終末の物語   作:Wiseman

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第七話 ふたつの信念

 さやかは深呼吸して、部屋の呼び鈴を押した。

 杏子の風見野での生活拠点は、彼女が風見野に帰る前に聞いている。今も同じ場所に潜伏しているなら、きっと扉から顔を出すのは彼女のはずだ。

 心配のあまり風見野までついてきたまどかには、「この前のような喧嘩にはならないから」と言って安心させ、建物の外で待たせている。それでも不安が抜け切らないのか、「何かあったら、すぐにマミさんを呼ぶから」と、釘を刺されてしまった。ここまで心配されては、迂闊にこの前のような喧嘩はできない。

 扉の奥から気怠そうな足音が聞こえて、扉が開いた。顔を出したのは、杏子だった。

「来た理由はわかってるでしょうね」

 気持ちを落ち着かせながら、低い声で、彼女に問いかける。

「……さあな」

 杏子は、しらを切るつもりらしい。だが、それで引き下がるさやかではない。

「仁美が毎晩同じ悪夢にうなされてるの。知らないとは言わせないわよ」

「……被害妄想にも程があるぜ、まったく」

 そう言って、杏子は扉を閉めようとした。さやかは慌てて扉を手で掴み、なおも杏子に詰め寄ろうとする。

「しらばっくれるつもり?あんな真似ができるの、あんたの他にいないじゃない!」

 さやかは扉を抑えていた杏子の手を振り解き、扉を思い切り開放した。

 杏子の部屋に押し入ろうとした瞬間、さやかは視界に入ってきた光景に目を疑い、思わず足を止めた。

 さやかは目を凝らして、部屋の中を観察した。ありふれた賃貸住宅の一室とはまるで違う、異様な光景が広がっている。赤を基調としたその不気味な空間は、果てがどこにあるか判らないほど奥深くまで広がっている。その広さは、建物の外観から推測される部屋の広さとはかけ離れており、この場所だけ物理法則がねじ曲がっていることは、見るに明らかだった。

「……何なのよ、ここ」

 呆気にとられたさやかが、呟くように言った。

「あたしの家だよ……まあ、結界ってやつだな。あたしら、あのバケモノ共につけ狙われてるのさ。身を守る為には、こうでもしなきゃダメなんだよ。まったく、嫌になっちゃうよな。せっかく自由の身になれたってのに、こんな風にコソコソ隠れて暮らさなきゃいけないなんてな」

 杏子が「バケモノ」と呼んでいるのは、おそらく、見滝原に出現している正体不明の異形の魔物達のことだろう。そのバケモノが、風見野にも出現しているということだろうか。杏子達を狙っているという彼女の言葉は、異形の正体を知る上で重要な手がかりになるかもしれない。

 さやかは一瞬、杏子の言葉に惑わされて、彼女に同情の念を抱きそうになった。だが、それを悟られまいと表情を改め、

「フン、自業自得じゃない!」

 と、突き放すような態度をとる。

 今は、それどころではない。ここに来た目的を、忘れてはならない。

「そんなことより仁美よ。これ以上仁美にちょっかい出さないで。あたしはね、あんたとはもう金輪際関わりたくないの。けど、今度あの二人を邪魔するような真似をしたら、その時はあんたを……」

 杏子は目を細めながらそっぽを向いていて、真面目にさやかの話を聞いているようには見えない。その態度が、余計にさやかを苛立たせた。

 やがて、杏子が深くため息をついた。

「さやか、そりゃあ一体誰の言葉だ?」

「はぁ?何言って……」

「それは本当にあんたの言葉かって訊いてんだよ。……自分の心にしっかり目を向けてみろ」

 馬鹿げた質問をしている、とさやかは思った。さやかは今、自分自身の怒りを、杏子にぶつけている。そこに、疑いの余地などなかった。

 杏子が、邪な笑みを浮かべた。

「本当は、志筑仁美のことなんて気にも留めてなかったくせに」

 さやかは一瞬、血の気の引くような感覚に陥った。

「そうだろ?あんたの頭の中にあるのは、あの音楽坊やと、自分のこれからのことだけ。だったらなんで、志筑仁美なんかの心配をする必要があるんだ?恋敵だろ?」

「お前なんかに何がわかる」

 さやかは再び、血が沸くような怒りを覚えた。

「あたしの気持ちなんて、何も知らないくせに……」

「わかってねぇのはあんたの方だ、さやか」

 杏子は挑発的な笑みを浮かべながら、さやかに詰め寄る。

「いい加減、自分の本当の気持ちを認めろよ。あたしはな、この目ではっきりと見たんだ」

 さやかは嫌な予感を覚えて、思わず後ずさりする。

「あの色男に言い寄られたときの、あんたの慌てふためく顔……」

 嫌な予感が、的中した。この悪魔は何くわぬ顔で恭介に化けてさやかを惑わし、さやかの反応を観察していたのだ。そのことを思い出した瞬間、怒気が湧き上がった。

「あの顔を本物の上条に見せてやりたかったなぁ。あいつ、どんな反応するだろうな」

 怒りが、頂点に達した。

 次の瞬間には、怒りは強烈な平手打ちへと変わって、杏子の頬を直撃した。パンッという乾いた音が、周囲に響く。

 杏子は押し黙って、赤く腫れた頬を手で押さえている。が、しばらくすると、再び笑みを浮かべた。

「ヘッ、やっと気づいたか」

 そう言って顔を上げ、さやかの顔を見る。

「あたしが憎いか?さやか」

 答えるまでもない。言葉の代わりに射すような眼差しで、さやかは応えた。

「あたしが許せないだろ?今すぐぶっ潰してやりたいって思っただろ?けど無理なんだよ。あんたがどう足掻いたところで、あたしには勝てない。あたしの魔力は底なしだからな。けど、方法が無いわけじゃないぞ、さやか」

 そう言って笑いかける杏子を見て、さやかは彼女の本意を悟った。

「あんたもこの力を受け入れればいい。なあに、ほんのちょっと、苦痛に耐えるだけでいい。その後に待ってるのは自由だ。あたしをぶっ潰すも良し、あの坊やを力づくで奪うも良し。あんたの心のままに生きればいい。さやか」

