世界が元の仄暗い色彩を取り戻す。
アーチャーとランサーの姿はもうどこにもない。収束する光の中心に立っていたライダーの膝が崩れ落ち、焦げ付いた大地に片手を付けた。
「奴らと会話をするには少し遠いな。歩くぞ」
ケイネスさんの冷えきった声が背中に突き刺さる。
散々わたしや先輩の好き勝手な行動に翻弄されたのだ。疑念や怒り、敵愾心をこの程度で自制しているだけでも凄いと言える。
わたしの見てきた限り、感情で動くタイプだけれども、それ以上に魔術師としての意識が今現在は勝っているようだった。
魔術師としての在り方。ほとんど何も知らなかったそれをこの一年の準備期間で学びなおしたけれども、やはりわたしにはどうにも馴染まない。そう思っていた。
だけれども、あと少し彼らの在り方を理解できれば、何か変化があるかもしれないという程度にはここ最近のわたし自身も影響を感じている。
しかしそれは「もしこの先が続けば」の話だ。続かせるためにもケイネスさんの後について、ライダーと先輩のところへと向かう。戦闘が終わったとはいえども悠長にしている余裕などない。
「バイバイ、雁夜おじさん」
おじさんの亡骸に別れの言葉を告げる。
火事騒ぎから行方不明の小さな先輩を除けば、姉さんに続いてこれで二人目の犠牲だ。
涙はもう出ない。意識は抑えてある。
哀しかった。姉さんを喪ったあのときも、おじさんを喪ったつい先ほども、確かに哀しいと感じた。
でもその嘆きは
失敗したあの世界の間桐桜の
気付かなかった、信じて気付かなければ良かった。
二人の死亡時に出てきた慟哭や、アーチャーを前に恐怖で立ちすくんだのが主に
おそらくこの身体において
わたしは一体今まで何のために戦ってきたのか。このドタン場でわたしは未来を見失っていた。
幸せになりたい。と、この口は先程そう言葉を発していた。だが、何を以て幸せとするかが問題なのだ。
このまま聖杯戦争を破錠させ、先で待ち受けているであろうお爺様を下す。
誰にとっての幸せか。その焦点を
わたし自身はどうだろう。先輩を受肉させるだなんて言っていた頃があったなんて我ながら呆れてしまう。確かに元が同じ存在と言えども、あの世界の間桐桜が愛した衛宮士郎とは全くの別人だ。無事でいるかまだわからないけれど、この世界では少年時代の彼だって、本来わたしが一番に愛すべき人ではない。世界や時間の違い、依存心に惑わされ、わたしは本質を見失っていたようだ。
わたしが一番に愛しているのは、あの世界の衛宮先輩だ。この心が紛い物で出来ていたとだとしても、この愛だけは本物だ。
わたしが何よりも、誰よりも愛しているのが彼であって、あの世界の衛宮先輩が救われなければ、
「……そうか」
願うべき未来がようやく見えたかもしれない。
紛い物なわたしが本当に欲しかったのは、穢れを知らずに生きることのできるこの世界での
あの世界に帰還し運命を改竄する。
きっとこれは苦難の道だ。限りなく細い道だ。
それでもやってみせる。
そう――――――決めた。
「何か気付いたのか、桜?」
「いいえ、独り言です」
先の独り言に反応したのだろうか。後を付いてきたお父様が声をかけて来た。が、そっけなく返しておく。すると、少し前を歩いていたケイネスさんが前を向いたまま「そういえばさっきのことだが、新しいライダーは宝具で何をやったのだ?」と質問を投げかけて来た。
「ライダーの宝具
こちらにはきちんと返しておく。この解説で間違いないはずだ。
「本来の使い方とはかなり違いますが、まさかそんな使い方をするとは……」
まさか私も、先輩がそんな手段を取らせるとは思いもよらなかった。それはわたしが行わせるつもりだったのに。
この手段によるメリットは幾つかある。まずは聖杯へ魔力が収められるのを妨げる役割と、逆に収めるタイミングを令呪によって任意で調整できることだ。聖杯を扱うも扱わないも自由。お爺様を始め、その他への大きな牽制・交渉材料になる。
そしてライダーにかかる負荷が大きいとはいえ、莫大な魔力を保存しているのだ。戦闘力の増強に流用することも不可能ではない。万が一他に立ち塞がる者が居た場合の保険だ。
先輩が考えているのは前者の方、聖杯の機能停止までの時間稼ぎのつもりなのだろう。だが他にも何かがありそうな気がする。
「
