終末の物語   作:Wiseman

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第十一話 断罪の熾天使

 湿った強風の吹き荒れる日、なぎさは久しく会っていなかったキュゥべえと対面した。

「覚悟はいいんだね」

 キュゥべえが問うと、なぎさは引き締めた表情で応える。

「君が魔法少女になりたい理由は分かる。君はずっと、母親の事を案じていたからね。けど、君が魔法少女になることを、あまり喜ばない者もいるんじゃないかな」

「いいのです。これは、その人のためでもあるから」

 なぎさは答えた後、一息置いてから、自身の願いを彼に打ち明けた。

「わたしの願いは、この戦いを終わらせること」

 キュゥべえにとってみれば、それは思いがけない一言であろう。不意を突かれたかのように、彼は少しの間沈黙した。

「……その願いを叶える方法があるとすれば、おそらく一つだろう。戦いの当事者達を、この世界から残らず消し去ってしまえばいい。それで構わないのなら、叶えてあげられるけど」

「やっぱり、あなたはそう言うのですね……。けど、そんなことはさせない。そんなことをしなくても、戦いを終わらせる方法はきっとある。だからキュゥべえ、これから言うことを叶えて欲しいのです」

「内容次第だね。……教えてごらん。その小さな魂と引き換えに、君は何を求める」

 問われたなぎさは、胸に手を当てて深呼吸した後、自身の願いを言葉にした。

「インキュベーターに自由を。何者にも支配されない自由を」

 キュゥべえが一瞬、身体を震わせた。なぎさの思いがけない願いに、彼は明らかに驚いていた。

 周囲が、眩い光に包まれた。

 

 

 

 

   ――――

 

 事態を把握した後も、暁美ほむらは心の乱れを鎮めることが出来ずにいた。

 なぎさの願いにより、インキュベーターは暁美ほむらの支配から脱却した。それは無論、にわかに受け入れられる話ではない。

「嘘よ……そんなこと、できるはずが」

 震える声で、ほむらは言った。

「何を根拠にそんな事を?魔法少女が条理を覆す存在だという事は、君だって十分承知の筈だろう?」

「どうして……止めなかったの?」

 問いかけるほむらの口調には、憤怒が混じっていた。

「命令されなかったからさ」

 さも当然と言わんばかりの口調で、彼は答える。

「そもそも君は、なぎさを助けた真意だって、僕に話してはくれなかったじゃないか」

 動揺、混乱、焦燥、怒り。あらゆる負の感情が頭を駆け巡り、ほむらは言葉を失いその場に立ち尽くした。

「そこまでよ。暁美ほむらさん」

 声がする方向に、ほむらは視線を向けた。マミと、なぎさが立っていた。マミはなぎさの手を強く握り、こちらを警戒する視線を向けている。

 マミだけでなく、なぎさも魔法少女の衣装を身にまとっている。ほむらにとっては、失望に値する光景だった。

「貴方達……なんて、愚かな……ことを」

 その選択の浅はかさを、彼女達に知らしめてやりたかった。だが、狼狽するあまり、言葉を整理することが出来ない。

「貴方達は……何も分かってない!あいつ……あいつは」

「僕が何だい?」

 キュゥべえが問うと、ほむらの視線は反射的に彼に向いた。

 瞬間的に、ある考えが浮かんだ。彼の記憶を操作することで、再び彼を支配下に置くことが可能なのではないか。

「無駄だ」

 考えを察したかのように、キュゥべえは言い放つ。

「なぎさの願いは既に成就してしまったんだ。今更君が何をしようと、この状況を変えることはできない」

 なぎさを排除しない限り、再び彼を支配下に置くことはできないと悟ったほむらは、力なく肩を落とす。

「暁美ほむら、今までよくも僕達を騙してくれたね」

 彼の口調は冷静な様でいて、どこか恨みが込められたかのような冷徹さがあった。

「恩人である君達に、特別に教えてあげるよ。僕達が、彼女に支配されるようになった経緯(いきさつ)を」

 彼はそう言って、なぎさとマミに視線を向けた。

「僕達はね、まだ幼かった頃の暁美ほむらに接触を試みようとした。幼い彼女に、魔法少女としての只ならぬ素質を感じ取ったからだ。けど、接触した後で、それがとんだ見立て違いだったことが分かった。暁美ほむらは、人間ではなかったんだ。しかし、それに気づいた時にはすでに手遅れだった。それから後のことは……話さなくても察しはつくだろう」

 インキュベーターの種としての在り様は人類とは全く異なっていた。彼らは全ての個体が記憶・意識を共有しており、いわば個にして全、全にして個と呼べる存在であった。それは、彼らにとって強みであると同時に弱みでもあった。暁美ほむらは自らに近づいたインキュベーターの一個体を通じて、彼らを完全に自らの支配下に置くことに成功した。彼らの深層に、出鱈目な創造神話を植え付けることによって。

「僕達を支配下に置いた暁美ほむらは、色々なことを教えてくれたよ。自分が何者で、何のために存在しているか。その日以来、僕達は彼女の為に働くこととなった。鹿目まどかを幸福にするという、ただひとつの目的の為に」

 語り終えた彼はほむらに視線を向けると、再び口を開く。

「ねえ、ほむら。ずっと前から君に訊きたいことがあったんだ」

 そう言った後、彼はなぎさ達に視線を向けた。

「君達も疑問に思うだろう?暁美ほむらは、この世に生まれた時から悪魔だった。だとすると、彼女が〈円環の理〉から鹿目まどかを引き剥がしたのは、一体いつなのか」

 キュゥべえは、おそらく彼が暁美ほむらの下僕であった時から抱いていたであろう疑問を投げかける。ほむらは答えず、見開いた目を足元に向けたまま、沈黙を続ける。

「答えるのも面倒かい?なら、僕が代わりに当ててあげようか?……君は、幸せに出来なかったんだろう?まどかを……」

 その問いかけは、既に色褪せ、遠く彼方の砂に埋れつつあったほむらの記憶を、わずかながらに蘇らせた。

 記憶が薄れようとも、その時抱いた感情を忘れ去ることは、永久に出来ない。

 

 

 暁美ほむらの望みは、まどかが普通の人間として、その生涯を全うすることであった。温かい家族や友人に囲まれながら成長し、やがて自らの家庭を持つ。その当たり前の人生こそが、まどかにとっての幸福であると、信じて疑わなかった。

 まどかを絶対的存在である〈円環の理〉から引き裂いてこの世界に連れてきたとき、自身の望みは既に果たされたも同然だと、ほむらは考えていた。

 しかし、事は彼女の思惑通りには運ばなかった。

 まどかが違和感を持たれることなくこの世界に馴染めるように、彼女は人間世界を作り変えた。しかし、それでもなお、まどかは不安定な存在であった。

 まどかは度々、自分自身という存在に対して疑問や違和感を抱くことがあった。ほむらはその都度、深い眠りから覚めようとするまどかの記憶を封じ込める必要があった。

 やがてほむらは、まどかの記憶を完全に消し去ることは不可能であると考えるようになった。

 神の力を手に入れた彼女にとって、人の記憶を消し去ったり、書き換えたりすることは造作もないことであった。しかし、例外と呼べる存在が二つあった。鹿目まどかと美樹さやかである。

