終末の物語   作:Wiseman

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第九話 過去でも未来でもないどこかで

 暁美ほむらが魔女達から身を守るために自宅内に築き上げた結界は、広大で、複雑に入り組んでいる。

 ひとたび結界の外に出れば、そこはほむらにとって安全な場所ではなかった。それほどまでに、〈円環の理〉の世界への干渉は激化していた。魔女達は常に、悪魔の命を狙っている。

 だが、結界の中にいる限りは安全だった。それは魔女の築く結界よりはるかに強固で、たとえ魔女といえども容易に破ることはできない。

 その結界内の薄暗い一室に、ほむらは一人佇んでいた。

 ほむらは待ち続けている。遮断フィールドさえ完成すれば、罪人のように身を潜める必要もなくなる。真の意味で、ほむらはこの世界の支配者となることができるのだ。己の為ではなく、まどかの幸せの為に。

 気がつくと、背後にキュゥべえが鎮座していた。

「マスター、喜ぶといい」

 キュゥべえが言う。

「干渉遮断フィールドの準備があとわずかで整う。今この瞬間も、世界中の魔法少女達が僕達に魔獣のエネルギーを提供してくれている。……その行為が、やがて自らの破滅をもたらすことになるとも知らずにね」

 いつも通りの淡々とした口調だが、どこか皮肉を込めたような口振りであった。

「彼女達の犠牲で、まどかと、この世界が救われるのよ。そう考えたら……安い代償だと思わない?」

「君はいつも澄まし顔でそう言うけど、本当は、全く罪の意識を感じていないというわけでは無いんじゃないのかな?」

「……何が言いたいの?」

 口の減らない下僕だ、というのが、ほむらの内心であった。口を利けないように改造してやろうかと思ったのは、おそらくこれで百度目くらいだろう。

「だってそうだろう?何も感じていないとしてら、なぜ百江なぎさを助けた?」

 彼が問いかけるが、ほむらは沈黙する。

「なぎさの母親は、なぎさを守るという、ただそれだけの目的で君と取引したようなものだ。だから、それ以外の目的で悪魔としての力を発揮することは無いだろうし……実際、君は彼女に対して何の見返りも求めなかった。君にとっては何の得にもならない取引の筈なのに、なぜ君は……」

 彼がそのことを疑問に思うのは当然のことであった。だがほむらは、理由を話す気など全くない。この無感情な生物に、自分を理解して欲しいなどとは露ほどにも思わない。

「答えたくないのなら別に構わない。君が何を考えているにせよ、僕達は君についていくつもりだよ」

「……遮断フィールドの準備、なるべく急いだほうがいいわ」

 ほむらは、より重要な問題に話題を移した。

「何故だい?」

「美樹さやかが記憶を取り戻した。普通ならば考えられないことよ。〈円環の理〉の力を持つ者は、時間を越えて記憶を運ぶことができる。もしそれが事実だとすれば……」

「まどかが記憶を取り戻すのも時間の問題というわけかい?……いっそのこと、すべての真実を打ち明ければいいじゃないか。そうすれば、彼女の理解も得られるんじゃないかな?」

「駄目よ」

 暁美ほむらは強く否定した。それだけは、絶対にあってはならないという、強い思いがある。

「思い出せば、あの子は一層、私への怒りを募らせることになる」

「やっぱりよく分からないよ。人間の感情というものは。人の幸福の為に尽くすことが、なぜ相手の怒りを買うことに繋がるんだい?」

 つくづく思うことだが、この生き物は人類とはそれなりに長い付き合いの筈なのに、なぜこうも人間の感情に関して無理解なのだろうか。そんな考えが浮かび、彼の疑問に答える気力も湧かなくなった。

「急ぐ理由はそれだけじゃない」

 話題を戻し、ほむらは続ける。

「彼女が、あれを送り込んでくるかも知れない。もしそうなれば厄介なことになる。だから、その前に決着を付けたい」

「……あれ、というと?」

「とにかく厄介なものよ」

 ほむらはそれ以上語ろうとはしなかった。遮断フィールドさえ完成させれば、「あれ」を再び目にすることもなくなる。だから、わざわざ教えてやる必要などないのだ。

 

 

 

 

   ――――

 

夕刻に帰宅したなぎさは、特に理由もなく母の書斎に足を踏み入れた。

 机の上に、描きかけの原稿や資料が無造作に積み上げられている。長らく掃除されていなかったせいか、机には埃がかぶっていた。

 母が退院してから今日まで、なぎさは母が書斎に入るところを見たことがなかった。そればかりでなく、母はなぎさが書斎に入ることさえ禁じた。

 近頃の母は、家事をしているか、そうでない時はリビングの椅子に座って本ばかり読んでいる。なぎさは、本を読み耽っている時の母が怖かった。目が虚ろで、心がどこか遠くに飛んで行ってしまっているかのように見えるのだ。

 積み上げられた埃まみれの資料の間に、一枚の写真が挟まっているのを見つけた。興味に駆られて、なぎさは写真を引き抜いた。

 写真は色褪せていて、所々にしわができていた。映っていたのは、若い両親と、母と同じ位の年齢の若い女性だった。母は腕に赤ん坊を抱いていた。きっと自分だろう。大人達は、みな幸せそうな笑みを浮かべている。

 ごく普通の家族写真のようにも見えるが、なぎさにとっては不思議な写真だった。母の隣に映る女性は、なぎさの全く知らない女性だった。母と親しそうに見えるが、家族のアルバムのどの写真にこのような女性は映っていなかったし、母は自身の友達の話をしたことがなかった。

「書斎には入るなって言ったでしょう?」

 背後で、母の低い声が聞こえた。不意を突かれ、全身に緊張が走った。

「ごめんなさい」

 以前なら口ごたえをするところであったが、今の母に対しては、ただ謝ることしかできない。

 なぎさは写真を机の上に置き、部屋を出ようとした。

「……また巴さんの所に行っていたの?」

 母に問われ、なぎさは足を止めた。

「あ……うん。でも、今日は会えなくて……」

 母に内緒で、なぎさは何度か学校帰りにマミのもとを訪れていた。マミのことが心配だったからである。しかし、昨日からマミが家に帰っている気配がなく、より一層不安は大きくなっていた。

 そのせいで帰りが遅くなっていたことを、母は敏感に察していた。母の目をごまかすことはできなかった。

「巴さんとはもう会わないって約束したわよね?どうして、約束を守ってくれないの?」

「ごめんなさい。でも、なぎさ……マミのことが心配で……」

 なぎさが答えると、母は衝動に駆られたようになぎさの肩に手を置き、膝をついた。

「どうして約束を守ってくれないの?どうして……わかってくれないのよ!お母さんがあなたのために、どれだけ……苦しい思いをしてきたか……」

 震えた声で、母は激しく叱責する。

 なぎさは返す言葉を見つけられず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「お母さんが怖い?」

「……ううん」

 母の問いに、なぎさは嘘で応じた。

「はじめから分かっていたのよ。私が望んだ力は、穢れた力だって……。それでも私は、力に飲み込まれないように戦ってきた。あなたの、正しい母親であり続けたいって……。けど、駄目……時々、何もかも壊してしまいたい衝動に駆られるの……。ねえ、私はどうすれば良かったの?あの時、あの病院で、あのまま運命に従っていれば良かったの?」

