終末の物語   作:Wiseman

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第八話 巴/真実

 マミは勢いよくドアを開け放つと、慌ただしい動作で靴を脱ぎ、リビングへと駆けた。夕方の四時。いつもと同じ時間。椅子にランドセルを置いてプリントを取り出しテーブルに置くと、母が用意したおやつのケーキの前に座り、フォークでケーキを切り崩す。

「マミ」

 キッチンから母が顔を出し、マミに声をかける。

「遊びに行くなら、少し休憩してからにしなさい」

「友達を外で待たせてるからダメ」

 マミはそう言って、慌ただしくケーキを口に運び続けた。母はため息をつく。

「マミ……女の子なんだから、もう少し慎みを持ちなさい」

「ふふひみっへ?」

 つつしみ、という言葉の意味がピンと来ず、ケーキを口に入れたまま母に尋ねる。

「物を口に入れたまま喋ったりしないこと」

「……ふーん」

 ものの数分でケーキを食べ終わると、紅茶を飲み干して立ち上がり、再び玄関に向けて駆け出した。

「ほんと、落ち着きのない子」

 母の娘に対する評は、いつもその一言であった。だがマミ自身は、自分を普通の人間だと思っている。放課後、家に帰っておやつを食べ、友達と一緒に外で遊ぶ。その行為は何ら特別ではないし、他の小学生のしていることと何ら変わりはない。だがどうやら、マミの振る舞いは母の期待する娘のあり方とは少しばかりかけ離れているらしい。母は事あるごとに「もっと落ち着きなさい」とか「大人しくしなさい」とか「女の子らしくしなさい」とか言う。マミ自身は、いつも母の言うことを聞いているつもりなのだが。

 玄関に立ったマミは、ふと思い立ち、トイレに向かって方向転換した。トイレの前に立ち、ドアを開ける。そこで思わず、動作を止めた。中に、何かがいる。その光景に目を疑い、しばらく呆然としながら入り口に立ち尽くした。

 便器の蓋の上に、見たこともない造形の白い小動物が鎮座し、マミの顔を見ている。

 マミは無言のまま、小動物を凝視する。一瞬、ぬいぐるみではないかと疑うほど、小動物は身動きひとつせず沈黙している。だが、マミを見据えた赤い瞳は、それが間違いなく一個の生命であることを感じさせる。

 やがて、小動物の首が、わずかに傾げた。

「はじめまして、マミ」

 その声は、小動物から発せられた。

 マミは冷静になって、言葉を話す四足歩行の小動物というものが、自分の知識の中に存在するか確認した。だが、そんなものが存在する筈はなかった。自分は今、未知なる存在、非常識な存在と対峙している。

 やがて冷静さを失い、小動物の大きな尻尾を握りしめ、トイレの外に放り投げた。小動物は放物線を描いた末に向かいの壁に激突し、掛けてあった額縁と共に、音を立てて落下した。

「お母さん!お母さん!」

 マミが声を上げると、困った顔をした母が歩み寄ってきた。

「何?」

 マミは床にへばり付いている小動物を指さし、目で母に向かって訴えかけた。

「何、ゴキブリでも出たの?」

「……へ?」

 ゴキブリなどではない。目の前にいる生物が見えないのか。マミはそう訴えたかったが、取り乱すあまり声が出なかった。

 母は呆れた顔をして、

「そんなもの、いつも一人でなんとかしてるでしょ」

 と言い、キッチンへと戻って行ってしまった。

 マミは再び、小動物に視線を向けた。小動物は起き上がり、再びマミの顔を見ている。

 友達と遊ぶ予定を仕方なくキャンセルし、マミは小動物を自室に連れ込んだ。

 小動物はキュゥべえと名乗り、自分の使命と、マミに会いに来た理由を洗いざらい説明した。キュゥべえは、マミに頼み事があってやって来たらしい。

 頼み事を聞いたマミは、目を瞑ってそっぽを向き、

「嫌よ、そんなの」

 と拒絶の答えを示した。

「どうして?」

「どうしてって……」

 マミにしてみれば、こんな頼み事をされて、「はい、いいですよ」と受け入れる理由の方を知りたいくらいである。

「どうして私がそんな危険な目に遭わなくちゃいけないの?」

「君くらいの年頃の子なら、悪を滅ぼす正義のヒーローに憧れたりするものだろう?」

「憧れるのと、実際になるのとは、ぜんぜん別の話でしょっ」

 キュゥべえの頼み事をかい摘むと、マミに魔法少女になって、魔獣という邪悪な存在と戦って欲しい、ということである。それは確かに、テレビや映画に出てくるような正義のヒーローそのものである。子供なら、誰もが憧れる存在だろう。だが、それはあくまで、空想の世界の存在である。憧れることはあっても、自分がそうなりたいとは思わない。やるとしても、ヒーローと同じコスチュームに身を包んで、変身願望を満たすくらいである。

「だいたい、何でそんなこと、私に頼むわけ?他の子に頼めばいいでしょ」

「君に、素質があるからだよ」

 素質、という言葉にわずかに心が動き、マミは目を少し開いてキュゥべえをちらりと見た。こんな単純な言葉に心を動かされてしまう自分が情けないと、マミは思った。

「魔法少女は誰でもなれるという訳ではない。君は選ばれし存在なんだ」

「そうやっておだてて、持ち上げて、私をだます気なんでしょ?お母さん言ってたもん。怪しいカンユウに引っかかっちゃダメだって」

 惑わされまいと、マミは心を閉じて、拒絶の反応を貫こうとする。

「大変な仕事なんでしょ?」

「確かに、ゴキブリ退治とはわけが違う。だから、相応の覚悟が必要だね」

「そう。とにかく、私には命を投げ出してまで叶えたい願いなんてないから、これ以上誘っても無駄よ」

「……本当に?」

「……本当よ。私、いま、幸せだもん」

 魔法少女になれば、どんな願いでもひとつだけ叶えることができるという。だが、命の危険を冒してまで叶えたい願いなど、マミには思いつかなかった。マミには、立派な両親がいる。立派な家がある。病気も体の不自由もなく、生きる上で困ることなど何ひとつなかった。マミは、幸せである。自分でそう実感したことはこれまでほとんど無かったが、キュゥべえの頼み事を聞き、自分という存在を振り返ったとき、やはり自分は幸せだったのだと結論づけるほかなかった。

 そして、その幸せがこの先も末永く続くことを、マミは疑おうとはしなかった。だが、のちにマミは思い知ることになる。幸せは、いとも簡単に壊れてしまうということを。

 

 

 意識がはっきりしたとき、マミは仰向けになって、車の天井を見上げていた。聴覚が麻痺しているのか、妙に静かで、自分の鼓動だけが身体の内を伝って耳に届いている。

 やがてマミは、車全体が不自然な形にひしゃげていることに気づいた。どうやら、事故に遭ったらしい。だが、事故に遭ってから今に至るまでの記憶がなく、また、どのくらいの時間が経過しているのかもわからない。

 やがて、車の外から、複数の男の声が聞こえた。

「前の二人は、駄目なようだな」

「後部座席に子供が。目立った外傷はないようです」

「ガソリンは漏れてないだろうな」

「はい」

「救出急げ」

 その声からは、焦りが感じられた。対するマミは、自分でも不思議なくらいに冷静だった。感情が麻痺していたという方が正しいかもしれない。

 やがて、割れた窓ガラスから大人の人間の手が伸びてきた。マミは放心したまま、その手に救い出されるに身を任せた。

 それからしばらくして、マミは両親の死と、自分が魔法少女になっていたという事実を知る。

 事故に遭ってからの数日間は、慌ただしい日々が続いた。検査のために入院したが、身体のどこにも異常がないと診断され、早々に退院した。その後に待っていたのは、両親の火葬と、極めて簡略化された葬儀だった。自分が魔法少女であるなどという事実は記憶の片隅に追いやられてしまうほどに、慌ただしい日々だった。

