永遠――。その概念の持つ魅力に、多くの人々が取り憑かれてきた。死を恐れ、不老不死を求めた古代の王。機械の体を求め、宇宙を旅する少年。永遠を求める人間の物語は、数多ある。
暁美ほむらが、自身もその一人だと気づき始めたのは、いつだったろうか。何もかもが不安定で、移ろいやすく、永遠と呼べる物など何ひとつない世界。その中で、魔法少女という存在は、とりわけ儚い存在だった。人知れず戦い、人知れず消えてゆく彼女達。その現実を目の当たりにすることで感じる喪失、恐怖。何度も繰り返すことによって、それらの想いが積み重ねられていく。極地に降り積もる雪のように、何層も、何層も。
やがて暁美ほむらは、長く続く呪縛から解放された――かに見えた。しかし、その先にあったのは、最も愛する者の喪失だった。
彼女は世界の何処にでもいる。彼女と共に学んだ教室。彼女とよく語らった公園。彼女の家。ほむらの家。何処にでも。
けれど、彼女の声を聞くことはできない。彼女の笑ったり、泣いたり、怒ったりする顔を見ることはできない。彼女の髪を結ったり、一緒に宿題をしたり、マミお手製のケーキを食べて頬を綻ばせることもできない。
やがて暁美ほむらはひとつの願望を抱くようになった。あの幸せだった瞬間が、もしも永遠に続くのなら――。
その願望は、歪んだ形で表層化することとなった。夢のなかに築きあげられた、偽りの世界。その世界に、幸福のための駒となる人々を連れ込み、日常生活を演じさせる。誰も傷つかなくていい世界、死や喪失への恐怖など微塵もない、理想の世界。
しかし、それは永遠とは程遠い、あまりに脆い世界だった。夢は、夢であると気づいた瞬間に崩壊する。暁美ほむらが、自身さえ騙して築き上げた理想の世界は、結局、儚い夢でしかなかった。
夢がかくも脆く崩れやすいものなら――暁美ほむらは考える。現実世界を、自身の理想とする世界につくり変えてしまおう。
その為の力を、ほむらは手に入れた。永遠をもたらす力。神にも等しい力。そしてその力を、他者に分け与えることもできる。
理想の世界はすぐ目の前にあった。しかし、それを阻んだのは、他ならぬまどかだった。まどかの為に築いた世界なのに、などと言うつもりは、もはやない。ほむらは分かっていた。これはまどかの為ではなく、自分自身の為の行いなのだと。その為に、障害となる魔法少女達を、何人も葬ってきた。身勝手な憎悪に駆られながら――。
だが、それは間違っていた。あるとき、まどかに問うたことがある。「この世界を尊いと思う?」と。まどかは尊いと答えた。まどかにとって自己とは、遠大な世界のほんの一部に過ぎないものなのかもしれない。だからこそ、見知らぬ大勢の人々の為に、己の身を投げうつことができるのだろう。
あの問いを投げたとき、ほむらは既に気づいていたのかもしれない。自身とまどかとの間には、埋めようのない隔たりが存在しているのではないか、と。ほむらにとって世界とは、まどかと、その周囲にいる少数の人々に過ぎなかった。ほむらには、地球の裏側で絶望しかけている魔法少女に想いを馳せることなどできない。
何はともあれ、暁美ほむらの築こうとした理想の――永遠の世界は、ここに潰えた。まどかとの戦いに負けたのだ。まどかは勿論、自分が勝ったなどとは微塵も思っていないだろうけれど。
暁美ほむらはずっと、遠方の空を見つめていた。つい数分前まで、そこには、見滝原の街を混沌へと叩き落としていた大樹がそびえ立っていた。しかし、やがて大樹は眩いピンクの光に包まれながら消え去り、その跡には、厚い雲の間にぽっかり空いた穴から、レースカーテンのような光の柱が注いでいた。根元から覆された高層ビルが傾斜しながらもかろうじて立っていて、その奥を流れる川が、太陽光を反射してきらきらと輝いている。風は止み、先ほどまでの混沌が嘘のような静けさだった。
まどかが、行ってしまった。
暁美ほむらに、途方も無く大きな置き土産を残して。
夢にさえ思い描くことのなかった大きなチャンスを、ほむらは再び手に入れた。普通の人間が望んでも一生手に入らない程の力だ。軽く扱うことはできない。
まどかがほむらに何を望んでこのチャンスを与えたのかは明白だった。犯した罪を償うこと。しかし、一体どうやって……?