 さやかは人間世界に戻ってすぐに過去のことを忘れ、普通の生活を送るようになったが、それでもなお、どういう訳かほむらを悪魔呼ばわりし続けた。

 ほむらはこの二人の中に、〈円環の理〉の力の一部が残っており、それが記憶操作の邪魔をしているのではないかと考えた。

 しばらくして彼女は、その仮説を裏付ける異変を目の当たりにすることになった。見滝原に魔獣が出現しなくなり、同時に魔獣とは似て非なる異形の存在が現れるようになったのだ。彼女はそれを目の当たりにしてすぐに、それが自分の知る魔女と同質の存在であることを理解する。

 魔女達は暁美ほむらに敵対する行動を見せたため、彼女は自宅内に結界を張り、望まずも魔女と戦う日々を送ることとなった。

 時が流れるにつれ、異変はより顕著となる。異変の範囲は見滝原を中心にその周辺へと拡大していった。

 異変が見滝原を中心に拡大していることが知られるようになると、魔法少女達の関心は必然的に見滝原に向けられるようになった。

 異変の発生当初から見滝原に居た三人の魔法少女――巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子――は、はじめは事態を楽観視していたが、異変が拡大すると、原因を解明すべく動き始めた。

 暁美ほむらは、異変の原因が鹿目まどか、美樹さやか、そして自分自身のいずれかであろうと考えた。だとすれば、原因の解明は容易である。三人を離れた場所に置いて、異変が誰を中心に起きるかを調べれば良い。

 ほむらの仮説は正しかった。原因は、まどかが家族と旅行に出かけたことをきっかけに、あっさりと解明されることとなった。その事実は、ほむらを失意の底に沈めるのに十分であった。

 魔獣が消え去ることは、魔法少女にとっては生きる糧を失うことに等しい。まどかが異変の原因であることが知れ渡れば、魔法少女達がどんな行動に出るか分からない。

 もしも異変の原因がさやかであれば、彼女自身に選択を委ねるつもりであった。もしも原因が自分であれば、魔法少女を敵に回して抗戦するまでだ。いずれにしても、まどかに危害が加えられることはない。しかし、異変の原因はまどかだった。

 彼女は、まどかが異変の原因であるという事実を封じ込めようと、手を尽くそうとした。しかし、その時すでに多くの魔法少女達が見滝原に関心を向けていたため、事態はすぐに彼女の手に負えないレベルに達してしまった。

 異変の範囲が広がると共に、その原因がまどかであるという事実もまた、世界各地の魔法少女に広まってゆく。

 さらに時が流れ、ほむらの前に現れる魔女はより強力になっていった。

 彼女は味方を増やすことを考えた。自身の持つ力の一部を他の魔法少女に分け与えることで、魔女の標的を彼女達に向けさせる、つまりは囮にすることを考えた。

 最初の味方は佐倉杏子であった。彼女はほむらの知る魔法少女の中で最も生への執着が強く、それと同時に、ほむらにとって最も与しやすい相手であった。

 しかし当然、杏子だけでは数として不十分であった。

 ほむらはキュゥべえを通じて、世界中の魔法少女に関する情報を事細かに集めることができた。

 彼女達の性格や価値観を見聞するにつれ、ほむらは自身の予想に反して、魔法少女の運命――〈円環の理〉の導きによりこの世界から消え去ること――に対して疑念を抱いている魔法少女が少なからずいることを知る。この世界の魔法少女は皆、奇跡を望むことに対する代償を理解した上でなお、魔法少女の道を選んだのだと思っていた。しかし中には、偶発的な出来事により止むに止まれず魔法少女になった者や、その後の経験によって生への執着を捨て去ることが出来なくなった者などもいることを知った。

 そして、そういった者達を誘惑し、味方につけることは予想以上に容易であった。

 ほむらは次第に味方を増やしていったが、その代償もまた大きかった。ひとつは、自身の力を魔法少女達に分け与えることでほむら自身の力が弱まっていくことであったが、それは彼女にとって大した問題ではなかった。

 それより重大なのは、悪魔と化した魔法少女達と、魔女達との衝突が激化していくことであった。彼女達の戦いは、人類が築き上げてきた文明社会に、少なからぬ爪痕を残すようになっていった。

 魔女達――この世界では天使と呼ぶべきかもしれない――は、人類が営々と築き上げてきた文明のことなど、まるで気にも留めていない様子だった。対抗する悪魔達も、身に余る力を制御しきれずに暴走することが多々あった。

 人間社会の受ける被害が大きくなると、残された魔法少女達は世界を守るため、悪魔と魔女の戦いを終結させようと決起する。

 多くの魔法少女達が、暁美ほむらに戦いを挑んだ。

 しかし、ソウルジェムを浄化する手段を失いかけていた彼女達は十分な力を発揮できないまま、暁美ほむらの前に倒れていった。

 事態はやがて、彼女が想定していた最悪の方向へと向かうこととなる。

 暁美ほむらに挑んでも勝ち目がないことを悟った一部の魔法少女達が、標的を鹿目まどかに切り替えたのだ。

 ほむらは支配下に置いた悪魔達にまどかの守護を命じたが、魔法少女達は幾度と無く彼女達の目を盗んでまどかを拉致しようとした。

 魔法少女の中には、まどかの善意を利用しようとする者さえいた。ある者は家族を失い途方に暮れる少女を装ってまどかの同情を引き、巧妙にまどかの警戒を解くことで彼女を拉致した。

 ほむらの中に、彼女達への抑えがたい怒りの感情がくすぶり始めていた。ほむらが、自身の発生させた穢れでソウルジェムを満たすことにより、魔法少女をたやすく葬り去れることに気づいたのはその頃だった。

 悪魔、魔女、魔法少女の戦いは激化し、その中で、まどかの心は次第に蝕まれていった。

 まどかをこの世界に連れてきてから三年が経過した頃には、異変は全世界に広がっていた。

 

 

 辛くも魔法少女に拉致されたまどかを奪還することに成功した暁美ほむらは、気絶したまどかを両腕に抱えながら、帰路の途上にあった。

 まどかが囚えられていた建物は、それがかつて何の施設であったのか判別できないほどに退廃しきっていた。だが、それももはや気に留めるようなことではない。原型を留めている建物など、この街にはもう殆ど残されていないのだ。