 誘惑するような口調で、杏子は言葉を続ける。

「あんたはもう十分に使命を果たした。これからは、自分の為だけに生きろ」

 さやかは振り返って、杏子に背中を向ける。これ以上、彼女の言葉を聞きたくなかった。

「魔法少女の使命は、死ぬまで終わらない」

 さやかは言った。奇跡を起こして魔法少女になると決めたとき、人々の幸せのために尽くすと、さやかは心に誓った。今になって、それを覆すつもりはない。

「あんたはその使命から逃げた。あたしは、あんたを許さない。こんど仁美に何かしたら…………殺す」

 そう言い残して、さやかは杏子の結界を脱した。

 

 

 後日の放課後、さやかは再び仁美を見舞った。

 今回はさすがに、布団に篭って面会拒絶という反応は見せず、普通に出迎えてくれた。

「調子はどう?悪夢はまだ続いてる?」

「……夢は、収まったみたいです。けど、まだちょっと、眠るのが怖くて……」

「きっともう大丈夫だよ。ちゃんと睡眠とらないと……そんな顔してたら、恭介に嫌われちゃうぞ」

 さやかは、ひとまず安堵した。同時に、杏子が意外なほどあっさりと身を引いたことに対する戸惑いも感じている。

「わたし……すっかり自信を無くしてしまったみたいで……」

 仁美は俯きながら、弱々しい声で言う。

「仁美……」

「……ずっとわかっていたんです。上条君が恋しているのは、わたしじゃなくて、世界に名を轟かせる偉大な作曲家や演奏家たち……。二人でお話する時も、上条君、いつも音楽の話をするんです。わたしも、色々と勉強しているつもりなんですが、時々、話についていけなくなることがあって……」

 仁美の悩みを聞いていたさやかは、思わず、彼女に共感を覚えた。まるで、過去の自分を見ているようである。

「それ、わかるわー」

 さやかは思わず、笑みを浮かべた。

「え?」

「あいつさ、そういうとこ、全然デリカシーないよね。相手のこととか全然考えないで自分の好きな話ばっかりするの。聞いてる方が疲れちゃうよ」

 さやかは茶化すように、自分の本心を打ち明けた。無論、仁美を元気づけたいという気持ちもある。

「……なんだか、意外です」

 仁美の顔から、笑みがこぼれた。

「え?」

「さやかさんは、上条君とは長い付き合いだから、そんなことは無いって思ってたのに……」

「あぁもう、全っ然っ」

 さやかは久し振りに、楽しい気分になった。誰かと同じ気持ちを共有するのは、楽しいものである。

「仁美、前にあたしに言ってたでしょ?自分に嘘はつかないって。あの時の仁美が本気だったから、あたし、応援してあげたいって思ったの。ねえ……今でもあの時と同じこと、胸を張って言える?」

 さやかが問いかけると、仁美は下を向いて、顔を紅潮させた。目が、今にも泣き出しそうなほどに潤んでいる。

「大好きです。上条君のこと……」

 仁美のその言葉に、迷いは感じられなかった。さやかは彼女の言葉を聞いて、もはや自分に勝ち目はないと、はっきりと感じるようになった。

「さやかさんは、これからも、わたし達のこと、応援してくれますか?」

「うん」

 さやかは、静かに頷いた。

「わたし、心に決めていたことがあるんです」

「何?」

「わたしって、小さい頃から色んな習い事をやって来たでしょ?ピアノにお琴……」

「お茶と日本舞踊と……あとお花!」

 さやかは指を折りながら、仁美の習い事を思いつく限り挙げていく。いったい何種類の習い事を受けていたのか、さやかには見当もつかない。

「どれも親に言われて続けてきたものばかり……。けど、わたしが心から楽しいと思ったものはひとつだけ」

 仁美はそう言って、真面目な顔をした。

「わたし、これからはピアノだけを続けようって思っているんです」

 新たな決意ともいうべき仁美の言葉に、さやかは思わず息をのんだ。

「もちろん、今から必死に勉強しても、上条君のようになれないのは分かっています。けど、それでもいいんです。音楽を学ぶことで、少しでも彼に近づきたい。家の者は何て言うかわかりませんが、何を言われても、わたしはやるつもりです。そしていつか、二人で一緒に演奏するのが夢なんです。いつ叶うかわからないけれど……。さやかさんにも、聞いて欲しいって思ってるんです」

「それ、聞きたい」

 衝動的に、さやかは呟いた。話を合わせようと思ったのではなく、本気で、二人の演奏を聞きたいと思ったのだ。

「すごく聞きたい。二人の演奏するとこ。今すぐにでも」

「今は無理です」

 仁美が笑いながら言った。

「コンクールが近いんですから。無理を言ってはいけません」

「はぁ……」

 その後、日の暮れるまで、さやかは仁美と雑談をかわした。

 家に帰ろうと立ち上がったとき、仁美がさやかの手を握り、

「ありがとう」

 と言った。その顔が、以前の仁美に戻ったような気がして、さやかは安堵しながら彼女の部屋を出た。

 

 

 家に帰った後、シャワーを浴びて、さやかは自室のベッドに仰向けになった。

(また、嘘ついちゃった……)

 さやかの心中に、ひとつの後悔があった。二人の演奏を聞きたいと思ったのは、本当である。だが、魔法少女として、いつ果たせるかわからない約束など、すべきではなかった。マミからも「できない約束はするな」と教育されていた。にもかかわらず、いつか二人の演奏を聞き届ける、などという約束をしてしまった。そのことを、今になってさやかは後悔している。

(ひとつ嘘を重ねるごとに、みんなとの距離も離れてゆく。もう、あの頃には戻れないんだ……)

 さやかの脳裏に、病室で恭介と談笑していた頃の情景が浮かんだ。いま思えば、恭介との距離が最も近かったのは、あの頃だったのかもしれない。

(何考えてるんだろう、あたし……あの頃に戻れたら、なんて……そんなの、自分の願いに対する裏切りでしかないのに……)

 魔法少女になると決めたとき、覚悟していたはずだった。恭介と共に人生を歩むことはできないと、受け入れていたはずだった。だから、仁美の恭介への想いを知ったときも、彼女を応援してあげたいと思った。仁美と恭介に、幸せになって欲しいと願った。その仁美が、思い悩んだ末に、恭介との未来を必死に思い描こうとしている。ピアノを学ぶことで、彼に近づきたいと真剣に考えている。

 もはや自分の出る幕はないと、さやかは思った。さやかには、恭介との未来を思い描くことができない。残された道は、魔法少女としての使命を全うすることだけである。

 そこまで理解しているはずなのに、自分の中にある邪な感情が、それを否定しようとする。心の奥底でくすぶっていた想いが、杏子の甘言によって火を上げようとしているかのようであった。

