終末の物語   作:Wiseman

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第六話 袂別

 さやかは、その異様な造形にしばらく目を奪われた。

 人間とも魔法少女ともつかぬ姿に変貌を遂げた杏子が、獲物を狙う鷹のような眼光を、さやかに浴びせている。

 短い睨み合いの後、杏子が跳んだ。

 建物から勢いよく飛び降りると、その勢いで眼下の結界に飛び込み、姿を消した。

 さやかはまどかの手を引き、彼女の後を追うように、結界へと足を踏み入れた。

 この光景を目にするのは、何度目だろうか。さやかの眼前に、再び現実離れした異様な光景が広がった。だが、これまで目にしたどの光景とも異なっている。そして、その中に巣食う異形の魔物の造形も、また異なっていた。

 杏子は槍を振るい、ときに投擲しながら、中に巣食う異形を次から次へと排除していく。

「待って、杏子ちゃん!」

 突然、まどかが叫び声を上げた。

 杏子は槍を操る手を止め、まどかに目を向けた。

「その子を傷つけないで!お願い!」

 一体まどかが何を思ってそのような頼み事をしたのか、さやかにはわからなかった。マミがもたらしたソウルジェムのような謎の石と、まどかが見たという夢が関係しているのかもしれない。

 さやかは何も言わず、まどかの顔を一瞥した。まどかは目を見開き、懇願するように、真剣な顔つきで杏子を見ている。一方の杏子はムスッとした顔で、まどかを見ている。

 杏子がまどかの呼びかけに耳を傾けている隙を見計らうように、異形の存在は姿をくらまし、それとともに、異空間も崩れるようにして消えた。

「どういうつもりだ?」

 射るような視線をまどかに向けながら、杏子が言った。

「まあ、いいか」

 杏子はゆっくりと降り立つように、さやかとまどかの眼前に姿を晒した。

 彼女の姿を間近にして、さやかは改めて、彼女がさやか達を驚かせるために仮装しているわけではないということを思い知らされた。

 胸元のソウルジェムが、穢れを限界まで溜め込んだように混濁し、放つ光は淡い。

「あんた、そのソウルジェム……一体、何を……?」

 さやかは困惑していた。ここまで穢れを溜め込めば、普通であれば、魔法少女はこの世界には留まれない筈である。

「見ての通りさ。あたしは、自由を手に入れたんだ」

 自信に満ちた笑みを浮かべながら、杏子は答えた。

 動揺するばかりであったさやかの心中に、突然火がついたように怒りが湧き上がった。暁美ほむらの存在を、脳裏に思い浮かべたのである。

「あんたまさか……!あの悪魔に、魂を売ったんじゃないでしょうね!」

「違うね」

 不機嫌そうに顔を歪めながら、杏子は言い返した。

「あたしは、自分自身のためにこの力を手に入れたんだ」

「けど……!」

 怒りを抑えられないさやかをなだめるように、杏子がさっと片手を前に出した。

「そう喧嘩腰にならないでさ……。ちょっと黙って、()()()()()()()()っての」

 その瞬間、さやかは何か見えない存在に頭を掻き回されるような不快な感覚に陥り、思わず額に手を当てた。振り払おうにも、どうして良いかわからない。必死に、気持ちを落ち着かせようとする。そうだ、自分にはまず、杏子の話を聞く必要がある。杏子に聞きたいことは山ほどあるが、それは後でいい。

 さやかが落ち着くのを見計らうようなタイミングで、杏子は再び口を開いた。

「さやか、あんたもこっちに来い」

「……はぁ?」

 一体何の冗談だ。ふざけている。さやかはそう思ったが、言い返そうにもそれ以上言葉が出てこない。

「なぁ、さやか。あんたは本当に受け入れいているのか?魔法少女の運命ってやつを」

「あんた、何言って……」

 受け入れているに決まっている。奇跡を望む代償を理解した上で、自分は魔法少女の道を選んだのだ。

「よく考えろ。この世界には、あんたが消えるのを悲しんでくれる人間がいるじゃねえか。いいのか?まどかや上条を悲しませることになっても」

 さやかは反射的に、まどかに視線を向けた。まどかも、さやかの顔を見ている。その目が、かすかに震えている。思えばついさっき、まどかに「どこにも行かない」と約束したばかりではないか。さやかは急に、立ち眩みのような感覚に襲われた。これ以上深く考えると、頭がショートしそうだ。

「いいか?この力を受け入れれば、もうソウルジェムを浄化する必要もなくなる。もう魔獣ごときに振り回される必要もない。あんたはこの世界で好きなように生きていけるんだ」

 杏子は迷いのない堂々とした口調で、さやかに誘いをかけ続けている。誘惑、という方が正しいかも知れない。

「それで、晴れて自由の身になったら、あの音楽坊やを捕まえて、こう言ってやりな」

 杏子は、不敵な笑みを浮かべている。

「あたしがあんたの腕を治した恩人です、ってな」

「なっ――」

 背筋の凍るような衝撃が、さやかを襲った。それは、許されることではない。考えなしに、さやかは頭の中で彼女の提案を否定した。

「そうすりゃ、あいつはもう一生あんたに頭が上がらなくなる。後は何もかも、あんたの思い通りだ。……あいつへの未練を断ち切れないんだろ?だったら、心の向くままにすればいい」

「あんたは……!」

 怒りに声を震わせながら、さやかが言った。

「あんたは、間違ってる!あたし達は、魔法少女は……望んでも決して手に入らない奇跡を求めて、それと引き換えに、戦う道を選んだの。そんなあたし達が、普通の人達と同じ幸せを望むなんて、そんなのは、間違いよ!」

 聞き終えた杏子は、首を傾げて目を細めながら、

「なんだそりゃあ?」

 と、素っ気なく訊いた。

「そういう『教え』か何かでもあるのか?……くらだねえ。いいか?あんたの人生なんだ。他人から教わった生き方なんて捨てちまえ。魔法少女に幸せになる資格はないって?いったい誰がそんなこと言い出したんだ?あたしはそんな生き方、御免だね」