 途中、ほむらは鎖で両手両足を拘束されて身体の自由を奪われた一人の魔法少女に視線を送った。拘束は、ほむらの手によって施されたものである。

 全身白で統一された衣装と、頭に乗せられた大きなハットが印象的なその少女は、満身創痍になりながらもまだ意識があった。

 彼女は――彼女がかつてこことは別の世界で同じ役割を果たしたように――まどか抹殺を目指す魔法少女グループの指導者的存在だった。

「まどかは返してもらうわよ」

 暁美ほむらは、白い魔法少女に冷徹な視線を浴びせながら言うと、その場を立ち去ろうとする。

「貴方は!」

 少女は残された力を振り絞って声を荒げ、ほむらを呼び止めた。

「貴方は、この世界を尊いとは思わないの?世界が壊れていくのを……皆が死んでいくのを見て、何も感じないの?」

 ほむらは短い沈黙の後、足元の瓦礫にそっとまどかを下ろし、振り返って少女の元へと歩み寄った。

 少女の首に右手を押し当てると、力を目一杯加えて少女の首を締めようとした。

「心が痛むわ」

 威圧するような口調で、ほむらは答える。

「まどかがこの世界を見て、悲しんでいるから」

「だったら……!」

「だったら何?私に、死んでこの世界を救えとでも?悪いけど、それは出来ない。私には、これ以外の道はないのよ」

 ほむらは少女の首から手を離すと、再び口を開いた。

「だいたい、この世界を救いたいと思っているのなら、どうしてすぐにまどかを殺さなかったの?」

「……邪魔が入ったから」

 少女は苦虫を噛み潰すような表情を浮かべながら答えた。

「この世界を救う方法は二つ。貴方を殺すか、まどかを殺すか……。彼女はこの期に及んでなお、一つ目の道を選ぼうとした。私は、彼女が許せなかった。一体、どれだけの魔法少女が貴方に挑んで……死んでいったと思ってるの?彼女はそれでもまどかを守ろうと、貴方とに立ち向かおうと」

「……だから殺したの?」

 ほむらは、まどかを奪還する途上で、鎖に繋がれて息絶えた巴マミの姿を発見していた。

 マミが戦いの方針を巡って白い魔法少女と対立していたことは事前に察知していたが、彼女がまどかの保護とほむらへの抗戦を主張していたことを知ったのはこれが初めてであった。

 ほむらの中に、様々な感情が同時に湧き上がった。初めてマミを知った時から、ほむらにとって彼女は畏怖と尊敬の対象だった。そして最後の時まで、彼女はほむらの尊敬する彼女のままであった。魔法少女としての気高さ、高潔さを失わなかった。だが、その命は絶たれてしまった。

「私達は、いずれ皆死ぬ。……だから、それまでの限られた時間の中で、この世界の為にできることをするしかない。まどかを、殺して、世界を、救う。それが、私達に残された最後の道だった。けど……それも、これまでのようね……」

 少女のソウルジェムは、既に限界近くまで濁りきっていた。あと少しの穢れを与えれば、彼女の戦いはここで終わることになるだろう。

 ほむらは彼女のソウルジェムにそっと右手をかざした。

 右手から黒い妖気が発生し、少女のソウルジェムは次第に穢れで満たされてゆく。

「神様――」

 少女が目を閉じながら、天上の存在に訴えるように呟いた。

「どうか……お導きください……」

 少女のその言葉が、ほむらの手を止めた。得体の知れない感情が心の奥底から湧き上がり、それによって心が黒く染め上げられるのを感じる。視界さえも遮るような、真っ黒な感情――。これは……一体何だ。

 ほむらはソウルジェムに穢れを与えるのをやめると、そっと右手を下ろした。

 直後、大きな銃声が響くと同時に、宝石の砕け散る音が鳴り響いた。

 少女の濁りきったソウルジェムが粉々に砕かれ、彼女の足元に散らばる。

 白い魔法少女の亡骸は、繋がれた両手両足を支えとしたまま、がっくりとその場にうなだれた。

 ほむらは一瞬、自分の行いに対して、恐れおののきそうになった。神による救済を望む一人の少女の願いを、その眼前で打ち砕いてしまったのだ。一歩退き、銃を放り捨てる。

 だがその感情も、心の内に広がる真っ黒な感情によって、すぐにかき消されてしまった。

 ほむらは力尽きた少女の亡骸を一瞥した後、再びまどかを抱え上げてその場を立ち去った。

 

 

 街全体を見渡せる超高層ビルの屋上から、鹿目まどかは見滝原の街を眺めていた。

 陽の光は遮られ、地上の各地から上がる炎が、街の様子を確認する手助けになっていた。

 ある場所で、見知らぬ少女が天使に蹂躙される姿が目に止まった。その姿から察するに、彼女もまた悪魔なのだろう。

 また別の場所では、強大な力を持った悪魔が、天使を圧倒していた。

 地獄のような光景が延々と続いているかと思えば、遠くのある場所では光の柱が立ち、それはまるで天国と見紛うような神秘的な光景であった。

 まどかも、そしてそれ以外の誰一人として、その混沌とした光景を理解することが出来ないだろう。だが、この場所にもはや普通の人間が生きる余地は残されていないという事は、誰の目にも明らかだった。

 暁美ほむらは、うつ伏せに倒れた状態で、茫然と佇むまどかの後ろ姿を見ていた。

 天使達との戦いの末に、瓦礫に足を押し潰されて身動きが取れなくなっていた。

「暁美さん」

 立ち尽くしながら、まどかが力ない声で言う。

「これが、あなたの望んだ世界?」

 ほむらにとっては、氷の刃を胸に突き刺すような一言だった。

「違う!」

 叫ぶような口調で、ほむらは強く否定する。こんな世界など、自分は望んでいなかった。

「私は……私は……」

「分かってる。あなたが、ずっとわたしを守るために戦ってくれたこと。でも……もう限界だよ」

 次第に震える声で、まどかは続ける。

「世界が傷ついて……みんなが苦しんでるのに……わたし……傷ひとつない……。わたしは、本当は、みんなと一緒に傷つきたかった……!一緒に苦しみたかった……!ずっと思ってたの。わたしが魔法少女になれたらって……。そしたら、この世界を変えられるかもしれないって……けど、そんな必要なかったんだ」

 まどかの言葉を聞いて、ほむらはようやく、彼女の考えていることを理解した。まどかの立っている場所は、あと一歩進めば百数十メートル下の地面に自由落下できる、ぎりぎりの位置であった。

「やめて」

 悟った瞬間、ほむらは反射的に声を発した。彼女を止めようとする言葉。だが、その言葉がもはや何の力も持たないことを、ほむらはすぐに悟る。

「魔法少女にならなくても、わたしには、世界を救う方法があったんだ」

「やめて……!」

「もっと早くにこうすべきだった。やっぱり、魔法少女のみんなの言うことは正しかった。魔法少女は、正義の味方だもん」

「やめて……お願い……」

 ほむらは、必死に藻掻いて瓦礫からの脱出を図ろうとしたが、力を消耗していた彼女に、それは叶わなかった。

 まどかは、髪を結んでいた二本の赤いリボンを解いて、手に握りしめた。

 手の力を緩めると、リボンはまどかの手を抜け、風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまった。

 まどかは振り返り、ほむらに顔を向けた。目から溢れる涙が、頬を濡らしていた。

「今まで、ありがとう」

 まどかが、膝の力をふっと緩めた。その直後には、彼女はほむらの視界から完全に消えていた。

 

 

 まどかが命を絶ったことで、天使達はこの世界で活動することが出来なくなり、一斉に姿を消した。かと言って、世界がすぐに元通りになる筈はなく、暁美ほむらは、まどかの居なくなった後の燃える世界を、ひとり眺めていた。