 さやかは、自分という存在がわからなくなり始めていた。いったい、自分の本当の気持ちはどこにあるのか。本当の自分はどこにいるのか。

 さやかは、仁美から貰ったコンクールのチケットを手にとり、頭上に掲げた。

(あたしがあの時なにもしなかったら、この未来だって手に入らなかったんだ……これで良かったんだよ……)

 そう考えた自分の心は、果たして本心だろうか。

 紙片をそっと胸に当てながら目を閉じ、さやかは眠りについた。

 

 

 最近様子が変だ、とまどかに言われるようになったのは数日前からであるが、それを自覚しはじめたのは、杏子との決闘の後からであったと、さやかは記憶している。

 今になって思い出してみても、あれはやはり奇妙な出来事だった。まどかが一瞬、覚醒したとも受け取れるような不思議な現象――。まどかを包む眩い光を目の当たりにした時、意識の奥底にある蓋が突然開いたような、不思議な感覚をさやかは得ていた。

 あれ以来、眠りにつくと、何処ともわからない空間を漂っているような、不思議な夢を見ることがよくある。悪夢ではなく、むしろ心地よいと感じるような夢である。

 眠っているときだけでなく、目覚めているときも、夢を見ているような、奇妙な感覚に陥ることがある。そんなとき、他人の目から見ると、ボーっとしているように見えるらしい。

 この夜も、同じ夢を見ていた。だが、いつもの夢とは少し様子が違う。いつもは他者の存在を感じないが、この時は、自分以外の誰かの存在を、間近に感じている。だが、その姿を視覚的に捉えることができない。

(見える……過去と未来のすべてが見える……)

 その存在に語りかけるように、さやかは言葉を発した。一体、自分は何の話をしているのだろうか。

(すごく不思議で……けどちょっと、寂しい感じ)

「どうして?」

 存在が、さやかに問いかけた。女性の声だった。

(生まれたときから、その人の人生がすべて決まってるって……そんな風に思ったら、なんだから寂しいなって、思ったの)

「そうとは限らないよ」

(え……?)

「すべてを覆すほどの強い願いが、宇宙の因果を打ち破って、その子の人生を大きく変えるかもしれない」

(まどかが、そうしたみたいに?)

「うん」

 夢の中で、さやかはその女性をまどかと呼んだ。だがそれも、今のさやかにとっては驚くことではなかった。

「そのとき何が起こるか……わたしにもわからないんだ」

 まどかが言った。

 自分は今、まどかと話をしている。その思いが確信に変わった瞬間、さやかの心の中に、大きなざわめきが起こった。

 まるで流星雨のように、自分とは異なる人生を歩んできた別の人物の記憶が、次から次へと降ってくる。だが、記憶は断片的で、記憶の主の人物像はなかなか見えてこない。しかし、記憶の中に登場する人物は、驚くほどに、さやかの知る人物ばかりであった。まどかがいる。仁美がいる。恭介がいる。マミがいる。

 やがて、さやかは確信した。これは他人の記憶ではなく、紛れもなく、自分自身の記憶である。

 夢から醒めた後も、さやかはしばらくの間、脳裏に降り続ける別の自分の記憶をどう処理してよいかわからず、茫然としながら天井を眺め続けた。

 やがてベッドから飛び出し、さやかは衝動的に、カーテンを開けた。

 空を見上げると、雲の切れ間に、月が浮かんでいた。

 月は、半円であった。その造形を見て、さやかは唖然とした。その形に、これまで何の疑問も抱いてこなかった自分に対して、である。

 やがて、月はさやかの目から逃れるように、雲の向こうに隠れて見えなくなってしまった。

 

 

 さやかは慌てて着替え、家を飛び出した。

 目指したのは、まどかの家である。だが、彼女に会って何を話すかなど、まったく考えていない。ただ衝動的に、まどかと話をしなければと思い、さやかは彼女を目指して走り続けた。

 途中、雨が降り始めた。雨粒がアスファルトを打つ音が次第に大きくなり、やがてさやかの足音をかき消すまでになった。だが、さやかは足を止めなかった。

 まどかの家の前に辿り着き、さやかは呼び鈴に指を近づけた。

 呼び鈴を押そうと手を伸ばした瞬間、手が震えた。

 押せば、きっとまどかが応じる。そのとき、まどかはどんな反応をするだろうか。びしょ濡れの自分の姿を見て、血相を変えて中に招き入れるに違いない。その後で、いったいどんな話をすればよいのか。「まどかは、本当は、この世界の人間ではない」とでも伝えればよいのか。

 そんなことを、言えるはずがなかった。まどかは間違いなく、この世界に生きている。優しい家族がいる。友達がいる。その人生をかなぐり捨てて、皆を助けて欲しいなどと、軽々しく言えるはずがない。

 さやかは、呼び鈴に添えた手を、そっと下ろした。

 その足で、さやかは近隣にあるファミリーレストランに寄った。

 席に座ると、濡れた身体も拭かず、両肘をついて額に手を当て、放心するように物思いに耽った。髪から滴り落ちる水滴が、テーブルに小さな水溜りをつくっていた。

 さやかの眼前に、二本の道が伸びている。どちらの道も、平坦ではない。一方は、天上へと続くかのような、果てしない上り坂である。もう一方の入り口は下り坂だが、その先は霧がかかっていて見えない。だが、一つだけ確かなことは、二本の道はこの先決して交わることはないということである。そして、いずれを選んだとしても、引き返すことはできないだろう。

