テイルズオブ憂鬱   作:gamika

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※コメディ


■チェスターの憂鬱

▼0.災厄に身を落とした

 

 暖かい日差しの中、何をするでもなくチェスターはぼーっとしていた。

 視線は空へ。

 高く高く、どこまでも高く広がる青い色彩。

「暇な上に眠い」

 つぶやきが風に乗って空に舞い上がる。長閑だ。周囲で音をもたらすものと言えば、風と、自分と、鳥と、小さな足。

 足?

 視線を地上に降ろすと、一匹のブッシュベイビーがそこにいた。誰かが飼っているのだろう。赤い首輪をしている。こげ茶色の毛はよく手入れされているのか輝くようで、しかもふわふわだ。なんとはなしに、モフりたい、とチェスターは思った。けれども、それは叶わないのだ。今は決して叶わないのだ。遠い幻想に過ぎないその光景を想い、チェスターは意図的に意識を霞で覆った。現実逃避である。

 目が細くなってるよ、兄ちゃん。

 いまだ傍から動く気配のないブッシュベイビーがこちらを向いて、そう言ったような気がした。猫のように顔を擦っているのがなんともチャーミングだった。例え、本当に馬鹿にしたような物言いをされても、どこか許せる。

「悪かったな。そりゃ元からだ」

 いつも通りの皮肉を吐いて、またぼーっと空を見上げる。

 しばらくしてから、盗み見るように視線をずらすと、ブッシュベイビーは相変わらずこちらを向いていた。とぼけた表情が「一体何してんの?」と聞いているようで、少しうざったかった。

「いっそ寝ちまうか」

 視線を空に戻しながら独り言を呟く。が、その言葉を実行しようとはしない。それもまた夢想に過ぎなかったからだ。こんな時に寝れるほど、チェスターの神経は太くない。むしろ細い。神経質の方が余程近い。

 眠りたいなら、現状をどうにかしてしまえばいい。変えてしまえばいい。そうは思うが、どうしようもないのだ。暇なのに、やるべきことができない。やるべきことがあるのに、暇を持て余したように空を見上げている。勿論それには理由がある。とはいえ、それも恥ずかしいものなので誰にも言ってはいない。というか、言えるわけがない。

 また、視線を地上に降ろす。

「なんだ、そんなに興味があるのかよ」

 ブッシュベイビーは飽きもせずこちらをじっと見ていた。チェスターも同じように見返す。

 くりくりした目が一瞬閉じ、「みー」という鳴き声が響いた。

「何をしてるのかって?」

 自嘲気味に笑い返す。

「見りゃ分かんだろ?」

 そう、誰が見てもすぐに分かる。動けるのは胸部から上だけ。人間が地面から生えたような光景。

 

 チェスターは穴にはまっていた。

 

 

 

 

  ▼△▼ チェスターの憂鬱 ▼△▼

 

        ~ In the hole. I can't get out of here. Help me. ~

 

 

 

 

▼1.脱出に全力を尽くした

 

 どこからか持ってきたりんごをがりがりとかじるブッシュベイビーを横目に、チェスターは思考を巡らせていた。唯一動く腕で頬杖を突きながら。

「さて、どうしたもんかねぇ?」

 ブッシュベイビーに語りかけるように呟くと、くりくりとした黒く小さい目がチェスターに向けられる。話を聞いてくれて素直に嬉しいとチェスターが感じたのも一瞬で、

小動物はすぐさまぷいと顔を背け、りんごに再び噛りついた。さも興味なさげに。さっきまでじっと眺めていたのはなんだったのだろう。

「畜生め……」

 確かに小動物なので畜生である。事実であるがゆえに侮蔑の意味を成さない。そもそも、こんな小さくて可愛い動物相手に罵るとか、チェスターの心がヤバい。当然、常識人であるチェスターだってそんなことは理解している。

 けれども、そんな人でなしがやるようなことに心の平穏を求めてしまっていることもまた事実なのだ。怒りとか悲しみとか憎しみとか、そういうものを超越したような感情と共に吐き出された溜息がいやに切ない。