 風に飛ばされたまどかのリボンは、瓦礫の中にあった。かつてまどかに贈ったリボンは、再びほむらの手に戻った。

 この世界でまどかに幸福な人生を歩ませるというほむらの願いは、ここに潰えた。否、とうの以前に潰えていたというべきかも知れない。世界が破壊されるのを目にしたほむらは、もはやこの世界で彼女を幸せにすることは出来ないという、諦めの境地に達していた。ただ、まどかが自分の目の前から消えることが耐えられないが為に、彼女の死を先延ばしにしていたに過ぎなかった。

「連れて参りました」

 背後で声が聞こえ、ほむらは振り返った。

 立っていたのは佐倉杏子だった。彼女は今もなお、暁美ほむらの忠実な下僕であった。首筋に焼き付けられた蛇のような刻印が、その証である。

 杏子が連れてきたのは、百江なぎさだった。

 なぎさは見滝原中学校の制服を身にまとい、まるで催眠に掛けられたかのような虚ろな目をしながら佇んでいる。

「ご苦労だったわね」

 そう言って、ほむら二人に歩み寄った。

「美樹さやかは?」

 ほむらは杏子に尋ねた。

「ご命令通り、始末しました」

「そう……」

 短い沈黙の後、杏子が口を開く。

「あの……ひとつ訊いてもよろしいでしょうか?」

「何?」

「私はこれまでずっと魔法少女達と戦ってきました。魔法少女達は皆、まどかを亡き者にしようとしていると、そう聞かされていましたから。ただ、美樹さやかだけは違うことを言っておりましたので、それが気になって……」

「何と言っていたの?」

「まどかなら、この世界を救えると。あれは――」

「出鱈目よ。……忘れなさい」

 杏子の言葉を遮るように、ほむらは言った。

「……それを聞いて安心しました」

 無表情のまま、しかしどこか安堵するような口調で、杏子は言った。

 ほむらは杏子の後ろに立つなぎさに視線を移した。

 杏子がなぎさの顔前で軽く両手を叩くと、なぎさは意識を取り戻したかのように慌てて周囲を見回した。

「待ってくれ、マスター」

 突然現れたキュゥべえが、焦燥の口調でほむらに声を掛けた。

「……出来るって言ったわよね?」

「ああ。本人の意思とは無関係に潜在魔力を解放し、本人の願望とは関わりのない奇跡を起こす。確かに可能だが……それは、僕達が最も忌み嫌う行いだ。少女の持つ潜在魔力は、本人の願望を叶えるためだけに使う。それが僕達の決めたルールなんだ。いくらマスターの命令といえど、従うわけには……」

 彼らには彼らなりの倫理観とルールがあり、ほむらが行おうとしていたことはそれに背く行為であるらしい。……くだらない。そんなルールを前に、まどかを幸せにするという自身の目的が阻まれていいはずがない。

 ほむらはなぎさの肩に手を当てると、荒廃した見滝原の街に目を向けるよう促した。

「見て。何もかも失われてしまった。尊い命も、貴方の大切なものも、すべて」

 なぎさはおそらく、何故世界がこの様に変わり果ててしまったのか、正しく理解しているわけではない。

 荒廃した街を眺めながら、なぎさは目に涙を浮かべた。

「ねえ、この世界を救いたいと思わない?」

 ほむらが問いかけると、なぎさの目にかすかな光が宿った。

「……救えるのですか?この世界……」

「ええ。けど、そのためには、どうしても貴方の力が必要なの」

「……お母さんのことも、助けられる?」

 悲痛の声で、なぎさは尋ねた。

「……ええ」

 ほむらが答えると、なぎさは短い沈黙の後、口を開いた。

「いいよ。わたしの力が、役に立てるなら……」

 なぎさが答えると、これでどうだ、と言わんばかりの顔で、暁美ほむらはキュゥべえに視線を向けた。

「……分かったよ。君の好きにするといい」

 彼は結局、主人に屈した。

 ……自分に思いつく方法は、結局これしか無いのかもしれない。

 本来不可逆であるはずの時間を巻き戻し、世界を再生する。それを可能とするのは、奇跡の力をおいて他にはない。そのために、なぎさの力を利用する。まどかの記録を保ったまま、彼女の生まれる前まで、時間を巻き戻す。彼女はひとりの人間として、再びこの世界に生を受けることとなるだろう。

 だが、おそらくそれでも――まどかの命がこの世界にある限り――〈円環の理〉はこの世界への干渉を止めないだろう。その時は……考えればいい。答えは、必ずあるはずだ。まどかは幸せにするための明確な答えが、必ず。

「そんなことをすれば、君自身も記憶を維持できる保証がないんじゃないかな」

 キュゥべえが問う。

 いっそ、すべてを忘れ去ることができれば、自分は楽になれるだろうか。……だが、それはできない。

 これは呪いだ。かつての自分が、今の自分にかけた呪い。呪いを解く方法はひとつしかない。まどかを幸せにすること。

 だが、どうやってそれを果たす?そもそも、まどかにとっての幸せとは?仮にそれを果たせたとして、その後の自分はどうなる?すべてを果たし終えた自分に、一体何が残る?

 次々と湧き立つ疑問をかき消して、ほむらは赤いリボンを強く握りしめた。

 

 

 

 

   ――――

 

 マミはなぎさと共に、暁美ほむらの吐露する全ての真実を聞き届けた。

 聞き終わる頃には、まるで空想の世界に引きずり込まれたような心地になっていた。マミは彼女がいつか語った、神と悪魔の衝突によって世界が破滅するという未来を、ひとつの可能性に過ぎないと思っていた。勿論、彼女の語った内容がすべて真実かどうかは分からない。だが、ひとつの結末として、確かに真実味を帯びた話だった。

 まどかを守ろうとする悪魔、まどかを在るべき場所に帰そうとする天使、世界を守ろうとする魔法少女。三者の利害は一致せず対立し、間に立たされたまどかは心を蝕まれ、自ら命を絶つことで、世界を救おうとした。

 誰に対する怒りも、マミの中には湧き起こらなかった。あるのは悲しみだけであった。意志と意志の対立が時に最悪の結果をもたらすという、この世界の過酷な宿命に対する悲しみであった。

 同時にマミは、暁美ほむらに対して抱いてきた疑問のひとつに答えを見い出した。なぜ彼女が、魔法少女達を切り捨てるような選択を平然と行ってきたのか。彼女の心を確かめるために、マミは問いかけた。

「あなたは、憎んでいるのね……魔法少女を」

 暁美ほむらは、目を大きく見開いて表情を歪めると、はっきりと答えた。

「そうよ……私は、許せなかった!まどかは……すべての魔法少女のために、自分の幸せを投げ捨てて、その身を捧げてきたのよ!なのに、あいつら……寄って集ってまどかを、亡き者にしようと……まどかを、追い詰めて……あいつらに、救う価値なんて無い……」

