百江なぎさは、病院が嫌いである。
学校帰りに病院に立ち寄り、病室で窮屈な思いをしているであろう母を少しでも元気づけようと、学校であった出来事などを語り聞かせて、ひとりで帰る。そんな日々を、もう何日も繰り返している。
それもこれも、入院し、しっかり治療を受けていれば、母の病気はきっと良くなると、そう信じてきたからであった。
なのに、入院してから今日に至るまで、母の容態は良くなるどころか、逆にどんどん衰弱しているように、なぎさには感じられた。入院し始めた頃よりも、明らかに痩せ細り、口数も少なくなり、笑顔も減っている。まるで、病院に生命力を吸い取られているような、そんな錯覚さえ覚えるようになり、なぎさは次第に病院への不信感を募らせるようになっていった。
今は、母との面会を終えて、病院の待合席に座っている。
外は夕焼けの橙色の光に包まれ、大張りの窓ガラス越しに注ぐ外光がフロアを照らしている。
待合席の脇を、市内の中学校の制服を着たショートヘアの女子生徒が血相を変えて駆けていく姿が、なぎさの目に止まった。女子生徒は受付に駆け寄ると、身を乗り出しながら看護師と何かを問答した後、奥へ姿を消した。きっと、家族か友達の急患の知らせを聞き、慌てて病院にやって来たのだろう。
病院に頻繁に出入りしていると、同じような光景を時折目にする。そして、その度に、なぎさは嫌な気持ちになる。
なぎさは荒れた気持ちを落ち着かせるように、膝の上にキュゥべえを乗せ、その背中を撫でている。キュゥべえは眠っている。
キュゥべえとの出会いは、なぎさにとってみれば天からの恵みに等しかった。この小動物に自身の願いを告げるだけで、今の憂いや嘆きをすべて覆すことができる。
だが、その一歩が踏み出せずにいる。
「百江なぎささん?」
自分を呼ぶ声が聞こえて、なぎさは顔を上げた。
斜め前に、中学の制服を着た女性が立っていて、なぎさの顔を見ている。
先ほど見かけた女子生徒と同じ制服を着ているが、まったくの別人だった。髪が長く、大人びた容姿をしている。が、髪には少女らしい赤いリボンを結っており、そのせいか、全体的にアンバランスな印象を受ける。あまり似合っていない、という感想を、なぎさは率直に抱いた。
「誰……?」
不思議に思って、なぎさは女性に尋ねた。
「私は暁美ほむら。あなたのお母さんの知り合い。隣、いいかしら?」
そう言って、暁美ほむらと名乗る女性はなぎさの隣の空席に腰をおろした。
「お母さんのことで、悩んでいるのね。もしよかったら、その悩みを打ち明けてもらえないかしら」
なぎさは視線を落とした。その通りだ。その通りだが、たったいま知り合ったばかりの人間にそのような悩みを打ち明けるというのは、子供ながらに抵抗があった。
「なんでも……ないのです」
強がりながら、しかし弱々しい声で、なぎさは答える。
「そう。貴方はそうやって、友達の前でも、お母さんの回復を信じ続ける健気な娘を演じている」
心を見透かされているような気がして、一瞬、身体が硬直するような感覚を得た。
眠っていたはずのキュゥべえの耳が、ピクリと動いた。
「けど、私は貴方の友達でも何でもない。……赤の他人だからこそ話せることもあるんじゃないかしら」
なぎさは、そんな風に考えたことはこれまで一度も無かった。だが、彼女の言うことも一理あると思った。
なぎさには、自分の悩みを打ち明けられる相手がいなかった。友達に話せば、相手に余計な心配をさせてしまう。友達とは、いつもと同じように笑い合って過ごしたい。だが本当は、誰かに自分の胸中を明かしたくて仕方なかった。
なぎさは、俯いてしばらく黙った後、重い口を開いた。
「みんな……大丈夫だって言うのです。お母さんも、お医者の先生も……お母さんはきっと良くなるって」
次第に声を震わせながら、なぎさは言葉を続ける。
「なのにお母さん、どんどん元気がなくなっていくの……。前は、一緒に病院の外をお散歩したりしてたのに、今は……」
「そう」
「最近思うの。……もしかしたらお母さん、助からないんじゃないかって……」
「それで、お母さんを助けるために、キュゥべえと契約して魔法少女になろうとしているのね」
「え……?」
自分の考えを完全に見抜かれていることに、なぎさは驚き、戸惑った。
「お姉ちゃんも、魔法少女なのですか?」
「いいえ」
暁美ほむらは首を横に振った。
「けど、貴方の気持ちは理解できる。……けどね、なぎさ。貴方は間違っている。貴方は魔法少女になるということの意味を理解していない」
わかっている、と言い返したくなったが、なぎさは口をつぐんだ。
「ひとたび魔法少女になれば、あなたは過酷な戦いに身を投げ出さなければならない。やがて来る魔法少女の運命からも逃れることができない。お母さんがその事を知ったら、どう思うでしょうね……」
「でも……それでもわたしは、お母さんを助けたいの!」
つい感情的になり、強い口調で自身の気持ちを打ち明ける。
「お母さんは、ずっとひとりでわたしを育ててくれたの。お母さんがいなくなったら、わたし……ひとりぼっちになっちゃうの」
今にも泣き出しそうな声で、なぎさは訴えるように言った。
「だから……」
なぎさは顔を上げ、ほむらの顔に目を向けた。
なぎさは思わず、目を奪われた。
ほむらはそっぽを向いていて、その表情はよくわからない。が、目からこぼれた涙が、頬を伝って流れ落ちている。外から差す陽光が、その涙に反射してきらきらと輝いている。
その涙が異様なまでに美しく感じられて、なぎさは思わず息をのんだ。
「お姉ちゃん?」
気遣うように、なぎさは彼女にそっと声をかける。
ほむらは一瞬肩を震わせて、
「……ごめんなさい。なんでもないわ」
と言いながら、袖で頬の水滴を拭った。
「ねえ、なぎさ。お母さんのこと、しばらく私に任せて貰えないかしら?」
「え……?」
思いがけない申し出に、なぎさは動揺する。
「貴方は魔法少女になる必要はないし、なるべきではない。だから、すべてを私に任せて欲しいの」
任せて欲しい、と言われても、彼女は医者ではなく中学生だ。どう答えてよいか、なぎさにはわからない。