 日を重ねるにつれてマミは、両親が死んだという事実と向き合わうことを余儀なくされた。

 ひとりきりとなった部屋の片隅で、マミは喪服を身に着けたまま、顔を膝に埋めて座っていた。部屋の外に、静かな雨が降り注いでいる。

 何処からともなくキュゥべえがやって来て、口にくわえたマミのソウルジェムを、テーブルの上に置いた。

「大切に扱ってくれよ。君の魂なんだから」

 マミは彼に、事故に遭ってからずっと抱えていた疑問を投げかけた。

「どうして……私だけが……」

 生き残ってしまったのか。問いかけるマミの声は、外の雨音にかき消されるほどに弱々しかった。

「それが、君の願いだったからさ」

 いつもと変わらぬ無感情な声調で、キュゥべえは答える。

「違う……」

 膝に顔を埋めたまま、マミは力なく呟く。

「マミ」

 キュゥべえが再び口を開いた。

「生命が自己の生存を第一に考えるのはごく自然なことだ。だから、君のしたことは何ら恥ずべきことじゃない」

「それ……慰めてるつもり……?」

 マミが問うと、キュゥべえは黙ってしまった。

 しばらくの沈黙の後、キュゥべえが口を開いた。

「君はもう魔法少女だ。魔法少女になった瞬間から、君の命のカウントダウンは始まっているんだ。君が生き続けるためには、魔獣と戦って、ソウルジェムを浄化しなければならない」

「生きて……どうするのよ……」

 キュゥべえは再び沈黙する。

「こんな思いをするくらいなら……一緒に死んでおけばよかった……」

「マミ」

「もう、放っておいて」

「そういう訳にはいかない。君はまだ戦い方も何も知らない。君が一人前になるまで、僕には君をサポートする責務がある」

 余計なお世話だ、と心の中で彼の言葉をはね返す。

「生きるも死ぬも君の自由だ。だがそれを選ぶのは、魔法少女の戦いというものを知った後でも遅くはないだろう?その後で、じっくり考えるといい。君が繋ぎ止めたのは、本当に君の命だけだったのか」

 キュゥべえの言葉を聞き流しながら、マミはあることを考えていた。

 マミには、身を寄せる親戚がいない。だがそれはかえって、マミにとって好都合であった。自分は自由だ。自分がどんな道を選ぼうとも、それを咎める者はいない。それが、悲しみと絶望を断つ道だとしても。

 

 

 ある夜、マミは魔獣退治に出かけた。

 嵐のような瘴気に包まれた高層ビルの屋上を、真っ黒な衣装に包んだマミは歩いていた。

「待ってくれ、マミ!」

 後ろからしつこく付いてくるキュゥべえが、声を張り上げる。

「いきなりこんな瘴気の強い場所を選ぶなんて自殺行為だ!君は、死ぬために戦うつもりなのか?」

「もう放っておいてって言ったでしょ」

 突き放すように言った後、ビルの淵に立ち、周囲を見回した。

 魔法少女になったことで、マミはこれまで見えなかったものを見ることができるようになっていた。それが瘴気である。魔法少女になる前に見ていた世界とは、まるで別の世界のように見えた。普通の人間にとっては恐ろしい光景かもしれない。だが今のマミにとっては、その瘴気の持つ呪いや穢れが、自分の心の中にある悲嘆や絶望と調和しているように感じられて、かえって心地が良かった。

 マミの立っているビルの道路を挟んだ向かいに、より高層のビルが建っている。マミは何気なく、そのビルの上層部を見上げた。

 そこに目を向けたとき、マミの心は、否応なしに現実に引き戻された。

 ビルの屋上の淵に、子供と思しき人影が立ち、地上を覗きこむように下を見ている。

 やがてキュゥべえの人影に気付き、

「魔獣の餌食だ!」

 と叫んだ。魔獣の呪いにかかり、心を操られ、飛び降りようとしているらしい。

「駄目……」

 反射的に、マミは声を漏らした。マミは自分の意志で死のうとしている。だがその子供は違う。死など望んでいないのに、悪しき存在の餌食にされ、命を奪われようとしている。

 マミが呆然と様子を見守る中、子供は身体を前に倒して下方へと落下した。

「駄目!」

 考えるよりも先に身体が動いていた。マミは勢いよくジャンプしてフェンスを乗り越えると、前方へと跳んだ。

 その目の前を、自由落下する子供の身体が、上から下に向かって通り過ぎた――。

 ……一体、自分はどうやってその子供を助けるつもりだったのだろうか。ただ何の考えもなく、子供を助けたい一心で、マミは跳んだ。だが、そんな方法で、転落する子供を助けられるはずがない。

 マミの心に、またひとつの悲嘆と絶望が重ねられた。自分に力が無かったために、目の前の子供を助けることができなかった。

「……ミ……マミ……」

 誰かが呼ぶ声が聞こえて、マミは目を開けた。どうやら、しばらくの間、意識を失っていたらしい。

 目を開けてからしばらくの間、マミは、眼前に広がる光景を理解できずに、ただ呆然と、その光景を眺め続けた。

 縦横無尽に無造作に張り巡らされた黄色いリボンの上に、まるでハンモックに揺られて眠るように、子供が横たわっている。

 マミは自分の身体に目を向けた。腰に黄色いリボンが巻きつけられ、宙吊りの格好になっている。頭に血がのぼるのを感じる。そこでようやく、自分と子供の置かれている状況を把握した。ビルの谷間に張り巡らされた出所不明のリボン。そのリボン上に横たわる子供。子供より十数メートル高い位置でリボンに絡め取られ、情けなく宙吊りにされている自分。

「マミ!」

 上方からキュゥべえの呼ぶ声が聞こえた。

「その子を引き上げるんだ。早く」

「引き上げるって、どうやって……」

「君の魔法だろう。僕に訊かないでくれよ」

 これがマミの魔法だ、と言われても、困惑するしかなかった。自分はまだ、魔法の操り方もろくに知らない。

 時間をかけて、マミは子供を自分の元いた屋上まで引き上げた。

 マミが助けたのは、女の子だった。マミと同い年か、やや年下と思しき容姿であった。少女は、気を失っていた。

「もうすぐ魔獣が現れる。彼女は僕が看ているから、君は魔獣を――」

 キュゥべえが言い終わるのを待たず、マミは立ち上がり駆け出した。考えている余裕はなかった。少女を守るには、自分のこの手で、魔獣を仕留めなければならない。

 彼の言う通り、向かいのビルに魔獣が姿を現した。

 マミは跳躍し、魔獣と対峙すると、長身の銃を召喚し、手に取った。

 マミが戦いの武器として選んだマスケット銃は、構造が単純で魔法での召喚が簡単である代わりに、前装式で一発撃つごとに再装填が必要であった。

 実戦で使うことで、マミは改めて、この武器が実戦に不向きであることを痛感した。魔獣に向けて一発撃つと、マミは室外機の陰に隠れ、銃口から薬莢を詰める作業に追われた。

「非効率すぎるよ。もっとましな武器は無かったのかい?」

「うるさいっ」

 呆れたように言うキュゥべえの指摘を、マミははね退けた。いまは悠長に戦略の練り直しをしている場合ではない。

 キュゥべえが、ため息をついた。

「……その武器は、魔法で生成した物だろう?」

 キュゥべえに言われて、マミははっとした。銃は弾を撃ち果たしたら、再装填が必要である。その当たり前の事実に、マミは縛られていた。だが、自分がいま操っているのは、魔法である。

 マミは右手を上げ、同じ銃を再度召喚した。召喚は、あっさりと成功した。次は左手を上げ、同じように銃を召喚してみる。マミの戦いに、ひとつの道筋が見えた瞬間だった。

 マミは立ち上がって室外機の上に立ち、再度、魔獣と対峙した。

 

 

