「ふぅ」
自然と肩から息が零れた。頬に流れる夜風が心地よい。未だ獲物は釣れる様子はなく、待ち疲れ感が背中にのしかかっている。
「少し歩き疲れたわね」
「ですねぇ」
日暮れ頃からずっと歩き通しのため、ソラウさんと二人で新都の外れにある公園のベンチで休憩中である。
一年かけて魔力を温存していたため先輩の現界における負担は以前のライダーのときよりずっと軽い。だがこの体は幼児そのもの。体力面は貧弱そのもので我ながら情けない。そして嘆いてもどうしようもない事柄なのである。
わたしはリュックサックをベンチに降ろすと魔法瓶を取り出し、湯気が立ち上る先輩特製のアツアツの紅茶を外蓋に注いだ。
「どうぞ」
「……ん、ありがとうね。サクラちゃん」
戸惑いながらもソラウさんは紅茶を受け取った。貴族として育った彼女は、もしかしたら水筒を使うこと自体が初めてだったのかもしれない。
ケイネスさんなら拒絶されるかもしれなかったが、数時間の散歩で少しだけ互いの境遇を話し、心を開いたのが良かった。彼女は私に対しての警戒はかなり薄くなっているようだ。
私も内蓋に注ぎ、冷ましながら表面を啜る。キーマンの燻ぶった香りが口内から鼻孔へと染み渡った。ホッと一息。
「どう、ですか?」
「実家ほどじゃないけど、飲めないことはないわ。少なくともホテルの紅茶より美味しいと思うわよ」
熱の籠らない声だが元々彼女はそうなのだろう。本物の貴族様から認められる先輩は流石だ。
「先輩はイギリスで執事をやってたこともあったらしいですからね。お店で先輩が淹れたのは良かったでしょ?」
「ええ。淹れ立ては申し分なかったわね。もしランサーを受肉させても余裕があるのなら、キャスターも受肉させましょうか。その話が本当なら是非執事として雇いたいわね」
ランサーという言葉が出た途端、先程までとは打って変わって惚気の入った熱い声を出すソラウさん。聞いているわたしは背中に冷たい汗が流れていると言うのに、気づく素振りは微塵も見せない。
ケイネスさんから聞いたところランサーには魅了の呪いがあり、ソラウさんはその虜になっているらしい。わたしも今日一日ずっと眼元が痒くて仕方ない。いきなり花粉症にでもなったような気持ちだ。
「うふふ、そのときは是非。でも先輩はあげませんよ?」
「ランサーさえいればいいもの。キャスターには興味ないわ」
「わたしも先輩以外興味はありませんから大丈夫ですよ」
「そう。なら私達は協力し合えるわね」
ケイネスさんにも興味はないんですね、なんて酷いことは言えない。何とも哀れで少し胸が痛む。
あの人はプライドの高さが鼻につくけど本当に婚約者一筋なのだ。わたしたちの将来を任せても良いと思えるぐらいには立派な人物であり、頼れる人柄だと言うことも短い時間の付き合いでさえ読みとれた。 主にわたし達の今後の安寧のために、何とかしてやりたいとは思うけれど……ケイネスさんの願いがまだ特に決まっていないことを良いことにランサーの受肉を本当に考えているようだ。
先輩も一緒に受肉させてくれるかもしれないけれど……ギスギスするんだろうなぁ。
もっとも平和的な解決としては最後に残ったギルガメッシュを2騎で打倒しつつもランサーには致命傷を負ってもらい、残った先輩のマスター権をケイネスさんに譲るのが理想な形だと今のところ考えている。
降霊術の極地である英霊を伴って帰還できればケイネスさんには充分な箔が付くし、わたしも幸せ。うん、この路線がベストに違いない。
「あれは……まさか子供?」
急にソラウさんが呟く。指差す方にはパジャマ姿の子供が2人、誘蛾灯に惹かれる様にフラフラと歩きながら公園の木々の中へと消えていった。
倉庫街での爆破事件とバーサーカーによる惨殺事件のせいで冬木氏は警察による厳戒態勢が敷かれている。ソラウさんの魔術がなければわたしのような子供が出歩くことは許されないはずなのに。
「どう考えても普通じゃないですよね。それとソラウさん。わたしも何だか、ついさっきから鼻がおかしいんです。すごく甘くて臭い香りがしているような、変な感覚というか……バ―サーカーのマスターの魔術かもしれません」
わたしも水筒の蓋を両方閉めるとリュックに仕舞いこみ、ベンチを降りる。
「私は何も感じないわ。でも急に魔力の流れがおかしくなったのは分かる。マスターは一般人かもしれないって話だったけれど、これは気を付けた方がいいわね。ランサー!」
「はっ!」
「私達を抱えて、ランサー。あの子供達の向かう先に敵のマスターがいるはず。そこに向かうわ」
「わかりましたソラウ様!」
囮作戦自体は失敗だったけれど、これでどうにか捕捉できそうだ――――でもこの様子を見てまたケイネスさんは歯噛みしているのだろう。ベストな選択とはいえ、これは同情しちゃうなぁ。
× ×
子供達の向かう方向とソラウさんの探知で向かった先は、いかにも怪しい街の路地裏。待機中の先輩から入った連絡だと、闇色のローブを纏った長躯の男が10人以上の子供を連れ立って暗がりへと消えていくのを確認したようだ。
きっとそれで間違いない――――いや、本当にそうなのか?
