「桜ちゃんに何するんだ士郎!?」
今にも掴みかかって来そうな勢いの雁夜を制したのは、後ろに控えていたランサーだった。
「案ずるな。彼女は気を失っているだけだ。数時間もすれば何事もなかったかのように目覚めるだろう」
崩れ落ちた桜を士郎から受け取った雁夜。受け取った彼女の小さな胸元は、静かながらも規則正しく上下している。「よかった」と、雁夜の強張った眉間が緩んだ。
「だが、俺からも問おう。何故自らの主を裏切る様な真似をした? 事と次第によっては、この矛先を向けねばならんぞ」
「――これからの話は桜には聞かせない方が良い。おそらく混乱するだろうからな。それに万が一令呪を使われては適わん。雁夜、しばらくの間、桜を頼む」
「実に賢明な判断だ“守護者”エミヤ。その娘、おそらく黒い聖杯の影響を受けているな?」
ライダー側の長身の魔術師が語るその言葉を意味を正しく理解できたのは、名指しされた彼一人だけ。他の面々は、置いて行かれながらも二人の対話を聞き逃すまいと耳を傾ける。
「可能性はあるが断定はできん。パスを通して得た情報では私と桜が歩んだ第五次聖杯戦争は全くの別物だ。そして第四次を切り抜けた君とでは情報が喰い違う所が多いだろう。故に君の言う答え合わせが必要だ。ロード――」
「いや自分の口で語ろう。既に気づいている者も居るようだがな」
士郎の言葉を遮った魔術師は焼けつく空気を胸一杯に吸い込むと、熱砂の海に響き渡らせるようにして名乗りを上げる。
「我が名はロード・エルメロイⅡ世。生前、ウェイバー・ベルベットの名で第四次聖杯戦争に参加し、そして冬木の大聖杯の解体の実績を以て、英霊の末端に至った存在だ」
到底信じられないであろう宣言であったが、実際に衝撃を受けたものは少ない。以前の対峙において、ライダー主従、士郎はその正体を見抜いており、ケイネスもほぼ確信していたからだ。
「嘘でしょ? 何であんなのがエルメロイを名乗っているのよ」
「想像するだけで腹正しいことだが、おそらく“他の世界の私”は聖杯戦争で失敗したのだろうな。心配するなソラウ。未来からの介入者が来ている時点で、既に歴史は異なっているはずだ。“私は”必ず勝つ」
「桜ちゃんに、士郎に、ライダーのマスターで三人目だろう? なぁ士郎、もう何がどうなっているんだよ。俺にもわかるように説明してくれ」
呆ける様な雁夜の呟きに、何も理解していないであろうランサーも無言で縦に首を振った。
「まずは聖杯戦争のシステムについてから説明せねばなるまい。この冬木の聖杯とは召喚された英霊たちの魂を聖杯に捧げ、その純粋足る魔力を以てその力を発揮する仕組みだ――――」
つまり“英霊は生贄である”という衝撃的な言葉から、未来英雄二人は聖杯戦争の真実を、過去の戦いの行く末を語り始めたのだった。
× ×
「どれだけ厄ネタがあるのよ一体……」
頭を抱えるソラウが項垂れる様に脱力しているのは、燦々と照りつける太陽のせいだけではない。その場に居た誰もが彼女の言葉に同意していた。“答え合わせ”をした二人も、陰鬱な地下道が似合いそうな顔色をしているほどだ。
Ⅱ世と士郎からもたらされた情報からは、アンリマユの存在とその危険性が初めて知らされた。未だに桜がアンリマユに影響されている可能性を考え、桜の意識があるうちは言えなかったと士郎は謝罪する。
そして大聖杯の解体方法もⅡ世からケイネスへと引き継がれたが、今すぐに対処できることは少ない。
小聖杯の器がアイリスフィールであること、現時点で収められているのは、おそらくキャスター、セイバーのみなので小聖杯の顕現までは時間があるであろうこと。アーチャー・アサシン陣営も、残り三騎が結束すれば勝ち筋は見えること。未来からの情報だけで遠坂時臣や監督役を説得できるのかという問題。
逆に雁夜たちにとって朗報だったのは、どれだけ捜索しても見つからなかった士郎少年がライダーの下宿先で保護されているということだ。
希望もまだ潰えていないが、課題は山積みといった様相に、どこから手を付けるべきかそれぞれが頭を悩ませていた。
「思ったんだけどさ、このままアイリスフィールを逃がしてしまえば殆ど解決しないか? 大元の解体はすぐにじゃなくてもいいんだろう?」
「なるほどな坊主、それが一番手っ取り早そうだ」