「だからって……!あたしに、あの悪魔と同類になれっての?冗談じゃない!あいつは詩花を……まどかの親友を殺したんだ!」

 さやかは既に、理性を失いかけていた。ただ、頭の中に降って湧いた怒りを、目の前の悪魔にぶつけることしか、思い浮かばなかった。

「なっ……」

 ずっと余裕の態度を貫いていた杏子も、その言葉にはさすがに驚いている様子だった。まどかの悲痛に満ちた顔を眺めながら、呆然としている。

「あ、あたしは何も、あいつと同類になれって言ってるわけじゃない。あいつが気に入らないなら、力を手に入れた後で、ぶん殴ってやればいい。けど、今のあんたの力じゃ、それさえ出来ないだろ?なあ、さやか……」

 さやかは、失いかけていた理性を、必死に取り戻そうとした。確かに、今の自分は、弱い。今よりももっと強い力があれば、その力を人々のために役立てることが出来るかもしれない。

 だが――。

 さやかは顔を上げ、射るような視線を杏子に向けた。

「断る」

 短い言葉の後に、長い沈黙が続いた。

「そうか……」

 落胆するような小さな声で、杏子が言った。

 さやかは刀剣を構え、杏子の顔を見据える。対決も辞さない構えだった。

 どんな理由があろうと、悪魔に身を堕とすことはできない。たとえ杏子が力ずくで従わせようとしても、はね返すつもりでいる。

 次の瞬間――。

 杏子の姿が消えた。

 さやかは慌てて、周囲を見回す。隣にいた筈のまどかの姿も消えている。

「まどか……?」

 呼びかけてみても、誰も応じない。

 気が付くと、自分ひとりになっていた。

「さやか――さやか――」

 誰かが、自分を呼ぶ声が聞こえる。

 

 

「さやか」

 誰かが呼ぶ声に呼び起こされて、さやかは目を開けた。

 人影と、その背後にかかる橙色の空が、視界に入った。

 下に目を向けると、木製のベンチが見える。ベンチに座って、そのまま眠ってしまったようである。

 目の前に立っていたのは、恭介だった。両手にドリンク入りの紙コップを握りながら、案ずるように、さやかの顔を見ている。

「はい、これ」

 そう言って、恭介は右手に持っていたカップを差し出した。

「あ、ありがと」

 カップを受け取ろうと、さやかは手を伸ばした。

 カップに手に取ろうとしたとき、恭介の指に触れ、さやかは反射的に、手の力を緩めた。

「わわっ」

 身を乗り出して、落ちそうになったカップを両手で受け止めた。身体が、一瞬にして熱くなるのを感じた。

「大丈夫かい?」

「大丈夫、大丈夫」

「もしかして、疲れてるんじゃ……」

「平気、平気。ちょっと、変な夢見てただけだから」

 さやかは落ち着いて、ここに至るまでの経緯を思い出そうとする。コンクールを間近に控えているはずの恭介から、突然、「息抜きがしたい」と遊びに誘われ、二人で市内の都市公園を訪れたのだった。

「ねえ、本当に良かったの?」

「何が?」

「だって、もうじきコンクールなのに、こんな一日中遊んでばっかりで」

「……だからだよ」

「え?」

「ここ最近、ずっと練習の繰り返しだったからさ。だから、息抜きがしたいって。……父さんも特別に許してくれたし」

「でも……」

 その息抜きの相手が自分で良かったのか、と訊きそうになって、さやかは口をつぐんだ。何か、大事なことを忘れているような気がする。

 目の前に、水辺が広がっていた。その上を、何艘かの手漕ぎボートが悠々と浮かんでいる。それが池なのか、湖なのか、海なのか、何故かさやかにはわからない。

 その後、恭介に誘われて、手漕ぎボートに乗った。

 すでに陽は傾き、東の空には星が浮かんでいる。

 普通なら、こんな遅い時間にボートに乗ることなど無いはずだが、今のさやかに、そんなことを考える余裕は無かった。正しく言い換えれば、恭介のことで頭が一杯だった。

 傾いた陽と、岸辺に設置された暖色の照明が、穏やかな水面を照らしている。

「綺麗だね……」

「うん」

 さやかは高揚する気持ちを抑えながら返した。これではまるで、デートではないか。そんな考えを押し殺しながら、さやかは水面を眺めた。

 やがて、さやかは考えを改めた。これは、れっきとしたデートだ。たとえ恭介がそう思っていなかったとしても、二人で同じ美しい景色を共有するこの瞬間は、デートそのものだ。そう思うくらいなら、きっと(ばち)は当たらない筈だ。

「こんな風にさ、音楽のこととか、何もかも忘れて、ゆっくりした時間を過ごすのも……たまには悪くないよね」

「なんか、意外」

「何が?」

「だって恭介は、バイオリンのことしか頭に無いのかと思ってたから」

「失礼だなっ……僕だって、他のこと、色々と考えてるよ。遊びのこととか、勉強のこととか……」

 苦笑いを浮かべながら、恭介は言う。

「……さやかのことも」

「へ?」

 付け足すように言い放った恭介の言葉に、さやかは間の抜けた声で反応した。

「ねえ、さやか。頼みがあるんだけど」

 恭介は前のめりになりながら、さやかの手の上に自分の手をそっと置いた。

 触れた手から伝わる体温が身体中を駆け巡り、電気が流れるような衝撃を受けた。顔が紅潮するのが、温度でわかる。

「な、なに?」

「ずっと、僕のそばにいてくれないかな?」

「恭介……どうしちゃったの?急に、何言い出すの?」

「だって……さやかはずっと、僕のことを支えてくれたじゃないか」

「え……」

 確かに、彼の言う通りかもしれない。だが、恭介の口からそのような言葉を聞くのは、これが初めてだった。

「本当に、いいの……?あたしなんかで……」

 恭介は、何も言わなかった。だが、その目が、さやかの返事を求めるように、じっとさやかの顔を見据えている。

 このまま、恭介の頼みを受け入れてしまおうか――。そうだ、自分にはその資格がある。彼のバイオリニストとしての人生が閉ざされそうになったとき、それを救ったのは自分に他ならない。だが同時に、心にブレーキがかかり、さやかは返答に窮してしまう。そのブレーキの理由が、さやかにはわからない。