なぎさが返す言葉に窮して黙り込んでいる間に、ほむらは立ち上がり、返答も聞かずに病院の奥へと姿を消した。
あの日から数ヶ月が過ぎた。
ランドセルを背負って家の外に飛び出すと、母はいつものようにゆっくりと、なぎさを見送るために表へ出る。そこで「行ってきます」の挨拶をする。
「行ってらっしゃい」と言う母の笑顔を見るたびに、なぎさの心に感謝の気持ちが湧いてくる。が、その感謝が誰に向けられたものなのか、なぎさ自身にもよくわからない。母に対してか、お医者の先生に対してか、神様に対してか、あるいは――。
なぎさに向けられた母の笑顔は、病院では決して見せることのなかった、穏やかで、余裕のある笑顔だった。
家の門の前には、中学の制服を着た巴マミが立っている。学校までの道のりの一部をマミと一緒に歩くのが、習慣のようになっていた。
マミは母に向かってお辞儀をし、
「おはようございます」
と丁寧に挨拶した。母は笑顔で、
「巴さん。この前いただいたケーキ。とても美味しかったですよ」
と返す。母は礼儀正しいマミを気に入っているようで、なぎさがマミと知り合ってすぐに、マミと母も仲良くなった。そのことが、なぎさには嬉しかった。
なぎさは母に手を振り、マミと共に家を後にした。
……マミの様子がいつもと違う。
なぎさがそう気付いたのは、一緒に登校している最中だった。
表情がいつもより暗く、下ばかり見て歩いている。そして、口数も少ない。
何かマミの気を引く方法はないかと思い、なぎさは周囲に目を配らせた。
前方の遊歩道の地面に、子供がチョークで殴り書きしたような五十センチ大のサークルが、奥に向かって並んでいる。
なぎさは駆け出して、けん、ぱ、けん、ぱ、けん、けん、ぱ、という具合に、足を小気味よくサークルに収めながらぴょんぴょんと前方に向かってジャンプしてみる。
踏破した後で、なぎさはマミがこちらに関心を向けることを期待して振り返った。だが、マミは相変わらず下を見ながら歩いている。
なぎさはマミの傍に駆け寄ると、彼女の注意を引くように、目の前で手をぶんぶんと振った。
「下ばかり見て歩いたら危ないのですよ」
なぎさが注意すると、マミは足を止めてなぎさの顔を見た。
「……何かあったのです?」
そう問いかけると、マミはフッと笑顔を見せた。
「ううん、何でもないの」
「……うそ」
「本当よ」
「じゃあなんでそんなに暗い顔しているのです」
「……大人にはいろいろあるのよ」
「中学生は大人じゃないと思います」
マミはむっとした顔を見せると、再び歩き出した。
何かを隠しているな、と子供ながらになぎさは思った。きっと、魔法少女である彼女には魔法少女にしかわからない苦悩があるに違いない。そして、彼女の力になれるのは自分ではなく、同じ魔法少女であるさやかや杏子なのだろう。そんなことを考えるうちに、なぎさは急に寂しい気持ちになった。
詮索する方法がないかあれこれ考えているうちに、マミが再び足を止めた。
なぎさは気になって、マミの顔を見上げた。
何かを警戒するような、険しい表情を浮かべている。肩に力が入り、鞄を握る手がかすかに震えている。
なぎさは、今度はマミの視線の先に目を向けた。
マミと同じ見滝原中学の制服を着た生徒が、ひとりで歩いている。腰まで伸びる長い髪が、風にそよいでいる。
暁美ほむらだ。
その姿を見るや、なぎさは急に嬉しくなり、
「お姉ちゃーん!」
と声を上げて、笑顔で彼女に手を振った。
ほむらもなぎさに気付いた様子で、微笑んで小さく手を振りながら、無言で遠ざかって行った。
ほむらの姿が見えなくなった後、マミが
「なぎさ、あの人と知り合い?」
と尋ねた。
「うん。あのお姉ちゃんがね、助けてくれたの」
実際のところ、母を助けてくれたのが本当に彼女なのかどうか、なぎさはわかっていない。今日のように登下校中に彼女を見かけることはたまにあるが、声をかけても、彼女はあまり多くを語ろうとはせず、母が退院したことを告げても、「良かったわね」と言うだけで、それ以上は何も言わない。しかし心のどこかで、やはり彼女のお陰なのではないか、となぎさは思っている。
マミと二人で話していたところに、ちょうどなぎさの同級生の友達がやって来た。
「じゃあ、またね」
とマミに手を振り、なぎさは友達と一緒に学校を目指した。
マミは終始、何かに困惑するような、不思議な表情を浮かべていた。
――――
魔獣と縁のない日々が、もう三週間も続いている。
杏子の長い魔法少女人生の中で、これほど長期間、魔獣が出現しないというのは初めての経験だった。
そして、三週間経つのに、この異変の原因については手がかりさえ掴めていない。さらに言えば、魔獣の代わりに出現するようになった、奇妙な異形の魔物達の正体についても、何もわかっていない。
はじめのうちは楽観視していた杏子も、少しずつ焦りを感じ始めていた。これは、魔法少女の在り方そのものに関わる重大な異変なのではないか、という思いが、次第に大きくなっている。そして、こんな風に呑気に学校に通っていてよいものかと考えてしまう。
だが、隣を歩いているさやかは、そんな事はまるで意に介さぬといった明るい表情で、まどかとお喋りに興じている。もちろん、さやかも頭の中では色々なことを考えているのだろうが、せめて友達と一緒にいる時くらいは明るく普通に振舞っていたいのだろう。器用なものだ、と杏子は感心してしまう。
「みんな」
背後で力ない声が聞こえて、杏子は振り返った。
マミだった。
物憂げな表情を浮かべながら、まるで腫れ物に触れるような慎重な目つきで、杏子たち三人に目を配っている。
「おっす、マミ」
と、杏子は笑顔で声をかけた。
「おはようございます。マミさん」
「おはよう、マミさん」
他の二人も笑顔で挨拶するが、マミの表情は変わらない。
「……どうかしたんですか?」
まどかもマミの様子が気になったのか、案ずるように尋ねた。
マミは一瞬視線を落としたかと思うと、まどかの目を見て、
「あの、鹿目さん。鹿目さんのところに、アメリカのお友達が遊びに来ているって聞いたのだけど」
と尋ねた。
「あ、マミさんも知ってたんですか?しいちゃんのこと」
「……ええ。それで、その子、まだ鹿目さんのところに?」