「違うっ。それは違う」

 反射的に、母の言葉を否定した。

「わたし、お母さんの病気が治ったって聞いた時、本当に嬉しかった。またお母さんと一緒に暮らせるって知った時、飛び跳ねるくらい嬉しかった。けど――」

 なぎさは必死に、自身の気持ちを伝えようとした。だが、やがて声のトーンが落ちた。

「あの時……お母さんの本当の姿を見た時、思ったの。……奇跡は、ただじゃないんだって」

 母は黙って俯いたまま、身体をわずかに震わせている。

「わたしは、お母さんの描いた本を読むのが好きだった。仕事に打ち込むお母さんの背中を見るのが好きだった。ねえお願い、あの時にお母さんに戻って」

 なぎさは笑みをつくって、母にそう懇願した。

「描けないのよ……もう……」

 母の返答は、なぎさの願いをあっさりと打ち砕いた。

 描けないというのがどういう意味なのか、なぜ描けなくなってしまったのか、なぎさにはわからなかった。だが、それをどう問いただして良いのかわからず、その日の母との会話はそれきりとなった。

 

 

 

 

   ――――

 

 まどかはマミの部屋の呼び鈴をゆっくりと押した。

 あの日の放課後、マミと別れて以来、まどかはマミの姿を見ていなかった。翌日は学校に来ず、心配になって彼女の部屋を訪れたが、マミが帰っている気配はなかった。

 結局この日も、マミが呼び鈴に応じることはなかった。

 まどかは途方に暮れかけていた。こんな時、以前のまどかなら真っ先にさやかを頼った。だが、そのさやかはもう居ない。

 マミの部屋を去ろうとして通路に目を向けた時、まどかは脇に小さな女の子が立っていることに気づいた。少女は暗い顔をしていた。まどかはまるで、鏡に映った自分の顔を見ているような気分になった。なぎさもまた、マミが家に帰っていないことを心配して、度々マミの家を訪ねていたのだろう。

 まどかはなぎさを連れてマンションを後にし、近くの公園に立ち寄った。陽はすでに西に傾いていて、空が橙色に染まり始めていた。二人は、公園のベンチに腰を下ろした。

「なぎさ、本当はマミとは会わないってお母さんに約束させられていたのですが、その約束を破ってしまって……」

 視線を落としたまま、なぎさは家族の現状を打ち明けた。

「お母さん、前はもっと優しかったのに……今はなんだか、別の人みたいで……」

「お母さんは、なぎさちゃんのことを心配してるんだよ」

 なぎさを慰める言葉を探そうとしたが、よい言葉を見つけられなかった。だが、母がなぎさのことを心配しているのは間違いないことだろうと、まどかは思っていた。マミの魔法少女としての姿を、あの日、母は目の当たりにした。それが、なぎさをマミに近づけたくない理由であることは容易に想像できる。

「でも、どうして?」

 なぜ約束を破ってまでマミに会おうとしていたのか、まどかは気になった。

「お母さんのこと、大切に思っているんでしょ?」

「わたしは……マミの力になりたかった……。みんなの為に頑張るマミを見て、すごくかっこいいなって、思ってたのです。はじめは、見ているだけで良かった。マミにはもう、頼れる仲間がいるから、わたしが役に立てることなんて何もないって。でも、さやかも杏子もいなくなってしまって」

「なぎさちゃん……」

「……わたし……ずっと考えていたのです……。わたしが魔法少女になれば、お母さんを元に戻してあげられるかもって……」

「でも、お母さんがそのことを知ったら、きっと悲しむと思う」

 まどかはそう言って彼女をなだめた。魔法少女の使命を背負うには、彼女は幼すぎると、まどかは思っていた。同じことを、マミも思っていたはずである。

「正直に言うとね、わたしも同じ気持ちだった」

 まどかは笑みを浮かべた。それは誰にも打ち明けたことのない、心の底に隠していた気持ちである。

「わたしも、マミさんやさやかちゃんや杏子ちゃんみたいに、誰かの役に立てたら……皆と肩を並べて生きていけたら、どんなに辛くても、それは幸せな生き方なんだろうなって……。でも、自分は魔法少女になれないって言われて、悔しかった。結局わたしは、誰の役にも立てないまま、みんなとは違う人生を生きていくんだろうなって……。でも……」

 今のまどかには、まだやるべきことがある。彼女達を見捨てて普通の暮らしに戻ることなどできない。

 まどかはひとつの決意を固め、ベンチから立ち上がった。

「なぎさちゃん、マミさんのこと、わたしに任せて欲しい」

 真っ直ぐな視線をなぎさに向け、まどかはマミの捜索を申し出た。

「マミさんはきっと生きてる。わたしが必ず見つけるから、だから安心して」

 なぎさは不安そうな表情を浮かべたまま黙っていたが、やがて消え入るような声で

「なぎさにも……手伝わせて……」

 と言った。

 まどかは、かぶりを振った。

「お母さんをこれ以上心配させちゃ駄目」

 マミを助けたいというなぎさの気持ちは十分理解している。だが、彼女の意思を尊重すれば、彼女を危険に巻き込むことになるかもしれない。

 なぎさは納得している様には見えなかったが、反論もせず、力なく「はい」と返事をすると、家に帰って行った。

 

 

 マミを見つけ出す、と決心したものの、一体どうすればそれを果たせるのか、まどかには明確な考えがあるわけではなかった。ひとつ確かなことは、それが自分一人の力では到底成し遂げられないということであった。

 だがまどかは、頼るべき相手を完全に失ったわけではなかった。

 杏子は今もおそらく風見野にいる。頼るべき相手は、彼女の他に考えられない。

 携帯電話での呼び出しに、彼女は意外にもあっさり応じた。大事な話がある、と用件だけを伝えて、まどかは風見野の杏子のもとを訪れた。

 市の中心地にある駅ビルの屋上で、まどかは杏子と再会した。フェンス越しに、ひっきりなしに電車が往来する様子が見える。

 彼女と会うのは、彼女とさやかが仲違いしたとき以来であった。黒いパーカーをまとった彼女は、見滝原にいた頃よりいっそう粗野なイメージが増していた。だがその眼光には、以前のような鋭さは失われていた。

 まどかは彼女に対し少なからぬ恐れを抱いていた。杏子は暁美ほむらと取引をした。もし杏子が完全に暁美ほむらに協力する立場にいるとしたら、マミ探しの協力を得ることなど出来ないだろうし、ここでマミの話を持ち出すことが逆にマミの命取りになるかもしれない。