 そのとき――。

 突然、大きな振動がボートを襲った。

 水面が大きく揺れ、ボートは恭介の座っている側を上にして、大きく傾いた。

 その大きな揺れに為す術もなく、さやかの身体はボートの外に放り出される。

 恭介が、慌てて手を伸ばした。

 その背後に、大きな何かの暗い影が見える。

 影は、巨大な人魚の下半身だった。

 その人魚の姿を目に焼き付けながら、さやかの身体は水の中に沈んだ。

 さやかはその時ようやく、自分の犯そうとしていた過ちに気づいた。

(駄目だよ、恭介……あたしはもう……恭介とは、違う世界で生きてるんだから)

 身体の自由が利かず、さやかはそのまま、沈むに身を任せた。

 かすかに光る水面を眺めながら、さやかは孤独を感じていた。魔法少女が感じる孤独――。その孤独を和らげるために仲間と過ごしてきたはずなのに、その仲間の顔を思い出すことができない。

「――ちゃん、――かちゃん!」

 誰かが呼び声が聞こえる。自分を呼んでいるのだろうか。

 その言葉に反応するように、さやかは塞ぎかけていた目を再び開いた。

「さやかちゃん――さやかちゃん!」

 声が明瞭になるにつれ、さやかの心に湧いた疑念が、確信へと変わっていった。

 これは、現実ではない。

 …………。

 気がつくとさやかは、びしょ濡れになりながら、桟橋の上に倒れていた。

「さやかちゃん!」

 声のする方に目を向けると、暗闇の中から、誰かが駆け寄ってくる姿が見えた。

 まどかだった。

「さやかちゃん、大丈夫?」

「まどか……どうしてここに?」

 さやかは困惑しながら周囲を見渡した。

 桟橋の先端に、恭介が立っている。

「さやか、大丈夫かい?」

 案ずるように、恭介が声をかける。

「さあ、一緒に帰ろう」

 さやかはゆっくりと立ち上がって、恭介の顔を見た。

「さやか……」

 名を呼んだその一瞬、彼の口の中に八重歯が見えた。

「恭介じゃない」

「え……」

「あたしの知ってる恭介は……もっと無神経で……音楽のことしか頭に無くて」

「さやか……?」

「ねえどうして?どうしてこんなことするの?ねえ」

 怒りが沸々と湧き上がる。さやかは刀剣を召喚し、右手に強く握りしめた。

 一歩、また一歩と、恭介に歩み寄る。

 恭介は、焦っている。だが、その焦りも、今のさやかにはただの不格好な演技にしか見えなかった。

 さやかは勢いよく足を踏み出し、横振りの剣撃を、恭介に向けて思い切り振るった。

 

 

 激しい金属音が、周囲に鳴り響いた。

 幻想的だった夜の水辺の光景はいつの間にか消え去り、さやかは、元いた工場地帯に戻っていた。

 さやかの剣撃は、杏子の突き立てた長槍が受け止め、キリキリと金属を削る音を発している。

「許さない……人の心を弄んで……!」

 杏子が幻惑魔法の使い手であるという話は、過去にマミから聞いたことがあった。だが、実際に行使するところを見たことは、今まで一度もなかった。だから、まさかここまで大掛かりな術を仕掛けてくるとは思わず、さやかは、まんまと彼女の術に嵌ってしまった自分への苛立ちと、杏子への怒りで、いまにも爆発しそうであった。

 杏子は舌打ちし、長槍を握った手に力を込め、勢いよく槍を押し出した。

 さやかの身体はその勢いで、激しく後方に飛ばされた。

 まどかが、慌ててさやかの元に駆け寄ってくる。

「邪魔しやがって……」

 杏子のその言葉は、まどかに向けられたものらしい。睨むような視線を、まどかに向けている。

「そうやって、みんなを騙したの?」

 ゆっくりと立ち上がりながら、さやかが言った。

「騙したんでしょ?それであんたは、ひとりになった。当然の報いよね」

 杏子の顔色が変わった。一瞬、言うべきではなかったのではないかと、後悔しそうになった。だが、撤回する気も起きなかった。それほど、杏子への怒りは大きかった。

「言っとくけどな」

 杏子が言った。

「あたしは、遊び半分でこんなことをやってる訳じゃねえんだ。話を聞く気がねえんなら、力ずくで聞かせるしかなくなるけど、覚悟はできてるんだろうな?」

「やってみなさいよ……今度は、負けないっ」

「ちょうどいい。暴れ足りなくてうずうずしてたところだ」

 さやかは剣を、杏子は長槍を構え、互いに睨み合う。

「そんな……駄目だよ……さやかちゃん、杏子ちゃん!」

 まどかの必死の叫びも、さやかの心を変えるには至らなかった。

 しかし、まどかを無防備にはできないと思い、さやかは、まどかの周囲に保護結界を張った。結界は何本もの細長い円筒状の物体から成り、一本一本が、小さな水槽のような見た目をしている。

 さやかは再び、杏子を睨んだ。

 杏子と事を構えるのは、これが初めてではない。最初に戦ったのは、さやかがまだ魔法少女になって間もない頃であった。突然隣町からやって来て縄張りを主張する杏子に不信感を抱き、喧嘩となった。その時は結局、杏子に叩きのめされた後で、マミの仲裁により助けられた。マミが現れた途端、杏子は急に、総長に出くわしたチンピラのように大人しくなった。

 その出来事をきっかけに、三人一組の魔法少女チームが、なんとなく出来上がった。後で知ったことだが、杏子は、マミに新しい弟子ができたのが気に入らないという、子供のような理由で、さやかに喧嘩を売っていたことが分かった。最初の印象に反して、可愛いところがあると、その時のさやかは思った。