「いいえ。もう帰っちゃいました」
「え……」
物憂げなマミの表情が、驚きと困惑の混じった複雑な顔に変わった。
「ていうか、酷くない?」
さやかが口を開いた。
「あたし達に挨拶もしないで帰っちゃうなんて。せっかく仲良くなれそうだったのに」
「ほんとだぜ、まったく」
杏子はそう言って話を合わせてみたが、実際、夏海詩花に対してそれほど関心を持っていたわけではない。ただ、海の向こうから会いに来てくれるような友達を持つまどかを、羨ましいと思った。
「ごめんね。なんか急に用事ができちゃったみたいで」
まどかが苦笑いを浮かべた。
「ってことらしいよ。さ、行こ。早くしないと遅刻しちゃうよ」
さやかが歩き始めると、まどかもつられて足を動かし始めた。
「佐倉さん」
と、マミが真剣な顔つきで杏子を呼び止めた。やはり、今日のマミは様子がおかしい。
「あなたに、頼みたいことがあるの」
マミの頼み事というのは、極めて単純明快な内容で、杏子以上の適任はいなかった。
だが、その単純な頼み事が、杏子に意外な事実をもたらすことになる。その事実は杏子を安堵させると同時に、迷いも生じさせた。
杏子は数日間悩んだ末に、ひとつの道を選んだ。
そして、自身の選択をさやかに告げるために、放課後、彼女を学校の屋上に呼び出した。
西の空が黄色に染まり始め、二人の長い影が、屋上のコンクリートの床に伸びている。
「話ってなに?」
さやかが尋ねる。
「あたし……」
杏子は真剣な顔で話を切り出した。
「……風見野に帰ろうと思うんだ」
さやかは、杏子に向けていた視線をふっとそらし、下に向けた。
「マミに頼まれて、風見野に魔獣がいるか調べに行ったんだ。その結果がこれだ」
杏子は自分の手のひらをさやかに見せた。二、三個の魔獣のグリーフシードが乗せられていて、かすかな黒いオーラを放っている。
「いたよ。魔獣」
「そっか」
「どうやら、異変が起きているのはこの見滝原だけらしい。マミはいい勘を持ってるよな。……いや、気付かなかったあたしらがバカだったのか?」
さやかがクスッと微笑んだ。
「なあ、さやか」
「ん?」
「あんたも一緒に来ないか?」
話の一番肝心な部分であった。できれば、他の二人を連れて行きたいと、杏子は思っている。
「このままこの街で戦いを続けても、あたし達はソウルジェムを浄化できない。そうしたらどうなるか、あんただって分かってる筈だ」
杏子はそう言った後、重い口を開くように、
「こんな風に考えたくなかったけどさ、……あたし達は、魔獣なしでは生きていけないんだよ」
と言った。
さやかは、渋い顔をしている。
「誘ってくれるの嬉しいよ。けどごめん……。あたしは一緒には行けない」
ああ、やっぱりか、と杏子は思った。さやかはきっと断るだろうと、そう考えた上での誘いだった。
「やっぱり未練があるのか?あいつに」
杏子は意地悪な質問をした。「あいつ」が誰を指すのか、わざわざ名前を出さなくても、さやかは理解できるはずだ。
さやかは軽く微笑んでしばらく沈黙した後、
「まったく無いって言ったら、嘘になるかもね」
と答えた。
「まあ何ていうか、恭介と仁美の関係がこじれないように二人を見守るのも、あたしの役目っていうか……」
杏子は、話を聞きながら、暗い表情を浮かべている。
「けどね、残る理由はそれだけじゃないよ」
さやかは続けざまに言った。
「もしこの街で、魔獣よりも恐ろしい何かが目覚めようとしているのだとしたら、それが何なのか突き止めるのも、魔法少女の使命だと思う。マミさんもきっと同じことを言うだろうし、マミさんを独りにはできないし」
「あんたのそういうとこ、相変わらずだな」
さやかの正義感、使命感が相変わらずだ、と杏子は言いたかった。が、そのことを素直には喜べない。
「人はそう簡単には変われないもんなのよ。……けどね、あんたの忠告、忘れたわけじゃないよ。今は自分のことも大事にしてるから」
「さやか……」
「あんた、いつだかあたしに言ってたでしょ。『もっと自分を大事にすべきだ』って。あんたがそう忠告してくれたから、あたし、今日までやって来れたと思ってる」
出会ったばかりの頃のさやかは、暴走する正義の塊といった感じで、見るに耐えかねる危なっかしさだった。あの頃に比べれば、今のさやかは落ち着いている。バランス感覚を養った、といっていいかもしれない。自分の忠告は無駄ではなかったと感じ、杏子は安堵の表情を浮かべる。
「あんたの言った通りだ。マミにも全く同じことを言われたよ。ダメもとで聞いてみたんだ。……まったく、あんた達は、あれだな。魔法少女の鏡ってやつだ。けど、あたしにはやっぱり真似はできない」
実は、マミにも以前、同じ誘いをかけていたが、断られた。理由を聞くと、「さやかを独りにはできない」と答えた。まったくその通りだと、杏子は笑った。
「それでいいよ」
さやかは微笑みながら言った。
「あたしはもう、あんたの生き方に口を出すつもりはない。けど、これだけは約束して欲しい。やばくなったら絶対にあたし達を呼ぶこと。ひとりで無茶はしないこと」
杏子は目を細めながら、
「そりゃあ、こっちの台詞だっての」
と言った。
杏子はさやかに背中を向けて、その場を去ろうとした。それと同時に、手に持っていたグリーフシードをひょいっと空中に放り投げた。
グリーフシードは、さやかの手に収まった。
「お土産だ。とっときな。また土産を持って顔見せに来るから、それまで、元気でやってろよ」
見送るさやかの視線を背中に感じながら、杏子は屋上を後にした。
その後、杏子はまどかを食事に誘い、そこで、自分が風見野に帰るつもりであることを告げた。
食事に誘った、といっても、実際に食べているのは杏子だけで、一家団欒の夕食を控えているまどかは飲み物を飲んでいるだけである。
「そう、風見野に帰っちゃうんだ……」
まどかは言いながら、随分と口惜しそうな表情をした。
「なんだか、寂しくなっちゃうね」
知り合ってまだ一ヶ月足らずなのに、こんな風に悲しんでくれる。それが社交辞令だとしても、杏子は嬉しかった。
「別に遠くに行くわけじゃねえよ。時々、顔見せに来るつもりだし」