 穴にはまって、彼が一番初めにしたことは、唯一自由に動く手を使って脱出を試みることだった。結果は現状が示す通り言わずもがな、である。

 かといって、このままというわけにもいかない。凝りもせず、彼は地に手をつき、今一度力を込めた。

「く……ぬぉおおおおおおおッ!」

 鬼のような形相。腕に浮かびだしてくる血管。地面が震えてくるような気さえしてくる。ブッシュベイビーがその様子から滲み出る闘気に気付き、がたがたと震え始めた。

「ぉおおおおおおお……ッ!」

「みー!みー!みー!」

 力んだ声に合わせるように、ブッシュベイビーが鳴き声を上げる。所詮は小動物。チェスターの気迫と鬼気迫る表情におののいているらしい。どこか合いの手を入れているようにも見えるが、きっと気のせいであろう。

「……っのおぉおおおおおお!!!」

「みー!みー!みー!みー!」

 しかし、体は微動だにせず疲労が募るばかり。やがて腕から力が抜け、表情もたるんだものとなり、顔は地面に突っ伏した。ぜぇぜぇと吐き出す吐息に混じって、かすれた声が漏れる。

「全ッ然、動かねぇ」

 少し泣きそうな声だった。

 

 チェスター ● ― ○ 地面

 

 

 

 

 

▼2.過去を想った

 

 そもそも、なぜこのような事態を招いてしまったのか。今更であるが、チェスターはそのことに思いを馳せた。決して現実逃避ではない、と自分に言い聞かせながら過去を想うその姿は紛れもなく現実逃避している人間だった。

 

 

 

 清々しい朝。朝食をとって村の鐘が一つ鳴ったくらいの時間帯の話である。

 チェスターは例の如くトーティスの南の森へと出向いていた。ただ、いつもと違い、クレスは同道していなかった。

「たまには一人もいいもんだ」

 そう言って、アミィが止めるのも聞かず外に出てきたのだ。一応の目的は狩りなのだが、実際のところあまりやる気がなかった。というより、ただの暇つぶしで出てきたという意味合いが強い。昨日は珍しくボアの大物が狩れて、それが残っているために無理をして食糧調達をする意味が無かったのである。

 早い話が、ただの散歩のようなものだった。

 気の抜けた表情で足取りも軽い。森の中には人に襲い掛かってくる動物もいるというのに全く意に介していない様子だった。それも当然だろう。チェスターにとってこの森の動物は大した脅威ではない。いざとなれば自慢の足でいつでも逃げれるのだ。そもそも、動物達はあまり積極的に人前にその身を現わさない。人に会えば狩られる可能性がある事を学んでいるのだ。だからこそ、狩人であれば獣の気配を読んで、習性を学んで、生態を知って、そして効果的な罠を仕掛けなければならない。ボアのように猪突猛進では生きていけないのだ。

 その罠を仕掛けている場所の近くまで来たところで、チェスターの表情が一変する。気配がするのだ。小さいが、確かな気配。生い茂った草の陰で何者かがうごめく、ささやかな音がする。

 草の中だから鳥のアウルではないだろう。だとすればバグベアだろうか。それともボアか。できればバグベアの方がいい。食料優先ならボアだが、今回は毛皮で賃金を稼げる方が望ましい。G・ビーであれば無視して逃げよう。虫だけに。

 答えを確かめようと向きを変えるが、その必要は無かった。それよりも早く、茶色のモノが草陰から飛び出したのだ。完全に虚を突かれて脇をすり抜けられた。失態である。

「逃がすかよッ!」

 それが何であるか確認もできぬまま地を蹴って、草をかき分けて走る影を追いかけるが、相手はとんでもなく速く、思わず舌打ちが出る。全力疾走で弓をつがえる余裕もない。まさかこれ程速いとは予想外だ。最初に脇をすり抜けられたのは痛かった。だが、運は彼の味方をしてくれたらしい。

 獲物が逃げていく方向は狩りの際、獲物を追い詰めていたいつもの方向だ。木々の生え方、空間の間取り。全てが頭に納まっている。その上、一番奥は切り立った岩に囲まれた袋小路だ。このままいけば見失ったとしても仕留められる可能性が高い。

 しばらくのち、終着点へとたどり着いた。案の定、見失ってしまった獲物の姿はどこにもない。

 隠れられる場所は正面やや右の岩くらいだ。そこに当たりをつけ、チェスターは矢をつがえてその方向に構えた。獲物が岩から離れる一瞬を見逃さないよう、瞬きもせずゆっくりと岩陰の見える位置へと回り込んでいく。