 あれから、数月が経った。

 自分のことながら、さやかは、腕を上げたと思っている。

 杏子の、悪魔としての力がどれ程のものかはわからない。だが、杏子であることに変わりはない。その思いが、さやかに奇妙な自信をもたらしていた。

 最初に斬りかかったのは、さやかだった。

 勢いよく足を踏み出し、腰の位置から剣を振るった。

 その剣撃を杏子の槍が受け止め、激しい金属音とともに、火花が散った。

 杏子が槍を回し、さやかの肩をめがけて突き出した。

 さやかは、横転してかわす。

 間髪を入れずにさやかは反撃に転じ、再び剣を振るう。

 杏子が、翼を広げて勢いよく飛んだ。

 工場のダクトに着地し、ここまで来いと挑発するように、さやかに視線を送っている。

 さやかも、ジャンプして後を追った。スピードなら誰にも負けないと、さやかは自負している。

 再び杏子の眼前に迫り、二回、三回と剣撃を見舞った。

 その剣撃を槍が受け止め、絶え間なく火花を散らす。

「腕を、上げたな、さやか!」

 その直後、さやかの与えた剣撃が、杏子の槍を真っ二つに折った。

 一矢報いるとはこういうことだ。さやかは、心の中でそう叫びながら、高揚感を味わっている。

 杏子は二本となった槍を両手に持ってまじまじと眺めながら、

「フンッ」

 と言って、二槍の構えを見せた。

 槍が、黒い妖気を纏うとともに、修復され、最初よりも少し短い二本の槍に変化した。

 反撃に転ずるように、杏子は二本の槍を振るった。

 二槍流などというものを、さやかは見たことがない。きっと、ただの虚仮威(こけおど)しだろう。

 だが、予想に反して、杏子は二本の槍を巧みに操った。いや、さやかの方が、二本の槍の動きを読みきれず、手をこまねいているという方が正しいかもしれない。

 下段に振るった杏子の槍がさやかの足をとらえ、さやかはダクトから落ちた。

 再び、まどかのいる地上に戻ってきた。

 落ちた勢いで、一瞬、杏子を見失った。

 だが、杏子はすぐに現れた。

 まっすぐに突き出された槍を、さやかは反射的にかわす。

 それと同時に背後に回り込み、剣を思い切り横に振るった。

 剣の先端が、杏子の腰をえぐった。

 だが、手応えがない。剣の先端に、血が付着していない。

 奇妙な感覚に陥り、さやかは呆然とその場に立ち尽くした。

「バーカ」

 背後で、声が聞こえた。

 振り返る間もなく、肩のあたりに衝撃を受け、さやかの身体は前方に弾き飛ばされた。

 幻術だった。

 肩に激痛が走り、立ち上がることができない。

 顔を上げると、無傷の杏子が目の前に立っている。

「どうだ、さやか」

 余裕の笑みを浮かべながら、杏子が歩み寄ってくる。

「命が惜しいって、思わないか?」

 そう言って、槍をさやかの喉元に突き出す。

「思うよなあ。けどそれは、恥ずべきことじゃない」

 杏子が、槍を思い切り、背後に回した。

「やめて」

 背後で、まどかの低い叫びが聞こえた。

 まどかが、さやかの作り上げた円筒状の結界に、手を触れた。

 その瞬間、まどかを中心とするように爆風が起こり、さやかと杏子は思わず顔を腕で覆った。結界が、ガラスの割れるように砕け散り、瞬く間に消滅した。

 爆風と同時に、眩しい光が発生し、まどかの周囲を包んでいる。

 どうやら、まどかを怒らせてしまったらしい。だが、様子がおかしい。普通の人間が怒っただけで、このような異変は生じないはずである。何より、当のまどかが、何が起きたのかわからないという様子で、呆然とその場に立ち尽くしている。

 さやかの身体を支配していた痛みが、すっと収まった。

 さやかは、おもむろに立ち上がり、目の前に奇妙な光景に吸い寄せられるように、一歩、また一歩と、まどかに向かって歩みを進める。

「お、おい!」

 杏子が呼び止めようとするが、さやかの足は止まらない。まるで自分ではない何かに、身体を乗っ取られてしまったような気分である。

 やがて、異変が収まった。

 まどかは呆然としたまま、その場に膝を落とした。

 さやかも、急に力が抜けたように、その場に腰を落とす。

「マミさん」

 まどかが唐突に呟いたので、さやかは振り返った。

 杏子が、マミの発したリボンによって、がんじがらめにされている。

 杏子は、笑みを浮かべている。

 

 

 

 

   ――――

 

 まどかとさやかが帰るのを見届けた後で、ひとり家に残されたマミは、暗澹とした気持ちに沈んだ。

 まどかに、自分の知るすべての真実を打ち明けた。おそらく、彼女は深く傷ついただろう。だが、これからどうすれば良いのか。まどかの為に、自分は何ができるだろうか。

 まどかが異変の直接的な原因である可能性は、高い。ならば、その背後に隠された、真の原因を、突き止めなければならない。しかし、どうやって――。

 やはり、暁美ほむらを調べるしか無さそうである。だが、迂闊に近づけば、詩花の二の舞いになることは目に見えている。マミの知る限り、暁美ほむらに最も近い人物は、まどかである。だが、まどかの心情を思えば、まどかを使って彼女を探らせるというのは躊躇われる。まどかが親友である詩花を手にかけた暁美ほむらをどう思っているか、想像するに難くない。