 さやかは、岐路を前にして足がすくみ、次の一歩を踏み出せずにいる旅人のようであった。こんなとき、道を指し示してくれる同行者がいれば――。

 その時になって、さやかはようやく思い出した。自分には、同じ道を共に歩んできた仲間がいる。

 さやかは携帯電話を取り出し、電話帳から一人の名前を探り出し、発信ボタンを押した。

 相手は、呼び出しに応じてくれた。

「もしもし?」

 スピーカーから、マミの声が聞こえた。

「あ、マミさん。こんな時間にごめん」

「平気よ。……何かあった?」

「うん……色々あって……最近、ほんとに、色々あってさ……」

「……そうね」

 マミが、ため息をついた。

「あたし、前にマミさんに言ったことがあったよね?マミさんみたいな、正義の味方になりたいって」

「ええ」

「あの日から、あたしずっと、正義を信じて戦ってきた。迷ったことなんて一度もなかった。……けど今は……何が正しい事なのか、よくわかんなくなっちゃった……」

 言葉を詰まらせながら、さやかは自身の迷いを打ち明けた。打ち明けたと言っても、こんな漠然とした伝え方では、マミもきっと困惑するだろう。

 短い沈黙の後、マミが口を開いた。

「……詳しい事情は、話して貰えなさそうね」

「ごめん。今はまだ言えない」

 さやかの知る真実は、マミにとってもきっと辛いものとなる。だから、さやかは打ち明けようとはしなかった。

「ねえ、美樹さん」

「……うん?」

「あなたはどうして、魔法少女になったの?」

「え?」

 さやかは答えに窮した。その理由は、マミも知っているはずである。

「確かにあなたには、どうしても叶えたい願いがあった。けど、それだけではなかったはずよ。あなたは……みんなの幸せを願っていた」

「みんなの、幸せ……?」

「そう。自分の手に入れた幸せを、他のみんなにも分け与えてあげたいって……あの日、目を輝かせながら、あなたは言っていた。……私はね、迷いそうになった時は、一番最初のときのことを思い出すようにしているの。そうすると、答えが見えてくるのよ。自分が何のために生きているのか、何のために戦っているのか。だから美樹さん。あなたが迷った時の答えは、あなた自身の中にあるはず」

 心のざわめきが次第に落ち着いていくのを、さやかは感じていた。左右に振れていた方位磁針が、ひとつの方向を指し示そうとしているような、そんな感覚を得ていた。

「ありがとう、マミさん。なんだか少し、楽になったかも」

 気持ちが落ち着くと同時に、さやかはふと、別のことを思い出した。

「ねえ、なぎさは?あの子は、元気にしてる?」

「…………」

 スピーカーから、ため息が聞こえた。

「……会っていないわ」

 その答えは、さやかを落胆させた。なぎさはきっと、彼女自身も気付いていない願望を、心の中に抱え込んでいるに違いない。しかし、今のままでは、それを果たすことも出来ないだろう。

「それは……あの子もきっと、寂しがるよ。ねえ、たまにはあの子の話も聞いてあげて。あの子、マミさんの力になりたがってるだろうから」

「……考えておくわ」

 おやすみの挨拶をして、さやかは終話ボタンを押した。

 その後、さやかはアルバムを開いて、保存されている写真を眺めた。そこには、小さい頃のまどかとさやかを収めた写真が、何枚も保存されいていた。

 さやかはふと、この記録も、自身の記憶も、すべて作り物なのではないかという疑念に駆られた。しかし、すぐにそれを否定した。まどかに関する記憶は、紛れもない本物である。

 さやかは電話でのマミの言葉を思い出し、心の中で、その言葉を反復させた。

(みんなの、幸せ……)

 それが自分の答えであるのなら、自分が進むべき道はひとつである。

 

 

 道を選ぶ前に、どうしても見届けておかなければならないことがあった。

 恭介のコンクールである。その日が、ついにやって来た。

 彼にとっては退院後の初の晴れ舞台であり、さやかにとっては、夢に見るほど待ちわびた瞬間だった。この日のために戦ってきたといっても過言ではなかった。

 恭介が用意してくれたホールの最前席に、さやかは仁美と隣り合って腰掛けた。

 仁美は、以前と比べてだいぶ顔色が良くなっていた。さやかは安堵したが、心の底から晴れやかな気分とまではいかなかった。

 さやかは、自分の隣の空席に目を配った。そこは、まどかのために用意されていた席だった。電話越しに元気のない声で「考え事をしたい」と言って欠席することを伝えてきたまどかに、さやかは返す言葉を見つけることができなかった。恭介の発表が始まるまでの間、さやかはその事ばかりを考えていた。

 やがて、恭介の名前と所属校が読み上げられた。拍手が起こるとともに、恭介がステージの隅から現れ、中央に立った。

 恭介が右手に持った弓を上げると、ホールは静寂に包まれた。弓が、そっと弦に添えられた。

 さやかはふと、隣の仁美に目を向けた。前傾姿勢で、両手でスカートの裾をぎゅっと握り、その瞳は寸分のぶれもなく恭介にのみ向けられていた。その姿が愛らしくて、さやかは思わず笑みをこぼした。

 やがて静寂の中に、さやかの聞き慣れた音色が響いた。

 さやかが初めて恭介の演奏を聞いたとき、二人はほんの小学生だった。その頃に比べれば、恭介の演奏技術は格段に向上しているのだろう。だが、子供が自分の成長に気付かないのと同じで、さやかにとっては、恭介の奏でる音色は常に変わらず美しく、そして常に世界一であった。

 恭介の演奏は高く評価された。このまま行けば、さらなる大舞台が彼を待っているだろう。そう考えただけで、さやかの胸は高鳴った。その舞台をさやかは見届けられないかもしれないが、この日、大勢の前で演奏する彼の姿を見ることができただけで、さやかは充分に満足だった。

「今日の演奏、とても素敵でしたね」

 会場を後にする途中、安堵するような声で仁美が言った。

 一方のさやかは、もどかしい気持ちであった。仁美に頼みたいことがあったのだが、それをなかなか言い出せずにいる。

「……仁美、ごめん」

 どう話を切り出して良いかわからず、さやかはいきなり謝るところから始めた。

「どうかしました?」

「うん、その……こんなことを頼むのは無神経だってわかってる。けど、頼みがあるの」

「…………?」

「少しの間だけでいいから、その……恭介を、貸してくれないかな」

 仁美は急に真顔になり、しばらく黙り込んでしまった。頼んだ後で、さやかは後悔した。

「やっぱり、ダメだよね……」

 さやかは視線を下に落とした。

「断る理由なんてありませんわ」

 仁美が、笑みを浮かべた。

「お友達じゃありませんか」

「仁美……」

「わたし、今日は一人で帰りますから、上条君と、ゆっくり話をしてあげてください」

「ありがとう、仁美」

 さやかは感謝を告げた後、仁美と別れ、恭介のもとに走った。

 

 