繰り返してきた行いの数々が、再び閃光のごとく脳裏に蘇る。自分は一体、どれだけの罪を犯してきたのだろう。どれだけの人々を傷つけ、奪い、利用してきたのだろう。その多くは時の彼方に埋もれ、掘り起こすことさえできない。
償いの道など、そう簡単に見つかるものではない。罪の数は一つや二つではない。けれど、叶えることのできる望みは一つだけ。そして何より、ほむらは償うことのできない罪を犯してしまった。盗んだ物は返すことができる。だが、死んでしまった人間は二度と帰ってこない。
だが――ほむらに、ある考えが浮かぶ。方法は、全く無いわけではない。
……もしも、あの時、あの場所に戻ることができたら……。
考えていたのは、まどかを引き裂いて悪魔に身を堕としたあの瞬間に戻り、すべてをやり直すことだった。あの時、魔法少女の運命を受け入れ、まどかの導きによりこの世界から消え去っていれば――。悪魔によって書き換えられたこの宇宙は、誕生しなかったことになる。暁美ほむらによってもたらされた災禍も、消えて無くなる。
そこまで考えたとき、ある存在が、大きな障害となって立ちはだかった。駄目だ……それでは駄目なのだ。あの時点で、インキュベーターは、〈円環の理〉とまどかの関係を知っている。ほむらの亡き後も、彼らはあらゆる手段を使って、〈円環の理〉の力を暴こうとするだろう。その後まどかがどんな運命を辿るか……考えただけで恐ろしい。
……同じだ。あの時と、まったく同じこと考えてる……。
ほむらは感じていた。過去に戻って、すべてをやり直すことができたら……。今思えばその想いが、ほむらの魔法少女としての人生の始まりだった。希望は過去にしか無いと、勝手にそう思い込んで、何度も何度もやり直してきた。そしてそれは、今でも変わらない。進歩がないな、と自嘲したくなる。
一体、どうすればいい?再び、最初の問いに戻ってしまった。今の自分に残された道なんて、ただこのまま魔法少女になって、まどかの導きで消え去ることだけ。しかしきっと、それではまどかは自分を赦してはくれないだろう。一体、どうすれば――。
急に足音が聞こえて、ほむらは振り返った。同じように遠くの空を眺めていた杏子が、こちらに歩み寄ってくる。
思えば、彼女にも随分と酷い仕打をしてきた。彼女は今でも、自分を恨んでいるだろうか。それだけの事をしてきたのだから、憎まれても仕方ない。そう考えたら怖くなって、視線を彼女から逸らした。
目の前に立ち止まった杏子が、フッと微笑んだ。今の惨めなほむらを見て、嘲笑っているのだろうか。そう思って彼女の顔を見たが、その笑みには、そんな邪な感情は一切含まれていなかった。一切の呪縛から解かれたような、清々しい微笑みだった。
「お互い、振り出しに戻っちまったみたいだな」
振り出し、か。確かに、そうかもしれない。彼女らしい皮肉だと、ほむらは思った。
「杏子、私は……」
「何も言うな」
自分が何を言おうとしたのか、ほむら自身にもわからなかった。謝ろうとしたのか、今の迷いを打ち明けようとしたのか。だが、杏子はそれを遮った。
「ただ少しの間、悪い夢を見ていただけだ。……それにしても、随分と好き放題暴れてくれたよなぁ……一体、どうやって落とし前つける気だ?その為のチャンスを貰ったんだろ?」
そのことはずっと考えていた。が、答はまだ出ていない。そう言おうとしたが、そんな自分があまりに惨めに感じられて、ほむらは口を噤み、視線を落とした。
「なんだ、迷ってるのか」
呆れたように、杏子が言った。
「あたしは決めたぞ。魔法少女になる」
彼女の一言は、ほむらを大きく驚かせた。あれ程までに魔法少女の運命を拒絶していた杏子が、再び、魔法少女になるという。
「思い出したんだ。あたしはなんであの時、魔法少女になりたいって思ったか……それを思い出させてくれたのは……あいつらだ」
杏子は遠方の雲に開いた大きな穴を見つめながら言った。差し込む陽光が、まるで「あいつら」の背を照らす後光のように見えた。
「あたしは魔法少女になる。けど、あんたも同じことを望むなら……順番を譲ってやる。で、どうするんだ?」
ほむらは再び目を逸らす。まだ答は出ていないのだから、そんな風に急かさないで欲しい。
「難しく考え過ぎなんじゃないのか?あんたはただ、あいつの傍にいたかっただけじゃないのか?」
杏子が問う。そうは言っても、考えなければならないのだ。これは、たった一度のチャンスなのだから。いつも直感で物事を決める杏子とは違うのだ。
杏子は愛想を尽かしたような顔をすると、振り返ってマミ達のもとに戻って行った。
ほむらは再び、遠方を見た。半壊した見滝原の市街が、眼下に広がる。思えばあの時も、同じような光景だった。あの時――。
突然、稲妻に打たれたような衝撃が、全身を走った。振り向いて、歩いて行く杏子の後ろ姿を見る。彼女はさっき、何と言った?
深い茂みの中から、地平線まで続く草原に抜け出たような、そんな気分だった。ある考えが頭に浮かんだかと思うと、それは瞬く間に明確な解となって、意識全体に広がっていった。答はずっと、意識の中にあった。魂の中にあった。視界を覆っていた霧は、いまや消え去った。まどかが用意してくれた道を、はっきりと見出すことができたのだ。
しかし――。
果たして自分に、その資格があるだろうか。
彼女達は、こんな自分を受け入れてくれるだろうか。
そもそも自分に、それを果たす力があるだろうか。
大きな一歩を目の前にして、足がすくむのを感じる。身が震えるのを感じる。
いや、もう迷うのはよそう。自分にはきっと、この道しか残されていないだろうから。
振り返ると、杏子、マミ、なぎさの三人が、こちらの様子を見ていた。暁美ほむらの選択を見届けるまで、この場を動かないつもりなのだろうか。その目からは、ほむらへの憎しみなど微塵も感じられなかった。あれほど酷いことをしてきたのに――。だが、彼女達の優しさに、甘えるつもりはない。自分はこれから、償いの道を歩まなければならないのだ。もはや迷うことなど何もない。
ただ、ひとつだけ心残りがあるとすれば、それは――。
ほむらは、なぎさの顔を見た。
「ごめんね」
自身の願いを果たせば、彼女と再び会うのも当分先のことになるだろう。だから、今のうちに謝っておきたかった。なぎさの肩が、かすかに震えた。
「インキュベーター」
まったく気がつかなかったが、彼もまた、近くで一部始終を眺めていたようだ。その彼に、声をかける。
「最後の命令、聞いてくれる?」
「……君には色々と言いたいこともあるけど、こういう結果になってしまった以上、水に流すほか無さそうだね。君の僕等に対する不当な支配行為について、処分を検討していたんだ。だが結局、不問に付すことになったよ。君のようなイレギュラーを罰することのできる法を、僕等は持ち合わせていなかったからね。それに、君がどんな奇跡を起こす気なのか、とても興味がある」
法、か。まどかの敷いた
ほむらはゆっくりと立ち上がった。身体の震えは、すでに収まっていた。今はただ、未来が見える。
過去にばかり希望を追い求めるのは、もうよそう。希望は過去ではなく、未来にあるから――。
ほむらは深呼吸し、傍らに佇む小動物に、自身の願いを告げた。
……この願いを果たすことができたら、自分はきっと、多くのものを失うだろう。
暁美ほむらには、そんな覚悟があった。
まず喪失したのは、時間の感覚だった。
インキュベーターに自身の願いを告げてから、どのくらいの時間が経っただろうか。
三時間……三日……三年……三百年……?