 やがて戦いは終わり、瘴気は去った。

 何体かは逃げてしまったが、少なくとも、助けた少女にこれ以上危害が及ぶことはない。

 マミは再び、少女のもとに戻った。座って膝の上に少女の頭を乗せ、少女が目を覚ますのを待った。

 やがて、少女が目を開けた。半開きであったが、その瞳ははっきりとマミの目を捉えていた。

「だれ……?」

 力ない声で、少女が問う。無理もない反応であった。

「もう、大丈夫よ」

 少女を安心させようと、マミは笑みをつくり、優しい声で語りかけた。

 マミは少女が安堵することを期待したが、少女はマミの期待とは少し違う反応を見せた。

「どうして……泣いてるの……?」

 何か不思議なものを見るような顔で、少女がマミに尋ねた。

「え……」

 少女に問われて、マミは初めて、自分の頬を流れる温かい涙の感触に気がついた。なぜ泣いているのか、マミ自身にもわからない。両親の死を知ったときも、その骨を墓に納めたときも、マミは涙を流さなかった。いま流れる涙は、あの時流すべき涙だったのかも知れない。ずっと溜め込んでいたものを決壊させるように、マミは涙を流し続けた。

 マミが助けた少女は、彼女が身を投げようとしていたマンションの住人だった。少女を家に送り届けた後、マミは家に帰った。

 マミは、これまで一度も感じたことのない不思議な感情に捕らわれていた。その感情に支配され、胸の奥が燃えるように熱い。それは、凍りついていたマミの心を瞬時に溶かすほどの熱であった。

「私、何も分かってなかった」

 胸を手で押さえながら、マミは脇にいたキュゥべえに語りかけた。

「勝手に、思い込んでた……世界はもっと綺麗で、輝いてて……不幸なのは、私だけだって」

 もし自分があの時、あの場に居なかったら、あの少女は邪悪な存在の餌食となって命を落としていた。その事実と向き合った時、自身が事故に遭った時に感じたことを改めて痛感させられた。世界は無慈悲だ。世界は残酷だ。

 だが、もっと早くその事実に気づくことも出来たかもしれない。テレビニュースや新聞に目を向ければ、不幸に遭っている人々に関する報道が、毎日のように流れている。マミはその事実から、ずっと目を背けてきた。見て見ぬふりをしてきた。

 それは過ちだった。誰かが彼等に、彼女達に寄り添わなければ、さらなる悲しみと絶望が世界に撒き散らされることになる。

 マミはひとつの考えに行き着いた。その役目を背負えるのは自分自身であると。自分ひとりの力は微々たるものかもしれないが、この街の人々の幸せを守ることくらいなら出来るかもしれない。

「お母さん、お父さん。私のわがままを許して」

 天から見守っているであろう両親に、マミは語りかけた。自分はまだ生きている。ならばその命を、人々のために使い切ってから死のう。

「道は決まったかい?」

 キュゥべえが問いかけた。

「うん。ありがとう、キュゥべえ」

「お礼を言われるような事をした覚えはないけど……君が無駄死にを思いとどまってくれたのなら何よりだ」

 それからの数ヶ月間、マミはひとりで戦い続けた。放っておけば魔獣の犠牲になっていたであろう人々を幾人も救ってきた。

 それは同時に、孤独との戦いでもあった。どんなに危機的な状況に陥っても、助けてくれる仲間はいない。だがそれでも、マミの心は折れなかった。

 戦いを続けるうちに、マミの心にひとつの精神的支柱のようなものが出来上がっていた。戦いに力尽き斃れた魔法少女の前に現れ、別の世界に導くとされる伝承的存在。魔法少女達は、その存在を〈円環の理〉と呼んでいた。

 マミは〈円環の理〉に対し、憧憬のような感情を抱くようになっていた。もしその姿を見ることができるとしたら、どんな姿をしているだろうか。自分に対し、どんな言葉をかけてくれるだろうか。それは単なる憧れを越え、崇拝や信仰に近いものとなっていった。

 

 

 マミは、ずっと一人きりというわけでは無かった。

 魔獣との戦いにも慣れてきたある日、自宅にひとりの少女が訪ねてきた。質素な身なりをしているが、彼女も魔法少女らしい。

 部屋に招き入れると、少女は自分が魔法少女になった理由と、ここに来た目的を語った。

 その少女は、佐倉杏子と名乗った。

「そう、それで魔法少女に」

 マミは感心しながら、彼女の前にケーキを載せた皿を置いた。自分以外の魔法少女の話を聞くのは、これが初めてであった。

 杏子は珍しいものでも眺めるように、落ち着きなく部屋の中をキョロキョロと見回している。

「けど、先週契約したばっかりで、戦い方とかぜんぜんわからないし……そしたら、教えてもらったんだ。となり町に、すごく強い魔法少女がいるって」

 マミは目を細めながら杏子の脇にいたキュゥべえを見た。キュゥべえは後ろを向いて、前足で顔を掻いている。

 杏子は恐る恐るフォークを手に取り、目の前のケーキを崩して口に運んだ。口に入れた瞬間、杏子の顔が、不安に歪んだような表情に変わった。

「口に、合わなかったかしら」

「いや……こんな美味いもの食べたの久し振りだったから……つい……」

 マミは安堵した。同時に、杏子の家庭事情を垣間見たような気になった。杏子は、家はずっと貧しかったと言っていたし、仮にそうでなくても、父親が聖職者ならば、家庭での暮らしは質素なものであろう。

「あの、マミさんは……」

「マミでいいわよ」

「……マミは、ひとりで暮らしてるのか?」

「そうよ」

「どうやって暮らしてるんだ?ひとりで、平気なのか?」

「ちょっと、いろいろあってね。生活に困ることはないの」

 詳しい事情に踏み込むには、過去の体験について触れなければならない。だが、知り合って間もない少女に語って聞かせるには、重すぎる話であった。

「けど、そういう状況に甘えてばかりというわけにはいかないわよね。高校生になったらアルバイトをして、少しでも自立しないと……それまで、この世界に居られたらの話だけど」

 マミの話を聞くや、杏子は激昂するようにテーブルを両手で叩き、膝立ちになった。

「そういうこと、軽々しく言うなよ!」

 突然の杏子の感情的な反応に、マミは呆然とした。

 杏子は落ち着きを取り戻すと、腰を下ろして申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ごめんね」

 マミが苦笑いを浮かべながら言った。

「けど、あなただって分かっているはずよ。魔法少女になるというのがどういうことか。私はね、いつその時が来ても悔いのないような生き方をしたいの。いつか〈円環の理〉の導きが私のもとに来た時、胸を張っていられるような……」

「……あたしは、それでも生きる」

 決意の込められた声調で、杏子が言う。

「生きて、戦って、この世界を救うんだっ」

 声を張り上げた後、杏子は恥ずかしくなったのか、顔を紅潮させて視線を落とした。

「……って、思ったんだけど、できるかな?あたしに」

「あなたならきっと出来るわ」

 マミは笑顔で答えた。「世界を救う」という壮大な希望に、マミはすっかり心を打たれていた。

「けど、世界を救う前に、まず自分の身を守る方法を学ばないとね」

「……はい」

「そうだ。ちょうど今夜、魔獣退治に出かけようと思っていたところなの。あなたも一緒に来る?」

「ええっ、いきなり?」

 杏子は、慌てふためいた。

「けどあたし、戦いのこととかまだ何も知らないし、いろいろ教えてほしいこととかあるし……」

「そう、何が訊きたい?」

 マミが問いかけると、杏子はうつむいて何かを考えこんだ後、口を開いた。

「グリーフシードって……美味(うま)いのか?」

 マミは、呆気にとられた。杏子は極めて真面目な顔つきで、その意味不明な問いを投げ、答えを待っている。

 マミは最初、杏子が冗談を言っているのかと思っていたが、話を聞くうちに、どうやら本気で、魔法少女はグリーフシードを食べてソウルジェムを浄化するものと思っていたことが分かり、気がつくと、腹を抱えて笑っていた。

 杏子は顔を真赤にしながら、笑い続けるマミの顔を見ている。

「そ、そんなに笑わなくたっていいだろっ」

「ごめんなさい……だって……フフフ……まさか本気だなんて思わなかったから」

 笑いすぎて腹が痛くなり、のぼせたように顔が熱くなった。

「はぁ……こんなに笑ったのは久し振り」

 魔法少女になってから今日に至るまで、これほど笑ったことはなかった。どちらかと言えば、辛く苦しい出来事の連続だった。そんな自分のもとに突然現れて笑いを提供してくれた杏子に、マミはすっかり心を奪われてしまった。