 徐々に獲物の姿が見えてくる。動こうとしないところを見ると、彼が移動していることに気付いていないらしい。

 今だ、と飛び跳ねて一気に距離を稼ぎ、矢を放とうとした瞬間、足が急に沈み込んだ。

「あ……!?」

 本能的に落下していることを悟る。予測される衝撃に対して体がこわばったが、あまり意味は無かった。

 ずぼっ、とマヌケな音が小さく響いた。

「あー……」

 気の抜けた声が漏れる。

 穴に、落ちた。事実を頭の中で確認しながら、ため息をつく。幸いにも大した痛みはない。多少土壁で体を擦ったので、横腹のあたりがひりつくが、痣にもならない程度だろう。

「何やってんだか、オレは」

 もう岩陰に獲物の姿は無かった。地面に矢が刺さっているだけである。その矢も、彼が狙っていた位置とは随分離れている。とても人には見せられない失態だ。

「ちっ。情けねぇ」

 毒づきながら、頭を抱える。そもそも、なんでこんな所に穴など空いているのか。それも人の体が埋まって途中で止まるような、細長い縦穴が。

 考え始めて、彼はすぐさま理解した。何故、こんなところに穴があるのかも、誰が作ったのかも。

「罠だわ、これ。それも途中で穴掘り諦めたやつ」

 作ったのが自分だから笑えない。自分で作った罠に自分でかかる。なんという失態であろう。本当に人に見せられない、狩人にあるまじき姿だ。思わず周囲に視線がないかきょろきょろと見回すが、それも杞憂に終わった。人どころか、獣の気配もない。

 誰にも見られていないならばさっさと現状から脱却し、何もなかったかのように振舞えばそれで終いだ。そう、オレは穴になど落ちていない。ちょっと転んだだけだ。

 自分に言い聞かせながら、早速出ようと地面に手をついた。腕の力だけで自らの体を持ち上げようと力を込める。が、動かない、出られない、体が抜けない。

「あ、あれ?」

 一滴、額から汗が流れ落ちた。嫌な予感が胸中に渦巻く。いやいやいや、と嘘だろ、嘘だよな、ともう一度脱出を試みる。

「くぉおおお……ぬぉおおおおおッ!!」

 腕に青筋が浮き、筋肉がとてつもなく引き締まる。食いしばった歯がギリギリと音を立て、手が置かれた地面はすでにめりめりと陥没を始めている。彼の出せる精一杯の力だった。一時的に限界を超えた気すらした。だが、それでも。

「で、出られねぇ……?んな、バカな……」

 馬鹿なことでも事実である。

 その後も何度か脱出を試みて、はっきりと理解した。

 

 一人じゃ無理。

 

 

 

「で、ようやく現れた助っ人がお前かよ」

 ブッシュベイビーを何処か遠い目でみつめる。

「頼りねぇ……」

「みっ!みみみー!」

 チェスターの言ったことが分かったのだろうか。叫ぶような鳴き声は、激しく異議を唱えているようだった。

 

 

 

 

 

▼3.救出を請うた

 

 一体何度目だろうか。チェスターは懲りずに脱出を試み、またも失敗していた。すぐ傍には仰向けで昼寝をしているこげ茶色の毛玉がいる。ゆっくりと上下する柔らかそうな腹を見ていると、チェスターは不意に拳骨をぶち込みたくなった。大分心が荒んでいる。

「だぁっ、もう、くそったれ!」

 叫ぶと、毛玉がパチリと目を開く。ゆっくりと体を起こして伸びをして、チェスターに向き直った。言葉はない。鳴き声だってない。けれども、「どんまい、兄ちゃん」と言われたような気がした。ブッシュベイビーの哀れむような黒い瞳が疲れた顔を映している。

「くっ、小動物のくせに……ッ!!」

 空気が震えそうな威圧感を眼光に込め、ブッシュベイビーを睨みつけた。小動物相手に凄むあたり、本当に心が荒んでいる。人として色々と不味い領域に足を踏み入れている。

「み?」

 小動物は畜生である。人道など知らぬ。それがゆえに向き合う男の葛藤も努力も、悪意ですらもろくすっぽ感じていないのか。野性としてそれはどうなのか。恐れもせず、チェスターに歩み寄ってくる。とてとて、と近寄ってくる姿は愛くるしいものだったが、今のチェスターからすれば、それすらも憎たらしい。