「そう……なら良かった」
「それで、……まどかに頼みがあるんだけど」
「何?」
「……さやかのそばに居てやってくれ」
「え……」
まどかは杏子の顔を見つめながら、沈黙している。その顔に、かすかな戸惑いが見える。
「いいけど、どうしてわたしに、そんなこと……」
「あんた、さやかとは昔からの馴染みなんだろ?」
「そうだけど……でもわたしは、魔法少女になろうと思ってもなれないし、さやかちゃんの力にはなってあげられないと思う。……わたしなんかより、マミさんのほうがずっと頼りになると思うんだけど」
「マミは魔法少女だからな。自分が何をすべきかは分かってる。だから、わざわざ頼む必要もないんだよ」
「そう……」
「けど、あんたは違うだろ?」
「え?」
「できればこれ以上、魔法少女の人生に首を突っ込まないほうがいいって思ってる」
実際にまどかがそう思っているのかどうか、杏子にはわからない。だが、まどかが俯いて黙り込んでいるあたり、それほど間違った指摘でもないのだろうと、杏子は思った。
「さやかはさ、一度こうだって決めたら、ちょっとやそっとじゃそれを曲げようとしない。自分の信じた道をひたすら突っ走ろうとするんだ。危なっかしくて仕方ねえんだよ、そういうところが」
「うん、わかる気がする。さやかちゃん、昔からそういうところあったから」
まどかが微笑んだ。
「だから、あいつが突っ走りすぎて息切らさないように、あんたがブレーキをかけてやってくれ。それくらいのことなら、あんたにだって出来るだろ?」
「うん、わかった」
「ちょっと目を離した隙に何をしでかすかわかんないからな。ちゃんと見張ってないと駄目だぞ」
顔をまどかに近づけながら、念を押すように、杏子は言った。
「もう、わかったって」
まどかは、苦笑いを浮かべた。
面倒極まりない休学手続きを済ませた後、少ない荷物をまとめて、杏子は古巣の風見野へ帰った。制服や教科書といった学校に必要な道具は邪魔になるだけなので、さやかに預けた。
夜になって、杏子は早速、魔獣狩りに出かけた。
長いあいだこの街で戦ってきたので、魔獣の出現しやすい場所は熟知している。杏子はその場所を目指した。
市の中心地から離れた緩やかな斜面の中腹に、廃校舎がある。見晴らしの良い場所で、夜になると遠方の市街地の街明かりが星屑のように輝く様が見える。校舎は数年前、新校舎への移転により廃棄されたが、移転前に生徒や教師の動機不明の自殺が相次いで起こったことから、呪われた校舎という噂が立っていた。
この廃校舎に関しては、こんな話がある。
近隣の高校に、周辺住民からも同じ学校の生徒からも嫌われる不良少年のグループがあった。他の不良少年の例に漏れず夜行性で、夜中に屋外を暴れ回っては周辺の住民の迷惑となるような行為を繰り返していた。
少年たちが特に気に入っていた遊びは、深夜の校舎に忍び込んで、器物を破壊することであった。遊びは次第にエスカレートしていき、ついに彼らは、持参したバットで校舎の窓ガラスを割りまくるという娯楽を見出した。
この行為がさすがに度が過ぎていると見なされ、少年たちは停学処分となり、さすがに懲りたのか、幾分か大人しくなった。
だが、近隣に廃校舎ができるという話を聞くと、少年たちは再び息を吹き返す。廃校舎ならどれだけ暴れても咎めを受けないとでも思ったのだろうか。
ある夜、近所の住人が、廃校舎で少年たちがバットを片手に暴れている様子を目撃し、警察に通報した。
数分後に警官が駆けつけると、少年の姿は見えなくなっていた。逃げたのだろうと警官は思ったらしいが、念の為に割られた窓ガラスの周辺を調べて回った。
警官は割れたガラス越しに、校舎の内部を懐中電灯で照らした。
するとそこには、血を流して倒れている数人の少年の姿があった。
少年はひとり残らず死んでいた。全身アザだらけで、頭部には強く殴られた跡があり、彼らの持参品であろうバットは血まみれだった。
警察は、少年たちが仲間割れを起こした末に、持っていたバットで乱闘を起こしたのだろうと結論づけた。だが、少年たちを知る生徒によれば、彼らはどうしようもないワルだったが、仲間内では非常に仲が良かったらしく、殺し合いに発展するような喧嘩を起こすなど、信じられないとのことだった。
この事件により、呪われているという校舎の噂は、単なる噂を超え、都市伝説の類となり、この廃校舎に近づこうとする者はほとんど居なくなった。
事件の真相を知っているのは、魔法少女くらいのものだろう。
善良なる不良少年によって破壊された窓ガラスはそのまま放置され、この夜も、校舎には誰一人の気配もなかった。
杏子は屋上に上り、星屑のような夜景を眺めながら、呪いの権化が現れるのを待った。
杏子の読みは当たり、淀んだ瘴気の中から魔獣が現れ、杏子は彼らと一戦を交えた――。
戦いが終わると、杏子の手の中にはグリーフシードが収まっていた。
すべて元通りだ。杏子はグリーフシードを眺めながら思った。
自分はひとり、風見野で魔獣と戦う日々を送っている。さやかと出会う以前の暮らしと同じだった。
そして、この街で戦っていれば、グリーフシードも入手できる。杏子はその事実に安堵すると同時に、それとは別の感情を抱いていた。すべて元通りの筈なのに、何かが違う。どうにも気分が晴れない。そんな感じがする。
杏子は、見滝原での短い生活を振り返ってみる。
自分は日陰に生きる存在だ、と考えていた杏子は、元々は学校に通う気などまったくなかった。だが、マミとさやかに、ちゃんと教育を受けろ、と執拗に迫られ、それに屈する形で、二人の通う見滝原中学に杏子も通うことになった。
まるで、暗闇の中から無理やり引きずり出され、急に陽光にさらされたような、そんな落ち着かない気分だった。制服にも馴染めなかった。
だが、それも最初のうちだけだった。クラスメートとも徐々に馴染むようになり、学校生活も悪くない、と思うようになった。
学校が終わると、さやかとマミと三人で魔獣退治に出かける。
自分は一人でも戦える。そう思っていた過去が嘘のように、杏子はマミを信頼し、さやかが早く一人前になれるように指導した。