 まどかは本題に入る前に、杏子がまだ恐らく知らないであろう事実を伝えた。さやかの死である。

 杏子は背中を見せたまま、その表情を見せようとはしなかった。無言のままゆっくり頭を垂れ下げると、やがて吐くように

「なんだよ……さやかの奴」

 と呟いた。

「自分のことも大事にしてるって言ってた癖に……あれは……嘘だったのかよ……」

 声を震わせながら、今は遠い存在となったさやかを責め立てるように、杏子は言った。

「クソッ!」

 声を荒げると、目の前の防護柵に当たり散らした。

 彼女の反応を目にした瞬間、まどかの中にあった彼女への恐れは消え去った。杏子は変わっていなかった。粗野で自分勝手だが友人の身も案じる、見滝原にいた頃と変わらない杏子がそこにいた。

「ごめんね……さやかちゃんのそばにいるって約束したのに……わたし……何もできなかった……」

 気がつくと杏子に対する申し訳ない気持ちが溢れ、まどかは目に涙を浮かべていた。

「なんであんたが謝る?あんたはちゃんと約束を守ってくれたじゃねえか。悪いのはあの悪魔だ……そうなんだろ?」

 図らずも、杏子と暁美ほむらが完全な協力関係にないことがはっきりした。

 ここで話題を切り替えるのはまどかにとっては辛い選択だったが、杏子に会いに来たのはさやかのことを伝えるためではない。

 まどかは意を決して、話を本題に移した。

「マミさんがね、家に帰ってないの」

 その事実を伝えた直後、杏子は振り返り、狼狽した表情をまどかに向けた。

「まさか……あいつまでやられちまったのか?」

「違うっ……」

 反射的に、彼女の言葉を否定する。

「マミさんは、ひとりで無茶をするような人じゃない。きっとまだ生きてる。だから……杏子ちゃんにお願いがあるの。マミさんを探すの、手伝って」

 まどかが懇願すると、杏子は再び背中を向け、黙りこんでしまった。

「マミさんは、暁美さんのところにいるかもしれない。もしそうだとしたら、もうわたし一人では取り戻せないと思うの。だから……」

「もしあいつに捕まっちまったんだとしたら、マミだってもう……助かる望みなんてないんじゃないか」

「そんな……!」

 まどかは声を荒らげたが、すぐに気持ちを落ち着かせた。今は、感情的になるべきではない。

「諦めちゃうの?マミさんのこと」

 まどかが問うが、杏子は沈黙を続ける。

「杏子ちゃんらしくないよ、そんなの……。杏子ちゃん、前にわたしに言ってたでしょ?最後まで、諦めたくないって」

 杏子は振り返り、無表情な顔でまどかを見た。何かを考え込むように視線を脇に逸らすと、しばらくの沈黙の後に口を開いた。

「……あたしがいつそんなことを言った?」

 まどかにとっては落胆の言葉だった。それは確かにかつて杏子が発した言葉だった。だが、いつのことだったか。

「いつって……それは……」

 杏子に問われるままに、まどかは自身の記憶を辿ろうとした。だが結局、いつ、どこで彼女がその言葉を発したのか、思い出すことができない。単なる思い過ごしか、無意識に刻まれた別人の記憶なのか、それすら分からない。

「いつ……だったかな……。とにかく、わたしは諦めたくないの、マミさんのこと。だからお願い」

「なんで、あたしにそんなことを頼む?あんただって分かってるだろ?今のあたしが何者か。あたしは魔法少女に背を向けた……。あんたの友達を殺したあの悪魔と同類なんだよ」

 自身を嘲るように、杏子は言う。

「違うと思う」

 迷いのない真っ直ぐな声調で、まどかは彼女の言葉を否定した。

「杏子ちゃんが悪魔になったのは、自分自身のため……マミさんやさやかちゃんに背を向けたかったわけじゃない。あの時さやかちゃんと喧嘩になったのも、本当はさやかちゃんのことを案じてたから。さやかちゃんが言ってたの。わたし達は、運命共同体なんだって。つらい運命だって分かっていても、仲間がいるだけで、心が救われるんだって。杏子ちゃんだって、本当は、同じ気持ちだったんでしょ?だから、一緒に戦ってきた……」

 杏子は、すぐには答えなかった。だが、その背中からは迷いが感じられた。マミを助けたいという気持ちは、まどかと同じように杏子も抱いている筈である。あるいはまどか以上に、マミのことを案じているかもしれない。

 長い沈黙の後に、杏子が振り返った。

「案内してくれ。あいつの家に」

 そう嘆願する杏子の表情に、迷いは無くなっていた。

 まどかは大きな安堵とともに笑みをこぼした。

「ありがとう」

 

 

 杏子を連れて再び見滝原に戻った頃には、陽は落ちて辺りはすっかり暗くなっていた。

 暁美ほむらの家を目指して歩くまどかの後を追うように、杏子は歩いていた。

 会話は少なかった。杏子と接する時はいつもさやかが一緒だったので、二人きりになるとどんな話をしてよいか分からない。

 やがて、杏子が沈黙を破った。

「マミは……あたしがまだ魔法少女になったばかりの頃、いろいろと面倒を見てくれたんだ。優しくて、時々おっかない……。あいつは、誰かの為なら、自分の命なんて惜しくないって思ってるところがあった。あたしには、マミのそういうところが怖かった」

「杏子ちゃん」

 思い出話をするのはまだ早い、と言いたくなって、まどかは口を挟んだ。

「……悪い。これからマミを見つけるんだったな……」

 察するように、杏子は苦笑いを見せて謝った。

「それにしても、変な感じだよな」

「……何が?」

「あんたがあたしの前を歩いてるなんて」

「……だって、杏子ちゃん、暁美さんの家知らないから、わたしが案内しないと……」

「いや、そういうことじゃなくてだな……あんた、怖くないのか?」

 杏子の問いかけに、まどかはどう答えて良いか分からなかった。

「生身の人間が悪魔に挑もうっていうんだ。普通ならもっと怖気づくところだと思うんだけど……あんたの足には迷いがないように見える」

「……自分でもよくわからない」

 まどかは視線を落としながら答えた。

「わたしね、本当は、暁美さんとも友達になれたらって、ずっと思ってた。今ではもう、それも叶わないけど……でも、話をすることくらいは出来ると思うの」

 もしも相手が言葉の通じない理性なき怪物だったら、きっと怖気づいていたに違いない。だが、暁美ほむらはそうではない筈だ、というのが、まどかに残されていたかすかな希望だった。