「……なんだよ」

 地面に埋まっている分、チェスターの身長とブッシュベイビーの身長はほぼ変わらない高さにあった。至近距離で顔を突き合わせていると、獣からリンゴの匂いがした。さっきめっちゃ食ってたもんな。オレには一個もくれなかったけどよ。その小さな腹に呆れるくらいの量を詰め込んでたよな。腹パンしたい。リンゴ食べたい。

 険のある視線を隠そうともせず、元からあまり目つきの良くないそれをさらに悪化させて延々と睨みつけていると、ぽん、と頭に小さな手が置かれた。すりすり、と頭を撫でられる。

 惨めだ。

 こちらが向ける敵意が全く通じない。逆に向けられることもない。当然だろう。全く身動きが取れない人間と小動物。優位性は覆らない。その上で与えられた憐憫の情。もう、睨みつけることなどできそうになかった。こぼれそうになる涙を必死にこらえ、声を絞り出す。

「……く。ふ、ふふ……ふははははっ!ああ、優しいなぁオマエ!」

 ついに取り繕うこともできぬほどに頭がおかしくなったのか、微妙な笑顔でブッシュベイビーに話しかける若者がそこにいた。言葉など通じぬ小動物に語り掛ける男がいた。

「ん?首輪になんか彫ってあるな。プチ。お前プチって言う名前なのか?」

「みー」

「そうか、プチかぁ。いい名前だなぁ。オレもそんな名前が欲しいなぁ」

 一言で言えば、その光景はヤバい。チェスターは本格的におかしくなりかけていた。小動物に頭を撫でまわされながら、へらへらと口元をにやけさせ、微妙に目を潤ませているのだ。変態みたいだった。

「みー?」

「なぁプチ、頼みがある」

 にやにやとした表情が一変、固く引き締まった。目に光が一瞬戻る。

「オレを助けてくれ」

 それは間違いなく狂気の光だった。

 小動物相手に本気で助けを請うなど、頭のおかしい人間がやることだ。それをやってしまったのだ。限界だったのだろう。彼の心中察するに余りある。けれど、それでも人として捨ててはならぬものがある。尊厳。彼の人としての尊厳は果たしてどこにいってしまったのだろう。逝ってしまったのだろう。単に追い詰められて自暴自棄になっているとも言い換えられるが。

「マジで助けてくれ……」

 口調は切実に違いない。だが、それを小動物が理解できるはずもない。そのはずだった。ブッシュベイビーはその丸々とした体を反らせて、手を突き出した。その行為は、胸を張っているということなのだろうか。

 きゅぴーん、と音が鳴らんばかりに妖しく光る小動物の瞳。もしかして、とチェスターの中に希望が生まれる。目の奥に暖かみのある光が生まれる。

 こぽこぽと岩肌から染み出す地下水のように、チェスターの心に染みわたるそれはしかし、突然振り返って走り出したブッシュベイビーによって呆気なく、岩ごと吹き飛ばされた。

「お、おい。どこに行くんだよッ!?待て!待ってくれッ!!マジで待ってくれ────」

 制止の声も届くことなく、否、届いていても耳を傾けられることもなく、何のしがらみもなく、小動物は生来の気ままさを十二分に発揮して走り去ってしまった。

 見捨てられた。

 チェスターの胸中に踊るその文字列は絶望を生んだ。プチという名の小動物が走り去った方向を呆然とみつめることしかできない。引きとめようと思わず差し出した手が、虚しさに拍車をかけていた。

「ふ、ふふふ……」

 しばしのち、彼の口から出たのはくぐもった笑い声だった。笑い声?笑い声である。絶望の底から与えられたわずかな希望、それにすがった瞬間すり抜けられ、再び味わう絶望の味はそれほどまでに。

「はははっ、ははははははははは!」

 ああ、チェスター・バークライト。かの若者はもうダメなのだ。ダメになってしまったのだ。絶望に落とされても理性を損なわないその少年には希望を逃した理由が、理解できてしまったのだ。

「そりゃそうだ。動物相手に人間の言葉が通じるかよ。通じるわけねぇよ。当たり前だろ。何やってんだかオレは。ははは!馬鹿みてぇ!」

 最早隠すこともせず涙を流しながら、少年はゲラゲラと笑い、笑い続け、そして。

 

「ちっくしょおおおおおおおおおおおおおおーーーッ!」

 

 哀れだ。

 

 

 

 

 

▼4.結末は笑顔で

 

 