「それで?」

 沈黙していたキュゥべえが、口を開いた。その口調には、一切の同情も込められていなかった。

「まどかの幸福のために、君は人生を一からやり直したという訳かい?」

「そうよ」

「その事に関して口をつぐんできたのは、君が禁じ手を犯したからだろう?」

 ほむらは彼の問いに答えようとしなかった。彼の関心事は、どうやらマミ達とは別の所にあるようだった。

「暁美ほむら。君は、自分が何をしたか解っているのか?君が利用した力は、世界を自分の思い通りに変えてしまう力だ。だからこそ僕達は、使う上で厳格なルールを決めて、それを守ってきたんだ。なのに君は――」

「黙れ」

 憎悪に満ちた低い口調で、ほむらは彼の言葉を遮った。

 直後、ほむらは表情を緩めた。

「すべてはまどかの為よ。私はこの世に再び生まれ出たその時から、まどかを想って生きてきた。どうすればあの子が幸せになれるか、その答えだけを探し求めて。まどかと、もう一度巡り会う日を夢見て……なのに……なのに」

 はじめのうち穏やかだった口調は、再び怒りに震え始めた。

 ほむらは顔を上げると、マミに視線を向ける。

「まどかを、魔法少女にするつもりね」

 マミは、もはや彼女に対する怒りを感じなくなっていたが、だからといって、彼女に譲歩するつもりはなかった。視線を逸らすことなく、マミは無言で、彼女の問いに答えた。

「暁美ほむら」

 キュゥべえが再び口を挟んだ。

「まどかが魔法少女となり、〈円環の理〉へと還れば、君の語った、破滅的終局も回避されるだろう。僕はそれでも一向に構わないと思っている。その時はその時で、僕達は本来の使命である、宇宙延命のためのエネルギー回収任務に戻るつもりだよ」

 彼の言葉を聞くや、暁美ほむらの顔色が変わった。瞬時にして、彼の真意を悟ったかのようだった。

「まさか……」

「ああ。暁美ほむら、君が何もかも教えてくれたんだよ。魔女のこと、〈円環の理〉のこと、そして鹿目まどかのことを。君がもたらしてくれた情報は、今後の研究の材料として、大いに活用させてもら――」

 彼が語り終えるのを待たずに、暁美ほむらは左手に出現させた拳銃を彼の眉間へと向け、引き金を引いた。

 激しい銃声とともに発射された弾丸は、彼の額に綺麗な穴を開けてコンクリートへと沈んだ。饒舌に自身の思惑を語っていたキュゥべえは、次の瞬間にはただの白い肉塊となってその場に倒れた。

 ほむらは握っていた拳銃を捨てると再び両手両膝を床に突き、周囲を見回した。

「まどかは、どこ……?」

 マミもなぎさも、彼女の問いに答えようとはしなかった。なぎさは彼女が冷静さを失っていく様を見て、ただ動揺していた。

「まどか……まどか……まどか!」

 暁美ほむらは正気を失ったように、まどかの名を呼びつづけた。

 見るに耐えられなくなったマミが、口を開く。

「あなたが彼女の居場所を知ることはない。彼女は自分の意志で魔法少女になる道を選んだのよ。あなたが切り捨てようとした人達を救うために……」

「嘘よ!」

 ほむらは声を荒げる。

「だって……あの子は……」

 彼女は、射すような眼差しをマミに向けた。

「巴マミ……何もかも、貴方の仕業ね」

 彼女はゆっくりと立ち上がると、一歩ずつ足を進めながらマミに接近して来る。

「貴方は、いつもそう……いつもそうやって、私の邪魔ばかりして……でも貴方なら、もしかしたら、私を理解してくれるんじゃないかって……そう思って……。でも、私が愚かだった。こんなことになるなら、はじめから、殺しておけば……」

 言葉を詰まらせながら言うと、彼女は黒く染まった右の義手を挙げてマミの頭部のソウルジェムに向けた。

 彼女の右手から黒いオーラが発せられると、マミは身体の自由を奪われてその場に立ち尽くした。

 彼女の持つその力を前にして、魔法少女は無力なのだと、マミは悟った。

 マミは暁美ほむらと対峙する時から、こうなることを覚悟していた。自分がこの場で力尽きるとしても、まどかが皆を救ってくれることを信じながら逝けるのであれば悔いはなかった。

 あとはただ、なぎさがこの場を生き延びてくれることだけを切に願い、ゆっくり目を閉じた。

 不意に、身体の拘束が解かれ、マミはその場に膝をついた。

 目を開くと、自分と暁美ほむらとの間に割って入ったなぎさが、両手を広げてほむらを止めようとする姿が視界に入った。

「待ってください!」

 暁美ほむらの乾ききった目を見据えながら、なぎさが叫ぶ。

「マミを責めないでください。……なぎさが考えたのです。みんなに、戦って欲しくなかったから!だから、怒っているのなら、どうか、わたしを殺してください!その時は、なぎさも怪物になってあなたと戦います」

 なぎさの必死の訴えに呼応するように、彼女はそっと右手を下ろした。

「なんで……なんでよ……」

 落胆するような口調で、ほむらが言った。

「貴方は魔法少女になるべきじゃないって……あれほど言ったのに……」

 ほむらは、一度下ろした右手を、今度はなぎさのソウルジェムに向けた。

 マミは、彼女がなぎさに手を出すとは考えていなかった。しかし、今の正気を失ったほむらを前にして、その考えは捨て去るべきだと悟った。

 考える間もなく、マミは立ち上がって彼女の足をめがけてリボンを放った。

 瞬時に足に絡みついたリボンを思い切り引っ張ると、彼女は体勢を崩す。

 次の瞬間にマスケット銃を手に取ると、マミは彼女の左手に据えられたダークオーブに狙いを定めた。

 引き金を引くと、撃ち出された弾は彼女のダークオーブの真ん中を捉え、瞬く間に砕いた。

 無数の破片へと変化したダークオーブは彼女の足元に散らばり、それと共に、生気を失った彼女の身体はバサッと音を立ててその場に倒れた。

 勝負は、一瞬のうちに決した。

 乱れた呼吸を整えながら、マミは辛くもなぎさの窮地を救ったことに、安堵を覚えた。

 なぎさは、倒れたほむらに哀れみの表情を向けていた。

「大丈夫。すぐに目を覚ますわ」

 なぎさの肩に手を当てながら、マミは優しく語りかけた。

 気がつくと、どこから現れたか分からぬインキュベーターの新しい個体が、白い肉塊と化した自身の仲間を貪り食っていた。

「キュゥべえ!」

 苛立ちの込められた口調で、マミは彼に呼びかけた。

「なぎさは、あなたに好き勝手させるために、あなたを解放した訳じゃない。それを忘れないで」

 彼は食事を中断すると、マミに視線を向けて答える。

「頭の片隅には入れておくよ。他ならぬ、恩人の頼みならね」

 素っ気なくそう返答すると、彼は食事を再開した。

「マミ!」

 背後で叫ぶ声が聞こえて、マミとなぎさは振り返った。

 血相を変えた杏子が、翼を広げてこちらに向かって飛んでくる姿が目に止まった。

 マミ達の立つ屋上に着地した杏子は、その場に倒れていたほむらを一瞥した後、すぐに目線をマミに戻した。とにかく、落ち着きのない様子である。

「まずいことになった……!あの化け物、これまでの奴らとは桁が違いすぎる!」

 杏子は後方を指さしながら、興奮気味に叫ぶ。

 彼女の指さす方向に、宙に浮かぶ不気味な異形の姿がある。

「この嵐もきっと奴の仕業だ。今はまだ大人しいが……」

 杏子は、倒れていたほむらに再び視線を向けた。

「そいつが目を覚まして奴と喧嘩を始めたら、何が起こるか分からない。下手したら……この街の人間が危ないかも知れない」

「そんな……!」

 マミは思わず声を張り上げた。

「住民の避難は、まだ完了していないのよ……!」

 暁美ほむらの語った、悪魔と天使の衝突によって世界が荒廃するという未来が、再び脳裏を過ぎる。その未来を回避するために、まどかは魔法少女になる決意を固めたのだ。ならば、まどかが魔法少女になるまでの間、せめてもの時間稼ぎが必要だ。