「これは、いろいろ教え甲斐がありそうね」

 マミが言うと、ずっと恥ずかしそうにしていた杏子も落ち着きを取り戻し、安堵の表情を浮かべた。

「魔法少女って……もっと怖い人達なのかと思ってた」

「私がこんなんで拍子抜けした?」

「いや、そういうわけじゃ……」

 夜になって、マミは杏子を率いて魔獣退治に出向いた。

 杏子の武器は、槍である。だが杏子は、その槍を杖のようにつきながら瘴気の嵐に恐れおののくばかりで、まるで戦えるような状況ではなかった。

「マミ、瘴気が強すぎる!引き返そう!」

「あなた、早く一人前になって皆を助けたいんでしょ?この程度で怖気づいてたら、一人前になんてなれないわよっ」

 戦いの中では、マミは杏子に厳しく接した。杏子は高い志を持っている。それを叶えるためには、並の修行では足りないと、マミは考えていた。

「……魔獣よりマミの方が怖えよ」

 杏子が呟くのを、マミは聞き漏らさなかった。

「何か言った?」

「いいえーっ」

 マミは、誰か他の魔法少女に教えを請うた訳ではないので、いざ「弟子にして欲しい」と言われても、どう彼女を指導して良いのかわからない。だからまず考えたのは、自分の戦いを彼女に見せることであった。

 杏子の成長は、マミの予想を上回る早さであった。わずか数日後には、杏子は単独で魔獣を仕留められるほどの実力を身につけていた。

 杏子はマミの弟子であり、友達であり、また家族のような存在となった。だが、その関係は長くは続かなかった。

 ある日、家を訪ねて来た杏子は、暗い表情を浮かべてある事実を打ち明けた後、それ以上は何も語らずに去って行った。杏子が明かしたのは、家族に自分が魔法少女であることがばれた、という内容だった。その日を境に、杏子は見滝原に顔を見せなくなった。

 杏子の表情を見れば、その事実を知った家族が喜ばなかったであろうことは容易に想像できる。まして、杏子の父は聖職者である。信徒たちが魔法などという得体の知れない力に操られていた事実を知れば、きっと怒り、悲しむに違いない。

 だが、たとえマミでも、その後に起こる最悪の結末を予想することはできなかった。

 杏子の家族が心中した、という報せがマミにもたらされたのは、それから数週間後のことだった。

 マミは必死で、杏子を探した。

 杏子は生きていた。だが、杏子がかつて抱いた志は、その日を境に完全に消え去ってしまった。

 マミは、杏子を引き取ってかつてのように一緒に戦うことを提案した。一人になった彼女に手を差し伸べることができるのは自分しかいないと、マミは思っていた。だが杏子は耳を貸さなかった。

 杏子は去って行った。その後姿に、マミは自身の姿を重ねた。杏子の心情を知りながら、マミはどうすることもできなかった。いや、知っていたからこそ、何もできなかった。どんな言葉も、いまの杏子にとっては慰めにならない。

 杏子との師弟関係は解消された。マミの予想していなかった最悪の形で、杏子は自立の道を歩んだ。

 

 

 別れがあれば、新たな出会いもある。

 同じ見滝原中学に通う美樹さやかという少女は、キュゥべえ曰く素質は並程度だが、一際高い志を持っていた。

 そんなさやかがある日の放課後、歓喜の表情を浮かべながらマミの教室にやって来て、

「マミさん、あたしの願い、叶ったよ!」

 と喜びの声を上げた。

 きっと、自身の喜びを誰かと分かち合いたかったのだろう。だが、マミは素直には喜べなかった。

 帰り道。さやかはマミの反応が自分の予想と違っていたせいか、残念そうな表情を浮かべながら、

「マミさんなら、もっと喜んでくれると思ったのに」

 と呟いた。

 マミは、かつて高い志を持ちながら、裏切られ、傷つき、今はどうしているかも分からない少女のことを思い出していた。さやかはどこか、彼女と似ているところがある。

「ごめんね。嬉しい気持ちもあるのよ。けど、この道を選んだ以上、どんな辛いことが待っているか分からないから……」

「どんなに辛くても、最後に辿り着く場所はみんな同じでしょ?」

「え?」

「そう思えたから、あたし、魔法少女になることを決心できたの。あたしね、マミさんみたいな魔法少女になりたいの」

「……私?」

「そう。みんなの幸せのためにその身を削って日夜戦い続ける正義の味方」

「私はそんな立派なものじゃないわよ」

 マミは苦笑いを浮かべた。

「それでもいい。あたしは、他の人達が望んでも手に入らないような幸せを手に入れたの。だから、その幸せを、みんなに分け与えてあげたい。あたしにも、できるかな?」

 マミは、心を打たれた。マミが魔法少女になった後に見つけたものを、さやかは最初から持っていた。

「ええ。あなたなら、きっとできるわ」

 マミは笑みを浮かべて答えた。

 

 

 月日が流れた。

 今日に至るまで、マミの身にはさまざまな出来事が起こった。百江なぎさとの出会い、鹿目まどかとの出会い、見滝原に起こる魔獣消滅の異変と、その原因調査に来たまどかの親友、そして彼女の死。杏子との再離別。

 目まぐるしく変化する日々の中で、マミが願うことは二つであった。ひとつは詩花の犠牲を無駄にしないこと、もうひとつは、これ以上仲間を失いたくないということである。

 だが、二つ目の願いは、あっさりと打ち砕かれてしまった。

 ある日の放課後、マミはまどかに呼ばれ、校舎の屋上を訪れた。マミはまどかから、彼女とさやかの身に起こった出来事を聞いた。

 まどかは、さやかと暁美ほむらの対立を止めることができなかった。彼女は暁美ほむらの発生させた障壁に閉じ込められ、その後のさやかの行動を見届けることができなかった。気がつくとまどかは、真夜中の自室のベッドに横たわっていた。手には、さやかが身につけていた髪飾りが握られていたという。

 まどかはその髪飾りを握りしめ、目に涙を溜めながら、さやかが暁美ほむらとの戦いに敗れて命を落としたであろうことを伝えた。

「また、守れなかった……」

 溜め息のような弱々しい声で、マミが呟いた。

「ごめんなさい。私がみんなを守らなくちゃいけないのに……こんなことに……」

「マミさん」

「私ね、本当は後悔していたの。あの時、夏海さんの調査を犠牲にしてでも、あの子の命を救うべきだったって」

 マミは、あの日以来ずっと抱えていた後悔を、初めて他者に打ち明けた。詩花は死を覚悟して異変の調査に臨んでいた。だからマミは彼女の意志を尊重した。だが、彼女の死を悲しむ人がいることも、考えなければならなかった。

 まどかの心情を思うと、胸が締めつけられそうだった。この短い期間に、二人の親友を相次いで失ってしまったのだ。

「マミさんは、間違ってなかったと思います」

「え……」

 まどかの発した一言は、マミにとっては思いがけない言葉だった。

「もし助けようとしたら、マミさんだって危険な目に遭ってたかもしれない。そうなっていたら、異変の原因を突き止めることもできなかったかもしれない。それはきっと、あの子も望んでなかったと思うんです」

 それがまどかの本心かどうか、マミにはわからない。だが、どちらであるにしても、マミにとっては救いの言葉だった。

「あの子からね、直接聞いたのよ」

 マミは言った。

「魔法少女になった理由。あの子、学校のみんなを助けるために、魔法少女になったって」

 それは恐らく、今のまどかは忘れてしまったであろう事実である。しかし、だからこそ伝えなければならないと、マミは思った。

「あの時……」

 まどかは顔を上げて、目を大きく見開いた。今の言葉だけでも、まどかは十分に理解できたのだろう。

「私は、彼女達の生き方を羨ましいと思った。私は、最初で最後の奇跡のチャンスを、自分が生きるためだけに使ってしまったから。正直に言うとね、その事を後悔していた時期もあったのよ。もっと他の方法があった筈だって。けどね、ある時気づいたの。そうやって繋いだ命だからこそ、みんなの為にこの命を使おうって」