あの二人を、一緒に連れて来たかった。が、置いてきてしまった。きっとそれが、晴れない気持ちの正体なのだろう。
(何やってるんだろうな、あたし……)
校庭でひとり考え事をしていた矢先、杏子は人の気配を感じ、前方に視線を向けた。
暗闇の中に一人の影が浮かび上がり、こちらに近づいてくるのが見える。
クラスメートの、否、元クラスメートの、暁美ほむらだ。
何故こんな場所に彼女が、と困惑すると同時に、杏子は焦った。自分は今、魔法少女の姿をしている。
杏子が慌てて変身を解こうとすると、暁美ほむらは、
「隠す必要はないわ。貴方の正体は知ってる」
と言って、杏子をなだめようとする。
ほむらは、杏子から数メートルの位置まで近づいて足を止めた。
「貴方が、魔獣を求めてこの街に戻ったこともね」
杏子は、困惑する他なかった。いきなり目の前に現れたかと思うと、自分が魔法少女であることも、この街にいる理由も、知っているという。
だが、見抜かれている以上、これ以上口をつぐんでも意味はないと思い、杏子はひとまず、彼女に話を合わせることにした。
「……これがあたしの生き方だ。笑いたきゃ笑えばいい」
自嘲気味に、杏子は言った。
「いいえ。貴方の選択は正しいわ」
ほむらにそう言われて、杏子は変な気分になった。なぜ部外者である彼女に自分の選択を評価されなければならないのかと思うと同時に、「正しい」と言われたことに対する、不思議な安堵を感じている。
「けどいずれ、その選択も無駄だったと気づくでしょう。……いずれこの街からも、魔獣がいなくなるでしょうから」
聞き捨てならない言葉だった。魔獣がいなくなるというのは、魔法少女にとって重大な問題である。
「……なぜわかる」
「彼女の影響力が、日増しに大きくなっているのよ」
「彼女?」
彼女、というのが誰を指すのか、当然杏子の疑問に思うところであった。が、ほむらは杏子の疑問には答えようとはせず、言葉を続ける。
「そのとき、貴方はどうする?魔獣を求めて、さらに遠くへ行く?仲間を置き去りにして」
杏子は、黙っている。
「けど、それも無駄なことよ。いずれはこの世界から、魔獣は消えてなくなるから」
「何言ってんだあんた。そんな先のこと、まだ分からないだろうが……!」
「いいえ。すべては決まっていることよ。そして、誰もこの異変を止めることはできない」
杏子は焦りを感じ始めていた。彼女の言っていることが本当だとは信じられないが、嘘を言っているようにも見えない。自分のことを見抜いている彼女の言葉だけに、杏子は妙な説得力を感じていた。
「ねえ杏子、こんな事を続けても無意味だと思わない?」
「……は?」
「確かに魔獣を退治すれば、それだけ大勢の命が救われるかもしれない。けど、それを認め、褒めてくれる人がこの世にどれくらいいるの?」
「…………」
「やがて貴方は、誰に顧みられることもなく、やがてこの世界から消えてなくなる。それを悲しんでくれるのは、貴方の仲間と、心優しい貴方のお友達だけ。……貴方、本当にそれでいいと思っているの?」
杏子の心に、フッと怒りの感情が込み上げてくる。
「てめえは……、魔法少女を馬鹿にするつもりか!」
魔法少女の在り方そのものを否定されたような気がして、杏子は怒り、声を荒らげた。
「そうじゃないわ。私はただ、貴方の本心が知りたいだけ」
ほむらはそう言って歩き出し、少しずつ杏子に接近してきた。
杏子はいったん怒りを鎮め、彼女の目を見た。
「ねえ杏子。ずっと貴方に訊きたいことがあったのだけど……」
変な話の切り出し方をされて、杏子は急に、身の硬直するような緊張感を覚えた。
暁美ほむらはゆっくりとした足取りで杏子の背後に回ったかと思うと、肩越しに顔を前に出して杏子の横顔を見た。
「貴方、本当に、魔法少女の運命を受け入れているの?」
「は……」
杏子は、閉口した。
「〈円環の理〉が、魂の救済だと、本当に信じているの?」
「あ、当たり前だろうが!そう信じたから、あたしはこの道を選んだんだ」
暁美ほむらが〈円環の理〉のことを知っていても、杏子はもはや驚かなかった。というよりも、質問の内容の方に気が向いてしまい、杏子はそれどころではなかった。
しばらく考え込むように沈黙した後、杏子は再び口を開いた。
「けど……」
「けど?」
ほむらは反復しながら、首をわずかに傾げた。
話の続きを促されているような気がして、杏子は口を開こうとするが、喉元まで出かかっていた言葉を引っ込めるように、黙りこんでしまった。
「どうしたの?」
ほむらが微笑した。
「ここには、貴方と私の二人しかいない。ここで話したことを、誰かに言い触らすようなことはしないから、だから、遠慮せずに話して頂戴?」
誘導されているような気がして、杏子は戸惑ったが、本心を話すならこういう相手が一番良いような気もして、悩んだ挙句に、自分の考えていたことを打ち明け始めた。
「けど、それって……死んだ人間が天国に行くって言ってるのと大して変わらないっていうか……。それが本当かどうかなんて、生きてる人間には確認できないわけだし……」
ほむらは、杏子の言葉に黙って耳を傾けている。
「……あたしは、自分の人生なんて何の価値もないって、ずっと思ってた。こんな力を持ってても、誰を幸せにすることもできない……誰の役にも立てないって……そう思ってたんだ」
「そう」
「けど最近、こんな風にも思うんだ。人生もそんなに捨てたもんじゃないって。理由はよくわからないけど……。けど、わからないからこそ、あたしは、こんな半端な所で終わらせたくないって思ってるのかも……」
ほむらは眉ひとつ動かさず、沈黙を続けている。ちゃんと話を聞いているのかどうか不安になるが、しかし、目だけはしっかりと杏子を見据えていた。
「昔はさ、よくこんなことを考えてた。『あたし、何で生きてるんだろう』って。すると、心の奥からこういう答えが返ってくる。『死にたくないから』って。……カッコ悪いだろ?けど、人生なんてそんなものだって思ってた。けど今なら、ちゃんとした答えを見つけられそうな気がするんだよ」
「なら、見つければいい。貴方にならきっと出来るわ」