その先の答えを、その前に聞かなければならないことを、今にも消えそうな目の前の先輩にわたしは問いただした。
「一度もわたしは裏切ったつもりはないのだがな。桜、私は君を通して夢を見た。あの世界での君のことを」
「それでわたしを止めるためにあなたは契約を……」
「寂しいものだ。もう、昔の様には呼んでくれないのだな」
いつかは必ず何らかの形で露見すると思っていたが、そこからやはり先輩は聖杯の汚染や自身の過去を誤魔化し続けていたわたしに疑念を抱いたのだろう。
「その様な一面が在るのは否定しない。だが場合によっては遠坂時臣の排除もあり得たのだ。あれだけの地獄を見てきた君にはこれ以上手を汚して欲しくなかった。雁夜やソラウに向けて語っていた様な明るい未来を君には歩んで欲しかった」
何を今さら。何を今さら言っているのだ、先輩は。両足が砕け、地に伏したまま喋る姿をわたしは見下ろし続けた。石化の侵食は下腹部にまで迫って来ている。そう長くはないだろう。
先輩もライダーの中に閉じ込めるかと思案し、彼女に視線を向ける。ライダーは両手で眼帯と前髪を握り締めている。随分と苦しそうだ、なんてことは決して口にはできない。その痛みを誰よりもわたし自身が良く知っているのだから。これ以上は無理だ。そう、わたしは判断する。
「情けない話だが、これ以上弁明する時間も余り残されていないようだ。君は、君自身が思っているよりも危うい。それだけは心に留めておいてくれ。そして詫び代わりにもならないが、これを受け取ってくれ――――」
先輩の左手がわたしの方へと伸ばされる。
「
眩い光を放つ一本の剣がそこにはあった。魔力によって形を為したその剣は、わたしの足元へとゆっくりと降り、そして地面へと突き刺さった。
「
カリバーン、確かそれはアーサー王がエクスカリバーを所有する以前に愛用していた選定の伝説の剣だ。宝具として間違いなく一級の品であることは間違いない。だがしかし――――
「あなたが消えればこの剣だって消えるんですよ。どうしてこんな無駄な事を?」
「これでセイバーを召喚するんだ。桜」
「縁としては充分、それは理解できます。でも同じ枠のサーヴァントは二騎も同時に存在できない。わたしのライダーを召喚するのにだって前のライダーを使ったんですよ」
「イレギュラークラスで召喚された私が奪ってしまったバーサーカークラスの枠でアーサー王を召喚させるんだ。この剣と私を触媒にして」
成程、先輩自身が消滅する前に新たなサーヴァントへと入れ替えることで聖杯への魔力流入を妨げることが目的なのだろう。時間稼ぎと戦力確保を兼ねたその提案は凄い。しかしその案が浮かぶということは――――
「桜、君は間桐の翁からもう一つの召喚呪文を教わっているな」
「……おじさんから聞いたんですか?」
「あぁ、私が裏切りそうになったときにはそうするように翁から仕込まれたと聞いた」
いつから――――なんて事は聞けなかった。聞きたくなんて、ない。
先輩の眉間から力みが抜けた。
わたしの拒絶の意識が先輩にも読み取られてしまったのだろうか。
先輩がどことなく諦めた風な、困った顔をしている様に見えてしまった。
一つ呼吸を置いた後に、先輩は目を伏して言葉を続ける。
「それを遠坂時臣に伝えて欲しい。きっとこの先、彼女の力が必要になる」
「何をさせたいんですか」
「わたしはもう間もなく消える。だからこの先の選択は、君やこの時代を生きる皆次第だ。だから私は選択肢を残そう。もしも聖杯の破壊が必要になる場面が来た時には彼女の聖剣を頼るといい。それから、鞘は未だ雁夜の身体の中に埋め込まれている」
アーサー王を不老不死たらしめた聖剣の鞘、
「おじさんが生き返るの!!?」
思わず叫んでしまった。
「瀕死の重傷程度ならば間違いなく治療できるが、あれだけの出血量……もう既に息はないのだろう。間にあわない可能性の方が高いが、僅かとはいえ望みはある。試してみる価値はあると思うぞ」
どうするべきか。二つ返事をしていいものか判断に迷う。ライダー以外の戦力を残してしまった場合、聖杯を使用するためのハードルが上がる。しかし、お爺様を出し抜くには手段の一つとして使えるかもしれない。お爺様が求める不老不死そのものを目の前に転がしてやれば、致命的な隙を見せるはずだ。
「桜」