 悩んでも、答えは出なかった。

 マミは気を落ち着かせ、携帯電話のディスプレイを覗いた。

 音声着信が、何件も溜まっている。発信者は杏子だった。留守電は、残っていなかった。

 何の用だろうかと不思議に思っていた時、マミは再び、心のざわめきを覚えた。

 かすかだが、何者かの魔力を感じる。ソウルジェムが、確かに魔力を捉えている。

 マミは、部屋を飛び出した。

 マンションからそう遠くない場所に、工場地帯がある。魔力は、そこから発せられていた。

 光が見えた。建物の照明とは比較にならないほどの、眩しい光だった。

 マミは接近して、光を注意深く観察した。

 光の中心にいたのは、まどかだった。

 その異様な光景に目を奪われたために、マミは、その場にいたもうひとつの異様な影の存在に、しばらく気がつかなかった。

 マミはこれまでの経験から、半ば反射的に、リボンを伸ばしてその影を拘束した。

 翼のあるそのシルエットから、影の正体が暁美ほむらではないかと、マミの心はかすかな恐怖心に震えた。

 光が収まり、影は次第に明瞭な造形物へと変わった。

 マミは、目を疑った。

 影の正体は、杏子だった。

 次の瞬間には、マミは、彼女に対して湧いた感情を、ありのままに吐露していた。

「見損なったわよ、佐倉さん」

 怒りよりも、失望のほうが大きかった。

 まどかと杏子の間に、がっくりと腰を落としたさやかの姿がある。おそらく、一悶着あったのだろう。

 杏子は、笑っている。

「ちょうどいい所に来た、マミ。あんた――」

「いますぐこの無意味な争いをやめないと、私とも戦う羽目になるわよ」

 杏子の言葉を遮り、低い口調でマミは言った。

 杏子の言い出しそうなことは、マミには大体予想ができる。だが、耳を貸す気はまったく無かった。

 杏子の笑みがすっと引き、険しい表情に変わった。

「放せよ……二対一でやり合うつもりはねえから」

 杏子はそう言って、変身を解いた。大きな翼は消え、普通の人間の姿に戻った。

 マミは、拘束を解いた。

 杏子の手に、ソウルジェムのような石が握られていた。その石が、穢れに染まったように、黒く混濁している。

 マミはその石に目を奪われ、背筋の凍るような感覚に陥った。

 脳裏に突然、いま見ている光景とは別の光景がフラッシュバックのように蘇り、マミは反射的にそれを振り払おうとした。いまは、過去のことを思い出している場合ではない。

 杏子はゆっくりと、腰を落として放心しているさやかに歩み寄った。

 さやかに、すっと手を差し伸ばした。手のひらに、魔獣のグリーフシードが載っている。

「使いな。あたしにはもう、必要ない物だからな」

 杏子の言葉を聞いた瞬間、さやかの表情が怒りに歪んだように変わり、さやかは自分の手で、杏子の手を勢いよく弾いた。

 グリーフシードは宙を舞い、地面に転がり落ちた。

「おい!」

 杏子は声を荒らげた。

 さやかは黙って立ち上がり、杏子に背を向けてふらふらと歩き出す。

 まどかはマミにお辞儀をした後、さやかの後を追うように駆けて行った。

 マミは、まどかの後ろ姿を見ている。

 まどかは、ごく普通の少女の姿をしている。だが、つい先ほどマミが目にした光は、幻などではなく、間違いなくまどかを中心に発生していた。まるで、まどかが未知の力を発揮したともとれるその異様な光景を思い出しながら、マミは、新たな疑問を心に刻みつけた。

 それは、さておき――。

 目の前に、杏子がいる。立ち去る二人を追いかけようともせず、ボーっと突っ立っている。

「あなた、自分が何をしたか分かっているの?」

 マミが、険しい顔で問いかけた。

「分かってる。これが、あたしの出した答えだ。マミ、あんたにだって、チャンスはあるんだ」

「私は、救済を拒んでまでこの世界にしがみつくつもりはないわ」

 杏子のソウルジェムを見て、マミは直感的に理解している。杏子は〈円環の理〉を拒んで、この世界で生き続ける道を選んだのだ。恐らくこの先も、杏子が〈円環の理〉によって救われる日は来ないだろう。そうまでしてこの世界に留まろうとする彼女を、マミは理解できなかった。

「本当に救済かどうかなんて、わかんねえじゃねえか」

 杏子が言った。

「そんなもの、昔の魔法少女が作り出した、おとぎ話かもしれないってのに」

「ずっと、そう思っていたの?」

 マミが問いかけるが、杏子は答えない。

「どうして、打ち明けてくれなかったの?」

「……言えるわけねえよ、そんなの……」

 マミは、落胆している。杏子とは長い付き合いだが、そのような本心を包み隠していることなど、まったく知らなかった。

 マミは杏子と別れ、ひとり家に帰った。

 

 

 ティーポットに淹れた紅茶を、ゆっくりとカップに注いだ。

 紅茶を一口含んだ後、マミは、大きな窓ガラスに映る自分の鏡像を見た。

 暗い顔をしている。度重なる事件の連続で、すっかり疲れてしまったようである。

 マミの脳裏に、再び杏子のソウルジェムが浮かび上がった。濁りきった彼女のソウルジェムを見たとき、突然、過去の記憶が、鮮明なイメージとなって心の中に蘇ったのである。

 マミは目を閉じて、砂に埋まった糸を引きずり出すように、記憶を辿った。

 記憶の中で、マミは墓地をさまよい歩いていた。

 キュゥべえから、杏子の家族に起こった急変の報せを聞き、マミは慌てて杏子の姿を探し歩いていた。

 やがて、杏子の姿を見つけた。

 ひとつの墓標の前に立ち、呆然と立ち尽くしている。背中を向けていて、その表情はわからない。

 だが、手に握られたソウルジェムが、杏子の心情を物語っていた。

 絶望に沈んだように、黒く、染まっている。

 しかし、その石を見ずとも、マミには杏子の気持ちが痛いほどにわかった。家族を失う悲しみを、マミは知っている。きっと、どんな言葉をかけても、今の彼女には慰めにならないだろう。そう思い、マミは黙って、杏子の後ろ姿を見ていた。

 杏子の身体が動いた。ソウルジェムを握りしめたその手を、突然、頭上に振り上げたのだ。

 マミは、狼狽した。

 ソウルジェムを地面に叩きつけようとするかのようなその挙動を見て、マミは居ても立ってもいられず杏子に駆け寄り、振り上げた杏子の手を強引に押さえつけた。

 杏子は全身に力を入れてマミを振り払い、再びソウルジェムを地面に叩きつけようとする。マミは必死で、彼女を止めようとする。

 やがて杏子は崩れ落ちるように膝を地面に突き、声を抑えながら泣き出した。

 マミは、ソウルジェムを握った杏子の手に、自分の手を添えた。

 マミが手を放すと、ソウルジェムの傍らに、グリーフシードが添えるように置かれている。マミの携帯していたグリーフシードだった。この時のマミには、これくらいしか出来ることはなかった。

 杏子は呆然としたまま立ち上がり、墓標に背を向け、ゆっくりとその場を去って行った。

 いま思い出してみても、あの時、杏子を救ったなどとは、マミにはとても思えなかった。マミはただ、杏子に生きていて欲しかった。その思いで、杏子のソウルジェムを浄化した。だが、それが本当に正しかったのかと、今になって思わずにはいられない。

 杏子を真に救うことができるのは、神様だけだろうと、マミは思っている。だが、その神を、杏子は拒絶してしまった。

 何が正しい事なのか、マミにはわからない。

 再び目を開けて、冷めたティーカップに手を添えた。

 

 

 

 

   ――――

 