 言葉にすることで、マミは自分が生きる理由を再確認した。それが自身の決意であるなら、自分がこれからとるべき行動はひとつである。

 マミは表情を引き締め、立ち上がった。

「私は決めた。もう後悔するような生き方はしないって」

 マミはまどかの顔を見据えた。

「鹿目さん、暁美さんのことは、しばらく私に任せて欲しい」

「そんな。ひとりじゃ危険です」

「わかってる。けど安心して。真っ向から彼女に戦いを挑むつもりはないから。その前に、どうしても調べておきたいことがあるの。だからお願い」

 まどかは思い悩んだ末に、力ない声で、マミの申し出を受け入れた。

 これ以上知人を失いたくないというまどかの想いを、マミは痛いほどに理解していた。ゆえに、物事は慎重に進めなければならない。

 まどかが去った後で、マミは急に、孤独感に襲われた。

(私、またひとりになっちゃった……)

 さやかは命を落とし、杏子は魔法少女に背を向け、共に戦う仲間は失われた。その事実が、マミの心に再び暗い影を落とした。

 同時に、抑えこんでいた自責の念が、涙となって溢れ出てきて、マミは顔を手で覆った。

「ごめんなさい、美樹さん……」

 

 

 帰り道、マミはふと立ち止まって、桜並木を見上げた。

 決して花を絶やさないと言われていた桜の木が、吹雪のようにその花びらを散らし、枝にはわずかな花しか残っていなかった。

 次に、前方に視線を向けた。並木道のベンチに、ランドセルを背負った少女が座っていた。下に積もった桜の花びらを眺めながら、地面に届かない足をぶらぶらと揺らしている。

 マミは黙って、少女の目の前を横切り、その場を去ろうとした。彼女と会って話をすることは許されないことだった。

 マミが少女から十数メートル離れた後、背後から声が聞こえた。

「マミは、ひとりじゃないのです」

 マミは立ち止まった。なぎさの声を聞くのは久し振りだった。

 心を読まれたような気分だった。なぎさが今の自分の顔を見て心中を察したのか、あるいはさやかや杏子がいなくなったことを誰かから聞いたのか、それはわからない。

「なぎさがいます。だからもし、ひとりで辛くなった時は、わたし、マミと一緒に――」

「駄目よ」

 そう言って、なぎさの言葉を遮る。

「あなたには、他に大切にすべきものがあるでしょう」

 なぎさは沈黙した。彼女は母と共にいるべきである。母と話をして以来、その考えはマミの中で揺るぎないものとなっていた。

「お母さん……」

 なぎさが再び口を開いた。

「仕事、やめちゃったの。けど、やめた理由は教えてくれなくて……。わたし、お母さんの描いた絵や本を見るのが好きだった。仕事に打ち込むお母さんの背中を見るのが好きだった。けど今は、家で本を読んでばかりで……。わたしの帰りが少し遅くなるだけで、すごく怒るの。なんだか、お母さんなのに、お母さんじゃないみたいで……」

「その気持ちを、ちゃんとお母さんに伝えたの?」

「え?」

「伝えられなくなってから後悔しても、遅いのよ」

 マミはそれ以上は何も語らず、なぎさの前を去った。これ以上話をすると、マミの心が揺らいでしまいそうであった。

 

 

 帰宅後、マミはマンションの屋上に上がった。

(キュゥべえ、居るかしら?)

 マミは瞳を閉じ、テレパシーを使って呼びかけた。

 しばらく待つと、呼びかけに応じるように、キュゥべえが目の前に現れた。

「君の方から僕を呼ぶなんて、珍しいじゃないか。最近の君は、まるで僕を避けてるようだったから……寂しかったよ、マミ」

「そういうあなただって、最近ぜんぜんこの街に姿を見せないじゃない」

「確かにそうだね。僕が果たすべき役割は、この街にはもうないからね」

「……魔獣がいないから?」

 マミはそう問いながら、厳しい視線を彼に向ける。

「そうやって、夏海さんのことも見捨てたの?」

 キュゥべえはマミの目を見たまま沈黙し、問いに答えようとはしない。

「……いいえ。私が訊きたかったのはそのことじゃない。キュゥべえ、ずっと前からあなたに訊きたいことがあったのだけど」

「何だい?」

 マミは表情を引き締め、キュゥべえの目を見た。

「鹿目さんに魔法少女の素質がないっていうのは、本当?」

 キュゥべえを呼んだのは、その疑問を彼にぶつけるために他ならない。この数週間の間に目にした出来事、明らかになった真実を振り返って、マミの心中に浮かび上がった疑問である。

 キュゥべえは問いに答える素振りを見せず、無言を貫く。

「私は、この目ではっきり見たのよ。あの子が、普通の人間とは思えない力を発揮するところを。それだけじゃない。あの子はこの街で起きている異変とも深い関わりがある。あなただって、その事実を知っていたはずよ。なのに黙っていた」

 マミの指摘に対し沈黙を貫き通せないと思ったのか、キュゥべえがようやく重い口を開いた。

「君には驚かされるばかりだよ。まさか君が、夏海詩花の調査を引き継いでいたとはね。それに、僕達の目を盗んで、そこまで真実に近づくとは。さすがは巴マミだ。僕が見込んだだけのことはある」

「夏海さんに言われたのよ。あなたをあてにするなって。ねえ、どうしてあの子の力になってあげなかったの?あなたが協力していれば、あの子だって犠牲にならずに済んだかも知れないのに……」

「それは見当違いだ。僕が力を貸そうと貸すまいと、彼女の運命は変わらない」

 彼を信頼していただけに、その冷たい一言はマミを失望させた。

「巴マミ、君の腕は見事だと言いたいところだけど、君はひとつだけ、重大な間違いを犯してしまった」

「……何よ」

「鹿目まどかが異変の原因だというその仮説を、まどか本人に話してしまったことだよ。そのせいで、君は彼女をひどく怒らせてしまったんだ」

「彼女……?」

「とても残念だけど、マミ。君の命運も、ここまでのようだね」

 彼女、というのが誰を指すのか、マミはすぐには理解できなかった。

 だが、一瞬の後に、マミは彼の言葉の真意を悟った。

 同時に、背後に何者かの視線を感じ、背筋が凍るような感覚を得た。

 マミは慌てて振り返る。

 自分と同じ位の背丈の女性が立ち、見る物を凍らせるような冷たい視線を、自分に向けている。

 その顔が見えた一瞬の後には、マミの視界は暗転し、意識は闇の底に落ちるように遠のいていった。

 

 

 再び意識が明瞭になったとき、マミは暗闇の中にいた。

 首を動かして周囲を見回してみるが、確かに目を開いているはずなのに、視界には一切の光が入ってこない。

 やがて目が慣れてきたのか、自分がいる場所がただの真っ暗闇ではないことに気づく。

 そこは、広い建物の内部だった。周囲には装飾の施された柱が何本も並び、柱の合間から外の光景が垣間見えた。見えたのは、黒い雲に覆われた空だった。真っ黒な空の随所に、赤い亀裂のような光が走っている。現実離れした、世界の終末を思わせる光景だった。

 やがてマミは、首以外の身体の自由が効かないことに気づく。視線を落とすと、赤いリボンに拘束された自身の身体が見えた。それは、マミ自身の拘束魔法だった。

「どうして……」

 マミは力を込めて拘束を解こうとするが、リボンは何重にも巻かれていてびくりとも動かない。

 直後、前方に人の気配を感じ、顔を上げた。

 薄暗い空間に立つ長髪の女性のシルエットは、間違いなく暁美ほむらのものだった。その右手に、黄色い光を放つ宝石のような物が見えた。マミのソウルジェムだった。

 そしてその左肩には、マミのよく知る小動物が鎮座していた。

 マミはその時になってようやく、自身の犯した過ちを認識した。

「こんな単純なことに気づかなかったなんて……きっと、私の目が曇っていたせいね」

 暁美ほむらとキュゥべえが裏で繋がっていたことに気づかずに彼に接触した挙句、不意を突かれて拘束され、あげくにソウルジェムを奪われてしまった。最悪の展開である。

「正式な自己紹介がまだだったね。僕はインキュベーター。悪魔に奉仕する者さ」

 キュゥべえはいつもと変わらぬ口調で、自身が暁美ほむらの下僕であることを堂々と明かした。マミにとっては失望の言葉だった。それが事実なら、自分は悪魔の手先と契約していたことになる。