「今日の演奏、すごく良かったよ」

「うん、ありがとう」

 夕刻、コンクール会場の屋外広場を歩きながら、さやかと恭介は言葉を交わした。

「なんかさ、久しぶりだよね、こんな風に二人で話をするのって」

 恭介が微笑みながら言った。彼の言う通り、退院以来、二人だけで話をする機会はほとんどなかった。

「なんとなく分かってたんだ。仁美に遠慮してるんだろうって。けど、あまりさやからしく無いんじゃないかな、そういうの……」

「うん……」

 話をしなくなった理由はそれだけではなかった。しかし、その理由を彼に明かすことはできない。

「そういえば、さやかにはちゃんとお礼を言ってなかったよね」

「え?」

「だって、さやかはずっと、入院中の僕のことを励まそうとしてくれてたのに」

「い、いいって、そんなの。あたしなんて、むしろ邪魔してただけみたいなもんだし」

「そんなことないよ。さやかのおかげで退屈しないで済んだし。だからその、ありがとう」

「うん……」

 恭介らしい感謝の仕方だと思い、さやかは安堵した。

 広場の噴水が夕陽を反射し、きらきらと光を放っている。その脇を、二人は並んで歩いた。

 やがて、恭介が口を開いた。

「さやかはさ、前に僕に言ってたよね?奇跡も魔法もあるんだって」

「うん」

「本当にその通りだよね」

 恭介はそう言って自分の左手を前に出し、まじまじと見つめた。

「とても珍しい事例らしいんだ。だから、今でも時々、病院に行って検査して貰ってるんだけど、何も判らないんだって、治った理由」

 さやかの心中に、再びざわめきが起こった。断ち切ったはずの迷いが、泡のように心の奥底から立ち上がってきたのである。

「さやかも不思議に思うだろう?足よりも症状が重かったはずの手が先に治っちゃうなんて」

 今この場で、すべてを覆すことのできる魔法の言葉がある。その言葉を伝えたとき、彼はどんな反応をするだろうか。さやかこそが、彼の腕を治した恩人だと知ったとき、彼は何を言うだろうか。

 悪魔の微笑む顔が脳裏に浮かび、次第に胸の高鳴りを抑えられなくなる。その悪魔は、杏子のような顔をしており、またさやかのような顔をしていた。

「ずっと思ってたんだ。あれはただの奇跡なんかじゃなくて……」

 悪魔が自分の背後に立ち、今にも背中を押そうと両手を構えている。「言え、言え」と囁く声が幻聴のように脳裏に響く。

「何か……魔法のような力が……」

 恭介の言葉を遮るように、さやかは恭介の前に立ち、彼の両肩に手を添えた。

 俯いたまま、さやかは胸の高鳴りを必死に抑えようとしていた。

「もういいじゃん。そんな過去のこと」

「え?」

「恭介は、これから先のことだけ考えてればいいの。あたしの夢は、恭介に最高の演奏家になってもらうことなんだから」

 さやかの声は、かすかに震えている。

「そんな風に過去ばっかり見てウジウジしてたら、あたしの夢まで遠退いちゃうよ」

「さやか……」

「今日は、そのことを伝えたかった」

 さやかは肩から手を離して、恭介に笑いかけた。

 振り返って駆け出し、恭介の前を去ろうとするが、すぐに足を止め、再び恭介を見た。

「ねえ、知ってた?仁美、ピアノの勉強するんだって」

「え……?」

 恭介は、軽く驚いていた。その反応を見るに、おそらく知らないのだろう。

「いつかあたしにも聴かせてよね。二人の演奏するとこ」

 再び振り返って、さやかは走った。恭介の視界から消えるまで、走り続けた。

 後悔は、していない。これが、さやかの選んだ道である。

 だが、涙が溢れてきた。さやかは立ち止まって、人目のつかない路地に入り、しゃがみ込んで泣き続けた。嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、さやか自身にもわからない。

 乱れる気持ちを落ち着かせて、さやかは携帯電話を取り出した。まどかの名前を選び、発信ボタンを押した。彼女の声が聞きたくなったのだ。

 だが、電話は繋がらず、圏外を告げるメッセージが虚しく流れた。まどかはきっと、家で塞ぎ込んでいると思っていただけに、さやかは困惑した。

 やがて、さやかの脳裏をひとつの直感が駆け巡り、衝動的に立ち上がった。予感が当たっているとすれば、自分はこんな場所で泣いている場合ではない。

 

 

 

 

   ――――

 

 外の光が、やけに眩しい。

 まどかはそう感じ、自室のカーテンを閉めた。外の光が眩しいなどと、まどかはこれまで感じたこともなかった。

 薄暗くなった部屋の中で、ベッドに突っ伏した。

 さやかと仁美からコンクールに誘われていたのに、断ってしまった。今のまどかは、とても遊興に浸る気分にはなれなかった。

(壊れてゆく……みんなの日常が……みんなの幸せが……)

 魔法少女が過酷な運命を背負っていると知っても、まどかは、彼女達が幸せになることを望んでいた。だが、その願いは打ち砕かれてしまった。さやかと杏子と、三人で楽しく学び、遊んでいた日々が、遠い昔のように感じられる。あの頃には、もう戻れないのだろうか。

 詩花は見滝原に来たために命を落とし、杏子は道を違え、さやかと杏子は仲違いしてしまった。そのすべてが自分のせいなのではないかという思いを、まどかは拭い去ることができずにいる。

 すべては、自分のせいかもしれない。だからこそまどかは、異変の真の原因を突き止めたいと思っている。その気持ちは、マミもさやかも同じである。だが、この数日間、事態はまったく進展していない。

 まどかは起き上がり、部屋に置いてあった赤いリボンを手に取った。

 進展しないのなら、自ら行動を起こすしかない。そう思い立ち、まどかは家を飛び出した。

 家を出て数十分、Y字に別れた道路の角で、まどかは足を止め、目の前に建つ石造り風の建造物を見上げた。

 石材でできた表札は無造作に削られた跡があり、そこにかつて何が書かれていたか、判別することはできなかった。だが、クラス名簿が示す暁美ほむらの住所は間違いなくこの場所である。

 まどかは深呼吸し、家の呼び鈴を鳴らした。

 扉がわずかに開き、暁美ほむらが顔を見せた。

「話があるの。入っていいかな」

 ほむらは嫌な顔もせず、黙ってまどかを中に招き入れた。

 家に入るとすぐ、薄暗い下り階段が視界に入った。

 無言で階段を下りて行くほむらの後を追ううちに、まどかは次第に不安になった。その階段は、底が見えぬほどに延々と続いている。

 やがて、広い空間に出た。まどかは、足を止めた。

「ここは……?」

 ほむらは足を止めると、まどかに背を向けたまま素っ気なく、

「私の家よ」

 と返事をする。

 家と呼ぶには、あまりに異様な光景だった。そこは、五階分ほどの高さの天井と壁に仕切られた広大な部屋だった。その中に、無数の金属製の棚が並んでおり、そこには大小様々な銃火器が整然と並べられている。部屋は全体的に薄暗く、何枚かの天窓から差し込む淡い光が、部屋の中をかすかに照らしていた。