 相変わらず地面に埋まったまま、チェスターはボーっとしていた。もはや何かを試みる気力もないらしい。虚ろな瞳で口元からは涎らしきものと一緒に、ぶつぶつと呪詛のようなものが漏れ出ていた。

 アミィ、ごめん。オレ死ぬかもしれない。「死因・穴にはまって餓死」ってなるかもしれない。酷い死に様で「お前のにーちゃん、墓穴堀りー!」って虐められるかもしれない。事実だから否定できないよな。その時はクレス、お前がアミィを守ってやってくれ。自慢の剣技でクソガキ共を遠慮なくぶっ飛ばしてくれ。ていうかクレス、どうせなら今来てくれないか。

 絶えることなく続くその文言は、突然響き始めた重低音によって打ち消された。地面から伝わる振動が体すら揺らし始める。いや、地面に埋まっているのだから一緒になって揺れているのだ。

「な、なんだ!地震か!?」

 突如勃発した異常事態に、チェスターは正気に戻った。上手く地割れでも起こってくれれば助かるかもしれない。そんな希望的観測が脳裏をよぎる。もっとも、さらに深みにはまり、より最悪な状況に陥る可能性がないわけでもないが、今は一か八かですら賭けてみたい。

 しかしどうも、これは地震が原因の揺れではなかったようだ。振動でぶれる視界の先に、土煙が立ち上がっているのが見えた。しかもその土煙、心なしか彼のいる方向に向かって近づいてくる。否、間違いなく近づいている。

 立ち込める土煙の中、チェスターは信じられないものを見た。

 現れたのは多数の小さな黒い影。

「みー」

「みー」

「みー」

「みー」

 それはブッシュベイビーの大群だった。

「な……」

 言葉が出ない。

 驚きを隠せないチェスターの目の前に群れを割って一匹のブッシュベイビーが進み出た。首には赤い首輪。先ほどまでチェスターと一緒にいたプチである。

「みみ、みー」

 プチは呆然とするチェスターの頭を手でぽんぽんと軽く叩くと「オレに任せとけ」みたいなキリリとした表情を見せた。

「みー!」

 その声が号令だったのだろうか。雑然とそこにいたはずのブッシュベイビーたちが二列にキッチリ並び始めた。しかし何匹いるのだろう?チェスターの前に広がるのは、さながら大海の如くうごめくこげ茶色の物体達。モフモフ狂乱の地である。

「っみみみ」

「え、あ?」

 状況を理解できぬまま、いや、理解はできているが、納得のいかぬまま腕を掴まれる。いつの間にやら、二列に並んだブッシュベイビーたちが前に並ぶ者に背後からそれぞれしがみ付き、一番前のブッシュベイビーがチェスターの腕を掴んだ状態になっていた。

「み、み、み、みー!」

 プチの掛け声と共にチェスターの腕に凄まじい負荷がかかる。ブッシュベイビーたちが綱引きでもするように両腕を引っ張ったのだ。

「痛ッ!いてええええええええええッ!!」

「み、み、み、みー!」

 チェスターの叫び声もなんのその。我慢しやがれコノヤロウ。てめぇ男だろうが!助かりたいなら耐えろ!彼らが言葉を喋れたならばきっとそう言っただろう。そのくらいの気迫で何度も何度も引っ張る。その度にチェスターの腕に凄まじい負荷がかかった。

「もげるッ!腕がもげるぅうううッ!!」

 あまりの痛みに自然と涙がこぼれ出ていた。耐えろとか言われてもそんなレベルじゃない。このままだと生ロケットパンチを放ちそうな勢いだ。が、それほどの力にチェスターが耐えても、ブッシュベイビー達がチェスターの痛みを無視して更なる力を込めて引っ張っても、体は抜ける気配がない。余程この穴にミラクルフィットしているようである。

「みみみー!!」

「はぁはぁ……」

 プチが今までとは違った号令をすると、チェスターの腕が解放された。

「ぐぐっ、マジ痛ぇ。これでも抜けねえのか……これから、どうすりゃいい?諦めちまえってのか?マジでどうするよ、プチ」

 痛んだ腕をさすりながら息も絶え絶えに問うと、ブッシュベイビーはチェスターの顔を真っ直ぐ見ていた。諦めてなどいない。視線だけで物語っている。畜生の癖になんとその頼もしき事か。