後ろから声がした。お父様だ。振り向くと、しゃがんだ姿勢のお父様に力強く肩を握りしめられた。
「私に、教えてくれるな?」
ぎらぎらとした瞳が向けられる。その眼から溢れ出していそうな熱意は己の欲望かそれとも正義感か。まぁどちらでも良い。NOと言える雰囲気ではないことぐらいは承知だ。
「えぇ、始めましょう」
愛していると思っていた。
でも、勘違いだったと気付いた。
嫌いじゃなかった。
今でさえ嫌いになんかなれるわけがない。
善意も痛いほど伝わっている。
だけど、それを素直に受け入れる余裕が今のわたしにはない。
既に道は違えた。
だからこの別れに涙は要らない。
要らないんだ。
× ×
ケイネスさんが水銀の礼装を用いて即席の魔法陣を用意してくれた。
お父様がわたしの後ろに立ち、召喚の儀式が執り行われる。
「閉じよ、閉じよ、閉じよ、閉じよ、閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
繋がりはもう存在しない。この口が紡ぐ言葉は伽藍堂。
マスターであるお父様がわたしに重ねて詠唱を行う。
「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
痛い。湧き上がるエーテルの風が瞳に突き刺さる。
眼をきつく閉じた。
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者
――」
付け加えたのは狂化のための文言、衛宮先輩を切り捨てることを想定して手に入れた力。
全て予定通りとはいかなかったけれどこれでいい。想定範囲内だ。
さようなら、先輩。
心の中で、そっと呟いた。
「――――桜、幸せにな」
眼を見開いた。
カリバーンを胸に抱いたまま横たわる先輩。
その身体中から無数の刃が飛び出していた。
鱗のような刃たちに蝕まれ、剣そのものと化していくおぞましい光景。
それでも、それでも先輩は――――
口や胸から鮮血がどれだけ吹き出そうとも、満足気な笑顔を崩さなかった。
これが笑顔じゃないなら何と呼ぶのだ。
眼を逸らせなかった。
衛宮先輩、あなたは幸せだったんですか?
結局先輩からしてみれば、この世界の自分を救えたかどうかもわからない。
この後は英霊の座に戻って無限地獄に再び送られることが運命付けられているというのに。
どうして、どうしてそう笑って居られるんですか?
そう尋ねたくなって、それを噤み、結局わたしは言葉に詰まってしまう。
だが召喚の儀式はお父様が行っているのだ。詠唱は無情にも続けられる。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
巻き込む風が更に勢いを増す。
激しい光が迸る。
でも、それでも。わたしは瞳をこじ開け続ける。
「……先輩っ!」
景色が滲む。
風が、光が、滴が邪魔だ。
最後だ。
伝えられるのはこれで最後なんだ。
「ありがとうございました、衛宮先輩!!」
魔力光が全てを弾け飛ばす。思わず腕で顔を覆う。
吹き飛ばされそうになる身体を後ろから支えられ、なんとかその場に踏み留まることができた。
――――――声は、届いただろうか。
光が収束し、人の形を為す。
召喚は成功した。いくらイレギュラーとはいえ、これで失敗なんてするはずがない。
消えた先輩の代わって現れたのは黒い甲冑を纏った騎士。紅いラインの走らせた特徴的な装飾、鎧と同じ色をしたバイザー。見間違いようがなかった。
「貴女がアーサー王ですか」
お父様の問いに答える声はない。禍々しい空気を纏う彼女を前に傅こうとするお父様を右手を伸ばして制した。
「間違いなくあのセイバーと同一人物です。それに、そんな無駄ことはする必要はないですよ。しっかりと狂化が効いているようです」
わたしが聖杯の力で従えていた黒いセイバーと外見こそ同じだが様子が違う。あのセイバーには自身の感情や理性が少なからず存在していたが、目の前の彼女はバーサーカーとして正しく顕現しているようだった。
「あぁどうもそのようだな。言葉を発する様子もない。便利な傀儡ということか。それにしても随分と持って行ってくれる……」
お父様が蒼白な顔で呟く。先の戦闘でアーチャーと先輩に魔力を大量に消費され、更に召喚が重なった。宝石で補給しながらとはいえ長期間の維持は難しいのだろう。