 いきなりこんな場所に案内するということは、もはや自分の正体を隠すつもりもないということだろうか。

「あなたが悪魔だっていうのは、本当?」

「……そうね」

 落ち着き払った口調で、彼女は答える。

「他に適当な表現が思いつかないから、そう呼んでくれて構わないわ」

 家の扉をくぐる前から感じていた恐怖心が、ここに来て一層大きくなった。だが、逃げ出すわけにはいかない。彼女に、どうしても確認しなければならないことがある。

「訊きたいことはそれだけ?」

 ほむらが尋ねた。

「もっと他に訊きたいことがあって来たんでしょう?可能な範囲で答えてあげるわよ。……佐倉杏子のこと?それとも、百江なぎさのこと?」

「……しいちゃんのこと」

 ほむらは背を向けたまま、視線だけをまどかに向けた。

 まどかは、持参した赤いリボンを右手に握り締め、その手を前に差し出す。

 まどかが手の力を緩めると、リボンはまどかの手を離れて冷たい床へと落ちた。色々と考えた末の、まどかなりの絶交宣言である。

 ほむらは表情を変えることなく、落下するリボンを目で追った。

「あなたがしいちゃんを殺したっていうのは本当?」

 まどかが問うと、ほむらは視線を逸らして腰に手を当て、何かを考え込むように沈黙した。

「……巴マミね」

 ほむらが、ボソリと呟いた。

「美樹さやかにばかり気を取られていたけど、普通に考えたら、最も警戒すべきなのは彼女の方よね……」

「じゃあ、本当なの?」

 ほむらの答えは、まどかを大きく失望させた。やがて怒りが恐怖心を上回り、声を震わせながら彼女に問いかけた。

「貴方ももう知っているんでしょう?魔法少女の運命を。彼女は魔法少女としての使命を全うし、〈円環の理〉に導かれ、この世から解脱した。私はただ、そのときを少し早めてあげただけ」

「どうして?何の権利があってそんなこと……」

 まどかが問うが、ほむらは答えない。

「確かに、あの子は魔法少女だった。……けど、生きたいと願う気持ちはみんなと一緒だった。なのに、それを奪っておいて……どうしてあなたは、そんなに平然としていられるの?」

 まどかは、はっきりと覚えている。命と引き換えにしてでも叶えたい願いはあるかと詩花に尋ねたとき、彼女は、そんなものはないと答えた。それは紛れもなく、生きることを望む普通の人間の感情だった筈だ。

「……あの子は」

 ほむらが口を開いた。

「貴方に危害を加えようとしていたのよ」

「それは、わたしがこの街の異変の原因だったから……。あの子はただ、わたしの潔白を証明したかっただけなのに……なのに!」

 声を荒げた後で、まどかは気持ちを落ち着かせるように視線を落とし、しばらく沈黙した。

「けど分かってるの……本当はわたしが悪いんだって」

 まどかは駆け出し、武器の収納棚に収めてあった拳銃のうちの一丁を手にとった。その黒い鉄の塊は、まどかの想像した以上の重さだった。

 重量感に戸惑いつつも、まどかは両手で拳銃を持ち上げ、銃口を自分の頭部に向けた。

 ほむらが、静止したまま目を大きく見開いた。

「全部、わたしのせいなんでしょ?」

 まどかは、声を張り上げた。

「わたしがいなくなれば、みんなこれ以上、苦しまなくて済む……」

「誰も……」

 震えた小さな声で、ほむらが呟く。

「誰も、貴方のせいだなんて思ってない!」

「そう!みんな優しいから……わたしを責めたりしない。けど……だから辛いの」

 ずっと包み隠していた本心を、まどかはこの時、初めて他者に対して吐露した。

「あなたは知ってたんでしょ?お願いだから、知っていることを話して!でないと、わたし……」

「やめて……」

 ほむらは消え入るような声で懇願すると、まどかに近づいて膝をつき、すがるように、そっとまどかの拳銃に手を添えた。

「わかった。私の知っていることを話す……話すから、だからお願い……それを捨てて」

 まどかは困惑した。一人の少女を手にかけたというのが信じられないほど、ほむらは取り乱していた。

 言われるがままに、まどかは拳銃を握った手を緩めた。拳銃は、ほむらの手に渡った。

 次の瞬間、閃光と共に、一発の大きな銃声が鳴り響いた。

 ほむらが、右手に握った拳銃で自分の左手の甲を撃ち抜いたのだ。

 正気とは思えない行動にまどかは混乱し、思わず後ずさりした。

「何、してるの……」

「戒めよ」

 ほむらはそう呟いてゆっくりと立ち上がった。左手の傷は、瞬く間に再生した。

「貴方、〈円環の理〉のことはもう知ってるわね?」

 ほむらが尋ねる。

「うん。魔法少女の、魂を救う存在だって……」

「それは、半分は正しいわ」

「え……」

「〈円環の理〉というのはね、魔法少女の魂を救済する……ただそれだけの為に存在する概念的存在だった。だから、いかなる人間も、彼女を見たり、触れたりすることはできず、彼女もまた、この世界に干渉することはできない。けれど、ある出来事がきっかけで、彼女はそれを可能とする手段を手に入れてしまった」