 言葉を交わす間に、二人は暁美ほむらの家にたどり着いた。

 まどかは呼び鈴を何度か鳴らした後、ドアノブに手を触れるが、扉は固く閉ざされており、開けることができない。

「普通の方法じゃ入れねえよ。これは……悪魔の結界だ」

 玄関前に腰を下ろしていた杏子が言った。

「悪魔の結界?」

「強力な結界だ。この中にいる限り、あのバケモノどもに襲われる心配もない」

「じゃあ……入れないの?」

 まどかは焦った。ここまで来たのに、中に入ることすら出来ないのか。

「いや。あいつにこの力を授かる時に、作り方を教わったんだ。作り方が分かれば、破り方も分かる」

 まどかは杏子に目を向けた。杏子は自身のダークオーブを取り出し、もう片方の手に握られた魔獣のグリーフシードをかざしていた。

 まどかはその不可解な行動を見て動揺した。杏子のダークオーブが、グリーフシードの穢れを吸収しているように見えたのだ。

「杏子ちゃんっ!何してるの……?」

「こうでもしないとな……あいつに勝てな――」

 突然、杏子が言葉を詰まらせた。手が一瞬震えたかと思うと、持っていたダークオーブとグリーフシードが手から落ちた。

 杏子は瞳を震わせながら、手を額に当てた。

「なんだ……これ……」

 まどかは慌てて膝を下ろし、杏子の顔を見た。まるで何かに取り憑かれたような、ひどい顔をしている。

「杏子ちゃん……大丈夫?」

「いや……なんでもねえ……まどかは下がっててくれ」

 杏子は落ちたダークオーブを拾い上げるとゆっくり立ち上がり、悪魔の姿へと変身した。

 そして、扉の前に立った。

 扉をめがけて槍の一振りを与えると、扉に亀裂が生じた。

 杏子は後ろに立つまどかに手を伸ばした。それは、無言の覚悟の問いかけであった。もしマミが中にいれば、彼女を救い出すまで、外には戻れないだろう。

 まどかは杏子の手を握った。問われるまでもなく、自分はマミを助けるためにここに来たのだ。

 杏子はまどかの手を引き、勢いよく亀裂に飛び込んだ。

 気がつくと、薄暗く広大な空間が、二人の眼前に広がっていた。以前まどかが暁美ほむらの家を訪れた時に連れて来られた武器庫のような部屋とは、また異なる場所だった。

 今度は、屋外のようだ。一切の生命の気配を感じない、荒野のような場所。だが、ただの荒野ではなく、所々に墓標のような石が建っている。空は今にも落ちそうな厚い雲に覆われて黒く、その随所を赤い亀裂のような光の筋が走っている。何にせよ、心を落ち着かせるには不向きな空間だった。

「出て来い!いるのは分かってるんだ!」

 杏子が声を張り上げる。

 時間の経たないうちに、二人の正面に翼の生えた人の姿が見えた。暁美ほむらだった。

「人の家に勝手に入らないで貰える?迷惑よ」

 射るような視線を二人に浴びせながら、ほむらが言った。

「……で、何しに来たの?」

「分かってんだろうが」

 杏子は一歩前に出ると、暁美ほむらを睨んだ。

「さやかが世話になった礼をしに来たんだよ」

「……そう、美樹さやかの敵討に来たの?」

 ほむらに向けられた杏子の視線は、怒りに満ちていた。まどかはその時初めて、杏子がここに来た目的を見失いかけていることに気づいた。

「違う……違うの!わたし達、マミさんを探しに来たの」

 まどかは駆けるようにして杏子の前に出ると、ここに来た本当の目的を訴える。

「マミさん、ここに居るんでしょ?お願い、解放して」

「巴マミが居なくなったから、真っ先に私を疑うというわけ?」

 問いかけながら、ほむらはその視線をまどかに向けた。見る物を凍りつかせるような、冷たい視線だった。

「当たり前だろうが」

 杏子が答える。

「悪いけど、そんな理由で来たのなら、貴方達の期待には応えられないわ。帰って頂戴」

 ほむらはそう言いながら、自分の両手を背後に隠す仕草を見せた。

 その違和感ある行動を、杏子は見逃さなかった。杏子は素早い動作で、手に握った槍を彼女の胸にめがけて突き出した。

 ほむらはその一撃をかわすと、右手で杏子の槍を掴みとった。

 その時ようやく、まどかは彼女の右手に黄色い宝石の指輪がはめられていることに気づいた。それがマミのソウルジェムであることは疑いようがなかった。

「てめぇ……マミに何しやがった」

 怒りに声を震わせながら、杏子が問う。

「別に、何も。ただ、彼女が私の提案を拒むものだから、こうしてちょっと、頭を冷やしてもらってるの。ねえ?巴さん?」

 左手でマミのソウルジェムを撫でさすりながら、ほむらは笑顔で言った。

「ふざけやがって……」

「お願い、マミさんを解放して!」

「無理よ」

 突き放すように、ほむらは言う。

「貴方は、巴マミをここから連れ出すことが、彼女にとっての救いだとでも思っているの?それは大きな間違いよ。……けど、いいでしょう、まどか」

 ほむらはそう言って、右手をまどかに差し伸べる。

「貴方だけ、特別に彼女に会わせてあげる」

 まどかはその言葉を聞いても、彼女への不信感を改めようとはしなかった。

「……会わせた後で、マミさんのことも殺すの?」

 まどかが問うと、ほむらは差し伸べた右手をそっと降ろし、視線を斜めに落とした。

「殺すつもりならとっくにそうしてるわよ。そんなに私のことが信じられない?」

 苛立ちのこもった口調で、ほむらが問う。

「わたしは……心のどこかでずっと思ってた。あなたのこと、信じたいって……。けど、今はもう何も信じられない。ねえ、いつまでこんなことを続ける気なの?あなたは……どれだけ奪えば気が済むの?」

 理性的な交渉をするつもりでここへ来た筈なのに、気がつくとまどかは、彼女への怒りと不信感を露わにし、話し合いをするような冷静さを失っていた。なぜ、こんな言葉ばかりが出てくるのだろう。なぜ、自分の感情さえ、思い通りにならないのだろう。