わからない。時間を確かめる術を、ほむらは持ち合わせていなかった。
……ここは何処だろう。
雪の降り積もる峰の頂のような場所に、ほむらは居た。四方に視界を遮る物の一切ない、高い峰だった。
右を見渡すと、遥か遠方に、空を貫くような細長い塔が建っていて、大小さまざまな空飛ぶ船が、そこから発着するのが見える。塔の根元には無数の高層の建造物が並んでいて、大勢の人々の営みが垣間見える。
左を見渡すと、陽光を反射して眩しく光る大河の脇に、小さな石造りの建物が並ぶ町が見える。
再び右を見ると、ついさっきまでそこにあった摩天楼の大都市は跡形もなく消え、葦の生い茂る広大な草原が広がっていた。
気がつくと、足元を覆い尽くしていた雪は消え、岩石が剥き出しとなった夏の山々の景色が広がっていた。
ほむらは、普通ならば存在するはずのものがこの場に無いことに気づいた。地平線が無いのだ。遥か遠くのものを見ようと意識を傾けると、まるで目の前に存在しているかのように詳細を知ることができた。まるで自分の意識が、一瞬で遠くの場所へジャンプしていくかのようだった。
やがてほむらは気づいた。自分はいま世界を見ているが、自分はこの世界には居ないのだと。いま居る場所は、これまで生きた世界とはまったく異なる法則が支配する場所だった。ここでは散歩でもするような感覚で、過去に遡ることができる。未来に行くことができる。興味の対象を変えれば、銀河系宇宙全体を見渡すこともできるし、太陽の表明に生ずる紅炎を眺めることもできるし、原子核の周囲を回る電子を観察することもできる。
だが、暁美ほむらが見たかったのは、そんなものではない。
……まどか、何処にいるの。
もしも自分が願いを叶えることができたのなら、自分は今、まどかの見てきた光景を、追体験していることになる。それが、ほむらにとって唯一の心の支えだった。
だが、その支えにも限界がある。ほむらは今、宇宙の外側に、ひとり放り出されたも同然の状況だった。心が、孤独に押し潰されそうになる。まどかは、こんな状況に、ひとりで耐えてきたのだろうか。
……まどか……まどか!
意識が、必死にまどかの名を叫び続ける。無意味だとわかっていても、ひたすら叫び続ける。
……ここだよ。
澄んだ声が、意識全体に響き渡る。幻聴だろうか。声が聞こえた瞬間、急に意識が遠退くのを感じた。目の前を、赤い一筋の光が横切るのが見える。これは、リボン……?
……ここに来る前に、あなたに見て欲しいものがある。魔法少女の、希望と悲しみを……。
再び意識が明瞭になった時、ほむらは海を見ていた。
ほむらの生まれ育った国で見てきた海とは違う、生き生きとした青い海。水平線の近くに、白い三角帆を掲げた船が浮かんでいるのが見える。沿岸の小島に、白く巨大な灯台が立っている。
陸に目を向けると、白い浜の向こうに、古代ギリシアを思わせる石造りの白い建造物が所狭しと並んでいるのが見えた。古代ギリシア風、という認識が正しいのなら、いま見ている海は、地中海だろうか。故郷で見ることのない美しい光景だった。
しかし、ここは一体どこなのだろう。わかるのは、ここがおそらく地中海の沿岸で、ほむらの生きた時代よりも遥かに昔の時代だということくらいだった。
時間や空間を自由に往来する能力は失われ、ほむらの意識は再び、特定の時間、特定の場所に固定された。これは、まどかの意志によるものだろうか。まどかの見せたかったものとは、一体何なのだろうか。
沿岸に、一際目を引く巨大な建造物があった。低層だが、床面積は他のどの建物より広く、並び立つ柱には荘厳な装飾が施されている。
ほむらは引き寄せられるように、建物の門をくぐった。
中は何十個もの小さな部屋に分かれていて、格子状に仕切られた棚の上に、巻物状の書物が無数に収納されていた。
建物の正体は図書館だった。まだ製本技術が発達していないせいか、蔵書はパピルスで作られた粗雑なものばかりであったが、その蔵書数は凄まじく、古代の知の集積地といっても過言ではなかった。
ほむらは図書館を往来する人々を目で追った。学者を思わせる壮年男性。学生と思しき若い男。それに……小さな女の子?
女の子だ。十歳にも満たないだろうか。館内のどこを見渡しても、女性はおろか、子供の姿も見えないため、ほむらの関心は完全にその女の子に奪われてしまった。
女の子は活気よく館内を駆けまわった後、ある本棚の前で立ち止まり、書物をあさり始めた。何かを探しているようだ。しかし、背表紙もない膨大な蔵書の中から、一体どうやって目的の本を探すのだろう。
女の子は梯子を登り始めた。目的の物が、手の届かない場所にあったようだ。女の子は、棚の中に積み上げられた巻物の山から無邪気に一巻を引っ張り出そうとする。すると、残りの巻物が摩擦によって一緒に引っ張られ、パラパラと床に落ちる。落ちた巻物を目で追っていた女の子が、バランスを崩し、梯子から落ちそうになった。
……危ない!