 ほむらはそう言って、まどかの目を見据えた。

「それが貴方、鹿目まどかよ」

「どうして、わたしが……?」

 なぜ自分なのか。それこそが、まどかにとっては最も重要な疑問であった。

「それは分からない」

 彼女の答えは、まどかを大きく落胆させた。

「けれど、彼女は貴方という存在を通してこの世界に干渉し、自らの使いを送り込んでいる。貴方が目にしてきた異形の魔物達……」

「あれが……」

 まどかは不思議な気分であった。ほむらのその話を聞くのは、これが初めてではないような気がする。だが、最初に聞いたのがいつであったか、思い出せない。

 その時になって急に、まどかは夢の中で出会った少女のことを思い出した。夢の内容は今でも思い出せないが、少女が悲しんでいたことだけは覚えている。

「魔獣がこの街から消えたのも、その影響よ」

 付け加えるように、ほむらは言った。

「どうしてそんなこと……。〈円環の理〉は、魔法少女を救う存在なんでしょ?なのにどうしてこんな、みんなを苦しめるようなことをするの?」

 ほむらは視線を落とし、しばらく沈黙した。

「私が、盗んだのよ」

 再び、彼女は口を開いた。

「彼女の大事なものを……」

「盗んだ?」

「その結果、彼女は見失ってしまったのよ。自分が何者なのか、何のために魔法少女の魂を救い上げているのか」

「じゃあ、あなたが盗んだものを返せば、この異変は収まるの?」

 まどかが問うと、彼女は急に顔を上げ、射るような視線をまどかに向けた。その眼光に圧倒され、まどかは思わず後ずさりした。

「返す必要なんてない。そんなことをしなくても、この異変を終わらせることは可能よ。〈円環の理〉が、もう貴方に干渉できないようにすればいい」

「そんなことができるの?」

「私ならできる」

「どうやって?」

「それは……」

 何かを答えかけた後、ほむらは口をつぐんだ。瞳がかすかに震えている。

「それは、貴方の知る必要のないことよ」

「え……」

「そうよ。貴方は知らなくていい。今話したことも、これまで見てきたことも、貴方は忘れて、元の暮らしに戻る……」

 そう言いながら、ほむらはゆっくりとまどかに歩み寄る。

 彼女への怒りに駆られるあまり、まどかは重要な事を忘れていた。暁美ほむらは、他者の記憶を自在に操ることができる。

「やめてっ!」

 まどかは両手で頭を押さえてしゃがみ込み、抵抗の素振りを見せる。

 その後、長い沈黙が流れた。

 自分は記憶を書き換えられてしまったのだろうかと、まどかは考えた。だが、すぐにそれを否定した。この場で交わした会話の内容を、今でもはっきりと覚えている。

 まどかはゆっくりと顔を上げた。まどかを見つめるほむらの表情に、かすかな焦りが見える。

「どういうこと……」

 その焦りを見て、まどかは、記憶操作が彼女の思い通りに運んでいないことを悟る。

「そう、貴方が邪魔をしているのね。そうまでして、私の邪魔をしたいの?」

 苛立ちの込められた低い声で、ほむらが言った。

 まどかは、その言葉が自分に向けられているのか、自分以外の誰かに向けられているのか分からず困惑する。

 次の瞬間、何処からともなく赤い円筒状の物体が飛んできて、二人の間に割って入った。

 まどかは目を凝らして、その物体を目で追った。物体の正体は、消火器だった。そう認識した直後、飛来した剣が消火器に突き刺さり、二人の周囲は白い粉煙に包まれた。

 気がつくと、まどかは仰向けの格好で、何者かの両腕に抱きかかえられていた。

「まったく、一人であいつの処に乗り込むなんて、無茶しすぎだよ、まどか」

「さやかちゃん……」

 まどかが視線を上に向けると、微笑むさやかの顔が見えた。魔法少女の姿をしている。

 さやかは、抱きかかえていたまどかを降ろすと、暁美ほむらに視線を向けた。

「戸締まりを忘れてるわよ。不用心ね」

「そうね。けど、こんな風には考えなかったの?『自分を誘い込むための罠だ』って」

「お生憎様。あたし馬鹿だから、そういうことは深く考えないの」

「……で、何の用かしら」

 さやかの視線に応じるように、ほむらもまた、彼女に冷たい視線を向けた。

「あたしがここにいる理由はひとつ。あんたが奪ったものを取り戻すため」

 さやかが答えると、ほむらは何かに驚くように目を見開き、瞳を震わせた。

「貴方、思い出したの?」

 さやかは答えることなく、まっすぐな視線を彼女に向けている。

「いいえ……そんな筈は……」

「報いを受ける時が来たのよ。だから覚悟して頂戴、暁美ほむら」

 睨み合いの後、冷静さを取り戻した様子のほむらが口を開いた。

「貴方いま、私の奪ったものを取り戻すと言ったけど、それが何を意味するか、わかっているの?」

「わかってるわよ、そんなこと。そして、あんたが全力でその邪魔をするだろうってことも」

「だから私に挑もうというの?そんな状態で?貴方のソウルジェム、既にかなりの穢れを溜め込んでいるようだけど、そんな状態で、私に勝てると思っているの?」

 ほむらの指摘する通り、さやかのソウルジェムは濁っていた。杏子との決闘以来、おそらくさやかは一度もソウルジェムを浄化していないのだろう。

「そうだよさやかちゃん、戦っちゃ駄目!」

 まどかが訴えた直後、ほむらは右手を上げ、小さな石粒のような物をまどかに向けて飛ばした。石粒がまどかの周囲を囲むと、瞬く間に、まどかは多面体で構成された壁に取り囲まれ、外の様子を窺い知ることが出来なくなった。

 まどかは慌てて、壁を叩いた。壁はびくとも動かないどころか、いくら強く叩いても音さえ発しない。

 まどかは焦った。さやかの身に、危険が迫っている。それなのに、自分は壁に阻まれ、何をすることもできない。焦りは苛立ちに変わり、まどかは壁を叩きながら、何度もさやかの名前を呼んだ。

 

 

 

 

   ――――

 

「何を……!」

 さやかは狼狽した。暁美ほむらの発生させた多面体の障壁によって、まどかが覆い隠されてしまったのだ。

「これで、私達の声はあの子には届かないわ。貴方、まだ私に言いたいことがあるんでしょ?さあ、その胸の内を私にぶつけて頂戴」

 さやかは、高ぶる気持ちを落ち着かせた。彼女に言いたいことは、山ほどある。

「まどかは……あたし達の希望だった。なのにお前は……」

「貴方は勘違いをしているわ、美樹さやか」

 威圧するような口調で、ほむらは言う。

「貴方達の希望はまどかではなくて、〈円環の理〉でしょう?まどかは人間なのよ。その崇敬にも似た感情が、あの子にとってどれだけの重荷か、貴方、考えたことはないの?」

 そのことは、常に考えていた。さやかの心が、かすかに揺らぐ。暁美ほむらと対峙することで、自分の心が揺らぐであろうことは、覚悟していた。今のさやかには、何が正しい事なのかはわからない。だから、自分の選んだ道を正しいと信じて進むしかない。