 まどかはゆっくりと後ずさりし、杏子の背後へと移動した。

「『話し合い』は終わりか?」

 杏子がまどかに問いかけた。それが杏子なりの皮肉であることはまどかにも分かった。

 杏子は一歩前に出てほむらを睨んだ。

「どうあってもマミを返すつもりはねえんだな?」

「何度も同じことを言わせないで」

「だったら仕方ねえ。力ずくで奪い返すまでだ」

 二人の悪魔が、睨み合う。

 先手を打ったのは、杏子だった。

 槍を振り回し、足を踏み出したかと思うと、勢いよくほむらに飛びかかった。

 呼応するように、ほむらは長身の銃を出現させ、銃口を杏子に向け引き金を引いた。

 まどかは彼女の銃に目を奪われた。彼女が握っていたのは、マミ愛用のマスケット銃だったのだ。

 杏子の表情が怒りへと変わった。ほむらが、杏子をからかっているように見えたのだろう。

 勢いよく跳んで、二撃、三撃と槍を振るった。

 まどかには、二人の戦闘を目で追うことはもはや困難になっていた。二人の動きの機敏さは完全に人間離れしている。

 二人の戦闘は長引いた。ほむらの放つする何発もの銃弾が飛び交い、杏子は幻術を駆使してほむらを撹乱した。

 杏子は執拗にほむらの右腕を狙い続けた。力ずくで奪い返す、とは即ちそういうことなのだろう。

 飛びまわる杏子の目の前に、突如として握り拳ほどの大きさの黒い塊が落ちてきた。

 手榴弾だった。

 杏子は反射的に、目の前に格子状の結界を張って炸裂によるダメージを防ごうとする。

 杏子は背後に退き手榴弾から離れようとするが、間もなく弾は炸裂し、杏子は爆風で吹き飛ばされた。結界による防御は不完全だった。

 床に寝そべる格好になった杏子は即座に起き上がろうとする。

「杏子ちゃん!」

 まどかは倒れる杏子を見て慌てて彼女の元に駆け寄る。

 杏子は立ち上がって再び攻勢に転じようとするが、突然、ピタリと動きを止めた。

 静寂の中に、ガラスの割れるような音が響く。

 何か身体の不調を感じているかのように、杏子は目を見開いたまま、そっと胸元に手を当てる。

 杏子は次に、視線を胸元に向けた。

 まどかはようやく、杏子の身に起こった異変を正しく把握した。彼女のダークオーブに何本もの亀裂が走り、小さな欠片が胸元から落ちるのを目の当たりにしたのだ。

 戦場と化していた空間は静まり返り、コツ、コツ、という足音だけが響き渡った。ほむらが杏子のもとに歩み寄る足音だった。

 ほむらは杏子の数歩手前で足を止め、マスケット銃の銃口を杏子の胸元に向ける。

 杏子は身体の自由を奪われたのか、その場から動こうとせず、呆然とした表情で銃口を見つめていた。

「あ……」

 杏子が溜め息のような小さな声を漏らした。

 ほむらは銃口を杏子に向けたまま、凍るような視線をまどかに向けた。

「駄目っ……杏子ちゃ――」

 バンッ、という乾いた音と共に、杏子の濁った宝石は粉々に砕け散り、その身体は仰向けとなって冷たい床へと倒れた。

 まどかは放心したまま杏子のもとに駆け寄り、彼女の脇に膝を落とした。

「杏子ちゃん!杏子ちゃん!」

 身体を揺さぶりながら、まどかは杏子の名前を呼び続ける。しかし、反応がない。彼女の瞳は何もない宙を捉えたまま、微動だにしない。そこに、生気は宿っていなかった。まどかの身体が、小さく震えた

 杏子が、死んでしまった。

 否、自分が杏子に助けを求めたばかりに、杏子を、死なせてしまった。

 その身体は、たった今息絶えた人間のものとは思えないほど冷たかった。彼女は既に、人間とはまったく異質の存在に変わってしまっていたのだ。

 だが、それでも彼女はまどかの友達だった。まどかは再び、友が死ぬのを黙って見ていることしか出来なかった。自身の無力さへの怒りと苛立ちが、心の中で膨れ上がる。だがそれ以上に、他者への怒りがまどかの中に湧き上がっていた。

「返して……」

 杏子の亡骸を抱えたまま、消え入るような小声で、まどかは呟いた。

「返してよ……」

 ゆっくりと立ち上がって、杏子の脇に落ちていた彼女の槍を両手で拾い上げた。

「みんなを……返して……」

 杏子が箸のように軽々と扱っていたその槍は、まどかにはあまりにも重く、腰の下で支えるのがやっとだった。

 まどかはそのままゆっくりと暁美ほむらに歩み寄った。ほむらが一歩、後退りするのが見えた。

 彼女の目の前まで迫ると、まどかは槍の先端を目一杯振り上げ、彼女の右腕めがけて振り下ろした。

 だがまどかには、槍を自在に操るほどの力は無かった。槍は空を切り、その都度、まどかは槍を振り直した。

 やがて、ほむらの右手が槍の先端を掴んだ。そのまま力を入れて手を右に振るうと、まどかは槍ごと振り回される格好になり、勢いよく床に倒れた。

「……気分はどう?」

 直後に発せられたほむらの言葉に、まどかは混乱した。

 それが自分に向けられた言葉でないことを理解するのには、わずかに時間を要した。

 ほむらの視線は、まどかとは別の方を向いていた。彼女の視線の先にあったのは、杏子だった。

 まどかは唖然とした。つい先ほど息絶えたと思われていた杏子が、上体を起こしたまま呆然とした表情を浮かべている。

 安堵と恐怖の入り混じった混沌とした感情に、まどかは飲み込まれた。一体、彼女の身に何が起こったのか。

 杏子は再び、自身の胸元に手を添えた。まるで砕け散った石から原型を復元した後のように、亀裂の走ったダークオーブが彼女の胸元にあった。

 

 

 

 

   ――――

 

 まるで麻酔から醒めた後のように、身体は重く、いうことを聞かなかった。

 意識を失っていたのは、おそらくほんの僅かの間だろう。

 再び意識が明瞭になった時、視界に入ったのは、自分の槍を手に持って振り回すまどかの姿だった。その姿は随分と滑稽だった。きっと、自分が死んだと思い込んで、怒りに駆られたのだろう。

 だが、杏子は生きている。

 意識を失う直前、杏子は自身のダークオーブが粉々に砕け散るイメージを見た。だが、そのダークオーブが、今は自身の胸元にある。あれは幻だったのだろうか。

 どうやら、そうではなさそうだ。ダークオーブには、まるで破片から復元した石のように、縦横無尽に亀裂が走っている。

 杏子は混乱した。ソウルジェムから形を変えたとはいえ、ダークオーブは自身の魂の筈である。その魂を砕かれたにも関わらず、自分はまだ生きている。

「杏子ちゃん……!」

 まどかが、慌てた様子で駆け寄ってきた。混乱しているのは、どうやらまどかも同じのようだ。

「あたし……何が……」

 自分は生きているのか。あるいは死んでいるのに身体が動いているのか。自分という存在が曖昧になるのを感じ、杏子は身の震えるような感覚に陥った。

「貴方は……」

 黙って様子を見ていたほむらが、口を開いた。

「貴方は美樹さやかの死を嘆いているようだけど、そもそも貴方は、友達の死を嘆く必要なんてないのよ」

「なんだと……どういう意味だ……」

「だって、貴方はこの世界で生き続けるチャンスを手に入れたのだもの。何かを失っても、また新しい喜びを見出せばいい。せっかく、永遠の命を手に入れたのだから」

 彼女の言葉を正しく理解するのには、時間を要した。

「は……いま……何て言ったんだ?」

「忘れたの?貴方を誘う時、私、こう言った筈よね?『神の理に背いてみない?』って」

「なに言ってやがる……永遠の命だって?あたしはそんなモノ、望んだ覚えはねえぞ」

「この世界で生き続けることが貴方の望みでしょう?貴方はそれを手に入れたのよ」

「てめえ……」

「私達が目的を果たすと同時に、魔法少女の時代は終わりを告げる。これからは魔法少女に代わって貴方達悪魔が、この世界の浄化の担い手となるの。貴方達の時代が来るのよ。だからもっと喜びなさいよ」

「てめえは、このあたしに……永遠に戦い続けろって言うのか?永遠に……繰り返せって言うのか……この痛みを……」

「永遠に、とまでは言わないわ。どうしても死にたくなったら、神様にでも頼めばいいんじゃないかしら?貴方を殺せる者がいるとすれば、それは神に等しい力を持つ者だけでしょうから。……ああ、ごめんなさい。貴方は確か、神様を信じてなかったのよね」