ほむらは反射的に、梯子を手で押さえようとした。しかし……それは不可能だった。自分はこの世界に一切干渉できないのだと、このとき悟った。
幸い、後から部屋に入ってきた男性によって、女の子は助けられた。男性は床に散らばった書物を一瞥するとため息をつき、女の子の不注意を咎めた。
男性は女の子の父親で、街で高名な学者でもあった。女の子が図書館を走り回って誰の咎めも受けないのは、彼女が高名な学者の娘だからなのかもしれない。彼が自分の娘に、この膨大な蔵書を誇る図書館から目的の物を探させるという難題を与えているのも、彼女を将来、立派な研究者に育てるためなのだろう。館内で女の子を見かけた男達は口を揃えて「あれは将来有望だ」と言うほどであった。
この街を長く観察するにつれ、色々なことがわかってきた。図書館は巨大な知の宝庫であると同時に、学者たちの集う学術研究機関でもあった。その図書館を擁する街は、約七百年前、ヨーロッパから西アジア一帯を征服した大王によって建設された都市で、街にはその大王の名が冠せられていた。世界有数の大都市で、多くの人びとが暮らし、遊び、歌い、そして学んでいた。
しかしその大都市の中で、暁美ほむらの関心の対象は……もっぱらあの女の子だった。
女の子にとっての何よりの楽しみは、遊ぶことでも食べることでもなく、父の教えを受けることだった。
ある夜、一切の外光が遮断された真っ暗な部屋の中で、父による授業が開かれた。生徒は女の子ただひとり。木の枝とパピルスでつくられた簡素な手毬のような球体がテーブルの上に置かれている。父が手に持った燭台に火を灯すと、球体の半分が光に照らされる。父が燭台を持ったまま球体の周囲を回ると、定位置で観察している女の子の目には、球体が満ちたり、欠けたりを繰り返しているように見える。どうやら、月の満ち欠けの仕組みを教えてもらっているようだ。
「では、お月様のまわりには、大きなロウソクが回っているのですか」
女の子が尋ねた。
「そうではない」父が答える。「月を照らしているのは太陽だ。太陽が地球のまわりを回ることで、月の満ち欠けが生じるのだ」
「ちきゅう、ちきゅうとは何です」
「我々の住む大地のことだ。大地は丸く、その周囲を、月、太陽、あらゆる星々が回っているのだ」
「しかしお父様、大地は丸くはありません」
父が笑い出した。「私が子供のときも、同じことを言ったものだ」
「そもそも大地が丸かったら、わたしたちは立っていられないではないですか」
「大地の中心に向かって、見えない力がはたらいているのだ」
「では、なぜお月様は落ちてこないのです」
父は黙り込んでしまった。
「それは……また別の機会に話そう」
「お父様もご存じないのですか」
父は再び黙ってしまった。
女の子は賢かったが、それはただ彼女が学者の娘だからというだけではなかった。聡明さの原動力は、強い好奇心と、どんなに賢い相手でも物怖じせずに疑問をぶつける勇気、言い換えれば図々しさにあった。
気づけば暁美ほむらは、彼女の人生の歩みを追うことに夢中になっていた。
時の流れは、もはや苦痛の種ではなかった。ほむらはこの世の理を外れた場所から、ひとりの人間の人生を眺めている。数年の出来事が一瞬のように流れ去ることもあるし、逆に、人生のある出来事に意識をフォーカスさせると、時の流れはゆっくりとなる。
女の子は成長し、やがて立派な大人の女性になった。
まだ若々しかった彼女の父はすっかり老成し、図書館の館長を務めるまでになっていた。そして女性の方は――図書館で教鞭をとる、立派な学者となっていた。
彼女の同僚である学者達や、彼女の講義に耳を傾ける生徒達――いくら周りを見回してみても、男しかいない。この時代の男女の身分差を暗に物語る光景だったが、しかし彼女は、そんな現状を微塵も逆風とは感じていない様子であった。つまり彼女には、それだけの才があったのだ。
その才は、高名な学者である彼女の父さえ凌ぐと噂された。多くの若者が彼女の叡智を求めて、またある者は彼女の美貌に引き寄せられて、図書館の門をくぐった。いや、後者はあくまで暁美ほむらの想像だ。実際、彼女は美しい女性だった。彼女の講義に熱心に耳を傾ける若者の中に、そのような不純な動機を持つ者がいたとしても、不思議ではない。
この時期になると、彼女の暮らす街には、ある深刻な火種が生まれていた。
それは一言で言い表わせば、伝統宗教と新興宗教の対立だった。
このふたつの宗教は、もともとはひとつだった。それがいつから、互いが互いを別の宗教であると認識するようになったのか、定かではない。だがとにかく、新興宗教はこの街においても着実に信者の数を増やし、伝統宗教に並ぶ巨大勢力となっていった。
そして、ひとつの神を戴く宗教は、必ず異教への不寛容を生む。血の気の多い信徒達は街の広場で互いの神を侮辱したり、信仰のシンボルである像を破壊するなどの行為に夢中になっていた。
学者となった女性の興味の対象は、そのふたつの勢力――のどちらでもなかった。
彼女にとっての関心事は、ふたつに色分けされた街の人々を眺めることではなく、ひたすら空の上の世界にあった。彼女は彼女の父がそうであったように、天文学と哲学に傾倒した。夜になると無数にひしめき合う頭上の星々。その中で一際明るく、他の星々とはまったく異なる動きを見せる星――惑星。それらに秘められた謎を解明することが、彼女の使命だった。
昼は図書館で教鞭をとり、夜になると、彼女自身の制作した天体観測器を片手に、星の動きを追う。父の助手を務めつつ、自らの研究テーマにも手を抜くことなく取り組む。
彼女に私生活というものはほとんど存在しないかのように見えた。美しい彼女には求愛する男が後を絶たなかったが、彼女は「四六時中私の研究をサポートしてくれたら、あなたを受け入れましょう」とか、「この課題が解けたら、考えましょう」といって難しい数式を手渡すなどして、男達を震え上がらせた。