「ずっと……私達を騙してたの?」

「そのことについては謝るよ。すべてはマスター……我が創造主のための行いなんだ」

「創造主?その悪魔が、あなたの創造主だっていうの?」

「ああ。僕らは古い預言に従ってこの星にやって来た。遠い未来、この星の何処かに我らの創造主が降臨すると。そして、その預言は現実となった」

 あまりに荒唐無稽な話のように聞こえる。だがマミにとっては、彼等のルーツなど最早どうでもよいことであった。それより先に、彼に確認しなければならないことがある。

「あなた達のことはよく分かったわ。キュゥべえ、私の最初の質問に答えて頂戴」

「……何の話だったかな?」

「とぼけないで」

 鹿目まどかのことである。

 キュゥべえは沈黙した。彼の正体が判明した今なら分かることだが、おそらく、暁美ほむらに口止めされているのだろう。

「構わないわ。本当のことを教えて差し上げなさい」

 暁美ほむらが口を挟んだ。

「いいのかい?マスター」

「ええ。それを知ったところで、彼女にはどうすることもできないでしょうから」

「……いいだろう、マミ。教えてあげる。鹿目まどかの魔法少女としての素質は、率直に言って、『神の子』と呼ぶに相応しい規模のものだ」

 マミは目を見開いた。彼の答えは、マミの想像を超えるものだった。

「彼女は間違いなく、最強の魔法少女となる程の素質を備えている。彼女が望めば、この宇宙の在り方を変えてしまうこともた易いだろう」

「そう、そういう事だったのね……。どうしてあなた達がこんな嘘をつき続けてきたのか……」

 キュゥべえの目をはっきりと見据えながら、マミは言った。

「鹿目さんが魔法少女になれば、間違いなくあなた達にとって最大の脅威となる。それを恐れたからあなた達は――」

「違うわ」

 暁美ほむらが、マミの言葉を遮った。射るような視線を、マミに向けている。

 短い沈黙の後、ほむらは強い口調で言った。

「私の望みは、まどかが幸せになれる世界をつくること」

 寸分の迷いのない真っ直ぐな視線と言葉に押されて、マミは息をのんだ。ほむらは言葉を続ける。

「貴方には、二つの選択肢がある。けど選ぶ前に、貴方はまず、自分の置かれている立場を正しく認識する必要がある。だから……」

 ほむらはそう言って、不敵な笑みを浮かべた。

「やっぱり貴方には、すべてを話すことにするわ。……インキュベーター」

 ほむらがキュゥべえに何かを促すように語りかけると、キュゥべえは身を前に乗り出した。

「君も知っての通り、鹿目まどかが異変の中心だという仮説は正しい。そして、その異変を引き起こしている張本人が……」

「〈円環の理〉」

 マミは小さく呟いた。〈円環の理〉を信奉するマミにとっては、信じたくない可能性だった。だが、そう考える以外に、この異変を説明する術がない。

「そう。君達がそう呼んでいる存在だ。〈円環の理〉は、この世界の外側の存在であり、この世界を形作るルールでもある。だから本来、この世界に干渉したり、影響を与えることなど出来ないはずなんだ。けど、ある出来事をきっかけに、彼女はこの世界に干渉する手段を獲得してしまったんだ。その手段が鹿目まどか。〈円環の理〉は、鹿目まどかを通じてこの世界に自らの使いを送り込んでいる。見滝原を中心に徘徊する異形の魔物達。彼女達はいわば神の使いだ。そういう存在のことを、君達なら何と呼ぶ?」

「それは……」

 考える必要もなかった。そのような存在を表す言葉は、ひとつしかない。

「天使……」

「そうだね。けど、僕等のマスターは違う名前で呼んでいる。『魔女』とね」

「魔女……」

 マミは理由も分からず混乱した。何の変哲もない二つの語の組み合わせのはずなのに、マミはその言葉を聞いたのも、口にしたのもこれが初めてだった。

「さらに興味深いことに、〈円環の理〉がこの世界に及ぼす影響力は、鹿目まどかの成長と共に大きくなっている。今の影響力はまだこの見滝原周辺のみに留まっているけど、

あと三年もすれば、彼女の影響力は、この星全体に及ぶだろう。それはつまり、君達の生きる糧である魔獣も、やがて完全に消滅するということだよね?」

「……その時になって」

 ほむらが口を挟んだ。

「異変の原因がまどかだ、なんて事実が広まったらどうなると思う?生きる糧を失った魔法少女達が、どんな行動にでるか」

 ほむらに問いかけられ、マミは視線を落とし、想像を巡らせた。

 突然、脳裏に、磔にされるまどかと、その周囲を取り囲む魔法少女達の光景が浮かんだ。それが自分で思い描いた光景なのか、ほむらに見せられている光景なのか、マミにはわからない。

 だがいずれにしても、それは耐え難い、悪夢のような光景だった。同時にマミは心の中で、そのような未来が到来する可能性を否定した。いくら自身の存在が危ぶまれる状況に陥ったからといって、罪のない少女の命を奪うような愚を、魔法少女が選ぶはずがない。

「そんな!」

「そんなことが起きる筈ない、なんて考えているのだとしたら、貴方は人の本質というものを何もわかっていない。誰もがあなたみたいに高潔な人間じゃないのよ。だから、災いの種は摘み取らなければならないの」

「……だから、殺したの?」

 問いかける声が、怒りに震えた。そんな不確かなリスクを回避するために、詩花は犠牲になったというのか。

「ええ。人は、真実を追い求めようとする。求めた先に何が待ち受けているか考えもせず……。そしてすべてを知った時、後悔するのよ。『真実なんて知らなければよかった』って。だからそうなる前に、この世の辛苦から解放してあげたの」

 彼女の言葉を聞いてもなお、マミは怒りを抑えることができない。

「……話を戻そう」

 キュゥべえが言った。

「天使達に与えられた使命はおそらく、人間世界に紛れて暮らす悪魔を見つけ出して滅ぼすこと。神である〈円環の理〉から見れば、悪魔は摂理を乱す者として罰せられる存在ということだろう。けど、マスターは当然、まどかを幸せにする、という目的を果たすまで、彼女達に抵抗し続ける。事態はやがて、神と悪魔の全面衝突に発展するだろう。……想像してごらん。この星で神と悪魔の戦争が起きたら、どんな事態になるか。そこにはもう、普通の人間が生きる余地なんてないんじゃないかな。当然、そんな世界になってしまったら、まどかは幸せにはなれない。……これで分かっただろう。〈円環の理〉がまどかに干渉し続ける限り、彼女が幸せになれる日は永久に来ない。だとすれば方法は一つ。〈円環の理〉が、まどかに二度と干渉出来ないようにするしかない」

 そんなことが可能なのかと、マミは疑問に思った。だがそれが可能なら、まどかにとっても、世界にとっても希望の光となりうる。

「幸い、それを可能にする手段を僕達は発見することができた。それが、干渉遮断フィールドだ。遮断フィールドに閉ざされた空間は、外側の宇宙と完全に隔絶される。いかに神に等しい存在とはいえ、遮断フィールドを超えて干渉することはできない。最も手っ取り早いのは、まどか自身を遮断フィールドで覆い隠してしまうことだ。けど、そんなことをすれば、誰もまどかに干渉できなくなる。それでは、まどかは幸せにはなれないよね?だから、この案はすぐに却下されたよ。次の案は、この地球全体を遮断フィールドで覆ってしまうことだけど、……これにも致命的な問題がある。この星が生命を維持するためには、太陽のエネルギーが必要不可欠だ。けど、遮断フィールドはそれさえも遮断してしまう。地球は瞬く間に死の星と化すだろう。……そして、最終的に導き出された結論は、途方も無いものだった。この太陽系を、遮断フィールドで覆い隠す……。マスターの目的はね、遮断フィールドの力を利用して、〈円環の理〉の力の及ばない、小宇宙を創り上げることなんだ」