「どうかな……?あんたの言うように、本当に魔獣が消えちまうんだとしたら、あたし達は本当に、生きる糧を失う。最近、つくづく思うんだ。魔法少女ってのは、無敵なように見えて、本当はものすごく脆い足場の上を歩いているんだって」
「……力になってあげようか?」
思いがけない申し出に、杏子は戸惑う。
「力になるって……いったいどうやって……」
「……神の理に背くの」
「……はぁ?」
ほむらの言っていることが理解できず、杏子は半ば呆れた顔で、
「なに言ってんだ、あんた」
と訊き返す。
「貴方に、魔法少女の運命から脱却するチャンスをあげるということ」
杏子は目を見開いた。まるで悪魔の誘惑のような、甘美な響きを持った誘いの言葉に、杏子は思わず息をのんだ。
「……そんなことができるのか?」
「できるかどうかは、貴方次第よ。そして、選ぶのも貴方」
今この場で、はいやります、と答えるほど、杏子は軽率ではない。
答えを出す以前に、まだ肝心なことをほむらに訊いていない。
「あんた、何者だ?」
「……貴方も、もう私の正体を知っているんじゃない?美樹さやかが私のことをこう呼んでいたでしょう?」
言いながら、暁美ほむらは不敵な笑みを浮かべる。
「『悪魔』って」
「……本当なのか?」
ほむらは黙ったまま、はいともいいえとも言わない。
暗に肯定しているのだろうが、いきなり自分は悪魔だ、と打ち明けられたところで、信じられるはずがない。
「馬鹿な!そんなもの、この世界にいるはずが……」
仮に存在するとしても、彼女は人間の姿をしているし、自分の思い浮かべる悪魔の姿とは程遠い。だが、彼女は人間か、と自分に問い掛けてみても、確証をもてない。率直に言って、杏子はこれまで、暁美ほむらというクラスメートに対して、ほとんど関心を払ったことがなかった。まるでそうするように仕向けられていたのではないかと思うほど、杏子は彼女のことを何も知らなかった。
「そうね。それを信じるかどうかも、貴方次第」
そう言った途端、ほむらの周囲に黒いオーラのようなものがまとわり付き、一瞬、背中に黒い翼のようなものが見えた。かと思うと、オーラはすぐに収まり、彼女は元の姿に戻った。
杏子は息をのんだ。幻でも見たのだろうかと一瞬疑ったが、すぐにそれを否定した。魔法少女だけが感じ取ることの出来る魔力のようなものを、彼女の中に感じたからだ。やはり、彼女はただの人間ではない。
「今すぐに答えを出す必要はないわ。じっくり考えてから決めたらいい。私もしばらくこの街にいるから、気が向いたらいつでも声を掛けて」
そう言うと、暁美ほむらは杏子に背を向け、その場を立ち去ろうとする。
「待て」
衝動的に、杏子は彼女を呼び止めた。もうひとつ、彼女に訊きたいことがある。
「なんで、あたしを誘う」
ほむらはしばらく沈黙した後、背中を向けたまま、
「魔法少女は儚い」
と、呟くように言った。そして振り返ると、
「貴方も、そうは思わない?」
と問いかけ、答えも聞かずに再び背を向け、杏子の前から姿を消した。
杏子はその一瞬、彼女の心の中を垣間見たような気がして、しばらく呆然としたまま、彼女の消えた後の暗闇を見つめ続けた。
――――
大事な話がある、とマミに言われて、ある日の放課後、まどかはさやかと共にマミの家を訪れた。
マミは杏子にも声をかけたらしいが、結局彼女は現れなかった。
「二人に、どうしても訊きたいことがあって」
三角テーブルに二人分の紅茶をそっと置きながら、マミは言った。
表情がやや暗い。
最近マミの様子が変だ、ということを、さやかが言っていた。口数が少なく、ボーっと物思いに耽ていることが多いという。この日も、その例に漏れなかった。「恋かな」と、さやかは冗談めいたことを言っていた。まどかは本気にしなかったが、今の様子を見るに、それも外れていないのではないかという気がしてくる。
「なんですか?」
「……暁美ほむらさんのことよ。あなた達、彼女とは同じクラスだったわよね?」
「はい。そうですけど」
「彼女について知っていることを教えて欲しいの」
さやかは、口をあんぐりと開けて呆けた表情を浮かべている。
まどかは天井を見上げ、暁美ほむらという人物について思いを馳せた。マミが彼女のことを気にする理由が何であるにせよ、質問には真面目に答えるというのが、まどかの性分だった。
だが、彼女について知っていることを話そうとしても、何も頭に浮かんでこない。
「うーん……クラスは同じですけど、わたし、あの子と知り合ってまだ間もなくて、いろいろ親切にしてもらってるけど、それ以上のことは、よく、わからないです……」
「そう……。美樹さんは?」
「…………悪魔」
ポツンと呟くように、さやかは言った。
「あいつは悪魔よ」
続けざまにさやかが言うと、マミは顔色を変えた。さやかの言葉に関心を奪われたように、目を見開いている。
「美樹さん、どうしてそう思うの?」
「どうしてって、それは……」
さやかは記憶を巡らせるように、瞳をキョロキョロと動かしているが、答えを見つけられないのか、黙りこんでしまった。
「覚えてないんでしょ?」
まどかが尋ねた。
「……うん」
さやかは力なく返事した。
「でもマミさん、どうしてあいつのことなんて気にするの?もしかしてマミさん、あいつに取り憑かれてるんじゃないの?やめたほうがいいって、あんな奴のこと気にするの」
「うん。どうしても、気になることがあって……」
興奮気味のさやかとは裏腹に、マミの声のトーンは低い。
「今日、二人に話したかったのは……」
マミはそう言って視線を落とすと、何か考え事に耽るように、黙りこんでしまった。
だが、やがて顔を上げ、真剣な表情で二人に尋ねた。
「なぎさのお母さんのことよ」
「え……」
まどかは困惑した。変化球を投げ込まれたような気分である。
マミは、話を続ける。
「なぎさのお母さんが病気で入院していたっていう話は、前にもしたわよね?」
「はい。なぎさちゃん、お母さんを助けるために魔法少女になろうとしていたって……」
「そう。それでね、これは私も最近知ったことなんだけど……なぎさのお母さん、余命宣告を受けるほど重い病だったらしいの」
「えっ」
まどかとさやかは驚きの声を上げた。
