ある時を境に異質な魔が現れた。
その時から、平和な現実は薄れていった。
◆
駆け抜ける疾風。刃を纏った黒い影が二つ、森の中で踊っていた。
時折、鋼のぶつかり合う音が森に響く。それは轟音ではない、透き通る氷のような冷たさを持った清音。研ぎ澄まされた刃と殺気が奏でる音楽。
音は冷たさを保ったまま激しさを増し、奏でられる音楽はさらに高みへと――
「ふっ――!」
音楽はその一息で断ち切られた。重厚な、肉を斬り裂く音が一つ響き、黒い影の片割れが物言わぬ屍と化す。
「やはり死ぬまで逃れられぬか」
勝ち残った方の黒い影は、屍となった男を見下ろしていた。声音は静かで、感情がこもることもない。けれども、それで人の内奥全てを現すわけでもない。そこには確かに、ある種の空虚さと悔恨があった。
「これで一体何人目か……」
彼も今まで切り捨ててきた者達と同じだ。
とある任務の折に突如失踪。発見されたときには、かの魔王ダオスによって洗脳され、人に仇名す存在となり果ててしまっている。
その末路は例外なく死。
殺すのは世を忍ぶ裏の存在、忍者。殺されるのもまた、忍者。
「同じ一族が殺しあうとは、なんとも罪深い話じゃ」
殺した方の影、すなわち一族の頭領、藤林乱蔵はそう独白した。しかしこうも思う。殺さず捨て置き、ただ目を逸らすばかりでいることも罪ではないのか、と。
元がどうであれ、洗脳された忍者はこの世の害悪。その瞳に意思はなく、人を見れば殺戮し、言葉の一つも届くことはない。その命は人の世を乱すことにのみ費やされる。ほうっておけば被害が広がるだけなのだ。
「……」
乱蔵の視線は殺された男に注がれたままだ。血にまみれ、倒れ伏した男を見ていると不安の種火がくすぶってくる。
少し前のことだ。この男のように失踪する仲間が増え、その原因究明に息子夫婦が向かった。しかしそれ以来、彼らは一度も帰って来ていない。結局、二人とは別の行動をとっていた者がダオスの仕業だという情報を持って帰ってきた。
だからだろうか。屍の濁った目が、行方の知れぬ息子と重なって見えてしまう。
しばらくたってから、思考に耽っていた頭に唐突に緊張が走った。
気配。
しかも近い。
何者かが後ろにいる。
稀代のしのびたる乱蔵をして、ここまで寄らずば、気取ることもできぬ見事な穏形。敵であっても感嘆せずにはいられぬ技量だ。
「おじいさま」
声と同時に、闇の中から少女が無音で現れた。
「すず、か。他の者は?」
「無理でした。だからわたしが……」
「そうか」
説得叶わず。今、目の前で屍と化している男もそうだった。ならば、殺すより他に洗脳から解放する手段は無い。例えそれが同族であっても。
我はしのび。
故に非情。
必要とあらば身内も斬り捨てる。
弱さを見せてはならない。
強くあらねばならない。
「すず、わしらは忍者じゃ。それゆえ――──」
「非情でなければならない。わかって、います……」
すずは何度も聞いていた。だから全部言われなくとも答えることができる。そのように育て上げたのは他でもない、祖父である乱蔵だ。
乱蔵は息子が帰って来なくなってからというもの、今までよりもずっと、すずに厳しくなった。
そうだ。
乱蔵は理解しているのだ。
心が否定しようとしていても、頭が理解しているのだ。
すずを次期頭領として育てていることが、なによりの証拠だ。
「……」
「どうしたのですか?」
「いや、帰るぞ」
乱蔵は、思わず考えていた事を口にしてしまいそうになったが、すずの顔がそれを許さなかった。実力では大人に引けを取らぬが、まだ幼い孫の顔。憐憫という名の感情を捨ててしまったそれが、何処かもの悲しくて──――
◆