ここで違和感が生じる。理性のないはずのバーサーカーが何故本能に従い、その場で捕食していないのか。それとも派手にやり過ぎたのでマスターがわざわざどこかへ子供達を集めてから、その魂を捕食するつもりなのだろうか。
しかし、その疑問はすぐに解決されることになる。件の男が目の前にもう居るのだ。
路地裏の袋小路に辿りついたところで相対したが、相手もランサーの存在に気が付いていたようだった。男は振り返ると、零れおちそうな眼球をこちらに向ける。
「こそこそ嗅ぎまわるネズミが居るかと思えば、ランサーのマスターでしたか」
道化風の魔術師は籠った声を発する。それでわたしは悟った。マスターじゃなくサーヴァントであることは相対した瞬間分かったが、理性がある時点でバーサーカーじゃない。この男はキャスターだ。
「……聖処女は聖杯によって再びの復活を得た。私は聖杯戦争を行うまでもなく、その願いの正当性と強さを持って聖杯を手にしたのだと確信しました」
両手で頭を抱え、身を震わせながらキャスターは語り出した。聖処女とは誰のことだろうか? 男が何を言っているのかが全く分からない。
わたし達を降ろしたランサーは槍を構え、その矛先を心臓と喉元に向ける。
「そのときの私の喜びが分かりますか? 理解できますか? 貴方たちにはできないでしょう」
ビルに覆われた狭い夜空に手を掲げ、舞台役者のように金切り声をあげるキャスター。あまりにも異常なその挙動に誰も声を挟むことができない。ただ、警戒の体制を取り続ける。
まずい。ここだと遮蔽物が邪魔で先輩の援護が期待できない。横槍は防いでくれるだろうけれど、ここは3人で乗り切るしかなさそうだ。
「しかしランサーよ。貴方は我が愛しの聖処女の腕を斬りつけ、あまつさえ一人残して裏切った! 聖処女はまたしても裏切られ、そして死んだのです!」
「……もしかしてセイバーの事かしら?」
「……多分」
倉庫街のことを言っているのだろうか。それならばソラウさんの言う通り、聖処女というのはセイバーの事だろう。エクスカリバーを駆る彼女と関係のありそうな魔術師と言えば、ぱっと思い浮かぶのはあまりにも有名な魔術師の名前。
「ソラウさん。もしかしたらキャスターの真名はマーリンかもしれません」
「キャスターってどういうこと? クラスの重複はありえないはずよ」
「実は先輩はキャスターとアーチャーの適正持ちのイレギュラークラスなんです。勘違いを正さなくてゴメンなさい。またそれは後で説明します。それより、マーリンについての伝承はわかりますか? 弱点や得意なことなど、英国出身の方なら詳しいと思って」
「……後で話してもらうわよ。マ―リンと目星を付けた理由も気になるけれど、彼は高名なドルイドよ。植物に気を付けないといけないわ。それに伝承からすると予言に魅了……もしかしたら真名は正しいかもしれないわね。それから捉えられていた過去があるから捕縛や封印に弱いかもしれないけれど、ランサーには無理ね」
流石、自国の伝承だけあってかなり詳しいソラウさん。マーリンは植物が得意らしいが周りはビルばかりで植物の気配はほとんどない。これは立地的にこちらが有利なようだ。それと捕縛か……影でも効果があるのだろうか?