「間桐桜」
呼びかけたのはケイネスさん。振り向くと自走する水銀の礼装の上に雁夜おじさんの身体が乗せられていた。
「既に生体反応は途絶えている。これは只の屍だ。しかし、それでも試すならば急ぐが良い。それから方法は理解しているのか?」
「衛宮先輩の昔話では持ち主からの魔力供給があれば効果を発揮すると聞いています。もしまだ効力を発揮できるのならば、おそらく手を触れるぐらいでもきっかけになると思います」
「バーサーカー、この亡骸に手を触れ鞘の力を発揮しろ」
バーサーカーと化したアーサー王は反抗することなくお父様の命令に従った。魔力を流し込んでいることわたしにも感じことができる。しかし何も起こる気配がない。
結局、都合の良い奇跡なんてものは起きてくれなかった。下手に希望を持たせるくらいなら……いやこの先は止めておこう。唇を噛みしめて零れ出そうな言葉を胸の内に留める。
ケイネスさんが雁夜おじさんの体内に溶け込んでいた鞘を取り出し、お父様へと差し出す。
「そちらの怪我も浅くはあるまい。正当なマスターが所有しておくのが一番だ」
「では私が使わせて頂こう」
ケイネスさんが雁夜おじさんと同時に礼装で教会跡から運んできたらしい切り落とされた右腕をお父様の傷口にあてる。筋繊維が自ら縫合するように動き出し、見る見るうちに傷が塞がっていく。しばらくすると指先がぎこちないながらも動く程度には回復することができた。今度はしっかりと鞘の効果を発揮したようだ。
そして神父様に雁夜おじさんの亡骸の処理を任せ、これからの活動をどうするべきか提案しようとしたときだった。
「これからどうしましょうか……なんてこと相談している間もなく、このタイミングで来ましたね」
「流石の読みじゃ。褒めておくぞ桜」
接触してくるのはこのタイミングしかないとは思っていた。心の準備も出来ていた。だがしかし――――
「何故、彼がそこに居るんですか。お爺様?」
薄汚い肉塊の後ろに付き従っているのはわたしとおなじくらいの背丈の赤い髪をした少年だった。
読めなかった。お爺様がまさか
「ようやく場所を特定したと思えばライダー主従に攫われていたのでな、儂自らが確保してやったのだ」
「白々しい。ではあの火事騒ぎはなんだというのです?」
「この戦いから離脱すべきはずの教会の若造がこの子ごと儂を火攻めにしようとして来たからのう。命からがら二人で逃げてきたわい」
それなら辻褄は合うかもしれないが、それを信じるのは無茶がある。
だがしかし、あの生き汚いお爺様がわざわざ自ら嫌いな火に炙られるような真似をするのかと言われれば少し疑問が残る。それともこれはお父様に対して少しでも疑念を抱かせることが目的なのかもしれない。きっとこれ以上詳細を聞いてもはぐらされるか、巧みに嘘を付かれるかだ。追及は止めだ。その先の対応を考えなくてはならない。沈黙を保ち、お爺様の言葉を待つ。
「そう睨むでないぞ桜。もう少し嬉しそうな顔をしてみたらどうじゃ。ようやく探し人と会えたのであろう?」
お爺様に手を繋がれている少年を見た。幼いながらも確かに衛宮先輩の面影はある。けれども別の世界で生きる彼はわたしの愛した人とはやはり異なる人間だ。
生きていてくれて良かったという安堵感はあるけれども、一時期の熱狂はもう冷めているようだと自己分析を行う。ちょっと前のわたしならば錯乱していたに違いないが今なら冷静で居られそうだ。
「ライダー、まだ手を出してはダメ。どんな狡猾な手段を用意しているかわかりません。お父様、ケイネスさんも抑えていて下さい」
おそらくお父様を別にすればお爺様と相対するのは皆初めてだ。あの悪魔のペースに呑まれるわけにはいかない。だからわたしがこちら面々を抑えるように場の流れを作る。
「それで要件はなんですかお爺様? その子を人質に何か要求するつもりですか?」
「まさか。桜、よくぞここまで残った。その健闘を称えての商品じゃ。受け取るが良い。ほれ」
お爺様が促すと、彼は怖いものから逃れるように必死な顔でこちらに向かってきた。お爺様の意図はわからないが、走って来る彼を受け止めるべく両腕を広げる。
「せんぱ……」
「しんぷさまー!」
華麗なるスル―。わたしの横を過ぎ去った彼は言峰神父の方へ抱きついていた。