「みみみ、みー!!」

 またプチが号令を出した。

 途端、チェスターの周囲をブッシュベイビー大群が取り囲んだ。凄まじいまでのリンゴ臭が漂う。それだけで、今はどうでもいいことにチェスターは気づいた。ああ、これはきっと、プチがリンゴで仲間を買収したのだ。

「うおっ!?」

 小動物たちは、そんなチェスターの感慨にも構うことなく、ものすごい勢いで地面を掘り返し始めた。

 穴が小さくて出られない。ならばその穴を広げてやればいい。ごく単純な理屈ではある。

 数匹のブッシュベイビーたちが土を掘り返し、その後ろに控える数匹がバケツリレーのように掘り返された土を外に運んでいく。

 事は順調に運び、ついに。

 

 

 チェスターはあっけに取られていた。

 しばし呆然とした後、ふっと息をついて上を向く。

 視線は空へ。

 高く高く、どこまでも高く広がる青い色彩。

 目を閉じる。

 こうすればより強く感じられた。

 今、チェスターは自分の足で、確実に地面を踏みしめている。

 あの時湧き出た絶望感もまるで感じない。

 心地よい風を全身で浴び、開放感に身をゆだねる。

 

「ありがとよ」

 

 つぶやきはどこまでも強く感謝の気持ちを生み、吹き抜ける風は力強い鳴き声を運んできたような気がした。

 

 みー。

 

 

 

 

 

▼5.昔語りに笑う

 

「へぇ、そんなことがあったんだねー」

 アーチェはピンク色の髪を揺らしながら笑っていた。

「笑うんじゃねぇよ」

「だってさぁ、仕方ないじゃん?」

 チェスターは不服そうに言いながらも、大して怒ってはいないようだ。恥に近い思い出だが、それでも懐かしさと、ブッシュベイビーに対する感謝の気持ちが勝ったのだろう。

「凄くいい顔して思い出してるところ悪いんだけどさー」

「あん?」

「ほら、話の最初の方であんたが穴に落ちる前に追いかけてた動物。あれって結局なんだったわけ?」

 チェスターは少し考えるそぶりを見せた後、ぽつぽつと語り始めた。

「色が茶色っぽかったから最初はボアかと思ってたんだけどな。それにしちゃ草むらで姿が完全に隠れるほど小さかったし……ボアチャイルドならサイズ的には合うかもしれねぇけど、なんか尻尾が長かったような気がするんだよなぁ」

 本当になんだったんだろうなあ、とつぶやく割にどうでも良さげであった。取り逃した獲物ではあるが、もはや遥か過去のことである。思い出す意味もないと感じているのだろう。

 だが、アーチェは違った。ちゃらんぽらんな普段の言動と相反するように賢しい脳が、思い至ってしまったのだ。

「怒らないで聞いてよ?」

「あん?」

「それブッシュベイビーじゃないかと思うんだけど」

「なんだって?」

「だから、ブッシュベイビー」

 チェスターの顔が一瞬で青ざめた。

「すばしっこいし、姿形もあんたが見た影に条件ぴったり。しかもその後ブッシュベイビー出てきたじゃん」

「いや、そんなはずは……っ!」

「案外、自分を追いかけてて穴に落ちたもんだから同情して出てきたのかもよ?」

 チェスターは固まっていた。アーチェの言葉をすぐさま否定したが、理解してしまったのだ。そのあまりにも高い可能性に。

「……嘘だ」

「そう言いたいのは分かるんだけどね。状況から考えればそれが自然だと思うけど」

 彼女の言うことは一理ある。一理どころかそれしかないと思えるほどだ。だが、それはチェスターにとって寝耳に水であり、真実として受け入れがたい。受け入れたくない。

「まぁまぁ、そんなに落ち込まないでよ」

「け……さ……た……」

「ん?」

「汚された……」

「はい?」

「オレの美しい思い出が汚されたあぁぁぁぁぁーーッ!!!」

「あー……」

「うぅ……」

「えっと、その、ほら…元気だしなよ?ホントの事は誰にも分かんないんだから」

 確かにアーチェの言うとおり、真実は謎のままだ。だが、美しい思い出は煮え切らない過去へと姿を変えてしまった。チェスターはもう二度と微笑みながらそれを思い返すことは出来ないだろう。

 彼はまたも穴にはまってしまった。確認不可能な真実という落とし穴に。思考の迷路に。しかも、今度は抜け出せない。

 

 ああ、可哀想なチェスター。

 

 

 

 The end.

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