「ソラウさんは封印とか使えます?」
「いいえ、治癒はともかく戦闘で役に立てそうな魔術はないわ。それにランサーの維持をしているのは私だから余裕もあまりないと言ったところね」
「そうですか。なら必要な時は私がランサーのサポートに回ります。通じるかの保証はないですけれど、どうやら私の得意分野みたいなので」
「そうなの? でも基本的にはランサーに任せるわよ。貴方に何かあってキャスター……じゃなかったわね。貴方のサーヴァントに何かあっても困るから大人しく援護を待ちなさい。大丈夫。対魔術持ちのランサーが負ける理由がないわ」
ソラウさんがそう言うので、わたしは自衛に徹することにしよう。対魔術があるなら、確かにランサー一人でも大丈夫かもしれない。そんな相談をしている間にもキャスターは語り続けていたようだ。ランサー、もう待ってなくてもいいんじゃないかなぁ。
「――――どうして二度までも、二度までも裏切られ死ななければならなかったのでしょうか。これは神による悪辣な仕打ち以外の何物でもありません。故に私はここに聖戦を宣言しましょう!!」
絶叫がビルの谷間に木霊する。あ、そろそろ口上も終わりそう。
「神に呪いあれ! 聖杯に呪いあれ! 非業なる最期を迎えた彼女に代わり、私が断罪して差し上げましょう! さぁ我が愛しの聖処女ジャンヌのため、貴方のマスターの無垢なる血と断末魔を捧げなさい!」
「え――――――――ジャンヌ?」
今までの必死の考察は何だったのか。そんなことに気を取られていると。突然視界が紅色に染め上げられる。額にヌメっとした何かが付着した。久々に鼻孔を刺激する生臭いソレは、久々にわたしを戦場の感覚へと誘い出そうとする。
男の足元に転がっているのは頭の弾け飛んだ子供の肉塊。飛び出している臓物やら脳漿やらのことは、口に出すと流石に気持ち悪いのであまり気にしないでおく。
「貴様ぁ! この外道が!!」
ランサーが槍を振り上げ飛び出した。一言キャスターが呟くと子供達はヒトデみたいな魔物へと姿を変えてランサーに襲いかかる。
しかし魔物は所詮魔物だ。一振りで真っ二つになるほど脆く、英雄と渡り遭うには格が違い過ぎた。あとはランサーの一方的な試合になる、なればいい……そう思っていたが、実際は逆だった。
袋小路で追い詰められていたのはわたしたちの方だと、ようやく気づくのにかかったのは完全に周囲を包囲された数分後の事。魔物の死骸、血の海から際限なく魔物は増殖し続ける。そろそろ20を超えるだろうか……数えるのも馬鹿らしくなって来た。
ランサーは強い。だがわたし達を護りながらのハンデを持つ上に、キャスターとの相性が圧倒的に悪いことも間違いない。状況を打破するには先輩の援護待ちになるのだが――
「きゃぁあああ!」
ランサーが討ち漏らした触手がソラウさんへと襲いかかろうとする。
「
この身体で、どこまで戦えるのか。
「
影の触手が魔物を絡め取り、闇の中へと捕食する。最盛期とは比べ物にならないほどに頼りない力。でも――――
「サクラ、ちゃん?」
「
今度は英霊相手じゃない。アーチャーや姉さんと比べたら、こんな魔物相手何かに負ける気などかけらほどもない。
「ソラウさん。先輩の受肉の件、交渉して下さいね。
さらに影を呼び出してわたし達を食べようとしていた魔物たちを逆に次々と捕食する。ちょっと大きな蟲が相手だと思えば良い。もともとが死体だったからか、一体一体がそれなりに大きな魔力を持っているのでちょっとした餌みたいなもの。
死んでしまった子の仇を取る代わりに、その血肉から溢れ出る魔力をわたしがもらって活用してあげるのだ。
「TVゲームでいうボーナスステージってやつですね。わたしとの相性は最高ですよ。これぽっちも負ける気がしません。ソラウさんはわたしが護ります。ランサーさんはキャスター本体を仕留めて下さい!」
「了解したサクラ。ソラウ様を任せたぞ!」
この布陣がベストだとわたしは判断した。令呪を確保するためにもランサーには確実に仕留めてもらわないと。偶には張り切って先輩に良いところを見せるのもいいかもしれない。
× ×
「すみませんソラウ様、キャスターの奴を取り逃がしました」
「えぇケイネスから連絡があったわ。向こうの3人が急に動き出したライダーを追っているわ。おそらくキャスターの絡みだと思うから任せましょう。それでランサー、言いたいことがありそうだけれど」
「はい、拠点の一つと思われる場所を発見したのですが……」
何故か途中でもごもごと言い淀むランサー。資料の如く、きっと凄惨な光景が広がっているのだろう。
「ランサーさん、わたしも見る覚悟はありますから」
「えぇわたしもよ。魔術師として神秘を秘匿する義務もあるわ。案内してランサー」
「はい。それでは――」
そうやって連れて行かれた場所は薄暗いアトリエのような場所だった。
至る所に彫像が、家具が、楽器が、衣服が、絵画が、そこには飾られており――――そのどれもが人間だった”モノたちで作られていた。