一瞥すらされなかった。我ながら痛い光景だ。案の定お爺様は口元を歪めている。これが見たかったために……というわけではないだろう。気を取り直して咳払いを一つ。
「礼を言うのも癪ですが、ありがとうございました。お爺様。それではさっさと消えて頂けますか?」
「無意味な事を。本体が出て来るわけがあるまいと知っておろうに。それからそのサーヴァントに魔力を蓄えこんでいるな桜。聖杯の完成の可否を手に握るのは我が孫ながら恐れ入った。だが良いのか? 早く自決させねばその魔力はパスを通っておぬしに遡り害を為すぞ。その苦しみもう一度味わうつもりなのか?」
「そ、それは……」
その可能性は考えていなかった。できることならあの苦しみはもう二度と味わいたくない。脅しに使うつもりが、逆に脅されてしまっている。やはり頭の回転と狡猾さでは、わたしや先輩よりも奴の方が上手らしい。
「では桜、これからが本題じゃ。そちらが逃した聖杯の器も儂の方で確保した。冬木市民会館へ向かえ。そしてサーヴァントの自決を命じよ。それで我らの願いは成就する」
「我ら? 何とぼけたことを言っているんですかお爺様。不老不死なんてつまらない願い、わたしが本当に叶えると思っているんですか?」
「クク、不老不死はあくまで手段。だが新たな手段を見出した今、不老不死など無用」
「なら一体何を……」
何を望むというのだ。あれほど意地汚く生きあがいたこの妖怪は。不気味な低い声で嗤うソレは手をわたしに向かって差し出した。
「桜よ。やりなおしたい。そう思ったことはなかったか?」
「えぇ、その思いがあったからこそ今があります。でもそれが一体何だと言うんですか?」
「では今一度聞こう。“この世界”での出来事をやり直したいと思ったことはなかったか?」
言うな。その先は聞かせてはいけない。
とっさに自分の耳を塞ごうとするが遅かった。
「姉や雁夜に生きていて欲しいと思ったことはなかったか?」
一度は取り除いたはずの毒が再び脳内に染み渡る。
「姉さんや雁夜おじさんが生き延びる最良の結果が得られるまで、何度でも繰り返せと?」
「然様。一度目でもこれだけの結果を得ることができた。二度目なら、三度目ならもっと良くなると思わんか?」
「そんな馬鹿な事をして……」
「ククク、まさかおぬしが逆行を無意味だと説くというのか? 愉快過ぎて腹が痛いわ」
杖先で地面を叩く音が癪に障る。だが冷静さを欠いたら負けだ。
「もしわたしがやり直しを聖杯に求めたとして、あなたになんのメリットが?」
「やり直しという儂の願いを、おぬしの願いに便乗させる。願いの指向性が同一ならば、願いを反映させる意識と時代をそれぞれ別に振り分けることも不可能ではない。そのためにこの一年全てを賭けて来た」
意識の便乗もあれだけ自信満々で言うのなら何かしらの奥の手を用意しているのだろう。
「既にわたしと言う例があるのだから、やり直しはこの汚染された聖杯でも確かに可能なのでしょうね。ですが却下です。碌でもない世界をこれ以上増やすわけにもいきません。あなたによって狂わされた被害者として、わたしはあなたを止めます」
「この結果に満足できるのか桜? この世界はかつての自分が居た世界とは別物に過ぎん。それで幸せになったつもりか、救ったつもり、救われたつもりか間桐桜?」
段々と声を荒げるお爺様。決してそれは余裕がないからではない。言葉のボディーブローで畳みかけているつもりのだ。
「確かにお爺様の言うことも一理あります。……わたしは諦めきれません。わたしが愛する人たちが居た世界に必ず帰ります」
「桜! 耳を貸しては駄目だっ!」
お父様が必死の形相でわたしに訴えかける。対照的にお爺様は醜い笑みを更に広げた。
わかっているでしょう。決めたでしょう。そう胸の内に訴えかけた。
そして、
「そして絶対に、先輩と姉さんを――――――そしてわたし自身を救います」
「でもわたしは……かりやおじさんやしろうおにいちゃんがわたしをまもってくれたことを、なかったことにはしたくない。ねえさんのぶんもわたしはしあわせになりたい!!」
「儂の手を取れ、桜。それで介入はすぐに終わる」
再びお爺様が手を伸ばす。嗤っていられるのもこれまでだ。
「だから、
今までの不安定なわたしじゃない。
「―――――は?」