「けど、なぎさのお母さんは奇跡的に回復した。その理由はわからないけど、なぎさはね、それを、暁美さんのお陰だと思っているみたいなの」
「ほむらちゃんが?」
「もちろん、ただの思い過ごしかも知れないってなぎさも言っていたわ。けど、私にはどうしても、彼女が無関係だとは思えなくて……」
話の全貌が見えて来ず、まどかは困惑した。なぎさとほむらがどのような契機で知り合ったのか、なぜ母の回復がほむらのお陰なのか、疑問は尽きない。
やがてまどかの頭の中に、単純明快なひとつの考えが浮かんだ。
「あの、なぎさちゃんのお母さんが魔法少女になったっていう可能性は……ないですか?」
「……それは考えにくいわ」
マミは即答した。
「魔法少女には、ある程度の適齢期というものがあるの。なぎさのお母さんの年齢で魔法少女になるという話は、私は聞いたことがないわ」
「そう、ですか」
まどかは肩を落とした。
「あたしなら……」
さやかが口を開いた。
「あたしなら、直接本人に会って確かめる」
さやからしい、大胆不敵な提案だと、まどかは思った。
だが、マミはあまり乗り気ではなさそうである。
「待って。そうまでして真相を探る必要はないわ。それに、……危険かもしれない」
「けど!」
さやかは声を荒らげ、勢いよく立ち上がった。
「それほど重い病気が急に治ったんだとしたら、それは『奇跡』だよ!マミさんなら、これ以上言わなくても分かるでしょう?絶対、何かあったんだよ。あいつが絡んでいるんだとしたらなおさら……。それが何なのか確かめるまで、あたしの気が済まない」
さやかがそこまで感情的になる理由を、まどかはすぐに理解した。
望んでも決して手に入らない奇跡を求めて、少女は自分の命という高い代償を払って、奇跡を手にする。それが魔法少女であり、さやかもその一人だった。だからこそ、なぎさの母に起きたという「奇跡」に対して、尋常ではない関心を抱いてしまうのだろう。
マミもさやかの気持ちを理解していたようで、結局、さやかの提案通り、奇跡の真相を確かめることとなった。
――――
夕方の都市公園の中、なぎさの母は娘と一緒にボール遊びに興じていた。
なぎさが、笑っている。その笑顔を見るのが、母にとっては何よりの喜びであった。
一時は、すべてを諦めかけていた。身体は衰弱し、それと一緒に生きる気力も蝕まれていった。そしてこのまま、なぎさを残したまま死ぬのだろうと、病室の中でずっと思っていた。
だが、今ではこうして、外で娘とともに身体を動かせるまでになっている。それもこれも、目の前に突然降りかかったチャンスを、必死で掴み取った結果である。
つい勢い余って、母が打ち返したボールが、なぎさの頭上を大きく越えて、遠くへと転がっていってしまった。
なぎさは振り返って、ボールを追いかけようとする。
ちょうどその時、レジャーシートに置いてあった携帯電話が、着信音を鳴らした。
「なぎさ、あまり遠くに行ったら駄目よ」
「はーい」
なぎさに声をかけた後、母は携帯電話を拾い上げてディスプレイを覗いた。
発信者は、巴マミだ。母は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「百江さん、こんにちは。突然お電話してすみません。ちょっと、なぎさとお話したいことがあるのですが、今から伺ってもよろしいですか?」
「ごめんなさい。いま公園にいるの。もし良かったら、こちらへ――」
母はそう言いながら周囲を見回し、なぎさの居場所を確認しようとした。
だが、なぎさの姿がどこにも見当たらない。
「なぎさ……!」
焦りを感じ、母は携帯電話を握ったまま、なぎさが向かったであろう方向へ歩き出した。
公園の間を道路が横切っており、その地下を、利用者が通るための連絡通路が貫いている。ボールはおそらく、この連絡通路に転がって行ったはずである。
その連絡通路を目にした時、母は異変に気付き、息をのんだ。
連絡通路の入り口が、まるで異世界に通じるゲートのように、歪んだ膜のようなものに覆われ、その先が見えなくなっている。
この先になぎさがいる、という、根拠の無い不安に駆られ、母は慌てて携帯電話を投げ捨て、通路へと飛び込んだ。
気が付くと、ただの歩行者用通路とは思えない異様な空間の中に、彼女はいた。
恐怖に駆られながら、母は必死でなぎさを探した。
やがて、なぎさの姿を見つけた。
その周囲を、なぎさと同じ位の背丈をもつ、見たこともない複数の異形の生き物が取り囲み、なぎさの様子を観察するように、じっと静止している。
その光景に戦慄し、母は
「なぎさ!」
と叫び声を上げた。
すると、叫び声に反応するように、異形が動き出し、母に接近してきた。
異形の身体から蔓のようなものが飛び出し、彼女の手足に纏わりついた。
身体の自由を奪われると同時に、これまで体験したことのない激痛が、彼女を襲った。
「お母さん!」
なぎさが腰を落としたまま叫んだ。
「なぎさ……逃げて……」
身体の自由は奪われていたが、目だけははっきりとなぎさの姿を捉えている。
顔が、恐怖で引きつっている。
ここまでなのだろうか、と母は思った。せっかく自由を手に入れたのに、こんな形で、母娘の幸せが潰えてしまうのだろうか、と。
そう考えた瞬間、ひとりの少女の姿が、脳裏をよぎった。それと同時に、まだ終わりではない、という希望や勇気に似た感情が、ふつふつと心に湧いてきた。自分は今、何のために生きているのか。それは、なぎさを守るために他ならない。
母は落ち着いて、ある少女との出会いを、はっきりと脳裏に蘇らせようとした。その少女と会ったのは数ヶ月前、病室でのことである。
「あなたは?」
病室のベッドの傍らに現れたひとりの少女に、母は問いかけた。少女は、見滝原中学の制服を着ている。
「暁美ほむらといいます。なぎささんのお友達です」
少女は笑みを浮かべながら自己紹介した。
「以前にも、お会いしたことがあると思いますけど……」
母の脳裏に、フッと彼女に関する記憶が湧いてきた。確かに、前にも会ったことがある気がする。だが、いつどこで会ったのかまでは、よく思い出せない。
「そう……そうだったわね。ごめんなさい。私ったら……」