彼女が男女の交わりに関心を持っていないことは明らかだった。寝ても覚めても、彼女の頭の中にあるのは学問のことだった。彼女に贈られた恋文は、難しい数式を書き込むためのメモ用紙と化した。だが彼女は、私生活を排することに関して、なんの悔いも抱いていない様子だった。彼女にとっては学問こそ悦びであった。宇宙に秘められた謎を解き明かすことこそが、彼女にとっての生き甲斐だった。
だが、彼女の研究生活は、いつまでも順風満帆とはいかなかった。
過激な新興宗教の教徒達の不寛容の眼差しは、彼女のような学者を大勢抱える図書館にも向けられた。
彼らから見れば、特定の神への信仰を持たずに学問に傾倒する学者達もまた「異教徒」であった。彼らにとって宇宙は「神の創造物」であり、学者達はその創造物を食い物にする「いけ好かない連中」だったのだろう。
彼らは図書館を「異教の書物が集まる場所」と見做して攻撃し続けた。攻撃とは文字通り、建物を破壊する行為である。
攻撃が激化すると、学者達は図書館を放棄せざるを得なくなった。その中のひとりである彼女もまた、両手に抱えられるだけの書物を持って、図書館を去った。
夜の暗闇の中に、真っ赤な炎が浮かび上がる。彼女はその光景を、ただ茫然と眺めていた。教徒達が、図書館に残された書物に火をつけたのだ。
彼女の両腕に抱えられた数少ない書物が、ひとつ、またひとつと、腕からこぼれ落ちる。
彼女が悲しんでいるのは明らかだった。悲しんでいるように見える、というだけではない。彼女の感情が、観察者であるほむらの心に流れ込んでくるようだった。
不思議な感覚だった。自分はいま、ひとりの人間の人生を観察しているだけでなく、対象がその時その時に抱く感情まで共有している。彼女が楽しければ楽しいと感じ、悲しければ悲しいと感じる。こんな感覚を味わうのは初めてだった。
月日は流れ、彼女の父が世を去った。
街の有様は大きく変わった。新興宗教は勢力を拡大し、街の要職につく者達はこぞって改宗した。
彼女はというと、すっかり立ち直って自分の研究を進めるだけでなく、新たに街に設立された学校の校長となっていた。
周囲の人々は彼女に新興宗教への改宗を強く勧めたが、彼女は頑として自身の主義を貫き、改宗しようとはしなかった。
それでも彼女が学者としての地位を維持することができたのは、当時街を統治していた総督の融和策によるところが大きかった。総督もまた改宗していたが、それは、そうしなければ政治的地位を得ることが不可能だったからという面が強く、改宗したからといって、異教徒たちを敵視するようなことはしなかった。むしろ、街の発展のためには異教徒との融和が必要不可欠という考えの持ち主で、そんな「異教徒」のひとりである彼女との交流もさかんに行っていた。
総督はたびたび彼女の家に出入りし、彼女もそれを暖かく迎え入れた。
お茶を飲み交わしながら、哲学や数学について談義する。総督は基本的には穏やかな気性の持ち主だったが、ある人物の話題になると、途端に表情を曇らせ、言葉遣いが荒くなる。
その人物は、総督とは正反対の考えの持ち主だった。わかりやすいほどの排他主義者で、教義に反する考え方や、異教徒の存在を一切認めようとしない原理主義者だった。主教、つまりはこの街における新興宗教勢力のトップである彼は、かねてから政治的影響力を行使して、街からの異教徒の追放を主張し続けていた。
その価値観の相違から、総督と主教との対立は避けられないものとなった。
総督は、主教がいずれ自分を失脚させてこの街の政治を牛耳り、異教徒を一人残らず追放するつもりだろうと、声を荒げながら主張する。
彼女は総督の言葉にしっかりと耳を傾けているようでありながら、その表情はどこか暗く、目はここではない別の場所を見ているようだった。
ずっと彼女の人生を追い続けてきた今のほむらならば、彼女の考えていることが自分のことのようにわかる。そういった政治闘争に巻き込まれるのは御免だという想いが、ひしひしと伝わってくるのだ。できることならば、政治とは無縁の世界で、自身の研究に専念したい。この世界には、まだまだ解らないことがたくさんある。空の上の世界。そして我々の住むこの大地。そこに潜む謎を少しでも解き明かしたい。
けれど、世の中の変化は、彼女を政治に無関心なままとはさせなかった。
もし主教が政治的実権を握れば、異教徒はこの街から追放されることになる。その対象に、彼女や他の学者達が含まれるのは間違いない。かつて図書館が焼かれた時のように、学者達が築き上げてきた研究の成果も、無に帰すことになるだろう。そのような未来だけは何としても避けなければならない。
そのような考えから、彼女は総督の支持者となった。総督もまた教徒であったが、決して学問を蔑ろにするような人物ではない。これはこの街の学問を守るための、さらには自身の研究の場を守るための彼女の戦いでもあった。
しかし、やがて事態は彼女の望まぬ方向へと発展していった。
主教は街の聖職者や修道士たちを教会に集め、説教を始めた。彼は賢くその語り口は雄弁で、言葉によって教徒達の心を動かす術に長けていた。彼は、ひとりの「異教」徒の女がこの街の為政者達をたぶらかし、惑わし、その目を曇らせていると、ある女を名指しで糾弾した。主教は用意周到に彼女への攻撃材料を揃えていた。彼女の学問が冒涜的であること、そしてもうひとつは、彼女が女であることだった。教義の中にある、慎ましさ、貞淑さを善とする女性像と、彼女の実像とは大きくかけ離れていた。主教は巧みな弁によって彼女への批判材料を並べ立てた後、次の言葉で締めくくった。
「■■だ」
短く、明解で、聞く者の心に強く刻みつけられる呪詛の言葉。
「あの女は■■だ」「■■に裁きを!」
教会の外で主教の言葉に耳を傾けていた教徒達が、血気にはやりながら声を上げた。彼らをなだめる主教の姿は、さながら聖人の顔をした扇動者だった。