「あいつは元々、自分の為だけに生きてるような奴だった」

 長い沈黙の後に、さやかが口を開いた。

 まどかは、おぼつかない足取りのさやかと共に、夜の道を歩いていた。

「けど、あいつがそうするのには理由があったんだ。あいつは、自分の願いごとのせいで、家族を壊しちゃったんだ。家族の為を思って願った筈なのに、皆を不幸にしてしまった。だから、魔法は他人の為にならないって、それがあいつの言い分だった。最初は、あいつとは喧嘩ばっかりしてたよ。あたしとは考えが合わなかったから……。けど、あいつはあたしの生き方を理解してくれた。だから、あたしもあいつのことを理解しようとした。……運命共同体って言うのかな、あたし達……。いつか消えちゃう運命だって分かっていても、仲間がいるって思うだけで、不思議と気持ちが楽になる。勇気が湧いてくるの。……あいつも同じ気持ちだと思ってたのに……本当は、全然違うこと考えてたんだね」

 さやかが打ち明けた心情は、かつて母に悩みを打ち明けたときに、母が話してくれた内容と、ほとんど同じだった。仲間、という言葉が、再びまどかの心に刻まれる。杏子は、さやかのその気持ちを裏切ったのだろうか。

「杏子ちゃんはもう、元の魔法少女には戻れないのかな……」

「もし戻れたとしても、あいつはそれを望まないだろうね」

「わたし……杏子ちゃんのこと、何も知らなかった……」

「まどかが知らないのも無理ないよ。あいつは、過去のことは話したがらないから」

「……いや」

 急に、さやかの言葉を否定する別の考えが浮かんで、まどかは足を止めた。

「ん?」

 さやかもまどかの様子が気になったのか、足を止め、振り返った。

「わたしは、知ってなきゃいけなかった……。もっと前に杏子ちゃんのこと、知らなきゃいけなかったって、そんな気がするの……」

「まどか……?」

「どうして……かな……」

 なぜそのような考えが浮かんだのか、まどか自身にもわからなかった。

 

 

 家に着いた途端、急に疲労感に襲われた。

 風呂に入ろうと、脱衣所に入り、鏡を見た。

 二本の赤いリボンが、髪を結わえ、短いツインテールを作っている。

 急に嫌悪感に襲われて、まどかはリボンを解いた。

 リボンを握った手を、脇に置いてあったゴミ箱の上にかざした。捨ててしまいたいという衝動に駆られたのだ。

 手が、震える。無意識に力が入り、リボンを手放すことができない。

 まどかは結局、着替えのパジャマの上に、リボンを放り投げた。

 マミの言葉を信じたくないという思いが、まどかの中に残っていた。自分の記憶は正常で、マミの方がでたらめな記憶を植え付けられているのではないか、という淡い希望を、消しきれずにいる。

 だが同時に、理性が、その希望を消し去ろうとしている。実際、詩花と連絡が取れない。まどかは何通も彼女にメールを送っているが、返信は一度もない。

 沈みきった気持ちを慰める方法を見つけられないまま、まどかは服を脱いだ。

 

 

 

 

   ――――

 

 杏子は、失敗した。

 だが、諦めたわけではない。あの二人を、自分と同じ道に引きずり込む方法がないものかと、真剣に考えている。

 しかし、その方法が思いつかない。

 特にマミである。人生のすべてを、魔法少女として生きることに捧げているようなところがある。彼女は誰かと恋をしようとも、過密な関わりを持とうともしない。まるで、いつ天の導きが来ても悔いはないというような生き方をしている。

 一方のさやかについては、まだ望みがあると思っている。恭介への未練がある。それが疑いようもないことを、杏子はその目で確認した。問題は、彼女が暁美ほむらに対して強い嫌悪感を持っているということである。

 杏子は黙って、視線を前に向けた。

 テーブルの向かいに、その暁美ほむらが座っている。

「ラーメンのお礼がしたい」という彼女のおかしな誘いに応じ、ある夜、杏子は彼女と会った。

 彼女に案内されたのは、都市部の川を航行する洒落た遊覧船だった。

 夜の涼風を浴びながら、キラキラと光る大小の高層ビル群を眺める。食事もある。

 ラーメンとは、まったく釣り合いが取れていない。杏子は、こういう華やかなものが苦手である。ジャンクフードをかじりながらゲームセンターに入り浸っている方が、性に合っている。

 事のついでに、これまでの魔獣退治で集めたグリーフシードを、暁美ほむらに差し出した。依頼されていた仕事である。グリーフシードは、テーブルを覆い尽くす程の量だった。魔法少女時代であれば、この短期間で、これほどの量のグリーフシードを集めるのは不可能だったであろう。だが今の杏子にとっては、魔獣はもはや虫ケラ同然の存在だった。神の力を手に入れたといっても過言でないかもしれない。

 ほむらは、テーブルに散りばめられたグリーフシードを片手でかき集めると、その中の一部を杏子の前に差し出した。

「貴方の分よ。とっておきなさい」

「はあ?」

 杏子は訝しげな顔を彼女に向けた。

「あたしには、もう必要ない物だろ?」

「そうでもないわ」

 ほむらはおもむろに一個のグリーフシードを拾い上げ、自身のダークオーブにかざした。

「なっ――」

 杏子は、目を疑った。

 グリーフシードからダークオーブに向かって、一本の穢れの筋が生じている。だがそれは、ソウルジェムの穢れを浄化する時と逆向きの筋であった。

「あんた……穢れを吸ってるのか?」

 唖然としながら、杏子が問いかけた。

「魔力を手っ取り早く補うための方法。穢れも一緒に吸い込んでしまうのが難点だけど。けどね、呪いって奥が深いのよ。こうしてヒトの感情に触れていると、……見えてくるの」

「……何が?」

「ヒトの本質」

「……意味がわからん」

「どう?貴方も試してみたら?」

「……気味が悪い。遠慮しとく」

 暁美ほむらは、気味が悪い。杏子は心の底からそう思った。

 杏子は、差し出されたグリーフシードをほむらに返した。

「しかし、こんな物を集めて、いったい何する気だ?まさかこれ全部、喰い尽くす気じゃないだろうな?」

 杏子はかねてからの疑問を、ほむらに投げかけた。力を手に入れた見返りだからと、杏子は理由も聞かず、彼女の要求であるグリーフシード集めに勤しんできた。だが、わざわざこんな穢れた石ころを集める理由が、わからない。キュゥべえは、エネルギーを採集する目的でグリーフシードを集めていた。彼女の目的も、それと同じだろうか。あるいは本当に、喰い尽くす為だけに集めているのかもしれない。