如何にしてアイリスフィールを救うかというウェイバーにとっての命題。ようやく思いついたとばかりに提案し、それにライダーも同調する。
「そうね、それが一番良さそうだわ。そう思わないケイネス?」
「リスク管理と言う面では一番だろうな。だがしかしだ。監督役との話し合いにおいて、アンリマユについての証言をアインツベルンからも欲しい。いくら我々が信用した所で、第三者からすれば未来英雄の証言だけでは信頼性に乏しい。そうは思わないかねウェイバー・ベルベット君?」
一言目は同意を述べた。しかし「短絡的な思考だな。もっと全体を考えたまえ」とウェイバーを睨みつけながら付け加えるケイネス。
晒し上げるように提案を否定されたウェイバーは反論を口にしようとするが、それよりも先に口を開いた者がいた。雁夜だ。
「聖杯を外に逃がすのは駄目だ。爺が居る。アイツを誘き寄せるには絶対聖杯が必要だ。爺をぶっ殺さないと桜ちゃんは救えない」
「そうだな。君たちと違って私と雁夜には桜は救うというのが第一目標だ。桜は機を見て寝首を掻くつもりだったようだが、私の前にすら一度も直接姿を現していない間桐の当主を表舞台に引きずり出すのは至難の技だろう。それこそ聖杯を手に入れる直前まで捕捉するのは難しいと私たちの見解だ」
雁夜と士郎の言葉を受け、他の面々は更に困惑する。平和に場を収めたいというのは共通の意識だが、アイリスフィールを助けたいというライダー陣営と、間桐臓硯を確実に消し去るために本体を誘き出す手段が必要なセイヴァー陣営とでは思惑が異なっているのだ。
「間桐の当主は余程用心深い奴。それを引っ張り出しさえすればいいんだろ。その条件さえクリアできれば……」
考えろ、考えろ、考えろと、小声でウェイバーは繰り返す。
互いに手を取るまで後一歩のところまでは来ている。大きな目的は同じなのだ。セイヴァーもランサーも、そしてそのマスター達も願望機としての聖杯は然程必要としていない。ライダーも「此度の遠征は受肉を諦めて次の機会を待つ」と言っており、今回の聖杯を得ることには固執してない。本当に後一歩の筈なのにそれが果てしなく遠い。
ウェイバーは、傍らに立つ相棒の顔を見た。平素は馬鹿みたいに遊んだりしてばかりの男だが今は違う。言葉少なに思考を張り巡らす彼は、王として何を考えているのか。ふと気になったウェイバーは声をかけた。
「なぁ、ライダー?」
「なんだ坊主? 何でも言ってみるが良い」
「オマエ王様だったんだから戦争の指揮とか慣れっこだよな。用心深い敵の大将が前に出て来るって時はどんな状況だと思う?」
「用心するまでもなく前に出れるほどに楽な戦か、他の誰にも渡せぬほどの功が目の前にちらついているか、後は逆に――――」
「逆に?」
途中で止めたライダーの言葉を反芻するウェイバー。そしてライダーはウェイバーの背中を常人のふた回り以上も大きいその手で叩いた。
「いでっ!?」
ニヤリと白い歯を見せたライダーは言葉を続けた。
「こんな風にな。自ら前に出て鼓舞せねばならんほど、味方の陣営が弱っておるかだ」
「っててて。痛いほど分かりやすい解説をどうもありがとう」
ウェイバーは涙目で背中をさする。砂漠の中に顔を埋めなかっただけ彼も頑張った方なのだが、主従とは思えぬそのやり取りを唖然と他のメンバーは眺めていた。
「それでセイヴァー陣営に当て嵌めるなら、って万全過ぎるって言っていいよな。ランサーと同盟しているし、魔力も令呪も温存できてる。そしてアーチャーへの対策もある」
ウェイバーの言う通り、セイヴァー陣営は順調極まりないだろうと誰もが思う。ここからピンチを演出して誘き寄せる方法を皆一つになって考えていた。それさえ見つければ一枚岩となってこの三陣営は戦えるのだから。
「爺にとってのピンチ……そうだ! 士郎、これ使えないか?」
そう言って雁夜が掲げたのは布で包まれた一本の短剣。雁夜によって布をほどかれ、顕わになっていく紫色の歪な刀身。
「なるほど。桜の貯蔵魔力が使えなくなるのは痛いが、それならば必ず動きがあるだろうな」
雁夜の言葉に頷いた士郎は、ケイネスの方を見る。そしてケイネスの前に片膝を付いて嘆願した。
「ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。貴殿の技量と人格を見込んで頼みたい」
「な、急になんのつもりだ!?」