主教が彼女を糾弾する理由は明らかだった。総督を弱体化させるために、まずはその支持者の首を締めるつもりなのだろう。
街はにわかに緊張感につつまれた。
教会での一件はすぐに彼女の耳にも届いた。暁美ほむらは彼女が落ち込むだろうと漠然と思っていたが、その予想は裏切られた。むしろ、それがどうした、と言わんばかりの顔で主教の言葉を一笑に付した。
「私が■■ですって?それは名誉だこと」
彼女の反応からは、自身が逆境に立たされているなどという意識は感じられなかった。暁美ほむらの中にある、教会からその烙印を押された悲劇の女性のイメージと、彼女の実像とは大きく違っていた。
暁美ほむらはある確信を持っていた。彼女には他者の流言に左右されない強い信念と、どんな逆境をも乗り越える強靭な意志があると。彼女の人生の行き着く先には、学者としての名声と、真理への到達があると。
それが誤りであると気づかされるまでの間は――。
ひとりの女性の人生を夢中になって追うあまり、暁美ほむらは盲目になっていたのかもしれない。なぜまどかが暁美ほむらに彼女の人生を追体験させているか、考えることもせずに――。
ある日の朝、学校へと向かう彼女を、修道士の一団が取り囲んだ。
「異教徒め、降りろ」
修道士の一人が彼女の腕を掴み、馬車から引きずり下ろした。
彼女はその賢さ故に抵抗しなかった。女ひとりと複数の男――力の差は歴然としていた。
彼女は修道士達に囲まれながら教会へと連れ込まれた。
「■■め」
「異教徒め」
「神の前で己を恥じるがいい」
修道士達が、口々に呪詛の言葉を浴びせる。彼女は修道士達の誰一人とも目を合わせようとはしなかった。その目は恐怖に震えてはいたが、ここではない、どこか遠くを見ているかのようだった。
石を持った男が近づいてきて、彼女の頭を強く殴った。彼女の頭から血が流れ、その身体は人形のように倒れた。
別の男が彼女の衣服を引き千切った。また別の男が大きな木箱を持ってきて、その中にある物を次々と修道士達に手渡した。それが何であるのかはっきりとは分からなかった。何かの建材を砕いた物なのか、あるいは貝殻なのか。ただ確かなのは、それが鋭利に出来ていて、何かを切り刻むのに適しているということだった。
暁美ほむらは教会での一部始終を見つめる間、ひたすら叫び続けた。やめて……やめて……!だが、叫ぶ、という表現はもはや正しくなかった。今ここにあるのは、観察者としての自分の魂だけ……叫ぶための肉体を、持ち合わせてはいなかった。この声は、誰にも届かない。誰にも聞こえない。
学者だった父を尊敬し、父の教えを学び、やがて父を超える学者となり、異性を愛することもせず、真理の探求に生涯を捧げた女性――。
その骸が、ズタズタに切り刻まれて、目の前に横たわっている。
なぜ……どうして、こんなことに……。
肉体を失った暁美ほむらは、涙を流すことも、声を上げて泣くこともできない。ただ、悲しみがあるのみだった。
「これが、まどかの見せたかったもの……?こんなものを見せるために、貴方は……」
彼女の亡骸を前にした今、浮かぶ考えはそのことばかりであった。今は無性に、まどかに会いたい。会って、彼女の本意を確かめたい。
その想いに呼応するように、まどかが現れた。
「私、何もできなかった……彼女の幸せを望んでいたのに……何も……」
「そう。わたし達には、彼女達の人生を変えることはできない。わたし達にできるのは、彼女達の希望、悦び、悲しみ、絶望のすべてを受け止めてあげること……。ほむらちゃん。今あなたがここにいるのには理由がある。あなたは自ら望んで、今この場所にいる。そうでしょう?」
まどかの問いかけに呼び覚まされるように、忘れかけていた想いが溢れてくる。そうだ、自分は……。
「あなたの願いを、わたしに教えて」
まどかが問う。けれど、全能のまどかはきっと、既にその答えを知っているのだろう。まどかはそれを、ほむら自身の言葉として聞きたいのだ。恥ずかしい気持ちを抑えて、ほむらは問いに応じた。
「私は、まどかとひとつになりたい。まどかと一緒に、過去と未来、すべての魔女を生まれる前に消し去りたい。まどかと苦しみを分かち合いたい。貴方のそばで、貴方と同じ理想を追い続けたい!」
「その結果として、あなたは大切なものを捨てなければならない。あなたがひとりの人間として生きた証は、この世界から消えて無くなることになる。それでも――」
「構わない。私の生きた証が消えるなら、これ以上の罪滅ぼしは無いから……」
自らの存在を消し去り、すべての魔法少女のために尽くすこと、それが暁美ほむらの見出した贖罪の道だった。そしてその初志は、ひとりの魔法少女の亡骸を前にして、より一層強いものとなった。彼女たちの過酷な人生を知り、寄り添うこと。まどかが自らに課した使命がこれほどまでに過酷なものだとしたら、それはまどか一人で背負うにはあまりに重すぎる。だが二人なら、二人で苦しみを分け合うことができるのなら、喜んでその役割を引き受けよう。
「これはその最初の一歩だよ。さあ、彼女はまだ生きてる。あなたの助けを待ってる」
まどかはそっとほむらの手を握ると、横たわる彼女を見るよう目で促した。血にまみれた彼女の手のひらに、黒濁したソウルジェムが載せられている。そうだ。ソウルジェムが残り続ける限り、彼女の魂がこの世から消えることはない。
まどかがほむらの手を握ったまま、ゆっくりとソウルジェムに手をかざした。ソウルジェムを満たしていた穢れは瞬く間に、ほむらの手に吸い込まれるようにして消えた。
瞬間、彼女に浴びせられた呪詛の言葉の数々が、泥水のようにほむらの意識のなかに流れ込んでくるのを感じた。これが、まどかによる救済の行い。魔法少女たちの穢れを引き受け、浄化するということ。まどかはこの行いを一度のみならず、何度も何度も繰り返してきたのだろうか。
「終わった……の……?」
戸惑いながら、まどかに尋ねる。
「まだだよ。彼女の最後の願いを叶えてあげるの」
最後の願い……?