思えばいつからか、すずは笑うことが無くなった。彼女自身、どのように笑っていたのか思い出せない。しかし、悲しくはなく、寂しくもない。そのような感情もどこかに置いてきてしまった。
また今日も仲間を斬った。それは頭領の命令であり、自身の意思でもある。
「いくら言っても届かない……」
まだ間に合う。出会うたびにそう思い、彼らに呼びかける。説得する。けれども、今まで誰一人それに応じた者はいない。彼らの瞳に映るすずは邪魔な障害に過ぎず、磨き上げられた忍術は容赦なく幼い少女を襲うのだ。例外などただの一つも存在せず────
「だから、殺した」
言葉にすると直に重みを感じられる。胸が痛んだ。だが、それは許されない感情だ。脳裏をかすめていく思いでさえも今は鬱陶しい。
おすずちゃん。
里の者達は親しみを込めて彼女をそう呼ぶ。たった今、そこで斬り捨てた影も含めてそうだった。だから、これは、そう呼んでくれる人が一人減っただけの話だ。それ以外に意味はないし、実際に何かが変わることもない。たったそれだけのことで感傷に浸るなど無意味なことだ。
そして、その感傷ですら捨て去る。捨て去らねばならない。痛みを感じても、それを痛みだと思ってはならない。痛みは行動を鈍らせる。痛みは心を縫い止める。痛痒に思考を割くことは己が歩みの妨げに他ならない。己を律し、使命に徹せよ。前に進むのだ。
「わたしは、忍者だから」
仲間の屍を乗り越え、すずは歩き続ける。
心を刃で串刺しにしながら歩き続ける。
それが忍者としての正しい道だと信じて。
◆
同族で殺しあう日々が続いていたある日のこと。
すずは乱蔵に呼び出された。
「銅蔵とおきよをユークリッドで見た者が出た」
「父上と母上を?」
意外な言葉に、すずは少しばかり動揺した。普段の無表情にほんのわずか、喜色ばんだものが浮かぶ。乱蔵はそれに気付かないふりをして言葉を続けた。
「そうじゃ。だが、すぐに見失ってしまったらしい」
「そうですか」
その言葉に落胆は含まれていなかった。だから乱蔵は思わず言ってしまった。
「すず、もしやすると、あ奴らは……」
「分かって、います」
そう、わかっていたのだ。二人ともが決して口には出さず、それでも互いに暗黙の了解として受け取っていたこと。いや、祖父と孫だけではない。里の誰もが脳裏によぎったことだろう。あの二人はきっと。
「……」
「……」
沈黙。それは二人の決断の時間。
だが、あっけないほどに短かった。
「お主に命じる。銅蔵とおきよの行方を追え。そして確認せよ。洗脳され、打つ手が無かった場合は……殺せ」
乱蔵は口にすることで認めてしまった。もう、期待することも無いだろう。
同族としての息子達は死んだ。
今は敵だ。
「わかりました」
間髪入れず、それこそ反射行動のようにそう言ったすずの顔は、紛れも無くしのびのそれだった。
乱蔵は愕然とした。
殺してしまった。使命という足かせを用いて、実の孫を殺してしまった。
もはやすずは孫ではなく、一人の忍者。妥協を許さぬ非情なしのび。子供であること────人間であることすら諦めた一つの刃。
「すず」
「大丈夫です。わたしは忍者ですから」
振り返ったすずは久方ぶりに笑みを浮かべていた。祖父に心配を与えぬよう、作り出した優しい笑み。だが、それは悲しい顔だった。とてもとても悲しい顔だった。
「それでは行って参ります」
出発するすずの背中を見送り、乱蔵は祈る。
願わくば、彼女の心が壊れないように、と。
内面ぐちゃぐちゃだけど顔には出さない、摩耗している事に気づいてもいない。
ただ愚直に前に進もうとする幼い少女が、最後には信じあえる仲間に出会って徐々にその凍てついた心を溶かしていくのいいよね......