 ほむらは答える様子もなく、黙ったまま、穢れを吸い続けている。

「あくまで手の内は見せないつもりか……まあいいけど」

「……ところで」

 ほむらが言った。

「貴方のお友達を誘う件。うまくいってる?」

 杏子は、黙って視線を逸らした。答えたくもない、という思いである。

 ほむらは杏子にちらっと目配せすると、

「……まあ、そうでしょうね」

 と、察するように言った。

「けど、無理強いはダメよ。この力を手に入れるには、本人の意志が必要不可欠なの。生への執着……救済を拒む強い意志。そういったものがないと、その子、死ぬでしょうから」

「はあ?」

 杏子は耳を疑い、前のめりになった。

「そんな大事なこと……なんで今まで黙ってやがった?」

「貴方は自ら望んでこの力を受け入れたのだもの。わざわざ説明する必要はないと思ったのよ」

 杏子は苛立つと同時に、焦った。

 自分が一歩間違えれば死んでいたかもしれないという事実よりも、自分の願いを達成するのがより困難になったという事実が、杏子に重くのしかかった。

「貴方は、確かな目的を持って、この力を望んだ。どう?人生の意味は見出せそう?」

 ほむらは続けて問う。

 正直なところ、今はそれどころではない。

「……そんなのは後だ。今は他に、やることがある」

 杏子が答えると、ほむらは突然、肩を揺らしながら、

「フフフフ」

 と、不気味に笑った。杏子は、怪訝な顔をした。

「なんだよ?」

「貴方って、おかしな事を言うのね」

 一体、自分の返答のどこがおかしいのかと、杏子は目を細めながら思った。

 失礼な奴だ、と思いながら、杏子は目を逸らして、水面に反射する街の明かりをぼんやりと眺めた。

 

 

 

 

   ――――

 

「ほむらと学校で会うことがあっても普通に接するように」とマミに忠告されたものの、結局、それからの数日間、彼女は学校には現れなかった。正確には、マミに真実を打ち明けられる数日前から、彼女は学校に来ていない。

 そして、クラスの誰も、そのことを気に留めていない。クラスの中で彼女のことを気にしているのは、おそらく、まどかとさやかの二人だけだろう。

 さやかは毎朝のように「来たらぶっ飛ばしてやるのに」と血気にはやりながら言うので、まどかはその都度、それをなだめている。

 結局、それからの数日間は、何事もない平穏な学校生活が続いた。

 平穏と言っても、まどかの心の中までは平穏とはいかなかった。マミの明かしたいくつもの真実が、いまでも時折、嵐のように心に吹きかけてくる。

 さやかは話しかけるといつものように明るく振る舞う。だが、授業中や登下校中、ふと彼女を見ると、まるで魂が抜けたように、ボーっと一点だけを見ながら黙り込んでいることがある。彼女また色々と複雑な思いを抱えているのだろうとまどかは察してたが、ボーっとしている時間があまりに長いので、まどかの心配も次第に大きくなっていった。