 杏子は腰に手を当て視線を落とした。何か考え込むような素振りであった。

「あたしなら……」

 震えるような小さな声で、杏子が呟いた。

「あたしが奴に近づけば、奴はあたしに食い付く。うまくやれば、人の少ない場所に、奴を誘導できるかもしれない」

 自分を奮い立たせるように、しかしどこか迷いのある口調で、杏子は提案した。

 マミは身の震える思いがした。自らの身を危険にさらして無関係の人々を救おうとするなど、まるで彼女らしくない提案だと感じたのである。

 しかし、すぐにそれが誤りであることに気づいた。初めて彼女と出会ったとき、彼女は目を輝かせながら、自身の夢を語った。忘れかけていたその記憶が、今の彼女を目の前にして呼び覚まされた。あの時の杏子が、帰ってきたかのようだった。姿形は悪魔そのものだが、彼女はあの時の心を、失ってはいなかった。

 それならば、マミの答えは一つしかない。

「私も行くわ」

「駄目だ!奴はあんた達が戦うべき相手じゃない。それに、今のなぎさじゃ、あいつとやり合うのは無理だ」

「でも……!」

 杏子に一人であの異形と戦わせるのは、あまりに危険だとマミは感じている。

 杏子はマミに背を向け、遠くの宙に浮かぶ異形を見据えた。

「心配してくれるのか?……あたしには、その気持ちだけで十分だ。あんたはなぎさを守れ。もう後悔したくないんだろ?」

 杏子の言うとおりだった。今あの異形に戦いを挑めば、魔法少女になって間もないなぎさが真っ先に脱落するのは目に見えている。

 マミは冷静に考えた末に、彼女の提案を受け入れる覚悟を決めた。

「わかったわ。けどどうか……無茶はしないで」

 杏子は振り返ると、マミ達に歯を見せて笑った。程なくして彼女は、異形の魔物をめがけて飛び去っていった。

 マミは、倒れていたほむらをリボンで拘束すると、なぎさの手を握った。

「私達は、鹿目さんと合流しましょう」

 なぎさが頷くと、二人もまたその場を後にして飛び去って行った。

 

 

 

 

   ――――

 

 目に映る異形の姿が大きくなるにつれて、杏子の中の恐怖心も次第に膨れ上がっていった。

 吹き荒れる強風を押しのけるようにして、杏子は宙に浮かぶ巨大な異形への接近を続ける。

 近づく中、杏子は自問した。自分はこんなことをするために、あの悪魔と、穢れた取引を交わしたのだろうか。

 そうではなかった筈だ。この力を望んだのは自分自身のためであって、見ず知らずの人々のためなどではない。

 しかし、心の奥から湧き上がる何かが、今の杏子をつき動かしていた。

 杏子はこの役目を買って出る直前、さやかのことを思い出していた。もしもさやかが同じ立場にあったら、彼女はどうしていたであろうか。彼女ならきっと、相手との力の差など顧みようともせず、挑みかかろうとするだろう。

 そして以前の杏子なら、そんなさやかを「蛮勇だ」と言って嘲っていただろう。

 思案を巡らせている内に、歯車の異形との距離は三百メートル程度まで迫っていた。

「おい、デカブツ!」

 挑発するように、杏子は声を轟かせた。

 その声に反応するように、歯車に吊るされた人形が旋回し、その顔らしきものが杏子に向いた。

 まずは杏子の思惑通りとなった。悪魔の力を持った杏子が彼女に接近すれば、必ず何らかの反応を示すだろうという読みは当たった。

 しかし、問題はここからである。

 最初は、幻術を使って暁美ほむらに成りすますことを考えた。しかし、それでは必要以上に異形を刺激しかねない。

 ひとまず今の姿のまま、異形を郊外の山間部まで誘導することを考えた。

 杏子は異形の注意を引きながら、山間部を目指して飛び続ける。

 目がどこにあるのかも分からぬ人形の顔は、だが確かに杏子の姿を捉えていた。

 やがて人形の顔から、一筋の青い光が龍のように曲がりくねりながら杏子をめがけて伸びて行った。

 異形が自分への攻撃を開始したことを悟った杏子は、すかさず格子状の結界を出現させ、攻撃を防いだ。

 異形の攻撃と杏子の防御はしばらく続いた。その間、両者は少しずつ街の中心部を離れていった。

 しかし、次第に異形の攻撃は激しくなり、杏子は自由に飛び回る余裕を奪われていった。

 杏子はダークオーブを手に入れたことで、浄化せずとも無限の魔力を引き出すことが出来るようになったが、とはいえ、一度に消費できる魔力には限りがある。

 このままでは、郊外に辿り着く前に、力尽きてしまうかもしれない。

 考えている内に、異形の発した攻撃の一筋が、高層ビルに命中し、そのガラスを粉砕した。

「クソッ!」

 杏子は焦った。街への被害を最小限に食い止めるという彼女の思惑が、崩れ去ろうとしていた。

 ……こうなりゃ一か八かだ。奴を、あたしの結界に引きずり込むしか……!

 考えている余裕は殆どなかった。自身の持つ最大限の力を利用して、彼女を食い止めるほかない。

 杏子が強く念じると、杏子と異形のみを残して、周囲の光景が瞬く間に変わってゆく。

 地面に刺さるように立つ無数の墓標と、その中心に立つ朽ちかけた教会、そしてそれらを覆う黒い空。無意識に杏子がつくり上げた結界は、見る者の心を蝕む、不気味な光景だった。