良い顔をしている。実に無様な間抜け顔だ。やり直しのその先に何を望もうと知ったことではない。絶望して、追い詰められて、消えてしまえ。
「この世界で絶対に幸せになってみせます。姉さんや雁夜おじさんの分も。そして魔法使いになってあの世界の皆を助けるんです。聖杯じゃなくて今度は自力で奇跡を掴みます。これが
爪先から頭まで一片も残さぬよう入念に影の中に溶かし込む。本人の言う通り、本体じゃないのは確かだろう。少なくともわたしの手にかかるようなところには現れないはずだ。だが当面の脅威は過ぎ去ったと思う。
なので次に行うべきはこの意志表示の結果確認だ。
「それでいいですか、お父様?」
「その選択、遠坂家当主として心から歓迎しよう。その才覚と気概を以てすれば、遠坂家の本来の目的をきっと果たせるはずだ。桜」
「言っておきますけれど、事情はどうあれ間桐なんて酷い所に養子に行かせた事を心の底から怨んでますからね。もう世界を滅ぼしてもいいかなと思える位に」
「酷い所と言う定義は一体……」
「あとで身体の隅々まで教えてあげますよお父様」
喜びに溢れているお父様の顔が気に入らなかったので、わたしの恨み事を吐いておく。蟲蔵に落としてやりたい薄暗い気持ちも未だに健在だ。
だけど――――なんでわたしはお父様に抱きついているのだろう。また身体を
仕切り直すために、これからの指示を口にすることにした。
「私は市民会館に向かいます。あとはお爺様から器を奪うなり、壊してしまえばわたしたちの完勝です。お父様はバーサーカーを連れて大空洞へ。万が一の時は宝具で大聖杯を破壊して下さい」
お父様から離れてライダーの手を取り、目的地に向かおうとする。しかし――――
「サクラ、危ない!!」
響く鈍い金属音。バーサーカーと化したアーサー王がライダーに斬りかかっていた。
わたしはライダーに庇われたおかげで無事だ。
すぐに両者は一歩引き下がり、構えを取りなおす。
「令呪を以て命ずる。正気に戻り理性を取り戻せバーサーカー!」
お父様の一画しかない令呪が消え去ってしまう。「止めろ」という命令ではなく、このようにしたのは、理性的な騎士王なら令呪がなくとも従ってくれると見越しての判断だろう。的確な処置だとわたしも思う。
バーサーカーと化したことで黒くなっていた甲冑が、セイバーだった頃の様な白銀と青の鮮やかさを取り戻した。黒いバイザーも消え去り、彼女の表情が顕わになった。歯を食いしばり、何かに耐えている、そんな顔だ。
「……私は正気です」
自称正気の彼女は剣を水平に伸ばし道を塞ぐように立ちはだかっている。どうしてこうも先輩の作戦は裏目に出るのだろうか。
「もう一度言います。私は正気です。再びの召喚ということ位しか正直なところ理解できていませんが、それでも聖杯を破壊する様な真似を認めるわけには行きません」
「怖れながら騎士王よ、あの聖杯は汚染されているのです」
「汚染とはどういうことなのですか? 私には何の説明もなされていません。しかもこの子は“汚染されて居てもやり直しは可能”だと言いました。何も知らないまま、私はここで諦める訳には行きません」
頑として説明を拒みそうな雰囲気を放つ彼女にかける言葉はあるのだろうか。お父様とパスは繋がったまま令呪がないというのが問題だ。ライダーと戦闘させるわけにもいかず、お爺様の言動からも余り長いことライダーを現界させるのは難しいだろう。
だが彼女は清廉な騎士王だ。言葉さえ届けば納得してわたしたちの側に付いてくれるだろう。
「貴方たちが聖杯を使う気がないのなら、私に譲って下さい。私はブリテンの王の選定をやり直さなければならないのです!」
彼女は声高々に主張する。そして意外な人物がその背中を後押しした。
「ぼくもやりなおしがしたい」
少年時代の先輩がそう呟いた。
「かぞくやともだちのみんながいきていたころに、ぼくはもどりたい」
それはごく普通の少年の願いだった。
「おねえちゃんもむかしにもどってやりなおしたいんでしょ? だから、ぼくといっしょにねがいをかなえよう?」
「え? …………えぇ」
ごく自然な流れでその言葉は交わされた。この状況下で誰が気付けたというのだろう。
「ですが貴方は幼く、しかもただの一般人――――――――まさか、これは!?」
「しまったっ!