そういえば、ほむらは彼女の願いを知らない。それを知るには、ほむらが彼女の人生を追体験する過程で意図的に目を背けてきた部分――彼女の魔法少女としての人生の、はじまりの時に目を向ける必要がある。
時は再び遡る。彼女が立派な学者になる前の、まだあどけない少女だった頃に。
「…………、当時王朝を追われる身だったクレオパトラ七世がアレクサンドリアに入るのは容易ではなかった。そこで彼女は起死回生の策を打つ。カエサルへの献上品の絨毯の中に身を隠して密かにアレクサンドリアに入り、カエサルとの面会を果たしたんだ。実際は見つからないように、荷車の上に山積みにされた絨毯の一番下に隠れていたから、暑さのあまりあやうく脱水症になるところだったけど、彼女は見事に目的を果たし、これが彼女の復権への第一歩となった」
「実際にその目で見てきたような話し方ね」
「実際にこの目で見てきたからね。僕らが君たち人類をずっと見つめてきたということを、これで信じてもらえたかな?」
「ねえ教えて。クレオパトラが絶世の美女だったっていうのは本当なの?」
「……人類が研究によって知り得ない歴史上の事実を君たちに教えるのは、僕らのルールに反する。だから教えられないよ」
「本当は美女の基準が分からないだけなんじゃないの?」
「確かに。人間の美的感性というものは時に僕たちの理解を超える。ただひとつ、彼女が多くの異性を魅了していたというのは事実だ。魅力というのは外見だけでなく、喋り方や立ち居振る舞い、知性といった様々な要素で決まる。……君も、彼女と共通する特性をいくつか持っている」
「冗談やめてよ。私は王族じゃなくてただの学者の娘よ。彼女と同じ素質を持っているなんて、信じられないわ」
「同じ素質、という表現は厳密には正しくない。魔法少女としての素質は人それぞれに異なる。指導者、賢者、救世主……君がこの先どんな人間になるかは分からない。けれど僕が思うに、君が他者に影響を与えるタイプの人間であることは確かだよ」
「私をおだてて、その気にさせるつもりでしょう」
「……僕としてはそろそろ、君の答を聞きたいんだけど」
「そうね……どんな願いでも叶えられるというのは、確かに魅力的ね。きっとあなたに願えば、この宇宙のありとあらゆる謎を解き明かすことができるでしょう。けど思ったの。それってなんだかつまらないなって」
「……何故だい?」
「学問の過程をすっ飛ばしているからよ。謎があって、仮説を立てて、仮説の真偽を実験と観察の繰り返しによって確かめる。私はその過程が好きなの。他人の力ではなく、自分自身の力で謎を解き明かした時の充足感。それが学者としての生き甲斐だと私は思ってる」
「つまり、君の答は……」
「まだ早いわよ。私は自分の力でこの世の謎を解き明かしたい。けれど、もし道半ばで力尽きてしまったら?自分の立てた学説の真偽を確かめられないまま、この世を去らなければならないとしたら?私はそれが怖いの。……ねえ、願い事を今ではなく、最期のときに叶えてもらうことはできる?」
「それは……かなり変則的だが、不可能ではないと思うよ。それが可能だとして、君は何を願う」
「私は……」
頭上に輝く満天の星空に手を伸ばしながら、彼女は言った。
「月の上に立ちたい」
「……これは人生を左右する重要な話だよ。思いつきで願い事を決めるのはおすすめしないけど……」
「思いつきじゃないし、私はいたって真面目よ。月に立って、そこから私達の生きる大地や、宇宙を見てみたい。そうすると、色々なものが見えてくるような気がするの。……大地は本当に丸いの?太陽は本当に大地のまわりを周っているの?これは言ってみれば……人生の答え合わせのようなものね」
月の上に立ちたい。それも今ではなく、最期のときに。
ほむらにとってみれば奇妙で、突拍子もない願いだった。だがほむらの中にあったのは、彼女の願いを理解することよりも、いち早く彼女の願いを叶えてあげたいという想いだった。
肉体を失い魂のみの存在となった彼女を導いて、ほむらは月の上に降り立った。
陽光を反射して真っ白に輝く砂。ドーム一面に描かれた絵画のような星空。その中に浮かぶ青い球体。ほむらにとっては見慣れた光景だが、彼女の目にはどう映るだろうか。真っ白な砂原は、彼女の故郷の周囲に広がる果てのない砂漠に、どこか似ているように感じられた。
はじめ、彼女は戸惑っている様子だった。自分が何処にいるのか、すぐには理解できなかったのだろう。また、自分の今の状況を正しく把握できなかったのだろう。
やがて、彼女の手が頭上へと伸びた。地球の輪郭をなぞるように、指先で弧を描く。もう片方の手が、太陽へと伸びる。
いつしか彼女の表情は歓喜へと変わっていた。この世界の理を脱し、外側の存在となった彼女には、この宇宙の森羅万象が、手にとるように解るのだろう。その結果、彼女の生きた時代に当たり前とされてきた学説が誤りであるとわかっても、彼女の心に失望の念が湧くことはなかった。彼女はただ純粋に、この世界の真実の姿を知りたかったのだ。
長らく万物の観察に浸っていた彼女の意識が、暁美ほむらへと向けられた。