「まどかは……あの子は……あんたのことだって救おうとしたんだ。だからあたしも、あの子の力になりたかった。だってあんたは、まどかにとって……特別な存在だったから」

「……どうかしらね」

 目を逸らして、自嘲するように、ほむらは言った。その態度に、さやかは苛立ちを覚えた。

「だってそうでしょう?あの子の使命は、すべての魔法少女の魂を救うこと。だからあの子は、自らの使命を果たそうとした。あの子にとって私は、救うべき対象の一つでしかなかった」

「そうやって、まどかの想いまで踏みにじるのね……やっぱり許せない」

 怒りで声を震わせながら、さやかは続ける。

「あたしなりに考えたのよ。もう一度あんたを救う方法はないかって。けどあんたは、神を二つに引き裂いて悪魔に身を堕とした。そんな奴に、どんな救いの道があるっていうの?」

 ほむらは沈黙したまま、さやかの目を見据えている。

「なんとなく理由がわかったよ。どうしてこの街から魔獣が消えたのか、どうして代わりにあの子達が現れるようになったのか。……けどあんた、こういう結果になるって、想像できなかったの?」

「そういう貴方だって、予想できなかったんじゃない?〈円環の理〉が、まさかここまで無慈悲な存在になるなんて。……ええ、貴方の言うとおりよ。これは、私の望んだ結末ではなかった。けど安心して。自分の不始末の責任は自分で負うつもりだから」

「あんた、何をするつもりなの……?」

「それは秘密」

 ほむらが何かを企んでいることは間違いない。「責任を負う」などと綺麗な言葉を使っていても、さやかには、それが邪悪な企みとしか思えなかった。

「やっぱり……あんたを見過ごす訳には、いかないっ」

 さやかは刀剣を握り、ほむらに斬りかかった。

 ほむらは長身のライフルを出現させ、さやかの斬撃を受け止めた。

「あんたが何もかも滅茶苦茶にしたんだ。あんたのせいで、あの子達は望んでもない戦いを強いられてる。やっぱり、まどかは真実を知るべきよっ」

「……させないっ」

 やはりと言うべきか、彼女の主張と相容れることはなかった。

 かつて〈円環の理〉の一部となったとき、さやかは、記憶をまどかと共有した。その記憶のほとんどは失われてしまったが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。それは、暁美ほむらがその人生のすべてをまどかに捧げてきたことであった。その彼女の想いは、尊ぶべきものかもしれない。だが、この世界には、もっと尊いものがある。幾多もの魔法少女の人生がある。彼女達の抱いた希望がある。それを守ることこそが、今のさやかを支える信念であった。

 暁美ほむらがライフルの引き金を引くと、激しい銃声が室内に木霊した。だが、その銃口はさやかを向いていない。威嚇のつもりだろうが、それに屈するさやかではない。

 さやかは持ち前の素早さを活かしてほむらに幾度となく斬撃を浴びせようとするが、ほむらはライフルで受け止めるばかりで、傷を与えることができない。

 戦闘は長引いた。

 長引けば長引くほど、さやかにとっては不利である。さやかの魔力は有限である上に、すでにかなりの魔力を消耗している。

 やがて、さやかの斬撃が、ほむらのライフルを弾き飛ばした。隙を見て、さやかは彼女に向け、一直線に剣を突いた。

 だが、暁美ほむらは、予想外の反応を見せた。素手で剣を受け止めたのである。

 さやかは剣を引こうとするが、びくりとも動かない。

 剣を握るほむらの手から、真っ赤な血が滴り、刃を伝って落ちた。

「血の色は同じみたいね」

 人間のものと寸分の違いもない、赤い血であった。

「……痛みよ」

 呟くように、ほむらが低い声を発した。

「え……」

「この痛みを受ける度に思い出す。自分が何のために戦っているのか、何のためにここにいるのか」

 そう言って、彼女はさやかに射すような視線を向けた。

「まどかは、絶対に渡さない!」

 それは、寸分の迷いもない、暁美ほむらの信念の言葉だった。

「そう……」

 さやかは剣を手放すと、後方に向かって大きくジャンプし、ほむらの周囲に無数の剣を出現させた。周囲が、青白い光に包まれた。

 さやかが合図をすると、ほむらを囲っていた剣が一斉に彼女を襲った。

 さやかは、その一撃に、持てる魔力のすべてを懸けた。これで、二人の勝負は完全に決することになる。

 さやかは着地し、暁美ほむらに視線を向けた。

 肩から生えた翼が全身を覆い、その翼に、幾本もの剣が刺さっていた。

 さやかは自由に効かなくなった身体を必死に動かし、一歩、また一歩と、ほむらに歩み寄る。魂を抜かれた魔法少女の身体は、ソウルジェムからの魔力の供給なしには、満足に動かすこともできない。

 さやかの敗北であった。力の差があったことは言うまでもない。だが、それだけではなかった。暁美ほむらの揺るがない信念の前に、さやかは敗れたのだ。さやかは認めざるを得なかった。彼女に戦いを挑むことが、結果的にまどかの幸せを奪うことになるのではないか――。その思いが迷いとなり、さやかの信念を揺るがせていたことを。

 ほむらは剣を振り払って立ち上がると、背中をさやかに向けたまま、右手をさやかに向けて伸ばした。

 その右手でとどめを刺せと、さやかは心の中で彼女に懇願した。だが、ほむらはすぐに、右手を降ろした。もはやその必要もないということだろう。

 気が付くと、さやかの視界には、先ほどまでとは違う光景が広がっていた。

 夕陽が差し込む朽ち果てた教会――。さやかはその場所をよく覚えている。

 さやかは無意識に、その場所にいるであろう人間の姿を探した。足を一歩進めるごとに、朽ちた木の床が軋んだ音を立てる。

 結局、その姿を見る前に、さやかは力尽き、床に倒れた。

 倒れたさやかの視界に、床に転がる一個の林檎が映った。

 何故こんな場所に林檎が転がっているのかと、さやかは不思議に思った。だが、すぐにその理由を理解した。これは、自分の捨てた林檎である。

 やがて教会の幻影は消え去った。自分の意識が、水に落ちたインクのように無限に広がり、より大きな存在と一体となるのを感じる。

「さようなら、美樹さやか。貴方と会うのも、これで最後ね」

 暁美ほむらの声が聞こえたが、心の中で、さやかはその言葉を否定した。

 まだ、終わりではない。

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