「させません!!」
セイバー、いや今はバーサーカーの剣戟によって詠唱が中断される。ライダーが抱えて庇ってくれたから怪我はしてない。
だが状況は一転して最悪だ。お爺様が
しかもお爺様の本体が全く違う場所にあった場合、かなり性質が悪い事になってしまった。疲労気味のライダーで無傷なバーサーカーとの相手をしなければならないのだ。正面から戦っても勝ち目は薄いだろう。しかし聖杯の器を確保しているらしいということは、この二人が市民会館へと辿りついたらアウトだ。
「ははは、ははははは! 万が一の保険で小僧の中に一匹を潜ませておったが、まさかこうも都合良く事が運ぶとな」
「な、何が起こったのですか! この少年は変貌ぶりは一体!?」
「令呪―画を以て我が傀儡に命ず。我を守護しつつこの場で敵サーヴァントを排除せよ」
バーサーカーから迸る魔力の量が膨れ上がる。
見えない剣の切っ先がライダーに向けられようとして、地面へと突き刺さった。
「アレが見た目通りの生き物でないことはわかります! ですが守護の命により私からは手を出せません。今の内に彼を抑えて下さい!!」
今はセイバークラスではないとはいえその気位の高さ故か、令呪による強制になんとか耐えきるバーサーカー。
「ライダー、先輩の精神だけでもとりあえず自己封印の中へ!」
「さらに令呪―画を重ねて命ず。全力で任務を遂行せよ!」
ライダーが距離を一気に詰めて先輩の眼前へと迫ろうとする。
それに対し、重ねられた令呪に抗えなかったバーサーカーの剣戟が、無防備に背中を曝したライダーに襲い掛かる。
しかしその不可視の剣は振り降ろされることなかった。
ぎこちなく途中で剣を止められた直後、痛烈な蹴りがライダーに叩きこまれた。
ライダーの身体は三回転ほどしながら地面を跳ねていく。
すぐに立ち上がったが、劣勢ということは一番ライダーが良く理解しているのだろう。
「サーヴァント同士で無理なら、わたしたちが――」
「私が戦闘に立とう。火の魔術ならば相性が良いはずだ」
「ならば防御は私に任せておくが良い」
お父様とケイネスさんの二人が隣に立つ。同じ事を考えていたようだ。
「思いあがるでないぞ若造共が。我がマキリの魔術の深奥、その眼に焼きつけるが良い」
無数の蟲たちが地面から空から湧いて集まって来る。
時間が勝負だ。ライダーが倒されるまでにせめてこのお爺様が乗り移った彼をどうにかしなければならない。どうにかしても、マスター権がお爺様の本体に残ったままだと詰んでしまうが、そのときはそのときだ。
「腹を括るしかないですね。やりましょう」
目下の目標は残る一画の令呪の奪取。分の悪い賭けということには隣の二人にもわかっているのだろう。
「声は祈りに――――――私の指は……今度は何が!?」
詠唱を中断したのはわたしだけではなかった。
「あ、がっ……、そんな馬鹿なっ。こんな事で我が悲願の成就が……」
急に苦しみ出したお爺様。攻撃の姿勢を取ろうとしていた周りの蟲たちも、散り散りに暗闇へと逃げていく。
「たった一発の銃弾如きでっ……何の理想も持たぬ小僧などに。何故、何故我が理想の成就が阻まれなければならないというのだ」
胸を抑え、悶え苦しんでいるようだがわたしたちにも状況がさっぱり理解できない。銃弾ということは衛宮切嗣が何かをしたのだろうか。
「――――――――ようやく。よ……やく、が……理想を取……戻し、というの……」
× ×
こうしてわけのわからないまま、お爺様は消滅した。
拍子抜け、と言えなくもないがかなり際どいところまで実際追い詰められていたのだ。勝ちは勝ちとしてわたしたちは有り難く受け取っておくことにしておいた。小さな先輩は何の負傷もなく無事だったのでめでたし、めでたしと言えるだろう。
それから戦闘命令が下ったままのバーサーカーはわたしに残った最後の令呪をケイネスさんに委譲し、鎮静化させることに成功した。
その後、市民会館に向かうと満身創痍の衛宮夫妻と前のライダーのマスター、そしてソラウさんと合流することができた。ソラウさんからとても怒られたけれど、そんなことはちっとも耳に入って来なかった。何故かというのも――――
「起源弾って何なんですか。もっと早くそれを見つけていれば楽だったのに……」
ぼやきたくなるのも仕方ないと我ながら思う。衛宮切嗣曰く、前のライダーのマスターが放ったその弾の効力で、お爺様の魔力回路がまとめて破壊され、延命や他の身体の行使ができなくなったらしい。