 あまりに壮大で、雲を掴むような計画のように感じ、マミは返す言葉を失った。本当にそんな事が可能なのか、疑念は尽きない。だが、彼らの技術力には計り知れないものがある。

 キュゥべえは続ける。

「一見完璧なようだけど、想像の通り、これほど大規模なフィールドを構築するのは容易なことじゃない。これほどの規模のフィールドを作り上げるには、膨大なエネルギーが必要なんだ。人類が今の技術で生み出せるエネルギーとは、比較にならない量のエネルギーがね。そこで目をつけたのが、魔獣のエネルギーだ」

「それって、まさか……」

 マミは、目を大きく見開いた。目眩のように、頭の中が揺らぐのを感じる。

「そのまさかだよ。君達魔法少女が魔獣を倒した後に得るグリーフシード。そこから得られるエネルギーは、余すことなく、マスターの計画のために有効に活用される。君達には感謝してもし切れないほどだよ。特に多大な貢献をしてくれたのは、君だよ。君の魔獣退治にかける情熱は、人一倍強いものだったからね」

「違う……違うっ!」

 マミは、声を荒らげた。

「私達は、こんな……あなた達の、身勝手な計画のために、戦ってきたんじゃないっ」

 意識が遠退きそうだった。魔獣を倒してグリーフシードからエネルギーを得るのは、宇宙の寿命を延ばすためだと、マミはずっと聞いていた。それが本当だと信じたから、マミはずっと彼に協力してきたのだ。

 だが、それは嘘だった。今日までの自分の戦いのすべてを否定されたような、そんな気分だった。

「やっぱり、騙してたのね……」

「幸い、遮断フィールドの構築に必要なエネルギーはもう間もなく集まる。遮断フィールドが完成すれば、〈円環の理〉がこの世界に干渉することは無くなり、まどかはこの世界で、普通の人間として幸福な人生を全うできるだろう。めでたしめでた――」

「駄目よ」

 マミがキュゥべえの言葉を遮った。

「そんなことをしたら、この星の魔法少女はもう、〈円環の理〉の救済を受けられなくなる」

 畳み掛けるようにのしかかる、残酷な事実だった。そのような世界が完成してしまったら、救済としての〈円環の理〉の力も、この世界から失われることになる。しかもその計画に、マミは知らず知らずのうちに手を貸していたことになる。〈円環の理〉を求め、信じてきたマミにとって、それは耐え難い事実だった。

「もう気づいていたのね。さすがは巴マミ」

 ほむらが感心するように言った。

「けど、貴方は知っているの?救済を受けられなくなった魔法少女が、どんな最期を迎えるか」

「え……」

 マミは俯いて思考を巡らせる。だが、答えが思い浮かばない。

「それは……」

「貴方も薄々勘づいているはずよ。ほら、貴方達に伝わる、古い言い伝えがあるでしょう?」

「私達は……世界に呪いをもたらす存在だって……」

 マミは記憶を巡らせながら、魔法少女の間に語り継がれる伝承を言葉にした。だが、その言葉がどのような意味を持つのか、マミはこれまで深く考えたことはなかった。

「だから、〈円環の理〉は……私達がそうなる前に、この世界から消し去り、その魂は〈円環の理〉とひとつになる」

「……言い伝えって不思議よね。誰が言い始めたのか知らないけれど、不思議と真実を物語っているのだから」

 マミは再び想像力を働かせ、その言い伝えのもつ意味を見出そうとした。

 やがてマミは、ひとつの結論に達した。〈円環の理〉の救済を受けられなくなった魔法少女は死後もこの世界に留まり、あたかも魔獣のように、人々を呪い、祟り、苦しめ、そして殺す。

 心が押し潰されそうになった。今日までずっと、苦しむ人々を救うために戦ってきたのに、死した後にはそれとは全く逆の存在になる。それが耐え難い未来であることは言うまでもない。

「どう?怖くなったでしょう?身の毛のよだつ思いがしたでしょう?そう、それこそが〈円環の理〉が存在する理由」

「……駄目よ……私達の希望を……奪わないで……」

「私は貴方達に、まったく救いの手を差し伸べていないわけじゃない。……佐倉杏子だけじゃないのよ。既に何人もの魔法少女が、私の力を欲し、悪魔へとその身を変えた。……それに、私達が遮断フィールドを完成させた後は、もう新しい魔法少女が誕生することもなくなる。これから先は、魔法少女に代わって、彼女達悪魔が、この世界の浄化の担い手となるでしょう」

「……悪魔になることが、救いだって言うの?」

「ええ」

「……だとしても、すべての魔法少女があなたの誘いを受け入れるとは思えない。あなたは彼女達を見捨てるつもりなの?」

「その通りよ。私はすべての魔法少女を救うつもりなんてない」

 冷たく突き放すように、ほむらは言った。

 マミは彼女の言葉から、魔法少女への憎しみの片鱗のようなものを感じた。それに反発するように、マミの心もまた、彼女に対する怒りに支配されていった。

「こいつらと違って、私の身体はひとつしかないの」

 キュゥべえの頭を撫でながら、ほむらは言う。

「どのみち、すべての魔法少女を救うなんて無理なのよ」

「鹿目さんの幸せのために、すべての魔法少女に犠牲になれと……?」

「ええ、そうよ」

「……ひとつ分かったことがある。鹿目さんが言っていたのよ。あなたが〈円環の理〉から大事なものを盗んだって……。それが何なのかずっと疑問だった。……けど、神に等しい存在から盗んだのだから、それはあなたにとっても大事なもののはず。どんな手段を使っても守り抜こうとするはずよ。そしてあなたは、鹿目さんの幸せのために他のすべてを捨て去ろうとしている。……これではっきりしたわ」

 マミは真っ直ぐな眼光を暁美ほむらに向けた。その疑問の答えは、もはや明確である。

「あなたが盗んだのは鹿目まどか。あの子はかつて、〈円環の理〉に導かれた魔法少女のひとり……。彼女の死を受け入れられなかったあなたは、彼女の魂を強引にこの世界に連れ戻した」

 いったいどんな手を使ってまどかをこの世界に連れてきたのか、マミには分からない。だがそれは、神に背くに等しい行為であることは明らかだった。〈円環の理〉が彼女を敵視する理由も、これなら説明がつく。

 マミの推論を聞き終えたほむらは、マミに冷ややかな視線を向けたまま、しばらく沈黙した。

 やがて、彼女は口を開いた。

「残念だけど、外れよ」

 嘲るように言い放った後、彼女は言葉を続ける。

「ねえ巴さん。貴方はもっと賢い人のはずよ。これまで貴方が目にしたもの、知り得た真実を整理すれば、正しい答えにたどり着けるはず」

 マミにとっては、にわかに受け入れがたい言葉だった。いま語った推論以外に、一体どんな真実があるというのか。

 マミは暁美ほむらに言われた通り、まどかに関してこれまで知り得た事実を振り返った。まどかを中心として起こる異変、夢の中でまどかに接触を試みようとした謎のソウルジェムの少女、さやかと杏子の決闘中に彼女が発揮した不思議な力。

 やがてマミは、ついさっきキュゥべえが語った事実を思い出した。まどかの魔法少女としての素質は「神の子」と呼ぶに相応しいと、確かに彼は言った。

 マミの脳裏に、ひとつの結論が浮かび上がった。それと同時に、マミはその結論を否定した。

「そんな、まさか……」

 マミが呟くと、暁美ほむらはその反応を待っていたと言わんばかりの不気味な笑みを浮かべた。

「……さすがの貴方にも想像できなかったみたいね。〈円環の理〉が、まさかひとりの人間だったなんて」

「鹿目さんが?どうして、そんな……」

「……簡単なことよ。あの子がそうなることを望んだから……あの子は優しすぎた。他人の苦しみを、自分の苦しみと錯覚してしまう程に。だからあの子は選んだのよ。自らの魂を捧げてすべての魔法少女を救う道を。そうする以外に彼女達を救う道が無かったから……。そしてあの子は、自ら課した使命に縛られてしまった。使命から解放されるためには、他者の力が必要だった。だから私が……」

