物は自身の命令に背くばかりでなく、生命の滅亡と進化などという、自分の願望とは何の関係の無い話を勝手に始めたのだ。

 苛立ちが湧き上がり、ほむらは彼の首根っこを掴んで抱え上げた。

「そう怒らずに、もう少し僕の小話に付き合ってくれ。とてもいい話だ。今から数百年前の話になる」

「は……?」

「ある所にある少女がいた。少女は毎日、朝から夕方まで、主人の経営する農園で働いていた。それ以外のことをする権利は、少女には与えられなかった。少女は奴隷だったんだ。彼女の両親が奴隷であったが為に、彼女の人生は生まれながらにして決定づけられてしまったんだ。ある日、僕は少女に接触を試みた。僕が目的を話した途端、少女はすがるようにして僕にこう頼んできた。『自由が欲しい』と。少女の願いは叶ったよ。けど、僕にはどうしても理解できなかった。住む場所も、仕事も、食べ物も与えられ……何もかも他者から与えられる生き方のほうがはるかに楽なのに……なぜ自分の命を危険に晒してまで自由を求めるのか……。けど……不思議なものだね。まさかこんな形で、あの時の少女の気持ちを理解できる日が来るとは……」

 長話が終わると、キュゥべえは一息置いて、ほむらの顔を見据えた。

「暁美ほむら、これは、君のおかげでもあるんだよ」

「は……?」

「君がなぎさを助けてくれたおかげで、僕達は自由の身になれたんだ」

 彼の言葉を聞いて、ほむらはようやく、彼の突然の変わり身の原因を把握した。それと同時に、意識の遠退くような感覚が、彼女を襲った。

「こんな日が来るなんて夢にも思わなかったよ。まさか、なぎさが僕を自由にしてくれるなんて」

 そう語るキュゥべえの口調には、まるで彼らしからぬ、歓喜の感情が篭っていた。

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