 嘲るような笑みを浮かべながら、ほむらは言う。

 自分は再び、選択を間違えたのだろうか。何故いつも、選択が裏目に出てしまうのだろうか。後悔と自身への苛立ちが溢れるあまり、杏子は返す言葉を失った。

「当面の間は、私に協力して貰うことになる。貴方には、最も重要な仕事を与えるわ。この街の平和を守るの」

「誰が……お前なんかに……」

「まだ解らないの?この取引の意味が……。私には、貴方を力ずくで従わせることも出来るのよ?貴方があの二人を堕とすと言い張るから、自由にさせていたの。それも叶わなくなった今、もう貴方を自由にさせる意味なんてない。もう潮時なのよ。だから、ね」

 ほむらは杏子の目の前に立つと、前かがみになり、杏子の胸元のダークオーブに手を添えた。

「その魂を、私に頂戴」

 絶望が、心の中を黒く染め上げていくのを感じる。何だ、それは。そんな取引を、交わした覚えはない。

 ほむらは両手を肩の高さに挙げると、その両手をパンと叩いた。

 首筋に、焼印を押されるような激痛が走った。

「やめろ……」

「やめて!お願い!」

 暁美ほむらがしようとしていることを悟ったのか、まどかが声を荒らげて彼女に懇願する。

 杏子も抵抗しようとした。自分は暁美ほむらの奴隷になるために、彼女と取引したのではない。だが、暁美ほむらの強力な力を前に、杏子は抵抗する術を見出すことができなかった。

 それはまるで、魂を侵蝕させるような感覚だった。杏子は今になって、人間を堕落させて意のままに操り、最期には魂を喰らうという悪魔の伝承を思い出した。それはまさに、聖職者だった父が幼い頃に教えてくれた話だった。その頃の杏子は、まさか本当に悪魔がいて、そいつに騙されるような愚かな人間がいるなどとは思っていなかった。ましてや、自分の身にそんな非業が振りかかるなどとは、微塵も思っていなかった。

 抵抗はやがて、諦めへと変わった。

 杏子はずっと、探し求めてきた。無価値だと思っていた自分の人生に、意味を見出したかった。人は、何の為に生きるのか。自分は、何の為に生きるのか。その答えを、今になってようやく得ることができた。

 すべては、無意味だった。すべては、無意味だった。大切なものを見つけても、自らの手で壊してしまう。ただそれを繰り返すだけの人生に、意味などある筈がない。そして、その無意味な人生を、自らの意志で断つことすらできない。ならばいっそ、その無価値な人生を、誰かに売り渡してしまうのもいいかも知れない。自分にとっては無価値でも、他人にとっては、何らかの利用価値があるかも知れない。そんなことを考えながら、杏子は目を閉じ、流れに身を任せた。

 その直後だった。

 胸を打つような激しい轟音とともに、周囲の空間が突如として暗転した。

 暁美ほむらが手を止め、周囲を見回した。同時に、頭を駆け巡っていた不快な感覚が消えた。

 遠方から、金属のぶつかるような大きな音が聞こえた。だが、一寸先は闇で、音の発生源を視認することができない。

 暁美ほむらが、何かに反応するように、後方へ大きく跳んだ。

 その直後、巨大な機関車の車輪のような物体が遠方から飛んできて、彼女の立っていた場所に大きな亀裂をつくった。

 まどかは驚いたのか、目を閉じて両手で頭部を押さえている。杏子もまた困惑していた。ここは暁美ほむらの結界の中である。彼女に敵対する存在が自分達以外にいるとは考えにくい。

 しばらくして、周囲がわずかに明るくなった。

 床の模様が、まどかのしゃがみ込んでいた場所を中心として、木張りのような模様に変化してゆく。

 さらに周囲が明るくなり、今いる空間の全貌がはっきりと視認できるようになった。見えたのは、無数の観客席とその先の壁、そして高い天井だった。三人がいたのは巨大な劇場の内部だった。

 暁美ほむらは焦燥の表情を浮かべながら天井を見上げている。

 やはり何者かが、暁美ほむらの意志に反して、彼女の結界内に独自の空間をつくりあげたと考えて間違いなさそうだ。

 再び轟音が響くとともに、大きな震動が起こった。轟音は二回、三回と繰り返された。

「直接私の処に来るなんて、いい度胸ね……」

 天井を見上げていたほむらが、笑みを浮かべながら呟いた。

 震動とともに、天井に亀裂が走り、コンクリートの破片が床に落ちた。

 次の震動で天井は完全に崩壊し、奥から巨大な異形の怪物が降ってきた。

 杏子もまどかも、現れたその異形に完全に目を奪われた。人間の十倍に達するほどの巨体を持つその異形は、甲冑に身を包んだ騎士のような姿をしているが、下半身は人魚のような造形の、異様な魔物だった。

 杏子にとっては、一難去ってまた一難だった。今は暁美ほむらと戦うべき時だというのに、敵対する異形の魔物達に乱入されては、それどころではない。しかも依然として、杏子の身体は思うように動かない。

 暁美ほむらが重火器を出現させ、人魚に向けて放った。弾は人魚の構える巨大な剣が受け止めた。

 次に、人魚の巨大な剣の一振りがほむらを襲った。ほむらは勢いよく後方に跳び、剣撃を回避した。

 両者の攻防は幾度となく繰り返され、その都度、激しい轟音が劇場に鳴り響いた。

 杏子は傍観するしかなかった。身体が思うように動かない上に、仮に参戦すれば、まどかを一人取り残すことになる。今はまどかと共に様子を見守るほかなかった。

 杏子の最初の懸念に反して、人魚の関心が自分に向けられることはなかった。人魚は執拗に暁美ほむらのみを攻撃し続けた。

 執着心、怒り――。杏子は人魚の中にそのような感情が宿っているのを感じた。杏子はこれまで、異形の魔物達に感情があるなどとは考えたこともなかった。杏子がこれまで遭遇してきた異形達からは、自分への敵意は感じても、怒りや憎しみを感じたことはなかった。自身の身の危険を感じるとすぐに逃げ去る程度の存在だった。

 だが、いま目にしている人魚は逃げる素振りをまったく見せなかった。甲冑に隠されて見えぬ顔は、だが確かに暁美ほむらだけを見据えていた。

「貴方もようやく――」

 高揚したような表情で人魚を見据えながら、暁美ほむらが口を開いた。

「私に立ち向かう力を得たようね……美樹さやか!」

 相手を賞賛するような張りのある声で、ほむらが叫んだ。

 彼女の言葉を理解するのに、わずかな時間を要した。彼女は人魚を美樹さやかと呼んだ。それが定かなのか、なぜ彼女に人魚の正体が分かるのか、わからない。

 だがその言葉は、驚くほど違和感なく杏子の心に浸透した。怒りに満ちた剣撃、決して逃げずに前を見続ける姿勢。それらが魔法少女、美樹さやかのイメージにぴたりと重なった。さやかが、帰ってきたのだ。