「ここなら遠慮はいらねえよな?」

 杏子は微笑みながら言った。周囲に邪魔をするものが何もないと感じた時、強大な相手を前にして感じていた恐怖心は、いつの間にか高揚感へと変わっていた。

 杏子は勢いよく、持っていた槍を人形の顔めがけて投擲した。

 槍はわずかに曲線を描きながら宙を裂き、人形の顔に突き刺さった。刺さった場所から、赤い血が滴り落ちる。

 異形は興奮する様子もなく、微動だにせずその場に浮遊し続けている。

 杏子はさらに複数の槍を出現させ、次々と人形めがけて放った。

 放たれた槍は次々と人形の胴体に命中するが、異形は尚も沈黙を続ける。

 しばらくして、異形が再び動き始めた。身体から発せられた無数の光の筋が、外へと向かって伸び、見えない壁へと到達して亀裂を生じさせた。

 異形が結界を内側から破壊しようとしていることを悟り、杏子は焦る。

 彼女が結界を破壊するのに、それほど時間はかからなかった。

 みるみるうちに結界の風景は崩れ去り、元の見滝原の建物群が姿を見せ始めた。

 その様子に目を奪われた杏子の隙を突くように、一筋の光が杏子を襲った。

 杏子は為す術なく光に捕らわれ、高層ビルの壁に叩きつけられた。

 身体を激痛が襲い、再び飛び上がる力も失われた。

 ……クソッ……なんて強さだよ……。

 これほど強力な相手だと初めから分かっていたら、彼女に戦いを挑もうなどとは思わなかっただろう。

 後悔を頭によぎらせながら、杏子は宙に浮かび続ける敵を茫然と眺め続けた。

 直後、激しい爆音と共に、異形の歯車から黒い煙が湧き上がる。爆発の衝撃は風となって杏子を襲い、彼女は思わず顔を手で覆った。

 爆風が収まった後、杏子は再び異形を仰ぎ見た。

 その近傍に、片翼の黒い影が浮かんでいる。

 杏子の想像していた最悪の事態が起ころうとしていた。

「あのバカ……」

 冷静に考えれば、彼女があの異形と戦う理由などもはや無い。しかし、彼女にそのような状況判断が出来るほどの冷静さが残っているとも思えなかった。

 目を覚ました暁美ほむらは、戦い続けるだけの生きる屍と化したかのようだった。

 

 

 

 

   ――――

 

 二人の魔法少女は、高層ビルの屋上伝いに、まどかを目指して暴風の中を突き進んでいた。

 厄介であったのは、まどかの隠れ潜んでいる場所が、宙に浮かぶ巨大な異形のすぐ近傍であることだった。

 マミの頭の中にあるのは、これ以上の犠牲を払うことなくこの戦いに終止符を打つこと、ただそれだけである。

 なぎさが、すべてを覚悟した上で、自分達のために戦う道を選んでくれた。彼女の願いを無駄にしないためにも、一刻も早くこの戦いを終わらせなければならない。マミは心の中でその想いを何度も反復させた。

 比較的低層のビルの屋上に着地した瞬間、マミは何者かの強い気配を感じ取り、その場に立ち止まった。先へ進もうとするなぎさを、手で制止する。

 ビルの縁から、黒い衣服を身にまとった子供達が次々と這い上がり、二人を扇状に包囲した。子供の数は合計で五人であった。

 マミもなぎさも、その子供達を見るのは初めてではなかった。彼らは街のあちこちにいて、遊んでいたり、たまに悪ふざけをする、普通の子供であった。

 しかし、彼らが暁美ほむらの使い魔であることをはっきりと認識したのは、これが初めてであった。

 彼らは刺繍道具のような形状をした武器を携えながら、明らかな敵意を二人の魔法少女に向けている。主人を討たれたことへの報復のつもりだろうか。

 彼らとの戦いは避ける事ができないと、マミは悟った。

「なぎさ、私の傍を離れないで」

「……なぎさも、戦えます」

 なぎさは啖呵を切ったが、彼女の中に迷いがあるのを、マミは感じていた。キュゥべえを解放したのが本当に正しい選択だったのか。狼狽する暁美ほむらを見て浮かんだ疑念の答えを、まだ出せずにいる。

 子供達のうち、正面に立っていた一人が、先陣を切るようにマミに襲いかかった。

 マミはマスケット銃で応戦した。彼らに向けて、引き金を引く。だが、彼らは携えた武器で巧みに弾を防いだ。

 意に反して、子供達との戦闘は長引いた。彼らは、一人ひとりが平均的な魔法少女に匹敵するほどの実力を備えていた。相手との力を比較すれば、数の劣るマミ達の方が不利である。

 マミの動きに、次第に疲労の色が見え始めていた。しかし、自分が倒れれば、なぎさに危険が及ぶのは間違いない。その想いが、マミを突き動かし続けた。

 戦闘が激化する最中、遠方に浮かぶ異形とその周囲の空間に変化が起き、一同は反射的にそちらに目を奪われた。

 異形の周囲の空間が大きく歪み、その歪みに飲み込まれるように、巨大な異形は忽然と姿を消した。

 強風が鎮まった。

「佐倉さん……!」

 このような大掛かりな芸当は、おそらく彼女にしかできない。マミは異形の消えた後の宙を、しばらく茫然と眺めていた。

 しかし、これ以上異変に気を取られている余裕はない。

 敵対する子供達は、今なおマミ達を倒そうと躍起になっていた。

 

 

 

 

   ――――

 

 使い魔の子供達の助けによって、暁美ほむらは再び目覚めた。

 目覚めた後の心を支配していたのは、果てのない憎悪だった。

 あらゆる存在が、敵のように思える。自分の邪魔をするマミ、自分を裏切った杏子、忠告を無視したなぎさ、キュゥべえ、それに魔女達。

 彼女達をひとり残らず始末しよう。まずは魔女からである。

 歯車の異形は、杏子の放った槍によって傷を負っていた。力は弱まっている筈である。ほむらにとっては、漁夫の利を得る思いであった。

 ほむらは結界に隠しておいたスティンガーミサイルを五、六挺出現させると、異形をめがけて一斉に発射した。

 ミサイルは次々と異形に命中し、異形は巨大な爆煙に包まれた。

 それでもなお、異形は傷を負うことなくその場に滞空し続ける。

 異形もまた、本来の敵を見つけたと言わんばかりに、その持てる力を暁美ほむらにぶつけようとした。

 対する暁美ほむらもまた、目の前の強大な敵を倒すためにあらゆる手を尽くそうとした。

 遥か遠方から雲を裂くように何発もの対空ミサイルの群れが現れ、異形をめがけて直線軌道を描いた。

 ミサイルは一発残らず異形に命中し、激しい爆音とともに巨大な爆煙が立ち上がった。爆煙は異形を完全に覆い尽くすまでに広がった。

 煙が晴れるより前に、その中から、何片かに砕かれた巨大な歯車が現れ、真下の河川をめがけて落ちてゆく。歯車は川に着水して巨大な水しぶきを上げた。

 その光景は、長らく淀みきっていた暁美ほむらの心を高揚させた。

 ……勝てる!