「お、落ち付け。我が主に一体何を!?」
「桜を救うため、桜との契約を切り、貴殿のサーヴァントとして仕えたい」
動揺するケイネスとランサーを置きざりにしながらも士郎は言葉を続けていく。
「ここまで情報を小出しにし続け、真実から遠ざけていたことは申し訳ないと思っている。私のこれまでの態度が完全に信頼されるに値しないことも理解している」
「あぁ。君の言う建前が二転三転するのには、ほとほと呆れたものだ。この愚直なランサーと違って、とても信に値するとは思えんな。同盟さえ考え直すべきかと何度思案したことか」
冷やかな苛立ちを込めたその声を、士郎の真上から突きつけるケイネス。
「――――だがしかしだ。この愚かな戦いを止めた功績が手に入り、マキリの水系統と降霊術の秘伝を物にし、桜という優秀な弟子を取れる。信を置けないとはいえ、たかがサーヴァントを一騎懐に入れるだけでこの対価。ソラウ、君はどう判断する?」
「彼の分の魔力は貴方が請け負うことになるけれども、その程度の負担、貴方にとっては些事でしょう?」
「無論だ」
吹きすさぶ砂塵の風を背に、ケイネスは頼もしく答えた。その言葉に士郎と雁夜の口元が綻ぶ。そして士郎は雁夜から短剣を受け取ると、自らの手の甲にその切っ先を突きつけた。
「
灼熱の太陽よりも眩い光が辺りを包みこむ。そして士郎は使い終えたその短剣を雁夜に渡し、ケイネスへと向き直る。
「これで桜との契約は解除された。桜の令呪は見えるところにはないが、今は失われているはずだ」
「嘘、たったそれだけで良いの? 本人の同意なしだと、もっと難しい手順がかかるというのに」
「そうだ。これだけであらゆる契約を解除できる裏切りの魔女の宝具だ。この宝具を自らに使用しないように令呪で縛りをかけても良いのだが」
驚くソラウへと士郎は端的に説明する。そしてケイネスへの提案を行うが、そんな無駄なことに使うなど馬鹿けていると一蹴された。
「固有結界内での時間は有限だ。マキリから完全に遮断されているこの貴重な時間を無駄にするわけにはいかないぞ」
「わかっている」
Ⅱ世に急かされたケイネスは一言だけ返す。そして自身の礼装の形状を即席の魔法陣へと変形させ、士郎と対峙した。
「―――告げる」
再び紡がれる詠唱は時空の彼方ではなく、目の前に跪く一人の男へと向けられる。
「汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うのならば―――」
吹き荒れるのは冷涼なる風。舞い上がる砂は、刻まれたこの世界を否定するかのようも、ただ冷たくある。
「―――我に従え! ならばこの命運、汝が剣に預けよう……!」
創生される神秘の光。誰もが息を飲み、その誓いを見守った。
「サーヴァント、衛宮士郎。
左手には新たなる光。その奇跡の力を頼りに、一同は最終幕へと足を進めた。
× ×
黒い夜空を照らすのは揺らめく赤燈の光。煌々と燃え盛るその熱気にやられて、ようやくわたしも目が覚めた。
「危ないから下がって!」
「そこどいてっ! 担架通るよ!」
煤にまみれ、パジャマ姿のまま茫然と立ちすくむ人々。街を喰らい尽さんと迫る炎に立ち向かう消防隊員たち。この光景は、いわゆる火事というものらしい。全焼する勢いで燃えているのはどこかの民家の一画。
何故わたしは今こんな所に居るのか。何故わたしはライダー主従、ソラウさんと一緒に居るのか。そして何より、何でわたしは先輩の腕ではなくライダーの腕に抱かれているのか。全てがわからないことばかりで、何から聞けばいいのか見当もつかなかった。
寝心地がよいとはとても言えないが、事態を把握できないまま起きると面倒な気がするので、薄眼を開けるに留めて事態を把握することに専念する。
「お爺さん! お婆さん!」
「ウェイバーちゃん、無事だったのね。アレクセイさんも……良かったわ」
担架に運ばれた人に駆け寄るライダーのマスター。彼らは身内なのだろうか。
「身体は大丈夫なの?」
「煙を少し吸い込んだだけよ。ねぇ、グレン?」
「あぁ、だが……」
歯切れ悪く、言い淀むお爺さん。隣に並ぶお婆さんを一度見た後、ライダーのマスターへと言葉を告げた。
「この火事はウチの二階から出火したようでな。預かって来たあの子、“しろう”は、もしかしたら……」
「えっ、何だって!?」
しろう?