たまたまその弾が込められていたことといい、ちゃんと的中したことといい、その上さらにこれだけの効力を発揮したなんて。これは偶然というよりも……余程、彼が幸運に恵まれていたのだろう。
不幸の星の下に生まれた者として妬ましい。ちゃっかり、ケイネスさんの下働きになるということで和解しているし。
「サクラちゃん! ちゃんと聞いているの?」
そういえば、あれから
まぁ、とりあえず――――――
「魔法使いになって先輩に会いに行くぞ!!」
× ×
「シロウ、何故……」
彼女の喘ぐような嘆きは、奇しくも私のものと同じだった。
闇色の刀身を伝って溢れだす命の滴が、漆黒の鎧を紅に染め上げていく。
墜ちた聖剣を押し返してようやく見えたサクラまでの道程はここで閉ざされてしまった。絶望に塗れた世界に再び灯ったはずの小さな希望の光。それを奪ったのはシロウの迷いであり、そして道具サーヴァントである私の怠慢でしかない。
私たちにこれ以上の奇跡が起こす力がないことは、眼下の血だまりを見れば間違いなかった。
感情を初めて取り戻したように狼狽するセイバーとは対照的に、赤みを失っていくシロウの顔からは表情が、生気が、一滴ずつ失われていくことが見てとれる。
「ライダー、……めん、でも、俺には、ど……し、ても……」
自らの血にむせかえりながら、謝罪をする彼をどうして責められようか。
サクラを助けるためには、セイバーの排除は絶対に必要だ。それを分かっているからこそシロウは震える指先で取り落としたアゾット剣を拾おうとするが、数センチを掴み上げることすら叶わない。
宝具の反動で体中の筋肉と血管が引き裂けるような痛みが走り、私の本能に動くなと警告を発している。その上、魔力のほとんどが抜けきって私の体は思うように動かない。
「
白銀の刃がセイバーの胸を貫いた。
「――――詰めが甘いですよ。ちゃんと、止めは刺さないと」
白と黒のフードを纏った人物が突如としてシロウの横に現れていた。
そしてシロウが取り落としたアゾット剣。それを拾い上げ、もう一撃を加える。
「
炸裂したアゾット剣の魔力による止めはセイバーの霊核を打ち砕いたようだ。
セイバーがもう二度と立ち上がることはない。洞窟の闇に溶けこむように消滅していった。
「すぐに治します。じっとして居て下さい」
彼女は赤いハート型の宝石が埋め込まれたネックレスをシロウの手にあてた。
胸の空洞が新たな血肉で満たされていく。高度な回復魔術、蘇生魔術に近い域の業だ。
「本当に助かった。ありがとう、凄い魔術師なんだな。だがアンタは一体誰なんだ?」
普段通りに喋れるほどに回復したシロウが感謝を述べ、彼女の正体を尋ねる。
フードの下に覗くのは白い仮面。声と豊満な体系から女性らしいということと、凛以上に実力がある魔術師ということしか判断できなかった。
「時計塔から極秘に派遣されたものです。遠坂凛に“大師父の指示”という言葉を伝えれば通じるはずです」
「同門ということですか」
「そうですね。それよりも早く行きなさい。待っている人が居るのでしょう。その前に、あなたはこれを飲み込んで。回復するはずです」
そう言って私の口に入れられたのは大きなエメラルド。まるで凛のような事をする。再び魔力が体中に満ち足り、損傷した身体が修復されていく。だがこの魔力はまるで――――
「助力感謝します。私達はこの奥へ向かいますが、貴女はこれからどうするのですか?」
「……できれば付いて行ってあげたいけれども、残念ながらもうすぐ時間切れ。私に干渉できるのはここまでみたい。二人とも急いで。今ならきっと間に合うはずだから」
「そうですか。貴女が何者かは問いたいところですが、先を急ぎますので。シロウ、リンの加勢に向かいましょう」
「あぁ、そうだな。ありがとう助かった。礼はまた後で必ず!」
「頑張って、必ず皆で生きて帰って!」
「あぁ絶対に!!」
シロウが暗闇の向こうへと走り出す。二人が待つ最奥部へと。
私も一礼をすると後に続いた。
「わたしはあちらに帰ります―――――――さようなら、先輩」
私達の足音と空洞内の風の音に紛れる中、僅かに聞こえた声。
振り向けばそこには虚空に消え行く
仮面を外した
私はサクラを再び笑顔にしてみせる。シロウとリンの三人で。
固く拳を握りしめ、シロウと共に
最後までお付き合い頂きありがとうございました。