「いえ、気になさらないでください」
ほむらは笑顔を見せた。中学生にしては妙に落ち着いていると、母は思った。
「なぎささん、最近お母さんのことで悩んでいるみたいだったので、心配になって、こうしてお見舞いに伺ったんです」
「そう……わざわざありがとう」
母が礼を言うと、ほむらは急に、それまでの穏やかな表情を、真剣な顔つきに変えた。
「貴方、なぎささんに嘘をついていますね」
母にとっては、身の硬直するような一言だった。
「なぎささん、言っていましたよ。貴方の死が近いんじゃないかって」
母は、視線を落とした。
「考え抜いた上での嘘よ……。けど、間違っていたのかもしれない……。あの子、賢い子だから……」
ほむらは何も言わず、沈黙が続く。
「もしも……」
ほむらが口を開いた。
「もしも、貴方の娘が、貴方を助けるためにすべてを投げ打つ覚悟でいるとしたら、貴方、どうしますか?」
「そんな……」
母は声を震わせながら言った。
「そんなの、駄目よ……」
駄目だ。駄目に決まっている。
なぎさが自分に隠れて何かをしようとしているのなら、母として、それが何なのか確かめなければならない。だが、暁美ほむらの遠回しな言葉からは、それが何なのかわからない。
「ねえ教えて。あの子は何をしようとしているの?」
すがるように、母はほむらに問いかける。
「貴方なら、お分かりのはず」
落ち着き払った口調で、母の目を見ながら、ほむらは言った。
その目を見て、母の脳裏に、ひとつの答えが浮かんだ。
大きな対価と引き換えに、あらゆる願望を叶える手段があることを、母は知っている。
しかし、それを叶えられるのは、選ばれた人間だけの筈である。
「まさか、あの子が……そんな」
そんな筈はない、と思った。だが、それ以外は考えられない、とも同時に思った。
「やはり、知っているんですね、貴方も」
ほむらは依然、落ち着いている。その態度とは裏腹に、母の焦りと苛立ちは大きくなっていく。
「あの子は……あの子は、私のすべてなの。ずっとひとりであの子を育ててきたから……。どんなに辛い時でも、あの子の笑った顔を見るだけで救われるの。……だけど、最近のあの子、全然笑ってくれなくて……。そう……あの子、そんなことを考えていたのね」
手で顔を覆いながら、嘆くように、母は言った。
「貴方は娘を愛している。心の底から……」
「そうよ」
母は躊躇せずに答える。
「私が死んだら、あの子はひとりぼっちになってしまう。それが耐えられないの。あの子を失うのも、あの子を置いて先に死ぬのも、どちらも耐えられない……!だから、早く病気を治してあの子を安心させてあげたいのに……。どう足掻いても、病気に勝てない……!」
「病に勝てないのだとしたら、それが貴方の運命よ」
突き放すように、ほむらは言った。
「そんな……!」
崖っぷちまで追い込まれた後に背中をドンと押されたような、そんな気分だった。
「そんな事を言うために、あなたはここに来たの……?」
「……けど、運命に抗うことはできる」
「え……?」
母はゆっくりと顔を上げ、ほむらの顔を見た。無表情の中に、かすかな慈悲の心のようなものが見える。
「貴方が本当にそれを望むなら、貴方にはまだチャンスがある。けどその為には、大きな代償を払わなければならない」
「あの子の為なら、何だってするわよ……」
「何でも?」
「……ええ」
母は既に、理性的に物事を考える余裕を失っている。生きてなぎさを守りたい――。彼女の頭の中にあるのは、それだけであった。
「娘の為なら、神の理にも背ける?」
「え……?」
暁美ほむらのその言葉には、さすがの母も躊躇した。言葉の意味がわからず、彼女は黙りこんでしまう。
ほむらは、母の答えを待つように、乾いた目で、しっかりと彼女を見据えている。
やがて、母の迷いは断ち切られた。目の前の少女は、自分に救いの手を差し伸べようとしている。このまま何もしなければ、自分はいずれ死ぬ。ならば、この少女に、すべてを委ねてしまおう。
「あの子の為なら……私は……どんな罪も背負えるわ」
「そう」
ほむらは、左手を前に差し出した。
「それが愛よ」
病室の引き戸が、音を立てずにゆっくりと閉まる。
ほむらは左手を母の胸部にかざす。
「忘れないで。本当にあの子のことを想うなら、貴方はどんな痛みにだって耐えられるはず。その痛みに耐え抜いた時、貴方は、今よりもずっと強くなれる」
――――
公園にいる、という言葉を最後に、なぎさの母との通話は途絶えてしまった。
何かあったのではないか、という不安に一同は駆られ、まどかはさやか、マミに率いられて、母子がいるという公園を訪れた。
公園に着いた時には既に陽は落ち、公園の閉鎖間近の時刻になっていた。
「マミさん、あそこ!」
まどかが異変に気づき、声を上げた。道路の地下を通る連絡通路が、暗がりの中に歪んだ光を放っている。
入り口の前で立ち止まり、さやかとマミは魔法少女に変身した。
「鹿目さん。私達の傍を離れないでね」
「はい」
まどかはかすかな恐怖を感じた。だが、二人の魔法少女への信頼が上回り、まどかは不思議と落ち着いていた。
三人は歪んだ空間に飛び込んだ。
するとすぐに、人影が視界に映った。
なぎさが腰を地面に落とし、放心した様子で何かを見つめている。
なぎさの視線の先に目を送り、マミは立ち止まると、後ろからついてくる二人を制止するように、右手を横に伸ばした。
複数体の異形の魔物が、人の姿をした何かを取り囲み、拘束している。
なぎさがこの場にいる以上、そこにいるのは恐らく、なぎさの母親である。
だが、まどかはその確証が持てない。確かに大人の女性のような姿をしている。だが、彼女に本当に人間だろうか。
背中から、大きな翼が生えている。全身が、露出の少ない黒い衣に包まれている。そして、その周囲を、黒い妖気のようなものが纏わりついている。
まどかはようやく、なぎさが放心している理由を理解した。彼女は異形の魔物に怯えていたのではなく、その女性の姿を見て、我を失っていたのである。
その女性の容姿を見たまどかの脳裏に、ひとつの単語が浮かんだ。
――悪魔。
その様子を見守っていた他の二人も、同じことを思った筈である。