「救急車に運ぶから、もうどいてくれ! お爺さん、お婆さん、お孫さんはきっと大丈夫ですから」
「君はご家族かな? できれば一緒に救急車へっ、っておい! 待ってくれ!!」
ライダーのマスターが駆け足で戻って来る。
「“しろう”を探すぞ。ライダー! 人目に付くリスクを冒してまで、工房でもない無人の拠点を襲う理由なんてないんだ。アーチャーかアサシンのマスターが“しろう”の価値に気付いたとしか思えない」
しろう。
「おう、この嬢ちゃんのためにも“しろう”を見つけねばならんな」
しろう。きっとそれはこの世界の彼の名前。ライダー主従は既に接触していたというの?
「向こうはアーチャーの拠点に向かっているのでしょう? ならそちら側はケイネス達に任せましょう。私達は近場に居ないか探すわよ。もし攫われたのだとしたらそんなに離れていないかもしれないわ」
向こう、って何? そもそもどうして先輩たちと別行動しているのだ。それに先輩との……
「よし、ライダー。戦車を出すぞ。上空から探すんだ」
パスがない。思わず声が漏れそうになるのをどうにか堪え切った。
「ならば少し離れるぞ。ここは人目に付き過ぎる」
先輩に裏切られたの?
「えぇそうね。こっちで人払いの結界を敷きましょう。あの光は目立つもの」
わたしが信用ならないから?
「それにしても、この子が眠ったままで助かったな。喜ばすどころか逆効果じゃないか」
それに、もし。もしもの話だ。
「えぇ、全くね。絶対に探して見せるわよ。そうじゃないと報われないわ」
この世界で救うべき彼がもう居ないなら、居ないのなら……
「この辺は人が少なそうだぞ」
――――――もう一度、わたしが聖杯を手に入れてやり直すしかない。
「こんなものね。簡易なものだけど、人払いの結界を敷き終わったわ」
こんな時にどうするべきか。その方法はしっかりと教えられていた。忌々しい声を頭の中で復唱する。
“良いか、桜。もしもお主のサーヴァントが裏切りそうなときは……”
「―――告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に」
出来るだけ小さな声で。だが喧騒から離れた場所では流石に気付かれたようだ。
「む、嬢ちゃん。ようやく起きぃ、カァ……ッ!!?」
「ら、ライダー!?」
影の触手でライダーの胸の中心を貫く。そして、そこに“とある鏡”の欠片を埋め込んだ。流石の英霊と言えど、ゼロ距離ならば外しようもない。影を使って素早くその腕から離れる。
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うのならば再び我に従え! ならばこの命運、汝が剣に預けよう!」
更に増やした触手で彼の身体を侵食していく。この滾る魔力、あの時と同じだ。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
「桜ちゃん、何をするつもり!?」
「おい、僕たちは味方だぞ落ち付けよ、馬鹿野郎!」
失敗する可能性など万に一つも考えられない。ライダーは核を傷付けられて致命傷。ソラウさんやライダーのマスターに戦闘力はない。影で牽制するだけで十分だ。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
迸る光がわたしの影を吹き飛ばす。やがて収束した場所に残ったのは、一人の女性。腰まで届くほど長く伸ばした藤色の髪、うらやむほどの長身にスリムなその身体、眼帯で両目を隠したその美貌。見紛うはずもない。
「問いましょう。貴女が、私のマスターで間違いありませんね?」
「えぇ、そうよ。今はこんな身体だけれど」
わたしにはもう、あなたしか居ないの。おかえりなさい、ライダー。