 昼休み、さやかと二人、屋上で昼食をとることにした。

 さやかは弁当を広げた後、空でも見るようにボーっと正面に目を向けている。

「さやかちゃん」

 さすがに心配になって、まどかは声をかけた。

「ん?」

 さやかが、まどかの顔を見る。

「最近、変だよ」

 ストレートに、案じていることをさやかに伝えた。

「……まあ、いろいろあったからね」

 さやかは苦笑いを浮かべた。

 しばらくの沈黙の後、さやかが再び口を開いた。

「ねえ、まどかはさ」

「うん?」

「自分が……ここじゃないどこかに居るような感覚に襲われることって、ない?」

「ここじゃないどこか……?」

 質問が漠然としすぎていて、どう答えてよいかわからない。

「その、言葉ではうまく説明できないんだけど……そうね……もし、何かに例えるとすれば……海」

「海?」

「そう。果てのない海の中をふわふわと漂ってるような感じ」

「それって……魚みたいな感じってこと?」

「うーん……ちょっと違うんだよなあ……。そこに、自分がいるわけじゃないの」

「…………?」

 話がふわふわしすぎていて、まどかにはどうにも理解できない。

「自分も、何もなくて……けどそこには……すべてがある――」

「さやかちゃん」

 まどかは彼女の言葉を遮った。

 まどかにとっては、話の内容よりも、そのような話をするさやかの方が気がかりである。

「本当に大丈夫?」

「……ごめん、変なこと訊いた。忘れて」

 さやかは笑いながら答えた。

 次の日、珍しい出来事があった。

 仁美が学校を休んだ。風邪だという。滅多に学校を休まない真面目な仁美が休んだのだから、よほど重い風邪なのだろうと、まどかは心配した。

 その次の日も、仁美は休んだ。そして、その次の日も、である。

「珍しいよね、仁美ちゃんが三日も学校をお休みするなんて」

 下校中、まどかがさやかに声をかけた。さやかは相変わらず、ボーっとしている。

「え?」

 さやかは変な声を上げた。

「ねえ、お見舞いに行ってあげた方が良くないかな?」

 まどかが提案すると、さやかはふっと微笑んだ。

「……まどかは、優しいね」

「え?」

 いきなり変なことを言う、とまどかは思った。

「いや、まどかはてっきり、自分のことで悩んでるのかと思ってたから、ちょっとびっくりしちゃって」

 まどかは、無言で俯いた。

「まどかはいつもそうだよね。自分のことなんかそっちのけで、友達の心配ばっかり……」

 さやかはそう言うと、急に宙を見上げて、「……いつも?」と、小声で自分の言葉を復唱した。

「自分のことばっかり考えてたら、余計に気が滅入っちゃうよ」

 まどかは笑みを浮かべながら言った。

 さやかは立ち止まり、鞄を持った手をぐっと正面に伸ばすと、

「よし!行こう、お見舞い。仁美に活を入れてやろうよ」

 と、元気よく言った。

 二人はその後、仁美の家を訪れた。

 母に案内されて、二人は仁美の個室に入った。

 二人が羨むほどの広い部屋と、ガラス越しの高所からの夕景が視界に入る。

 だが、仁美の姿はなかった。

 部屋の中央に、豪華な装飾のベッドが置かれている。

 そのベッドの上に、山のように膨らんだ布団が、何重にも積み重ねられている。

 その山を見て、まどかとさやかは顔を見合わせた。

「仁美ぃ……」

 さやかが山に向かって呼びかけてみるが、山は微動だにしない。

 まどかもさやかも困り果ててしまった。せっかくお見舞いに来たのに、仁美は布団に篭ったまま、顔も見せてくれないのだ。

「仁美……せっかく来たんだから、顔くらい見せてよ」

 困ったという表情を浮かべながら、さやかが山に声をかける。

「うつしてしまうといけないので、このままで結構です」

 布団の山が返事をした。声がこもっている。

「おばさんから聞いたよ……風邪じゃないって」

 まどかが言った。応対してくれた仁美の母から、仁美が風邪を引いていないということを聞いている。

 布団が、わずかに動いた。

「…………もうっ」

 と、吐き捨てるような声が、山の中から聞こえた。

「何か嫌なことでもあった?良かったら、話してくれないかな?」

 まどかが優しい声で呼びかける。

 布団の中から、ふたつの手が出てきた。手は布団の端を掴むと、そのままゆっくりと布団を前方にずらす。そして布団の中から、仁美の顔の上半分が出てきた。

 目が、うるうるしている。やはり風邪なのではないかと案じてしまうほど、顔色がよくない。だが、熱があるという様子ではなく、肌は白く、汗をかいている様子もない。

「……顔色悪いぞ、仁美」

 さやかが微笑みながら言った。

「恭介と、喧嘩でもした?」

 さやかの問いかけに、仁美は首を横に振って答える。

「じゃあ何?何があったの?」

「……言葉に……したくありません……」

 仁美が小声で答えると、再び沈黙が流れた。

「仁美ちゃん、ひとりで抱え込むのは良くないよ。ご家族もクラスのみんなも心配してるよ」

「そうだぞ仁美。あたし達、あんたから話を聞くまで、ここを動かないから」

 二人が言うと、やがて屈したように、仁美は布団を取り除き、上体を起こした。

「……馬鹿みたいだと思われるかもしれませんが、それでも聞いてくれますか?」

 ため息をつきながら、弱々しい声で仁美が言った。

「何でも聞くよ。友達なんだから」

 まどかが答える。

 仁美はまどかに顔を向けた後、視線を落として、ゆっくりと口を開いた。

「……毎晩、同じ夢を見るんです」

「夢……?」

 それから仁美は、繰り返し見るという夢の内容について、二人に語って聞かせた。

 夢の内容は、呆気ないものだった。

 仁美が、仲間と一緒に海に遊びに行く。その中に、さやかや恭介もいる。はじめのうちは、皆楽しそうにしているが、皆で船に乗った後、状況が一変する。恭介が誤って海に落ち、溺れてしまうのだ。仁美は狼狽し、どうすることも出来ない。だが、さやかは違った。迷わずに海に飛び込み、溺れていた恭介を救い出す。だが――。

 代わりに、さやかが死んでしまう。

 仁美は、いまにも泣き出しそうな顔と声で、その悪夢の内容を語り聞かせた。

 それが一度限りの夢であれば、ただの悪い夢と思い、数日後には忘れてしまうだろう。だが、仁美の場合はそうではないらしい。

「……眠りにつくたびに同じ夢が繰り返されるんです……その夢があまりに鮮明で……わたし、眠るのも怖い……」

 まどかは気の毒に思うと同時に、困惑した。同じ悪夢を繰り返し見るというのは、まどかには経験の無いことである。そんな事が実際に起こりうるのか。

 だが、人の想像を超える不条理をこれまで何度も見てきたために、そのような事が起きても不思議ではないと、まどかは次第に思うようになった。しかし、もし起こるとすれば、そこには何者かの意志が関わっているはずである。

「な、なーんだ」

 さやかが笑いながら、素っ頓狂な声を上げた。

「ただの夢で思い悩んで学校休むなんて、仁美にそんなナイーブな一面があったなんて……ねえ、まどか?」

「え?うん」

 ただの夢でないことは、きっとさやかも気づいている。だが、仁美に気を遣って、この場ではさやかに話を合わせることにした。

「笑い事じゃないです。わたし真剣に悩んでるんです」

 仁美がふくれながら言うと、さやかは黙ってしまった。

「わたし……ずっと心の中で思っていたのかもしれない……本当は、わたしよりさやかさんの方が、上条君に相応しいんじゃないかって……」

「ちょ……何言い出すのよ、仁美……」

 さやかは、動揺している。

 仁美は、枕の脇に置いてあった二枚の紙切れを手に取ると、二人に差し出した。

「これ、今度のコンクールのチケットです。上条君から、皆さんに渡すように頼まれていて……わたしは行けそうにないので、お二人とも、代わりに見届けてきてください」

「い、一緒に見に行こうよ。ただの夢じゃない。きっとすぐに収まるから、そんなこと言わないで、早く元気出しなよ、ね?」

 さやかは必死に仁美を励まそうとするが、仁美の表情が変わることはなかった。

 陽が落ちる頃、二人は仁美の家を出た。

 歩きながら、まどかは黙って、さやかの背中を見ている。

 表情は見えないが、背中が、怒りに震えているように見えた。

 さやかが、立ち止まった。

「まどか、ごめん」

「……どうしたの?」

「先に、帰っててくれるかな?ちょっと、用事思い出した」

「でも……」

「……ごめん」

 さやかの声からやり場のない怒りを感じ、まどかは返す言葉を失った。

 さやかは、一人で歩き出した。

 だが、次の瞬間には、まどかは衝動的にさやかの元に駆け寄り、彼女の腕を掴んでいた。

「わたしも連れてって」

 さやかが向かおうとしている場所を、まどかは分かっている。だが、一人で行かせれば、また先日のような無茶をしかねない。それを、放っておくわけにはいかなかった。

「……そっか」

 と、さやかが微笑んだ。

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