「さやかちゃん――」

 まどかが驚嘆の声を上げながら立ち上がった。

 杏子は忘れかけていた、ここへ来た本来の目的をはっきりと思い出した。

 マミを奪還しなければならない。そのための最善策は、あの異形の人魚をさやかであると信じて、彼女に助勢することである。

「さやか……」

 鉛のように重い身体を必死に動かし、杏子はゆっくりと立ち上がった。

「さやか!ソウルジェムだ!奴はマミのソウルジェムを持ってる!」

 まずはマミのソウルジェムを奪還することを何より優先しなければならない。杏子は声を張り上げてそう人魚に訴えた。

 直後、杏子は自身に残された魔力を集中させ、地面から巨大な槍を出現させた。

 人魚の体長に匹敵するその長槍は、人魚の手に収まった。

 一瞬の静止の後、人魚は槍を振るって暁美ほむらに襲いかかった。

 ほむらは重火器で応戦するが、人魚の勢いに押され、次第に壁へと追い詰められていく。

 人魚は彼女に接近し、大槍を下から勢いよく振るった。

 ……勝負は、流血により決した。

 槍の一振りは暁美ほむらの右腕を捉えた。

 肉を断つ音と共に、血飛沫が舞った。槍の一振りは彼女の右腕と翼を切り落とし、さらに彼女の背後の壁に大きな爪痕をつくり上げた。

 切断された腕は飛沫を撒き散らしながら放物線を描き、床に落ちた。その指には、マミのソウルジェムの指輪が確かにはめられていた。

 暁美ほむらの身体の重心は左へと傾き、切り落とされた自身の腕を茫然と眺めながら、左半身を下にしてゆっくり床に落ちていった。

 杏子は今すぐにでもマミのソウルジェムを回収したい気持ちで一杯だった。だが、身体は依然として自由に動かず、一歩足を踏み出すのもやっとだった。

「まどか……頼む……!」

 杏子の言葉を聞いてか聞かずか、まどかは慌てて切り落とされた右腕に駆け寄り、恐る恐る、その指からソウルジェムを抜き取った。

 暁美ほむらは茫然とした表情でまどかを見ていた。まどかは彼女を顧みることなく、指輪を回収するとすぐさま戻ってきた。

 人魚は依然として、警戒するように暁美ほむらを見据えていた。

 ほむらは人魚を睨みながらしばらく静止したのち、戦いの継続が困難と判断したのか、その場から姿をくらました。

 人魚は武装を解き、周囲は静寂に包まれた。

「さやか……」

 杏子は人魚を眺めながら、声をかけた。人魚は、反応しなかった。

 冷静になってみると、この異形の怪物がさやかだというのが信じられない。それは巨大で、不気味で、そしてさやかとは思えないほどに強力な力を持っていた。

 意思の疎通はできそうにないが、だが確かに、この怪物は理性を持っていた。杏子の呼びかけに応じ、暁美ほむらの右腕を切り落とし、結果としてマミのソウルジェムを奪還することに成功したのだ。

 突然、周囲の空間が歪み始め、人魚は自身の作り上げた劇場風の空間とともにその姿を消した。

 気がつくと、杏子とまどかは以前いた暁美ほむらの結界内に戻っていた。

 杏子は自身の数歩先の床に、青い光を放つ物体が落ちているのを見つけた。ゆっくりとその光に歩み寄り、その物体を拾い上げた。

 それはソウルジェムと同程度の大きさの宝石で、装飾が施され、片方の先端が針のように尖っていた。

「わたし、マミさんを探してくるから」

 まどかはそう言って、駆けるようにして杏子の元を離れていった。

「お、おい」

 マミを探さなければならないのはたしかにその通りだが、ここは暁美ほむらの結界内だ。どんな危険が潜んでいるかわからない。そう言おうとして呼び止めようとしたが、まどかは聞かずに行ってしまった。

 杏子は再び、宝石に目を向けた。

 青い光に吸い込まれるような奇妙な感覚が、杏子を襲った。

 

 

 気がつくと杏子は、駅のホームのような場所に立っていた。

「ここは……」

 杏子は戸惑いながら周囲を見渡すが、人の気配はない。物音ひとつしない、静寂に包まれた場所だった。

「ここは、あたしの終わりと始まりの場所」

 背後で、声が聞こえた。その澄んだ声を聞けば、声の主が誰であるかすぐに分かる。

 振り返ると、魔法少女の姿をしたさやかの後ろ姿があった。

「さやか」

 戸惑いながら、彼女の名前を呼んだ。

 これは夢だ。夢でなければ、彼女の声を聞けるはずがない。姿を見ることなどできるはずがない。美樹さやかは死んだのだ。

 だが、夢にしてはあまりに鮮明だった。

「あんた……なんで……」

 戸惑いのあまり、彼女に聞きたいことも整理できないまま、杏子は声を漏らした。

「さやかはもう、行っちまったと思ってた。……〈円環の理〉の世界ってやつに……」

「行ったよ、一度はね。けど、また戻って来ちゃった。今は、命綱一本でこの世界にぶら下がってるって言えば良いのかな。で、その命綱を繋いでくれてるのがまどか。本人は、自覚してないみたいだけどね」

 淡々とした口調でさやかは言うが、杏子には奇妙な話にしか聞こえない。死んだ人間が異形の怪物になって戻ってきて、そこにまどかが関わっているなど、聞いてすぐに理解する方が困難である。

 奇妙な話であると感じると同時に、杏子は悲嘆の気持ちを抑えられなくなっていた。

「なんで、そんな……さやかは、信じてたんだろ?〈円環の理〉が、魂の救済だって……。なのに、また戻ってきて戦わされるなんて……。そんなんで、救われたって言えるのかよ……」

「そう悲観するほどの事じゃないって。あたしはね、自分からこの役目を買って出たの。ちょっと、遅くなっちゃったけどね。あいつの結界を破るには、まどかが中に入るタイミングを狙うしかなかったの」

 ひとつの疑問が解消すると、また別の疑問が出てくる。さやかはなぜ、死してなおこの世で戦う道を選んだのか。

 ひとつの不確かな答えが浮かんで、杏子は恐る恐るさやかに尋ねた。

「さやかは……あたしを、助けてくれたのか?」

 そんなはずはない。さやかはきっと、マミを助けるためだと答えるに違いない。だが、杏子の予想に反して、さやかは否定も肯定もしなかった。

「馬鹿野郎、今のあたしを見ろ。もう、あんたに助けられるような存在じゃねぇんだ。あんたは……あたしとだって戦わなきゃいけないんだろ?なのに……」

「なんでだろうね……ただ……」

 穏やかな口調で、さやかは言う。

「今のあたしにはね、すべてが見えるの」

「すべて……?」

「そ。……だから知ってるんだ。あんたが、命懸けであたしを救おうとしてくれたことも」

「あたしが……?いつ?どこで?」

 それは、まったく身に覚えのない言葉だった。自分が、いつ、どこで、彼女を命懸けで救おうとしたというのか。むしろ、彼女を傷つけてきた記憶しかない。

「過去でも未来でもないどこかで」

 さやかの答えは、神秘的で、掴みどころのない言葉だった。謎かけでもしているのだろうか。過去でも未来でもないとしたら、それは現在しかない。だが今、救われたのは杏子の方である。