「強がってみたものの、生で見ると流石に胃がきついわね。これで気分が悪くならないほど私は狂ってないわ」
ハンカチで口元と鼻を抑えながらソラウさんは呟いた。わたしも同じようにした。
眼前の惨状は言葉にもしたくない。死体や辛うじて生かされた肉塊で造られた一つ一つを見る度に、耐性があるとおもっていたわたしでも嘔吐感が込み上がってくる。
そして薄眼で一つ一つをよく眺めていく。その飾られた者達のほとんどは子供たちであることに気付いてしまった。浮かび上がる一つの可能性、それもとびっきり最悪な可能性が脳裏に――――
「いやっ! 先輩がっ、先輩がいたらどうしよう!!」
可能性はある、むしろ高いかもしれないのだ。お爺様の手や雁夜おじさんの必死の捜索にもかかわらず未だ見つからないこの世界の小さな先輩が、もしも、もしもこの中に居るのだとしたら――――
「いや、そんなの嫌だ。先輩がいないのならわたし、わたし、何のためにっ!!」
「どうしたの!? 落ち着いて、気分が悪いなら外に出ましょう」
「知り合いが、大事な人がこの中に居るかもしれないんです。すみませんランサーさん、全員、全員です。集めて来て、貰えませんか?」
「ランサー……私からもお願いよ。頼まれてあげてくれないかしら」
まだ生きている人もいる。ソラウさんは治癒が使えるとも言っていた。万が一ここに先輩が居たとしても間に合う可能性は残されているのだ。だから諦めるな、絶望するなわたし。
「これで全部だと思います」
「ありがとう、ランサー」
並べられた人達の顔を一つ一つ確認していく。いない、いない、いない……いない。先輩が居ないことに安堵しながらも、焦燥は収まるどころか余計に悪化していく。
何とも言えない悪い予感、虫の知らせのような何かが私に囁いている気がするのだ。だから全てを確認し終えるまでわたしは安心できない。いや、顔が判別できないものや存在しないものも多いのだ。先輩が全然違うところで見つからない限り、きっとこれからわたしは安心できないのだろう。
そうやって一つ一つ確認を続けていると、一つの見知った顔があった。だけど先輩じゃない……良かった。
「良か……った?」
声が、漏れると共に膝からストンと音がするように崩れ落ちた。
艶やかな黒髪、きめ細かい白い肌、翡翠に近い綺麗な瞳、彼女はまさしく――――
「嘘だ」
でも、決して見間違えるはずのない。わたしが決して間違えるはずがない。
「嫌っ、嘘、嘘でしょ」
でも現実だ。分かってる。でも生きているとは到底言えないような姿で、わたしの膝元でかろうじて息だけをしているのは……
「ねぇ……さん」
姉さん以外の何者でもあるはずがなかった。
「姉さん、どうして、どうして……ここに居るんですか」
何で、何で禅譲のお家にいるはずの姉さんがここに。わからない。わかりたくもない。
「ソラウ様、魔術でその少女を救うことは?」
「無理よ。むしろ現状がキャスターの魔術で無理やり生かされている状態でしかないわ。悔しいけれど、私にできることは何もないのよ」
「――すみませんでした」
助ける方法は、ないらしい。
「どうしたら、いいんですか、姉さん」
返事はない。ただ、声を発することのできない姉さんは、瞬きをすることなくずっと私を見つめてくる。口元を動かすことも、存在しない手を伸ばすことも今の姉さんには叶わないので、ただ見つめてくるだけだ。
わたしがもっと姉さんのことを気にかけていれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに。後悔の波が寄せては返し、行き場のない思考がグルグルと循環する。
わたしを止めに来てくれた姉さん。わたしを本気で殺しに来て、そして止めを刺せなかった、強くて、愚かで、優しくて、愛しい姉さん。
そんな姉さんの事を、わたしは――――ならばせめて。
「
せめて、わたしと一つになって、一緒に生きて下さい。姉さんが寂しがらないように、ここに居るお友達もみんな送ってあげますから。
「
せめて安らかに。
こうして影で全てを包み込んで、部屋に残ったのはわたしたち3人だけになった。
「辛かったわね。泣いても良いのよ? ランサーと私しか見てないから」
優しいバラの香水の薫りに抱きしめられる。柔らかくて、暖かい。まるで姉さんみたい。
「先輩じゃなくて良かったって、先輩じゃなくて姉さんで良かったなんて」
ソラウさん、本当に吐き出しても良いんですか。わたし、重いですよ。
「わたしっ、ぐすっ、思ってしまったんです。わたしの、大事なっ、姉さんなのに……」
先輩が多分無事で良かったって、本気で思ってるんです。こう言っている今も。
「やだ、わたし……本当に、最低だっ」
今夜の事は先輩、そして特に雁夜おじさんにだけは絶対に言えない。吐き出す場所があるうちに、後悔と自己嫌悪で塗れた嗚咽を、ソラウさんの胸の中でわたしは思いっきり叫び続けた。