 ほむらは煙の中から敵の残りの断片が現れるのを待った。

 煙は次第に晴れ、残された異形のシルエットがはっきりと浮かび上がっていた。その姿を目にしたほむらは、再び凍りついた。

 それが、「彼女」の本来の姿というべきなのかもしれない。

 歯車にぶら下がっていた人形の頭部が上に移動し、その頭上に天使の輪のようなものが出現すると共に、周囲に爆風が生じた。

 爆風は異形にまとわりついていた煙を完全に吹き消し、その姿を再び暁美ほむらの前に晒した。

 その直後、異形とほむらの周囲が真っ白な光に包まれた。

 光に包まれた暁美ほむらは、全身を火に焼かれるような苦痛を受けた。

 右の義手は光にかき消される影のように消滅し、残された左の翼は火に焼かれるようにその形を失っていった。

 ……浅はかだった。魔法少女とは比較にならない強大な力を手に入れた今、もはや「彼女」すら自分の敵ではないと思っていた。だがそれは誤りだった。考えてみれば当然のことだ。自分は美樹さやかにすら勝てなかった。彼女達もまた、〈円環の理〉から強大な力を得てこの世界に降り立ったのだ。

 敵の光に蹂躙される中、彼女の心は次第に湧き上がる悔恨の念に支配されてゆく。

 ……結局、私は……同じ過ちを繰り返していただけだったの……?

 力を失い、その身体は投げ捨てられた人形のように高層ビルの屋上に叩きつけられた。

 まどかが幸福な人生を手にすることを願って、彼女をこの世界に連れてきた。だが結果的に、自分の行いがまどかを苦しめることとなった。

 まどかはすべての魔法少女の幸せを願い、それを果たしうるのが自分しか居ないことを悟り、自身を犠牲にしてその身を捧げようとした。

 暁美ほむらは彼女を止めようとするが、強大な敵に打ちのめされ、為す術もなく彼女が願いを遂げるのを見届けるしかない。

 同じだ……あの時と……。

 自由の効かなくなった身体を必死に動かし、宙に浮かぶ巨大な異形に視線を向けた。

 〈円環の理〉の使いとしてこの世に舞い降り、頭上に輪を湛えた彼女は、紛れもなく天使と呼ぶに相応しい。

 だが、彼女達はただ天主に命じられるがままにこの世界にやって来たのだろうか。おそらく、そうではないのだろう。彼女達もまた、まどかを求めていたのだ。あの深い慈愛を。あの、すべてを照らすような微笑みを。そう悟った瞬間、涙がこぼれた。

 ……これが、神に背いた報い……。

 矢先、異形の目の前に魔法陣のような円が出現し、その中から、別の姿の異形が出現した。

 人のような姿をしているが腕はなく、その代わりに光る触手のような物を何本も湛えていた。暁美ほむらも、その姿を見るのは初めてである。

 ほむらは残された左手でサブマシンガンを握り締めると、現れた異形に銃口を向けて引き金を引いた。

 しかし、カチッという乾いた音が虚しく響くだけで、その銃口から弾が発射されることはなかった。

 これもまた報いなのだろうと、ほむらは思った。自らの手で殺めた魔法少女が、報復のために姿を変えて再び目の前に現れたのだ。

 すべてが終わりだと悟った瞬間、まどかへの想いが溢れてくる。彼女はまだ、自分を憎んでいるだろうか。……だが、それでも構わない。親友を殺した憎き敵としてでもいい。自分のことを、覚えていて欲しい。存在を忘れられるより、その方がずっといい。

 力なく銃を投げ捨てると、目の前の敵が徐々に自身に接近するのを見据えながら、全てを受け入れるように、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 …………

 …………

 深い眠りにつくように、視覚、聴覚、思考をシャットアウトした。

 だが、ある時ふと、何かに呼び覚まされるように、意識が浮上するのを感じた。

 どのくらいの間、目を閉じていただろうか。

 分からない。数分かも知れないし、ほんの数秒かも知れない。

 だがいずれにしても、まだ意識がある。

 天使達に蹂躙され、消え去るのが自分の運命だと思っていただけに、ほむらは混乱した。

 ゆっくりと、目を開ける。

 目を開けた瞬間、痛みが走った。視界が明るい。

 数十歩先に、滞空する天使の姿が見える。だが、動いていない。

 その手前に、人が立っている。少女だ。

 背丈が小さく、短めのツインテールを黄色いリボンで結っている。

 よく見知った後ろ姿、まどかの後ろ姿だった。

 だが、きっと幻影だろう。こんな戦場の真っ只中に、彼女が来る筈がない。

「もういい」

 まどかの幻影らしきものが、声を発した。

「もう、戦わなくていいの。あなたたちの目的は、わたしを取り戻すこと。だからもういいの。わたしはもうすぐ、あなた達の処に行くから」

 紛れもないまどかの声だったが、息が少し切れていた。幻影が喋るのに息を切らすというのは滑稽だ。

 静止していた天使が、光の触手をゆっくりと伸ばし、まどかの頬へと近づけた。

 奇妙な光景に、ほむらは思わず息を呑んだ。その時初めて、この人間離れした異形の怪物の中に、人間の心が存在しているのを感じ取ったのだ。

 天使は少しの間静止を続けた後、伸ばしていた触手を一斉に収めた。まるで、戦う意志を放棄したかのようだった。

「ありがとう」

 再び、まどかの声が聞こえた。

 まどかの幻影が百八十度方向転換して、その顔をほむらに向ける。

 一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。

 次第に、その顔が明瞭となった。引き締まった表情を、こちらに向けている。

 それは、幻影などではなかった。本物のまどかが、目の前に立っている。

 その真っ直ぐな視線に、刺すような痛みを覚えて、ほむらは思わず彼女から目を背けた。

「来ないで……!」

 身も心も朽ち果てた今の自分の姿を彼女に見られるのは、苦痛でしかなかった。

 

 

 

 

   ――――

 

 マミの疲労は、既に限界近くに達していた。

 なぎさを守りながら子供達との戦いを続けていたが、戦果は敵の一人を脱落させるに留まっていた。

 他の四人はまるで疲れ知らずといった様子で、二人の魔法少女を翻弄していた。

 子供達の一人が、マミの構えた銃をその武器で弾き飛ばすと、マミは体勢を崩してその場に尻もちをついた。

 このままではなぎさを守り抜けないかもしれないという諦めに近い思いが、マミの頭をよぎる。

 子供達は、倒れたマミになお容赦無い攻撃を続けようとした。

 子供の一人が、刺繍道具のような槍をマミに向け、突進して来る。

「マミ!」

 なぎさの叫ぶ声が聞こえる。

 槍は、マミの喉元に達する寸前で、止まった。

 子供達が、一斉に動きを止めた。互いに、顔を見合わせる。その不気味な表情から感情を読み取ることは出来ないが、何かに戸惑っているようにも見える。

 マミもなぎさも、突然の出来事に困惑し、茫然と子供達の様子を眺め続けた。

 しばらくすると子供達は、戦う意志を放棄したかのように武器を収めた。振り返り、何かを目指すように駆け出す。

 やがて子供達は次々と屋上からジャンプし、二人の視界から消えてしまった。

 







最近になって、第一話の投稿日を10月3日にしておけばよかったと、後悔し始めております。

この物語も終盤に差し掛かってきました。
ここまで週一ペースでコンスタントに投稿を続けて来られたのは、ある程度書き上げた原稿を、チクチク推敲しながら投稿していたからなのですが、実は、この続きをまだほとんど書いておりません(筋はだいたいできていますが)。
そのため、次の投稿はしばらく先となります。

ここまで読んで下さった方に、改めて御礼申し上げます。
またね。
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