「なんか……本当に遠くに行っちまったって感じだな……」

 結局、さやかの言葉の真意は理解できなかったし、さやかもそれ以上のことを語ろうとはしなかった。

 しばらくの沈黙のあと、杏子が再び口を開いた。

「あたしさ、死ねない身体にされちまったんだよ。最初はただ、人間らしい生き方ができればそれで良かったのに、あいつにまんまと騙されちまった。さやかならきっと、こんなあたしのことをこう言って笑うんだろうな。『自業自得』って……」

「さすがに笑えないよ、それ……」

「あたし……正直に言うとさ、もう何もかも分かんなくなっちまってた。あたしは一体、この世界で何がしたくて、何のためにこの力を手に入れたのか……」

 杏子の声は、次第に震え、弱々しくなっていった。

「けど、今ならはっきり分かる。あたしは……」

 そこまで言いかけて、杏子は続きを語るのを躊躇した。

 しかし、ここで言わなければ、きっともう二度と伝えられない。これがたとえ夢だとしても、彼女にはっきりと伝えなければならなかった。

「あたしは、さやかと一緒に、この世界を、生きていきたかった。その為なら、あんたを敵に回したって構わないって……。けど、あたしが馬鹿だった……」

 紅潮しそうになるのを堪えながら、杏子は自身の本当の気持ちを明かした。この気持ちを、もっと早くに打ち明けていれば、さやかの運命は変わっていたかもしれない。だが、いま悔やんでも手遅れだった。

 さやかは背中を見せたまま、その表情を杏子に見せようとはしなかった。

「さやか。あたしを、助けてくれ……」

 杏子はさやかのマントを掴むと膝を落とし、すがるように彼女に向けて言った。

「このままじゃ、あいつの奴隷にされちまう……あいつは、はじめからそのつもりだったんだ」

 さやかが、頭をわずかに垂れた。

「ごめん……今のあたしには、あんたを救ってやれるだけの力は、ないよ」

「そんな……」

 最後の希望を失った気分だった。自分は二度とさやかと同じ場所には行けず、やがて暁美ほむらの奴隷となり、いつ終わるかも分からない空虚な人生を送るしかないのか。そう考えた瞬間、暗闇に放り込まれたような感覚に陥った。

「まだ希望はあるよ」

 さやかが言った。地の底に落ちた迷い人に救いの手を差し伸べるような、慈悲のこもった口調だった。

 さやかは振り返って膝をおろし、杏子の両肩に手を当てると、微笑みながら言った。

「まどかを信じて」

「まどかを……?」

 杏子にとっては、思いがけない一言だった。

「そう。まどかならきっと、あんたのことだって見捨てないから。神様のことは信じられなくてもいい。けど、まどかのことは信じて欲しい」

「信じろって言われても、あたしは……何をすれば……?」

「あんたはあんたにしかできないことをやればいい。あんたにだって、きっとある筈だよ」

 さやかはそう言うと立ち上がり、振り返った。

 電車が音を立てずにホームに流れ込み、やがて停止した。

「何処へ……?」

「この世界で戦いを続ける。それが、あたし達に課せられた使命だからね」

 電車の扉が開き、さやかは車内に足を踏み入れた。

「ごめんね。あんたの気持ちを分かってあげられなくて。それから……あたしの生き方を理解してくれて、ありがとう。……あたしの、友達になってくれて、ありがとう」

 その言葉の後に、電車はさやかを乗せ、杏子の前から姿を消した。

 頬を、何か生暖かいものが流れるのを感じて、杏子は思わず、手を頬に当てた。だが、そこには何もなかった。それもその筈だった。これは、ただの夢なのだから。

 

 

 

 

   ――――

 

 暁美ほむらの結界は暗く広大で、複雑に入り組んでおり、マミの捜索は容易ではなかった。

 まどかはマミのソウルジェムを握りしめたまま、足を棒にして駆けずり回った。何としてもマミを探し出し、杏子と三人でこの結界を脱出しなければならない。

 まどかはやがて、聖堂を思わせる広い空間を発見した。

 その中央に、石造りの台座があった。

 台座の上には光を放つ不思議な花が何本も敷き詰められていた。その花に埋もれるように、女性が仰向けの姿で安置されていた。

 マミだった。

 目を閉じたその顔は穏やかで、眠っているようだった。

 まどかは彼女の手を取った。その手は、人間の身体とは思えないほど冷たかった。

 マミのソウルジェムを彼女の指にはめた後、彼女の顔を見つめながら目を覚ますのを待った。

 やがて、マミの瞼が微かに動いた。目がゆっくりと開き、瞳がまどかの顔を捉えた。

「かなめ……さん……」

 消え入るような声だったが、それは確かにマミの声だった。歓喜のあまり、まどかは笑みをこぼした。

「マミさん!」

 まどかはマミの背中に手を回し、そっと彼女の上体を起こした。

 気がつくと、マミは目に涙を溜めていた。

「マミさん……?」

 マミはまどかの胸に顔を押し当てると、突然、声を上げて泣いた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 マミがなぜ謝ったのか、まどかには分からなかった。マミのことを、もっと強い女性だと思っていたばかりに、その弱々しい姿はまどかを困惑させた。

 だが、マミを取り戻せたことへの安堵が、その気持ちをはるかに上回っていた。

「もう……大丈夫ですよ」

 彼女の背中をそっと撫でながら、まどかは優しく言った。

 その遠方には、安堵の表情を浮かべながら頬を掻き、二人の様子を見つめる杏子の姿があった。

 

 

 

 

   ――――

 

 結界の深部に逃げ込んだ暁美ほむらは、失った右腕の付け根を押さえながら、脱力するように壁にもたれかかった。

 出血は止まったが、著しく気分が悪い。

 それが肉体的要因によるものなのか、あるいは精神的なものなのか、分からない。

 普段であれば、自身の結界内で起きた異変は手に取るように察知することができた。しかし、今では、まどかがまだ結界内にいるのか、あるいはマミを連れて脱出してしまったか、それすら分からない。

 切り落とされた腕からソウルジェムを回収しようとした時、まどかは一切、ほむらを顧みようとはしなかった。淡々とした動作で切り落とされた自分の腕から指輪を抜き取ると、自分とは目を合わせようともせず、去って行った。その光景が、脳裏に焼きついて離れない。

 ほむらは、まどかから返された赤いリボンを握りしめた。気がつくと、目に涙が浮かんでいた。

 ほむらの心の奥には、なぎさの母が発したある言葉が鮮明に刻み込まれていた。病室で彼女と会った時に、訴えかけるように発した言葉――。その言葉を聞いた時、ほむらはようやく、自身の気持ちを余すことなく簡潔に表現する言葉を得たのだ。

 赤いリボンを握りしめながら、彼女の言葉を真似るように、ほむらは呟いた。

「貴方は、私の、すべてなの」

 彼女ひとりしかいない薄暗い空間で発せられたその言葉は、誰の耳に届くこともなかった。

 








 最終回じゃないぞよ
 もうちっとだけ続くんじゃ
           ― Master Roshi ―


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