 暁美ほむらがその手を汚して、まどかを使命から解放した。理解は可能だが、容易には信じられない話だった。

 そして、その話が事実であるならば、新たな疑問が浮かんでくる。

「ちょっと待って……」

 マミは、脳裏に浮かんだ疑問を、間を置かずに彼女に投げかけようとした。

「鹿目さんが〈円環の理〉なのだとしたら、今の〈円環の理〉は、一体……」

「そうね……まどかという人格を失った後の、ただの抜け殻とでも言うべきかしら……」

 頭の中が大きく揺れるような感覚に、マミは襲われた。マミは今日までずっと、〈円環の理〉が魂の救済であると信じて戦ってきた。その憧憬は、神への信仰といっても過言ではなかった。その対象を、暁美ほむらは吐き捨てるように「抜け殻」と表現した。怒りよりも、信じたものを否定されたことによるショックの方が大きかった。

「抜け殻とはいえ、自分が大切なものを奪われたということだけははっきりと自覚しているみたいね。だから、血眼になって奪われたものを取り戻そうとする。その為なら、一度救った魔法少女の魂さえも利用する。無関係の人間がどれだけ巻き込まれようとも、気にも留めない。まあ、神様の考えることなんて、そんなものよね」

 マミは放心のあまり、最早ほむらの言葉を聞き、理解することもできなくなっていた。

「さすがに堪えたようね。無理もないわ。貴方は人一倍彼女に強い憧れを抱いていたから」

「……何もかも……嘘だったの?私の信じてきたもの……すべて……」

「さて、ここからが本題。最初に話した通り、貴方に残された道は二つよ」

 暁美ほむらは微笑みながら、マミの顔を見据えた。

「貴方も杏子と同じように悪魔となり、新しい世界を生きるか――」

 そう言いながら、彼女は左手を前に差し出す。

「私達が遮断フィールドを完成させる前にこの世界から解脱し、偽りの神にすがるか――」

 そう言いながら右手を差し出す。

 彼女はその右手で詩花やさやかを葬り、左手で杏子やなぎさの母を悪魔につくり変えて来たのだろう。

「どちらでも好きな方を選びなさい。どちらを選ぶにしても、私が力になってあげるわ……」

 長い沈黙が流れた。

 嵐のように乱れていたマミの心はやがて落ち着き、自分が重要な岐路に立たされていることをはっきりと自覚するようになっていった。

 暁美ほむらが提示した選択肢は、悪魔として生きるか、死ぬかの二つである。それは、マミの予想した通りであった。そして、彼女がそのような選択肢を提示する理由も、マミは分かっている。彼女が目的を達成する上で、自分の存在が邪魔だからであろう。しかし、だからこそ、自分が選ぶべき道ははっきりしている。

 マミは俯きがちだった顔をわずかに上げ、長い沈黙を終わらせた。

「私は……心に誓ったのよ。もう後悔するような生き方はしないって……」

 マミが言うと、ほむらは目を見開いた。マミの返答が、自分の期待と異なっていたのだろう。

「私と同じように、希望を信じて戦ってきた魔法少女がこの世界には数えきれないほどいる。私は、彼女達を見捨てて先に死ぬことなんてできない……。そして、悪魔に身を堕とすつもりもない。あなた達は、嘘つきの、人でなしよ。あなた達に与するような真似は、死んでも御免だわ」

 魔法少女として生き、暁美ほむらに立ち向かう。それが、マミの選んだ道だった。

 ほむらは失望の表情を浮かべながら、右手に握っていたマミのソウルジェムを、肩に乗ったキュゥべえの眼前に差し出した。

 彼は応じるように、右前足をそっとソウルジェムの上に添える。

 次の瞬間、マミは腹の中をえぐられるような激痛を覚え、拘束されたままその場で悶え苦しんだ。

「一体どうやって私に立ち向かおうっていうの?この街に残された魔法少女は、もう貴方ひとりしか居ないのよ」

「ひとりでだって戦えるわよ。私はずっとそうしてきた。……私は絶対、諦めない。あなたの思い通りにはさせない……!」

 その言葉の直後、マミのソウルジェムに、微かな黒い穢れが生じた。ほむらは、その変化を見逃さなかった。

「へぇ、貴方のような人でも誰かを呪うことがあるのね」

 笑みを浮かべながら、ほむらは言う。

「ねえ巴さん、もっと私を呪って頂戴。いま初めて気づいたのだけど、貴方に呪われるのって、すごく、快感」

 狂っている。

 マミの耳元に顔を寄せて囁いた後、ほむらはマミのソウルジェムを持ったままその場を立ち去ろうとする。

「待って!」

 マミが声を上げると、ほむらは立ち止まって振り返った。

「そこでじっくり考えなさい。自分の選択が、本当に正しかったのか」

 ほむらは再びマミに背を向けると、規則正しい靴音を立てながらマミの前を去って行った。

「待って!ソウルジェムを、返して!」

 声を荒らげて要求するが、彼女は聞き入れず歩き続ける。

 彼女の肩に乗ったキュゥべえが振り返り、いつもと変わらぬ無表情でマミの顔を見つめる。

「待ってよ……ねえ……」

 弱々しい声で彼に語りかけるが、彼もまた応じる素振りを見せない。

 やがて暁美ほむらは、キュゥべえと共に暗闇の中に消えた。

 マミは自身のソウルジェムを見失った。その後に待っている恐怖を、マミは知っている。

 直後、身体を拘束していたリボンが溶けるように消滅した。やはり、拘束はマミ自身の魔力を利用して編み出されたものだった。

 マミの身体は誰もいない薄暗い空間に放り出された。今この瞬間なら、暁美ほむらを追ってソウルジェムを取り戻すことが出来るかもしれない。そう思い立ち、足を踏み出そうとする。

 だが、それは儚い希望だった。

 マミは再び、身体の自由が奪われるような感覚に陥った。

 それと同時に、脳裏に、過去に見た光景が鮮明に蘇った。

 マミが見ていたのは、自動車の天井だった。身体の自由が効かず、視線だけを前後左右に動かす中で、マミは車全体が不自然な形に歪んでいることに気づいた。

 手に、ベタベタとした生暖かい不快な感触がまとわり付くが、それが何であるのか、確かめる体力も、気力もない。

 すべてが異常な状況だった。ほんの数分前まで、自分はいつもと変わらない家族とのドライブを楽しんでいた筈だった。だが、それが一瞬の出来事によって急変してしまった。事故に遭ったのだと自覚した瞬間、マミの心は恐怖に支配されていった。

 やがて、目の前にキュゥべえが現れた。

 彼に助けを求めることに、マミは何のためらいも持たなかった。

「助けて……」

 消え入りそうな声を発しながら、彼に手を伸ばした。

「無理だ」

 素っ気ない口調だったが、マミにとっては無情の言葉だった。

「僕に助けを請うんじゃない。君自身の願いを遂げるんだ。それ以外に、君がこの場から抜け出す道はない。……分かるだろう?自分の命が潰えようとしているのを」

 マミはその時になってようやく、自分の手にまとわり付くものが自身の血であることを理解した。怖い。こんな場所で、こんな形で、自分の人生は終わってしまうのか。

「何の願望も持たずに生きている人間はいない。それは、死んでいることと変わらないからね」

 幸福な自分には望むものなど何もない。かつてマミはそう言って、キュゥべえの提案を拒んだ。だが、それは誤りだった。

 今のマミには、願望がある。それはマミに限らず、あらゆる人間が持つ、根源的な欲求だった。それを自覚した時、目に涙が溢れた。

「わたし……私は……」

 視界が涙で滲む中、マミはキュゥべえの姿を見据え、必死で彼に手を伸ばした。

「生きたい――」

 マミの意識は再び、現在へと戻された。まるで、走馬灯を見ているような感覚だった。

 自由を奪われた身体は、人形のように、膝から崩れ落ちながらその場に倒れた。

 頬が触れた床は、氷のように冷たかった。やがて皮膚の感覚も無くなり、マミの意識は周囲の暗闇に溶けるようにして潰えた。

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