「ありがとう」
とても短くて、とてもシンプルで、しかし暁美ほむらにとってはこれ以上はないと思える言葉だった。感謝の言葉。本来ならまどかが受けるはずの言葉。その言葉が、ほむらの心に束の間の安息をもたらす。
罪悪感がないわけではなかった。ほむらにとってこれは、償いの最初の一歩でしかない。これまでの行いは、魔法少女ひとりを救うだけで贖えるようなものではない。その想いを噛み締め、ほむらは彼女がこの世を離れるのを見届けた。
学者だった父を敬い、自らもまた学者となり、生涯を真理の探求へと捧げて来たひとりの女性の物語はここに幕を閉じ、その魂はより大きな存在とひとつになった。
ほむらの心に、あるひとつの疑問が浮かぶ。学者としてストイックなまでに神秘主義を否定し、信徒達と軋轢を生んできた彼女にとって、魔法少女の間に伝わる〈円環の理〉の伝承はどのように映ったのだろうか。ただのおとぎ話として、一笑に付しただろうか。その疑問に、彼女は答えてくれた。
「人はどれだけ学問や科学に傾倒しようと、どれだけ神秘なるものを否定しようと、心の奥底では、神様の存在を求めているものではないですか?」
とても彼女らしい答えだと、暁美ほむらは思った。それと同時に、心の中を見透かされたような気分にもなった。
どれほど追い求めても決して手の届かぬものが神だとしたら、ほむらにとってのそれは、まどかに他ならなかった。そのまどかの存在を、今、すぐ傍に感じる。肉体という壁を隔てることなく、その魂を、自分の一部のように感じる。
まどかとの合一を望んだ暁美ほむらの願いは、果たされたようだ。この場所に辿り着いた後、世界はどうなっただろうか。
暁美ほむらという存在は世界から消えて無くなった。それにより、ほむらの手によってまどかがこの世に再び生を受けたという事実も消滅した。もはや世界の何処にも、二人の生きた証は存在しない。世界の何処にも、二人を覚えている者はいない。
それはつまり、暁美ほむらが重ねてきた罪の痕跡もまた、消え去ったことを意味する。かつてほむらによって幸せを奪われた者たちが、それとは別の人生を歩んでいる。これが暁美ほむらの望んだ、罪滅ぼしの形だった。
しかし、本当にこれで良かったのだろうかという想いが、頭を離れない。自身の罪だけでなく、まどかという無辜の存在まで、世界から消し去ってしまったのだから。
「これで良かったんだと思う」
まどかが言った。
「もしも世界のどこかに、わたし達のことを覚えている人がいたら、きっとまた、同じ悲しみが繰り返されることになる。わたしはそれを終わりにしたかった。これは……わたしの罪滅ぼしでもあるから」
「まどかの……?」
「うん。……わたしは、すべての魔法少女が幸せになれる方法を探してた。だから、いまのわたしになることを望んだの。だけど、一番幸せになって欲しかった人を、一番悲しませてしまった。あなたの気持ちを、ちゃんと考えてあげられなかった。それがわたしの罪。だからあなたに、すべてを変えるチャンスをあげたかった。あなたとわたし、両方が幸せになれる道は、きっとこれしか無いと思ったから」
いろいろな想いが溢れ出て、一気に弾けた。
人間だった頃とまったく変わらない優しさを持つまどか――。彼女と同等の存在になりたいと願ってしまった浅はかな自分――。彼女とひとつになるなど、やはり到底叶わぬ夢ではないのか。
「大丈夫だよ」
心を見透かしたように、まどかが言う。
「ほむらちゃんは、強くて、優しいひとだから」
「私は、強くないし、優しくもない」
「違う。あなたは誰かの為に一生懸命になれる優しさがある。どれだけ傷ついても決して挫けない強さがかる。わたしと同じになろうなんて思わなくていい。あなたはあなたの優しさを、みんなに示してあげればいい」
まどかとの本当の意味での魂の合一が果たされたのかどうかはまだ判らない。だが暁美ほむらは間違いなくまどかと同じ場所に居て、かつてはまどかの役目だった魔法少女救済の使命を共に果たしている。
宇宙全体を俯瞰する立場になって、ほむらは万物を貫くある普遍的な法則があることに気づいた。
すべては、廻っている。
動物の屍がやがて土に還って他の生物の糧となるように、魂もまた、しかるべき場所へと帰った後に、新たな生命に宿る新たな魂として生まれ変わる。一つ所に留まり続けるものなど、どこにもない。
すべては、廻っている。
それが事実だとすれば、別の世界、別の時代に、聖人のような佐倉杏子や、荒くれ者の巴マミや、賢者のような美樹さやかがいたとしても、不思議ではない。
ひとつ、疑問が浮かんだ。
循環が宇宙の普遍的な法則がであるならば、自分やまどかはどうなるのだろう。もしこの使命に終わりが存在するとして、すべてを果たし終えた後の自分達は、いったい何処へ行くのだろう。
もしかしたら、まどかはもうその答えを知っているのかもしれない。もしかしたら終わりなどなく、永遠にこの使命が続くのかもしれない。
だが……。
もしそうだとしても、喜んでそれを受け入れよう。
まどかと一緒なら、永遠だって怖くない。
決意を抱き、新たな長い旅の出発点に立った。